「明日の放課後から練習しよう。ギター持ってきて」

そう海吹に言われた志月は、ギターを担いで下駄箱の前に立っていた。放課後になるまでの間、これは本当の本当に現実なのだろうか、と昨日の更衣室での出来事を何度も反芻した。

「ちょっと待ってよ!海吹!」

ようやく下駄箱に現われた海吹は、何故か一軍の女子生徒に袖を引っ張られていた。

「うちらとバンドしないって、どういうこと!?海吹がいないと、みんな困っちゃうよ!何が気に入らないの?」
「気に入らないんじゃなくて、組みたい奴がいるから抜けるだけ」
「誰それ!?ギターが上手い人なんて、うちのクラスにいた?」

海吹が志月を指差す。ぼんやり成り行きを窺っていた志月は、一瞬どうして指を指されたのか分からなかった。

女子生徒の顔が歪む。学年で一番かわいいと人気の相良(さがら)だ。上を向いた付け睫毛、緩く巻かれた毛先、一ヶ月に一回変わるネイル、その隙のない女子力で相良は一軍女子の女王様として君臨していた。

「は?こいつ?海吹が声かけるようなタイプじゃないじゃん……」
「見た目は関係ないよ。俺は、俺が組みたいと思った奴と組む。志月のギターと歌は最高だよ」
「なによ、それ。うちらは組む価値ないってこと?うちらより、そんな奴が良いっていうの?……明日からどうなっても知らないから。それがイヤなら、うちらと組んで」

どうなっても、とは海吹を一軍から落とすということだろうか。海吹が自分たち一軍と組まないだけで、仲間外れにするなんて。海吹が三軍の志月と組むことは、それほどまでに非難されることなのだろうか。ただ気が合ったクラスメイト同士がバンドを組む、それだけの話ではないのだろうか。

「あの、待ってください……」

相良の険しい表情に気後れしながらも、志月は声をあげた。でも、「大丈夫だから」と海吹に遮られた。

「相良、お前がなんと言おうと、俺は志月と組む。気に入らないなら好きにしろ。そういうの、俺は気にしないから」

海吹が相良の手を払う。呆然とする相良の前で、海吹は志月の腕を掴んだ。

「行こう」
「ちょっと、海吹っ!」

悲鳴みたいな高い声で、相良が海吹の名前を呼んだ。でも、海吹は振り返らない。志月の腕を引いて、進んでいく。

相良の前を通るとき、彼女が「冗談じゃないわよ」と呟くのを志月は聞いた。その声が泣いているみたいで気になったけれど、怖くて振り返ることが出来なかった。

☆☆☆

電車は下校する学生で溢れていた。みんな友だちと固まって、楽しそうに話している。昨日見たテレビの話、テストの点が下がった話、お小遣いが少ない話。

電車に揺られる志月と海吹は無言だった。相良とのことが気になるけれど、「大丈夫?」と訊くのも変だし、「ごめん」と謝るのも違う気がして、志月はどう話し掛けていいのか分からなかった。

「さっきの気にしなくていいから」

改札口を出て、歩いているとき、海吹が口を開いた。

「相良とは、少し前に揉めてさ。それ以来、ずっと感じ悪いんだ」
「明日どうなっても知らないって……」
「相良にも言ったけど、勝手にしたらいいよ。俺、群れるの好きじゃないんだよね」

冷たい物言いだ。

「友だちじゃないんですか?」

志月が言えば、海吹が笑った。綺麗な顔で笑うものだから一瞬見惚れてしまったけれど、その笑みは嘲笑だった。

「あいつらは友だちじゃないよ。志月だって感じてるだろ。誰が決めたわけでもないのに、クラスで一番偉いのは誰で、底辺は誰だって、暗黙の了解がある。あいつらは俺のことを敵わない奴、逆らえない奴、偉い奴って勝手に決めつけて、群がってるだけ。相良なんて、その典型だよ」

海吹が立ち止まった。高い門扉を掴んで「ここ。うち」と言った。

「え?これ、家ですか?」

二メートルを優に越す門扉には電子ロックがかかっていた。門扉の向こうには芝生が敷かれた庭が広がっている。庭には、公園にあるような背の高い木々が植わり、噴水が置かれている。庭を抜けた先にある家も大きい。レンガ造りの洋館は、博物館か、文学館のようだ。

「俺の両親、芸能人なんだ。父は俳優で、母は引退してるけど元アイドル。俺が生まれて少しして、父が芸能事務所を立ち上げたんだ。だから、ここは自宅兼事務所兼スタジオなんだ。練習するには、もってこいだろ」

海吹が門扉を開ける。なんとなく身を縮めて、志月は門扉をくぐった。

「相良と揉めたのは、うちが原因なんだ。誰にも言ってないんだけど、どこからか俺の両親のことを知ったらしくて」
「あ!芸能人に会わせてほしいって頼まれたんですか?」
「いや、アイドルにしてくれって頼まれた」

相良は、確かに学年で一番かわいいと評判だ。でも、アイドルという感じではない。ギャル寄りの見た目で、乱暴な口調が目立つ。先ほども海吹を脅していた。志月には、どうしたって相良とアイドルを結び付けることができなかった。

「えぇ……と、揉めたってことは断わったんですか?」
「お前には華がないって言った。バッサリと」
「バッサリ、ですね……」

海吹と比べてしまっては、誰だって華がないだろう。海吹は立っているだけで人目を惹く。両親が芸能人と言われて、納得するオーラをまとっている。逆に、未だに一般人なのが不思議だ。

いくつも部屋を通り過ぎ、海吹が防音扉を開けた。

「ここで練習しよう」

防音室には、一通りの音響機器と楽器が揃っていた。ここで海吹はいつも練習しているのだろうか。海吹がギタースタンドに立てかけてある青色のギターを手に取った。

「セットリストは、どうする?志月が作ったやつでやる?」
「あれは、みんなが好きそうな曲を入れたものなので、海吹くんが良ければ『NOISE』の曲だけにしたいと思っています」
「いいね。俺と志月の二人だけのバンドなんだから、俺たちが好きな曲でやろう」
「はい!」

志月は通学鞄からペンケースを取り出し、『NOISE』の好きな曲を書き出した。

「海吹くんの好きな曲を教えてください」

海吹が志月の肩越しにリストを覗く。香水だろうか。爽やかな香りが通り過ぎた。

「へぇ。これ全部、志月が好きな曲?」
「はい」
「俺の好きな曲と同じだ」
「え。全部、海吹くんが好きな曲ですか?」
「うん。俺たち、好きなバンドが同じで、好きな曲も同じって、すごいね。偶然っていうか、運命みたいだ」
「……運命」

きっと、ただの偶然だ。普通なら、そう思う。でも、海吹は偶然で片づけなかった。運命なんて、恋に使う言葉を当てはめた。どうして。

「俺、相良みたいに色々頼みまれるのが面倒だから、家のことを誰かに話したことないんだ。まあ、変に遠巻きにされることが多かったから、家のことを話すような友人もいなかったんだけど。だから、こうやって志月と話してるのが不思議。友だちって、こういうことをいうのかな」

海吹が笑みを浮かべる。一軍の生徒のことを話すときの嘲笑とは違う、穏やかな微笑み。

一軍の王様である海吹に友だちと認められるなんて。凄いことなのに、志月は喜べなかった。嬉しいはずなのに、心がキシリと音を立てた。悲しいのだろうか、つらいのだろうか。もっと別の何かを期待していて、裏切られたような、求めていたものが得られなかったような喪失感。海吹といると、志月の心は騒がしくて、変になる。

「あ、飲み物。人を家に呼んだことがないから忘れてた。取ってくるから待ってて」

海吹が出て行く。

志月は顔を伏せた。どうしてか、火照(ほて)っていて、熱い。無心で、ギターをかき鳴らした。書き出した『NOISE』の曲を弾いていく。でも、ラブソングで手が止まった。何故か、海吹の顔がよぎった。弾くのが急に恥ずかしくなった。その時。

「兄さん、いる?」

防音室の扉が開いた。海吹を兄と呼ぶ、美しい顔が現れた。

「ん?誰?」
「は、初めまして。海吹くんのクラスメイトの夜部志月です。お邪魔してます」
「ども。新舟海吹の双子の弟の空河(くうが)です」
「双子?」
「二卵性だから似てないけど、ちゃんと弟です」

赤みがかったブラウンの癖毛。長い睫毛に覆われたアーモンドアイ。丸みを帯びた顔のパーツが多いためか、同い年の海吹より若干幼く見える。似ているのは、高い鼻と高身長、そして凄味のある美貌とオーラ。

「なんで、うちにいるの?」
「え、と。海吹くんに呼ばれたので」
「あー、そうじゃなくて、何の用事があって兄さんに呼ばれたの?」
「文化祭で、海吹くんとバンドを組むことになったんです。その練習で来ました」

空河の視線が志月が抱くギターに向けられる。

「本気?あの兄さんと組むの?」
「は、はい。本気です」
「罰ゲームじゃなくて?」
「違いますっ!初めは別のグループだったんですけど、僕が海吹くんを誘いました。それで一緒に組むことになって」
「兄さんが了承したの!?さっきクラスメイトだって言ってけど、本当は兄さんの友だち?」

志月は答えられなかった。

海吹は、友だちはいない、と言っていた。でも、今の志月との時間を友だちと過ごす時間みたいだ、とも言っていた。海吹の中で志月は友だちなのか、期間限定のバンドメンバーなだけなのか。それとも気まぐれなのか。分からない。志月は、海吹との関係をなんと表現すれば良いのか分からなかった。

「ただのクラスメイトですよ」

沈黙の末、志月はクラスメイトを貫き通すことにした。勝手に友だちと言い張ることも出来るけれど、海吹は神々しすぎる。王様の友だちを名乗る勇気もなければ、一軍の生徒のように群がる勇気もない。

「本当にただのクラスメイトかなぁ」

空河はまだ納得していないようだったけれど、「兄さんは?」と当初の質問に戻った。

「今、飲み物を取りに行っています」
「兄さんが、飲み物?」
「はい。二人分の飲み物を取ってくるって言ってました」
「やっぱり、ただのクラスメイトじゃないだろ」

防音扉に寄りかかって、空河は目を細めた。更衣室の扉に寄りかかる海吹と同じ態勢、同じ表情だった。さすがは双子だ。

「兄さんは、ただのクラスメイトを家に呼んだりしないし、飲み物を取ってきたりしない。友だちじゃないって言うなら、なに?もしかして、兄さんの恋人?」
「こ、恋人!?」

志月が椅子から腰を浮かせる。でも、胸に抱いていたギターを落としそうになって、慌てて座り直した。

「違います!本当にただのクラスメイトです。それに俺は男ですよ」
「兄さん、彼女連れてきたことないんだよ。それっぽいのは何人かいたみたいだけど、たぶん自称彼女っていうやつ。兄さんはモテてるけど、嬉しそうにしてたことはなくて、いつも面倒くさがってた。そんな兄さんが初めて家に連れて来た奴なんだ。友だちじゃないっていうなら、恋人だって思うだろ」
「無理すぎます。こんな地味な男……。海吹くんに釣り合わない」
「ふーん。兄さんと釣り合う見た目なら、兄さんの恋人になりたいんだ?」
「……え?」
「違うの?そう聞こえたけど。夜部さんは、兄さんが好きなんでしょ?」

空河が自信に満ちた美しい笑みを浮かべる。ゆっくり、防音室に入ってくる。長い脚が交互に動く様に見惚れてしまう。空河の手が伸びてきて、志月の長い前髪を持ち上げた。

「地味だけど、整った顔してる。もったいない。決めつけは良くないよ。あの兄さんが構うんだ。兄さんは、夜部さんに興味あると思うよ」

興味って、海吹も志月のことを好きだということだろうか。いや、「海吹も」ということは、「志月も」海吹が好きだということになる。

好き、なのかな。

見惚れるのも、顔が赤くなってしまうのも、ぐるぐる考えてしまうのも、海吹が綺麗だから志月が()てられてしまっているだけではないのか。好きゆえの反応なのか。

「なにしてんの、空河」

海吹がジュースを持って、防音室に入って来た。

「兄さんを探してたんだよ」

空河が志月の前髪を放す。

「何の用?お前、モデルの仕事は?」
「今日は休み。お取込み中みたいだから後でいいや。邪魔して、ごめん」

降参のポーズのように両手を挙げて、空河が出ていった。

「レモネードしかなかったんだけど、いい?」
「……」
「志月?」

海吹が志月の顔を覗き込んでくる。美しい顔が近づいて来る。空河がしたように海吹が志月の前髪を上げた。前髪に隠れた志月の顔が露わになる。

「どうした?」

志月の顔は真っ赤だった。海吹の美しい顔が映った目は、これでもかと大きく見開かれている。

ああ、好きなんだ。この美しい人が好きだったんだ。絶対に手に入らないのに、好きになってしまった。

空河のせいで、志月は気づいてしまった。同性で、一軍の、海吹への恋心に。