(眠れない……)
ごろりと麗麗は寝返りを打った。同じ房で眠る女官たちの寝息や鼾が響く中、ぼんやりと天井を見つめている。考え事で頭が破裂しそうだった。
(ちょっと、夜風にあたろうかな)
幸か不幸か、月魄宮には大勢の女官がひしめき合っている。こんな小娘のひとりやふたりが見当たらなくとも、気にする者はいなさそうだ。
むくりと起き上がり、抜き足差し足、舎房を出た。
空には満天の星が広がっている。
(もう少し、近くに行きたいな)
舎房の少し先には、木が生えていた。そして太々とした枝は屋根の近くまで伸びている。
(よしっ!)
一瞬、ばれたらやばい、という思考が頭をよぎったが、そんなことよりも、一刻も早く、あの星空を思う存分味わいたかった。
襦裙をたくし上げ、えいやと木を登り、房の屋根に降り立つ。そのまま、腰を下ろした。それだけでは満足できなくて、転がって仰向けになった。
こうしていたほうが、きっと下からも見つかりにくいだろう。
まるで飲み込まれてしまいそうだ、と感嘆の息を吐く。
星々の洪水。〝佐々木愛子の世界〟ではもう決して見られないであろう星の海に身を委ね、麗麗は深呼吸をした。
自分の中に芽生えた、白蓮妃への好感情。しかし、その妃の行為が不可解だ。
(あんなに思慮深く、知識のある方が、なぜ)
麗麗とて、世の中には善人の顔を被った不届き者がいることはわかっている。けれど、あの白蓮妃の顔。天意について考えるのはおかしいかと問われたときの真剣な表情に、嘘偽りはなかったと思う。
では、なぜ……。
(あーもう、わかんない!)
もう一度深呼吸をすれば、自分の深いところに凝っていた濁りがすうっと夜空に溶けていく。そのとき。
「誰だ」
「ひっ!」
慌てて起き上がるも、そこは屋根の上。あっという間に平衡を崩した。
(──落ちる!)
ぎゅっと目をつぶったが、思ったよりも柔らかい衝撃だった。おそるおそる目を開けると……なんと人を敷いている。
「えっ、冥焔様!?」
「お前か……」
慌てて飛び退いた。
いたた、と軽く頭を振りながら、冥焔はゆっくりと起き上がる。
「冥焔様、なんでここに」
「こっちが聞きたい。そんなところに登って、なにをしている。あやうく兵を呼ぶところだったぞ」
星明かりの下で見る冥焔は、ものすごい不機嫌な表情だった。無理もない。いくら小柄な麗麗だからといって、上から落ちてきたら、それなりの重量だ。その全体重をかけて思いっきり踏んでしまったのだから、さぞ痛かっただろう。
さすがに謝ろうか、と麗麗が頭を下げようとすると、やいのやいのと離れたところから声が聞こえた。
「おかしいな、こっちから声が聞こえたんだが……」
(やばっ、夜警!?)
ひーっと麗麗の額に冷や汗が浮かぶ。このまま夜警に見つかったら、どうなる。
夜の院子に、冥焔とふたりきり。端から見たら完全な逢い引きに思われやしないか。そんなの噂を助長するだけではないか。
(ええい、一か八かだ!)
麗麗は咄嗟に冥焔の腕に自身の腕を絡めた。ふたりそろって木の陰に倒れ込む。
「なにをっ……」
起き上がろうとした冥焔の肩をつかみ、ぐっと押し倒した。そのまま体を密着させる。
「お、おい、女官っ……」
「黙ってください」
しーっと己の唇に指を添えて目の前の宦官を黙らせると、麗麗は後ろの気配を探った。
「おや、まあ」
「お盛んだねえ」
夜警の宦官たちが華やかな声をあげる。そりゃそうだ。気づかないほうがどうかしている。けれど、それこそが麗麗の狙いだった。
こんな美しい星空の下だ。広い後宮のあちこちでは、それこそ睦み合う者たちであふれているはず。そして、そういう者たちを夜警は見慣れている。きっとろくに顔も確認せずに、見逃してくれるに違いない。
その狙いはどうやら正解だったようで、宦官たちは呆れたような息を吐く。
「あんたたち、ほどほどになさいよ」
小言を残し、笑いながら宦官たちはその場を去ったようだ。遠ざかる足音が聞こえなくなって十分な時が経ってから、麗麗は体を起こした。
「危ないところでしたね」
冷や汗を手の甲でぬぐう。押し倒した宦官はというと、目をまん丸に見開いたまま硬直していた。
「冥焔様」
「…………」
「冥焔様、大丈夫ですか」
はっと冥焔が瞬きをする。その頰がみるみる赤くなり、ものすごい勢いで立ち上がった。
「お、お前……!」
「しーっ、お静かに。夜分ですよ」
「い、いきなりなにをする!」
「ええと……なにって言われましても」
ふーっと猫が毛を逆立てたように怒り狂う冥焔に、麗麗は首をかしげた。
「あのまま立っていたら、絶対に顔を見られていました。よからぬ噂を立てられないための、最善の策ではありませんか」
どうやらこの宦官は、自分がいかに妃嬪や女官に慕われているかを把握していないらしい。危機感がなさすぎる。そろそろ自覚を持ってもらいたいものだ。
「だからといって、人をのべつまくなしに、おっ……押し倒す馬鹿がどこにいるか!」
「失礼ですね。別に誰彼かまわずこんなことしませんよ」
思わずむっとした麗麗である。そんな、人を変態みたいに言わないでほしい。
「冥焔様だからです」
「……は?」
怒っていたはずの冥焔が、ぽかんとした顔をする。
この宦官、こんな顔もできたのかと思わず麗麗が感心するほど、冥焔は間抜けな顔をしていた。
「冥焔様と私じゃ、どうこうなるわけがありませんから。その気のない者同士なら、なにが起こるわけでなし。ただのお芝居ですよ」
まさか冥焔が虎になって襲いかかるわけがなかろう。麗麗とてそのつもりはないのだから、なんの問題もないはずだ。そう胸を張って主張すると、冥焔はなんとも言えないような息を吐いた。
「……もういい、俺は疲れた」
「お疲れですか。それでは、おやすみなさい」
「待て」
くるっと踵を返そうとした麗麗の首根っこを、冥焔がくんっと引っ張った。
「なんです」
「いいから、座れ」
そう言うと、冥焔は本当に座り込み、木の幹に体を預けた。
「夜警がまた来たらどうするんです」
「さっき巡回が来ただろう。なら、しばらくはここには来ない」
そうだった。この宦官は後宮の管理を務めている。夜警が回る刻も頭に入っているのだろう。麗麗が隣に腰を下ろすと、冥焔はなにやら頭を抱えている。
「頭痛です?」
「いや、どちらかというと目眩だ。お前と行動するようになってから、俺は、自分がわからなくなっている」
「そうですか」
「戸惑ってもいる。だから、俺をこれ以上、困らせるな」
哲学の話だろうか。あいにくそっち方面には明るくない。なんか大変だなあと曖昧にうなずくと、冥焔は「もういい」とあきらめたようなため息をついた。
「で、お前はこの三日間、月魄宮で働いていたわけだが。なぜ報告をしないのだ」
「あっ」
すっかり忘れていた麗麗である。
「すみません、つい、夢中で」
「……それで。白蓮妃は、お前の目にはどう見えた」
真剣な表情を向けられて、麗麗も居住まいを正した。
「立派な方です」
「それはまことか」
「はい」
麗麗は、今日の出来事を冥焔に話して聞かせた。
「いち女官である私の話を、真正面から聞いてくださいました。共に書を読み、同じだけの熱を持って論を交えました。私は時に白蓮様のお言葉を否定してしまいましたが、気分を害することもなく、新たな視点であると褒めてくださいました」
話しながら、今日感じた熱がまた胸に宿っていく。
この世界に来てから、あんなに興奮したことがあっただろうか。いや、ない。
「私、あの方とお近づきになれて、嬉しいです。あ、それと、今度お茶します!」
冥焔は、なぜか苦い顔をした。
「……お茶、だと?」
「はい。もうほんっとうに楽しかったんです。なので、もっと話したいとおっしゃっていただいて。それで、三日後に、お茶を」
「お前……」
冥焔はじとっとした目を向ける。
「三日後は、星送りの儀の前日ではないか」
「だめですか。却下された場合、私、盛大にだだをこねますけど」
呆れたような息をつく冥焔に、麗麗は言葉を重ねた。
「わかってますよ。遊びじゃないって言いたいんですよね」
「その通りだ」
「遊んでません。現に、私は白蓮妃がどうやって天気を当てていたかなら想像がつきました」
「なんだって?」
冥焔が姿勢を正す。麗麗はうなずき、口を開いた。
「白蓮妃の房に、気の重さと温度をはかる道具があったんです。そして、空の様子が見やすい窓も。それらを使えば、ある程度、天気の想定ができるんです」
「天気の想定、か」
「はい。それに、房の中には薬棚も薬研もありました。百茗の宴でも体によいお茶を出したことから、薬の調合にもお詳しいのでしょう。ですから、天気を当てたり、ある程度の病を治したりできるのは、仙術を使ったのではありません。知識で物事を解決なさっていたのだと思います」
「では、あの不吉な予言は真実であるということか?」
「……わかりません」
麗麗は唇を嚙む。
その予言だけが不可解だ。あれほど科学の目を持つ方でいらっしゃるのに。そして、国や民のことを考えていらっしゃるお方なのに。
(なぜみんなが不安がるようなことを、わざわざ言ったんだろう)
黙ってしまった麗麗になにを思ったのだろうか。冥焔は話題を変えた。
「別件だ。お前に聞きたいことがある」
「なんでしょう」
「怪異が、また増えている」
冥焔は一度口を閉ざし、ため息とともに言葉を吐き出した。
「夜な夜な、人の泣き声が聞こえる。いるはずのない赤子の声が床下から聞こえる。水が急に血に変わった。幽鬼が漏窓の外に出る。小動物が多く死んだ──。これをどう考える」
麗麗は顎に手を添え、しばし考える。
「ちゃんと調べないとだめですけど。でも……怪異ではないと存じます」
「聞こう」
「まず、人の泣き声。これは風穴の可能性が高いです。前もありましたよね」
「ああ」
冥焔はうなずいた。この件に関しては、想定がついていたのだろう。
「次に、赤子の声。これは獣ではないですか。猫か、狢か。床下を見てください。糞があれば、当たりです」
「なるほど」
「水が血に変わったという話。それは、しばらく使われていなかった水管では?」
「その通りだ」
「では、赤さびが溶け出たのではないでしょうか」
懐かしいなあ、と麗麗は生前を思い出す。昔、使っていないトイレから赤い水が流れるっていう怪談があったっけ。
「あとのふたつに関しては……今、皆さんは混乱している状況ですよね。そういうときは、木の影が揺れただけで、幽鬼に見えてしまう。小動物の死も、増えたような気がするだけなのではないですか」
「そんな、あやふやな」
納得いかないと言わんばかりに顔をしかめた冥焔に、麗麗は淡々と口を開いた。
「意外とそうでもないですよ」
言いながら、麗麗は自らの髪の毛をひとふさすくい上げた。
「白髪って、一本見つけると三本増える……って、私の故郷では言うんですけど」
「なんだそれは」
「いいから聞いてください。あれって増えてるわけじゃないんですよ。一本見つけると、またあるかもしれないって髪の毛を気にし始めるでしょう。そうすると、白髪を発見しやすくなる。もともとあった白髪のはずなのに、増えたように感じてしまう。……それとおんなじですよ」
くるくると髪の毛を指に巻きつけながら、麗麗は言葉を重ねる。
「普段はそこまで意識していないのに、不安なことが起こると、人は死に意味を求めます。増えたように見えて、実際はそうでもないなんてこともあるんじゃないですか」
「……なるほどな」
「明言はできないですけどね」
麗麗がそう言うと、冥焔はいぶかしげに眉をひそめた。
「これだけすらすらと原因が出てくるのであれば、明言してもよいのではないか」
首を振った。言わんとすることはわかるが、それは危険な考えだ。
「憶測で話すと、常識に捕らわれます。今のはあくまでも仮の話にしてください」
「頑固だな」
「ひとつひとつにしっかり向き合って、確かにそうだという証拠を出すことが大事だと、私は思います。それが、ガリレオのやり方ですから」
「またその名か」
冥焔は苦笑いして、そのまま立ち上がる。黒髪が、星明かりに照らされてさらりと流れた。
「俺はもう戻る。引き続き探れ」
「はい」
「気をつけろ。お前は、今、少し──」
冥焔の言葉に、麗麗は軽く首をかしげた。
「少し、なんです?」
「いや。あまり俺の口から、色がつくことを言わないほうがいいだろう。何 にしても、油断はするなよ」
妙な念押しをされ、ますます意味がわからない。しかし、麗麗はうなずくことで答えた。
ごろりと麗麗は寝返りを打った。同じ房で眠る女官たちの寝息や鼾が響く中、ぼんやりと天井を見つめている。考え事で頭が破裂しそうだった。
(ちょっと、夜風にあたろうかな)
幸か不幸か、月魄宮には大勢の女官がひしめき合っている。こんな小娘のひとりやふたりが見当たらなくとも、気にする者はいなさそうだ。
むくりと起き上がり、抜き足差し足、舎房を出た。
空には満天の星が広がっている。
(もう少し、近くに行きたいな)
舎房の少し先には、木が生えていた。そして太々とした枝は屋根の近くまで伸びている。
(よしっ!)
一瞬、ばれたらやばい、という思考が頭をよぎったが、そんなことよりも、一刻も早く、あの星空を思う存分味わいたかった。
襦裙をたくし上げ、えいやと木を登り、房の屋根に降り立つ。そのまま、腰を下ろした。それだけでは満足できなくて、転がって仰向けになった。
こうしていたほうが、きっと下からも見つかりにくいだろう。
まるで飲み込まれてしまいそうだ、と感嘆の息を吐く。
星々の洪水。〝佐々木愛子の世界〟ではもう決して見られないであろう星の海に身を委ね、麗麗は深呼吸をした。
自分の中に芽生えた、白蓮妃への好感情。しかし、その妃の行為が不可解だ。
(あんなに思慮深く、知識のある方が、なぜ)
麗麗とて、世の中には善人の顔を被った不届き者がいることはわかっている。けれど、あの白蓮妃の顔。天意について考えるのはおかしいかと問われたときの真剣な表情に、嘘偽りはなかったと思う。
では、なぜ……。
(あーもう、わかんない!)
もう一度深呼吸をすれば、自分の深いところに凝っていた濁りがすうっと夜空に溶けていく。そのとき。
「誰だ」
「ひっ!」
慌てて起き上がるも、そこは屋根の上。あっという間に平衡を崩した。
(──落ちる!)
ぎゅっと目をつぶったが、思ったよりも柔らかい衝撃だった。おそるおそる目を開けると……なんと人を敷いている。
「えっ、冥焔様!?」
「お前か……」
慌てて飛び退いた。
いたた、と軽く頭を振りながら、冥焔はゆっくりと起き上がる。
「冥焔様、なんでここに」
「こっちが聞きたい。そんなところに登って、なにをしている。あやうく兵を呼ぶところだったぞ」
星明かりの下で見る冥焔は、ものすごい不機嫌な表情だった。無理もない。いくら小柄な麗麗だからといって、上から落ちてきたら、それなりの重量だ。その全体重をかけて思いっきり踏んでしまったのだから、さぞ痛かっただろう。
さすがに謝ろうか、と麗麗が頭を下げようとすると、やいのやいのと離れたところから声が聞こえた。
「おかしいな、こっちから声が聞こえたんだが……」
(やばっ、夜警!?)
ひーっと麗麗の額に冷や汗が浮かぶ。このまま夜警に見つかったら、どうなる。
夜の院子に、冥焔とふたりきり。端から見たら完全な逢い引きに思われやしないか。そんなの噂を助長するだけではないか。
(ええい、一か八かだ!)
麗麗は咄嗟に冥焔の腕に自身の腕を絡めた。ふたりそろって木の陰に倒れ込む。
「なにをっ……」
起き上がろうとした冥焔の肩をつかみ、ぐっと押し倒した。そのまま体を密着させる。
「お、おい、女官っ……」
「黙ってください」
しーっと己の唇に指を添えて目の前の宦官を黙らせると、麗麗は後ろの気配を探った。
「おや、まあ」
「お盛んだねえ」
夜警の宦官たちが華やかな声をあげる。そりゃそうだ。気づかないほうがどうかしている。けれど、それこそが麗麗の狙いだった。
こんな美しい星空の下だ。広い後宮のあちこちでは、それこそ睦み合う者たちであふれているはず。そして、そういう者たちを夜警は見慣れている。きっとろくに顔も確認せずに、見逃してくれるに違いない。
その狙いはどうやら正解だったようで、宦官たちは呆れたような息を吐く。
「あんたたち、ほどほどになさいよ」
小言を残し、笑いながら宦官たちはその場を去ったようだ。遠ざかる足音が聞こえなくなって十分な時が経ってから、麗麗は体を起こした。
「危ないところでしたね」
冷や汗を手の甲でぬぐう。押し倒した宦官はというと、目をまん丸に見開いたまま硬直していた。
「冥焔様」
「…………」
「冥焔様、大丈夫ですか」
はっと冥焔が瞬きをする。その頰がみるみる赤くなり、ものすごい勢いで立ち上がった。
「お、お前……!」
「しーっ、お静かに。夜分ですよ」
「い、いきなりなにをする!」
「ええと……なにって言われましても」
ふーっと猫が毛を逆立てたように怒り狂う冥焔に、麗麗は首をかしげた。
「あのまま立っていたら、絶対に顔を見られていました。よからぬ噂を立てられないための、最善の策ではありませんか」
どうやらこの宦官は、自分がいかに妃嬪や女官に慕われているかを把握していないらしい。危機感がなさすぎる。そろそろ自覚を持ってもらいたいものだ。
「だからといって、人をのべつまくなしに、おっ……押し倒す馬鹿がどこにいるか!」
「失礼ですね。別に誰彼かまわずこんなことしませんよ」
思わずむっとした麗麗である。そんな、人を変態みたいに言わないでほしい。
「冥焔様だからです」
「……は?」
怒っていたはずの冥焔が、ぽかんとした顔をする。
この宦官、こんな顔もできたのかと思わず麗麗が感心するほど、冥焔は間抜けな顔をしていた。
「冥焔様と私じゃ、どうこうなるわけがありませんから。その気のない者同士なら、なにが起こるわけでなし。ただのお芝居ですよ」
まさか冥焔が虎になって襲いかかるわけがなかろう。麗麗とてそのつもりはないのだから、なんの問題もないはずだ。そう胸を張って主張すると、冥焔はなんとも言えないような息を吐いた。
「……もういい、俺は疲れた」
「お疲れですか。それでは、おやすみなさい」
「待て」
くるっと踵を返そうとした麗麗の首根っこを、冥焔がくんっと引っ張った。
「なんです」
「いいから、座れ」
そう言うと、冥焔は本当に座り込み、木の幹に体を預けた。
「夜警がまた来たらどうするんです」
「さっき巡回が来ただろう。なら、しばらくはここには来ない」
そうだった。この宦官は後宮の管理を務めている。夜警が回る刻も頭に入っているのだろう。麗麗が隣に腰を下ろすと、冥焔はなにやら頭を抱えている。
「頭痛です?」
「いや、どちらかというと目眩だ。お前と行動するようになってから、俺は、自分がわからなくなっている」
「そうですか」
「戸惑ってもいる。だから、俺をこれ以上、困らせるな」
哲学の話だろうか。あいにくそっち方面には明るくない。なんか大変だなあと曖昧にうなずくと、冥焔は「もういい」とあきらめたようなため息をついた。
「で、お前はこの三日間、月魄宮で働いていたわけだが。なぜ報告をしないのだ」
「あっ」
すっかり忘れていた麗麗である。
「すみません、つい、夢中で」
「……それで。白蓮妃は、お前の目にはどう見えた」
真剣な表情を向けられて、麗麗も居住まいを正した。
「立派な方です」
「それはまことか」
「はい」
麗麗は、今日の出来事を冥焔に話して聞かせた。
「いち女官である私の話を、真正面から聞いてくださいました。共に書を読み、同じだけの熱を持って論を交えました。私は時に白蓮様のお言葉を否定してしまいましたが、気分を害することもなく、新たな視点であると褒めてくださいました」
話しながら、今日感じた熱がまた胸に宿っていく。
この世界に来てから、あんなに興奮したことがあっただろうか。いや、ない。
「私、あの方とお近づきになれて、嬉しいです。あ、それと、今度お茶します!」
冥焔は、なぜか苦い顔をした。
「……お茶、だと?」
「はい。もうほんっとうに楽しかったんです。なので、もっと話したいとおっしゃっていただいて。それで、三日後に、お茶を」
「お前……」
冥焔はじとっとした目を向ける。
「三日後は、星送りの儀の前日ではないか」
「だめですか。却下された場合、私、盛大にだだをこねますけど」
呆れたような息をつく冥焔に、麗麗は言葉を重ねた。
「わかってますよ。遊びじゃないって言いたいんですよね」
「その通りだ」
「遊んでません。現に、私は白蓮妃がどうやって天気を当てていたかなら想像がつきました」
「なんだって?」
冥焔が姿勢を正す。麗麗はうなずき、口を開いた。
「白蓮妃の房に、気の重さと温度をはかる道具があったんです。そして、空の様子が見やすい窓も。それらを使えば、ある程度、天気の想定ができるんです」
「天気の想定、か」
「はい。それに、房の中には薬棚も薬研もありました。百茗の宴でも体によいお茶を出したことから、薬の調合にもお詳しいのでしょう。ですから、天気を当てたり、ある程度の病を治したりできるのは、仙術を使ったのではありません。知識で物事を解決なさっていたのだと思います」
「では、あの不吉な予言は真実であるということか?」
「……わかりません」
麗麗は唇を嚙む。
その予言だけが不可解だ。あれほど科学の目を持つ方でいらっしゃるのに。そして、国や民のことを考えていらっしゃるお方なのに。
(なぜみんなが不安がるようなことを、わざわざ言ったんだろう)
黙ってしまった麗麗になにを思ったのだろうか。冥焔は話題を変えた。
「別件だ。お前に聞きたいことがある」
「なんでしょう」
「怪異が、また増えている」
冥焔は一度口を閉ざし、ため息とともに言葉を吐き出した。
「夜な夜な、人の泣き声が聞こえる。いるはずのない赤子の声が床下から聞こえる。水が急に血に変わった。幽鬼が漏窓の外に出る。小動物が多く死んだ──。これをどう考える」
麗麗は顎に手を添え、しばし考える。
「ちゃんと調べないとだめですけど。でも……怪異ではないと存じます」
「聞こう」
「まず、人の泣き声。これは風穴の可能性が高いです。前もありましたよね」
「ああ」
冥焔はうなずいた。この件に関しては、想定がついていたのだろう。
「次に、赤子の声。これは獣ではないですか。猫か、狢か。床下を見てください。糞があれば、当たりです」
「なるほど」
「水が血に変わったという話。それは、しばらく使われていなかった水管では?」
「その通りだ」
「では、赤さびが溶け出たのではないでしょうか」
懐かしいなあ、と麗麗は生前を思い出す。昔、使っていないトイレから赤い水が流れるっていう怪談があったっけ。
「あとのふたつに関しては……今、皆さんは混乱している状況ですよね。そういうときは、木の影が揺れただけで、幽鬼に見えてしまう。小動物の死も、増えたような気がするだけなのではないですか」
「そんな、あやふやな」
納得いかないと言わんばかりに顔をしかめた冥焔に、麗麗は淡々と口を開いた。
「意外とそうでもないですよ」
言いながら、麗麗は自らの髪の毛をひとふさすくい上げた。
「白髪って、一本見つけると三本増える……って、私の故郷では言うんですけど」
「なんだそれは」
「いいから聞いてください。あれって増えてるわけじゃないんですよ。一本見つけると、またあるかもしれないって髪の毛を気にし始めるでしょう。そうすると、白髪を発見しやすくなる。もともとあった白髪のはずなのに、増えたように感じてしまう。……それとおんなじですよ」
くるくると髪の毛を指に巻きつけながら、麗麗は言葉を重ねる。
「普段はそこまで意識していないのに、不安なことが起こると、人は死に意味を求めます。増えたように見えて、実際はそうでもないなんてこともあるんじゃないですか」
「……なるほどな」
「明言はできないですけどね」
麗麗がそう言うと、冥焔はいぶかしげに眉をひそめた。
「これだけすらすらと原因が出てくるのであれば、明言してもよいのではないか」
首を振った。言わんとすることはわかるが、それは危険な考えだ。
「憶測で話すと、常識に捕らわれます。今のはあくまでも仮の話にしてください」
「頑固だな」
「ひとつひとつにしっかり向き合って、確かにそうだという証拠を出すことが大事だと、私は思います。それが、ガリレオのやり方ですから」
「またその名か」
冥焔は苦笑いして、そのまま立ち上がる。黒髪が、星明かりに照らされてさらりと流れた。
「俺はもう戻る。引き続き探れ」
「はい」
「気をつけろ。お前は、今、少し──」
冥焔の言葉に、麗麗は軽く首をかしげた。
「少し、なんです?」
「いや。あまり俺の口から、色がつくことを言わないほうがいいだろう。何 にしても、油断はするなよ」
妙な念押しをされ、ますます意味がわからない。しかし、麗麗はうなずくことで答えた。



