次に向かった先は別の殿舎だった。この殿舎では中級以下の妃嬪が集合で暮らしている。
皆、一様におびえた顔をしていた。冥焔を見ても、珊瑚宮の輩とは違い頰を赤らめたりはしない。ひそひそと声をひそめて様子をうかがっていた。
(みんな、顔色が悪いようだけど)
いったいなにが起こっているのか、と麗麗も気を引き締めた。
「あの、もしかして絞鬼の件でこちらに……?」
おずおずと話しかけてきたのは、この殿舎で一番位の高い妃、翠玉妃である。
「そうだ。知っていることがあれば教えてほしい」
「本当ですか……!」
冥焔の言葉に、わっと周囲がわいた。
「怖かったんです。いきなり首を絞められて」
「眠っている途中に……」
「苦しくて、死んでしまうのではないかと」
「ずっと体調も悪くて、吐き気もするし」
堰を切ったように捲し立てる妃嬪や女官たちをいさめたのは翠玉妃である。
「おやめなさい。そんなに一斉に話されて、冥焔様がお困りですわ」
翠玉妃は柔らかく微笑みながら、周囲を宥める。そういう妃もだいぶお疲れのようである。かわいそうに、綺麗な顔がげっそりとやつれている。
「この殿舎のことはすべて調べていただいてかまいません。なにかございましたらお声をかけてくださいまし」
「助かります」
「こちらこそ。大家にわたくしたちの言葉が伝わっていたことを嬉しく思いますわ。……あなたたち」
翠玉妃は周囲にいた他の妃や女官に声をかける。
「冥焔様のご質問には必ず正確に、正直に答えるように。わたくしが望むのは、それ以上でも以下でもございません」
そう言い残し、翠玉妃は一礼してその場をあとにする。位の高い妃がこの場を辞しているのに、他の者が出しゃばるわけにはいかない。皆、同じように礼をし、自分の房へと引き上げていった。
「できた方ですねぇ」
はーっと思わず感心の声が漏れる。
あの妃は、『正直に答えるように』と明言することで、自分におもねらなくてもよいのだと下級妃嬪や女官たちに伝えたのだ。
「ああも賢い妃がいるとは知らなかったな。……このような殿舎におさまっている器ではなさそうだ」
冥焔は満足そうにうなずいた。
これは今夜あたり、冥焔の推薦で皇帝のお渡りがあるかもしれない。
さて、麗麗と冥焔は絞鬼が出たと訴えた妃や女官たちの房を尋ねて回った。
「どのようなと聞かれましても。寝ておりましたから……」
年嵩の女官は青ざめた頰に手を当てた。
「そう、寝てたんでございますよ。すると、突然こう、首をきゅうっと絞められるようになりまして。初めは同室のこの子がいたずらしたんだと思ったんです。昼間、きつく叱ったので、その仕返しをしたんだろうと」
女官の恨みがましい視線を受けたもうひとりが、ぶんぶんと首を振る。
「あたし、そんな恐ろしいことできません。寝た人の首を絞めるだなんて、獄行きじゃないですか。いくら腹が立ったからって、自分の命と引き換えに嫌がらせなんてもってのほかです」
真っ青な顔で、女官たちは震えている。
「房を見せてください」
麗麗は断って、女官たちの房に入った。
一般的な殿舎の房だ。窓も戸もなく、房の両端に粗末な寝台が四つ設えてある。釣り灯籠が壁にかかっているが、使われた形跡はない。
「灯籠は使わないんですか?」
「ええ。あたしたち、特に読み物も書き物もしませんし、朝早くて夜遅いんです。だから房には寝に帰るだけで」
(ってことは、こないだの呪い房事件とは別の理由だろうなあ)
あの呪いの房は、気、つまり空気の循環ができておらず、火が消えやすい状況にあった。突然の暗闇におびえた女官たちが過呼吸を起こしたのが〝首絞め〟の原因だ。しかし、この房は窓も戸もない。火も使われないとなると、原因は違うところにあるだろう。
ふっと麗麗の目になにかが映り込んだ。
寝台と寝台の間に、小さな造りつけの棚がある。その棚にちょこんと置かれたもの。
「その歩揺は?」
金属製の歩揺だ。鎖の先には絹で作られた白い花が揺れている。
「ご存じないのですか?」
女官は目を丸くして、歩揺を手に取った。
「これ、今すごく流行っているんですよ。身を守るお守りだって」
「お守り?」
「ええ。最近、嫌な噂が絶えないでしょう。呪いの房の件もそうでしたし」
「おい」
冥焔が口を挟んだ。
「その件は大家から説明があっただろう。あれは呪いなんかじゃない。流言飛語は許さん。獄送りにされたいのか」
「ひっ」
女官がおびえたように一歩足を引いた。はあ~っと麗麗はため息をつく。
「冥焔様。女官を脅かさないでください」
「事実を述べたまでだ」
「言い方ってものがあります」
自分のことをえいやと棚に放り投げて、麗麗は背ばかりが高い宦官をじろっと見た。
「ただでさえ、冥焔様は怖いんですから」
「怖い……だと?」
「そんなにがみがみ言われたら、出てくる言葉も出てこなくなりますよ。ほんと、気をつけてください」
顔のいい人は、怒った顔も迫力満点だ。しかも上背もあり、地位も高い。そんな人から獄送りなんて言葉が出たら、おびえるに決まっているではないか。本当に、これだから偉い人は困るのだ。
「怖い、怖い……」とぶつぶつ連呼している冥焔は放っておいて、麗麗は女官に向き直った。
「嫌な噂が絶えないっておっしゃいましたね」
「はい。先日も別の宮ではございますが、幽鬼の足音が聞こえるだとか、いぬはずの赤子の声が聞こえるだとか……最近はもうそんな噂ばかりでございます。体調を崩す者も増えてまいりました。もう恐ろしくて、恐ろしくて……」
「このお守りを身につけていれば、悪いものから身を守ってくださるんだそうです! だからこうして房に置いておいたんですけど。でも」
ふっと年若の女官の目が曇った。
「首を絞められたんなら、お守り、効かなくなってるってことですよね」
(お守りねえ)
まあ、なにを信じるかは人それぞれだ。そのお守りを信じ、本人にとってよい効果があるならそれでいい。偽薬効果というやつだ。
しかし、冥焔は他のことが気になるようである。
「その歩揺だが、流行っていると言ったな」
「は、はい」
「どの程度だ?」
女官たちは顔を見合わせた。
「ほとんどの女官が身につけていると思います。持っていない人のほうが少ないかと。……ねえ」
「ええ。少なくともうちの宮では、お妃様方も身につけておいでですよ。翠玉様は別ですが、他の方はほとんど」
冥焔はじっと黙って考え事をしているようだった。やがて、ずいっと手を女官たちに差し出した。
「少し見せてはもらえないか」
「はい、もちろんです」
女官のひとりが、歩揺を手渡そうと差し出した。
綺麗な飾りだ。花びらの一枚一枚まで精巧に作られている。白い花びらは中央に行くに従って黄色く色づき、中央の花心には鮮やかな橙色の石がはめられ……。
(えっ……!?)
麗麗は思わず女官の手をはたき落とした。歩揺が、音を立てて床に転がる。
「痛っ……! なにするの!?」
「おい、女官……!」
どうしよう、どうしようと麗麗の頭がぐらぐらと煮える。このまま麗麗が考えなく口を開けば、間違いなく騒動になる。それはだめだ。危険すぎる。なんとかこのことを、冥焔だけに伝えなければ。
「すみません。あーええと、虫! 虫がついていたので」
「虫?」
「毒虫です。ちょっと退治するので、出ていってもらえますか」
「はあっ!?」
不満げな声をあげた女官たちの背を、麗麗はぐいっと押した。
「さっきはたいたときに、えっと、なんか汁とかついたかもしれないんで! 危ないし、歩揺も処分しちゃいますね! さ、出てってください!」
ぐいぐいっと女官たちを押しやる。ぶつくさなにかを言っていた女官たちだったが、やがてあきらめたようにその場を後にした。
ふーっと息をつくと麗麗は振り返り、冥焔を見た。
「冥焔様、やばいです」
「やば……い?」
「ええと、大変なことになりました」
「どういうことだ」
冥焔の顔つきがすっと変わった。
「この歩揺。これが、絞鬼の正体です」
「なんだって?」
麗麗は床に落ちた歩揺を示した。
「この中央の鉱石。これがなんだかご存じですか?」
「雌黄だろう。顔料の」
「はい。でも、これ、毒なんです」
「雌黄が毒だと……?」
冥焔は絶句し、おそるおそる歩揺を見た。
雌黄は、先ほど冥焔が言った通り、顔料──絵を描くときの絵の具として使われるものだ。だがこの鉱石が毒だと、麗麗、いや、佐々木愛子は知っている。雌黄には、ヒ素が含まれている。
冥焔は絶句したまま、麗麗の顔を見た。
「歩揺は髪に挿して使いますよね。それで、そのまま仕事をします。当然、雨の中を外出しなければならないときもある。女官はめったなことがない限り傘なんてささないですから、歩揺も濡れる。すると……」
麗麗は黄色く染まった中央の花びらを指さした。
「このように、雌黄が溶け出して花が染まる」
溶け出した雌黄は髪や手に付く。そして髪に雌黄をつけたまま眠りについたり、雌黄の付いた手で食事をしたりすると、体の中に毒がたまっていく。
だから、体調不良者が続出したのだ。
説明すると、冥焔はすらりと長い指で顎を撫でた。
「お前の言いたいことはわかった。だが、それなら、なぜ〝首絞め〟なんだ。ただの体調不良と、首を絞められるのでは話が違うではないか」
「これは推測ですが。前回の〝呪いの房〟が影響しているのではないでしょうか」
呪いの房事件のときに、『首を絞められる』という噂が流れた。不安を感じていた女官たちは多かっただろう。無意識下で〝首絞め〟を怖がっている状況だったのだ。
そこに体調不良が重なる。もしかしたら自分も呪われているのではと思い込み、結果、首を絞められたように感じてしまった。
(確かめるすべはないけど)
心を病んでしまうと現れる症状にそういうのがあるのだ。喉に異物感や圧迫感を覚えたり、つかえたり、首を絞められるような感覚が襲ってきたりもする。その原因は、『それ、診断されてもどうすりゃいいのさ』と思う代表選手の〝ストレスや自律神経の乱れ〟である。
「女官たちが極度の緊張や不安感に苛まれていたのは間違いないでしょう。可能性としては十分ありえると思います」
「……なるほどな」
「もし石の毒性をお疑いなら、この歩揺の石を水につけ、砕いて溶かしたものをなにか生き物に飲ませてみてください。死にますから」
それを聞いた冥焔の行動は早かった。
まず自分の袖から巾を取り出し、慎重に歩揺を取り上げる。どこにも皮膚に付かないように気をつけながらそれを包むと、さらに自分の深衣を脱ぎ、上からふわりと巻きつけるようにした。
なにをしているのか麗麗にはわかった。毒の飛散を防ごうとしているのだ。
(へえ)
麗麗の中で、ほんの少しだけ冥焔への好感度が上がった。
やはりこの宦官は、頭ごなしに麗麗を否定しない。毒の可能性があることを念頭に置いて行動しているあたり、麗麗の言葉を信じているのもうかがえる。
「よし、行くぞ」
内衣ひとつになった冥焔は、深衣でぐるぐる巻きにした歩揺を慎重に取り上げ、房を後にする。慌てて麗麗も後に続いた。きゃあっと頰を赤らめる女官たちの黄色い声をものともせずにずんずん歩き、あっという間に宮を出た。
「お前は深藍宮に戻れ」
「ええっ!?」
ここまで来てそれはないだろう。
「その歩揺を使って実験するんですよね!? 私にもお手伝いさせてください……!」
佐々木愛子のときには、さまざまなしがらみで非人道的な実験ができなかった。こんな機会、めったにないはずだ。
今この瞬間だけは全世界から非難されてもいい。見たい! 実験が、見たい!
「馬鹿か、お前は」
冥焔は呆れたように声を出した。
「俺が行くのは獄だ。いち女官が出入りするようなところじゃない」
「そこをなんとか!」
「お前は人が死ぬところを見たことがないだろう」
まるで刃を突きつけられたような、ひやりとした感覚が麗麗を襲った。
どきりと心臓が跳ねる。大当たりだった。佐々木愛子時代も、麗麗になったあとも、人の死をこの目で見ていない。
「興味本位で見ると後悔するぞ」
冥焔の瞳に暗い炎が宿っている。
麗麗は二の句が継げなかった。それほど冥焔の言葉は重く、視線は冷たかった。
「結果は報告する。おとなしく宮で待て」
動けない麗麗を置いて冥焔はその場を去る。その後ろ姿を追っていけなかったのは、厳しく叱られたような気がしたからだ。
麗麗はおとなしく深藍宮へと足を向ける。今はそうしたほうがいいような気がした。
皆、一様におびえた顔をしていた。冥焔を見ても、珊瑚宮の輩とは違い頰を赤らめたりはしない。ひそひそと声をひそめて様子をうかがっていた。
(みんな、顔色が悪いようだけど)
いったいなにが起こっているのか、と麗麗も気を引き締めた。
「あの、もしかして絞鬼の件でこちらに……?」
おずおずと話しかけてきたのは、この殿舎で一番位の高い妃、翠玉妃である。
「そうだ。知っていることがあれば教えてほしい」
「本当ですか……!」
冥焔の言葉に、わっと周囲がわいた。
「怖かったんです。いきなり首を絞められて」
「眠っている途中に……」
「苦しくて、死んでしまうのではないかと」
「ずっと体調も悪くて、吐き気もするし」
堰を切ったように捲し立てる妃嬪や女官たちをいさめたのは翠玉妃である。
「おやめなさい。そんなに一斉に話されて、冥焔様がお困りですわ」
翠玉妃は柔らかく微笑みながら、周囲を宥める。そういう妃もだいぶお疲れのようである。かわいそうに、綺麗な顔がげっそりとやつれている。
「この殿舎のことはすべて調べていただいてかまいません。なにかございましたらお声をかけてくださいまし」
「助かります」
「こちらこそ。大家にわたくしたちの言葉が伝わっていたことを嬉しく思いますわ。……あなたたち」
翠玉妃は周囲にいた他の妃や女官に声をかける。
「冥焔様のご質問には必ず正確に、正直に答えるように。わたくしが望むのは、それ以上でも以下でもございません」
そう言い残し、翠玉妃は一礼してその場をあとにする。位の高い妃がこの場を辞しているのに、他の者が出しゃばるわけにはいかない。皆、同じように礼をし、自分の房へと引き上げていった。
「できた方ですねぇ」
はーっと思わず感心の声が漏れる。
あの妃は、『正直に答えるように』と明言することで、自分におもねらなくてもよいのだと下級妃嬪や女官たちに伝えたのだ。
「ああも賢い妃がいるとは知らなかったな。……このような殿舎におさまっている器ではなさそうだ」
冥焔は満足そうにうなずいた。
これは今夜あたり、冥焔の推薦で皇帝のお渡りがあるかもしれない。
さて、麗麗と冥焔は絞鬼が出たと訴えた妃や女官たちの房を尋ねて回った。
「どのようなと聞かれましても。寝ておりましたから……」
年嵩の女官は青ざめた頰に手を当てた。
「そう、寝てたんでございますよ。すると、突然こう、首をきゅうっと絞められるようになりまして。初めは同室のこの子がいたずらしたんだと思ったんです。昼間、きつく叱ったので、その仕返しをしたんだろうと」
女官の恨みがましい視線を受けたもうひとりが、ぶんぶんと首を振る。
「あたし、そんな恐ろしいことできません。寝た人の首を絞めるだなんて、獄行きじゃないですか。いくら腹が立ったからって、自分の命と引き換えに嫌がらせなんてもってのほかです」
真っ青な顔で、女官たちは震えている。
「房を見せてください」
麗麗は断って、女官たちの房に入った。
一般的な殿舎の房だ。窓も戸もなく、房の両端に粗末な寝台が四つ設えてある。釣り灯籠が壁にかかっているが、使われた形跡はない。
「灯籠は使わないんですか?」
「ええ。あたしたち、特に読み物も書き物もしませんし、朝早くて夜遅いんです。だから房には寝に帰るだけで」
(ってことは、こないだの呪い房事件とは別の理由だろうなあ)
あの呪いの房は、気、つまり空気の循環ができておらず、火が消えやすい状況にあった。突然の暗闇におびえた女官たちが過呼吸を起こしたのが〝首絞め〟の原因だ。しかし、この房は窓も戸もない。火も使われないとなると、原因は違うところにあるだろう。
ふっと麗麗の目になにかが映り込んだ。
寝台と寝台の間に、小さな造りつけの棚がある。その棚にちょこんと置かれたもの。
「その歩揺は?」
金属製の歩揺だ。鎖の先には絹で作られた白い花が揺れている。
「ご存じないのですか?」
女官は目を丸くして、歩揺を手に取った。
「これ、今すごく流行っているんですよ。身を守るお守りだって」
「お守り?」
「ええ。最近、嫌な噂が絶えないでしょう。呪いの房の件もそうでしたし」
「おい」
冥焔が口を挟んだ。
「その件は大家から説明があっただろう。あれは呪いなんかじゃない。流言飛語は許さん。獄送りにされたいのか」
「ひっ」
女官がおびえたように一歩足を引いた。はあ~っと麗麗はため息をつく。
「冥焔様。女官を脅かさないでください」
「事実を述べたまでだ」
「言い方ってものがあります」
自分のことをえいやと棚に放り投げて、麗麗は背ばかりが高い宦官をじろっと見た。
「ただでさえ、冥焔様は怖いんですから」
「怖い……だと?」
「そんなにがみがみ言われたら、出てくる言葉も出てこなくなりますよ。ほんと、気をつけてください」
顔のいい人は、怒った顔も迫力満点だ。しかも上背もあり、地位も高い。そんな人から獄送りなんて言葉が出たら、おびえるに決まっているではないか。本当に、これだから偉い人は困るのだ。
「怖い、怖い……」とぶつぶつ連呼している冥焔は放っておいて、麗麗は女官に向き直った。
「嫌な噂が絶えないっておっしゃいましたね」
「はい。先日も別の宮ではございますが、幽鬼の足音が聞こえるだとか、いぬはずの赤子の声が聞こえるだとか……最近はもうそんな噂ばかりでございます。体調を崩す者も増えてまいりました。もう恐ろしくて、恐ろしくて……」
「このお守りを身につけていれば、悪いものから身を守ってくださるんだそうです! だからこうして房に置いておいたんですけど。でも」
ふっと年若の女官の目が曇った。
「首を絞められたんなら、お守り、効かなくなってるってことですよね」
(お守りねえ)
まあ、なにを信じるかは人それぞれだ。そのお守りを信じ、本人にとってよい効果があるならそれでいい。偽薬効果というやつだ。
しかし、冥焔は他のことが気になるようである。
「その歩揺だが、流行っていると言ったな」
「は、はい」
「どの程度だ?」
女官たちは顔を見合わせた。
「ほとんどの女官が身につけていると思います。持っていない人のほうが少ないかと。……ねえ」
「ええ。少なくともうちの宮では、お妃様方も身につけておいでですよ。翠玉様は別ですが、他の方はほとんど」
冥焔はじっと黙って考え事をしているようだった。やがて、ずいっと手を女官たちに差し出した。
「少し見せてはもらえないか」
「はい、もちろんです」
女官のひとりが、歩揺を手渡そうと差し出した。
綺麗な飾りだ。花びらの一枚一枚まで精巧に作られている。白い花びらは中央に行くに従って黄色く色づき、中央の花心には鮮やかな橙色の石がはめられ……。
(えっ……!?)
麗麗は思わず女官の手をはたき落とした。歩揺が、音を立てて床に転がる。
「痛っ……! なにするの!?」
「おい、女官……!」
どうしよう、どうしようと麗麗の頭がぐらぐらと煮える。このまま麗麗が考えなく口を開けば、間違いなく騒動になる。それはだめだ。危険すぎる。なんとかこのことを、冥焔だけに伝えなければ。
「すみません。あーええと、虫! 虫がついていたので」
「虫?」
「毒虫です。ちょっと退治するので、出ていってもらえますか」
「はあっ!?」
不満げな声をあげた女官たちの背を、麗麗はぐいっと押した。
「さっきはたいたときに、えっと、なんか汁とかついたかもしれないんで! 危ないし、歩揺も処分しちゃいますね! さ、出てってください!」
ぐいぐいっと女官たちを押しやる。ぶつくさなにかを言っていた女官たちだったが、やがてあきらめたようにその場を後にした。
ふーっと息をつくと麗麗は振り返り、冥焔を見た。
「冥焔様、やばいです」
「やば……い?」
「ええと、大変なことになりました」
「どういうことだ」
冥焔の顔つきがすっと変わった。
「この歩揺。これが、絞鬼の正体です」
「なんだって?」
麗麗は床に落ちた歩揺を示した。
「この中央の鉱石。これがなんだかご存じですか?」
「雌黄だろう。顔料の」
「はい。でも、これ、毒なんです」
「雌黄が毒だと……?」
冥焔は絶句し、おそるおそる歩揺を見た。
雌黄は、先ほど冥焔が言った通り、顔料──絵を描くときの絵の具として使われるものだ。だがこの鉱石が毒だと、麗麗、いや、佐々木愛子は知っている。雌黄には、ヒ素が含まれている。
冥焔は絶句したまま、麗麗の顔を見た。
「歩揺は髪に挿して使いますよね。それで、そのまま仕事をします。当然、雨の中を外出しなければならないときもある。女官はめったなことがない限り傘なんてささないですから、歩揺も濡れる。すると……」
麗麗は黄色く染まった中央の花びらを指さした。
「このように、雌黄が溶け出して花が染まる」
溶け出した雌黄は髪や手に付く。そして髪に雌黄をつけたまま眠りについたり、雌黄の付いた手で食事をしたりすると、体の中に毒がたまっていく。
だから、体調不良者が続出したのだ。
説明すると、冥焔はすらりと長い指で顎を撫でた。
「お前の言いたいことはわかった。だが、それなら、なぜ〝首絞め〟なんだ。ただの体調不良と、首を絞められるのでは話が違うではないか」
「これは推測ですが。前回の〝呪いの房〟が影響しているのではないでしょうか」
呪いの房事件のときに、『首を絞められる』という噂が流れた。不安を感じていた女官たちは多かっただろう。無意識下で〝首絞め〟を怖がっている状況だったのだ。
そこに体調不良が重なる。もしかしたら自分も呪われているのではと思い込み、結果、首を絞められたように感じてしまった。
(確かめるすべはないけど)
心を病んでしまうと現れる症状にそういうのがあるのだ。喉に異物感や圧迫感を覚えたり、つかえたり、首を絞められるような感覚が襲ってきたりもする。その原因は、『それ、診断されてもどうすりゃいいのさ』と思う代表選手の〝ストレスや自律神経の乱れ〟である。
「女官たちが極度の緊張や不安感に苛まれていたのは間違いないでしょう。可能性としては十分ありえると思います」
「……なるほどな」
「もし石の毒性をお疑いなら、この歩揺の石を水につけ、砕いて溶かしたものをなにか生き物に飲ませてみてください。死にますから」
それを聞いた冥焔の行動は早かった。
まず自分の袖から巾を取り出し、慎重に歩揺を取り上げる。どこにも皮膚に付かないように気をつけながらそれを包むと、さらに自分の深衣を脱ぎ、上からふわりと巻きつけるようにした。
なにをしているのか麗麗にはわかった。毒の飛散を防ごうとしているのだ。
(へえ)
麗麗の中で、ほんの少しだけ冥焔への好感度が上がった。
やはりこの宦官は、頭ごなしに麗麗を否定しない。毒の可能性があることを念頭に置いて行動しているあたり、麗麗の言葉を信じているのもうかがえる。
「よし、行くぞ」
内衣ひとつになった冥焔は、深衣でぐるぐる巻きにした歩揺を慎重に取り上げ、房を後にする。慌てて麗麗も後に続いた。きゃあっと頰を赤らめる女官たちの黄色い声をものともせずにずんずん歩き、あっという間に宮を出た。
「お前は深藍宮に戻れ」
「ええっ!?」
ここまで来てそれはないだろう。
「その歩揺を使って実験するんですよね!? 私にもお手伝いさせてください……!」
佐々木愛子のときには、さまざまなしがらみで非人道的な実験ができなかった。こんな機会、めったにないはずだ。
今この瞬間だけは全世界から非難されてもいい。見たい! 実験が、見たい!
「馬鹿か、お前は」
冥焔は呆れたように声を出した。
「俺が行くのは獄だ。いち女官が出入りするようなところじゃない」
「そこをなんとか!」
「お前は人が死ぬところを見たことがないだろう」
まるで刃を突きつけられたような、ひやりとした感覚が麗麗を襲った。
どきりと心臓が跳ねる。大当たりだった。佐々木愛子時代も、麗麗になったあとも、人の死をこの目で見ていない。
「興味本位で見ると後悔するぞ」
冥焔の瞳に暗い炎が宿っている。
麗麗は二の句が継げなかった。それほど冥焔の言葉は重く、視線は冷たかった。
「結果は報告する。おとなしく宮で待て」
動けない麗麗を置いて冥焔はその場を去る。その後ろ姿を追っていけなかったのは、厳しく叱られたような気がしたからだ。
麗麗はおとなしく深藍宮へと足を向ける。今はそうしたほうがいいような気がした。



