白蓮妃の房は、宮の中央に位置している。房というよりひとつの殿舎だ。

 独立した殿舎の前に広がる広い院子には、大勢の人が行列をなしていた。女官、宦官、中には妃嬪もいるようだ。皆、手にそれぞれ箱やら籠やらを持ち、不安そうな顔をしながら並び続けている。

 あれは、謁見の列だ。そしてあの妃嬪や女官、宦官が手にしているのは、白蓮妃への貢ぎ物に違いない。

 冬花は李順をその行列の末尾に加えた。李順は上気した顔のまま、冬花に頭を下げている。李順は貢ぎ物を持っていないが、それはこの月魄宮で働いている女官だからなのだろう。

 冬花はにこやかに笑むと、殿舎の入り口へと戻っていく。どうやらあの女官はこの行列を取り仕切っているらしい。

 ひとり、宦官らしき人物が殿舎から出てきた。手になにかを持っている。そのなにかを大切そうに胸に当て、夢見心地な顔をした。

 (んん?)

 そうして入れ替わりに、並んでいた先頭の女官が殿舎に入り、ややあって、やはり上気した顔で出てくる。手になにか持っているのも変わらずだ。

 (なるほど、あれが〝加護〟なのか)

 ぴんときた。あの回廊の奥の房で作業していたのは、おそらく〝これ〟だ。さしずめ、貢ぎ物と交換で札かなにかを配っていて、それをあの房で作っている、ということなのだ。

 (ほんと、詐欺師みたい)

 頰を赤く染めた女官が、くるっと向きを変えた。

 (やばっ、こっち来た!)

 その視線から隠れるように麗麗は院子を横切ると、殿舎の裏側に回った。壁にぴたりと体を寄り添わせ、息を殺す。

 そのとき、ふと麗麗の目にとまったものがある。

 (なんだあれ?)

 殿舎の真裏に謎の隙間があった。近づいて見ると、壁に溶け込むように細工をしてあるが、どう見ても引き戸だ。しかも、ちょっとだけ開いている。

 (隠し扉ってやつ? 全然隠れてない気もするけど)

 麗麗はその、ちょろっと空いた隙間に指をかけた。思いきって引き開ける。さあっと風が麗麗の前髪を揺らした。

 そっと中をのぞき見ると……。

 (うわ)

 そこは広い房だった。天井近くに明かり取りの窓。麗麗の正面、房の向かいには別室に続いているであろう入り口。その他三方は壁に囲まれている。そして、壁面には床から天井まで、造りつけの薬棚が設えられていた。

 (おお、すごい!)

 棚ひとつひとつには丁寧に手作りの(ラベル)がつけられており、(じょう)(やく)(ちゅう)(やく)()(やく)に至るまで、綺麗に整理整頓されている。

 (昔、本で読んだっけなあ。ここに、実物がっ……!)

 生前に読んだ漢方の本を思い出して、じゅるりとよだれが出そうになる。

 札を見る限り、あの大変やばそうな植物も、あの貴重な鉱石も、この薬棚の中に収まっているらしい。現物を見てみたい欲をぐっと我慢して、薬棚から目を逸らした。

 薬棚の前に置かれた卓子の上には、薬研が数種類。これからなにやら調合でもするのだろうか、乾燥させた葉や、鉱石が布に包まれて置かれていた。

 別の壁面には、きっちり巻かれた巻物や木簡が()(ちょう)(めん)に収められている。敷物が敷かれた床の上にも書簡が詰まれており、しかもそのどれにも(ほこり)は見当たらない。頻繁に手に取って読んでいるのだとわかる。

 その書の(タイトル)を見て、麗麗はごくっと喉を鳴らした。

 (て、天体の書だ……!)

 壁面近くに置かれた卓子の上には、なにやら書きつけられた書が置かれている。その内容を見ようとさらに身を乗り出した麗麗の目に飛び込んできたのは。

 「こっ……!」

 中央には(しん)(ちゅう)の球体。その周りを金属の輪が何重にも取り囲んでいる、物体(オブジェ)。それはまさしく。

 (渾天(こんてん)()っ……!)

 足下でがたんっと音が鳴った。興奮のあまり、扉を足で蹴ってしまったようだ。

 やばい、と足を引っ込めても、もう遅い。

 「誰?」

 涼やかな声が前方から聞こえ、ひょこっと麗人が姿を現す。

 白蓮妃だ。……目が合ってしまって、麗麗の頭が真っ白になる。

 やばい、これはやばすぎる。

 (その場で殺されなければセーフっ!)

 麗麗はくるっと踵を返す。しかし。

 「そんなところでのぞき見なくても。興味があるなら入っていらっしゃい」

 足が、ぴたっと止まった。今、白蓮妃はなんと言っただろう。まさか、房に招かれたのか。どうする、と麗麗は自問自答する。(わな)かもしれない。入った瞬間、大声を出されて捕まってしまうかも。けれど……。

 命か、それとも渾天儀か。

 (そんなの、命に決まってる! 決まって……る……けどっ……!)

 ふらふらと誘われるように、房に足を踏み入れる。

 「う、うわあ……っ」

 渾天儀を前にして、麗麗は目を輝かせた。

 (渾天儀があるってことは、やっぱり星の研究をしている人がいるんだよね。使い方は同じなのかな。実際に使ってみたい……!)

 「あっ」

 麗麗は棚に納められていた玻璃製の器に目を留める。細長い花瓶のような形の器の中に、管状の器が挿さっている。中には着色された水が入っており、管状の器の中ほどまで上ってきていた。

 「これっ……も、もしかして気圧計……!」

 白蓮妃の眉がぴくっと動いた。

 「知っているの?」

 「はいっ!」

 「そう、嬉しいわ」

 白蓮妃の声は弾んでいる。麗麗も嬉しくなって、ついはしゃいだ。そして、もうひとつの容器に目を留めて、今度こそ感嘆の声をあげた。

 「……っ! お、温度計じゃないですかぁ!」

 密閉された玻璃の器の中には液体が満たされ、その中にぷかぷかと陶器の玉が浮いている。この浮き沈みで温度がある程度わかるという代物だ。しかも、それは麗麗、もとい佐々木愛子の憧れているあの人の名前がついていたりする。

 「よくわかったわね。これを見ただけで用途を当てたのは、お前が初めてよ」

 (そ、そんなものがこの世界にあっただなんて!)

 ふんふんと鼻息を荒くする麗麗を見て、白蓮妃はくすりと笑った。

 百茗の宴のときにも実感したが、この国は温度という概念を数字で表す文化がない。しかし、これはまさしくその概念をぶち破る代物なのではないだろうか。

 麗麗はもう無我夢中だ。渾天儀の横に置いてある卓子に近づくと、「きゃあ」とらしからぬ悲鳴をあげた。

 「あの、あのっ、もしかしてなんですけど。この卓子の上に広げてある書って、天の記録です!?」

 「ええ」

 麗麗の質問に、白蓮妃は目をわずかに見張った。

 「星の位置を知れば、季節の動きがわかるの。季節がどこに入ったのかを正確に知ることができれば、より多くの実りを得られるわ」

 農作物のことを言っているのだ、と麗麗にはすぐにわかった。

 種を()く時期、芽を間引く時期、栄養を与える時期、それぞれに適した温度や湿度、季節がある。それを知るためには、星の観察は確かに大切だ。そしてその星の動きから〝暦〟が作られる。

 でも……。

 「暦は星官(せいかん)の手で作られていますよね。それを見れば、ある程度はわかるのではないですか」

 麗麗の疑問に気づいたのだろう。白蓮妃は首を振りながら息をついた。

 「星官の仕事はすべて〝天意、天意〟であてにならないわ。己の都合のいいように天意を語る者の暦が、どれほどのものか……。私はそんな偽りの天意など信じない。自らの目で見て判断したいのよ」

 「自らの目で……」

 はっと麗麗の目が見開かれた。胸を(やり)で突かれたような衝撃に、思わず白蓮妃の顔をまじまじと見つめた。麗麗の信条と同じことを、この妃は口にした。その事実が信じられなくて、二の句が継げない。

 白蓮妃は穏やかな瞳で、なおも口を開いた。

 「皇帝──天子は天意をもって国を導く。では、天意とはなんでしょう」

 まるで弟子を導く師のように、白蓮妃は温かな口調で言葉を落としていく。

 「私は、この世を取り巻くすべての事象だと考えているわ。風を、空を読み、星を知る。土や火の声に耳を傾け、水の流れを理解する。なぜ、そうなるのか。そうなった結果、どうなるのか。天意とはそういうものよ。そして、それは民を豊かにすることに繋がっているの」

 白蓮妃は口を一度閉じる。そして、目に苦笑を浮かべて麗麗を見つめた。

 「……妃がこのようなことを気にするのは、おかしいかしら」

 「いえ、素晴らしいです」

 心からそう思い、麗麗が力強く断言すると、白蓮妃は嬉しそうに微笑んだ。

 「おもしろいわね。この房に入った女官や宦官はお前だけではないけれど、誰もそんな反応はしなかった。大抵の者は顔をしかめるわ。房の様子を見るなり、妃の房らしくないとお小言を言われたこともあるのに」

 「そんな、もったいない。こんなに素敵な房なのに」

 「そう思う?」

 「できればここに住みたいくらいです」

 真顔で答えると、白蓮妃はぷっと吹き出して笑った。

 麗麗は話しかけているのが白蓮妃だということもすっかり忘れて、嬉々として口を開く。

 「そこに積まれている書も、天に関するものですよね」

 「そうよ。字が読めるのね」

 「はい!」

 「読んでみる?」

 「いいんですか!?」

 きらきらと目を輝かせる麗麗に、白蓮妃はにこりと微笑んでみせた。

 「もちろん。ぜひお前の意見を伺いたいわ」

 その言葉を聞くやいなや、麗麗の手が書物に伸びる。その様子を、白蓮妃はなんとも嬉しそうな顔で見つめていた。

 夢中で書を読み、会話を繰り返す。

 麗麗の疑問に対して、白蓮妃は打てば響くような答えを返してくれる。また、麗麗も白蓮妃に対して遠慮をすることがなかった。

 正確には、自分の話している相手が位の高い妃嬪である事実を忘れていたのだが、それを抜きにしても、心のそこからの討論はとても楽しかった。

 あーだこーだ言い合ったり、ふたりで一緒に書をのぞき込んだり、渾天儀の使い方を教えてもらったりしているうちに、いつの間にか周囲が薄暗くなっている。

 麗麗は目をしばたかせた。

 (やけに暗いな)

 なぜ急に、と顔を上げて、麗麗はぎょっとした。

 天窓から差し込む光はすっかり赤みを帯びている。

 (うそ)

 夕方だ。麗麗がこの房に入ったのは昼前だったから、午後のすべての仕事を放り投げて、この房に入り浸っていたことになる。

 「どうしたの?」

 急に口を閉ざした麗麗をいぶかしく思ったのか、白蓮は口布を揺らして首をかしげた。

 「いえ、その……っ」

 (や……やばすぎる)

 さすがに、さーっと青ざめた。

 白蓮妃の立場から言えば、見知らぬ女官を房に放置して、どこかに行くわけにもいかないだろう。にもかかわらず、自分は書を読みふけり、討論までしてしまった。どう考えてもいち女官がやっていいことではない。厳罰に処されるどころか、死を命じられてもおかしくない所業である。

 今さらながらとんでもない不敬をしてしまった実感が湧いてきて、顔色が青を通り越してどす黒くなった。

 麗麗はぎくしゃくと白蓮妃から距離を置くと、その場で勢いよく(ぬか)ずいた。

 「……なにをしているの?」

 「反省してます」

 「反省? なぜ?」

 「恐れ多くも女官風情が徳妃の房に入り浸り、刻を忘れて書を読んでいたこと、身分をわきまえず問いを問いで返す不調法をしたことをです。それにより、白蓮様の貴重な刻を奪い、外で並んでいる皆様にも多大なるご迷惑をおかけしてしまいました」

 そう言うと、白蓮妃は口布を片手で押さえながらころころと笑った。

 「今それを謝るのね。おもしろいわ」

 「まことに申し訳ございません……」

 「気にしないでちょうだい。外の者たちの相手にも辟易(へきえき)していたのよ。今日一日、よい休憩をさせてもらったわ」

 「でも……」

 それですませていいのだろうか。

 すると白蓮妃は、いたずらっぽく声色を変えた。

 「じゃあ、こうしましょう。すべては私の命だったのよ。退屈な私を楽しませるようにと命じようとした矢先、お前は私の願いを耳にせずとも承知して、女官としてその責務を全うしただけにすぎないわ」

 「えっ」

 「よくやりましたね。褒めてあげましょう」

 茶目っ気たっぷりに微笑まれ、麗麗は目を白黒させる。どうやら許されたようで、麗麗はほっと胸を撫で下ろした。

 「お前、名はなんと」

 「麗麗と申します」

 「そう、麗麗」

 白蓮妃は目を柔らかく細め、にこりと笑った。

 「とても有意義な刻を過ごさせてもらったわ。同じ目線で物を語れる、貴重な仲間に出会えたことを感謝します」

 白蓮妃はそう言うと、ふっと首を上げた。明かり取りから除く夕闇を見つめる目の色は、どこか遠い。

 「今日は私も刻を忘れました。……このような話をしたのは久しぶり」

 静かな湖面に雨粒がぽたりと落ちたときのような、妙に印象的なひとことだった。

 「以前は、どなたとお話されたのですか?」

 「私の主人よ」

 ん?と麗麗は首をかしげる。

 「主上ですか?」

 「いえ。……昔、仕えていたお方なの。とても美しい妃だったわ」

 「白蓮様は、女官だったのですか」

 驚いた。後宮は一度解体されたと聞くが、では、解体前に妃のどなたかに仕えていたということか。

 麗麗の問いに、白蓮妃は微笑みながらうなずいた。

 「その方もとても博識な方だった。ただの女官だった私の意見に気を悪くすることなく、いつも朗らかに話を聞いてくれていた。とても素晴らしい方だったのよ」

 「へえ……!」

 「私は……あの方に、戻ってきてほしいわ。あの方こそ、この国を導くべき天意。星を読み、天を知り、民を導く知恵をお持ちだった。私のすべては、あの方から授かったようなものなの」

 そんなに興味深い人がいたのか、と麗麗は目を輝かせた。白蓮妃にここまで言わせる妃がいるなんて、世の中捨てたもんじゃない。

 「その方は、今どちらに」

 ただ単に、気になったから発した問いだった。もしまた後宮に戻ってきているのなら、ぜひ会ってみたい。

 しかし、麗麗の言葉は思いのほか、白蓮妃の胸を(えぐ)ったらしい。遠くを見ているような瞳が少しだけ潤み、口布がわずかに震えた。

 「もう亡くなっているの」

 「……そうだったんですね」

 しんとした沈黙が房に落ちる。

 「麗麗」

 白蓮妃は、麗麗を見つめた。その視線はまっすぐで、熱を帯びている。

 「お前は、死者の蘇りを信じる?」

 その問いがあまりにも突然すぎて、麗麗は瞬きをした。

 白蓮妃の顔は真剣で、とてもふざけているようには見えない。

 前にも同じようなことを聞かれたような、と記憶を反芻する。確か、冥焔との会話のときだった。あのときも蘇りを信じるかと言われたけれど、誰になにを聞かれようと麗麗の意見は変わらない。

 「死者が蘇ったとして、それが間違いなく死者本人だという証があるのであれば、私は信じます」

 「証があれば……」

 白蓮妃は瞳を伏せた。きっと、亡き妃のことを想っているのだ。

 「あの方がもし、本当に蘇ったら……お前と会わせてみたいわ」

 しんみりとした口調に、麗麗は胸がちくりと痛む。

 (本当に、大好きな主人だったんだな……)

 白蓮妃は首を振ると、すっと息を整えた。感情の高ぶりを抑えたのだろう。そのままぱっと目を開けると、麗麗ににこりと笑いかけた。

 「今度、茶でもどう? お前ともっと話してみたいわ」

 「はい!」

 白蓮妃の、心の細かな機微までは麗麗にはわからない。仕えていた妃との関係性も知らない。けれど、もしこの賢い妃が自分との会話を楽しみにしてくれるのなら、ぜひとも応えたい。

 正直に言うと、麗麗は嬉しかった。同じ熱量で話ができる相手を求めていた。

 乾ききった砂に、一滴水が落ちる。その(しずく)により、自らが渇いている事実を思い出す。白蓮妃との会話がまさにそれだ。

 麗麗は飢えていた。もっと話したいと思っているのは、自分の方だ。

 「では、三日後。夜はどう? 渾天儀を実際に使って、天の観測をしてみない?」

 ぶわっと麗麗の顔が輝いた。

 「ぜひっ、お願いします……!」

 「では、この房で待っているわ」

 三日後ということは、星送りの儀の前日だ。そのときまで麗麗がこの宮に留まっていられるか否かは、すべてあの宦官にかかっている。

 (だだこねよっと)

 「そろそろ行きなさい。夕餉を食べ損ねるわよ」

 「はい、ありがとうございます」

 礼を取り、麗麗は白蓮妃の房を出る。夕闇に光る星を見つめながら、深呼吸した。

 (すごい、楽しかった)

 思い出すだけで胸が熱くなる。

 白蓮妃は、賢い人だった。勤勉で、努力家なのは房の様子からもよく伝わった。ただの趣味で、興味本位で、あれほどの書や薬を集めるわけがない。

 振り返り白蓮妃がいた殿舎を見つめると、麗麗はふーっと息をついた。

 (おかしな人ではなかった……)

 それどころか、尊敬に値する人物であるとまで思った。なのに、なぜこんな、霊感商法のようなことをしているのだろう。