「(ユェ)(プオ)宮へ行け」

 「なんですって?」

 つかの間の休憩のあと、再び冥焔に引きずり出された麗麗は耳を疑った。

 冥焔は顔をしかめながら、わざとらしいため息をつく。

 「だから、月魄宮へ行けと大家が仰せだ」

 月魄宮とは、白蓮妃の宮である。

 「理由を伺っても?」

 「お前も、白蓮妃の噂は聞いているだろう」

 麗麗はうなずいた。つい先ほど聞いたばかりだ。

 「先日の宴で予言した妃ですよね」

 「そうだ」

 冥焔はそっとあたりをうかがうと、建物の影を顎でしゃくった。『こっちに来い』と言いたいのだろう。いちいち本当に偉そうだ、と麗麗はげんなりする。

 正直、あんまりふたりきりになりたくない。とはいえ、そうは言っていられない。人目を避けるという意味ではありがたい配慮でもあるので、おとなしく指示に従った。

 「……おい、女官」

 「はい、冥焔様」

 「なぜそんなに離れる」

 麗麗と冥焔の間には、徒歩にして五歩程度の距離が開いている。

 「……お気になさらず」

 一瞬、噂になっていることに文句のひとつでも言ってやろうかと思ったが、口を閉ざした。こういうのは、言わぬが花である。

 建物の陰に入ると、冥焔は声を落とした。

 「白蓮妃の予言が本物かどうか、調べろ」

 やっぱりか、と麗麗は天を仰ぐ。

 「瑛琳妃には大家より事情を説明する。お前はこのまま白蓮妃の元へ行き、彼女の女官としてしばらく暮らせ」

 (むちゃくちゃな!)

 いずれ白蓮妃を調べることにはなるだろうなと予測はしていた。なにせ、今回の騒動の張本人である。しかし、それはいつものように冥焔とふたりで宮に出かけて行うのだと思っていた。

 この話し方では、おそらく調査そのものすら白蓮妃には伝えていないだろう。つまるところ、潜入捜査ではないか。

 「では、今からすぐに向かえ。定期的な報告を忘れるなよ」

 「あの、それって絶対ですか」

 そう言うと、冥焔はきょとんと麗麗を見返した。

 「大家の命だぞ?」

 「いえ、そうなんですが。私……ああいう方と、折り合いが悪くなることが多くてですね」

 生前を思い出す。ああいう感じ(スピリチュアル)が強い系の人ほど苦手なものはなかった。

 やれ今日は黄色の服が幸運の鍵だとか、西の方角が吉だとか、いちいち気にする性質の人とは抜群に相性が悪い。もちろん、なにを信じようと本人の自由ではあるが、それを他者に押しつけようとするのも、この性質の人には多くいるからして。

 「(けん)()売っちゃって、不興を買って、殺されるのは嫌なんですよ」

 「任せろ。獄には手を回してある。お前が不興を買ったとしても処刑の前に止められるはずだ。その場で殺されたりしなければ問題ない」

 (その場で殺されたらどうすんのさ)

 身を(てい)してかばってくれなどしないくせに、簡単に言わないでほしい。

 多少位が上がったとて、妃嬪と女官では比べものにならない。生殺与奪の権を握られている身としては、なるべく安全安心に働きたいというものだ。

 苦い顔をしていると、なにやら冥焔がそわそわとし始めた。また腹痛だろうか。

 ごほん、と咳払いをし、冥焔は口を開いた。

 「此度の件、無事に終えたあかつきにはお前に、その……褒美をやろうと考えている」

 「褒美、ですか?」

 ただ問い返しただけなのに、宦官はなぜか大慌てで弁明を始めた。

 「勘違いするな。今までのお前の働きを大家がたいそうお喜びなのだ。だから、今回の褒美は、その働きに免じて、そう、大家の意志でお前に褒美を、と。だからこれは俺の意志ではない。いいな」

 訳がわからないが、どうやら褒美をもらえるらしい。冥焔はもう一度咳払いをして、麗麗に視線を送った。

 「なにが欲しい。言ってみろ」

 それを聞いた麗麗の目がきらりと輝く。

 「玻璃の器が欲しいです!」

 冥焔は、あっけにとられたような顔をする。

 「玻璃の器、だと? お前が?」

 「はい! 百茗の宴で玉璇妃が使っていたような、透明な玻璃が欲しいのです」

 冥焔は一瞬驚いたような表情を浮かべ、ややあって、ほんの少しだけ唇を持ち上げた。

 「いいだろう」

 「やった! 絶対ですよ! 約束ですからね!」

 思わず小躍りしたくなって、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねてしまった。

 「はしゃいでないで、さっさと行くぞ、女官」

 苦笑した冥焔に促され、歩き始める。

 玻璃をもらえたら、なにをしよう。とりあえず割って、磨いて、角度をつけて、拡大鏡みたいにできたら素敵だ。わくわくそわそわして、いてもたってもいられない。

 (でも、さすがに玻璃をがちゃんがちゃんと割ってるのは、他の人に見られたらやばいよね)

 妃嬪の持ち物を割っていると誤解をされるかもしれない。割るなら、ばれないようにこっそりやらなくては。

 「しかし、お前がまさか、玻璃を望むとは思わなかった」

 「はい。これで研究がはかどります」

 「なんだって?」

 足を止めた冥焔に、麗麗は満面の笑みで答えた。

 「ご安心ください。音が出ないように気をつけて割りますから!」

 「割る……」

 「はい、割ります!」

 このあと、盛大にため息をついた冥焔に、こんこんとお説教をされたのは言うまでもない。