(ちぇー、けちだよなあ)

 ぶつぶつと管を巻きながら、麗麗は月魄宮の前に立った。

 くれるというから素直に欲しいものを口に出したというのに、しこたま怒られたあげく、『玻璃はやらん』と明言されてしまった。

 曰く、『最初から壊されるのがわかっているのにあげる馬鹿がどこにいるか』ということらしい。がっかりだ。

 (褒美ねえ……)

 玻璃以外ならなにをもらおうかなあ、とぽやぽや考える。

 実験器具をそろえてもらうのはどうだろう。蒸留実験に使えそうな器なら、諾がもらえるかもしれない。

 やや下方気味だったやる気が、ぐんぐん上向いた。それで、こうして月魄宮へと来ているわけである。

 しかし、来てみたはいいが。

 (話は通してあるとは言っていたけど、取り次ぎもなしってどういうことなのさ)

 ぬーん、と麗麗は目の前の門を眺める。

 てっきり冥焔が口を利いてくれるものだと思ったのに、命じるだけ命じてさっさと帰ってしまったのだ。

 「あら、そこのあなた……」

 (やばっ、見つかった!)

 見つかったもなにもない。宮の真ん前でうろうろしていれば、当然目につくだろう。とはいえ、後ろめたいのには変わりなく、そそくさと立ち去ろうとした麗麗に、声の主はさらに言葉を重ねた。

 「そんなところにいないで、こっちにいらっしゃい」

 (なんだって?)

 振り返ると、白を基調とした深衣を着た女官がふたり、麗麗を手招きしている。

 白、すなわち徳妃・白蓮の色だ。

 柔和な笑みを浮かべた女官たちはするすると宮から出ると、麗麗を挟むようにして横に(はべ)った。

 「あなたもそうなんでしょう?」

 「そうなのよね?」

 そう言われても意味がわからない。

 「最近はあなたみたいな子がよく来るのよ。だから安心してね」

 (安心できない!)

 女官たちは笑っているが、どこか夢見がちな視線といい、一向に下がらない口角といい、妙に不気味である。

 「あの、すみません」

 麗麗は思いきって声をあげた。なにはともあれ、徳妃の女官と接触できたのはいいことだ。ここで働けないか、一か八か聞いてみよう。

 「実は、私──」

 「いえ、わかっているわ」

 話を遮られてしまった。女官たちはうっとりするような目で麗麗を見つめ、にこりと笑う。

 「この宮を訪れた理由を、自分の口から言えないのよね。そのくらい今回の予言を恐ろしいと感じているのでしょう……。だから、私たちはこうして宮の入り口を見張っているの」

 「はあ……」

 「案内するわ。こっちよ」

 あれよあれよと月魄宮へと連れていかれてしまう。

 月魄宮は涼やかな香りが漂っていた。行き交う女官たちも皆、白を基調とした服を着ているからか、なんだか厳かな雰囲気である。

 塵ひとつ落ちていない回廊。磨き上げられた柱はつやつやで、まるで鏡のようにこちら側を映し出している。

 (どうしよっかなあ……)

 なんだか嫌な予感がする。この、ふたりで両脇を固められている状況に、ものすごく既視感がある。

 (あれだ。警察官に連行される人みたいな感じだ)

 女官たちは柔和な態度ではあるが、距離感がおかしい。手を組まれんばかりの近さにいるのである。

 ふたりの女官に挟まれるようにして連れていかれたのは、ひとつの房だった。

 扉はない。その代わり、天井から幾重にも布が吊り下げられている。その布をたくし上げた先、房の一番奥に、ひときわ柔らかな笑みを浮かべる人がいた。

 しかし、妃嬪ではない。服装は女官のものだ。

 頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、麗麗はひとまず頭を下げた。相手が誰だかわからないからこそ、敬っておいて損はないだろう。

 「あら、ずいぶんと可愛らしい子が来たのね」

 房の奥にいた女官は、麗麗を見るとぱあっと笑顔になった。

 「あなた、瑛琳妃のところの子よね」

 (顔が割れてる)

 これはやばい。もしかしたら、瑛琳妃の諜報員(スパイ)だと思われているのかもしれない。

 麗麗の両端を陣取っていたふたりの女官は一歩下がり、房の入り口を塞ぐように立った。麗麗の額を変な汗が伝う。

 (ぜったい疑われてるじゃん!)

 目の前の女官が、すっと手を伸ばした。思わず目を閉じた、そのとき。

 「それで? なにを持ってきたのかしら?」

 柔らかな声が、麗麗の前から放たれる。

 「……はい?」

 思わず目を開けて、ぽかんと見返した。女官は片方の手を上に向け、お椀型を作り、麗麗の前に差し出している。

 その手を上下に振りながら、首をかしげてにこっと笑った。

 「簪? 佩玉? それとも櫛かしら。大丈夫よ、娘娘はなんでも受け入れているわ」

 「あ、あの?」

 なにを言っているのだろう。ぴんと来ていない様子の麗麗に、女官はじれたような笑みを浮かべた。

 「ごまかさなくてもいいのよ。わかっているわ。あなたは他の妃に仕えている立場で、娘娘におすがりするのは恥ずかしい。そう思っているのよね。娘娘は慈悲深いお方ですから、立場など気にする必要はございません。貴賤分け隔てなくお話を伺ってくださることでしょう」

 「ええと……」

 麗麗の戸惑いには気づかないようで、女官は立て板に水のごとく滔々(とうとう)と話し続ける。

 「不安ですわよね。でも、大丈夫。娘娘の元には連日、たくさんの方がご挨拶に来ておりますが、お会いしたあとは皆晴れ晴れとしたお顔で帰られております」

 「はあ……」

 「娘娘は仙術を使われるお方。おすがりするのが恐れ多い気持ちもわかっているつもりよ。けれど、娘娘なら、迷えるあなたをお救いできます」

 だから、ね? と、女官はさらに麗麗に手のひらを突き出した。

 「すみません、はっきり言ってもらえますか」

 埒が明かない。なにかを遠回しに要求されているのはなんとなくわかるが、察しろという空気を出されても困ってしまう。

 麗麗の言葉を受けて、女官は目を瞬かせた。ややあって、「仕方ありませんわね」と苦笑して、とんでもない爆弾を落としたのである。

 「娘娘への謁見代を、払っていただけないかしら」

 ぴしゃーんと麗麗の体に稲妻が走り、ぶわっと腕にじんましんが広がる。

 間違いない。これは……。

 (霊感商法だ……!)

 反射的に顔をしかめそうになって、麗麗は慌てて取り繕った。ここで否を言ってはいけない。

 (我慢、我慢……!)

 取り繕うように笑顔を浮かべて、麗麗は口を開いた。

 「違うんです。私、その、冥焔様に頼まれまして。こちらで女官を探していると伺って。それで、まいりました」

 「あら!」

 女官は嬉しそうに手を打ち鳴らした。

 「それならそうと早く言ってちょうだい。もちろん話は聞いているわ。あなたが、娘娘の仙術を学びたいと考えている女官なのね!」

 (違います!)

 ぎょっとした。なんという話の通し方をしたのだ、あの宦官は。

 だがここで否定をしたら間違いなく帰されてしまう。どんなに不本意であったとしても、これはれっきとした皇帝の命なのだ。拒否権など存在しない。

 「……そうなんです」

 心の底から嫌だと叫び出したかったが、意志のかけらをなんとかかき集めて、絞り出すように声を出した。

 麗麗の言葉に、女官はぱっと花が咲くような笑顔を見せた。

 「いいでしょう。ちょうど人手が足りなくて、増員をお願いしようと思っていたところだったのよ」

 「そうでしたか」

 「ついてきなさい。案内するわ」

 踵を返し房を出る女官の後ろに、麗麗がつく。

 (鬼が出るか、蛇が出るか)

 ごくりと唾を飲み込み、歩を進めた。

 「この宮の者は皆、新しい者を歓迎いたします」

 (ドン)(ファ)と名乗った先ほどの女官は、掃除の行き届いた宮をしずしずと歩く。その後ろをてくてくとついて歩きながら、麗麗は周囲に目を巡らせた。

 「娘娘──白蓮様はご多忙でいらっしゃいます。お会いできるには時がかかりますけれど、精いっぱいお勤めすれば必ずお声をかけていただけますよ」

 振り向いて、冬花はにこりと笑った。

 「まずは心身を清めるために、雑用から始めていただきます。たとえ以前のお立場が違っていたのだとしても、ここで白蓮様にお仕えすると決まった以上、否は言わせません。いいですね」

 「はい」

 麗麗が四夫人の女官であったことを知っているからだろう。冬花はうなずいた麗麗に満足そうな笑みを浮かべると、再び前を向く。

 (ってか、なんだろう、この宮)

 どこもかしこもぴかぴかに拭き上げられている。どんなに掃除が行き届いた宮でも、多少の汚れが目につくもの。しかし、この宮には塵ひとつ、埃ひとつ、それこそ髪の毛のひと筋すら落ちていないのだ。

 それもそのはずで、長い長い回廊のあちこちには、手に掃除用具を持ち、髪を布で包み上げ、口布をした女官たちがうろうろしている。そして、そこら中をきゅっきゅと磨き上げているのである。

 (潔癖なのかな)

 その異様なまでの清潔への執着は、病院に似ているかもしれない。白を基調とした女官服は看護服を連想させる。鼻からすっと抜けるような涼やかな香りは、消毒用のアルコールを思い出す。

 麗麗が案内されたのは、広い房だ。

 「その一番端をお使いなさい」

 (こも)の上に綿の布をかぶせた寝床が十数個。どうやら雑用をしている女官たちはここで雑魚寝をするらしい。

 (これは、つまり?)

 住み込みだ。深藍宮には戻れない。

 (聞いてない!)

 冥焔はこのことまで深藍宮に話を通しているのだろうか。通していると信じたい。

 ここで抵抗したとしても意味がないため、おとなしく麗麗は指示に従った。