***
(最近、平和だなあ)
雑巾を握りしめながら、麗麗はぼうっと漏窓から差し込む光を見つめていた。
冥焔と天灯を飛ばした、数日後。
深藍宮に戻った麗麗は前と変わらぬ日々を送っていた。掃除、洗濯、その他雑用……目の回るような忙しさだ。
(きっとこのまま、元の生活に戻っていくんだろうな)
前のように、頻繁に呼び出されなくなったのがその証拠である。
あれから、一度も冥焔には会っていない。後宮内でも見かけていないので、一連の事件の後始末で忙しいのかもしれない。
(とはいえ、顔くらい見せればいいのにさ)
あんなに毎日のように顔を合わせ、うんざりしていたというのに。いざ会わなくなったらそれはそれで姿を探してしまうものだから、人間って変な生き物だなあとつくづく思う。
呼び出されないのは、いいことだ。怪異が起こっていなければ、事件だって起こっていない。そんなにしょっちゅう呪いだのなんだの、冗談ではない。
平和、万歳。
(でもな~、ちょっとね、うん、ちょっとだけね)
本当にいろいろあった。呪いの房事件に、絞鬼事件、そして百茗の宴での予言、星送りの儀……と、濃い日々だった。解決した結果、しんどい思いもした。でも……。
(楽しかったんだよねえ……)
この『楽しかった』は、『やりがいがあった』ということだ。怪異を調査して、解決に導く。それは、正直なところ、麗麗にとって非常に肌に合う仕事だった。
けれど、もうおしまいだ。発端になった白蓮妃が死んだのだから、怪異は生まれないだろう。ならば、麗麗はお役御免である。
(いやいや、なんでがっかりしてるの。これでいいんだって)
下手に関わると、痛い目を見るに決まっている。これからは、ひたすら地味に、脇役の女官として生を全うするべきだ。
雑巾を握り直し、もう一度床を磨き上げようとした、そのとき。
「麗麗! 麗麗、いる!?」
「雪梅。どうしたんですか」
「冥焔様がお呼びよ!」
(げっ)
つい、条件反射で顔をしかめてしまった。しかし、なんの用だろう。
雑巾を置き、せめて手はすすげと雪梅に口酸っぱく言われて仕方なく手を洗い、呼び出された先へと向かう。
人払いをした房で、冥焔はふんぞり返って長椅子に座っていた。
「お久しぶりです、冥焔様」
相変わらず偉そうですね、と続けそうになって、口をつぐむ。
どうもこの宦官にはつい気安く物を言ってしまいそうになるが、本来は立場がぐんと上なのだ。これからは気をつけなければいけない。事件が終わった今、冥焔と麗麗の関係は白紙に戻っているはずだ。
「それで、御用はなんでしょう」
「いや……お前に礼をしてなかったと思ってな」
「えっ」
「今回は、お前のおかげで助かった」
ずいぶんと素直だ。こんなこと、今まであっただろうか、いや、ない。
訝しがりながらも、麗麗は礼を取る。
「ありがとうございます。でも、もうこれで、おしまいですね」
「なんのことだ?」
「事件、解決しましたし。短い間でしたがお世話になりました」
「おい、待て」
話は終わったとばかりに切り上げようとする麗麗に、冥焔は焦ったような声をあげる。
「実は、まだ解決していない怪異があるのだ」
「えっ……」
麗麗の耳が、ぴくりと動いた。
(いやいや、だめだめ)
興味を持ってはいけない。先ほど、脇役に徹すると決めたではないか。
「お言葉ですが、私はただの女官です。面倒事には極力関わりたくなくてですね」
「まあ聞け。ある女官が、銅鏡をのぞき込むと……そこに見知らぬ女が映り込んでいるとか」
(なにそれ、やばっ)
光の反射か、それとも屈折か。はたまた、鏡に含まれる成分が作用して、幻覚を──。
「こういうのもある。ある場所の欄干に触れた妃が、高熱で倒れた。その欄干はまるで血に濡れたように真っ赤でな」
場所を調べたい。もしかしたら、なんらかの黴かなにかが密生していて、それが血に見えたのかもしれない。それとも……。
そわそわ、うずうずと、好奇心が悪さをし始める。
「全部顔に出ているぞ。これでも関わりたくないというのか、お前は」
「……っ!」
悔しいが、完全に心を読まれている。ぐっと拳を握りしめ、歯を食いしばる。負けるな麗麗、ここでうなずいたら、穏やかな生活が終わってしまう。
けれど、しかし──!
「もしこれからも協力してくれるというなら、欲しいものをやろう。そうだな……あの渾天儀はどうだ」
「やります!」
なんてことだ、と麗麗は天を仰ぐ。
即答してしまった。本当にこの口が。この口が悪さをしておってからに。
冥焔は苦悶する麗麗を見つめ、苦笑いをすると、一枚の書を取り出した。
「そうか、なら、これは無駄にはならなかったようだな」
「なんです、これは」
「大家は、これからもふたりで後宮の安寧を守れと仰せられた。不本意であるが、仕方あるまい」
その書を受け取った麗麗は、ぎょっと目をむいた。
そこに書かれていたのは、今後正式に冥焔の配下として取り扱うという旨。そして、今までの功績をたたえ、麗麗に号を与えると記されている。その号の名は。
「伽利略」
「……っ!」
どうしていいのかわからず、思わず書から顔を上げた。
麗麗は、もしかしたらすがりつくような瞳をしていたのかもしれない。冥焔の瞳が、安心させるようにゆっくりと細められる。
「真実を追究する者の名を、お前に送ろう」
形のいい唇が弧を描く。そうして、冥焔は初めて──微笑した。いつもの高慢な笑みではない。道ばたで咲いている花を見つけたときのような、または暑い日に涼やかな風が吹いたときのような、柔らかな笑みだ。
込み上げてくるものがなんなのか、麗麗にはまだわからない。わからなくていいと思う。その感情に名前をつけるなら、喜びだとか、興奮だとか、とにかく今の麗麗が望まない名前になってしまうだろう。
だから、いつものように軽い口調で返しておこう。
「……冥焔様」
「なんだ」
「笑わないほうがいいですよ。無駄に、顔がいいですから」
「余計なお世話だ」
冥焔はむっとした顔をする。ややあって表情は苦笑いへと変わり、そして真剣なまなざしとなった。
その場で冥焔が立ち上がり、凜と姿勢を正す。
麗麗は膝を折り、礼の形を取った。
「麗麗」
「はい」
「後宮のガリレオの誕生だ」
「謹遵旨意」
そういえば、初めて名を呼ばれたな。
そんなことを考えながら、麗麗は深く、深く礼を捧げた。



