放課後、図書委員の当番を終えた志月は通学鞄を持って、図書室を出た。
今日も海吹と、彼の家でバンド練習をする約束になっている。初めて海吹の家に呼ばれてから一ヶ月が経った。セットリストに挙げた曲は一通り練習した。
志月と海吹の音は驚くほど合った。まったく正反対の容姿、性格をしているのに、音だけはパズルのピースのようにピタリとはまった。音だけ聴けば、絶好調で、良いバンドだった。
そう、告白のことを除けば。海吹からの返事はまだ貰えていない。話題に挙がることもない。でも、海吹の視線は優しい。志月の音を、歌を、穏やかな表情で聴いている。王様として教室にいる時とは、まったく違う顔だ。多分、志月以外は見たことがない表情だ。志月だけが知っている、特別な表情。
志月も穏やかな気持ちで海吹を見られるようになった。時々赤面してしまうけれど、俯く回数は減った。告白の答えはまだ貰えていないけれど、今のくすぐったい距離感が好きだ。
教室に戻った志月は机を見て、眉を顰めた。志月の机の上に、一軍の女王様である相良が足を組んで座っていた。短いスカートで足を組んでいるので、下着が見えてしまいそうだった。
「あ、帰ってきた。遅すぎ。待たせんなよ」
相良が舌打ちする。でも、志月は相良と待ち合わせした覚えはない。いつも待ち合わせして一緒に帰っている海吹は、今日は先に一人で帰ったので、もう練習を始めているはずだ。
「これ、あんたのギターだよね?」
志月はギョッとした。体を捩って、相良が背後から持ち出したのは志月のギターだった。よく見れば、ギターケースが相良の足元に転がっている。
「あんた、経験者なんでしょ。よく分かんないけど、高いギターなの?弦、硬くって、全然弾けないんだけど」
「勝手に、弾いたんですか……?」
相良がギターのネックを無造作に掴み、ギターを組んだ足の上に乗せる。「安定悪っ。これ肩に掛ければいいわけ?」と青色のストラップを手に取った。
青色。海吹の色。志月が貰った、海吹の色のストラップ。
相良がストラップに首を通そうとする。志月は相良の手を掴んだ。
「は?なに、うちの手、掴んでんの?」
「止めてください」
「ちょっとぐらい良いじゃん。あんたこそ、手離しなよ」
「返してください」
「なにマジになってんの?置いてあったから触っただけでしょ。そんなに大事なら抱えて歩けよ。暴力反対なんだけど」
確かに、志月の落ち度だ。図書室にギターを持って行ったら邪魔になると思って、放課後の教室にギターを置いて行ってしまった。机のフックに掛けてあったけれど、誰かに触られるかもしれないし、倒されるかもしれない。不用心だった。
でも、人のギターを勝手に触り、あまつさえ弾こうとする人がいるなんて、思いもしなかった。教室に落ちているシャーペンや消しゴムをちょっと失敬して使うのとは訳が違う。失くしたり、壊したりしたら、「ごめん、ごめん」で済ませられるものではない。
なのに、それが相良には分からないのだろう。彼女は他人のICカードで昼食を買ったり、新品の新作コスメを借りパクしたり、平気でする。女王様の相良にとっては、教室にあるすべての物が彼女の物で、好き勝手にしても咎められないと思っているのかもしれない。
「もう帰るので、返してください」
認識の違う相良には何を言っても無駄だ。口で勝てるとも思えない。志月はギターケースを拾い上げ、相良の持つギターに手を伸ばした。
「帰っていいって言ってないんだけど」
相良がギターのネックを掴む。志月に奪われまいと胸に引き寄せる。
ギターを引き合いながら、志月は相良と向かい合った。
「あんたさ、練習してるんだって?」
「え……」
「え、じゃねぇよ。なに練習してんの」
「文化祭で演奏するから」
「そうじゃなくて!」
綺麗にアイラインが引かれた相良の目が吊り上がる。
「あんたは引き立て役だろ!練習とか、そーゆう真面目いらないから。海吹と組むとか、あり得ないから。地味グループに帰れよ!」
相良が真っすぐ指を指す。
指の先には、志月が組むことになっていた地味グループこと二軍と三軍の生徒たちがいた。廊下から教室を窺い、ニヤついていた。
「あんたは一生引き立て役なの。海吹の視界に入らないで。海吹の足を引っ張らないで。海吹と並んで立つとか、調子乗りすぎだから」
「調子になんて……。俺は、ただバンドの練習をしてるだけで……」
「海吹と釣り合うのは、うちなの。海吹は、うちのものなの。見れば分かるでしょ。ちょっと海吹に声かけてもらったからって、勘違いしないで。あんたと海吹じゃ、釣り合わないから。ビジュ、違いすぎ。うちと海吹の間に入ってこないで!」
相良がギターのネックを離す。
反動で、志月はたたらを踏んだ。
相良は海吹が好きだったのか。だから、完璧な海吹の隣にいるのが志月のような三軍生徒であることが許せないのか。完璧な人の隣には、完璧な人がいるべき。そうでない人は、どんなに趣味や気が合っても並び立ってはいけない。
ギターは取り返せたけれど、体が重くて動かない。相良の鋭利な言葉が志月の体の中を巡って、容赦なく傷つける。
「あいつらみたく、リコーダーでも吹いてなよ。あと校歌ね」
廊下から笑い声が聞こえてくる。地味グループとまとめられ、貶されたのに、志月を半笑いで見ている。きっと、彼らが志月がギターを置いて委員会に出ている、と相良に告げ口したのだろう。調子にのっている志月を懲らしめるように仕向けたのだろう。
志月はギターをケースにしまって、背負った。踵を返す。
「逃げんの?」
嘲るように、相良が言った。ギターケースを引っ張られる。
「解散するって、ちゃんと海吹に言いなよ。しっかりね、夜部」
大切なギターが心配なのに、志月は無理やり体を捻って逃げた。
このままここにいては心の弦が切れてしまいそうだった。
☆☆☆
電車に飛び乗った志月のスマホが振動した。海吹かもしれない。待ちくたびれた、というメッセージかもしれない。
スマホを見ると、メールだった。『NOISE』のファンクラブからのお知らせメールだ。『NOISE』が一ヶ月後にある野外ライブへ出演することが急遽決定した、と書かれていた。場所は、みなとみらい。行ける距離だ。まだチケットは取れるだろうか。でも、文化祭直前の平日の夕方からだった。
バンド練習を優先させなくてはいけない。文化祭を成功させなくてはいけない。
なんでだっけ。どうしてだっけ。海吹の引き立て役になるため?
でも、志月では海吹に釣り合わないと相良が言っていた。引き立て役にすらなれそうにない。
「楽しくないなぁ」
どうして好きでギターと歌をやっているだけなのに、あんなに言われないといけないんだろう。なんのために音楽をやってるんだろう。
相良の言葉が志月の心に絡みつく。自信を失わせていく。
海吹くんみたいに、『NOISE』みたいに、舞台で輝きたいな。観客を熱狂させたいな。
「なーんて、無理だけど……」
志月は『NOISE』のファンクラブからのメールを削除した。
今日も海吹と、彼の家でバンド練習をする約束になっている。初めて海吹の家に呼ばれてから一ヶ月が経った。セットリストに挙げた曲は一通り練習した。
志月と海吹の音は驚くほど合った。まったく正反対の容姿、性格をしているのに、音だけはパズルのピースのようにピタリとはまった。音だけ聴けば、絶好調で、良いバンドだった。
そう、告白のことを除けば。海吹からの返事はまだ貰えていない。話題に挙がることもない。でも、海吹の視線は優しい。志月の音を、歌を、穏やかな表情で聴いている。王様として教室にいる時とは、まったく違う顔だ。多分、志月以外は見たことがない表情だ。志月だけが知っている、特別な表情。
志月も穏やかな気持ちで海吹を見られるようになった。時々赤面してしまうけれど、俯く回数は減った。告白の答えはまだ貰えていないけれど、今のくすぐったい距離感が好きだ。
教室に戻った志月は机を見て、眉を顰めた。志月の机の上に、一軍の女王様である相良が足を組んで座っていた。短いスカートで足を組んでいるので、下着が見えてしまいそうだった。
「あ、帰ってきた。遅すぎ。待たせんなよ」
相良が舌打ちする。でも、志月は相良と待ち合わせした覚えはない。いつも待ち合わせして一緒に帰っている海吹は、今日は先に一人で帰ったので、もう練習を始めているはずだ。
「これ、あんたのギターだよね?」
志月はギョッとした。体を捩って、相良が背後から持ち出したのは志月のギターだった。よく見れば、ギターケースが相良の足元に転がっている。
「あんた、経験者なんでしょ。よく分かんないけど、高いギターなの?弦、硬くって、全然弾けないんだけど」
「勝手に、弾いたんですか……?」
相良がギターのネックを無造作に掴み、ギターを組んだ足の上に乗せる。「安定悪っ。これ肩に掛ければいいわけ?」と青色のストラップを手に取った。
青色。海吹の色。志月が貰った、海吹の色のストラップ。
相良がストラップに首を通そうとする。志月は相良の手を掴んだ。
「は?なに、うちの手、掴んでんの?」
「止めてください」
「ちょっとぐらい良いじゃん。あんたこそ、手離しなよ」
「返してください」
「なにマジになってんの?置いてあったから触っただけでしょ。そんなに大事なら抱えて歩けよ。暴力反対なんだけど」
確かに、志月の落ち度だ。図書室にギターを持って行ったら邪魔になると思って、放課後の教室にギターを置いて行ってしまった。机のフックに掛けてあったけれど、誰かに触られるかもしれないし、倒されるかもしれない。不用心だった。
でも、人のギターを勝手に触り、あまつさえ弾こうとする人がいるなんて、思いもしなかった。教室に落ちているシャーペンや消しゴムをちょっと失敬して使うのとは訳が違う。失くしたり、壊したりしたら、「ごめん、ごめん」で済ませられるものではない。
なのに、それが相良には分からないのだろう。彼女は他人のICカードで昼食を買ったり、新品の新作コスメを借りパクしたり、平気でする。女王様の相良にとっては、教室にあるすべての物が彼女の物で、好き勝手にしても咎められないと思っているのかもしれない。
「もう帰るので、返してください」
認識の違う相良には何を言っても無駄だ。口で勝てるとも思えない。志月はギターケースを拾い上げ、相良の持つギターに手を伸ばした。
「帰っていいって言ってないんだけど」
相良がギターのネックを掴む。志月に奪われまいと胸に引き寄せる。
ギターを引き合いながら、志月は相良と向かい合った。
「あんたさ、練習してるんだって?」
「え……」
「え、じゃねぇよ。なに練習してんの」
「文化祭で演奏するから」
「そうじゃなくて!」
綺麗にアイラインが引かれた相良の目が吊り上がる。
「あんたは引き立て役だろ!練習とか、そーゆう真面目いらないから。海吹と組むとか、あり得ないから。地味グループに帰れよ!」
相良が真っすぐ指を指す。
指の先には、志月が組むことになっていた地味グループこと二軍と三軍の生徒たちがいた。廊下から教室を窺い、ニヤついていた。
「あんたは一生引き立て役なの。海吹の視界に入らないで。海吹の足を引っ張らないで。海吹と並んで立つとか、調子乗りすぎだから」
「調子になんて……。俺は、ただバンドの練習をしてるだけで……」
「海吹と釣り合うのは、うちなの。海吹は、うちのものなの。見れば分かるでしょ。ちょっと海吹に声かけてもらったからって、勘違いしないで。あんたと海吹じゃ、釣り合わないから。ビジュ、違いすぎ。うちと海吹の間に入ってこないで!」
相良がギターのネックを離す。
反動で、志月はたたらを踏んだ。
相良は海吹が好きだったのか。だから、完璧な海吹の隣にいるのが志月のような三軍生徒であることが許せないのか。完璧な人の隣には、完璧な人がいるべき。そうでない人は、どんなに趣味や気が合っても並び立ってはいけない。
ギターは取り返せたけれど、体が重くて動かない。相良の鋭利な言葉が志月の体の中を巡って、容赦なく傷つける。
「あいつらみたく、リコーダーでも吹いてなよ。あと校歌ね」
廊下から笑い声が聞こえてくる。地味グループとまとめられ、貶されたのに、志月を半笑いで見ている。きっと、彼らが志月がギターを置いて委員会に出ている、と相良に告げ口したのだろう。調子にのっている志月を懲らしめるように仕向けたのだろう。
志月はギターをケースにしまって、背負った。踵を返す。
「逃げんの?」
嘲るように、相良が言った。ギターケースを引っ張られる。
「解散するって、ちゃんと海吹に言いなよ。しっかりね、夜部」
大切なギターが心配なのに、志月は無理やり体を捻って逃げた。
このままここにいては心の弦が切れてしまいそうだった。
☆☆☆
電車に飛び乗った志月のスマホが振動した。海吹かもしれない。待ちくたびれた、というメッセージかもしれない。
スマホを見ると、メールだった。『NOISE』のファンクラブからのお知らせメールだ。『NOISE』が一ヶ月後にある野外ライブへ出演することが急遽決定した、と書かれていた。場所は、みなとみらい。行ける距離だ。まだチケットは取れるだろうか。でも、文化祭直前の平日の夕方からだった。
バンド練習を優先させなくてはいけない。文化祭を成功させなくてはいけない。
なんでだっけ。どうしてだっけ。海吹の引き立て役になるため?
でも、志月では海吹に釣り合わないと相良が言っていた。引き立て役にすらなれそうにない。
「楽しくないなぁ」
どうして好きでギターと歌をやっているだけなのに、あんなに言われないといけないんだろう。なんのために音楽をやってるんだろう。
相良の言葉が志月の心に絡みつく。自信を失わせていく。
海吹くんみたいに、『NOISE』みたいに、舞台で輝きたいな。観客を熱狂させたいな。
「なーんて、無理だけど……」
志月は『NOISE』のファンクラブからのメールを削除した。
