「げっ、なんであなた、ここにいるの!?」

 ですよねえ。でもあなたたちが呼んだんですよ。顔をゆがめた玉璇妃の女官に、そう言いたくなるのをぐっとこらえた。

 冥焔と共に訪れた珊瑚宮は、華やかな、いや、煌びやかな、豪華絢爛な……。

 (ええい面倒くさい)

 つまり、けばけばしい宮だった。

 (住んでる妃でこんなにも違うのかぁ)

 瑛琳妃の住まう深藍宮は、小主の性格を反映し、こざっぱりと整えられている。香は品のよい香りの涼やかな物を、花は活けても一輪で、風通しのよい、気持ちが落ち着く宮である。

 対する珊瑚宮は、なんと言えばいいか……例えるなら香水の見本市だ。決してひとつひとつは嫌な香りではないのに、あちこちでいろんな香が()かれているからだろう、なんだかもう、香りだけでおなかがいっぱいになりそうである。

 この場にどれだけの混合物が舞っているのだろう。想像したらちょっと楽しくなってきた。

 それにしても大丈夫だろうか。変な調合とかしてないよね、と不安になる。〝混ぜるな危険〟は塩素とアルカリだけではなく、香にもある。

 その珊瑚宮の内部には、着飾った女官たちがずらり。皆ものすごい気合いの入れようで、服は華やか、簪じゃらじゃら。先ほど麗麗に絡んできた女官も、先日よりも明らかに化粧が濃い。

 「ちょっと邪魔よ。冥焔様が見えないじゃない」

 「なによ! 私のほうが先輩なんだから、譲りなさいよ!」

 女官たちの奥からはなにやらいがみ合う声まで聞こえる。そしてその女官たちに守られるように中央の椅子にゆったりと腰を下ろしているのが、賢妃・玉璇だった。

 揖礼した袖の隙間からこっそりとのぞき見る。

 瑛琳妃がこざっぱりとしたバリキャリ系だとするなら、こちらは(みなと)()系といったところか。ゆるりと結った髪には大小の歩揺(髪飾り)、深紅の襦裙(じゅくん)に、きらきらと輝く()(はく)。周囲の女官たちと比べるとさすがに品がよいが、それでも派手な印象だ。

 冥焔がすっと一歩踏み出し、揖礼する。麗麗もひたすらに袖で顔を隠し、冥焔のあとに続いた。

 ひそひそ話していた女官たちはぴたっと黙り、頰を軽く染めて冥焔を見つめている。それは玉璇妃も同じようで、ほうっと耳に届いた息も艶っぽい。

 「玉璇妃にご挨拶を申し上げます」

 「冥焔。そんなに他人行儀にせずとも。わたくしとそなたの仲ではないですか」

 ほほほ、と優雅な笑い声が聞こえた。

 (どんな仲さ)

 麗麗は突っ込みたいのをぐっとこらえる。

 仮にも皇帝の妃のひとり。しかも賢妃の立場にある者が、いち宦官に向けて発する言葉ではない。聞きようによっては不義理な関係であると邪推されても仕方のない発言である。

 冥焔は表情ひとつ動かさない。

 「玉璇様。絞鬼が出たと大家に訴え出たという件ですが、詳しくお話をお聞かせ願えますか」

 「あらせっかちねえ。聞かせてあげてもいいけど……」

 玉璇妃はちらっと麗麗に視線を送った。

 「そなたひとりを呼んだはずなのに、とんだ鼠がついてきたものね」

 (ごめんなさいね、鼠もついてきたくはなかったんですけどね。残念ながら主上の命令なんです)

 冥焔は相変わらず無表情だが、かすかに眉が動いた。

 「この女官のことは気にしなくともよろしいかと存じます」

 「わたくしは気にします。そなたにだけ、ふたりきりであればお話して差し上げてもよろしゅうございますわ」

 「……女官、帰るぞ」

 揖礼をさっと解き、冥焔は顔を上げた。

 その横顔を盗み見て、麗麗はひっと声をあげそうになった。今まで見たこともないほど、宦官はぶち切れていたのである。

 (お、怒ってる。非常に怒ってるね、これは)

 踵を返した冥焔に、玉璇妃が鋭い声をあげた。

 「冥焔! 大家に言いつけるわよ!」

 「どうぞ」

 地の底から響くような声で、冥焔が答える。

 「我々はその大家の命で動いているのです。あなたがこのことを大家にお伝えした結果、どうなるか。おわかりにならないあなたではありますまい」

 ぐっと玉璇が唇を嚙んだ。

 「行くぞ、女官」

 宮を出た冥焔は、ふーっと天を向いて息を吐いた。頭をひとつ振って、麗麗に向き直る。

 「まあ、これで義理は果たしただろう。別の宮へ行くぞ」

 「あの、冥焔様」

 麗麗はおそるおそる声をあげる。

 「もしや、さっきの玉璇妃、絞鬼が出たというのは大嘘で……?」

 「だろうな」

 冥焔はもう歩き始めており、せっかちだなと心の中で文句を言いながらも足並みをそろえた。

 「薄々そうじゃないかと思っていた。が、妃から訴えられれば調べねばなるまい。やっかいなことだ」

 「あ~……」

 「あの妃は、いつもそうだ。ああやっていつも俺の邪魔をする。なにかとふたりで、ふたりで、としつこい。大迷惑だ」

 ははあ、と麗麗は心中で手を打ち鳴らした。やはり玉璇妃は冥焔が好きなのだ。上級妃がそんな状態で大丈夫なのだろうか。

 「慕われすぎるのも大変ですねぇ」

 「慕われる? なにを言ってるんだ」

 冥焔は目を瞬かせ、不愉快だと墨で大きく書かれたような表情で麗麗を見た。

 「あれは俺が嫌いなのだろう。だからああやって嫌がらせをしているのではないか」

 「……冥焔様って」

 いや、やめておこう。