季節は秋と冬の中間といったところか。冷たくなってきた風を受けながら、麗麗は洗い場に干してあった服を取り込んだ。
洗い場は寒い。水場だから仕方ないのだが、風通しのいい場所を選んで作られているので、なにしろ冷えるのだ。この季節は吹き下ろすような風が痛いくらいである。
(し、死ぬ)
がくがく震えながら洗い物を取り込むと、急いで深藍宮へと向かう。
歩揺の件は、あれからなにも音沙汰はない。調査中か、あるいは麗麗には話せない類いのことか。なんにしても呼び出しがないということは平穏であるという証左だ。
よいせ、と籠を持ち直す。秋の夕暮れは日が落ちるのが早い。もう空の下の方には幾ばくかの星が瞬き始めている。
思わず麗麗は籠を置き、天を仰いでじいっと眺めた。
ひとつふたつ輝くばかりだった星は、闇が深まるにつれて仙術のように増えていく。この瞬間を見るたびに、麗麗は胸の中がそわそわするような、なんとも言えない感情に襲われるのだ。
(そろそろ、星の観察を再開したいなあ)
深藍宮に配属になる前は、しょっちゅう星を見ていた。大勢いる女官がひとり欠けたところで大して心配されないのをいいことに、夜に抜け出しては天を見上げる毎日だったのだ。
この世界に転生してきて一番嬉しかったのは、星がとんでもなく美しいという点だった。多少の篝火や吊り灯籠はあるが、それでも前の世界とは比べものにならないほど夜の闇は深い。そしてその分、天の星は光り輝いている。
(すごいよね。肉眼で天の川とか見えちゃうんだからさ)
あまりに星が見えるのでわかりづらいが、星の並びを確認すると、すぐに見つかるはずの既知の星座すら見当たらない。やはりここは異世界であり、佐々木愛子がいた世界とは繋がっていないようなのだ。
(と、なると、もっと詳しく調べてみたくなるってもんよね)
ああ、専門器具が欲しい。あの夜空に光り輝く星たちを、もうちょっとだけ拡大して見てみたい。
(薄い硝子とかがあれば、最高なんだけどな)
びゅう、と風が吹いた。はっと気づくと、夕方の気配は消え、とっぷりと夜が更けている。さっきまであちこちにいた女官たちがいなくなっていた。
(やばっ)
慌てて籠を持ち上げる。えっちらおっちら深藍宮に戻ると、仁王立ちで待っている者がいた。
「あっ、麗麗、やっと帰ってきた!」
頰を膨らましたのは香鈴だった。眉をつり上げてぷんすこしている。いつもはゆるっときゃぴっとしているのに、なにやらご機嫌斜めのようだ。
「おっそい!」
「すみません」
素直に頭を下げる。
「あとは麗麗だけなんだからね!」
はて、なんのことだろう。
首をかしげた麗麗の手から籠を奪った香鈴は、その場にどすんと置いた。
「香鈴?」
「ほら、行くよ!」
ぐいぐいと手を引っ張られて連れていかれたのは、麗麗が客間だと認識している房だった。しかし、別の意味ではいつもの房とは呼べなくなっていたのである。
「なんです、これは」
思わず香鈴を振り返る。
房の中には所狭しとさまざまな服が置かれている。女官たち──雪梅も花里もやたらめったら着飾っており、大変煌びやかだ。その様子を椅子に腰かけて楽しげに見ている瑛琳妃も美しく着飾っていた。
「もー、今朝言ったじゃん! 明日は『百茗の宴』だよって。その準備があるから、夜は衣装選びするって!」
(あ、忘れてた)
麗麗の表情を見た香鈴が、やれやれと首を振った。
百茗の宴とは、つまり大規模なお茶会である。花がなくなる寒々しい季節にお茶をし、香りと味わいで日々を彩ろうということらしい。妃はそれぞれお勧めの茶を持ち寄り、味や色の美しさを競うのが伝統なのだという。
参加するのは瑛琳妃や玉璇妃などの四夫人と、その下に続く妃たち。そして皇帝だ。本来ならここに皇后、皇太后も含まれるが、現後宮では不在である。
たかがお茶会。されどお茶会。皇帝が来て、四夫人がそろい踏みともなれば、ただのお茶会ですむはずもない。
「瑛琳様はどんなお茶をお出しするのですか」
「普通のお茶じゃつまらないからね。実家が取り寄せている西方から持ち込んだ、花の茶を出そうかと」
瑛琳妃のご実家はとても裕福な商人なのだそうだ。さまざまな国と取引をしているため、珍しいものも手に入りやすい。『普通のお茶じゃつまらない』ということは、典型的な薬草茶ではないのだろうな、とあたりをつけた。
「主上が一番気に入ったお茶を出した宮には、ご褒美がもらえるのよ」
「絶対勝たないとね!」
香鈴と雪梅がめらめらと燃えている。
聞けば、こういった宴は、妃が評価される場なのだそうだ。今回の場合は茶だけで値踏みされるのではない。衣装、振る舞い、その他もろもろ、さまざまな角度から宮が評価される。だからこそ、衣装ひとつにも気合いを入れないといけないという。
宴という名の戦だなあ、と麗麗は思った。
「前は珊瑚宮の子たちに散々『地味』ってけなされたのよね。悔しいったら!」
きーっと爪を嚙む雪梅の言葉に、うなずいたのは香鈴である。
「あの宮の子たちは品というものを理解できないんだよ。ごてごて飾り立てればいいと思ってるんだから、かわいそうだよね」
可愛い顔をしているのに、香鈴は辛辣だ。目をきゅるっと輝かせながら吐くような台詞じゃない。
「さ、それよりも衣装衣装!」
香鈴がにぱにぱ笑いながら、衣装を両手に持って近づいてきた。
「麗麗にはどれが似合うかな~」
ものすごい圧である。普段のゆるきゃぴな雰囲気はどこへいったのか。
用意されていた衣装はすべて青系だった。青は深藍宮の色、ひいては瑛琳妃の色である。女官は仕えている妃に合わせた色の服を身に纏うのが暗黙の了解なのだ。
「とりあえず、青ければいいんじゃないですか」
「なに言ってんの!」
香鈴がまなじりをつり上げる。
「青って二百色くらいあるんだよ!」
なんかどっかで似たような言葉を聞いたな。ああ、前の人生か。
香鈴は麗麗の顔の下に衣装を次々と当てていく。とんでもない熱量の高さだ。目はらんらんと輝き、衣装を持つ手にも力がこもっている。
「あきらめて付き合え。香鈴はそれが生きがいなんだ」
からからと瑛琳妃が笑う。
「彼女に任せておけば問題ないわ。……まあ、多少大変かもしれないけれど」
「そうそう。香鈴はこういうのが得意だからね。助かっちゃうよね」
花里も雪梅もうんうんとうなずき合っている。
(なるほど、香鈴はおしゃれ番長ってことだね)
瑛琳妃は深い青色の衣装を着ていた。はっきりとした色合いは彼女の凜とした雰囲気にとてもよく似合っている。髪に挿している櫛や簪も金色で、まるで神話に出てくる神様のような、威風堂々とした美しさだ。
花里も雪梅もそれぞれ彼女たちに似合った服装をしている。瑛琳妃ほど着飾っているわけではないが、やはり女官もそれなりに見栄えのする格好をしなければ示しがつかないのだろう。
「麗麗は顔立ちが幼いけど、色が白いから濃いめの色が綺麗に出るね。雰囲気違っていいかも!」
目を輝かせた香鈴に、麗麗は首をかしげた。
「顔、幼いですか」
「うん。童女顔ってやつ。守ってあげたくなるような感じ」
それは知らなかった。そもそも鏡をのぞく習慣がないうえに、こちらの鏡は銅を磨き上げたものが主流なので、あまり細部まで映し出さないのだ。
香鈴が選んだ服を腕に通し、髪もちょろっといじってもらう。仕上げにぱたぱたと顔に粉などをはたかれ、細い筆で目尻に紅を引かれる。真剣なまなざしで筆を操っていた香鈴がぎょっと目を見張った。
「り、麗麗……!」
「おや、まあ」
瑛琳妃もぽかんと口を開けて、麗麗の顔をまじまじと見つめた。他のふたりの女官も、目を丸くして麗麗を凝視している。
「なんです?」
化粧が似合わなかったのだろうか。『落としてきましょうか』と言おうとした麗麗の肩を、雪梅ががしっとつかんだ。
「よくやったわ、麗麗」
「へっ?」
「これであのにっくき珊瑚宮のやつらを、ぎゃふんと言わせられるわ!」
「雪梅、言葉に気をつけなさい。だがしかし」
苦笑いをしていた瑛琳妃は、こほん、と咳払いひとつ。
「概ね同意だ」
さて、そんなこんなで百茗の宴である。
ちょっとした町よりも広い後宮の中では、野外で宴ができる場所が多数ある。百茗の宴はその中でも最も格式が高い南の院子で催されることになっていた。
妃は輿に乗るが、女官たちは歩きだ。宦官が持つ輿の後ろについて、しずしずと歩くので、当然寒い。
この寒い時期になぜ野外で、と思わないでもない。それを素直に花里に愚痴ると、彼女は頰に手を添えて教えてくれた。
「お茶に使う水はね、井戸の水じゃだめなのよ」
「はあ」
「あの院子には湧き水があってね。その水がお茶には最適なの。だからそこで宴をするのよ」
まあ、わからない話ではなかった。水は大事だ。それこそ成分によって味ががらりと変わるだろう。そういう意味では、お茶を入れるのも実験と言えるのかもしれない。水の種類を変えて同じ茶を同じ条件で入れたらどうなるか、とても、とても気になる。端から見たらお茶を入れているようにしか思われないし。
(今度やってみよう)
後宮で飲料水を汲めるところはどこだろう。脳内地図を働かせながら歩くこと数刻、ようやく会場である院子へとついた。
(すご)
亭子というにはあまりに広い屋根付きの建物。その下にはご丁寧に敷物が敷かれていた。
北側中央に設えられたご立派な肘付きの椅子は皇帝用だろう。その左右には宦官が眼光鋭く立っている。後宮によくいるような、柳のなよやかさを持つ宦官ではない。どう考えても武闘派の、肉体訓練ばっちりですと言わんばかりの体つきをしている。
妃たちはそれぞれ座る場所が決まっているようだった。
皇帝が中心で、当然上座だ。その一段下がった東と西にそれぞれふたりずつ四夫人の席が設けられている。その他の妃たちは南側にごそっとまとめられていた。
皇帝、プラス四夫人と、その他妃の間には巨大な空間が空いている。ここでどうやら出し物があるらしい。これでは、南側の妃たちには皇帝の姿は豆粒のようにしか見えないだろう。なんともわかりやすい格差社会だ。
そして、女官たちには席なんていうものは当然ない。ぐるっと宴会場を取り囲む風よけ用の幕の近くで慎ましやかに控え、小主を見守るのが仕事である。
この幕はいわば裏側といったところか。裏では大勢の宦官や、それぞれの女官たちが右往左往している。
「見て、麗麗、玉璇妃よ」
雪梅が麗麗を肘でつついた。
瑛琳妃の隣の席に、賢妃・玉璇が腰を下ろした。今日も相変わらず煌びやかな格好だ。赤や桃色を基調とした服は確かに見目鮮やかだが、麗麗の好みでいうとやはり派手すぎる。櫛や簪の重さで頭ががくんと折れやしないだろうか、なんて考えてしまう。
玉璇妃に仕えている女官たちも、麗麗たちと同じように幕の近くに控えた。小主の席が隣同士なので、当然女官たちも隣だ。ふっと目が合ったので軽く会釈すると、なぜかものすごい顔をされた。
隣では雪梅が笑いをこらえている。香鈴も花里もおのおの口を押さえてくの字になっていた。
「ざまあみろだわ」
雪梅が目尻にたまった涙をぬぐう。
「あいつら、麗麗の変わりっぷりにど肝を抜かれてんのよ」
「香鈴の腕もあるけれど、麗麗は逸材だったわねぇ」
花里の言葉に、おしゃれ番長・香鈴がしたり顔でうなずく。
「幼めの顔立ちの人って、化粧するととんでもないことになるときがあるんだよね。麗麗はその典型」
自分だって栗鼠みたいな顔してるくせに。幼い顔立ちで言えば、この中では香鈴が一番だと思うが。
「今、『お前人のこと言えないだろ』って思ったでしょ」
「はい」
顔に出ていたのだろう。抵抗しても仕方がないので素直にうなずくと、香鈴はぷくーっと頰を膨らませた。
「私の〝幼い〟と麗麗の〝幼い〟は違うもん」
「どこがどう違うのでしょう」
「麗麗はさ、ちょっと影のある幼さなんだよね。なんていうのかな、こう……手荒に扱ったら壊れちゃいそうっていうか。儚い感じ?」
まじまじと麗麗の顔を見て、香鈴は満足げにうなずいた。
「そういう顔立ちの子が化粧するとね、はっとするような色気が出るの。すごいよ麗麗。今、立派な傾国美女だもん。だから麗麗はね、逸材なの!」
よくはわからないが、容姿を褒められているのだろう。なんにしても、玉璇妃に仕える女官たちの鼻を明かすことができたのならなによりである。
瑛琳妃、玉璇妃の向かいの席には、それぞれ趣の違った美女たちが腰を下ろしていた。正一品の位を与えられた四夫人がそろい踏みである。
おさらいをしよう。
後宮で暮らす妃たちには、厳密な階級がある。
頂点に立つのは皇帝の配偶者、皇后だ。皇帝が外廷を治めるなら、皇后は内廷──後宮を治める、絶対的な権力者である。ちなみに、皇后がいないときは皇太后──皇帝の生母が権力をふるう。
しかし今の焱国には、皇后も皇太后も不在である。よって、上座のすぐそばにいるこの四夫人が、今の後宮の頂点ということになる。
(仲がいいわけがないんだなあ)
玉璇妃が瑛琳妃を敵視しているように、他のふたりの妃嬪にも、なにかしらの確執があったりするのだろうか。
「麗麗はまだ、貴妃と徳妃にはお会いしてないんだっけ」
興味深く観察していたのがばれたのだろう。雪梅が小声で説明してくれる。
「瑛琳様の向かいにいらっしゃる、黒の襦裙を着ている方が貴妃、黎蘭様よ」
「……美しい方ですね。胡人ですか」
「そう聞いてる。本当に美しいわよね。もちろん、うちの瑛琳妃にはかなわないけど!」
胡人とは、いわゆる異国民である。遠い地から来たという瑛琳妃も広い意味では胡人だが、黎蘭妃はもっとわかりやすい外見の特徴があった。
(金髪だあ……)
なまじ黒い服を着ているものだから、金色がとんでもなく映える。すっと通った鼻筋も、彫りの深い顔立ちも、中央にはない美しさだ。
「で、そのお隣が徳妃。白蓮様よ」
白蓮妃は白を基調とした衣装を身に纏っていた。墨を刷いたような黒髪を豊かに結い上げた姿は仙女のようだ。特徴的なのが、口布をしていることである。
「白蓮様はとってもお優しいって有名なの。美しいだけではなく、心も仙女なんだってみんな言ってるわ。まあ、その他にも……いろいろな噂がある方なんだけど、女官たちの間でも支持者が多いわね」
(へえ……)
「今の妃嬪様方は皆様、最近後宮に入ったばかりだから、地位争いも大変よね。まあ、付き従ってる私たちも大変だけど」
「なんですって?」
新情報だ。また顔に出ていたのだろう、雪梅は肩をすくめた。
「麗麗だってその口でしょ?」
「どの口ですか」
「うそ。本当にわかってない?」
ぎょっと目をむかれた麗麗である。
さすがにこれはまずいと思ったのだろうか、雪梅はすばやくあたりに目を向けた。
そして、麗麗の袖を引っ張り、幕の裏側へと連れ出した。他の宦官や女官たちと十分な距離を取ってから、それでも周囲に視線を光らせつつ怖い顔で口を開いた。
「麗麗も、一年前の後宮総入れ替えに乗じて入内したんでしょ、って言いたかったのよ。この国の後宮が先帝の御代に一度すべて解体されたのは、当然知ってるわね?」
当然知らない。麗麗の知識にはない情報だった。
「すみません。いちから教えてもらえますか」
「……わかった。知っておかないと、これからの立ち振る舞いにも影響が出そうだもんね」
雪梅はふーっと息をつくと、口を開いた。
曰く、今の皇帝の二代前──羅帝はとんでもない愚帝だったのだそうだ。その羅帝が亡くなり、次に登極した先代皇帝──龍帝は、思いきった施策を取った。後宮の解体である。
「というのも、身罷られた羅帝は、妃たちの言いなりだったのよ。特にひどかったのが時の皇后様で──ってのはいったん今は省くけど。とにかく、後宮の妃嬪様方は皆、好き放題やっていたみたい。それを憂いて、龍帝は後宮の妃、女官たちをすべて解放したの。一度この後宮は空になったのよ」
「はあ」
「で、今の主上が登極されたとき、妃たちを選定し直したのね。それが今の後宮なの。だから、私たち含め妃嬪様方は皆様、地位が安定していないのよ」
ん?と麗麗は引っかかりを覚えた。
「今、皇帝が三人出てきました?」
尋ねると、雪梅は呆れたような顔をした。
「麗麗。まさかとは思うけど、本当に覚えてないの? 龍帝は登極してすぐにお亡くなりになったじゃない。今の主上は、龍帝の腹違いの弟君なのよ」
言われて麗麗は記憶を探った。うっすらと、養家でそんな話を聞いたような気もするが、やはり覚えていなかった。どうやらそういったことに関しては興味が向かなかったようだ。
「つまり、二代前の皇帝──羅帝がお亡くなりになったあと、登極されたのが先代皇帝、龍帝ということですか」
「そうよ」
「で、その龍帝は登極後に後宮を解体して、すぐに崩御されたと」
「そう!」
「身罷られた龍帝の腹違いの弟様が登極された。それが今の主上である。……これで、合ってますか」
麗麗に聞かれ、はーっと雪梅はもう一度深いため息をついた。
「合ってる。……麗麗、今度改めて一緒にお勉強しようね」
勉強したとて、覚えていられる自信がなかった。まあ複雑なんだなって思っておけばいいか、と開き直る麗麗である。
妃たちが全員、席に着いたのを確認したのだろう。太鼓の音が響く。皇帝が到着し、百茗の宴の始まりである。
お茶を楽しむ会とのことだが、まあ普通に宴である。最初は宮妓──宮城に仕える踊り子たちの踊りを存分に堪能する。その次は剣舞、そしてその次は……とたくさんの出し物がある。第一部というところだ。肝心のお茶会は第二部になるらしい。
妃付きの女官たちは、出し物が行われている間は幕の後ろに下がってもいいと言われていた。もちろん前で控えていてもいいのだが、皇帝に丸見えの空間で気が休まるわけがない。ありがたく下がらせてもらった。
どんちゃん騒ぎが行われているので、幕の裏側では多少の私語は許される。
それをいいことに、あちらこちらで情報収集という名の、女官たちによる井戸端会議が始まっている。そんな折、「きゃあっ」という小さな悲鳴が聞こえた。
(来たな)
この悲鳴を出させる主を麗麗は知っている。視線を向ければ案の定、冥焔である。
相変わらずの青灰色、宦官の象徴である衣服に袖を通しているが、その生地は他の宦官のものよりもはるかに上等に見えた。腰にじゃらりと佩玉を下げた姿も威風堂々としており、大変見目麗しい。
冥焔は場内をぐるりと回っている。後宮の管理を任されているという話であるから、宴の最終確認などをしているのだろうと推測した。
彼が動くたびにあちこちから小さな嬌声が響くのは、なんというか、見ていてちょっとおもしろかった。
(歩く悲鳴製造機だね)
あらかた確認し終えたのだろう。冥焔はすっとこちらに近づいてくる。
隣の雪梅が浮き足立った。他の女官たちもそわそわと服の裾を直すなどしている。よほどあの宦官が気になるのだろう。
とはいえ、麗麗もなんとなくわかった。今日この場でたくさんの宦官を見たからかもしれないが。
宦官は大切なところを失った弊害で、身体的に特徴が出る。ひげが抜け落ちたり、声が高くなったりとさまざまなのだが、幼い頃に性を失った宦官が、この傾向にある。逆に、体がすっかりできあがってから宦官になった者には雄々しさを残す者がいる。
冥焔は後者だ。体つきも声も、しっかり男なのだ。その上であの美しい見た目で、後宮の管理だけでなく皇帝の側近という肩書きまでついている。多少対応が塩だったとしても、目の色を変える女性たちがいるのもむべなるかな。
冥焔は瑛琳妃とひとことふたこと会話をすると、そのまますーっと麗麗たちの方へとやってきた。
おや、と麗麗は首をかしげる。
決して長くはない付き合いだ。しかし、それなりにこの宦官の顔は見慣れてきた。ある程度、表情は読めるようになったと言ってもいい。その冥焔であるが、今日はやたらと表情が硬い。
「ごきげんよう、冥焔様」
花里がふわっと微笑みながら礼を取る。他のふたりの女官も同様に、膝を折った。麗麗も同じように膝を折るが……。
「あの女官はどうした」
(ここにいるけど)
冥焔はぐるりと周りを見回している。まじかと麗麗は思う。目の前で膝を折っているのが見えないのだろうか。
雪梅がにやっと笑う。
「あの女官とは、麗麗のことでしょうか」
「そうだ。まさか出席せず、怠けているのか?」
軽く鼻を鳴らすようにして冥焔が言い放った。
さすがにこれには腹が立つ。むかっ腹を抱えた麗麗は礼を解き、顔を上げた。
「冥焔様、誰が怠けていると?」
冥焔はぎょっとしたように麗麗を見た。
「……女官か!?」
「はい」
「お前……」
「なんでしょう」
「いや、なんでもない」
なんでもないようには見えないが。冥焔はおもむろに咳払いをし、指をくいっと上に曲げた。ついてこいということか。
見れば、雪梅は満面の笑みで顔を赤くしているし、香鈴は目をきらきらさせている。花里は頰に手を添えて、「あらあら行ってらっしゃい」と柔らかく微笑んでいる。
人気のない場所まで来ると冥焔はぴたりと止まり、あたりを見回した。
「冥焔様、またなにかおかしな事件でも?」
こうやって冥焔が呼び出すときは、なにかしら問題が起きているときだ。それを警戒したのだが、冥焔は首を振った。
「いや、違う」
「では、なぜ私を呼び出したのです」
「ああ、それは、だな」
突然たどたどしくなる冥焔に、麗麗は首をかしげた。
「いや、その前に。お前、その顔はどうした」
「化粧ですか? 香鈴がしてくれたんですよ」
「服も違う。やたら、ひらひらしているではないか」
「当たり前でしょう。宴なんですから。冥焔様だって今日はいつもより上等の服を着ていらっしゃるではありませんか」
なにを言っているのだ、この宦官は。
「それで、私になんの用事です?」
「それが。そうだな。俺は、お前に、その……」
「聞こえませんよ」
麗麗はもごもごと口ごもる冥焔にぐいっと近づいた。しかし冥焔はなぜか視線を合わせない。
「だから、俺は。お前に、ほ……」
「ほ?」
冥焔はついに黙ってしまった。口はぎゅっと引き結ばれ、視線は泳ぎ、握りしめられたこぶしには力が入っている。
これは、もしや……。
「冥焔様、もしかして、おなか痛いんです?」
「……は?」
「先ほどから冷や汗もすごいですし。お顔もなんだか赤いようですし」
体調不良の相手には優しくしたほうがいい。人間皆、助け合いだ。困ったときはお互い様というではないか。
麗麗は袖から巾を取り出した。いつも袖で顔や手を拭いてしまう麗麗を憂いて、花里が持たせてくれているものだ。
「かがんでください」
「なぜ」
「ですから。手が届きません。汗を拭いて差し上げますから」
「違う、俺は別に──」
「遠慮なさらず」
ぐいぐいっと伸び上がって、麗麗は冥焔の額に手巾を当てようとした。その手をはしっと冥焔がつかむ。
「や、め、ろ……!」
ぐいーっと手を押し戻されて、麗麗は目をぱちくりさせる。先ほどよりももっと冥焔の顔が赤くなっている。さては我慢の限界か。
「失礼しました」
みんなの星、冥焔の冥焔がこんなところでまろび出てしまっては大変だ。麗麗はふっと腕の力を抜き、反動で前につんのめった冥焔の耳元で早急にささやいた。
「厠ならこの先に……!」
「……っ、もう知らん!」
顔を真っ赤にした冥焔が、大股でその場を去っていく。
怒らせてしまった。便意を指摘したことが、そんなに自尊心に触ったのだろうか。
(結局、なんのために呼ばれたんだ……?)
ぽつんとその場に取り残され、釈然としない麗麗であった。
洗い場は寒い。水場だから仕方ないのだが、風通しのいい場所を選んで作られているので、なにしろ冷えるのだ。この季節は吹き下ろすような風が痛いくらいである。
(し、死ぬ)
がくがく震えながら洗い物を取り込むと、急いで深藍宮へと向かう。
歩揺の件は、あれからなにも音沙汰はない。調査中か、あるいは麗麗には話せない類いのことか。なんにしても呼び出しがないということは平穏であるという証左だ。
よいせ、と籠を持ち直す。秋の夕暮れは日が落ちるのが早い。もう空の下の方には幾ばくかの星が瞬き始めている。
思わず麗麗は籠を置き、天を仰いでじいっと眺めた。
ひとつふたつ輝くばかりだった星は、闇が深まるにつれて仙術のように増えていく。この瞬間を見るたびに、麗麗は胸の中がそわそわするような、なんとも言えない感情に襲われるのだ。
(そろそろ、星の観察を再開したいなあ)
深藍宮に配属になる前は、しょっちゅう星を見ていた。大勢いる女官がひとり欠けたところで大して心配されないのをいいことに、夜に抜け出しては天を見上げる毎日だったのだ。
この世界に転生してきて一番嬉しかったのは、星がとんでもなく美しいという点だった。多少の篝火や吊り灯籠はあるが、それでも前の世界とは比べものにならないほど夜の闇は深い。そしてその分、天の星は光り輝いている。
(すごいよね。肉眼で天の川とか見えちゃうんだからさ)
あまりに星が見えるのでわかりづらいが、星の並びを確認すると、すぐに見つかるはずの既知の星座すら見当たらない。やはりここは異世界であり、佐々木愛子がいた世界とは繋がっていないようなのだ。
(と、なると、もっと詳しく調べてみたくなるってもんよね)
ああ、専門器具が欲しい。あの夜空に光り輝く星たちを、もうちょっとだけ拡大して見てみたい。
(薄い硝子とかがあれば、最高なんだけどな)
びゅう、と風が吹いた。はっと気づくと、夕方の気配は消え、とっぷりと夜が更けている。さっきまであちこちにいた女官たちがいなくなっていた。
(やばっ)
慌てて籠を持ち上げる。えっちらおっちら深藍宮に戻ると、仁王立ちで待っている者がいた。
「あっ、麗麗、やっと帰ってきた!」
頰を膨らましたのは香鈴だった。眉をつり上げてぷんすこしている。いつもはゆるっときゃぴっとしているのに、なにやらご機嫌斜めのようだ。
「おっそい!」
「すみません」
素直に頭を下げる。
「あとは麗麗だけなんだからね!」
はて、なんのことだろう。
首をかしげた麗麗の手から籠を奪った香鈴は、その場にどすんと置いた。
「香鈴?」
「ほら、行くよ!」
ぐいぐいと手を引っ張られて連れていかれたのは、麗麗が客間だと認識している房だった。しかし、別の意味ではいつもの房とは呼べなくなっていたのである。
「なんです、これは」
思わず香鈴を振り返る。
房の中には所狭しとさまざまな服が置かれている。女官たち──雪梅も花里もやたらめったら着飾っており、大変煌びやかだ。その様子を椅子に腰かけて楽しげに見ている瑛琳妃も美しく着飾っていた。
「もー、今朝言ったじゃん! 明日は『百茗の宴』だよって。その準備があるから、夜は衣装選びするって!」
(あ、忘れてた)
麗麗の表情を見た香鈴が、やれやれと首を振った。
百茗の宴とは、つまり大規模なお茶会である。花がなくなる寒々しい季節にお茶をし、香りと味わいで日々を彩ろうということらしい。妃はそれぞれお勧めの茶を持ち寄り、味や色の美しさを競うのが伝統なのだという。
参加するのは瑛琳妃や玉璇妃などの四夫人と、その下に続く妃たち。そして皇帝だ。本来ならここに皇后、皇太后も含まれるが、現後宮では不在である。
たかがお茶会。されどお茶会。皇帝が来て、四夫人がそろい踏みともなれば、ただのお茶会ですむはずもない。
「瑛琳様はどんなお茶をお出しするのですか」
「普通のお茶じゃつまらないからね。実家が取り寄せている西方から持ち込んだ、花の茶を出そうかと」
瑛琳妃のご実家はとても裕福な商人なのだそうだ。さまざまな国と取引をしているため、珍しいものも手に入りやすい。『普通のお茶じゃつまらない』ということは、典型的な薬草茶ではないのだろうな、とあたりをつけた。
「主上が一番気に入ったお茶を出した宮には、ご褒美がもらえるのよ」
「絶対勝たないとね!」
香鈴と雪梅がめらめらと燃えている。
聞けば、こういった宴は、妃が評価される場なのだそうだ。今回の場合は茶だけで値踏みされるのではない。衣装、振る舞い、その他もろもろ、さまざまな角度から宮が評価される。だからこそ、衣装ひとつにも気合いを入れないといけないという。
宴という名の戦だなあ、と麗麗は思った。
「前は珊瑚宮の子たちに散々『地味』ってけなされたのよね。悔しいったら!」
きーっと爪を嚙む雪梅の言葉に、うなずいたのは香鈴である。
「あの宮の子たちは品というものを理解できないんだよ。ごてごて飾り立てればいいと思ってるんだから、かわいそうだよね」
可愛い顔をしているのに、香鈴は辛辣だ。目をきゅるっと輝かせながら吐くような台詞じゃない。
「さ、それよりも衣装衣装!」
香鈴がにぱにぱ笑いながら、衣装を両手に持って近づいてきた。
「麗麗にはどれが似合うかな~」
ものすごい圧である。普段のゆるきゃぴな雰囲気はどこへいったのか。
用意されていた衣装はすべて青系だった。青は深藍宮の色、ひいては瑛琳妃の色である。女官は仕えている妃に合わせた色の服を身に纏うのが暗黙の了解なのだ。
「とりあえず、青ければいいんじゃないですか」
「なに言ってんの!」
香鈴がまなじりをつり上げる。
「青って二百色くらいあるんだよ!」
なんかどっかで似たような言葉を聞いたな。ああ、前の人生か。
香鈴は麗麗の顔の下に衣装を次々と当てていく。とんでもない熱量の高さだ。目はらんらんと輝き、衣装を持つ手にも力がこもっている。
「あきらめて付き合え。香鈴はそれが生きがいなんだ」
からからと瑛琳妃が笑う。
「彼女に任せておけば問題ないわ。……まあ、多少大変かもしれないけれど」
「そうそう。香鈴はこういうのが得意だからね。助かっちゃうよね」
花里も雪梅もうんうんとうなずき合っている。
(なるほど、香鈴はおしゃれ番長ってことだね)
瑛琳妃は深い青色の衣装を着ていた。はっきりとした色合いは彼女の凜とした雰囲気にとてもよく似合っている。髪に挿している櫛や簪も金色で、まるで神話に出てくる神様のような、威風堂々とした美しさだ。
花里も雪梅もそれぞれ彼女たちに似合った服装をしている。瑛琳妃ほど着飾っているわけではないが、やはり女官もそれなりに見栄えのする格好をしなければ示しがつかないのだろう。
「麗麗は顔立ちが幼いけど、色が白いから濃いめの色が綺麗に出るね。雰囲気違っていいかも!」
目を輝かせた香鈴に、麗麗は首をかしげた。
「顔、幼いですか」
「うん。童女顔ってやつ。守ってあげたくなるような感じ」
それは知らなかった。そもそも鏡をのぞく習慣がないうえに、こちらの鏡は銅を磨き上げたものが主流なので、あまり細部まで映し出さないのだ。
香鈴が選んだ服を腕に通し、髪もちょろっといじってもらう。仕上げにぱたぱたと顔に粉などをはたかれ、細い筆で目尻に紅を引かれる。真剣なまなざしで筆を操っていた香鈴がぎょっと目を見張った。
「り、麗麗……!」
「おや、まあ」
瑛琳妃もぽかんと口を開けて、麗麗の顔をまじまじと見つめた。他のふたりの女官も、目を丸くして麗麗を凝視している。
「なんです?」
化粧が似合わなかったのだろうか。『落としてきましょうか』と言おうとした麗麗の肩を、雪梅ががしっとつかんだ。
「よくやったわ、麗麗」
「へっ?」
「これであのにっくき珊瑚宮のやつらを、ぎゃふんと言わせられるわ!」
「雪梅、言葉に気をつけなさい。だがしかし」
苦笑いをしていた瑛琳妃は、こほん、と咳払いひとつ。
「概ね同意だ」
さて、そんなこんなで百茗の宴である。
ちょっとした町よりも広い後宮の中では、野外で宴ができる場所が多数ある。百茗の宴はその中でも最も格式が高い南の院子で催されることになっていた。
妃は輿に乗るが、女官たちは歩きだ。宦官が持つ輿の後ろについて、しずしずと歩くので、当然寒い。
この寒い時期になぜ野外で、と思わないでもない。それを素直に花里に愚痴ると、彼女は頰に手を添えて教えてくれた。
「お茶に使う水はね、井戸の水じゃだめなのよ」
「はあ」
「あの院子には湧き水があってね。その水がお茶には最適なの。だからそこで宴をするのよ」
まあ、わからない話ではなかった。水は大事だ。それこそ成分によって味ががらりと変わるだろう。そういう意味では、お茶を入れるのも実験と言えるのかもしれない。水の種類を変えて同じ茶を同じ条件で入れたらどうなるか、とても、とても気になる。端から見たらお茶を入れているようにしか思われないし。
(今度やってみよう)
後宮で飲料水を汲めるところはどこだろう。脳内地図を働かせながら歩くこと数刻、ようやく会場である院子へとついた。
(すご)
亭子というにはあまりに広い屋根付きの建物。その下にはご丁寧に敷物が敷かれていた。
北側中央に設えられたご立派な肘付きの椅子は皇帝用だろう。その左右には宦官が眼光鋭く立っている。後宮によくいるような、柳のなよやかさを持つ宦官ではない。どう考えても武闘派の、肉体訓練ばっちりですと言わんばかりの体つきをしている。
妃たちはそれぞれ座る場所が決まっているようだった。
皇帝が中心で、当然上座だ。その一段下がった東と西にそれぞれふたりずつ四夫人の席が設けられている。その他の妃たちは南側にごそっとまとめられていた。
皇帝、プラス四夫人と、その他妃の間には巨大な空間が空いている。ここでどうやら出し物があるらしい。これでは、南側の妃たちには皇帝の姿は豆粒のようにしか見えないだろう。なんともわかりやすい格差社会だ。
そして、女官たちには席なんていうものは当然ない。ぐるっと宴会場を取り囲む風よけ用の幕の近くで慎ましやかに控え、小主を見守るのが仕事である。
この幕はいわば裏側といったところか。裏では大勢の宦官や、それぞれの女官たちが右往左往している。
「見て、麗麗、玉璇妃よ」
雪梅が麗麗を肘でつついた。
瑛琳妃の隣の席に、賢妃・玉璇が腰を下ろした。今日も相変わらず煌びやかな格好だ。赤や桃色を基調とした服は確かに見目鮮やかだが、麗麗の好みでいうとやはり派手すぎる。櫛や簪の重さで頭ががくんと折れやしないだろうか、なんて考えてしまう。
玉璇妃に仕えている女官たちも、麗麗たちと同じように幕の近くに控えた。小主の席が隣同士なので、当然女官たちも隣だ。ふっと目が合ったので軽く会釈すると、なぜかものすごい顔をされた。
隣では雪梅が笑いをこらえている。香鈴も花里もおのおの口を押さえてくの字になっていた。
「ざまあみろだわ」
雪梅が目尻にたまった涙をぬぐう。
「あいつら、麗麗の変わりっぷりにど肝を抜かれてんのよ」
「香鈴の腕もあるけれど、麗麗は逸材だったわねぇ」
花里の言葉に、おしゃれ番長・香鈴がしたり顔でうなずく。
「幼めの顔立ちの人って、化粧するととんでもないことになるときがあるんだよね。麗麗はその典型」
自分だって栗鼠みたいな顔してるくせに。幼い顔立ちで言えば、この中では香鈴が一番だと思うが。
「今、『お前人のこと言えないだろ』って思ったでしょ」
「はい」
顔に出ていたのだろう。抵抗しても仕方がないので素直にうなずくと、香鈴はぷくーっと頰を膨らませた。
「私の〝幼い〟と麗麗の〝幼い〟は違うもん」
「どこがどう違うのでしょう」
「麗麗はさ、ちょっと影のある幼さなんだよね。なんていうのかな、こう……手荒に扱ったら壊れちゃいそうっていうか。儚い感じ?」
まじまじと麗麗の顔を見て、香鈴は満足げにうなずいた。
「そういう顔立ちの子が化粧するとね、はっとするような色気が出るの。すごいよ麗麗。今、立派な傾国美女だもん。だから麗麗はね、逸材なの!」
よくはわからないが、容姿を褒められているのだろう。なんにしても、玉璇妃に仕える女官たちの鼻を明かすことができたのならなによりである。
瑛琳妃、玉璇妃の向かいの席には、それぞれ趣の違った美女たちが腰を下ろしていた。正一品の位を与えられた四夫人がそろい踏みである。
おさらいをしよう。
後宮で暮らす妃たちには、厳密な階級がある。
頂点に立つのは皇帝の配偶者、皇后だ。皇帝が外廷を治めるなら、皇后は内廷──後宮を治める、絶対的な権力者である。ちなみに、皇后がいないときは皇太后──皇帝の生母が権力をふるう。
しかし今の焱国には、皇后も皇太后も不在である。よって、上座のすぐそばにいるこの四夫人が、今の後宮の頂点ということになる。
(仲がいいわけがないんだなあ)
玉璇妃が瑛琳妃を敵視しているように、他のふたりの妃嬪にも、なにかしらの確執があったりするのだろうか。
「麗麗はまだ、貴妃と徳妃にはお会いしてないんだっけ」
興味深く観察していたのがばれたのだろう。雪梅が小声で説明してくれる。
「瑛琳様の向かいにいらっしゃる、黒の襦裙を着ている方が貴妃、黎蘭様よ」
「……美しい方ですね。胡人ですか」
「そう聞いてる。本当に美しいわよね。もちろん、うちの瑛琳妃にはかなわないけど!」
胡人とは、いわゆる異国民である。遠い地から来たという瑛琳妃も広い意味では胡人だが、黎蘭妃はもっとわかりやすい外見の特徴があった。
(金髪だあ……)
なまじ黒い服を着ているものだから、金色がとんでもなく映える。すっと通った鼻筋も、彫りの深い顔立ちも、中央にはない美しさだ。
「で、そのお隣が徳妃。白蓮様よ」
白蓮妃は白を基調とした衣装を身に纏っていた。墨を刷いたような黒髪を豊かに結い上げた姿は仙女のようだ。特徴的なのが、口布をしていることである。
「白蓮様はとってもお優しいって有名なの。美しいだけではなく、心も仙女なんだってみんな言ってるわ。まあ、その他にも……いろいろな噂がある方なんだけど、女官たちの間でも支持者が多いわね」
(へえ……)
「今の妃嬪様方は皆様、最近後宮に入ったばかりだから、地位争いも大変よね。まあ、付き従ってる私たちも大変だけど」
「なんですって?」
新情報だ。また顔に出ていたのだろう、雪梅は肩をすくめた。
「麗麗だってその口でしょ?」
「どの口ですか」
「うそ。本当にわかってない?」
ぎょっと目をむかれた麗麗である。
さすがにこれはまずいと思ったのだろうか、雪梅はすばやくあたりに目を向けた。
そして、麗麗の袖を引っ張り、幕の裏側へと連れ出した。他の宦官や女官たちと十分な距離を取ってから、それでも周囲に視線を光らせつつ怖い顔で口を開いた。
「麗麗も、一年前の後宮総入れ替えに乗じて入内したんでしょ、って言いたかったのよ。この国の後宮が先帝の御代に一度すべて解体されたのは、当然知ってるわね?」
当然知らない。麗麗の知識にはない情報だった。
「すみません。いちから教えてもらえますか」
「……わかった。知っておかないと、これからの立ち振る舞いにも影響が出そうだもんね」
雪梅はふーっと息をつくと、口を開いた。
曰く、今の皇帝の二代前──羅帝はとんでもない愚帝だったのだそうだ。その羅帝が亡くなり、次に登極した先代皇帝──龍帝は、思いきった施策を取った。後宮の解体である。
「というのも、身罷られた羅帝は、妃たちの言いなりだったのよ。特にひどかったのが時の皇后様で──ってのはいったん今は省くけど。とにかく、後宮の妃嬪様方は皆、好き放題やっていたみたい。それを憂いて、龍帝は後宮の妃、女官たちをすべて解放したの。一度この後宮は空になったのよ」
「はあ」
「で、今の主上が登極されたとき、妃たちを選定し直したのね。それが今の後宮なの。だから、私たち含め妃嬪様方は皆様、地位が安定していないのよ」
ん?と麗麗は引っかかりを覚えた。
「今、皇帝が三人出てきました?」
尋ねると、雪梅は呆れたような顔をした。
「麗麗。まさかとは思うけど、本当に覚えてないの? 龍帝は登極してすぐにお亡くなりになったじゃない。今の主上は、龍帝の腹違いの弟君なのよ」
言われて麗麗は記憶を探った。うっすらと、養家でそんな話を聞いたような気もするが、やはり覚えていなかった。どうやらそういったことに関しては興味が向かなかったようだ。
「つまり、二代前の皇帝──羅帝がお亡くなりになったあと、登極されたのが先代皇帝、龍帝ということですか」
「そうよ」
「で、その龍帝は登極後に後宮を解体して、すぐに崩御されたと」
「そう!」
「身罷られた龍帝の腹違いの弟様が登極された。それが今の主上である。……これで、合ってますか」
麗麗に聞かれ、はーっと雪梅はもう一度深いため息をついた。
「合ってる。……麗麗、今度改めて一緒にお勉強しようね」
勉強したとて、覚えていられる自信がなかった。まあ複雑なんだなって思っておけばいいか、と開き直る麗麗である。
妃たちが全員、席に着いたのを確認したのだろう。太鼓の音が響く。皇帝が到着し、百茗の宴の始まりである。
お茶を楽しむ会とのことだが、まあ普通に宴である。最初は宮妓──宮城に仕える踊り子たちの踊りを存分に堪能する。その次は剣舞、そしてその次は……とたくさんの出し物がある。第一部というところだ。肝心のお茶会は第二部になるらしい。
妃付きの女官たちは、出し物が行われている間は幕の後ろに下がってもいいと言われていた。もちろん前で控えていてもいいのだが、皇帝に丸見えの空間で気が休まるわけがない。ありがたく下がらせてもらった。
どんちゃん騒ぎが行われているので、幕の裏側では多少の私語は許される。
それをいいことに、あちらこちらで情報収集という名の、女官たちによる井戸端会議が始まっている。そんな折、「きゃあっ」という小さな悲鳴が聞こえた。
(来たな)
この悲鳴を出させる主を麗麗は知っている。視線を向ければ案の定、冥焔である。
相変わらずの青灰色、宦官の象徴である衣服に袖を通しているが、その生地は他の宦官のものよりもはるかに上等に見えた。腰にじゃらりと佩玉を下げた姿も威風堂々としており、大変見目麗しい。
冥焔は場内をぐるりと回っている。後宮の管理を任されているという話であるから、宴の最終確認などをしているのだろうと推測した。
彼が動くたびにあちこちから小さな嬌声が響くのは、なんというか、見ていてちょっとおもしろかった。
(歩く悲鳴製造機だね)
あらかた確認し終えたのだろう。冥焔はすっとこちらに近づいてくる。
隣の雪梅が浮き足立った。他の女官たちもそわそわと服の裾を直すなどしている。よほどあの宦官が気になるのだろう。
とはいえ、麗麗もなんとなくわかった。今日この場でたくさんの宦官を見たからかもしれないが。
宦官は大切なところを失った弊害で、身体的に特徴が出る。ひげが抜け落ちたり、声が高くなったりとさまざまなのだが、幼い頃に性を失った宦官が、この傾向にある。逆に、体がすっかりできあがってから宦官になった者には雄々しさを残す者がいる。
冥焔は後者だ。体つきも声も、しっかり男なのだ。その上であの美しい見た目で、後宮の管理だけでなく皇帝の側近という肩書きまでついている。多少対応が塩だったとしても、目の色を変える女性たちがいるのもむべなるかな。
冥焔は瑛琳妃とひとことふたこと会話をすると、そのまますーっと麗麗たちの方へとやってきた。
おや、と麗麗は首をかしげる。
決して長くはない付き合いだ。しかし、それなりにこの宦官の顔は見慣れてきた。ある程度、表情は読めるようになったと言ってもいい。その冥焔であるが、今日はやたらと表情が硬い。
「ごきげんよう、冥焔様」
花里がふわっと微笑みながら礼を取る。他のふたりの女官も同様に、膝を折った。麗麗も同じように膝を折るが……。
「あの女官はどうした」
(ここにいるけど)
冥焔はぐるりと周りを見回している。まじかと麗麗は思う。目の前で膝を折っているのが見えないのだろうか。
雪梅がにやっと笑う。
「あの女官とは、麗麗のことでしょうか」
「そうだ。まさか出席せず、怠けているのか?」
軽く鼻を鳴らすようにして冥焔が言い放った。
さすがにこれには腹が立つ。むかっ腹を抱えた麗麗は礼を解き、顔を上げた。
「冥焔様、誰が怠けていると?」
冥焔はぎょっとしたように麗麗を見た。
「……女官か!?」
「はい」
「お前……」
「なんでしょう」
「いや、なんでもない」
なんでもないようには見えないが。冥焔はおもむろに咳払いをし、指をくいっと上に曲げた。ついてこいということか。
見れば、雪梅は満面の笑みで顔を赤くしているし、香鈴は目をきらきらさせている。花里は頰に手を添えて、「あらあら行ってらっしゃい」と柔らかく微笑んでいる。
人気のない場所まで来ると冥焔はぴたりと止まり、あたりを見回した。
「冥焔様、またなにかおかしな事件でも?」
こうやって冥焔が呼び出すときは、なにかしら問題が起きているときだ。それを警戒したのだが、冥焔は首を振った。
「いや、違う」
「では、なぜ私を呼び出したのです」
「ああ、それは、だな」
突然たどたどしくなる冥焔に、麗麗は首をかしげた。
「いや、その前に。お前、その顔はどうした」
「化粧ですか? 香鈴がしてくれたんですよ」
「服も違う。やたら、ひらひらしているではないか」
「当たり前でしょう。宴なんですから。冥焔様だって今日はいつもより上等の服を着ていらっしゃるではありませんか」
なにを言っているのだ、この宦官は。
「それで、私になんの用事です?」
「それが。そうだな。俺は、お前に、その……」
「聞こえませんよ」
麗麗はもごもごと口ごもる冥焔にぐいっと近づいた。しかし冥焔はなぜか視線を合わせない。
「だから、俺は。お前に、ほ……」
「ほ?」
冥焔はついに黙ってしまった。口はぎゅっと引き結ばれ、視線は泳ぎ、握りしめられたこぶしには力が入っている。
これは、もしや……。
「冥焔様、もしかして、おなか痛いんです?」
「……は?」
「先ほどから冷や汗もすごいですし。お顔もなんだか赤いようですし」
体調不良の相手には優しくしたほうがいい。人間皆、助け合いだ。困ったときはお互い様というではないか。
麗麗は袖から巾を取り出した。いつも袖で顔や手を拭いてしまう麗麗を憂いて、花里が持たせてくれているものだ。
「かがんでください」
「なぜ」
「ですから。手が届きません。汗を拭いて差し上げますから」
「違う、俺は別に──」
「遠慮なさらず」
ぐいぐいっと伸び上がって、麗麗は冥焔の額に手巾を当てようとした。その手をはしっと冥焔がつかむ。
「や、め、ろ……!」
ぐいーっと手を押し戻されて、麗麗は目をぱちくりさせる。先ほどよりももっと冥焔の顔が赤くなっている。さては我慢の限界か。
「失礼しました」
みんなの星、冥焔の冥焔がこんなところでまろび出てしまっては大変だ。麗麗はふっと腕の力を抜き、反動で前につんのめった冥焔の耳元で早急にささやいた。
「厠ならこの先に……!」
「……っ、もう知らん!」
顔を真っ赤にした冥焔が、大股でその場を去っていく。
怒らせてしまった。便意を指摘したことが、そんなに自尊心に触ったのだろうか。
(結局、なんのために呼ばれたんだ……?)
ぽつんとその場に取り残され、釈然としない麗麗であった。



