男子更衣室で体操服に着替え終えた志月は、教室から大切に持ってきたクリアファイルを胸に抱いた。深呼吸して、昨日から脳内で何度も練習してきた言葉を口に出した。
「バンド練習しませんか?」
海吹に「夜部の歌、聴いてみたいな」と言われてから一週間、志月はセットリストを練っていた。本当は海吹にリクエストされた『NOISE』の曲だけにしたかったけれど、他のメンバーのことも考えて高校生に人気の曲も入れた。ギター初心者でも弾けるようにパート分けした楽譜も書いた。
ここまで決めるのに一週間もかかってしまった。他のグループより出遅れてしまったけれど、今日から練習すれば本番までには弾けるようになるはずだ。でも。
「え、なんで?」
志月と同じ地味グループに分けられたメンバーが怪訝な顔をする。
「一度も練習してないから」
「練習する意味ある?」
メンバーたちが顔を見合わせる。みんな、志月の言葉の意味が心底分からないという表情だった。
「文化祭って、あいつらがパフォーマンスする場じゃん。俺らが目立って、どうすんの?」
「あいつらに目を付けられたくないし、恥かきたくないんだけど」
「じゃ、じゃあ、当日どうするの?」
志月の手から力が抜けていく。全員分の楽譜が入ったクリアファイルがひどく重い。
「あー、リコーダーは?授業でやった曲、適当にやろうぜ」
「お、いいな!練習しなくていいし!」
周りのメンバーたちも頷く。
「でも、出し物はバンドだよ。リコーダーだけって……」
「ギターなんて出来ないしなー」
「だから、練習を……」
「ピアノ弾くのは?あとで女子に弾けるか訊いてみようぜ。んで、校歌、歌っちゃう?」
リコーダーとピアノで校歌なんて、バンドとは言えない。志月のグループだけ、おかしな出し物になってしまう。なのに、他のメンバーたちは名案だ、とばかりに「決定!」と盛り上がっている。
「あ、衣装は?制服でいいか?」
「それで良いんじゃないか。楽器も、曲も、衣装も決まったし、当日までやることなくなったな」
「練習する必要ないしな。じゃー、後で女子に伝えて、当日まで解散でいいか」
ジャージの上を小脇に抱え、男子メンバーたちがぞろぞろとドアへ向かう。
「ちょっと!待って!そんなんで本当にいいの!?」
志月はクリアファイルを強く抱いて、声を絞り出した。
一軍に恥をかかされたくないと言ったのに、自分から恥をかく選択をするなんて。文化祭が嫌な思い出になってしまってもいいのだろうか。卒業するまで彼らの引き立て役でいいのだろうか。彼らはグループ分けの理由を知らないから、そんなことを言えるのだ。
練習をしようと言った志月に「え、なんで?」と返した男子生徒が振り返った。
「まだ何かあんの?もういいだろ。そんなに練習して目立ちたいわけ?俺らが主役になれるわけないだろ」
ああ、違う。彼らは志月とは違うのだ。進んで、引き立て役を買って出ているのだ。だから、グループ分けの理由を知って傷ついた志月と違って、彼らは理由を知ってもきっと傷つかないだろう。むしろ、二軍の、三軍の、役割をまっとうして、変わりない日常を送れることに安堵するだけだろう。
浮かれていたんだ。ちょっと海吹に気にかけてもらえたから頑張ってしまった。三軍の志月の歌なんて、誰も求めていない。聴いてもらえない。志月は舞台を熱狂させ、輝ける人ではない。
「目立ちたいならさ、一軍のグループに入れてくれって頼めば?まっ、あの新舟と歌う勇気があるならな!」
男子生徒が志月に嘲笑を浴びせる。志月と同じカースト三軍で、いつもは一軍の顔色を窺って息を殺しているのに。ここぞとばかりに、志月には上から接してくる。
どうして志月には強く言えて、一軍には卑屈になるのだろう。進んで引き立て役を買って出るのだろう。同じ学年の、クラスメイトなのに。誰が、何を基準にカーストを決めるのだろうか。
「俺がなに?」
志月を言い負かし、小さな勝利に浸る男子生徒の顔が一瞬で青褪めた。傍観していた他の男子生徒が一斉に顔を伏せる。
出入りのドアに、海吹が寄りかかって立っていた。
「なあ。俺の名前、呼んだよな?」
「な、なんでもない、です。夜部が用あるって……」
男子生徒は海吹と目も合わせられない。ブツブツ言って、更衣室から出ていく。他の男子生徒も逃げていく。
「なに、あいつ」
海吹が志月の隣のロッカーを開ける。体操服を投げ込んで、豪快にシャツを脱いだ。綺麗な顔に見合わず、案外、男っぽい。
一八〇センチメートルを優に超える海吹の体は、筋肉がついて、引き締まっていた。腹筋は綺麗に六つに割れている。着やせするタイプのようだ。
顔は綺麗で、肌は白くて、体は鍛えられている。こんな完璧な人を落とす女性は、どんな人なのだろう。海吹は、どんな女性を、その腕に抱いて、甘い言葉を囁き、キスをして、そして―――。
「エッチ」
海吹が志月に笑いかけた。
「え、あ」
見すぎた。見惚れていた。目が離せなかった。
志月の顔が真っ赤になる。
「エロいこと考えてた?ダメだよ」
「いやっ、そんなっ…‥‥」
海吹が体操服をかぶる。襟首に引っ張られ、白金の髪が揺れる。髪の隙間から金色のピアスがキラキラ光る。
「下は見せてあげない。俺が良いって言うまで、あっち向いてて」
志月の肩に海吹の手がかかる。くるり、と体の向きを反転させられた。
背後でベルトをはずす音がする。するりとズボンが落ち、海吹が屈んだ。
見えていないのに、手に取るように海吹の動きが分かる。二人しかいない更衣室には、衣擦れの音がよく響いた。
志月の心拍数が上がる。見ていないのに、見ている以上に悪いことをしている気分になる。いつもは同性が着替えていても何も思わないのに。どうして。
「もう良いよ」
お許しが出ても、志月は振り返れなかった。心臓が鎮まるのを待ってから、ゆっくり振り返った。
海吹はロッカーに取り付けられた鏡を前に、前髪を直していた。体育の邪魔にならないようにか、前髪をヘアピンで留めている。
「おまたせ」
ロッカーを閉めて、海吹が志月の方を向いた。
「で?用事ってなに?」
始業のチャイムが鳴る。体育の授業が始まってしまう。今から体育館に行くのでは、遅刻だ。
「放課後でもいいですか?急いで授業に行かないと」
「サボりなよ」
「でも……」
「あいつらと揉めてたでしょ。夜部にとっては、大事なことだったんじゃないの?」
大事なことだ。先ほどの男子生徒と同じく、普段の志月なら目立とうとは決して思わない。一軍に目を付けられては堪らない。でも、今回だけは別だ。どうしても曲げられなかった。だから、一週間前、海吹に言われた「夜部の歌、聴いてみたいな」という言葉に押されて一歩踏み出した。
今日も一歩踏み出せ。これはチャンスだ。今、更衣室には置いていかれた志月と遅れて来た海吹しかいない。
「あの、あ、あ、新舟くん……!」
「はい、なんですか?」
志月の勢いに押された海吹が敬語で返事をする。
「文化祭、俺と一緒にバンドをしませんか!?」
「……へぇ。俺と二人で?」
「は、はい」
チェーンピアスをしゃなりと揺らし、海吹が首を傾げる。
「夜部が俺のグループに入るんじゃなくて、二人で新しいグループを作ろうってこと?」
「そうです」
「なんで二人なわけ?」
「新舟くんと『NOISE』の曲をやりたくて」
緊張で体が熱い。クリアファイルを抱く志月の手に力がこもる。
海吹が志月の胸からクリアファイルを取った。
「あの……、新舟くん?」
パラパラと海吹が楽譜をめくる。セットリストが書かれた紙に目を通す。
「これ全部、夜部が作ったの?」
「はい。高校生に人気の曲を集めました。初心者でも弾けるように工夫して楽譜も作りました。でも、断わられてしまって」
「だろうね」
「え?」
「練習する意味ある?」
三軍の男子生徒と同じ返答に、志月は固まってしまった。
「あいつらのことだ。恥ずかしい思いはしたくないけど、目立って恥をかきたくないから練習はしない、とか言ったんだろ。矛盾してるけど、正解だよ。同じ引き立て役でも、気づいたらピエロになっているのと、自分からピエロになるのとでは違う。あいつらは自分からピエロになって、あと半年を無難に過ごすことを選んだんだよ」
「……それは、分かってます」
「なら、必死になって無理することないと思うけど。夜部はさ、このグループ分けの意味、知ってるだろ」
「はい……、知ってます。でも!」
「でも?」
「……悔しい」
志月の口からポツリと言葉がこぼれる。小さな子どもみたいな一言は二人の間に落ちて、沈黙の中に消えた。
「悔しい?それが夜部が必死になる理由?どういう意味?」
海吹には分からないだろう。今だって、そうだ。委縮している志月と、堂々としている海吹。同じクラスの生徒同士なのに、まったく立場が違う。きっと彼は、志月の感じた悔しさを感じたことがない。だから、理解が及ばない。無理をするな、諦めろ、と簡単に言える。それがまるで正しいことのように突きつけられる。
「バンド向きの顔じゃないから地味グループって、意味が分かりません。あの人たち、楽器なにも弾けませんよね?なのに、声が大きくて、化粧が上手くて、目立てば、バンド向きなんですか?俺のほうが絶対に歌上手いし、ギターを愛してます!」
殴りつけるように、志月は本音を吐いた。普段なら絶対に言えない。家族にだって言ったことがない。でも、どうしてか海吹を前にしたら本音が溢れた。言わなくてはいけない。このチャンスを、海吹を、逃してはいけないと思った。逃したくないと思った。
「愛してる、か。そういえば、左の指にタコがあったけど、長いの?」
「ギターと歌は中学入ってからです。独学ですけど……」
だから、「顔がぽくないから」いう理由で好きなものを好きでいることを否定されて、除け者にされて、許せなかったのだ。
でも、志月の本音を聞いても海吹の言葉は変わらなかった。
「ふーん。それでもやっぱ、なんで頑張るわけ?あんな奴ら、ほっとけばいいよ。粋がっていられるのなんて、今だけだろ。大学に行けば、大学のカーストがあるし、会社には会社のカーストがある。あいつらがずっとカーストの上位でいられると思う?」
「……無理です」
「そ、絶対に無理。十年後、あいつらは社会のカーストの最下位で、お前が上位にいるかもしれない。なら、今戦う意味ある?」
「ないです。でも、ギターと歌では負けたくない」
大好きだから、引き下がれない。彼らがギターと歌をオモチャやアクセサリーにするのを見たくない。認めたくない。
「音楽は武器じゃない。芸術に勝ち負けはない。それでも音楽であいつらを殴る?」
「はい」
「じゃあ、歌って」
「え?」
「本気なら今ここで歌って。俺とバンド組みたいんだろ。口説いてみてよ」
海吹が志月が作ったセットリストにある『NOISE』の曲を指差す。
「ま、待ってください!今ここでなんて……!」
「ギターは俺が弾くから」
「どういう……」
混乱する志月を無視して、海吹がロッカーからスマホを取り出す。画面をタップして、スマホを志月に向けた。
「これで弾く。本物じゃなくて悪いけど、俺も弾くから。歌ってみせて」
スマホの画面には、ギターの練習アプリが立ち上がっていた。簡易的な六本の弦が小さな画面に表示されている。
海吹が更衣室の中央に置かれた古いベンチに腰を下ろした。本物のギターを持つように、スマホを膝の上に置く。
志月はどうしていいのか、所在なさげに海吹の前に立った。
「俺を見て。俺の音を聴いて。……いくよ」
海吹の指が動く。スマホから『NOISE』の曲が流れでる。イントロが終わる。Aメロに入るとき、海吹の顔が上がった。志月を真っすぐ見つめてくる。
志月は口を開いた。海吹が「ちょっと色っぽくて良い」と言ってくれた掠れた声で歌を紡ぐ。緊張で、誤魔化しようがないくらい声は震えていた。でも、志月は歌った。大好きな歌を懸命に歌った。
地味で、三軍な志月では、誰かを熱狂させられないし、舞台で輝けないけれど、目の前の海吹に志月の本気を届けたい―――。
更衣室に響く志月の歌声に、海吹の顔から余裕が抜け落ちた。目を見開く。食い入るように、惹きつけられるように、志月を見つめた。普段の様子からは想像できないほど晴れやかな表情を浮かべ、楽しげに歌う志月がいた。使い込まれた、黴臭い更衣室が輝く舞台になった。歌う志月は海吹が今まで出会った誰よりも輝いていた。
アウトロに入り、曲が終わる。静寂が訪れた更衣室で志月と海吹は見つめ合った。
「……いいよ」
先に口を開いたのは、海吹だった。志月の前に立つ。
「バンド、組もう」
「……良いんですか?」
「夜部がいいと思った。一曲じゃ弾き足りない」
「あ、ありがとうございますっ!俺も新舟くんがいいです。一週間前に話したときから新舟くんと『NOISE』の曲をやりたいって思っていたんです。よろしくお願いします、新舟くん」
「メンバーなんだろ。海吹でいいよ。よろしく、志月」
苗字じゃなくて、名前。下の名前まで憶えていてくれたなんて。
「うぶき、くん」
「なに?」
舌の上で海吹の名前を転がして、志月は真っ赤になった。
美しい王様と二人きりでバンドを組めるなんて、夢みたいだ。気まぐれでもいい。一時でも、この美しい王様が志月だけのモノになるなら―――。
自分の中に初めて生まれた独占欲に志月は戸惑った。
どうして、海吹を独り占めしたいと思ったのだろう。バンドメンバーだから誰にも取られたくないと思ったのだろうか。
「バンド練習しませんか?」
海吹に「夜部の歌、聴いてみたいな」と言われてから一週間、志月はセットリストを練っていた。本当は海吹にリクエストされた『NOISE』の曲だけにしたかったけれど、他のメンバーのことも考えて高校生に人気の曲も入れた。ギター初心者でも弾けるようにパート分けした楽譜も書いた。
ここまで決めるのに一週間もかかってしまった。他のグループより出遅れてしまったけれど、今日から練習すれば本番までには弾けるようになるはずだ。でも。
「え、なんで?」
志月と同じ地味グループに分けられたメンバーが怪訝な顔をする。
「一度も練習してないから」
「練習する意味ある?」
メンバーたちが顔を見合わせる。みんな、志月の言葉の意味が心底分からないという表情だった。
「文化祭って、あいつらがパフォーマンスする場じゃん。俺らが目立って、どうすんの?」
「あいつらに目を付けられたくないし、恥かきたくないんだけど」
「じゃ、じゃあ、当日どうするの?」
志月の手から力が抜けていく。全員分の楽譜が入ったクリアファイルがひどく重い。
「あー、リコーダーは?授業でやった曲、適当にやろうぜ」
「お、いいな!練習しなくていいし!」
周りのメンバーたちも頷く。
「でも、出し物はバンドだよ。リコーダーだけって……」
「ギターなんて出来ないしなー」
「だから、練習を……」
「ピアノ弾くのは?あとで女子に弾けるか訊いてみようぜ。んで、校歌、歌っちゃう?」
リコーダーとピアノで校歌なんて、バンドとは言えない。志月のグループだけ、おかしな出し物になってしまう。なのに、他のメンバーたちは名案だ、とばかりに「決定!」と盛り上がっている。
「あ、衣装は?制服でいいか?」
「それで良いんじゃないか。楽器も、曲も、衣装も決まったし、当日までやることなくなったな」
「練習する必要ないしな。じゃー、後で女子に伝えて、当日まで解散でいいか」
ジャージの上を小脇に抱え、男子メンバーたちがぞろぞろとドアへ向かう。
「ちょっと!待って!そんなんで本当にいいの!?」
志月はクリアファイルを強く抱いて、声を絞り出した。
一軍に恥をかかされたくないと言ったのに、自分から恥をかく選択をするなんて。文化祭が嫌な思い出になってしまってもいいのだろうか。卒業するまで彼らの引き立て役でいいのだろうか。彼らはグループ分けの理由を知らないから、そんなことを言えるのだ。
練習をしようと言った志月に「え、なんで?」と返した男子生徒が振り返った。
「まだ何かあんの?もういいだろ。そんなに練習して目立ちたいわけ?俺らが主役になれるわけないだろ」
ああ、違う。彼らは志月とは違うのだ。進んで、引き立て役を買って出ているのだ。だから、グループ分けの理由を知って傷ついた志月と違って、彼らは理由を知ってもきっと傷つかないだろう。むしろ、二軍の、三軍の、役割をまっとうして、変わりない日常を送れることに安堵するだけだろう。
浮かれていたんだ。ちょっと海吹に気にかけてもらえたから頑張ってしまった。三軍の志月の歌なんて、誰も求めていない。聴いてもらえない。志月は舞台を熱狂させ、輝ける人ではない。
「目立ちたいならさ、一軍のグループに入れてくれって頼めば?まっ、あの新舟と歌う勇気があるならな!」
男子生徒が志月に嘲笑を浴びせる。志月と同じカースト三軍で、いつもは一軍の顔色を窺って息を殺しているのに。ここぞとばかりに、志月には上から接してくる。
どうして志月には強く言えて、一軍には卑屈になるのだろう。進んで引き立て役を買って出るのだろう。同じ学年の、クラスメイトなのに。誰が、何を基準にカーストを決めるのだろうか。
「俺がなに?」
志月を言い負かし、小さな勝利に浸る男子生徒の顔が一瞬で青褪めた。傍観していた他の男子生徒が一斉に顔を伏せる。
出入りのドアに、海吹が寄りかかって立っていた。
「なあ。俺の名前、呼んだよな?」
「な、なんでもない、です。夜部が用あるって……」
男子生徒は海吹と目も合わせられない。ブツブツ言って、更衣室から出ていく。他の男子生徒も逃げていく。
「なに、あいつ」
海吹が志月の隣のロッカーを開ける。体操服を投げ込んで、豪快にシャツを脱いだ。綺麗な顔に見合わず、案外、男っぽい。
一八〇センチメートルを優に超える海吹の体は、筋肉がついて、引き締まっていた。腹筋は綺麗に六つに割れている。着やせするタイプのようだ。
顔は綺麗で、肌は白くて、体は鍛えられている。こんな完璧な人を落とす女性は、どんな人なのだろう。海吹は、どんな女性を、その腕に抱いて、甘い言葉を囁き、キスをして、そして―――。
「エッチ」
海吹が志月に笑いかけた。
「え、あ」
見すぎた。見惚れていた。目が離せなかった。
志月の顔が真っ赤になる。
「エロいこと考えてた?ダメだよ」
「いやっ、そんなっ…‥‥」
海吹が体操服をかぶる。襟首に引っ張られ、白金の髪が揺れる。髪の隙間から金色のピアスがキラキラ光る。
「下は見せてあげない。俺が良いって言うまで、あっち向いてて」
志月の肩に海吹の手がかかる。くるり、と体の向きを反転させられた。
背後でベルトをはずす音がする。するりとズボンが落ち、海吹が屈んだ。
見えていないのに、手に取るように海吹の動きが分かる。二人しかいない更衣室には、衣擦れの音がよく響いた。
志月の心拍数が上がる。見ていないのに、見ている以上に悪いことをしている気分になる。いつもは同性が着替えていても何も思わないのに。どうして。
「もう良いよ」
お許しが出ても、志月は振り返れなかった。心臓が鎮まるのを待ってから、ゆっくり振り返った。
海吹はロッカーに取り付けられた鏡を前に、前髪を直していた。体育の邪魔にならないようにか、前髪をヘアピンで留めている。
「おまたせ」
ロッカーを閉めて、海吹が志月の方を向いた。
「で?用事ってなに?」
始業のチャイムが鳴る。体育の授業が始まってしまう。今から体育館に行くのでは、遅刻だ。
「放課後でもいいですか?急いで授業に行かないと」
「サボりなよ」
「でも……」
「あいつらと揉めてたでしょ。夜部にとっては、大事なことだったんじゃないの?」
大事なことだ。先ほどの男子生徒と同じく、普段の志月なら目立とうとは決して思わない。一軍に目を付けられては堪らない。でも、今回だけは別だ。どうしても曲げられなかった。だから、一週間前、海吹に言われた「夜部の歌、聴いてみたいな」という言葉に押されて一歩踏み出した。
今日も一歩踏み出せ。これはチャンスだ。今、更衣室には置いていかれた志月と遅れて来た海吹しかいない。
「あの、あ、あ、新舟くん……!」
「はい、なんですか?」
志月の勢いに押された海吹が敬語で返事をする。
「文化祭、俺と一緒にバンドをしませんか!?」
「……へぇ。俺と二人で?」
「は、はい」
チェーンピアスをしゃなりと揺らし、海吹が首を傾げる。
「夜部が俺のグループに入るんじゃなくて、二人で新しいグループを作ろうってこと?」
「そうです」
「なんで二人なわけ?」
「新舟くんと『NOISE』の曲をやりたくて」
緊張で体が熱い。クリアファイルを抱く志月の手に力がこもる。
海吹が志月の胸からクリアファイルを取った。
「あの……、新舟くん?」
パラパラと海吹が楽譜をめくる。セットリストが書かれた紙に目を通す。
「これ全部、夜部が作ったの?」
「はい。高校生に人気の曲を集めました。初心者でも弾けるように工夫して楽譜も作りました。でも、断わられてしまって」
「だろうね」
「え?」
「練習する意味ある?」
三軍の男子生徒と同じ返答に、志月は固まってしまった。
「あいつらのことだ。恥ずかしい思いはしたくないけど、目立って恥をかきたくないから練習はしない、とか言ったんだろ。矛盾してるけど、正解だよ。同じ引き立て役でも、気づいたらピエロになっているのと、自分からピエロになるのとでは違う。あいつらは自分からピエロになって、あと半年を無難に過ごすことを選んだんだよ」
「……それは、分かってます」
「なら、必死になって無理することないと思うけど。夜部はさ、このグループ分けの意味、知ってるだろ」
「はい……、知ってます。でも!」
「でも?」
「……悔しい」
志月の口からポツリと言葉がこぼれる。小さな子どもみたいな一言は二人の間に落ちて、沈黙の中に消えた。
「悔しい?それが夜部が必死になる理由?どういう意味?」
海吹には分からないだろう。今だって、そうだ。委縮している志月と、堂々としている海吹。同じクラスの生徒同士なのに、まったく立場が違う。きっと彼は、志月の感じた悔しさを感じたことがない。だから、理解が及ばない。無理をするな、諦めろ、と簡単に言える。それがまるで正しいことのように突きつけられる。
「バンド向きの顔じゃないから地味グループって、意味が分かりません。あの人たち、楽器なにも弾けませんよね?なのに、声が大きくて、化粧が上手くて、目立てば、バンド向きなんですか?俺のほうが絶対に歌上手いし、ギターを愛してます!」
殴りつけるように、志月は本音を吐いた。普段なら絶対に言えない。家族にだって言ったことがない。でも、どうしてか海吹を前にしたら本音が溢れた。言わなくてはいけない。このチャンスを、海吹を、逃してはいけないと思った。逃したくないと思った。
「愛してる、か。そういえば、左の指にタコがあったけど、長いの?」
「ギターと歌は中学入ってからです。独学ですけど……」
だから、「顔がぽくないから」いう理由で好きなものを好きでいることを否定されて、除け者にされて、許せなかったのだ。
でも、志月の本音を聞いても海吹の言葉は変わらなかった。
「ふーん。それでもやっぱ、なんで頑張るわけ?あんな奴ら、ほっとけばいいよ。粋がっていられるのなんて、今だけだろ。大学に行けば、大学のカーストがあるし、会社には会社のカーストがある。あいつらがずっとカーストの上位でいられると思う?」
「……無理です」
「そ、絶対に無理。十年後、あいつらは社会のカーストの最下位で、お前が上位にいるかもしれない。なら、今戦う意味ある?」
「ないです。でも、ギターと歌では負けたくない」
大好きだから、引き下がれない。彼らがギターと歌をオモチャやアクセサリーにするのを見たくない。認めたくない。
「音楽は武器じゃない。芸術に勝ち負けはない。それでも音楽であいつらを殴る?」
「はい」
「じゃあ、歌って」
「え?」
「本気なら今ここで歌って。俺とバンド組みたいんだろ。口説いてみてよ」
海吹が志月が作ったセットリストにある『NOISE』の曲を指差す。
「ま、待ってください!今ここでなんて……!」
「ギターは俺が弾くから」
「どういう……」
混乱する志月を無視して、海吹がロッカーからスマホを取り出す。画面をタップして、スマホを志月に向けた。
「これで弾く。本物じゃなくて悪いけど、俺も弾くから。歌ってみせて」
スマホの画面には、ギターの練習アプリが立ち上がっていた。簡易的な六本の弦が小さな画面に表示されている。
海吹が更衣室の中央に置かれた古いベンチに腰を下ろした。本物のギターを持つように、スマホを膝の上に置く。
志月はどうしていいのか、所在なさげに海吹の前に立った。
「俺を見て。俺の音を聴いて。……いくよ」
海吹の指が動く。スマホから『NOISE』の曲が流れでる。イントロが終わる。Aメロに入るとき、海吹の顔が上がった。志月を真っすぐ見つめてくる。
志月は口を開いた。海吹が「ちょっと色っぽくて良い」と言ってくれた掠れた声で歌を紡ぐ。緊張で、誤魔化しようがないくらい声は震えていた。でも、志月は歌った。大好きな歌を懸命に歌った。
地味で、三軍な志月では、誰かを熱狂させられないし、舞台で輝けないけれど、目の前の海吹に志月の本気を届けたい―――。
更衣室に響く志月の歌声に、海吹の顔から余裕が抜け落ちた。目を見開く。食い入るように、惹きつけられるように、志月を見つめた。普段の様子からは想像できないほど晴れやかな表情を浮かべ、楽しげに歌う志月がいた。使い込まれた、黴臭い更衣室が輝く舞台になった。歌う志月は海吹が今まで出会った誰よりも輝いていた。
アウトロに入り、曲が終わる。静寂が訪れた更衣室で志月と海吹は見つめ合った。
「……いいよ」
先に口を開いたのは、海吹だった。志月の前に立つ。
「バンド、組もう」
「……良いんですか?」
「夜部がいいと思った。一曲じゃ弾き足りない」
「あ、ありがとうございますっ!俺も新舟くんがいいです。一週間前に話したときから新舟くんと『NOISE』の曲をやりたいって思っていたんです。よろしくお願いします、新舟くん」
「メンバーなんだろ。海吹でいいよ。よろしく、志月」
苗字じゃなくて、名前。下の名前まで憶えていてくれたなんて。
「うぶき、くん」
「なに?」
舌の上で海吹の名前を転がして、志月は真っ赤になった。
美しい王様と二人きりでバンドを組めるなんて、夢みたいだ。気まぐれでもいい。一時でも、この美しい王様が志月だけのモノになるなら―――。
自分の中に初めて生まれた独占欲に志月は戸惑った。
どうして、海吹を独り占めしたいと思ったのだろう。バンドメンバーだから誰にも取られたくないと思ったのだろうか。
