***


 目 を開けると、なんだか見たことのある天井が目に入った。

 「あっ、起きた! 麗麗、麗麗!? 大丈夫!?」

 がくがくと肩を揺すられて、麗麗は目をしばたかせた。

 「雪梅……なに、してるんですか……?」

 「あんたねえ! 第一声がそれ!?」

 「あの……私……」

 どうやら自分は寝かされていて、そこが懐かしい──たった七日離れていただけで、懐かしいというのも変な話だが──深藍宮の自分の房であるのはわかった。

 しかし、頭が猛烈にくらくらする。

 「あんた、三日間も寝てたのよ! あっ……ちょっと待ってて! 瑛琳様たちと、冥焔様を呼んでくるわ!」

 ばたばたと雪梅が走って出ていき、戻ってきたときには、小主と、あとの二女官、そして鬼上司を伴っていた。

 「麗麗! よかったよおおおっ……」

 半泣きの笑顔で香鈴に抱きつかれ、麗麗はぐえっと思わずえずく。腹の上はやめてほしい、容赦がなさすぎる。

 「香鈴。ほどほどにね」

 「はあい」

 花里に注意され、香鈴はおとなしく引き下がった。麗麗はひと息つき、腹の痛みが治まったところでぐるりと房の中を見渡した。

 「瑛琳様……」

 瑛琳妃はなにも言わずに微笑み、ひとこと「無事でよかった」と言った。

 ありがたさでじんわりと涙がにじみそうになる。いくら命令だったとはいえ、麗麗が月魄宮へ行っていたことも、白蓮妃に仕えていた事実も知っているだろうに、こうして麗麗を受け入れてくれる。妃の懐の深さに、改めて頭の下がる思いである。一方で……。

 「おい、女官」

 顔をしかめているのが、この宦官である。房に一歩入るなりひどく顔をゆがめている。

 「房が汚い。汚すぎるぞ……!」

 「人の房に……なんてこと言うんですか」

 突然の暴言に、むっとする麗麗である。

 「このありさまは、房ではない。物置と言うんだ」

 「失礼ですね」

 「では聞くが! なんで墨壺がこんなところに転がっているんだ!」

 くすくすと女官たちが笑いさざめく。

 「まるで今初めてこの房に入ったみたいな言い方だな、冥焔。ここに運び込んだ当の本人で、しかも、そのあと毎日、顔を見に来ていたのにな」

 「……! 瑛琳妃!」

 冥焔がぎょっとしたように瑛琳妃を見る。その視線をさらりと受け流し、瑛琳妃はかかと笑った。

 「運び込まれたとき、すごかったのよ。冥焔様、麗麗を……こうね! まるで妃様方にするみたいに、こう……抱き上げちゃって!」

 雪梅がふんふんと鼻息を荒くする。

 「ああ、そうそう、元気になったのなら、冥焔様からいただいた差し入れの果物、食べられるわね」

 おっとりと笑う花里の横で、香鈴がにやにや笑っている。

 「新しい深衣もいただいたんだよ! 前のは汚れちゃったからって。ねー、冥焔様っ」

 話を振られた当の冥焔は、赤くなったり青くなったりで大忙しだ。

 「勝手に寝込むほうが悪い! 説明責任を果たせと、俺は、そう。それで、毎日来る羽目になって、つまり……」

 びしっと、冥焔は麗麗に人差し指を突きつける。

 「お前のせいだ!」

 「なにがですか……」

 もう訳がわからない。

 「お前たち。一度戻るぞ。冥焔は麗麗になにやら話があるようだ」

 瑛琳妃の取りなしで、三女官は渋々という風情で引き下がる。

 房にふたりきりで残されるや否や、はーっと冥焔が重いため息をついた。

 「深藍宮の者たちは、皆、癖が強いぞ……」

 「そうですね」

 さすがに寝っ転がったままでは申し訳ない。麗麗はゆっくりと半身を起こして、冥焔に向き直った。冥焔も居住まいを正し、椅子を引き寄せて腰を下ろす。

 「なんで、あんなことをしたんだ」

 「あんなこととは……?」

 はて、どれを指すのだろう。

 「とぼけるな。自らの体を盾にして、毒の飛散を防ぐなどどうかしているぞ」

 (自らの体を盾にして?)

 はっと思い至る。

 ひしゃげた天灯を抱きしめたあと。玻璃が割れていることに気づいて、がっくりしたその後の記憶はほとんどないが、前のめりに倒れたのはかろうじて覚えている。あれが、『体を盾にして』と思われたのだろうか。

 「初めから、毒が飛散する可能性があると言ってくれれば、対処のしようもあったというのに。なぜ、自分を犠牲にしようだなんて考えた」

 もちろん、自己犠牲ではない。なんなら、毒の飛散も、頭から一切合切すっぽ抜けていたのである。

 「言ったら怒ると思うんですけど」

 「怒らないから言ってみろ」

 もうすでに怒ってるじゃん、と心の中で毒づきながら、麗麗は言葉を発した。

 「玻璃が……もったいないと思って」

 「……は?」

 「あの天灯には、玻璃の器が仕込まれてたんです。それが、もっっ……のすごく、素晴らしくて……! 体で受け止めれば、割れる前に回収できるかなって思ったんです」

 ぐっと変な音がした。見ると、冥焔が拳を握りしめてなにか必死に耐えている。

 「あの、冥焔様」

 「……今、話しかけるな」

 あっ、これはいつものやつだ。

 「……おなか、痛いんです?」

 麗麗のその言葉に、冥焔はため息をついて脱力した。めまぐるしい人である。

 「玻璃くらい、くれてやる……」

 「えっ?」

 「いちいち命をかけられたらたまらん」

 「本当ですか!? 絶対ですよ!」

 麗麗は目を輝かせる。本当は踊り出したいところだが、まだ目眩がするのでやめておこう。

 冥焔は姿勢を改めた。

 「それで、女官。ちょうど、人払いもできたようだ。今回の件について、お前の考えを聞かせてもらおうか」

 麗麗も居住まいを正し、一連の事件のあらましを整理する。

 まず、白蓮妃が故意的に怪異を引き起こした。不安になった人たちが、仙女の誉れ高い白蓮妃の元を訪れる。白蓮妃は、毒の歩揺をお守りとして渡し、常に身につけさせるようにした。その結果、後宮内では体調不良者が続出していたのだ。

 「絞鬼が出たって事件のとき、確か女官が言っていましたよね。体調不良になる人が多いって。多分……歩揺は人を殺めるためのものではなく、弱らせるためのものだったのではないでしょうか」

 麗麗は唇に指を添えて、考える。

 「おそらく、白蓮妃の最終的な目的は星送りの儀での大量殺人です」

 「…………」

 冥焔は黙っている。視線で麗麗の話の続きを促した。

 「あの天灯は、初めから落ちる前提で作られていたのだと思います。毒を、玻璃の器に入れて天高く飛ばす。けれど、上空で火が燃え尽きればやがて落ちる。そして落ちた先で毒が飛散し、その場にいた人が死ぬ……」

 天気を読む白蓮妃には、星送りの儀の当日が風のない夜だとわかっていたのではないだろうか。上げられた天灯が風にさらわれず、後宮内に留まっていることを見越していたのだ。

 「体に直接入る毒と違って、飛散する毒は効果が薄くなる可能性があります。だからあらかじめ歩揺を使って、体を弱くさせておく。そこに、天灯の毒でとどめを刺す」

 「そんなことが可能なのか」

 「私にはできません。けど……」

 麗麗には、佐々木愛子の知識がある。そのおかげで多少の優位性(アドバンテージ)はあるものの、基本的にこちらの世界には明るくない。冶葛も大黄も漢方の知識くらいしかないのだ。しかし。

 「白蓮妃なら、あるいは」

 あの立派な薬棚といい、年季の入った薬研といい、どれもしっかりと使われた形跡があった。知識も経験もあった彼女だからこそ、可能だったのだろう。

 「そうか……」

 麗麗は黙ってしまった宦官の顔を見て、珍しく迷った。

 最後の考察を述べようか、否か。迷い、口を開き、閉じて、もう一度ためらいがちに開いた。

 (これは、伝えるべき、だよね)

 「冥焔様。これは、推測ですけれど。白蓮様が大量に人を殺めようとしたのは、おそらく皇太后様を蘇らせるためです」

 「…………」

 冥焔の眉がぴくりと動いた。

 「あの方は、皇太后様は自殺ではなく処刑されたとお考えでした。そして、私に『鬼求代が成功するか、否か。お前の目で確かめなさい』と言いました。鬼求代の律で言うならば、誰かが処刑されなければ、皇太后は戻ってこられない。だから──」

 「女官」

 冥焔は、不自然に話を切った。そのまま立ち上がると、くるりと踵を返す。

 「ご苦労だった」

 冥焔の凍りついたような横顔を見て、言わなきゃよかったかも、と少しだけ後悔する。

 宦官は気づいたのだろう。皇太后を処刑できるのは、皇帝のみだ。鬼求代の律を守るなら、皇帝に処刑されて初めて蘇りの条件を満たせる。

 では、皇帝が直々に処刑を言い渡すとしたら、どういう状況が考えられるか。

 後宮の女官や妃嬪たちが大量に死んだとする。そして首謀者は自死している。

 そのとき、責任を取らされるのは誰か。皇后がいない今、後宮の管理を一任されているのは、誰か。

 ──冥焔だ。冥焔を処刑に追いやり、皇太后の蘇りを待つ。

 それが白蓮妃の、狙いだったのだ。