――都、ご飯は食べて帰らないの?
母の言葉が脳裏をかすめて樋渡都は下唇を噛んだ。母の死から1週間経ったこの日の夕方、都は白い鉢を両手で抱え、大通りの歩道を歩いている。
目線の先にある茶色くなったバラが不安気に揺れている。母が《《育てるはずだった》》このバラを枯らしたくない。
都は両手に力を込める。
五月だというのにこの蒸し暑さ……顔が汗ばんでくる。腕にTシャツの生地がひっついてきて気持ちが悪い。
――この雲……。
灰色に覆われた重厚な雲が胸をざわつかせる。
「降ってきた……」
雨音が激しくなり、あっという間に歩道が濡れて車道を走る車が一斉にライトを点灯した。
紺色のカーディガンが真っ黒に滲み、背中から入り込んでくる水滴が背筋をくすぐってくる。
――どうしよう。
『天坂バラ園』は駅で電車を降りてから徒歩15分とスマホのナビにあったが、中途半端な所で夕立ちに遭遇してしまった。
今思えばバラ園に連絡すれば訪問してくれたかもしれないのに。
呆然と立ち尽くしているうちに髪の毛先から水滴がポタポタ落ちてきて視界がぼやけてくる。
側にある街路樹じゃ雨宿りにもならない。
――もうこのまま行ってしまおう。
「ここ?」
都は洋風の黒い門を抜けて天坂バラ園の敷地内に入った。
――お店の入口はどこ?
五十メートルプールほどの広さの敷地にバラの鉢が並列に置かれている。視線の先にはオレンジ色に灯る二階建ての洋館が建っている。あそこに行けばいいのかもしれない。
身体が冷えて身震いがする。
歩くたびに目の前でバラの枝が揺れ、葉先から一斉に雨粒が落ちる。スニーカーが「ブジュウ……ブジュウ」と嫌な音を立てる。鉢の土が雨水を吸い込んだからか米袋のように重い。
――手が痺れてきた。
都は一旦鉢を降ろした。モールで細い枝にかかっている名刺サイズのカードが視界に入る。
『ストロベリーアイス』
――ああ、そうだった。
このバラの名まえだ。名まえの下にフリルのような桜色のバラの写真が載っている。しかし、都が持っているストロベリーアイスはバーナーで炙られたように変色している。指でつまんだらスナック菓子のようにチリとなり落ちてしまいそうだ。
「あっ!」
鉢を持ち上げようとすると手が滑って鈍い音がした。いけない。バラは無事のようだけど、アリの巣のような土の山ができてしまった。
「いたっ!」
鉢を立て直して土を入れようとしたら、根元にある棘が指に刺さった。土がついた中指のシワからじんわりと出血する。
側にある自転車置場の屋根から雹が落ちているような音が鳴り響く。木製の壁に貼ってあるポスターが目に入った。
赤い文字に淡いピンクの背景、テレビでよく見る俳優が赤いバラの花束を持って笑みを浮かべている。母の日のポスターだろうか。
――都は律儀ね。
都は母の日に実家に帰り、花を育てることが好きだった母にホームセンターで買ったバラをプレゼントした。鉢を両手で持ち、目尻にしわを作る母が脳内に浮かぶ。
――都、ご飯は食べて帰らないの?
実家で母からそう声を掛けられたのに、セキセイインコを待たせているからと早々に帰ってしまった。
その次の日の晩に母が大動脈解離で帰らぬ人となるなんて……。
――お母さん、もう会えない……。
力が抜けてその場にへたり込む。
母はまだ五十代なのに早すぎる旅立ちだ。もっとやりたいことがあっただろう。自分もまさかこんなに早く母と今生の別れとなるなんて微塵も想像していなかった。
目の前のストロベリーアイスが涙しているように濡れている。都も目の奥から雫があふれ出てきた。
服が雨水を吸い込んで身体が重い。下半身もかなり冷えてきた。前髪に染み込む雨粒で視界がぼんやりする。
保育士の仕事も人間関係で挫折して昨年度末で辞めてしまった。
母もいなくなってしまった。
そして、目の前のバラも救えない。
「ごめんなさい。……ごめんなさい」
なんだか疲れてきた。もう何もかも嫌になってきた。
この雨で、自分も溶けて側にある排水溝に流れていってしまったらいいんだ……。
都はガックリとうつ向いた。
もうお終い――。
「あの!」
はっとして顔を上げると、傘を持った男性が駆け寄ってきた。
「これ使ってください。ビショビショじゃないですか……」
男性が大きな傘を持ったまましゃがみ、白いタオルを都の頭に掛けた。
エプロンの胸元の名札に『宮崎』と書かれているのが見える。
おそるおそる宮崎に視線を向けると、黒髪で清潔感のあるナチュラルパーマ、鼻筋が通っていてシャープな頬、そして穏やかで澄んだ瞳……。
都と同年代に見える。
「あ、あの……」
困惑していると前方から「恋君、どうしたの?」と、女性の声が耳に入ってきた。
金の丸眼鏡をした小柄な女性が、大きなバラ柄の傘をさしながら様子を伺っている。
「天坂さん、この人、このままだと風邪確定です」
恋という男性は都から視線を外さない。
「あらあら、びしょびしょじゃない」
女性は右手で口を押さえて分かりやすいリアクションをしている。自分はそんなに哀れな姿なんだろうか。
「ごめんなさい。あの、また来ます」
こんな姿では受け入れてはくれないだろう。また明日、出直して――。
「それはできません」
「えっ? あっ!」
恋は立ち上がろうとした都の右手首をつかんだ。
「こんな状態のあなたを放っておくことはできませんよ」
キリッとした表情を見せられ、つかまれた右手首にじんわり熱がこもった。
「さあさあ、中に入って」
天坂という女性がいつの間にか都の背後に回り込み背中を押してきた。
都は二人に身を委ねるしかなかった。
都は一階のスタッフルームでバラ園の着替え一式を借りた。
黒いギンガムチェックのシャツとベージュのパンツに着替え、肩のあたりで切り揃えている黒髪もドライヤーをあててすっかり乾いた。
スタッフルームから出ると目の前は受付カウンターとなっている。
パソコンの画面を眺めていた三十代くらいの女性スタッフと目が合った。名札に加島という文字が見える。
「あ、着替えた? ちょっと待っててね」
黒髪を頭頂部でお団子にしている加島は後ろの重厚なドアをノックする。
「天坂さん、さっきの女性――」
加島が軽く頷き、都を手招きする。
「どうぞ。入って」
奥から女性の声が聴こえる。この声、あの金縁眼鏡の女性だ。確か天坂という名だった。肩をすくめながら室内を覗くと、天坂は革製の椅子に座って目元に笑みを浮かべている。
「どうぞ」
「……すみません」
「あら、どうして謝るの?」
田舎にいる気の優しいお婆ちゃんという感じだが、何もかも知り尽くしている英知を内側から発していて視線を合わせづらい。
都は意味もなく周りを見渡す。
クリーム色の壁には花や風景の額が飾られている。木製テーブルの上にはバラ柄の読書用ランプが置かれていて、テーブルを柔らかに照らしている。
所在なさげにしていると後ろにいる加島が木製の椅子を引いた。座ってということらしい。腰を落ち着ける。
「コーヒーを淹れたわ。冷えた身体を温めてちょうだい」
落ち着きのある天坂の口調に促され、都は花柄のコーヒーカップに口をつけた。
「……おいしいです」
後方からノックの音が聞こえた。
「失礼します」
地面を叩きつけるような激しい雨音が聞こえてくる。
最初に声を掛けてきた宮崎という男性だ。ストロベリーアイスの鉢を片手で持っている。入れ替わりで加島が部屋を出て雨音が止んだ。
都はコーヒーカップを置いて背筋を伸ばす。
宮崎はストロベリーアイスの鉢を都の右隣に置いてしゃがんだ。宮崎の黒髪もしっとりと濡れている。都を介抱したからだろう。
「あの、このバラをなんとかしたくて持ってきたんじゃないですか?」
「はい。家族が水をあげるのを忘れていたみたいで、花や葉っぱが茶色に変色してしまったんです。それで、なんとかしたくて実家から持って帰ったんですけど……」
宮崎は無言で頷いている。
「肥料をたくさんあげても変化がないし、水をあげるとボロボロと葉が落ちちゃって、どうしよう、枯れちゃうって……だから、バラのお店だったら何とかしてくれるかもと思って……」
「それでウチに持ってきたのね?」
天坂は悟ったような表情でコーヒーカップに口をつけている。
「あの、葉が落ちたのは枯れてしまったからではありません。再生するために、この子が自ら葉を落としたんですよ」
「再生?」
「この蕾は残念ですが花が開くことはありません。かわいそうと思うかもしれないけど切ってあげた方がいい。そうすれば、バラはまた次の花を咲かせる準備をします」
「次の花? じゃあ、このバラ助かるんですか?」
宮崎は頷いて微笑んだ。淀みがない口調と誠実な瞳だ。
「まずは花を切って十分に水やりを行ってください。そして、日当たりのいい場所に置くといい。数日経てば、新しい芽が出てきますよ」
「恋君、まずはストロベリーアイスを窮屈な鉢から解放してあげましょう」
天坂がコーヒーカップを持ったまま、視線を宮崎に合わす。
「そうでした。あの、このストロベリーアイスを植え替えしてもいいですか?」
「植え替え?」
「ストロベリーアイスはまだ死んでいない。助かりますよ」
宮崎が経験豊富な医師のように見えてきた。
「お願いします」
宮﨑がストロベリーアイスの鉢を持って再び部屋を後にした。
両手にコーヒーカップを持ったまま天坂が都に視線を合わしてくる。
「それにしても、あの鉢を持って歩いてやってくるなんてね。連絡してくれたら恋君を派遣できたのに。無鉄砲さんねぇ」
そうだろうなと肩を落とす。
「市内のバラ園はここしかなかったから……。でも、連絡することまで気が回りませんでした」
「でも、根性があるわ」
「い、いえ」
そんなことはない。年度末に保育士の仕事を1年で辞めてしまっている。
「あなた、おいくつ?」
「21……今年で22になります」
「お住まいは?」
この街に長く住んでいるわけではないが、自分が住んでいる二階建てアパートと近所の画像を頭で想像する。
「清水町に住んでいます。えっと、城山が近いんです。夜はお城が白く光って綺麗なんですけど……」
「ああ。城山の北にある大通りの辺り?」
「そうです」
大通りは城山と学生街の無数のマンションに挟まれている大きな道路だ。秋は道路の中央分離帯にある銀杏並木が評判となっている。
「あの辺りは学生街でマンションが多いわよね。21歳ということは学生さん?」
「えっと……」
保育士と答えかけたがやめた。唇を結ぶと、天坂はなんとなく察したようだ。
「ごめんなさい、質問攻めしちゃって。クッキーもどうぞ」
「ありがとうございます」
ロイヤルな円形の小皿にクッキーが二枚ある。都が遠慮気味にクッキーを口に含んだ瞬間ドアが開いた。
――えっ?
宮崎だ。右手に大きな白い鉢を持っている。
――これ、ストロベリーアイス?
都が持ってきた時は根元から五つほど枝分かれして、枝先に無数の枯れかけの花があったはずだ。今は休眠中のアジサイのように半分の高さに切り取られている。でも一本だけ長い枝が残っていて、閉じたままの蕾が一輪ある。
「お待たせしました」
スッキリとしてしまったストロベリーアイスの姿に都は言葉を失う。宮﨑は都の右隣に鉢を置いた。
「鉢を7号から9号に植え替えしておきました」
「あ、ありがとうございます」
鉢が大きくなり土の面積が広くなったように見える。ダークブラウンの新鮮な土だ。
「これでしばらく様子を見てください。土の表面が乾いたら鉢の底から水が流れるまで水やりをしてください」
――ちょっと待って。
花も葉もない。枝も切られている。これで助かると言われても首を傾げたくなる。この人、本当に大丈夫なのだろうか。
都の表情に気づいたのか、宮崎は優しい笑みを浮かべた。
「心配だと思いますが肥料はあげないでくださいね。適切な関わりをしていたらこの子は復活します。大丈夫」
宮崎は念を押しているように見える。
「分かりました。やってみます」
一輪の蕾を見つめていると、宮崎が都に剪定ばさみを渡してきた。
「えっ?」
「この剪定ばさみで最後に残った蕾を切ってください」
「私が……ですか?」
「その方がストロベリーアイスにあなたの気持ちが伝わると思います。これから長い付き合いになると思いますから」
――長い付き合い。
枯れ木のようにしか見えないが、誠実そうな宮崎が冗談を言っているようにも思えない。
「……やってみます」
都は剪定ばさみを握って蕾に照準を定めた。
「蕾より……もうちょっと下、そうですね、ここを切るといいと思います」
宮崎は蕾の下の茎を指差した。
「はい」
母に代わって自分がストロベリーアイスを育てていく責任感が芽生えてきた。
――やるしかない。
右手に力を入れた瞬間、コーヒーカップから上がる湯気を見つめている天坂が笑みを浮かべた気がした。
店外に出ると雨は上がっていた。雨雲は東に抜けたみたいで道路から水を蹴る車の音が聞こえてくる。
――お母さん、ストロベリーアイスは助かるって。私が代わりに育てるね。
黒い夜空に点々と星が輝いている。母もあの星のどこからか見ているのだろうか。
振り返ると玄関の緑の看板に『AMASAKA ROSE GARDEN』と黄金に記されている。建物と向かい側にある平屋の倉庫に小さな電灯がつなぎ合わせていて美しく灯っている。
――来てよかった。
宮崎が店から鍵を鳴らしながら出てきた。
「じゃあご自宅に送りますね」
「あ、あの」
ワゴンタイプの社用車のトランクから宮崎が顔を覗かせる。
「雨宿りさせてもらって、ありがとうございました。その……助かりました」
モジモジしながらお礼を言うと、宮崎がクシャッと笑顔を見せてきた。
「助手席にどうぞ」
大通りを天坂バラ園の社用車が走る。
「じゃあこのストロベリーアイスは、お母さんのですか?」
「母が育てる予定でしたけど、1週間前に亡くなってしまって……」
「そうだったんですね……」
ハンドルを握る宮崎が神妙な横顔になった。
「私は母との最後の関わりを後悔していて……だから、せめてこのバラだけでも助けたいと思って。……自己満足なんですけど」
「いえ、素敵だと思います」
「えっ?」
「その考え方、素敵だと思いますよ。だから、ストロベリーアイスは大丈夫。僕が保証します」
優しい笑顔を向ける人だ。
「ありがとうございます」
横目で盗み見する。
隣でシフトレバーを握っている宮崎の左腕と、都のか細い右腕とはほとんど隙間がない。男性とこんなに近い距離で座るなんていつ以来だろうか。
「樋渡さん」
「えっ?」
名まえを呼ばれて肩をすくめた。そういえば、天坂バラ園の会員登録をした時に名まえを書いたのだった。
「樋渡さんなら、きっと美しいストロベリーアイスを咲かせることができますよ」
「そんな、宮崎さんのようにプロじゃないから……」
その瞬間、宮崎の表情が曇った気がした。
「僕も中学生の時に、姉からバラを引き継いだことがありました」
――えっ?
「ですが、何の知識もなかった僕は、水をあげすぎて根腐れさせてしまったんです」
その話、なんだか――。
「樋渡さんの話を聞いているうちに、僕は姉のバラのことを思い出しました」
信号待ちになり、宮崎が悲し気な瞳を向ける。
「姉の願いを叶えられなかった僕は、高校で園芸の知識を身につけ、高校の担任から勧められて天坂バラ園に就職したんです」
「そうだったんですね……」
再び車が動き出して宮崎が前を向いた。
「樋渡さんを見かけた時……そう、弱ったストロベリーアイスを目の前に泣いている樋渡さんを見て助けなきゃと思いました。あなたの想いを聞いて、僕は正直、なんて美しい心を持った人なんだと思いました。ピンクのバラの花言葉は『可愛らしさ』……なんだか樋渡さんに合いますね」
宮崎の声が身体の芯にまで伝わってきて……なんだろう、胸の鼓動が早くなってくる。
「着きました。ここで合っていますか?」
「えっ?」
ハッとした。目の前に見慣れた二階建てのアパートがある。天坂バラ園に行く時は30分もかかったのに、車だと5分もかからない。
――もう少し話がしたかったな。
車を降り、階段を上って203号室の玄関前に宮崎が白い鉢を置いた。背筋を伸ばして「ふうっ」と息をついている。
「宮崎さん、ありがとうございました。ここまで送っていただいて」
宮崎は爽やかに笑い「それでは、僕はこれで失礼します」と肩幅のある背中を見せた。
都はストロベリーアイスに視線を落とす。
花もない。葉もない。ただただ、静かに眠っているようだ。
――ピンクのバラの花言葉は『可愛らしさ』……なんだか樋渡さんに合いますね。
「あ、あの!」
「はい?」
咄嗟に呼び止めてしまった。しばらく沈黙が続き、隣の田んぼから虫の鳴く声が静かに聴こえてくる。
何か言わないと……。
「その……また分からないことがあったら、聞きに行ってもいいですか?」
宮崎が頷いて微笑する。
「いつでも待っています」
♢
「すごい人……」
天坂バラ園の駐車場は満車になっている。
初めて訪問したあの雨の日とはうって変わり、店の庭園に展示されているバラに訪れた客が夢中になっている。
都は宮崎がいないか視線を右往左往させる。
――いた。
宮﨑は白い長袖Tシャツにジーンズという清潔感のある服装だ。あの時と同じカーキ色の園芸用エプロンをしている。
都も無数のバラが展示されている園内に入る。急に緊張してきて緑のキャミソールワンピースの肩紐を無意識につまんだ。
「あ、樋渡さん」
深緑の鉢を両手に持って移動していた宮崎が都に気づいた。都は胸が詰まって声を発せない。
宮﨑が側まで来て、大きなバラの鉢を置いて土埃を払う。
「ストロベリーアイス、どうなりました?」
「新芽が出てきたんです」
スマホの画像を見せる。
「あっ、本当だ。よかったですね」
都は今朝のことを思い出す。
――あっ! 芽吹いている! 芽が出ている!
ストロベリーアイスの茎のあらゆるところからタケノコのように赤い新芽が1センチほど出ていたのだ。
「ストロベリーアイスって、本当に強いんですね」
「樋渡さんが生きてほしいと強く願ったからですよ」
宮崎がスマホの画面を眺めながら呟いた。
「あの、これからはどうしたらいいんですか?」
「ストロベリーアイスは四季咲きなので、このまま順調に育てば来月には二番花が咲きますよ」
「えっ? バラって一年中咲くんですか?」
きょとんとする都を見て宮崎は人差し指で鼻をすする。
「一年中ではありません。四季咲きの花は五月に一度剪定しておいたら四十日後くらいにまた花を咲かせるんです。楽しみにしていてください」
「よかった……」
都は周りを見渡す。
鮮やかなバラの花が咲き誇っていて、穏やかな風を心地よく受けている。
このバラたちも、雨風や病気を乗り越えて長い年月をかけて育ってきたんだろう。
バラって、なんて美しいんだろう。なんて逞しいんだろう。
――どうしたら、折れない心を育むことができるんだろう……。
空を眺めるとクロワッサンのような雲がいくつか浮いている。仕事をしていた時は時間に追われて余裕がなかったのに、今は時間の流れがゆっくりに感じる。
こんなに胸が温かくなったのはいつ以来だろう。
「樋渡さん、よかったらバラの講座に出てみませんか?」
「えっ?」
「来月、初心者向けのバラの育て方講座があるんです。天坂さんが講師なんですけど、僕もアシスタントで出る予定です」
2人の間に風が通り抜け、足元にある赤いバラがさわさわと揺れる。
都のアパートのベランダで日射しを浴びているであろうストロベリーアイスは、これから葉が出てきて再生していくんだろう。
――私も、ストロベリーアイスのように……。
「宮崎さん、私、もっとバラのこと知りたいです」
――……あなたのことも。
宮崎の頬が上がった瞬間、都の中でも何かが芽吹いた。
母の言葉が脳裏をかすめて樋渡都は下唇を噛んだ。母の死から1週間経ったこの日の夕方、都は白い鉢を両手で抱え、大通りの歩道を歩いている。
目線の先にある茶色くなったバラが不安気に揺れている。母が《《育てるはずだった》》このバラを枯らしたくない。
都は両手に力を込める。
五月だというのにこの蒸し暑さ……顔が汗ばんでくる。腕にTシャツの生地がひっついてきて気持ちが悪い。
――この雲……。
灰色に覆われた重厚な雲が胸をざわつかせる。
「降ってきた……」
雨音が激しくなり、あっという間に歩道が濡れて車道を走る車が一斉にライトを点灯した。
紺色のカーディガンが真っ黒に滲み、背中から入り込んでくる水滴が背筋をくすぐってくる。
――どうしよう。
『天坂バラ園』は駅で電車を降りてから徒歩15分とスマホのナビにあったが、中途半端な所で夕立ちに遭遇してしまった。
今思えばバラ園に連絡すれば訪問してくれたかもしれないのに。
呆然と立ち尽くしているうちに髪の毛先から水滴がポタポタ落ちてきて視界がぼやけてくる。
側にある街路樹じゃ雨宿りにもならない。
――もうこのまま行ってしまおう。
「ここ?」
都は洋風の黒い門を抜けて天坂バラ園の敷地内に入った。
――お店の入口はどこ?
五十メートルプールほどの広さの敷地にバラの鉢が並列に置かれている。視線の先にはオレンジ色に灯る二階建ての洋館が建っている。あそこに行けばいいのかもしれない。
身体が冷えて身震いがする。
歩くたびに目の前でバラの枝が揺れ、葉先から一斉に雨粒が落ちる。スニーカーが「ブジュウ……ブジュウ」と嫌な音を立てる。鉢の土が雨水を吸い込んだからか米袋のように重い。
――手が痺れてきた。
都は一旦鉢を降ろした。モールで細い枝にかかっている名刺サイズのカードが視界に入る。
『ストロベリーアイス』
――ああ、そうだった。
このバラの名まえだ。名まえの下にフリルのような桜色のバラの写真が載っている。しかし、都が持っているストロベリーアイスはバーナーで炙られたように変色している。指でつまんだらスナック菓子のようにチリとなり落ちてしまいそうだ。
「あっ!」
鉢を持ち上げようとすると手が滑って鈍い音がした。いけない。バラは無事のようだけど、アリの巣のような土の山ができてしまった。
「いたっ!」
鉢を立て直して土を入れようとしたら、根元にある棘が指に刺さった。土がついた中指のシワからじんわりと出血する。
側にある自転車置場の屋根から雹が落ちているような音が鳴り響く。木製の壁に貼ってあるポスターが目に入った。
赤い文字に淡いピンクの背景、テレビでよく見る俳優が赤いバラの花束を持って笑みを浮かべている。母の日のポスターだろうか。
――都は律儀ね。
都は母の日に実家に帰り、花を育てることが好きだった母にホームセンターで買ったバラをプレゼントした。鉢を両手で持ち、目尻にしわを作る母が脳内に浮かぶ。
――都、ご飯は食べて帰らないの?
実家で母からそう声を掛けられたのに、セキセイインコを待たせているからと早々に帰ってしまった。
その次の日の晩に母が大動脈解離で帰らぬ人となるなんて……。
――お母さん、もう会えない……。
力が抜けてその場にへたり込む。
母はまだ五十代なのに早すぎる旅立ちだ。もっとやりたいことがあっただろう。自分もまさかこんなに早く母と今生の別れとなるなんて微塵も想像していなかった。
目の前のストロベリーアイスが涙しているように濡れている。都も目の奥から雫があふれ出てきた。
服が雨水を吸い込んで身体が重い。下半身もかなり冷えてきた。前髪に染み込む雨粒で視界がぼんやりする。
保育士の仕事も人間関係で挫折して昨年度末で辞めてしまった。
母もいなくなってしまった。
そして、目の前のバラも救えない。
「ごめんなさい。……ごめんなさい」
なんだか疲れてきた。もう何もかも嫌になってきた。
この雨で、自分も溶けて側にある排水溝に流れていってしまったらいいんだ……。
都はガックリとうつ向いた。
もうお終い――。
「あの!」
はっとして顔を上げると、傘を持った男性が駆け寄ってきた。
「これ使ってください。ビショビショじゃないですか……」
男性が大きな傘を持ったまましゃがみ、白いタオルを都の頭に掛けた。
エプロンの胸元の名札に『宮崎』と書かれているのが見える。
おそるおそる宮崎に視線を向けると、黒髪で清潔感のあるナチュラルパーマ、鼻筋が通っていてシャープな頬、そして穏やかで澄んだ瞳……。
都と同年代に見える。
「あ、あの……」
困惑していると前方から「恋君、どうしたの?」と、女性の声が耳に入ってきた。
金の丸眼鏡をした小柄な女性が、大きなバラ柄の傘をさしながら様子を伺っている。
「天坂さん、この人、このままだと風邪確定です」
恋という男性は都から視線を外さない。
「あらあら、びしょびしょじゃない」
女性は右手で口を押さえて分かりやすいリアクションをしている。自分はそんなに哀れな姿なんだろうか。
「ごめんなさい。あの、また来ます」
こんな姿では受け入れてはくれないだろう。また明日、出直して――。
「それはできません」
「えっ? あっ!」
恋は立ち上がろうとした都の右手首をつかんだ。
「こんな状態のあなたを放っておくことはできませんよ」
キリッとした表情を見せられ、つかまれた右手首にじんわり熱がこもった。
「さあさあ、中に入って」
天坂という女性がいつの間にか都の背後に回り込み背中を押してきた。
都は二人に身を委ねるしかなかった。
都は一階のスタッフルームでバラ園の着替え一式を借りた。
黒いギンガムチェックのシャツとベージュのパンツに着替え、肩のあたりで切り揃えている黒髪もドライヤーをあててすっかり乾いた。
スタッフルームから出ると目の前は受付カウンターとなっている。
パソコンの画面を眺めていた三十代くらいの女性スタッフと目が合った。名札に加島という文字が見える。
「あ、着替えた? ちょっと待っててね」
黒髪を頭頂部でお団子にしている加島は後ろの重厚なドアをノックする。
「天坂さん、さっきの女性――」
加島が軽く頷き、都を手招きする。
「どうぞ。入って」
奥から女性の声が聴こえる。この声、あの金縁眼鏡の女性だ。確か天坂という名だった。肩をすくめながら室内を覗くと、天坂は革製の椅子に座って目元に笑みを浮かべている。
「どうぞ」
「……すみません」
「あら、どうして謝るの?」
田舎にいる気の優しいお婆ちゃんという感じだが、何もかも知り尽くしている英知を内側から発していて視線を合わせづらい。
都は意味もなく周りを見渡す。
クリーム色の壁には花や風景の額が飾られている。木製テーブルの上にはバラ柄の読書用ランプが置かれていて、テーブルを柔らかに照らしている。
所在なさげにしていると後ろにいる加島が木製の椅子を引いた。座ってということらしい。腰を落ち着ける。
「コーヒーを淹れたわ。冷えた身体を温めてちょうだい」
落ち着きのある天坂の口調に促され、都は花柄のコーヒーカップに口をつけた。
「……おいしいです」
後方からノックの音が聞こえた。
「失礼します」
地面を叩きつけるような激しい雨音が聞こえてくる。
最初に声を掛けてきた宮崎という男性だ。ストロベリーアイスの鉢を片手で持っている。入れ替わりで加島が部屋を出て雨音が止んだ。
都はコーヒーカップを置いて背筋を伸ばす。
宮崎はストロベリーアイスの鉢を都の右隣に置いてしゃがんだ。宮崎の黒髪もしっとりと濡れている。都を介抱したからだろう。
「あの、このバラをなんとかしたくて持ってきたんじゃないですか?」
「はい。家族が水をあげるのを忘れていたみたいで、花や葉っぱが茶色に変色してしまったんです。それで、なんとかしたくて実家から持って帰ったんですけど……」
宮崎は無言で頷いている。
「肥料をたくさんあげても変化がないし、水をあげるとボロボロと葉が落ちちゃって、どうしよう、枯れちゃうって……だから、バラのお店だったら何とかしてくれるかもと思って……」
「それでウチに持ってきたのね?」
天坂は悟ったような表情でコーヒーカップに口をつけている。
「あの、葉が落ちたのは枯れてしまったからではありません。再生するために、この子が自ら葉を落としたんですよ」
「再生?」
「この蕾は残念ですが花が開くことはありません。かわいそうと思うかもしれないけど切ってあげた方がいい。そうすれば、バラはまた次の花を咲かせる準備をします」
「次の花? じゃあ、このバラ助かるんですか?」
宮崎は頷いて微笑んだ。淀みがない口調と誠実な瞳だ。
「まずは花を切って十分に水やりを行ってください。そして、日当たりのいい場所に置くといい。数日経てば、新しい芽が出てきますよ」
「恋君、まずはストロベリーアイスを窮屈な鉢から解放してあげましょう」
天坂がコーヒーカップを持ったまま、視線を宮崎に合わす。
「そうでした。あの、このストロベリーアイスを植え替えしてもいいですか?」
「植え替え?」
「ストロベリーアイスはまだ死んでいない。助かりますよ」
宮崎が経験豊富な医師のように見えてきた。
「お願いします」
宮﨑がストロベリーアイスの鉢を持って再び部屋を後にした。
両手にコーヒーカップを持ったまま天坂が都に視線を合わしてくる。
「それにしても、あの鉢を持って歩いてやってくるなんてね。連絡してくれたら恋君を派遣できたのに。無鉄砲さんねぇ」
そうだろうなと肩を落とす。
「市内のバラ園はここしかなかったから……。でも、連絡することまで気が回りませんでした」
「でも、根性があるわ」
「い、いえ」
そんなことはない。年度末に保育士の仕事を1年で辞めてしまっている。
「あなた、おいくつ?」
「21……今年で22になります」
「お住まいは?」
この街に長く住んでいるわけではないが、自分が住んでいる二階建てアパートと近所の画像を頭で想像する。
「清水町に住んでいます。えっと、城山が近いんです。夜はお城が白く光って綺麗なんですけど……」
「ああ。城山の北にある大通りの辺り?」
「そうです」
大通りは城山と学生街の無数のマンションに挟まれている大きな道路だ。秋は道路の中央分離帯にある銀杏並木が評判となっている。
「あの辺りは学生街でマンションが多いわよね。21歳ということは学生さん?」
「えっと……」
保育士と答えかけたがやめた。唇を結ぶと、天坂はなんとなく察したようだ。
「ごめんなさい、質問攻めしちゃって。クッキーもどうぞ」
「ありがとうございます」
ロイヤルな円形の小皿にクッキーが二枚ある。都が遠慮気味にクッキーを口に含んだ瞬間ドアが開いた。
――えっ?
宮崎だ。右手に大きな白い鉢を持っている。
――これ、ストロベリーアイス?
都が持ってきた時は根元から五つほど枝分かれして、枝先に無数の枯れかけの花があったはずだ。今は休眠中のアジサイのように半分の高さに切り取られている。でも一本だけ長い枝が残っていて、閉じたままの蕾が一輪ある。
「お待たせしました」
スッキリとしてしまったストロベリーアイスの姿に都は言葉を失う。宮﨑は都の右隣に鉢を置いた。
「鉢を7号から9号に植え替えしておきました」
「あ、ありがとうございます」
鉢が大きくなり土の面積が広くなったように見える。ダークブラウンの新鮮な土だ。
「これでしばらく様子を見てください。土の表面が乾いたら鉢の底から水が流れるまで水やりをしてください」
――ちょっと待って。
花も葉もない。枝も切られている。これで助かると言われても首を傾げたくなる。この人、本当に大丈夫なのだろうか。
都の表情に気づいたのか、宮崎は優しい笑みを浮かべた。
「心配だと思いますが肥料はあげないでくださいね。適切な関わりをしていたらこの子は復活します。大丈夫」
宮崎は念を押しているように見える。
「分かりました。やってみます」
一輪の蕾を見つめていると、宮崎が都に剪定ばさみを渡してきた。
「えっ?」
「この剪定ばさみで最後に残った蕾を切ってください」
「私が……ですか?」
「その方がストロベリーアイスにあなたの気持ちが伝わると思います。これから長い付き合いになると思いますから」
――長い付き合い。
枯れ木のようにしか見えないが、誠実そうな宮崎が冗談を言っているようにも思えない。
「……やってみます」
都は剪定ばさみを握って蕾に照準を定めた。
「蕾より……もうちょっと下、そうですね、ここを切るといいと思います」
宮崎は蕾の下の茎を指差した。
「はい」
母に代わって自分がストロベリーアイスを育てていく責任感が芽生えてきた。
――やるしかない。
右手に力を入れた瞬間、コーヒーカップから上がる湯気を見つめている天坂が笑みを浮かべた気がした。
店外に出ると雨は上がっていた。雨雲は東に抜けたみたいで道路から水を蹴る車の音が聞こえてくる。
――お母さん、ストロベリーアイスは助かるって。私が代わりに育てるね。
黒い夜空に点々と星が輝いている。母もあの星のどこからか見ているのだろうか。
振り返ると玄関の緑の看板に『AMASAKA ROSE GARDEN』と黄金に記されている。建物と向かい側にある平屋の倉庫に小さな電灯がつなぎ合わせていて美しく灯っている。
――来てよかった。
宮崎が店から鍵を鳴らしながら出てきた。
「じゃあご自宅に送りますね」
「あ、あの」
ワゴンタイプの社用車のトランクから宮崎が顔を覗かせる。
「雨宿りさせてもらって、ありがとうございました。その……助かりました」
モジモジしながらお礼を言うと、宮崎がクシャッと笑顔を見せてきた。
「助手席にどうぞ」
大通りを天坂バラ園の社用車が走る。
「じゃあこのストロベリーアイスは、お母さんのですか?」
「母が育てる予定でしたけど、1週間前に亡くなってしまって……」
「そうだったんですね……」
ハンドルを握る宮崎が神妙な横顔になった。
「私は母との最後の関わりを後悔していて……だから、せめてこのバラだけでも助けたいと思って。……自己満足なんですけど」
「いえ、素敵だと思います」
「えっ?」
「その考え方、素敵だと思いますよ。だから、ストロベリーアイスは大丈夫。僕が保証します」
優しい笑顔を向ける人だ。
「ありがとうございます」
横目で盗み見する。
隣でシフトレバーを握っている宮崎の左腕と、都のか細い右腕とはほとんど隙間がない。男性とこんなに近い距離で座るなんていつ以来だろうか。
「樋渡さん」
「えっ?」
名まえを呼ばれて肩をすくめた。そういえば、天坂バラ園の会員登録をした時に名まえを書いたのだった。
「樋渡さんなら、きっと美しいストロベリーアイスを咲かせることができますよ」
「そんな、宮崎さんのようにプロじゃないから……」
その瞬間、宮崎の表情が曇った気がした。
「僕も中学生の時に、姉からバラを引き継いだことがありました」
――えっ?
「ですが、何の知識もなかった僕は、水をあげすぎて根腐れさせてしまったんです」
その話、なんだか――。
「樋渡さんの話を聞いているうちに、僕は姉のバラのことを思い出しました」
信号待ちになり、宮崎が悲し気な瞳を向ける。
「姉の願いを叶えられなかった僕は、高校で園芸の知識を身につけ、高校の担任から勧められて天坂バラ園に就職したんです」
「そうだったんですね……」
再び車が動き出して宮崎が前を向いた。
「樋渡さんを見かけた時……そう、弱ったストロベリーアイスを目の前に泣いている樋渡さんを見て助けなきゃと思いました。あなたの想いを聞いて、僕は正直、なんて美しい心を持った人なんだと思いました。ピンクのバラの花言葉は『可愛らしさ』……なんだか樋渡さんに合いますね」
宮崎の声が身体の芯にまで伝わってきて……なんだろう、胸の鼓動が早くなってくる。
「着きました。ここで合っていますか?」
「えっ?」
ハッとした。目の前に見慣れた二階建てのアパートがある。天坂バラ園に行く時は30分もかかったのに、車だと5分もかからない。
――もう少し話がしたかったな。
車を降り、階段を上って203号室の玄関前に宮崎が白い鉢を置いた。背筋を伸ばして「ふうっ」と息をついている。
「宮崎さん、ありがとうございました。ここまで送っていただいて」
宮崎は爽やかに笑い「それでは、僕はこれで失礼します」と肩幅のある背中を見せた。
都はストロベリーアイスに視線を落とす。
花もない。葉もない。ただただ、静かに眠っているようだ。
――ピンクのバラの花言葉は『可愛らしさ』……なんだか樋渡さんに合いますね。
「あ、あの!」
「はい?」
咄嗟に呼び止めてしまった。しばらく沈黙が続き、隣の田んぼから虫の鳴く声が静かに聴こえてくる。
何か言わないと……。
「その……また分からないことがあったら、聞きに行ってもいいですか?」
宮崎が頷いて微笑する。
「いつでも待っています」
♢
「すごい人……」
天坂バラ園の駐車場は満車になっている。
初めて訪問したあの雨の日とはうって変わり、店の庭園に展示されているバラに訪れた客が夢中になっている。
都は宮崎がいないか視線を右往左往させる。
――いた。
宮﨑は白い長袖Tシャツにジーンズという清潔感のある服装だ。あの時と同じカーキ色の園芸用エプロンをしている。
都も無数のバラが展示されている園内に入る。急に緊張してきて緑のキャミソールワンピースの肩紐を無意識につまんだ。
「あ、樋渡さん」
深緑の鉢を両手に持って移動していた宮崎が都に気づいた。都は胸が詰まって声を発せない。
宮﨑が側まで来て、大きなバラの鉢を置いて土埃を払う。
「ストロベリーアイス、どうなりました?」
「新芽が出てきたんです」
スマホの画像を見せる。
「あっ、本当だ。よかったですね」
都は今朝のことを思い出す。
――あっ! 芽吹いている! 芽が出ている!
ストロベリーアイスの茎のあらゆるところからタケノコのように赤い新芽が1センチほど出ていたのだ。
「ストロベリーアイスって、本当に強いんですね」
「樋渡さんが生きてほしいと強く願ったからですよ」
宮崎がスマホの画面を眺めながら呟いた。
「あの、これからはどうしたらいいんですか?」
「ストロベリーアイスは四季咲きなので、このまま順調に育てば来月には二番花が咲きますよ」
「えっ? バラって一年中咲くんですか?」
きょとんとする都を見て宮崎は人差し指で鼻をすする。
「一年中ではありません。四季咲きの花は五月に一度剪定しておいたら四十日後くらいにまた花を咲かせるんです。楽しみにしていてください」
「よかった……」
都は周りを見渡す。
鮮やかなバラの花が咲き誇っていて、穏やかな風を心地よく受けている。
このバラたちも、雨風や病気を乗り越えて長い年月をかけて育ってきたんだろう。
バラって、なんて美しいんだろう。なんて逞しいんだろう。
――どうしたら、折れない心を育むことができるんだろう……。
空を眺めるとクロワッサンのような雲がいくつか浮いている。仕事をしていた時は時間に追われて余裕がなかったのに、今は時間の流れがゆっくりに感じる。
こんなに胸が温かくなったのはいつ以来だろう。
「樋渡さん、よかったらバラの講座に出てみませんか?」
「えっ?」
「来月、初心者向けのバラの育て方講座があるんです。天坂さんが講師なんですけど、僕もアシスタントで出る予定です」
2人の間に風が通り抜け、足元にある赤いバラがさわさわと揺れる。
都のアパートのベランダで日射しを浴びているであろうストロベリーアイスは、これから葉が出てきて再生していくんだろう。
――私も、ストロベリーアイスのように……。
「宮崎さん、私、もっとバラのこと知りたいです」
――……あなたのことも。
宮崎の頬が上がった瞬間、都の中でも何かが芽吹いた。

