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そわそわしながら三日間を過ごし、いよいよ白蓮妃のお茶の日だ。
麗麗の周りは、星送りの儀の準備でせわしなく動き回っている。いつもは掃除をひたすら命じられる女官たちも、今は天灯の準備でおおわらわだ。
この世界の天灯は、佐々木愛子時代のものとそう変わらない。竹で作った骨組みに、紙をぴんと貼る。その中で火を焚き、温められた空気の力を借りて空へと飛ばすのである。
上級妃はその権威を主張するために、とにかくたくさんの天灯を作る。
もちろん、作るのは上級妃本人ではない。そういう手仕事を、普通の妃嬪は行わない。すべて女官たちに作らせるのだ。それで、解放された広い房で、皆でせっせと工作に励んでいるというわけである。
(深藍宮のところは、大丈夫かな)
ただでさえ女官が少ない宮なのに、今回麗麗が抜けている。さすがに手伝いを入れていると思いたい。
丸一日をそわそわしながら過ごし、いよいよ夜だ。
(さて、そろそろ)
天灯作りでくたくたなのだろう。鼾をかいて寝ている女官たちを尻目に、麗麗はそうっと房を抜け出した。
夜の院子は、すでに冬本番の寒さだった。見上げれば、素晴らしい星空が広がっていて、これは観測にも期待が持てそうだとわくわくが止まらない。
白蓮妃の殿舎は人気がなかった。普通なら入り口で女官なり宦官なりが控えていそうだが、それもない。宮の中だとはいえ、不用心ではなかろうか。
とはいえ好都合である。
念のため周囲に警戒しながら麗麗は殿舎に近づくと、例の隠し扉をそっと開けた。
「麗麗」
白蓮妃はすでに房の中にいた。
「白蓮様。このたびは──」
「私とお前にそのような挨拶はいらないわ」
白蓮妃は微笑むと、麗麗を手招きする。
「この房は今使えないの。場所を移しましょう」
そう言いながら、白蓮妃は隠し扉の真向かい、奥の房へと入っていく。
(へえ、天灯だ)
薬棚の前に置かれた卓子の上に、作り途中の天灯が乗せられていた。竹の枠組みは完成しており、あとは紙を貼るだけのところまで来ている。天灯の設計図だろうか、紙には直線が幾重にも連なった図が引かれていた。
(白蓮様は、手仕事もなさるんだ)
また少し、好感度が上がった。もちろん妃嬪が手仕事をする必要はないのだが、位の高い方がいち女官と同じことをしているという事実は、理屈を抜きに嬉しくなるものだ。
その作りかけの天灯の近くに、星明かりできらりと光るものを見つけた。瞬間、目が釘付けとなる。
「……っ! しゅごいっ……!」
するすると引き寄せられるように卓子へと近づいた。
間近で見ても素晴らしい美しさ。そして、この薄さ。
それは、玻璃の器だった。手のひらにすっぽりとおさまるくらいの大きさで、底は浅い。以前、百茗の宴で玉璇妃が使っていた茶器とは比べ物にならないほど薄くて、透明な玻璃である。
(信じらんない! こんなにめちゃくちゃ薄い玻璃……!)
やばい、欲しいと手を伸ばしかけて、はっとする。
(いけないいけない。自然に盗もうとしてた)
死ぬぞ、これを盗んだら確実に死ぬぞ、と自身に言い聞かせ、伸ばした手のひらを拳にして耐える。でも、触るくらいなら──。
「麗麗? どうしたの?」
房の奥から声をかけられて、慌てて手を引っ込めた。
「いえっ! なんでもありません!」
触る前でよかったと、冷や汗がたらりと垂れる。もし触っていたときに声をかけられていたら、確実に落として割っていただろう。
白蓮妃の房は、誘惑が多すぎる。
招かれた房には、すでに茶の一式が整っている。驚くことに、女官や宦官の姿はなく、麗麗と白蓮妃のふたりきりだ。視線で問うと、白蓮妃はころころと笑った。
「ふたりで思う存分話したくて、人払いをしたの」
「不用心では」
「なにを言うの。お前は私の女官でしょう。そのお前と茶をたしなむのに、用心は不要よ」
無垢な笑顔で、白蓮妃は朗らかに告げた。
気まずさに、ちくっと胸が痛む。
麗麗はそもそも、この宮には冥焔の……ひいては皇帝の命で来ている。しかもその命令は、白蓮妃を調べろというものだ。まったく警戒をしないというのは、ありがたい反面申し訳なさが勝つ。
「では、私が茶を供させていただきます」
てっきり女官がいて、その者が茶を入れるのだと思っていたが、どうやら違うようだ。ならば、ここで茶を入れるのは麗麗の役目ということになる。
しかし、白蓮妃は首を振った。
「お前を無理やり誘ったのは私よ。せめて主人としてのねぎらいをさせてちょうだい。先に茶を入れて、観測は、そのあとにしましょうね」
白蓮妃は、なんと手ずから茶の準備をした。湯で温めてあった茶器から湯を抜き、茶葉を入れて、別の湯を注ぐ。十分に蒸らしたあと、それを一度大きな茶器へと移した。女官をしていたというのは本当のようで、堂に入った手つきである。
それぞれの茶杯へと注ぎ入れ、ひとつを麗麗の前へ、そしてもうひとつを自分の前へ置く。そしておもむろに茶器を取り上げて、自分の口へと運ぼうとした。
「お待ちください!」
ぎょっと目をむき、思わず声をあげた。
「白蓮様に毒味などさせるわけにはいきません」
心の底から震え上がり、麗麗は急いで茶器を手に取った。毒味役を置いている妃嬪もいるが、そうでない妃嬪もいる。その場合は、花里のように食事を供した者が自らの潔白を示すために進んで毒味をすることになっている。
今回は、白蓮妃が手ずから茶を入れている。その慣例に従って毒味をしようとしたのだろうが、妃が自らその役を買って出るなど許されるわけがない。
茶器を持ち、麗麗はその縁に口をつける。
「いただきます」
喉を熱い湯が滑り落ちた。次の瞬間。
かしゃん、と手に持った茶器が床へと落ちる。そのまま体も床へと崩れ落ちた。
口の中から喉にかけて痺れが広がり、言葉を奪われたことを知った。慌てて残りを吐き出すも、遅かったようだ。目がかすみ、手足がしびれ始める。
「……っ」
さーっと麗麗の顔が青ざめていく。これは、もしや。
(毒……!?)
目の前に、足が見える。美しい刺繍が施された絹の沓を履いた足の主は──白蓮妃。
(白蓮様はご無事だ……!)
自分が毒味をしたことで、白蓮妃は助かった。安堵したのもつかの間、焼けつくような喉の痛みが麗麗を襲った。
(やばっ……ほ、ほんとに……やば……)
死にたくない。強烈な願いが鋭い刃となって麗麗を貫いた。
呼吸をするたびに、肺が悲鳴をあげている。涙がだらだらとあふれ、頰を伝って床に落ちる。麗麗は力を振りしぼり、白蓮妃に手を差し伸べた。
「たっ……助け……」
白蓮妃がしゃがみ込み、麗麗の手をすっと握りしめる。恐ろしいほどに優しい手つきで、慈しむように麗麗の手のひらを包み込む。
きっと、助けてくれるはずだ。そう信じていたのに……。
「おもしろいくらいに、こちらの思惑通りに動いてくれるのね」
「……!?」
氷のように冷たい声が、麗麗の耳に届いた。
白蓮妃の美しい顔には、一切の感情が浮かんでいない。いつもの柔らかな笑みは消え、瞳には空虚な色をたたえている。
(う、うそ……!)
理解が追いつかなかった。けれど、体はすでに答えを出している。
毒を、盛られたのだ。白蓮妃に、毒を──。
なぜ、どうして、という言葉が頭の中をぐるぐると回る。
「びゃ……く……さ……」
「もうすぐ、星送りの儀……」
歌うように白蓮妃は言葉を落とし、そのままゆっくりと立ち上がった。
「お前と話すのは、楽しかったわ」
その声色は、ひどく優雅で穏やかだった。まるで親しい友人に別れを告げるように、甘く、優しく──その実、酷薄極まりない声音だ。
白蓮妃の足音が、静かに遠ざかっていくのが聞こえた。
手も足もどんどん冷えて感覚がなくなっていき、意識がぼやける。気持ち悪くて、死にそうだ。
違う、死ぬのだ。
視界が霞む。もう目を開けていられない。
(白蓮様、どうして……)
そして、麗麗は──。



