瑛琳妃の命により、入り口の布がたくし上げられ天井付近に固定された。漆喰窓はそのままだが、戸さえ開けておけば気は循環する。これでもう火は消えないし、混乱する女官も出ないだろう。
しばらく戸を開放したのち、念のため、もう一度蝋燭に火を灯し房に差し込んでみたところ、炎は勢いよく燃えたままだった。
「大丈夫だと思います」
麗麗の言葉に、一同はほーっと息をつく。
「これで片付けができますね」
おそるおそる足を踏み入れた瑛琳妃の女官たちも安堵した顔でうなずき合った。
「瑛琳様、掃除用具を取ってまいります」
「今から掃除をするのか?」
「ええ! もう呪われた房だなんて言わせません。明林の受けた屈辱は私たちが身をもって晴らしたいんです」
ふんす、と鼻息も荒く女官たちはその場を辞した。
瑛琳妃は女官たちを見送り、口の端に笑みを浮かべる。そして麗麗に視線を向けて、ふっと瞳を曇らせた。
「麗麗、ありがとう」
瑛琳妃に深く礼をされ、麗麗はぎょっと目をむく。冷や汗がだらだらと流れ始めた。
「も、もったいないお言葉です。どうか、頭を上げてください」
上級妃に頭を下げられるなんてとんでもない。誰かに見られたらどうするのだ。ただでさえ、噂千里を走る。上級妃ともなればその噂の走る速度は他の追随を許さない。
下級女官が上級妃に頭を下げられた。この事実が、どのようにゆがんで噂されるか。そして、その結果、首と体が離れるのは誰なのか。
どうか早く頭を上げてほしい。一刻も早く。麗麗の保身のためにも!
麗麗の焦りにも気づかず、瑛琳妃は目に憂いを浮かべたまま居住まいを正した。
「いや、お礼を言わせてほしい。明林……亡くなった女官は、故郷から私ひとりを信じてついてきてくれた子なんだ。病で亡くなっただけでも申し訳ないと思っているのに……」
瑛琳妃の目が、房の入り口にすっと向けられた。
「呪い殺されただなんて噂、あんまりだろう。しかも、次はあの子が呪っているだなんて言われたら……」
呪いは人を積極的に害する行為とされ、罪に問われる。それは呪った本人だけではなく、一族郎党すべてが罪人となることを意味するのだ。
「きっと後悔していただろうな。私なんかについてきたばっかりに」
ため息とともに漏らされた言葉を、麗麗は聞き逃さなかった。
「ちょっと、いいですか」
そう言い置いて、麗麗は房に足を踏み入れた。そして、くるりと振り返る。
「あの、冥焔様。一緒に来ていただけますか」
「なにをする気だ」
しかめっ面をした冥焔はのっそりと房の戸をくぐった。
狭い房は麗麗と冥焔が入っただけで窮屈に感じる。それだけ、この冥焔の体が大きいのだ。しかし、今はその大きさがありがたい。
麗麗は造りつけの棚の一番上を指さした。
「あれ、取ってください。私だと届かないんです」
「この紙か?」
事もなげに冥焔が紙を手に取り、麗麗に手渡した。その紙に書かれている内容をざっと見て、麗麗はうなずいた。
紙を持って外に出ると、不思議そうにこちらを見ていた瑛琳妃にその書を掲げて見せた。
「これは?」
「女官の残した雑記です。よく書き物をする人だったようですね。房の中にたくさん残っております」
麗麗は紙に書かれている字を読み上げた。
「香は軽いものをよしとし、重いものは避けるべし。花の香よりも果実の香……その他にも、食事や服装などについても事細かに書かれております。ここに記されているものは、瑛琳様のお好みのものではないですか?」
瑛琳妃の瞳がゆらぐ。
「先ほど瑛琳様は、〝ついてきたことを後悔していた〟とおっしゃいました。しかし、私はそうは思いません。この筆の運びも、内容も、女官としての役目をしっかり果たそうとしている女官のものだと感じます」
「役目を果たす……」
「はい。故郷を離れた瑛琳様に、快適に過ごしていただけるように。その気遣いにあふれた文です。このような内容を書く女官が自らの立場を後悔していたとは、私には思えないのです」
「……そう、そうか」
瑛琳妃は袖を引き上げ、顔をそっと隠した。その意味に麗麗は気づいていたが、それに触れるほど野暮ではない。
袖口を持つ瑛琳の白く美しい指先は細かく震え、肩が大きく上下する。
(泣きたいときに泣けないのは、つらいよね)
「改めて礼を言う。ありがとう。麗麗、そして冥焔。お前たちのおかげで、明林は救われた。大家にもこの件は報告しよう。ふたりのおかげで解決したと」
「お役に立てて光栄です」
冥焔は揖礼を捧げる。麗麗も同じように揖礼しながら、ふと頭の中に疑問が浮かぶ。
明林は呪い殺されたといわれていた。しかし、いったい〝誰〟に呪われたとされていたのだろう。
呪い殺されるということは、呪う側がいるということだ。天風不起浪というが、今回の件において、風は〝なに〟になるのだろうか。
どこぞの誰それに呪われた、という話になっていなければ成り立たない話のはずなのに、〝誰〟が抜け落ちているのが不可解だ。
(まあ、そんなの、いち女官が気にしてもしょうがないか)
首を突っ込みすぎると、ろくな目に遭わない。
麗麗は揖礼を深く捧げ、いったん考えるのを放棄した。
しばらく戸を開放したのち、念のため、もう一度蝋燭に火を灯し房に差し込んでみたところ、炎は勢いよく燃えたままだった。
「大丈夫だと思います」
麗麗の言葉に、一同はほーっと息をつく。
「これで片付けができますね」
おそるおそる足を踏み入れた瑛琳妃の女官たちも安堵した顔でうなずき合った。
「瑛琳様、掃除用具を取ってまいります」
「今から掃除をするのか?」
「ええ! もう呪われた房だなんて言わせません。明林の受けた屈辱は私たちが身をもって晴らしたいんです」
ふんす、と鼻息も荒く女官たちはその場を辞した。
瑛琳妃は女官たちを見送り、口の端に笑みを浮かべる。そして麗麗に視線を向けて、ふっと瞳を曇らせた。
「麗麗、ありがとう」
瑛琳妃に深く礼をされ、麗麗はぎょっと目をむく。冷や汗がだらだらと流れ始めた。
「も、もったいないお言葉です。どうか、頭を上げてください」
上級妃に頭を下げられるなんてとんでもない。誰かに見られたらどうするのだ。ただでさえ、噂千里を走る。上級妃ともなればその噂の走る速度は他の追随を許さない。
下級女官が上級妃に頭を下げられた。この事実が、どのようにゆがんで噂されるか。そして、その結果、首と体が離れるのは誰なのか。
どうか早く頭を上げてほしい。一刻も早く。麗麗の保身のためにも!
麗麗の焦りにも気づかず、瑛琳妃は目に憂いを浮かべたまま居住まいを正した。
「いや、お礼を言わせてほしい。明林……亡くなった女官は、故郷から私ひとりを信じてついてきてくれた子なんだ。病で亡くなっただけでも申し訳ないと思っているのに……」
瑛琳妃の目が、房の入り口にすっと向けられた。
「呪い殺されただなんて噂、あんまりだろう。しかも、次はあの子が呪っているだなんて言われたら……」
呪いは人を積極的に害する行為とされ、罪に問われる。それは呪った本人だけではなく、一族郎党すべてが罪人となることを意味するのだ。
「きっと後悔していただろうな。私なんかについてきたばっかりに」
ため息とともに漏らされた言葉を、麗麗は聞き逃さなかった。
「ちょっと、いいですか」
そう言い置いて、麗麗は房に足を踏み入れた。そして、くるりと振り返る。
「あの、冥焔様。一緒に来ていただけますか」
「なにをする気だ」
しかめっ面をした冥焔はのっそりと房の戸をくぐった。
狭い房は麗麗と冥焔が入っただけで窮屈に感じる。それだけ、この冥焔の体が大きいのだ。しかし、今はその大きさがありがたい。
麗麗は造りつけの棚の一番上を指さした。
「あれ、取ってください。私だと届かないんです」
「この紙か?」
事もなげに冥焔が紙を手に取り、麗麗に手渡した。その紙に書かれている内容をざっと見て、麗麗はうなずいた。
紙を持って外に出ると、不思議そうにこちらを見ていた瑛琳妃にその書を掲げて見せた。
「これは?」
「女官の残した雑記です。よく書き物をする人だったようですね。房の中にたくさん残っております」
麗麗は紙に書かれている字を読み上げた。
「香は軽いものをよしとし、重いものは避けるべし。花の香よりも果実の香……その他にも、食事や服装などについても事細かに書かれております。ここに記されているものは、瑛琳様のお好みのものではないですか?」
瑛琳妃の瞳がゆらぐ。
「先ほど瑛琳様は、〝ついてきたことを後悔していた〟とおっしゃいました。しかし、私はそうは思いません。この筆の運びも、内容も、女官としての役目をしっかり果たそうとしている女官のものだと感じます」
「役目を果たす……」
「はい。故郷を離れた瑛琳様に、快適に過ごしていただけるように。その気遣いにあふれた文です。このような内容を書く女官が自らの立場を後悔していたとは、私には思えないのです」
「……そう、そうか」
瑛琳妃は袖を引き上げ、顔をそっと隠した。その意味に麗麗は気づいていたが、それに触れるほど野暮ではない。
袖口を持つ瑛琳の白く美しい指先は細かく震え、肩が大きく上下する。
(泣きたいときに泣けないのは、つらいよね)
「改めて礼を言う。ありがとう。麗麗、そして冥焔。お前たちのおかげで、明林は救われた。大家にもこの件は報告しよう。ふたりのおかげで解決したと」
「お役に立てて光栄です」
冥焔は揖礼を捧げる。麗麗も同じように揖礼しながら、ふと頭の中に疑問が浮かぶ。
明林は呪い殺されたといわれていた。しかし、いったい〝誰〟に呪われたとされていたのだろう。
呪い殺されるということは、呪う側がいるということだ。天風不起浪というが、今回の件において、風は〝なに〟になるのだろうか。
どこぞの誰それに呪われた、という話になっていなければ成り立たない話のはずなのに、〝誰〟が抜け落ちているのが不可解だ。
(まあ、そんなの、いち女官が気にしてもしょうがないか)
首を突っ込みすぎると、ろくな目に遭わない。
麗麗は揖礼を深く捧げ、いったん考えるのを放棄した。



