第一部が終わり、いよいよ茶の出番である。
このささやかな休憩時間中に茶の準備をしなければならない。幕の裏側で、女官たちが慌ただしく動き回っていた。
簡易的に作られた野外の厨だ。石で簡単に組まれた 竈には鍋がかかり、中にはこの院子で汲んだ清水を入れている。火と水と茶葉があれば完成するお茶だからできることだ。
「お湯加減は大丈夫?」
おっとりと声をかけた花里だが、目つきが鋭い。さすが厨担当というところか。
「はい。あまり熱すぎず、温すぎずですね」
自分の目で沸き具合を見て適切な温度を把握する必要があり、これがなかなか難しい。というのも、この世界、温度という概念を数字で表す文化がないのである。
前世では、水やらお湯やらその他の水溶液やらを散々火にかけてきた。だから、『水を八十度のお湯にして』と言われれば、それなりの数字をたたき出せると自負している。
しかし、ここではその逆が求められている。〝このお茶に適したお湯にする〟というのは本当に難しいのだ。
(何度にすればいいかがわかれば完璧にできるのに)
ゆえに、じーっと麗麗は鍋を見ている。責任重大すぎて、冥焔ではないが腹が痛くなってきた。
傍らでは雪梅と香鈴が茶器の準備をしている。今回用意したお茶では、ちょっとした仕掛けを楽しんでもらう予定だった。そのために茶器も特別なものを持ち込んだのだ。ふつふつと鍋を見つめていると、小さな泡が立ち上ってきた。ここで火から下ろすか、否か。
(だめだ、わかんない)
「花里、ちょっといいですか」
ちょうど茶葉の準備をしていた花里を呼ぶ。花里は厳重に封がされた器を竈の近くの卓子に置き、麗麗の元へとやってくる。
その隙を、狙われた。
視界の端に目に鮮やかな青が映り、はっと顔を上げた。青の服を着た女官が茶葉の器に手をかけている。
「……すみません!」
「麗麗!?」
近くでお湯を確認していた花里が驚いたような声をあげた。麗麗は走り寄り、今まさに器の封を切ろうとしていた女官の手をつかみ上げた。
「なにしてるんですか」
ばっと女官が振り返った。
「は、放しなさいよ!」
「いえ、放しません。あなた、今なにをしようとしていましたか?」
麗麗がつかんでいる手の先には、なにやら怪しげな袋が握られている。
「こ、これは……っ、そう、瑛琳様。瑛琳様に頼まれて、この中身をお茶にって」
その主張を麗麗は鼻で笑った。
「あなた、馬鹿ですか」
「なっ……」
「その服の色。わざわざ私たちに合わせて変装までしてご苦労様です、というところでしょうか。でも……」
麗麗はふーっと息をつく。
「私たち、瑛琳様の女官は、四人しかいないんですよ」
「えっ……」
腕をつかまれた女官が、目を見開いた。
まさか知らなかったのか、と逆に麗麗は感心した。
確かに、ここでの常識で言えば、上級妃に女官四人は少なかろう。瑛琳妃が皇帝に女官を増やせないかと打診した事実もあるわけで──結局その女官当人たちが増員は必要ないと反対したので叶わなかったが──あの呪いの房事件後に人が増えたと考えたのかもしれない。
だとしても、お粗末すぎやしないか。
「服をちょっと替えたくらいじゃ、ばれるに決まってるでしょうに」
呆れた、と麗麗は捕まえた女官の顔をじっと見て、おや、と自分の顔を寄せた。
「あなた、玉璇妃の女官ではありませんか」
以前、洗い場の近くで麗麗の足を引っかけたあの女官である。
「ねえ、どうしたの!?」
騒ぎを聞きつけた雪梅と香鈴がまなじりをつり上げながら駆けてきた。
そちらに気を取られた瞬間、女官は思いきり麗麗の手を振り払い、そのまま一目散に逃げ出してしまった。地面に、謎の袋を落としたまま……。
事情を聞いたふたりの女官は、それぞれに怒気をあらわにした。
「信じられない。品がないだけじゃなくて卑怯で愚劣だなんて、さすが玉璇様の女官だよね」
香鈴の目からは光が消えている。なまじ顔がかわいいだけに大変恐ろしい形相だ。
「もう……っ! 許せない! 言いつけてやるわ!」
ぷんすこ雪梅が怒っている横で、麗麗は奇妙な顔をしていた。
玉璇妃の女官が落とした袋の中身は灰だった。状況を見るに、茶葉の中に灰を混ぜ込もうとしたのだろう。
なぜ灰なのか。どうせ落とすのなら灰ではなくて硝子の沓にしてくれないか。もしそれが落ちていたのなら、喜んでたたき割り、望遠鏡の材料にさせていただこう。なんなら落としてほしい、今すぐに。
「瑛琳様のお茶に混ぜ物をしようだなんて、なんて卑怯なの!」
「そうですよね。普通は毒とかを入れる場面で、灰って。玉璇様ってやること結構ぬるいですよね」
「あんた、すごいこと言うわね」
麗麗の発言に、雪梅が呆れたというように肩をすくめた。
「でも、さっきのでわかりました。前に雪梅が、側付きの女官が洗い物までやるのを『事情がある』と言っていたのは、こういう事態が起こると想定していたんですね」
「そうよ」
はーっと雪梅はため息をついた。
「しょっちゅうだったのよ。洗い物を尚服局の子に任せたら、汚れて返ってきたり、びりびりに破かれていたり」
「厨から食事を運ばせたら、ちょっとありえないくらい激辛だった、ってときもあったわねえ」
花里もおっとりと笑う。
「しかもそれで罰を受けるのは、実行犯の女官でさ、やらせた妃じゃないんだもんね。そんなの、かわいそうだもの」
香鈴も頷いた。
つまり、瑛琳妃は妃たち──おそらく玉璇妃から嫌がらせを受けていた。玉璇妃は下級女官に嫌がらせを命じ、発覚した場合の足切り要員にしていた、と。
「そういうのが続いてたのよ。瑛琳様は気にしなきゃいいっておっしゃっていたし、実行した女官たちの減刑も主上に訴えてくれていたけど」
はーっと雪梅がため息をつく。言わんとすることは麗麗にもわかった。
その瑛琳妃の優しさが、逆になめられてしまう要因でもあるのだろう。この妃はなにをしても許してくれる、なんて噂が立とうものなら、喜んで嫌がらせをする妃たちは多いはずだ。後宮とはそういうところである。
「だから、女官が減ったのはある意味よかったの。ああいうのはだいたい、不特定多数に紛れ込んでくるから。顔も性格も知っている女官だったら、警戒する必要はほとんどないしね」
「さっき、なんで毒を入れないのかって麗麗は言っていたでしょう? あれもわざとなのよ」
花里がふうっと息をつく。
「毒を入れたら、さすがに大事になるでしょう。死人も出るし。そうしたら、いくら瑛琳様でも黙っちゃいないわ。やった人を徹底的に追及し、処罰しようとなさるはずよ。それを玉璇妃もわかっていて、だからこういう、すれすれの嫌がらせをしてくるのよ」
なんだかむかむかしてきた麗麗である。
厳罰に処されないいじめほどやっかいなものはない。
頭もよく、底意地の悪いやつほど怒られないぎりぎりのところを責めるのだ。ちょっと上履きを隠したり、鞄を別のところに移したり、自分の席に常に誰かが座っているように仕向けたり、チャットグループや打ち上げに自分だけ誘われなかったり……枚挙に暇がない。
『反応しなければいじめは終わる』と、しかつめらしく説教する輩もいるが、阿呆かと思う。
なぜ嫌なことをされて、黙っていなければならないのか。嵐が過ぎるのを待つだけで、いじめたやつらはなんの咎めもなしにのうのうと生活する。なぜそれが許されるのか。
今回の件もきっと瑛琳妃は笑って許すに違いない。『実害がないのだから放っておけ』と言う瑛琳妃は容易に想像できる。
しかし、麗麗は瑛琳妃が好きだった。あの朗らかで優しい妃が理不尽な目に遭っていると考えるだけで、胸の中で湯が沸騰するかのような感情が湧き上がる。
麗麗はまあ、平たく言うと怒っていたのである。
(許してなるものかって感じだよね)
さて、と雪梅は先ほどの女官が落とした袋をつまみ上げた。
「私はこの件を報告してくるわ。三人はお茶をお願い。もう刻がないでしょう?」
踵を返そうとする雪梅の肩を、麗麗はがしっと捕まえた。
「ちょっとお待ちを」
「なによ」
「いえ。このままでは大変悔しいので、ひと泡吹かせてやりませんか」
負けず嫌いがむくむくと顔を出した。
(おい玉璇妃っ! ぎゃふんと言わせてやるからな!)
このささやかな休憩時間中に茶の準備をしなければならない。幕の裏側で、女官たちが慌ただしく動き回っていた。
簡易的に作られた野外の厨だ。石で簡単に組まれた 竈には鍋がかかり、中にはこの院子で汲んだ清水を入れている。火と水と茶葉があれば完成するお茶だからできることだ。
「お湯加減は大丈夫?」
おっとりと声をかけた花里だが、目つきが鋭い。さすが厨担当というところか。
「はい。あまり熱すぎず、温すぎずですね」
自分の目で沸き具合を見て適切な温度を把握する必要があり、これがなかなか難しい。というのも、この世界、温度という概念を数字で表す文化がないのである。
前世では、水やらお湯やらその他の水溶液やらを散々火にかけてきた。だから、『水を八十度のお湯にして』と言われれば、それなりの数字をたたき出せると自負している。
しかし、ここではその逆が求められている。〝このお茶に適したお湯にする〟というのは本当に難しいのだ。
(何度にすればいいかがわかれば完璧にできるのに)
ゆえに、じーっと麗麗は鍋を見ている。責任重大すぎて、冥焔ではないが腹が痛くなってきた。
傍らでは雪梅と香鈴が茶器の準備をしている。今回用意したお茶では、ちょっとした仕掛けを楽しんでもらう予定だった。そのために茶器も特別なものを持ち込んだのだ。ふつふつと鍋を見つめていると、小さな泡が立ち上ってきた。ここで火から下ろすか、否か。
(だめだ、わかんない)
「花里、ちょっといいですか」
ちょうど茶葉の準備をしていた花里を呼ぶ。花里は厳重に封がされた器を竈の近くの卓子に置き、麗麗の元へとやってくる。
その隙を、狙われた。
視界の端に目に鮮やかな青が映り、はっと顔を上げた。青の服を着た女官が茶葉の器に手をかけている。
「……すみません!」
「麗麗!?」
近くでお湯を確認していた花里が驚いたような声をあげた。麗麗は走り寄り、今まさに器の封を切ろうとしていた女官の手をつかみ上げた。
「なにしてるんですか」
ばっと女官が振り返った。
「は、放しなさいよ!」
「いえ、放しません。あなた、今なにをしようとしていましたか?」
麗麗がつかんでいる手の先には、なにやら怪しげな袋が握られている。
「こ、これは……っ、そう、瑛琳様。瑛琳様に頼まれて、この中身をお茶にって」
その主張を麗麗は鼻で笑った。
「あなた、馬鹿ですか」
「なっ……」
「その服の色。わざわざ私たちに合わせて変装までしてご苦労様です、というところでしょうか。でも……」
麗麗はふーっと息をつく。
「私たち、瑛琳様の女官は、四人しかいないんですよ」
「えっ……」
腕をつかまれた女官が、目を見開いた。
まさか知らなかったのか、と逆に麗麗は感心した。
確かに、ここでの常識で言えば、上級妃に女官四人は少なかろう。瑛琳妃が皇帝に女官を増やせないかと打診した事実もあるわけで──結局その女官当人たちが増員は必要ないと反対したので叶わなかったが──あの呪いの房事件後に人が増えたと考えたのかもしれない。
だとしても、お粗末すぎやしないか。
「服をちょっと替えたくらいじゃ、ばれるに決まってるでしょうに」
呆れた、と麗麗は捕まえた女官の顔をじっと見て、おや、と自分の顔を寄せた。
「あなた、玉璇妃の女官ではありませんか」
以前、洗い場の近くで麗麗の足を引っかけたあの女官である。
「ねえ、どうしたの!?」
騒ぎを聞きつけた雪梅と香鈴がまなじりをつり上げながら駆けてきた。
そちらに気を取られた瞬間、女官は思いきり麗麗の手を振り払い、そのまま一目散に逃げ出してしまった。地面に、謎の袋を落としたまま……。
事情を聞いたふたりの女官は、それぞれに怒気をあらわにした。
「信じられない。品がないだけじゃなくて卑怯で愚劣だなんて、さすが玉璇様の女官だよね」
香鈴の目からは光が消えている。なまじ顔がかわいいだけに大変恐ろしい形相だ。
「もう……っ! 許せない! 言いつけてやるわ!」
ぷんすこ雪梅が怒っている横で、麗麗は奇妙な顔をしていた。
玉璇妃の女官が落とした袋の中身は灰だった。状況を見るに、茶葉の中に灰を混ぜ込もうとしたのだろう。
なぜ灰なのか。どうせ落とすのなら灰ではなくて硝子の沓にしてくれないか。もしそれが落ちていたのなら、喜んでたたき割り、望遠鏡の材料にさせていただこう。なんなら落としてほしい、今すぐに。
「瑛琳様のお茶に混ぜ物をしようだなんて、なんて卑怯なの!」
「そうですよね。普通は毒とかを入れる場面で、灰って。玉璇様ってやること結構ぬるいですよね」
「あんた、すごいこと言うわね」
麗麗の発言に、雪梅が呆れたというように肩をすくめた。
「でも、さっきのでわかりました。前に雪梅が、側付きの女官が洗い物までやるのを『事情がある』と言っていたのは、こういう事態が起こると想定していたんですね」
「そうよ」
はーっと雪梅はため息をついた。
「しょっちゅうだったのよ。洗い物を尚服局の子に任せたら、汚れて返ってきたり、びりびりに破かれていたり」
「厨から食事を運ばせたら、ちょっとありえないくらい激辛だった、ってときもあったわねえ」
花里もおっとりと笑う。
「しかもそれで罰を受けるのは、実行犯の女官でさ、やらせた妃じゃないんだもんね。そんなの、かわいそうだもの」
香鈴も頷いた。
つまり、瑛琳妃は妃たち──おそらく玉璇妃から嫌がらせを受けていた。玉璇妃は下級女官に嫌がらせを命じ、発覚した場合の足切り要員にしていた、と。
「そういうのが続いてたのよ。瑛琳様は気にしなきゃいいっておっしゃっていたし、実行した女官たちの減刑も主上に訴えてくれていたけど」
はーっと雪梅がため息をつく。言わんとすることは麗麗にもわかった。
その瑛琳妃の優しさが、逆になめられてしまう要因でもあるのだろう。この妃はなにをしても許してくれる、なんて噂が立とうものなら、喜んで嫌がらせをする妃たちは多いはずだ。後宮とはそういうところである。
「だから、女官が減ったのはある意味よかったの。ああいうのはだいたい、不特定多数に紛れ込んでくるから。顔も性格も知っている女官だったら、警戒する必要はほとんどないしね」
「さっき、なんで毒を入れないのかって麗麗は言っていたでしょう? あれもわざとなのよ」
花里がふうっと息をつく。
「毒を入れたら、さすがに大事になるでしょう。死人も出るし。そうしたら、いくら瑛琳様でも黙っちゃいないわ。やった人を徹底的に追及し、処罰しようとなさるはずよ。それを玉璇妃もわかっていて、だからこういう、すれすれの嫌がらせをしてくるのよ」
なんだかむかむかしてきた麗麗である。
厳罰に処されないいじめほどやっかいなものはない。
頭もよく、底意地の悪いやつほど怒られないぎりぎりのところを責めるのだ。ちょっと上履きを隠したり、鞄を別のところに移したり、自分の席に常に誰かが座っているように仕向けたり、チャットグループや打ち上げに自分だけ誘われなかったり……枚挙に暇がない。
『反応しなければいじめは終わる』と、しかつめらしく説教する輩もいるが、阿呆かと思う。
なぜ嫌なことをされて、黙っていなければならないのか。嵐が過ぎるのを待つだけで、いじめたやつらはなんの咎めもなしにのうのうと生活する。なぜそれが許されるのか。
今回の件もきっと瑛琳妃は笑って許すに違いない。『実害がないのだから放っておけ』と言う瑛琳妃は容易に想像できる。
しかし、麗麗は瑛琳妃が好きだった。あの朗らかで優しい妃が理不尽な目に遭っていると考えるだけで、胸の中で湯が沸騰するかのような感情が湧き上がる。
麗麗はまあ、平たく言うと怒っていたのである。
(許してなるものかって感じだよね)
さて、と雪梅は先ほどの女官が落とした袋をつまみ上げた。
「私はこの件を報告してくるわ。三人はお茶をお願い。もう刻がないでしょう?」
踵を返そうとする雪梅の肩を、麗麗はがしっと捕まえた。
「ちょっとお待ちを」
「なによ」
「いえ。このままでは大変悔しいので、ひと泡吹かせてやりませんか」
負けず嫌いがむくむくと顔を出した。
(おい玉璇妃っ! ぎゃふんと言わせてやるからな!)



