──麗麗はその日、雪梅と一緒に洗い場へと向かっていた。後宮の裏手の方には、共用で使える洗い場がある。尚服局の女官たちが洗い物を一斉に行う場所だ。
深藍宮では洗い物も女官の仕事だった。特に、瑛琳妃の身に纏うものに関しては、他の尚局の手を入れないという徹底ぶりである。
「なんで尚服局の女官に任せないんだろって顔してる」
「わかりますか」
大量の洗濯物が入った籠を『うわあ』という顔で見ていた麗麗に向かって、雪梅が苦笑いする。
「それだけ顔に出てればね」
「正直、効率的ではないと思います。せっかく担当の者がいるのだから、任せたほうが他の仕事まで手が回るのではないですか」
「正論。でもね、そうも言ってられない事情があるの」
苦笑いしながら、雪梅はひょいっと籠を抱えた。仕方なく麗麗も同じように籠を抱える。籠は大きかった。えいやと手を回して持つと、麗麗の鼻のあたりに籠のてっぺんが来る。
(背が小さい民にはきついなこれ)
前がほとんど見えない。それでもなんとか、雪梅の髪に挿された簪を頼りにえっちらおっちらついていく。
そのときである。くんっといきなり裳が後ろに引っ張られた。その反動で、ずべっと前のめりにぶっ倒れる。
「ちょっ……麗麗!?」
前を歩いていた雪梅が動揺の声をあげた。
当の麗麗はまだなにが起こったのかわかっていない。気づいたら、地面と顔が〝こんにちは〟している。しかも籠は転がり、中から洗濯物がてんでばらばらの方向にまろび出ている始末である。
「あらあ?」
すっころがった麗麗の上から、甘ったるい声が聞こえた。
「ごめんなさい。裳だったのね」
むくっと麗麗は起き上がり、ようやく事情を察した。どうやら背後にいたこの女官に、裳を踏まれたようだ。
「あまりに汚かったものだから塵かと思ったわ。ねえ、みんな」
女官はくすくすと笑いながら、後ろに控えていた別の女官たちに同意を求めた。着ている深衣の色でわかる。鮮やかな紅色は、上級妃のひとり、賢妃・玉璇の女官たちである。
「ちょっとあんたたち!」
雪梅が籠を地面に置き、まなじりをつり上げた。
「謝んなさいよ!」
「わざとじゃないわよ。ただ、ねえ」
綺麗に整った顔をにやっとゆがめて、女官たちは笑う。
「あなたも瑛琳様の女官なら、きっぱり否定したほうがよろしくてよ。主上の寵愛もめでたい瑛琳妃が、下賤の者を女官にした、なんて噂が立っておりますから」
「賢き淑妃が、まさかそんな愚かな行いをなさるわけないでしょう? しかもその下賤の者は、あの冥焔様に取り入ろうとしているとか。身の程を知れと教えて差し上げるのも、上級妃に仕える者の勤めではないかしら」
女官たちは底意地の悪い笑みを浮かべながら、「ほほほ」と笑いさざめいている。
(おおっ。これはもしかして、典型的ないじめというやつでは?)
ちょっとわくわくしてきた。
実を言うと、例の呪いの房事件のあとから今にかけて、少しこういうことが増えていた。具体的に挙げると、あからさまな蔑みの視線だとか悪口だとか、そういった類いである。
麗麗とて、自分が噂されているのだということくらいはさすがにわかる。それほど露骨だったが、まあしょうがないよな、という気持ちで過ごしていたのだ。
つまり、あの冥焔という宦官は星なのだ。ここ数日、その星とふたりで行動する日が多かった。それだけで噂になるには十分だ、という話らしい。
麗麗的には、どうせ追いかけるなら夜空の星のほうがいい。『ただの人間には興味はありません』なんて、どこかで聞いたような昔懐かしい台詞が頭をよぎるというものだ。
それにしても、誰某が好きだの嫌いだの、気に入られようとしているだの媚び売っただのと、どこの世界でも人の娯楽というのはそんなに変わらないものなのかもしれない。だからといって、納得できるかどうかは別である。
(ちゃんと否定しておかないと、めんどくさいからね)
誤解されたままでは気持ちが悪い。
「あの」
麗麗は右手をあげた。喧々囂々(けんけんごうごう)中の雪梅と女官たちが、何事かと麗麗を見た。
「取り入ろうとしているっていうのは違うので、取り消していただけますか」
「はあっ!?」
「できれば、私も関わり合いになりたくなかったっていうか。向こうが勝手にこっちを巻き込んだっていうか。つまり、迷惑しているんですよね。なので、まったく、本当に、塵芥のかけらも他意はありませんので、ご安心いただけますか」
さっと女官たちの顔が朱に染まる。
「なに、その言い方! 冥焔様に失礼よっ」
「そうよ! 目をかけてもらってるのに、信じられないわ! 謝りなさいよ!」
(論理が破綻してる)
情緒不安定にもほどがあるでしょ、と内心麗麗は突っ込んだ。
取り入ろうとしていると言うから、違うと否定しただけなのに、今度は冥焔に失礼、ときた。
もしかしたら、この女官たちは、もはや自分がなにに苛々しているのかもわからないのかもしれない。麗麗だって、月のものが来ているときや寝不足のときはいつもよりも苛立ちやすくなる。
そういうときもあるさ、人間だもの。わかるわかる、と麗麗はうなずいた。
ならばここは、生前の知識を活かしてアドバイスなどしてみてもいいのかもしれない。憎むのはこの女官たちではなく、女性ホルモンだ。
しょうがないなあと思いながら、麗麗は言葉を重ねた。
「とりあえず、果物がいいですよ」
「は!?」
「わかります。苛々するの、つらいですよね。人に当たりたくなる気持ちはわからないでもないですが、栄養が足りていないせいだと思うので、酸っぱい系の果物がおすすめです。食べれば、苛々も少しは収まるかもしれませんよ」
疲れたときや苛々するときはビタミンCだ。
しかし、精いっぱいの親切心を発揮したというのに、どうやら麗麗は失敗したらしい。綺麗な女官たちの顔がぐにゃっとゆがんだ。
「こっ……この生意気なっ!」
女官の手が振り上げられ、『あ、これ殴られる?』と麗麗が思った、そのとき。
「なにをしている」
ある意味最悪な機会で、聞き覚えのある声が耳に届いた。玉璇妃の女官たちの背後から、背の高い宦官がのしのしと歩いてくる。きゃあっと黄色い悲鳴をあげながら、女官たちが道を空けた。
手を振り上げた女官は、そっと手を下おろしてもじもじし始める。髪の毛を撫でつけ、簪を直して、冥焔に向かい合った。
「冥焔様。わたくしにはわかっております」
「なにがだ」
「この下賤の女官に言い寄られているんでしょう? ご迷惑をしているのかと思いまして、わたくし、身の程を知れと厳しく伝えておりましたの」
冥焔の顔が奇妙にゆがんだ。
「おい、女官。お前、まさか俺に言い寄っていたのか」
「そんなわけないってわかってますよね」
思わず呆れたような口調になる。麗麗のじとっとした視線を受けた冥焔は軽く肩をすくめ、女官たちに向き直った。
「だ、そうだが?」
「でもっ……!」
さらに言い募る女官に、冥焔は氷のような視線を向けた。
「黙れ」
鋭い目つきで、一刀両断。先ほどまで顔を赤く染めていた女官たちは一斉に青ざめた。
冥焔は踵を返し、そして思い出したように振り返った。
「おい、女官」
「なんでしょう」
「今晩、体を空けておけ」
そう言い残し渦中の人物はその場を去ったが、残された麗麗たちの空気たるや。
雪梅は顔を真っ赤にして「きゃー!」と悲鳴をあげるし、玉璇妃の女官たちは別の意味で顔を真っ赤にし、ぷるぷる震える始末である。
ちなみに、『今晩、体を空けておけ』という命は、もちろん怪異の調査の件だった。当たり前である。
とある妃の房でぴちゃぴちゃと濡れた場所を歩き回るような足音がすると言われ、ふたりで向かったのだが、結論、ただの雨漏りだった。
一瞬で解決したので、特記することはない──。
深藍宮では洗い物も女官の仕事だった。特に、瑛琳妃の身に纏うものに関しては、他の尚局の手を入れないという徹底ぶりである。
「なんで尚服局の女官に任せないんだろって顔してる」
「わかりますか」
大量の洗濯物が入った籠を『うわあ』という顔で見ていた麗麗に向かって、雪梅が苦笑いする。
「それだけ顔に出てればね」
「正直、効率的ではないと思います。せっかく担当の者がいるのだから、任せたほうが他の仕事まで手が回るのではないですか」
「正論。でもね、そうも言ってられない事情があるの」
苦笑いしながら、雪梅はひょいっと籠を抱えた。仕方なく麗麗も同じように籠を抱える。籠は大きかった。えいやと手を回して持つと、麗麗の鼻のあたりに籠のてっぺんが来る。
(背が小さい民にはきついなこれ)
前がほとんど見えない。それでもなんとか、雪梅の髪に挿された簪を頼りにえっちらおっちらついていく。
そのときである。くんっといきなり裳が後ろに引っ張られた。その反動で、ずべっと前のめりにぶっ倒れる。
「ちょっ……麗麗!?」
前を歩いていた雪梅が動揺の声をあげた。
当の麗麗はまだなにが起こったのかわかっていない。気づいたら、地面と顔が〝こんにちは〟している。しかも籠は転がり、中から洗濯物がてんでばらばらの方向にまろび出ている始末である。
「あらあ?」
すっころがった麗麗の上から、甘ったるい声が聞こえた。
「ごめんなさい。裳だったのね」
むくっと麗麗は起き上がり、ようやく事情を察した。どうやら背後にいたこの女官に、裳を踏まれたようだ。
「あまりに汚かったものだから塵かと思ったわ。ねえ、みんな」
女官はくすくすと笑いながら、後ろに控えていた別の女官たちに同意を求めた。着ている深衣の色でわかる。鮮やかな紅色は、上級妃のひとり、賢妃・玉璇の女官たちである。
「ちょっとあんたたち!」
雪梅が籠を地面に置き、まなじりをつり上げた。
「謝んなさいよ!」
「わざとじゃないわよ。ただ、ねえ」
綺麗に整った顔をにやっとゆがめて、女官たちは笑う。
「あなたも瑛琳様の女官なら、きっぱり否定したほうがよろしくてよ。主上の寵愛もめでたい瑛琳妃が、下賤の者を女官にした、なんて噂が立っておりますから」
「賢き淑妃が、まさかそんな愚かな行いをなさるわけないでしょう? しかもその下賤の者は、あの冥焔様に取り入ろうとしているとか。身の程を知れと教えて差し上げるのも、上級妃に仕える者の勤めではないかしら」
女官たちは底意地の悪い笑みを浮かべながら、「ほほほ」と笑いさざめいている。
(おおっ。これはもしかして、典型的ないじめというやつでは?)
ちょっとわくわくしてきた。
実を言うと、例の呪いの房事件のあとから今にかけて、少しこういうことが増えていた。具体的に挙げると、あからさまな蔑みの視線だとか悪口だとか、そういった類いである。
麗麗とて、自分が噂されているのだということくらいはさすがにわかる。それほど露骨だったが、まあしょうがないよな、という気持ちで過ごしていたのだ。
つまり、あの冥焔という宦官は星なのだ。ここ数日、その星とふたりで行動する日が多かった。それだけで噂になるには十分だ、という話らしい。
麗麗的には、どうせ追いかけるなら夜空の星のほうがいい。『ただの人間には興味はありません』なんて、どこかで聞いたような昔懐かしい台詞が頭をよぎるというものだ。
それにしても、誰某が好きだの嫌いだの、気に入られようとしているだの媚び売っただのと、どこの世界でも人の娯楽というのはそんなに変わらないものなのかもしれない。だからといって、納得できるかどうかは別である。
(ちゃんと否定しておかないと、めんどくさいからね)
誤解されたままでは気持ちが悪い。
「あの」
麗麗は右手をあげた。喧々囂々(けんけんごうごう)中の雪梅と女官たちが、何事かと麗麗を見た。
「取り入ろうとしているっていうのは違うので、取り消していただけますか」
「はあっ!?」
「できれば、私も関わり合いになりたくなかったっていうか。向こうが勝手にこっちを巻き込んだっていうか。つまり、迷惑しているんですよね。なので、まったく、本当に、塵芥のかけらも他意はありませんので、ご安心いただけますか」
さっと女官たちの顔が朱に染まる。
「なに、その言い方! 冥焔様に失礼よっ」
「そうよ! 目をかけてもらってるのに、信じられないわ! 謝りなさいよ!」
(論理が破綻してる)
情緒不安定にもほどがあるでしょ、と内心麗麗は突っ込んだ。
取り入ろうとしていると言うから、違うと否定しただけなのに、今度は冥焔に失礼、ときた。
もしかしたら、この女官たちは、もはや自分がなにに苛々しているのかもわからないのかもしれない。麗麗だって、月のものが来ているときや寝不足のときはいつもよりも苛立ちやすくなる。
そういうときもあるさ、人間だもの。わかるわかる、と麗麗はうなずいた。
ならばここは、生前の知識を活かしてアドバイスなどしてみてもいいのかもしれない。憎むのはこの女官たちではなく、女性ホルモンだ。
しょうがないなあと思いながら、麗麗は言葉を重ねた。
「とりあえず、果物がいいですよ」
「は!?」
「わかります。苛々するの、つらいですよね。人に当たりたくなる気持ちはわからないでもないですが、栄養が足りていないせいだと思うので、酸っぱい系の果物がおすすめです。食べれば、苛々も少しは収まるかもしれませんよ」
疲れたときや苛々するときはビタミンCだ。
しかし、精いっぱいの親切心を発揮したというのに、どうやら麗麗は失敗したらしい。綺麗な女官たちの顔がぐにゃっとゆがんだ。
「こっ……この生意気なっ!」
女官の手が振り上げられ、『あ、これ殴られる?』と麗麗が思った、そのとき。
「なにをしている」
ある意味最悪な機会で、聞き覚えのある声が耳に届いた。玉璇妃の女官たちの背後から、背の高い宦官がのしのしと歩いてくる。きゃあっと黄色い悲鳴をあげながら、女官たちが道を空けた。
手を振り上げた女官は、そっと手を下おろしてもじもじし始める。髪の毛を撫でつけ、簪を直して、冥焔に向かい合った。
「冥焔様。わたくしにはわかっております」
「なにがだ」
「この下賤の女官に言い寄られているんでしょう? ご迷惑をしているのかと思いまして、わたくし、身の程を知れと厳しく伝えておりましたの」
冥焔の顔が奇妙にゆがんだ。
「おい、女官。お前、まさか俺に言い寄っていたのか」
「そんなわけないってわかってますよね」
思わず呆れたような口調になる。麗麗のじとっとした視線を受けた冥焔は軽く肩をすくめ、女官たちに向き直った。
「だ、そうだが?」
「でもっ……!」
さらに言い募る女官に、冥焔は氷のような視線を向けた。
「黙れ」
鋭い目つきで、一刀両断。先ほどまで顔を赤く染めていた女官たちは一斉に青ざめた。
冥焔は踵を返し、そして思い出したように振り返った。
「おい、女官」
「なんでしょう」
「今晩、体を空けておけ」
そう言い残し渦中の人物はその場を去ったが、残された麗麗たちの空気たるや。
雪梅は顔を真っ赤にして「きゃー!」と悲鳴をあげるし、玉璇妃の女官たちは別の意味で顔を真っ赤にし、ぷるぷる震える始末である。
ちなみに、『今晩、体を空けておけ』という命は、もちろん怪異の調査の件だった。当たり前である。
とある妃の房でぴちゃぴちゃと濡れた場所を歩き回るような足音がすると言われ、ふたりで向かったのだが、結論、ただの雨漏りだった。
一瞬で解決したので、特記することはない──。



