(まーたその話か)
麗麗は雑巾を絞りながら、回廊でささやかれている噂話に耳をすませた。早い話が盗み聞きである。
「それでね、例の、呪いの房ね」
回廊の柱を磨いていた女官がきょろきょろと目をさまよわせ、もうひとりの女官にそっとささやく。
「また女官が逃げちゃったみたいなの」
「えーっ、最悪……!」
ここ最近、宮城の、こと後宮では呪いだの怪異だのの話がはびこっている。
先日は食堂でひそひそしているのを小耳に挟んだ。女官たちが雑魚寝する房でも、このような回廊でも、あっちでひそひそ、こっちでこそこそ。今も勤務中にもかかわらず、噂話に花を咲かせている。
(最近、そういう話ばっかり聞くよね)
後宮は女の園。怖い話はつきものだとは思っているけれど、今の流行り方はちょっと異常だな、と思う。
(呪い、ねえ……)
耳をそばだてながら、回廊の床を磨き始める。
(もうちょっと詳しく聞ければ、なんかわかりそうなんだけどな)
けれど麗麗は知っている。自分があまり人間関係の構築が得意でないということ。そしてあまり出しゃばらないようにしておいたほうが、後宮では首が繋がる率が高いということを。
仕える妃嬪がない下級女官の麗麗の命は、この回廊に落ちている塵芥と同じくらいには軽いのだ。
(やっぱり、関わるのはやめておこう。何事も、用心、用心)
盗み聞きをあきらめて、その塵芥をつまみ上げていると、先ほど噂をしていた女官が麗麗に気づいたらしい。
「ねえ、そこのあなた」
ぴくっと麗麗の肩が跳ねた。
「私ですか?」
「あなたは聞いたことある? 例の呪いの話」
どうやらその女官は、近くにいながら無言を貫く麗麗がかわいそうだと思ったらしい。これは話に入れてくれるということか。
女官は話したくてたまらないようで、麗麗がなにも言わないうちから声をひそめて話し始めた。
「この間、亡くなった女官がいたでしょう」
「……はあ」
覚えてないなぁ、と記憶を反芻しながら、麗麗は相づちを打つ。
「あの女官、病死だったんだけどね、その病……呪いのせいだったんだって!」
女官たちはきゃーっと小さな悲鳴をあげた。
「でね、呪いはまだその房に残ってて、次の獲物を探してるんだって、みんな噂してるの」
「獲物、ですか」
「そうそう! もう何人も殺されかけてるんだよ」
人の生き死にの話なのに、と麗麗はひそかに苦く思う。そんな麗麗の反応にも気づかず、女官たちの話はさらに盛り上がっていく。
「その女官の房を片付けようとしたんですって。したら、片付けに入った女官たちが……首をね、こう……ぎゅーって絞められたんですって」
自分の首を自分で絞めながら、女官はぐええっと苦しそうな声をあげた。
「それだけじゃないのよ」
もうひとりの女官も相づちを打って、箒をぎゅぎゅっと握りしめている。
「その房……どんなにたくさんの灯りを持ち込んでも、一瞬で消えてしまうの。苦しいし、灯りは消えるしで、もう大混乱」
(へえ……)
きらっと麗麗の瞳がきらめいた。
「倒れちゃった子もいたんでしょ」
「そうみたい。それで、みんなあの房には行きたくない、近づきたくないって訴えているらしいの」
「もし片付けを言いつけられたらどうしよう……」
「あんなところに行くなら、暴室のほうがましだよ。呪い殺されるなんて、まっぴらごめん」
暴室とは、問題のある貴人や女官を収容する場所である。病気になったり、精神を病んだりした女官たちはここに送られる。そして、一度入ったら治るまでは出られない。体のいい監獄のようなところだ。
すっかり手元がお留守な女官たちは、ねーっと顔を見合わせながら大げさに体を震わせた。
(房に入ったら首を絞められる。そして灯りが一瞬で消える)
あー多分そうだ、多分そう。それってつまり……と、麗麗の頭の中で方程式が組み上がる。
「ねえ、あなたはどう思う?」
「やっぱり呪いだよね、ね!」
目を輝かせて話す女官たち。盛大に怖がっているように見えて、その実、娯楽として消費しているのだ。
麗麗の心がざわついた。
(なんでそんなに楽しそうなんだ)
待て、待て、これを言ったら引き返せない。頭の中で危険信号を出している。取り返しがつかなくなる。でも──!
麗麗の口元が不穏に動いた。
「馬鹿馬鹿しい」
「……はっ?」
「呪いだなんて、馬鹿みたいです。自然現象ですよ、それは」
女官たちの顔がぴしっとこわばった。その顔を見て、麗麗はやってしまったと心の中で頭を抱えた。
「あっ……あなたねえ! 馬鹿ってなによ、馬鹿って!」
「最低! せっかく話にまぜてあげようと思ったのに!」
(もう……馬鹿! 馬鹿なのはこの口だって、ほんと!)
言いたいことがあったら言って しまう。我慢したくてもしきれずに己の口からまろび出た言葉で、こうして何度も場を凍らせてきた。致命的に空気が読めないのだ。
(というか、空気読むとか普通に無理では!?)
だって空気に視認できる文字なんて書いていないし。窒素、酸素、二酸化炭素、アルゴン……もし読めるなら読んでみたい。混合物の成分が一発でわかるなんて素晴らしい能力だ。
思考が現実逃避する。
(あーあ、どうせ転生するなら、そういう有利な能力が欲しかったよ)
二度目の人生は、思った以上に甘くない。
麗麗は雑巾を絞りながら、回廊でささやかれている噂話に耳をすませた。早い話が盗み聞きである。
「それでね、例の、呪いの房ね」
回廊の柱を磨いていた女官がきょろきょろと目をさまよわせ、もうひとりの女官にそっとささやく。
「また女官が逃げちゃったみたいなの」
「えーっ、最悪……!」
ここ最近、宮城の、こと後宮では呪いだの怪異だのの話がはびこっている。
先日は食堂でひそひそしているのを小耳に挟んだ。女官たちが雑魚寝する房でも、このような回廊でも、あっちでひそひそ、こっちでこそこそ。今も勤務中にもかかわらず、噂話に花を咲かせている。
(最近、そういう話ばっかり聞くよね)
後宮は女の園。怖い話はつきものだとは思っているけれど、今の流行り方はちょっと異常だな、と思う。
(呪い、ねえ……)
耳をそばだてながら、回廊の床を磨き始める。
(もうちょっと詳しく聞ければ、なんかわかりそうなんだけどな)
けれど麗麗は知っている。自分があまり人間関係の構築が得意でないということ。そしてあまり出しゃばらないようにしておいたほうが、後宮では首が繋がる率が高いということを。
仕える妃嬪がない下級女官の麗麗の命は、この回廊に落ちている塵芥と同じくらいには軽いのだ。
(やっぱり、関わるのはやめておこう。何事も、用心、用心)
盗み聞きをあきらめて、その塵芥をつまみ上げていると、先ほど噂をしていた女官が麗麗に気づいたらしい。
「ねえ、そこのあなた」
ぴくっと麗麗の肩が跳ねた。
「私ですか?」
「あなたは聞いたことある? 例の呪いの話」
どうやらその女官は、近くにいながら無言を貫く麗麗がかわいそうだと思ったらしい。これは話に入れてくれるということか。
女官は話したくてたまらないようで、麗麗がなにも言わないうちから声をひそめて話し始めた。
「この間、亡くなった女官がいたでしょう」
「……はあ」
覚えてないなぁ、と記憶を反芻しながら、麗麗は相づちを打つ。
「あの女官、病死だったんだけどね、その病……呪いのせいだったんだって!」
女官たちはきゃーっと小さな悲鳴をあげた。
「でね、呪いはまだその房に残ってて、次の獲物を探してるんだって、みんな噂してるの」
「獲物、ですか」
「そうそう! もう何人も殺されかけてるんだよ」
人の生き死にの話なのに、と麗麗はひそかに苦く思う。そんな麗麗の反応にも気づかず、女官たちの話はさらに盛り上がっていく。
「その女官の房を片付けようとしたんですって。したら、片付けに入った女官たちが……首をね、こう……ぎゅーって絞められたんですって」
自分の首を自分で絞めながら、女官はぐええっと苦しそうな声をあげた。
「それだけじゃないのよ」
もうひとりの女官も相づちを打って、箒をぎゅぎゅっと握りしめている。
「その房……どんなにたくさんの灯りを持ち込んでも、一瞬で消えてしまうの。苦しいし、灯りは消えるしで、もう大混乱」
(へえ……)
きらっと麗麗の瞳がきらめいた。
「倒れちゃった子もいたんでしょ」
「そうみたい。それで、みんなあの房には行きたくない、近づきたくないって訴えているらしいの」
「もし片付けを言いつけられたらどうしよう……」
「あんなところに行くなら、暴室のほうがましだよ。呪い殺されるなんて、まっぴらごめん」
暴室とは、問題のある貴人や女官を収容する場所である。病気になったり、精神を病んだりした女官たちはここに送られる。そして、一度入ったら治るまでは出られない。体のいい監獄のようなところだ。
すっかり手元がお留守な女官たちは、ねーっと顔を見合わせながら大げさに体を震わせた。
(房に入ったら首を絞められる。そして灯りが一瞬で消える)
あー多分そうだ、多分そう。それってつまり……と、麗麗の頭の中で方程式が組み上がる。
「ねえ、あなたはどう思う?」
「やっぱり呪いだよね、ね!」
目を輝かせて話す女官たち。盛大に怖がっているように見えて、その実、娯楽として消費しているのだ。
麗麗の心がざわついた。
(なんでそんなに楽しそうなんだ)
待て、待て、これを言ったら引き返せない。頭の中で危険信号を出している。取り返しがつかなくなる。でも──!
麗麗の口元が不穏に動いた。
「馬鹿馬鹿しい」
「……はっ?」
「呪いだなんて、馬鹿みたいです。自然現象ですよ、それは」
女官たちの顔がぴしっとこわばった。その顔を見て、麗麗はやってしまったと心の中で頭を抱えた。
「あっ……あなたねえ! 馬鹿ってなによ、馬鹿って!」
「最低! せっかく話にまぜてあげようと思ったのに!」
(もう……馬鹿! 馬鹿なのはこの口だって、ほんと!)
言いたいことがあったら言って しまう。我慢したくてもしきれずに己の口からまろび出た言葉で、こうして何度も場を凍らせてきた。致命的に空気が読めないのだ。
(というか、空気読むとか普通に無理では!?)
だって空気に視認できる文字なんて書いていないし。窒素、酸素、二酸化炭素、アルゴン……もし読めるなら読んでみたい。混合物の成分が一発でわかるなんて素晴らしい能力だ。
思考が現実逃避する。
(あーあ、どうせ転生するなら、そういう有利な能力が欲しかったよ)
二度目の人生は、思った以上に甘くない。



