「おかえり」

 玄関のドアを開けた海吹が美しい顔で言った。

「いらっしゃい、じゃないんですか?」
「ほとんど毎日うちで練習してるから、つい。弟より顔を合わせてるかも」
「弟さん、モデルの仕事が忙しいんですね」

音楽が楽しくない、と独り()ちたくせに、結局、海吹の家に来ていた。楽しくギターを弾ける気分ではないけれど、バンド練習をサボりたくなかった。海吹と二人でいられる時間をなくしたくなかった。

いつもの防音室に行く途中、「何か飲む?取ってくるけど」と海吹が言った。でも、志月は断った。心の中でゴチャゴチャと暴れる感情が喉に閊えて、物を食べたいと思えなかった。断る言葉も上手く出なかった。海吹は志月を一瞥しただけで、何も言わなかった。

「すみません。弦が緩んでいないか見たいので少し待ってください」

防音室に着いて一番に、志月はギターの弦を確認した。相良が無遠慮に触ったギターの弦。

弦が固くて上手く音が出ないと文句を言っていたけれど、そもそも相良はギターを弾けたのだろうか。組んだ足の上にギターをのせていた姿を見るに、基礎が出来ているかも怪しい。それなのに同じ一軍で、お似合いだと思うという理由だけで、海吹と組むのが当たり前と言い張るなんて。きっと相良は海吹が『NOISE』を好きなことも知らないだろう。

「何かあった?昨日は緩んでなかったよな?」
「ちょっと気になっただけです。緩んでいませんでした」

志月はギターを肩に掛けた。青色のストラップも綺麗なままだった。

大丈夫、大丈夫。ギターも、ストラップも、ちょっと触られただけ。ちゃんと弾ける。

「お待たせしました。どこまで練習してましたか?」
「ここのところなんだけど」

海吹が楽譜を指差す。ギターを構え、指を滑らせる。

「指が上手く回らないんだよね」
「ああ、ここは……」

指使いを見せながら、ゆっくりと演奏する。弾き終えて顔を上げれば、海吹は怪訝そうな顔をしていた。志月の指ではなく、志月の顔を凝視していた。

「あの、もう一度弾きますか?」
「ねぇ、志月」
「はい」
「……いや、いいや。合わせようか」

何を言いかけたのだろう。気になるけど、訊けない。海吹は志月の横に立って、すでにギターを弾く態勢に入ってしまっている。志月もギターを構えた。

「サン、ニー、イチッ」

海吹の掛け声に合わせて、指を動かす。歌声を響かせる。この一ヶ月、何度も練習した『NOISE』の大好きな曲。楽譜は覚えた。歌詞も覚えた。自然と指が動く。流れるように言葉が出てくる。海吹のギターと歌の癖も分かっている。相良よりも志月の方が海吹の相棒に相応しいはずだ。相良よりも志月の方がギターと歌を愛しているはずだ。なのに。

ギターの音が止んだ。海吹がネックを掴んでいる。指は弦から離れ、ピックを持つ手は力なく垂れている。

「志月、何かあった?」
「え」

海吹が怪訝な顔をして、志月を見ていた。

「志月の音、俺と全然合ってないよ。上手いけど、俺の音なんて聴いてなくて、一人で演奏してる。顔だって俯いたままで、俺のこと見ないし。昨日まで笑顔で音楽やってたのに、今日はちっとも楽しそうじゃない。苦しそうだ」
「あ……」

楽しくないに決まっている。ただギターと歌が好きなだけなのに「海吹と釣り合わない」、「調子にのって勘違いしている」と言われたのだ。笑顔でギターを弾けるわけがない。笑顔で歌を歌えるわけがない。

本当は止めてしまいたい。本当は逃げてしまいたい。でも、ギターと歌が好きだから止められない。逃げたくない。矛盾していて、苦しい。

「海吹くん……。海吹くんは、どうして俺とバンドを組もうと思ったんですか?」

弱々しい言葉が志月の口からこぼれ落ちた。唇が震える。

「最初に言っただろ。志月がいいと思った。一曲じゃ弾き足りないって」
「海吹くんがそう思ってくれても、俺は海吹くんに必要ありません。海吹くんと違って、俺のギターなんて……、俺の歌なんて……、誰も聴きたいと思わない。海吹くんだけいれば、十分なんです」
「……なにそれ。それ、志月が思った言葉?あいつらに何か言われた?」

志月は首を振った。唇を噛んで、俯く。

言えない。相良とのことは、海吹に言えない。告げ口が格好悪い、とかではない。正直に話せば、海吹は志月の力になってくれるだろう。明日、相良に一言言ってくれるだろう。でも、それでは志月の負けになる。海吹の力を借りて、相良に悔しい思いをさせただけの卑怯者になる。海吹のいない所で志月に文句を言った相良と同じ人種になってしまう。

「志月、言って。何があった?」
「……なんでも、ないです」
「嘘だ。そんな言葉、志月の言葉じゃない」
「ちょっと自分に自信がなくなっただけです。ほら、俺は一軍の海吹くんとは違って、三軍の暗い奴ですから」
「なんで、そんなに自分を落とすの」

海吹の手が志月の両頬に触れる。無理やり、顔を上げさせれる。見上げた海吹の顔は怒っていた。

「言って」
「い……、いやです。言いたくありません」
「志月」
「こ、これは俺の問題ですから……」
「これだけ音が合わなくなって、志月だけの問題なわけないだろ。俺に話してみて」
「駄目です。ここで海吹くんに頼ったら、俺は弱い奴になっちゃいます。海吹くんの隣で堂々と演奏ができなくなる」

志月の頬から海吹の手が離れていく。額に手をあて、海吹が大きく溜め息をついた。

「頑張りすぎ。頼ればいいのに」
「もう十分ですよ。海吹くんのおかげで『NOISE』の曲をたくさん弾けました」
「そんなの普通のことだろ。もっと器用に生きなよ。そんなんじゃ潰れるよ」
「じゃあ、少しだけ元気をくれませんか?」
「元気?」

ギターのストラップを握り締めて、志月は口を開いた。

「どうして、俺がいいと思ってくれたんですか?俺は海吹くんみたいに、特別じゃないのに」

ずっと疑問に思っていた。海吹は志月のどこがいいと思って、バンドを組む気になったのか。更衣室での一曲をどう思って聴いていたのか。一軍の海吹が「組んでやってもいい」と思うくらい志月の歌を上手いと思ってくれたなら、それだけで志月は元気になれる。一軍の王様が認めてくれたと思えば、相良の言葉なんて怖くなくなる。

「特別かぁ」

海吹の口元が歪む。スクールカーストの話をするとき、いつも海吹の機嫌は悪くなる。海吹は特別だ、と志月が純粋な眼差しを向けるだけでも嫌な顔をする。他の一軍のように調子にのらず、ただ静かに嘲笑を浮かべる。どうすれば、志月が抱える純粋な憧憬を海吹に伝えることができるのだろう。

「志月さ、カーストの上位にいる奴が本当に特別だと思う?前にも言ったけど、カーストは死ぬまで入れ替わるから、今が絶対ってわけじゃないよ」
「分かってます。でも、特別な人っていますよね。凄く頭が良いとか、スポーツや芸術の才能があるとか、みんなが認めるほど顔が良いとか。彼らはずっと特別です。カーストなんて打ち破れる。海吹くんも、そうです」
「それは顔が良いってこと?身長が高いってこと?そんなものが通用するのは、それこそ今だけだよ。俺だって年を取る。ずっと綺麗で、スタイルが良いわけじゃない。あと十年ちょっとで誰も見向きもしなくなる」
「そんなことありません。確かに、入学式で初めて海吹くんを見たとき、綺麗な人だなって一番に思いました。背が高くて目立つ人だな、とも思いました。でも、顔が良くて、身長が高い生徒は、バレー部やバスケ部にもいます」
「そうだね。なら、俺は志月が言う特別じゃないね」

嘲笑を浮かべる海吹に、「いいえ、海吹くんは特別です」と志月はもう一度言った。

「海吹くんには華がある。人を惹きつける輝きを秘めています。周りを熱狂させる力を持っています。ただ顔が綺麗で、身長が高いだけじゃありません。本当に特別で、俺なんかと一緒にいていい人じゃないんです」
「……俺のこと、美化しすぎ。そんなに俺のことを褒めるなら、もう少し自分のことを褒めてあげなよ」

海吹がギターをギタースタンドに置いた。防音室の隅にあるソファに腰を下ろす。「ここ座って」と、ソファを叩いた。
ギターをスタンドに立て掛けて、志月は海吹の隣に座った。制服が擦れる音がして、海吹に肩を掴まれる。

「志月。俺がお前とバンドをしようと思ったのは、お前がカッコ良かったからだよ」
「え……?」

海吹の言葉に、志月は目を瞬く。格好良いなんて、志月から一番かけ離れた言葉だった。

「俺なんて……」
「志月、自分を卑下するな!他の奴らみたいに俺を妬んで、縮こまっていればいいのに、お前は俺に声をかけた。ギターと歌を愛しているのに悔しいって、ちゃんと主張できた。歌えっていう俺の前で歌いきった。あの日、更衣室で歌う志月は輝いてたよ。お前さ、充分すごいよ。カッコ良いよ。特別だよ」
「そんなわけありません!俺なんて地味で、誰の目にも留まらなくて、三軍で……。俺が言う特別っていうのは、海吹くんみたいな人のことでっ!」
「俺は志月の歌う姿に動かされたから、ここにいるんだ。じゃあ、その特別な俺に選ばれた志月は、特別なんじゃないの?」
「選ばれた……?」

ふわり、と海吹の手が志月の両頬を包み込む。

「この前の告白の答えだ。志月、お前は俺の特別だよ。お前のことが好きだ。俺の恋人になって」
「うそ」
「ほんと」

海吹が志月の頬をむにゅっと揉む。マシュマロに触れるように、志月の頬の感触を楽しむ。

「俺の隣に立つ自信がないなら、特別な魔法をかけてあげる」

美しい顔が近づいてくる。反射的に、志月は顔を背けようとした。でも、両頬に添えられた海吹の手に阻まれて、逃げられない。高い鼻がかすって、唇を塞がれた。

「あ……」
驚きで、志月は目を閉じられない。心臓がうるさい。両手を震わせ、海吹の胸元を掴む。唇が少し離れた。

「息、苦しい?」
「え?」
「シャツ、掴んだから」
「ちがっ……。なにが、どうなったのか……」
「志月の好きって、こういう好きでしょ。俺とキスする妄想しなかったの?」
「してない!そんなこと、できないですっ……」

海吹が笑った。

「このキスは無敵の魔法だよ。志月が俺の特別だっていう無敵の魔法。もう自分を卑下するな。志月は特別なんだ。俺の恋人なんだよ。返事は?」
「は、い……」
「良い子」

優しく肩を押される。志月はソファの上に倒れた。海吹の手が伸びてきて、志月のネクタイの結び目に長い指を入れた。

「え、まって。海吹くん!」
「なに?」
「な、なにするんですか!」
「キスはしたし、他のことをしようかと思って」
「ま、待ってください!俺、キスも初めてで!こ、この先はっ」
「へぇ、やっぱりファーストキスか。なのに、俺が今からしようとしていることは分かるんだ。妄想では、俺はどうやって志月を抱いた?」

志月の顔が赤くなる。頭を激しく横に振って、顔を覆った。

「妄想なんてしてないです!」
「俺はしたけど。俺の中の志月はさ、こうやって押し倒すと慌てて、真っ赤になって、でも最後は目を潤ませながら俺の腰に足を絡ませるんだ。本物は、どうかな?」

海吹の手が志月の足に置かれる。閉じられた両足を割られる。内股に触れられ、感触を確かめるように押される。下から上に撫でられて―――。

「う、ぶきくんっ!」

志月の目尻に涙が浮かんだ。無意識に内股を擦らせ、自身の足を愛撫する海吹の腕を掴んだ。

「これ……、これ、いじょうは!」
「これは……。まあ、なんとも」

海吹は震える志月を見下ろして、楽しげに頷いた。

「今日はここまでにしよう」
「ばんど、れん?」
「どっちも。俺と志月は恋人同士になったんだ。明日から気兼ねなく一緒にいられるんだから、急ぐことはないよ」
「バンド練だけじゃなくて、一日中、海吹くんと一緒なんて倒れちゃいます。今だって、くらくらしてて……」
「ああ、それは鼻血のせいだよ」

海吹が大声で笑う。

志月は「え?」と鼻に触れ、色気のない悲鳴を上げた。