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瑛琳妃の住まう宮は、深藍宮という。その殿舎の裏には、女官たち専用の舎房があった。
漏窓からうっすらと青紫色の光が差し込んでいる。どーんという太鼓の音で、麗麗は目を瞬かせた。
起きろという合図だ。織室の房にいたときは太鼓の音よりも先に起きて身支度しろと散々言われたっけ、と寝ぼけ眼をこする。寝転がったまま伸びをして、手に触れた布をえいやと引き寄せた。着替えの服である。こうしてすぐ手の届く位置に着替えを置いておくのが、麗麗の習慣だった。
ひょこっと房の入り口から顔を出した者がいる。同僚の女官、雪梅だ。年の頃は麗麗と同じくらいで、ややきつめの顔立ちをした美女だった。
「おはよう、麗麗! ちゃんと起きれた? ……って、なにこれ!? 房、きったな!」
「雪梅、おはようございます」
「いや、うん。起きれたのならいいんだけど。ちょっと房、なんとかしなさいよ」
呆れ顔の雪梅は、ため息をついて顔を引っ込める。
「先、井戸に行ってるからね」
ありがたいなあ、と麗麗は思う。
新参の女官がちゃんと起きられているか確かめてくれるあたり、人がいいのだ。若干、口うるさいけれど。
瑛琳妃付きの女官となったのをきっかけに、宮の中に房をもらった。個室は嬉しい。物の位置が勝手に変わることがない。
織室では大きな房に十数人くらいで雑魚寝が基本だったので、置いておいた着替え用の服はしょっちゅう行方不明になっていた。『しまっておかないほうが悪い!』と散々怒られたことを思い出して、麗麗は苦い顔をした。
その房では、女官の服は、すみに並べてある自分の名前が書かれた籠の中にしまっておくという規律があった。起きたらその籠から着替えを取り出して身に纏う。ちなみに、文字が読めない者はなにかしらの印をつけてわかるようにするのが不文律だ。
(非効率すぎるんだって)
起きたらどうせすぐに着替えるんだし、だったら出しておいたほうが楽だろう。なんなら伸びをしたときに手に触れるところにあったほうがいいじゃないか。
だから、着替えは寝台に寝転がって右手を高く上げた先に置いておく。書き物をするときは筆と硯が近くにあったほうがいいから、卓子の上に出しておく。墨もいちいち洗うなんて面倒だ。乾いたところに水を入れて、継ぎ足しですれば節約になる。書物だってすぐに読むんだから、片付けるだけ手間だろう。
すべて計算尽くで物の配置をしているのだ。これのどこが、〝汚い〟のだろう。
そんなことは、ともかく。
頻繁に冥焔にかり出される身の上であるが、麗麗の所属はこの深藍宮で、肩書きは瑛琳妃の女官である。ゆえに、怪異の調査以外の時間は女官としての務めを果たさねばならない。
麗麗は着替えをすませると、顔を洗いに外へ出た。
風が寒い。もうすぐ秋が来る。
「あっ、麗麗、おはよー!」
井戸の回りにはもう他の女官が集まっている。朗らかに声をかけてきたのは、栗鼠のように愛くるしい顔をした年若の女官、香鈴だ。
「もう慣れた? 太鼓の音が近いから、びっくりするでしょ」
「いえ。前のところよりゆっくり寝かせてもらえているので。多少の音の大きさは気になりません」
そう言いながら、井戸からすくい上げた水で顔をばしゃばしゃと洗った。
濡れた顔を袖で拭こうとすると、「あらあら」と柔らかな声がかかる。
「だめよ。木綿の袖なんかで顔をこすったら。可愛い顔が傷だらけになってしまうわ」
おっとりと微笑みながら、自分の巾を出して顔をぬぐってくれたのは、年嵩の女官、女官頭の花里。
「なんか麗麗ってほっとけないよね。郷里の妹を思い出すわ」
雪梅が呆れた顔で笑っている。
花里、雪梅、香鈴。この三名が、瑛琳妃の側仕えの女官たちである。あの呪いの房事件が起きても後宮を辞さなかった女官たちだけに、皆それぞれ癖が強い。
ありがたいことに、三人の女官たちはぽっと出の麗麗に好意的である。
それは、死んだ同僚・明林の嫌疑を晴らした麗麗に対する、彼女たちなりの恩返しでもあるのだが、もちろん麗麗は気づいていない。
(新しい職場がいいとこでよかったなあ)
など、のんきに思っているのである。
「それじゃあみんな、今日も一日、がんばりましょうね」
ほわっと微笑む花里の言葉に、女官たちは「はい」と張り切って返事をした。



