月下の海を大きな帆船が走っていた。月の行手を追うように、船はゆっくりと西へと進んでいく。
海面では冴え冴えとした月が波間で揺れている。ラティルは甲板で想い人の瞳によく似た夜空をなんとはなしに眺めながら、溜息をつく。白い呼気が夜の闇へ霧散して消えていく。
あれから、ラピスとろくに話ができていなかった。作戦の話であれば、問題なくできるのだが、二人きりで個人的な話をしようとすると、途端に間に流れる空気がぎこちなく硬くなる。
(どう考えても俺が悪い。俺が嫉妬を抑えられなかったから……)
ラティルはラピスが辛い思いをしているときにそばにいてやれなかったことを悔いていた。それ以上に、そのとき彼女のそばにいたのがシリウスだったという事実を妬んでいた。
ギィ、と蝶番が軋み、船室の扉が開いた。ランプを手にした長身の黒髪の男が甲板へと姿を現す。
「……来たか」
ラティルは背後を振り返ることなく、そう言った。ええ、とラティルの言葉を肯んずる声がする。
「お召しに応じ、馳せ参じました。ラティル殿下」
何かお話があるとか、とシリウスは夜の海風を浴びるラティルの横へと立つ。
ラティルはラピスのことについて話すため、シリウスを呼び出していた。ラピスに手を出したことについて、ラティルは彼に一言物申さずにはいられなかった。
「フレナード准将。お前、ラピスに何か言ったらしいな」
「ええ。グラナータを奪還したあの日、私はラピス様に好意を告げました。あの方が辛そうで苦しそうで。そして、それが痛ましくて、いじらしくて、愛おしくて」
淡々と告げるシリウスをラティルは睨みつける。
「それはまだいい。だけど、お前、あいつに無理やり迫ったらしいじゃないか」
「……ラピス様を怖がらせてしまったことは申し訳ないと思っています」
いいか、とラティルはシリウスの鼻先に人差し指を突きつけると、
「俺は絶対にお前にあいつを渡さない。あいつにあんな顔をさせるようなお前には絶対に、だ」
ラティルはシリウスに向かってそう啖呵を切った。ふ、とシリウスは口の端に苦い笑みを浮かべる。
「やはり、あなたには敵いそうにないですね。安心してください、ルピリル解放の際にラピス様にはきっぱりと振られました。ラティル殿下、あなたのことを好きだから、と」
「え……?」
ラティルは唖然とした。ラピスが自分のことをそんなふうに思ってくれているなど考えてもいなかった。彼女は自分のことなど、単なる幼馴染以上に見ていないだろうと思っていた。
(……あ)
ラティルは自分が思い違いをしていたことに気づいた。思えば、あのときラピスは何か言いたそうにしていた。なのに、自分はラピスがシリウスの気持ちを受け入れたと思い込んで、一方的に己の感情と衝動を彼女にぶつけてしまった。
(……俺、最低だ。こいつのことをどうこう言う資格なんてない)
ラティルは自分の髪を掻きむしりたい衝動に駆られた。それでもそんな無様なところを恋敵に見られたくなくて、ありとあらゆる感情を乗せてラティルは大きく溜息をつく。そんなラティルの様子に構うことはなく、シリウスは話を続けていく。
「お二人の間に何かがあったことはお察しします。ですが、お二人にはなるべく早く和解なりなんなりしていただきたいものですね。でないと、ラピス様に振られた私の立場がありません。それに、スコットも『今度は目のやり場に困るくらい仲睦まじくしていたはずのラティル殿下とラピス様の様子がおかしくてやりづらい』と申しておりましたから」
「……わかった」
不承不承ながら、ラティルは頷いた。悔しいが、シリウスが言っているのは正論だ。シリウスの立場はどうでもいいとしても、自分たちのせいで周りがやりづらさを感じているのならば、今の状況は早くどうにかしたほうがいい。というか、そんな常日頃から目のやり場に困るような行為に及んでいた覚えはないのだが。ラティルは憮然とする。
「フレナード准将。いや、シリウス。お前がまた、ラピスの望まないような行為に出ることがあれば、そのときはただじゃおかない。――そのときは剣で切り刻んでくれる」
ラティルは腰に佩いた愛剣をちらりと示してみせる。彼の言葉は脅すような言い回しに反してひどく真剣だった。
「――承知いたしました。その言葉、この胸によく刻んでおきます」
シリウスはラティルの言葉を受け止め、重々しく頷く。
空を渡る月はわずかに西へと位置を移している。二人の間には潮の匂いが混ざった、刺すように冷たい空気が降りていた。
皇都リミアの奥に頂かれた城の一室で、国の主たる中年の男――カロッソ・リメンディスは書類に目を通しながら、外の喧騒に耳を傾けていた。
オストヴァルトから行商が訪れているということで、城下はいつもより賑やかだ。レベルラ帝国の属国となったことで、人々の暮らしはひどく自由を制限されたものとなっている。重税により、息苦しい生活を送っている民たちにとって、行商人たちの訪いはわずかながら暮らしに彩りと慰め、潤いを与えてくれていた。レベルラ帝国によって関税が釣り上げられてしまってからも、変わらずに季節ごとにこの国を訪れてくれている彼らにカロッソは感謝の意を抱いていた。
今日はこの城にも馴染みの商人が訪れている。イェラジール教の戒律による女性の外出の禁止は皇族も例外ではない。商人たちの訪いは皇族の女性たちが買い物を楽しむための唯一の機会でもあった。
地方から上がってきたという、徴税の緩和に関する書類を前にカロッソは溜息をつく。ヴィトジへの捧げ物だか何だか知らないが、レベルラ帝国による搾取はとどまることを知らない。カロッソとしては、窮地に立たされている地方の訴えを受け入れてやりたいところだが、属国の王に過ぎない彼にレベルラ帝国の決めたことに否を唱える権限はない。彼は訴えを棄却する旨の文章を記すと、書類に判を押した。
今のカロッソは王であって王でない。リーメル皇国内をレベルラ帝国の意に沿うように回していくための事務処理を担う文官とでもいったほうが今の状態には近い。
自国の民のためにすら何もできない傀儡としての立場にいつまで甘んじればいいのだろう。一体いつまで、この地獄は続くのだろう。
(すべて、私が招いたことだ。私がもっと強ければ、しっかりしていれば、この国はこんなふうにはならなかった……!)
カロッソの胸を後悔が去来する。机の上に積まれた書類の紙質も以前に比べてかなり落ちた。国への奏上の文書に使う紙にすら、今のこの国には金を割く余裕がないのだ。この国をこうしてしまったことへの悔恨の念で苦しくなる。
こんこん、と執務室の扉がノックされ、カロッソは現実へと引き戻された。入室の許可を告げると、顔を薄布で隠したレベルラ帝国風の衣装に身を包んだ侍女が部屋の中に入ってきた。
「カティアか。どうした?」
カティアは目を伏せると、口を開く。布越しの言葉はくぐもって聞き取りにくい。
「アンティア様がお越しなのですが、イフェルナ国の商人を陛下にお引き合わせしたいと申しております。どうなさいますか?」
アンティアはリーメル皇国がレベルラ帝国の属国となる前から取引のあるオストヴァルトの商人だ。衣服や装飾品を扱う商人で、年に四回、季節に合わせた商品を持ってこの城を訪れる。気風が良く、明朗な商いを行なうこの商人のことをカロッソは気に入っていた。
(しかし、イフェルナ国か。今のこの国との間に販路を開きたがる者がいるとは珍しい)
リーメル皇国とイフェルナ国の間には大国であるアレーティア王国がある。オストヴァルトを介した多少の取引はこれまでもないではなかったが、イフェルナ国との直接的な交易は今まで行なってこなかった。
(まあいい。アンティア殿の紹介であれば、滅多なこともないだろう)
そう思い直すと、カロッソは椅子を立つ。このまま仕事をしていても、鬱々としてしまうだけなので、気分転換がてらにイフェルナ国から来たという商人と会ってみるのも悪くない。
「カティア、そのイフェルナ国の商人とやらと会おう。彼らは今どこにいる?」
「下の応接室に通しております」
どうぞこちらへ、とカティアに促され、カロッソは部屋を出た。廊下にはレベルラ帝国風の紋様が刻まれた絨毯が敷き詰められている。
そこかしこで焚かれた異国の香の匂いを煩わしく思いながら、カロッソはカティアに連れられて階段を降りていった。
アンティアと共に城の応接室に通されたラピスとラティルは、案内してくれた侍女がその場を辞した機を見計らって変装を解いた。ウィッグの下に押し込められていた髪が解き放たれ、明かりの下で金銀に煌めきを放つ。
うまく行くだろうか。不安が瑠璃の瞳で金砂と共に揺れる。このような真似をして他国の城に入り込んで、話が無事に纏まらなければ、外交問題に発展する可能性だってある。それに、リーメル皇王との間を取り持ってくれたアンティアの信用に罅が入る可能性だって否めない。
「ラピス。大丈夫だ」
ラピスの不安を感じ取ったラティルは彼女を安心させるように華奢な肩に触れる。ラティルだって、これからの自分たちの取引がどう転がるかわからず不安だったが、それは顔には出さないでおく。こんなことで臆していては、レイフォルトから国を取り戻すことなど叶わない。
こんこんと扉がノックされ、ラピスとラティルは居住いを正す。ここが正念場だ。二人は顔を見合わせると頷き合った。
扉が開き、先ほどの侍女に連れられて、中年の男が姿を現した。男は質のいい服に身を包んでいたが、レベルラ帝国風の衣服にまだ不慣れなのか、どこかちぐはぐな印象だった。
「アンティア殿、久しいな。息災なようで何よりだ」
男はラピスたちのほうを気にしながらも、アンティアに右手を差し出した。お陰様で、とアンティアは気安い笑みを浮かべながら、男の手を握り返す。
「ところで、アンティア殿。私にイフェルナ国の商人を紹介したいらしいと聞いているが、そこにいるのは何者だ?」
アンティアの連れである男女二人組はどう見てもイフェルナ国から来たという商人には見えない。金髪緑眼の青年は隣国アレーティア王国の第二王子であるラティル・アーレントだし、その傍らに控える銀髪の少女にも見覚えがある気がする。
謀ったのか、と男――カロッソは険しい目でアンティアへと問うた。申し訳ございません、とアンティアはその場で低頭する。
「こちらのお二人――ラティル王子殿下と聖女ラピスラズリはアレーティア王国からの特使です。お二人の動きが万が一にもレベルラ帝国に気取られないようにという配慮から、このような形をとらせていただきました」
ラティルとラピスはソファから立ち上がる。ラティルはカロッソのほうへと一歩踏み出すと、頭を下げる。
「カロッソ陛下。大変ご無沙汰しております。この度はお取引きのご相談のために馳せ参じた次第です。レベルラ帝国が関与しない、純粋な貴国とのお取引きです」
「取引き?」
カロッソは怪訝そうな顔をした。ラティルはラピスへ目線で合図をする。ラピスは封書を取り出すと、カロッソへと差し出した。
「ラティル殿下からリーメル皇国へと宛てた親書です。ご確認ください」
「あ、ああ……」
困惑しながらも、カロッソはラピスから受け取った親書の封を切る。
先だって発生した革命により、前国王は斃され、アレーティア国内は第一王子レイフォルトと第二王子ラティルによって二分されているという。そんな状況のアレーティア王国と取引をしたとして、リーメル皇国に何か利があるとも思えない。そして、何を持ちかけられたとしても、レベルラ帝国に従うほかない自分に何ができるとも思えなかった。
「……三国同盟、だと?」
カロッソは親書に書かれていた文字と目の前の二人を見比べる。ラピスは楚々とした聖女然とした笑みを浮かべると、
「貴国とエゼルテ公国、アレーティア王国の三国間における同盟関係のご提案です。エゼルテ公国には先んじて使者を送らせていただき、前向きなお返事を既にいただいていますよ」
貴国はどうなさるおつもりですか。色良いお返事を期待していますよ。ラピスは笑顔で言外にカロッソへと圧をかける。
エゼルテ公国からよい返事をもらっているというのはハッタリだ。ラピスたちがエゼルテ公国に向かうのはこの交渉を終えた後だし、使者など送ってもいない。ただ、同調圧力をかけてこの交渉の成功率を少しでも上げるのが狙いだった。それに、エゼルテ公国についてだって、ただのハッタリで終わらせるつもりはない。
「この同盟の狙いは何だ? このような同盟を結んで、貴国に何のメリットがある?」
カロッソは目の前の年若い二人にそう問うた。
「貴国と同様に、我が国もレベルラ帝国に脅かされている身だ。恥ずかしながら、我が愚兄は彼の国と繋がり、自ら国を売り渡す公算を立てている。それを防ぎ、国を取り戻すための助力を願いたい」
ラティルの言葉に、カロッソは更なる問いを重ねていく。
「貴殿の言い分は理解した。しかし、我が国はレベルラ帝国の影響下にあり、大した協力はできない。それに、貴国に協力し、我が国やエゼルテ公国に何の見返りがある?」
「俺が国を取り戻し、王となった暁には、貴国がレベルラ帝国から独立するための手助けをしよう。だからどうか、力を貸してもらえないだろうか?」
真摯な目でラティルはカロッソを見据えた。ふむ、とカロッソは頷く。話を聞く価値はありそうだ。彼は二人を対等な交渉相手として認めると、座るように促した。
「どうか座ってくれ。詳しい話を伺おう。カティア、紅茶の用意をしてくれ」
「陛下、ヴムサリ茶でなくてよろしいのですか?」
「ああ、構わない。あのような香辛料の味しかしない代物、お客人の口には合わないだろう?」
かしこまりました、とカティアは茶の用意を始める。
イェラジール教の戒律で紅茶は禁制品となっており、口にしていい飲み物はヴィトジの恵みとされるヴムサリ茶か水のみとされている。しかし、それを破ることはカロッソにとって、ささやかなレベルラ帝国への抵抗の始まりでもあった。
応接間の中を繊細で上品な茶の香りが漂い始める。カロッソはこういった些細な日常を絶対に取り戻したいと思った。アレーティア王国の提案に乗れば、いつかそんな日が来るのかもしれない。
「貴殿が先ほどの言葉を違えることがないというのなら、貴国と手を結ぶことも吝かではない」
カロッソの口から発された前向きな言葉にラピスたちは内心で確かな手応えを感じた。しかし、と二人の前に座る一国の王は言葉を続けていく。
「今の私には、貴殿のためにしてやれることはそう多くはない。それでも構わないか?」
「問題ない。俺がカロッソ陛下にお願いしたいのは、国境への物資輸送の中止だ」
「物資輸送の中止? なぜ、そのような……」
この秋は豪雨被害がひどく、作物が不作だった。そしてその数少ない実りをレベルラ帝国によって持っていかれてしまっている。それを理由に国境の警備部隊への物資輸送を中止することは可能だが、それをしなければならない理由がわからない。
「わたしたちの狙いは、レベルラ帝国の補給線を断つことです。距離のあるアレーティア王国に攻め込むには、補給が不可欠です。それを断ってしまえば、レベルラ帝国はアレーティア王国に手出しできなくなります」
ラピスの説明になるほどとカロッソは相槌を打つ。アレーティア王国と接するリーメル皇国とエゼルテ公国の国境沿いの補給線を断ってしまえば、次はアレーティア王国を狙っているというレベルラ帝国にとっては大きな痛手となる。レベルラ帝国と繋がっているというレイフォルトと連携をとることも難しくなるはずだ。
「いいだろう、引き受けた」
「ありがとうございます。それでは、こちらにサインをいただけないだろうか」
ラティルは事前に用意してきた同盟の締結文書を二通取り出すと、ペンで自分の名前を記し、カロッソの前へと押しやった。ああ、とカロッソもラティルの名の下に自分の名を書き連ねていく。
ラティルはカロッソのサインを確認すると、文書のうちの一通を手に取り、傍らのラピスへと渡した。ところで、とラティルは世間話を装ってもう一つの用件を切り出した。
「ところで、貴国はかねてよりエゼルテ公国との間に領土問題を抱えていたはずだったな」
「ええ……国境のゼスピラ川沿いのメティカ湿地帯のことですか」
ラティルの意図を測りかねながらもカロッソは頷いた。
「メティカ湿地帯を挟んで、エゼルテ公国との合同軍事演習を行なってもらうことはできるだろうか? この同盟がレベルラ帝国に知れるわけにはいかない。両国が湿地帯を挟んで威嚇し合う状況を作ることができれば、まさか貴国とエゼルテ公国が同盟関係にあるなど、誰も夢にも思わないでしょう。そして、両国の軍事演習でレベルラ帝国の目をそちらに向けられれば、俺も事を起こしやすくなる」
「……検討させていただく」
レベルラ帝国に気取られずに兵たちを動かす準備をするのは難しい。これに関しては即答はできそうになかった。
「どうか、色よいお返事をお待ちしておりますね。こちらのアンティア様を介してご連絡をいただければと思います」
ラピスは優雅に紅茶を飲み干すと、そろそろ失礼しますね、と立ち上がる。ご連絡をお待ちしている、と言うとラティルも彼女と同様に席を立った。
彼らは外套を着込み、荷物からウイッグらしきものを取り出すと頭から被った。金髪の王子と銀髪の聖女は、赤毛の女傭兵と黒髪の少年へと変貌を遂げる。
この姿でこの二人はここまで旅をしてきたのか、とカロッソは悟った。この二人が王子と聖女だとは誰も思うまい。
カサンソネーゼの港での検問でも何も引っかかったという知らせがない辺り、彼らの身分の偽造にイフェルナ国が一枚噛んでいる可能性がある。カロッソはイフェルナ国がラティル王子を支援しているらしいという話を耳にした覚えがあった。
「カティア、お客人方がお帰りのようだ。出口まで送って差し上げろ」
カティアはカロッソからの指示に承知いたしましたとくぐもった声で返事をする。
「そして、今ここで耳にしたことは他言無用だ。いいな?」
カロッソが念を押すと、カティアは無言で頷いた。彼女は三人が荷物を持ったのを確認すると、応接室の扉を開く。
こちらへ、とカティアは彼らを誘って部屋を出ていった。ばたん、と扉が閉まる音を聞きながら、カロッソはため息をつく。
冷めてしまった紅茶を啜りながら、カロッソは先ほど自分がサインを交わした文書へと目を落とす。
とんだことをしてしまった、と思う。アレーティア王国と三国同盟を締結したことが、そしてこれからやろうとしていることがレベルラ帝国に露見することがあれば、この国の王である自分は無事ではいられないだろう。
乗りかかった船だ。自分のためにも、この国のためにも、やれることがあるならば力を尽くすほかない。
レベルラ帝国との戦争に負けたあの日に失った誇りと一国の王としての風格がカロッソの目の奥に戻り始めていた。
かつんかつん、と石段に靴音が響く。ひんやりとした空気が辺りに満ちている。
レイフォルトは石段を降り切ると、左右に牢が連なった通路を進む。その最奥に目的の人物がいる独房はあった。
足音に気づいたのか、独房の中で項垂れていた女が顔を上げた。長い黒髪は絡まってぼさぼさに乱れているが、緑色の双眸からは意志の力が失われていなかった。その眼差しからは異母弟とよく似た強さが漂っていて、レイフォルトは胃にむかつきを覚える。
独房の中で囚われている中年の女は、ラティルにとっての最大の人質――彼の生母であり、第二王妃でもあるエルシーネだった。
「……レイフォルト殿下ですか。このような場所に一体何の用ですか」
凛とした静かな声がレイフォルトへと向かって投げかけられた。レイフォルトはふんと不快げに鼻を鳴らす。
「エルシーネ妃殿下。あなたの息子が随分と手間をかけさせてくれているものでしてね。少々痛い目を見させる必要があるかと考えておりまして」
レイフォルトは腰に佩いた自分の剣をすらりと抜き放った。薄暗い空間でぬらりと光る剣身を牢の柵越しにレイフォルトは躊躇うことなくエルシーネへと向ける。しかし、剣の切先を喉元に突きつけられてなお、彼女は毅然とした態度を崩すことはなかった。
「武器も持たぬ無抵抗の女に剣を向けるなど、あなたはどこまで堕ちれば気が済むのですか、レイフォルト殿下。亡き陛下もさぞかしあの世でお嘆きのことでしょう」
レイフォルトの行為にエルシーネはたじろぐことなく、彼へと鋭い舌鋒を向ける。あの姉弟の胆力はこの母親譲りかと思うと不快感が喉の奥を駆け上ってくる。
「――黙れ」
レイフォルトは鋭く低い声でそう言い放つ。しかし、エルシーネはやつれた顔を横に振る。息子と同じ色の双眸はレイフォルトを捉えたまま離さない。
「いいえ、黙りません。それに、わたくしに危害を与えたくらいのことであの子は――ラティルは決して屈したりしません」
やれるものならやってみろ。そう言いたげな視線を浴びせかけられ、レイフォルトは自分の中で何かがぷつりと切れるのを聞いた。感情が激昂し、彼は剣の腹をエルシーネの青白い頬に叩きつけた。彼女の頬に赤い筋が走り、ぱさついた黒の髪が幾本も宙に舞った。しかし、エルシーネはレイフォルトの暴力に屈することなく、身じろぎ一つしなかった。
「レイフォルト殿下、あなたは悲しい人ですね。夢のような甘い話に縋った挙句、暴力に訴える以外に己の大義を示す術を持たないのですから」
エルシーネの言葉が耳に痛かった。しかし、レイフォルトは無視をして牢の鍵を開け、石の床に散った彼女の髪をかき集める。そして、彼女の薄汚れたドレスの胸倉を掴み上げると、レイフォルトはサファイアのブローチを乱暴に引きちぎった。
「これをグラナータにいるあなたの息子に送りつける。どのような反応を示すか、見物ですね」
「この程度の脅しにあの子は決して屈したりしません。――そのように育てましたから」
「そう言っていられるのも今のうちですよ」
レイフォルトは乱暴に牢の扉を閉めた。扉を施錠し、それでは失礼、と冷たい視線を浴びせかけるとエルシーネに背を向けた。
レイフォルトは肩を怒らせて、元きた石段を登る。耳の奥では自分のことを悲しい人だと断じたエルシーネの声がぐるぐると渦を巻いていた。
皇都リミアを発ったラピスたちは、ゼスピラ川を越え、エゼルテ公国へと入った。エゼルテ公国出身の商人であるキーロンの案内で、リーメル皇国のときと同じように二人は公都エセンリアの城へと入り込んだ。そして、二人は大公であるサフェムズ・エルジェと面会し、三国同盟を無事締結し、エゼルテ公国の協力を取り付けることができた。
その後、アレーティア王国へ向かう行商人を装って、西側の国境を越え、ラピスたちは帰国の途についた。
ルピリルやパドマボール、ルノーゼなど、ラティルたちミルベール公爵派の貴族や中立派の貴族が治める町や村を経由して、彼らは拠点であるグラナータへと戻っていった。
ラピスたちがグラナータに帰着して一週間ほどしたころ、オストヴァルトにいる商人のアンティアから連絡があった。リーメル皇王がメティカ湿地帯での軍事演習を行なうことを承諾したという内容だった。
その知らせを受け取ったラティルはリーメル皇国とエゼルテ公国の合同軍事演習の実施時期の調整のために動いた。二週間後、レベルラ帝国で建国記念の式典が執り行われる日の正午に軍事演習を開始するように両国に通達するべく、ラティルは手紙を認め、オストヴァルトにいるアンティアとキーロンに託した。
王都アレッタに攻め込む準備を進めるべく、ラティルはシリウスに頼んで、イフェルナ国王エクレウスに連絡を取ってもらった。そして、二連隊分の兵士を追加でイフェルナ国から派遣してもらえるようにシリウスに取り計らってもらった。
また、ラティルはミルベール公爵派の貴族たちに連絡を取り、各地から兵を集めた。彼の呼びかけに反応した貴族たちは多く、国内各地から集まった兵の数は二万人に及ぼうかという勢いだった。
そんなふうに忙しくして日々を過ごしていたラティルは、ある日従兄で現ミルベール公爵のクロードから呼び出された。クロードの執務室に赴いた彼は、彼から差し出されたものを見て、くそっという王子らしからぬ悪態をついた。
クロードに見せられたのは一房の黒の髪とサファイアのブローチだった。ラティルは一目でそれが母親である第二王妃エルシーネのものであるとわかった。
このことからわかるのは、エルシーネがレイフォルトの元で人質になっているということだった。エルシーネがどんな扱いを受けているかわからないし、いつまで無事でいてくれるかわからなかった。
どうしたら、と気持ちが焦った。すぐにでもレイフォルトに捕らわれている人質の解放に向かいたかったが、作戦の決行日までまだ一週間ある。ラティルは唇を噛む。ラティル、とクロードは案じるように彼の名を呼ぶ。
「叔母上の身が心配なのは僕も同じだ。だけど、今はまだ黙って耐えるときだよ。今、ラティルが一人で動いたら、これまでに積み上げてきたものがすべて水の泡になる」
「……わかってる。わかってるよ、クロード従兄さん……」
「あまり思い詰めないようにな。ラティルには僕もいるし、ハイヴェルやケンデルたちだっている。それに何より、ラティルにはラピス様がいるだろう?」
「……うん」
ラティルは精彩を欠いた様子で小さく頷く。
「クロード従兄さん、母上のこと、知らせてくれてありがとう。それじゃあ、俺戻るよ。来週の作戦に向けて、やらないといけないことも多いし……」
口の中でぼそぼそと早口にそう言うと、ラティルは踵を返した。彼の背を見送るクロードの目には、従弟が迷子になってしまった小さな子供のように映った。それほどまでに、今のラティルの様子は危うかった。
ラティルが執務室の外に出ると、廊下を歩いていたラピスと行き合った。常とは異なるラティルの様子に不安を覚えたラピスは、ラティルとぎくしゃくしていたことも忘れて彼に声をかけた。
「ラティル様? どうかなさったんですか?」
自分を案じるラピスの声に、心の中の何かが決壊して、ラティルは無言で彼女の体を抱き寄せ、その肩口に額をつけた。
「ラティル様……?」
ラピスは困惑したような声を上げながらも、細い腕でラティルの身体を抱きしめ返す。ぽんぽん、と背中を撫でてくれる手の優しさが心に沁みた。
「ラピス……母上が、人質に取られてるんだ……。一刻も早く、母上を解放したいのに……俺は、王都突入を指導する立場だから、なにもできないんだ……。何かしたいのに、何もできなくて、それがもどかしくて、悔しくて、苦しい……!」
こんな弱音吐いて格好悪いよな、と震える声で言いながらも、ラティルは誰よりも愛しい少女に縋り付く。大丈夫ですよ、と言ってくれたラピスの言葉には聖女らしい包容力があって、ラティルの視界がぼんやりと滲む。
「格好悪くなんてないです。それに辛いときは辛いって、苦しいときは苦しいって言っていいんです。
ラティル様のお立場では、そういったことを口にしづらいのもわかります。けれど……わたしの前でくらいは、そうやって弱音を吐いてくれたっていいんです。わたしがすべて、受け止めますから」
ありがとう、とラティルはラピスの肩口に顔を埋めたまま小さく呟く。ラピスの暖かさと優しさで心がほぐれ、眼窩の奥から涙が迫り上がってくる。ラティルはラピスに体を預けたまま、声を押し殺して泣いた。
ラティルの肩が微かに揺れる。ラピスは行きどころのない感情に苦しむラティルの背を撫で続けた。
王都突入を翌日に控えた夜、ラピスたちは王都アレッタ郊外のエダイス山の麓に陣を張っていた。
ラピスとラティルがエダイス山を訪れるのは王都を脱出したあの夜以来だ。あのときは、ラティルから何があったか聞かされ、行動の指針はあれど、この先どうなるかわからない不安でいっぱいだったとラピスは思う。
ここまで来るのに、季節が一つ巡ってしまった。それでも、ラティルと二人きりだったあのころと異なり、今は志を同じくする人々が多くいる。一緒に王都をレイフォルトから取り戻してくれる仲間がいる。
明日の夕刻、ラピスたちは王都は突入する。城へと向かうラティルをラピスは後方から援護する予定だった。
聖フロレンシア教会に伝わる記録によれば、王都アレッタは、五百年前のアレーティア王国興国に際して大きな戦いがあった場所である。初代国王オージアスとともに大いなる力を用いて戦ったとされる聖女フロレンシアは、戦いで命を落とした数多の死者たちをこの地に弔った。
オージアスはこの地に都を置いてアレーティア王国を興し、フロレンシアは自らの教えを広めるために教会の総本山を築いた。そう伝えられている。
ラピスたちはこの建国伝説に目をつけた。ラピスたちの軍勢は、ミルベール公爵派の貴族の所有する兵士や、イフェルナ国から借り受けている軍人を合わせて三万人に迫ろうかという勢いだったが、レイフォルトやジリアーニ公爵派の一派を相手取るには少々心許ない。不足している分の兵力を補うため、ラピスたちは五百年前の戦いの死者たちを呼び起こし、自分たちの戦力に加えることを決めた。先の王都脱出の際は、まともな得物を持っていなかったため、墓地の死者を呼び起こすのが限界だったが、聖杖プリギエーラを手にした今のラピスであれば、何万にも及ぶ死者たちを操ることが可能だった。
(明日、か……)
明日の今ごろには、もうすべてが決しているかもしれない。先ほど、各隊長クラスの兵たちを集めた作戦確認のための最後の会議に出席してきたが、意外なくらい不安はない。
(隣で戦えるわけではないけれど、わたしがラティル様を支えないと……!)
気掛かりがあるとすれば、ラティルのことだった。先日、母である第二王妃エルシーネがレイフォルトに捕らわれていることを知ったラティルは、ラピスに縋り付いて弱音を吐いた。あれ以来、彼は取り乱すことなく、気丈に振る舞ってはいたが、それが逆にラピスからしたら心配だった。彼は無理をしていないだろうか。
会議用の大天幕から、ラティルが姿を現した。彼は先ほどの会議が終わった後も、何人かの将官たちと作戦の細部を詰めていた。
月明かりの下、白く浮かび上がったラティルの顔はひどく疲れて見えた。ラピスは堪らなくなって、彼へと声をかける。
「ラティル様」
「ああ、ラピスか」
ラティルは疲れた顔に淡い笑みを浮かべる。
「ラティル様……お疲れみたいですね。大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、問題ない。……悪いな、心配かけて」
休めば大丈夫だ。明日には引きずらせない。そう言うと、ラティルは自分の天幕へと向かって歩き出す。ラピスはラティルを小走りに追いかける。ラティルはラピスが自分を追ってくることに気づくと、歩調を緩める。
ラピスはちらりと横を歩くラティルの顔を窺い見る。あまり悪いことは考えたくないが、明日の決戦の後もこうして彼が自分の隣にいてくれる保証はどこにもない。こうして一緒に過ごせるのは、もしかすると最後になるかも知れなかった。
シリウスとのことについて、きっちりラティルに弁解をしておきたい。そして、その上でラティルに自分の気持ちを伝えたかった。
「ラティル様」
「ラピス」
互いの名を呼ぶ声が重なった。二人の足が止まる。あ、と緑と瑠璃の視線が交錯した。
「……先、話せよ」
ラティルに促され、ラピスははい、と頷いた。すう、と小さく息を吸うと、ラピスは覚悟を決める。
「ラティル様。わたし、以前にシリウス様に好意を告げられたという話をしましたね。あの話には続きがあるんです」
聞いてくださいますか、とラピスが問うと、ラティルは無言で頷いた。
「わたし、シリウス様のお気持ちには応えられないとお伝えしました。ラティル様。わたしはラティル様のことを異性としてお慕いしています。愛して、いるんです」
ふう、とラティルは嘆息した。敵わないな、とラティルは呟く。ラピスに先に好意を告げさせてしまった自分が格好悪い。
「……知ってたよ」
「ご存じだったんですか?」
ラピスは驚いたように目を瞠る。金砂の散った瑠璃の双眸はわずかに潤み、頬と耳がほんのりと朱に染まっている。胸の奥から沸き起こってくる、今すぐにでも抱きしめたいという愛おしさを押し殺して、ラティルは言葉を続ける。
「この前、シリウスから聞いたよ。オストヴァルトからカサンソネーゼに向かう途中にさ。……お前に手を出さないように牽制しておいた」
「え……?」
ラティルの緑の目に真摯な光が宿る。彼から気安い幼馴染の気配が消え、雄の匂いが漂い始める。彼の体の内から漏れる荒々しさに、ラピスはどきりとする。
「――ラピス。お前が好きだ」
「ラティル、さま……」
改めて好意を告げられ、ラピスの胸は高鳴る。どくどくと脈を打つ心臓の音がうるさい。好きな人と思いが通じ合うのは、こんなにも幸せでどきどきすることなのだとは知らなかった。
いいか、とラティルは言葉少なにラピスに問うた。何について許可を求められているのか理解したラピスは、小さく頷く。これから訪れるであろう甘い予感と高揚が波のようにひっきりなしに打ち寄せてくる。
ラティルはラピスの背にそっと手を回すと抱き寄せた。彼の顔が近づいてくると、ラピスはそっと目を閉じた。ラティルはラピスの唇へと自分のそれを重ねる。
初めてのときとは打って変わって、壊れものを扱うような優しい触れ方にラピスの胸はきゅっとなった。
この人が好きだ。どうしようもないくらい、この人のことが好きだ。ラティルのことを愛おしく思う感情が溢れて止まらない。
好き。好き。堪らなくなって、ラピスはラティルの首に両腕を回して抱きついた。ラピスを抱きしめるラティルの腕にも力がこもる。
どれほど時間が経っただろうか。ラピスとラティルはどちらかともなく唇を離した。触れ合った柔らかさと温もりが、優しくて甘い時間が名残惜しくて、ラピスは潤んだ目でラティルの顔を見上げた。
ラティルは優しい手つきでラピスの銀の髪を撫でながら、
「ラピス、明日は頼む。お前にだから……お前にしか、後方は任せられない。お前が必ず後ろから援護してくれるって信じてるから、俺は安心して最前線でレイフォルトの元に突っ込んでいける」
「ラティル様……絶対に、絶対に無事に帰ってきてくださいね」
当たり前だ、とラティルは笑った。その顔はラピスがこれまでに見たことがないくらい優しかった。
「お前をそばで守ってやれなくて、シリウスに預けなきゃならないことは業腹だが……お前も絶対、怪我したりするなよ。危ないと思ったら、すぐにここまで退いてこい。――約束だ」
わかりました、とラピスはラティルの胸の中で返事をする。
「ラティル様も無茶はしないでくださいね。約束してください」
ラピスがおずおずと小指を差し出すと、ラティルは彼女の細い指に自分の指を絡めた。そのやりとりが何だかくすぐったくて、二人は笑い合った。
葉がまばらになった山の木々の間から、冴え冴えとした月の光が降り注いでいる。西へと傾き始めるまで、二人は身を寄せ合っていた。
翌日、いつでも行軍を開始できるように準備を整えていると、斥候として王都に潜り込んでいた兵士たちが戻ってきた。太陽は西に傾き始め、空の端がうっすらと夕方の色を帯び始めている。
部下を率いて戻ってきたハイヴェルは、ラティルの前へ膝をつくとこう告げた。
「ラティル様。王都で動きがありました。一個連隊が王都を出て行きました。おそらくはメティカ湿地帯の合同演習がきっかけと見て間違いないでしょう。奴らの行き先はおそらくレインデリスと見ていいかと」
今日の正午に始まった、メティカ湿地帯でのリーメル皇国とエゼルテ公国の軍事演習。開始から数時間を経て、その知らせが各地に届き始めているのだろう。王都アレッタも例外ではない。
レイフォルトたちジリアーニ公爵派の兵たちが向かったレインデリスは国内第三の都市で、リーメル皇国・エゼルテ公国の両国と国境を接している。オストヴァルトほどではないが、交易で栄えてきた都市であり、両国に怪しい動きがあれば国防の要所にもなる。レイフォルトは両国の動きを警戒して、レインデリスに兵を送ったのだろう。
アレーティア王国ですら、警戒した動きを見せている。レベルラ帝国が動いていないはずがなかった。
ただでさえ、レベルラ帝国は今日は建国記念の式典が行なわれている。その最中に、アレーティア王国で変事が起きても、介入してくるだけの余力はさすがにないだろう。このタイミングを逃す手はない。
ハイヴェルの報告を受けたラティルは、ラピスを連れてシリウスの元を訪れた。ラティルはシリウスを確と見据えると、こう告げた。
「シリウス。お前のことを信じて、ラピスを託す。後方の要はこいつだ。どうか、守ってやってくれ」
「承知しました。作戦通り、最悪の場合に離脱しやすいように、ラピス様は陣の最後尾に、でしたね」
「ああ、それで頼む。戦線離脱が叶わないようなら、陣形はラピスを中心に据えて、周りを固めるものに変えてくれ。シリウス、判断はお前に任せる」
シリウスは頷き、承諾の意を示した。ラティルはラピスの背を押す。ラピスはシリウスのそばへと歩み寄ると、ラティルを振り返った。
「ラティル様。どうかご無事で。無理はなさらないでくださいね」
わかってる、とラティルは柔らかい笑みを浮かべる。彼はラピスの顎をくいと指で持ち上げると、唇の上にキスを落とした。シリウスは見ていられなくて、ついと視線を明後日の方向に逸らす。ラピスにきっぱりと振られたことで踏ん切りはついているものの、彼女へ向けた気持ちがなくなったわけではない。好きな女性が他の男にキスされているのを見るのは少々きつかった。
ラティルは啄(ついば)むような短いキスの後、顔を離すと、愛おしむようにラピスの髪を撫でた。ラピスはその手を掴むと、手のひらへと口付けを返す。
神聖魔法の使えないラピスには、ラティルの身を守るための祝福を授けることができない。それでも、どうかラティルが無事であるようにとラピスは彼の手に触れる己の唇に拙い祈りを込める。
ラピスが唇を離すと、ラティルの緑の双眸と視線が絡んだ。水鏡のように揺れる彼女の瑠璃の双眸を認めると、ラティルの表情に苦いものが混ざる。彼女の目の奥に宿っているのは不安だった。
「そんな顔するなって。大丈夫だから。――俺を信じろ、ラピス」
「はい……」
ラピスは小さく頷いた。ラティルはラピスの銀糸の髪を一本引き抜いた。「つっ」何をするんだと言いたげな目でラティルを見上げると、彼は彼女の髪を服のポケットへとしまう。
「お守り代わりにもらっていく。それじゃあな、行ってくる」
ラティルは気安い調子でそう言うと、踵を巡らせた。恋人じみた二人のやりとりに、空気と化していたシリウスは遠ざかっていくラティルの背に向かって頭を下げた。行ってらっしゃいませ、とラピスは口の中で小さく呟いた。それがラティルの耳に届いたのか、彼は軽く片手を上げるとひらりと振ってみせた。
ラピスはラティルを見送ると、しゃんと背筋を伸ばした。おそらくそう経たないうちに、最前線に出るラティルから出撃の号令が発されるはずだ。それまでに、自分たちも出発の用意をしてしまわないといけない。
「ラピス様、こちらへ。ラティル殿下でなくて申し訳ないのですが、今回は私の馬に同乗してください」
ええ、とラピスは頷いた。二人は放牧していた青毛の馬の元へ向かった。少し待っていてください、と言いおくとシリウスは馬の準備を始める。慣れた手つきで鞍、頭絡と馬装をしていくシリウスをラピスは遠巻きに見守る。
馬装を終えたシリウスはラピスのために踏み台を持ってくると、
「ラピス様、乗ってください」
はい、と頷くとラピスは踏み台に上り、馬の鬣と手綱を左手で一緒くたに掴むと、左の鐙(あぶみ)に足をかける。勢いをつけて体を引き上げると、右足を持ち上げて馬体の右側へと回した。ラピスが鞍に跨ると、続けてシリウスがひらりと馬へと飛び乗った。
シリウスは脹脛で馬に合図を送ると、既に出発準備が整った隊列の後ろに加わる。後方部隊の先頭では、ラピスの警護のためにわずかに残ったイフェルナ国の一個分隊分の軍人たちにスコットがシリウスに代わって何やら指示を出しているのが見えた。
空が金色のグラデーションに染まり始めた頃、陣の遥か前方から喇叭が鳴り響いた。ラピスが耳を澄ませると、総勢三万を超える兵たちを預かる将であるラティルが声を張り上げ、兵たちに呼びかけているのがかすかに聞こえてきた。
「これより出陣する! この国はレイフォルトにもレベルラ帝国にも好きにさせてはならない! 逆賊レイフォルトを討ち、この国を守るため、俺に続け!」
応、と兵士たちが賛同する声が辺りに轟く。いよいよか、とラピスは鞍の前の持ち手を掴み直しながら、気を引き締めた。
歩兵と騎兵の入り混じった前方部隊が王都へ向けて進軍を開始する。隊列を組んだ兵士たちは打ち寄せる波のように緩やかに前へと進んでいく。
前方部隊が出発し終えると、ラピスを含めて十名ほどしかいない後方部隊に出発の順番が回ってきた。先頭のスコットの馬が動き出すと、彼の部下の軍人たちがそれに続く。「行きますよ」そう告げてシリウスが馬体を脹脛で圧迫すると、ラピスの視界がゆっくりと前へ動き出す。
エダイス山の稜線の向こう側から夜の気配が追いかけてくるのを感じながら、ラピスたちは王都へ向かって進み続ける。北颪がラピスの銀の髪を一房攫い、白のローブの裾を靡かせた。
遠目に王都の影が見え始めるころになると、ラピスは聖杖プリギエーラを抜いた。この位置からなら、王都の下に眠る古の死者たちを起こすのに充分だと判断してのことだった。
ラピスは馬上で杖を掲げ持つと、体内の魔力を丁寧に練った。純度の高い魔力が瑠璃色の光となって杖の水晶から溢れ出す。光は杖全体を包み、ラピスの全身へと伝っていった。
ラピスは髪の毛の一本一本に至るまで瑠璃色に光らせながら、古の興国の戦いで命を落とした兵士たちへと思いを馳せる。死者の眠りを妨げることに罪悪感はあったものの、彼らが流した血の上に作られたこの国を守るためには、今一度彼らの力を借りるしかなかった。
すう、とラピスは冬の気配を帯びた冷たい空気を吸った。今は自分にできることをやるたけだ。ラティルとの別れ際の不安が嘘のように、気持ちは凪いでいた。
「開け、冥界の扉、我は理を覆す者なり。大地に眠る我らの祖よ、我が声に応え、我に従え。旧き魂よ、今ここに甦り、闇の力を揮い給え! 《死者の秘蹟》」
ラピスが呪文を紡ぐと、彼女や杖を包んでいた瑠璃色の光が迸り、昼から夜へと移ろいつつある空に数多の筋を描いた。流れ星より速く、光の筋は空を奔り抜けていく。
既に交戦を開始していた前方部隊のほうからどよめきが聞こえた。黒々とした影が肉体を伴って立ち上がり、大地の上でゆらゆらと揺れているのが遠目に見える。
ラピスは杖を手にしたまま、大地から蘇った数万のゾンビの軍勢へと命令を下すべく、声を張った。
「古(いにしえ)の戦士たちよ、戦いなさい! ラティル様たちの援護をするのです!」
グオオオオ、と地鳴りのような咆哮が響く。ラピスは魔力を込めて、杖でゾンビたちを導く。ゾンビたちはラピスたちを中央奥に据え、左右に大きく開いた陣形で隊列を組むと、王都を守るジリアーニ公爵派の軍勢を襲い始めた。
夕暮れの色を纏い始めた空を夥しい数の瑠璃色の光が奔り抜けていくのを王の執務室から金髪紫目の青年は眺めていた。次の流星群はまだ先だと王室付きの学者は言っていたはずだ。
赤と青の対照的なコントラストが神秘的だった。窓の外の光景に圧倒されたまま、彼――レイフォルトは空を見つめ続ける。
つい数時間前に、リーメル皇国とエゼルテ公国の武力対立についての知らせが伝書鳩で舞い込んできた。両国は軍事演習という体でメティカ湿地帯を挟んで威嚇行動を繰り返しており、一触即発の状態だという。
両国の対立がアレーティア王国に飛び火しないとも限らない。レイフォルトは両国と国境を接するレインデリスへと即刻派兵を決断した。
(しかし、妙だ……リーメル皇国もエゼルテ公国もレベルラ帝国の属国だ。古くからの領土問題を抱えているとはいえ、どちらの国もレベルラ帝国の許可なく兵を動かすことはできないはず……)
レベルラ帝国は現在、建国記念の式典の最中で、国内の兵力のほとんどがその警備に割かれているはずだ。属国に対するレベルラ帝国の監視が緩む時期だとはいえ、どうにも妙だった。
ラティル側が攻勢に転じたころから、ファルカスと全く連絡がつかなくなっていた。レイフォルトはこれまでファルカスを通じて、レベルラ帝国に密かに国の内情を伝え続けていたが、このところ何の返事もない。自らレベルラ帝国に下れば、税率や自治権について、優遇してもらえるという約束を反故にするされたのではないかという嫌な予感が背筋を撫でていく。
(この星の動きも……何かの前触れでなければいいが……)
そのとき、執務室の扉が叩かれた。その音からはどこか焦りが感じられた。入れ、とレイフォルトは入室の許可を出す。
「何事だ?」
レイフォルトの問いに、部屋に入ってきた兵士は低頭し、最悪の事態を口にした。
「恐れながら申し上げます。ラティル王子率いる三万ほどの軍勢により、この王都が攻め込まれています。この城に到達するのももう時間の問題でしょう」
何だと、とレイフォルトは顔を顰める。占領したはずのミルベール公爵派の貴族の領地をラティルたちが取り戻しつつあるのは把握していたが、それほどの兵力を有しているとは知らなかった。そして、兵士はまだ話に続きがあるのか言葉を続けていく。
「信じ難いことなのですが……大量のゾンビが現れ、王都に押し寄せてきているようなのです。それも、まるでラティル王子の進軍を後押しするかのように」
は、とレイフォルトの口から間抜けな声が漏れた。彼の思考がぴしりと音を立てて停止する。
大量のゾンビが現れてラティルの援護をしている。ゆっくりとレイフォルトはその事実を脳内で咀嚼する。心を落ち着かせながら、レイフォルトはこの状況を収拾するための手段を考える。己の大義を貫き通すには、ラティルたちの意表を突く以外なかった。
「城下に火を放て。ゾンビ共を焼き殺し、ラティルの戦力を削ぐんだ」
「殿下、今何と……?」
レイフォルトから発された命令が信じられなくて、兵士は聞き返した。聡明なはずの己の主君が口にした非道な言葉を真実だと思いたくなかった。
「だから、城下に火を放てと言っている」
「しかし、城下には民たちが……ゾンビ共を彼らともども焼き殺すおつもりですか!?」
兵士は抗議した。しかし、レイフォルトはそうだ、と冷たい声で兵士の言葉を肯定した。
「私が王とならず、レベルラ帝国と戦争になれば、どのみち失われる命だ。何も問題はないだろう?」
そんな、と兵士は絶句した。しかし、レイフォルトはそんな兵士の様子には構わず、命令を続ける。
「それと、城の守りを固めろ。ネズミ一匹入り込まないように、警戒を怠るな」
了解、と尻すぼみな声で返事をする兵士を横目に、レイフォルトは壁にかけられた剣を手に取る。彼は柄に国花のアマリリスを模した細工が施された、刀身が青光りする宝剣を手にすると、
「万が一のときには私も打って出る。愚弟――反逆者ラティルの始末をこの手でつけるために」
そう宣言すると、レイフォルトは青いマントの裾を翻して大股に部屋を出て行く。
残された兵士は跪いたまま、呆然とレイフォルトの背を見送った。
「――はあっ!」
街の入り口を固めていたジリアーニ公爵派の兵士をラティルは気合いとともに突き崩した。彼が城の方へ視線を向けると、城下を突っ切って新たな軍勢がこちらへと駆けつけてくるのが見える。
こちらへと向かってくるのは二個大隊ほどだろうか。対して、前方部隊のラティルたちの戦力は約三万だ。それに、背後にはラピスが操るゾンビの軍勢だって控えている。
今、前方部隊は指揮官であるラティルを先頭に陣形を組んでいる。数の有利はこちらにある。このまま突っ込み、中央突破を狙うべきだった。自分たちが撃ち漏らしても、彼らの相手は後方のゾンビ軍団に委ねることができる。
「――行くぞ! このまま突破する!」
ラティルは馬上で背後を振り返り、背後に続く兵たちへと指示を出す。応、という返事を浴びながら、ラティルは脚(きやく)だけで馬を操り、こちらへ向かってくるジリアーニ公爵派の兵の隊列の中へと先陣を切って突っ込んでいった。ミルベール公爵派の紋章のついた鎧の兵士たちとイフェルナ国から借り受けた軍人たちがラティルの後に続く。
「うわっ」「ラティル王子だ!」
ジリアーニ公爵派の兵士たちが、ラティルに馬で突っ込まれてどよめきながら左右に割れる。ラティルは剣で兵士たちをいなしながら、その場を駆け抜けた。その後ろをラティルの信望が厚いハイヴェルとケンデルの隊が続けて通り抜けていく。
動揺から立ち直ったジリアーニ公爵派の兵士たちが、更に続いてこちらに向かってくるミルベール公爵派の兵たちの一団を迎え撃つべく、体勢を立て直す。会戦した双方の兵たちにより、辺りに剣戟が幾重にも重なって響く。金属がぶつかり合う音とともにあちらこちらで火花が散る。
ケンデルは背後を振り仰ぐと後続の兵士たちに号令を出す。
「我々は先に行く! 必ず追いついてこい!」
ジリアーニ公爵派の兵士たちと打ち合いを続ける味方の兵たちはケンデルの指示に返事をする。
任せたぞ、と告げると、ジリアーニ公爵派の兵士たちによって分断された前方部隊の後ろ半分からケンデルたちは遠ざかっていく。
「おい、あれ……」「な、なんだ、あれは……!」
城へと先行した部隊の姿が小さくなったころ、ジリアーニ公爵派の兵士たちは、街の入り口から雪崩込んできた人影に息を呑んだ。
よたよたとした足取りで歩く骨の見えた姿。申し訳程度に全身にこびりついた腐った緑色の肉。風に乗って漂ってくる、硫黄のような刺激臭。
「ぞ、ゾンビだ……」
誰かが呟いたその言葉を契機に、ジリアーニ公爵派の兵士たちは浮き足だった。
街の門からゾンビの大群が入り込んできていた。彼らはよたよたと覚束ない足取りながらも、目抜き通りを進み、自分たちの方へと着実に近づいてきている。
ひぃ、と誰かの喉の奥から悲鳴が漏れる。「狼狽えるな、迎え撃て!」隊長の誰かが指示を出すが、その声にもほのかな恐怖の色が滲んでいる。
ジリアーニ公爵派の兵士たちは近づいてきたゾンビたちの大波に緩やかに飲み込まれていく。赤く色づいた空の下、死者たちに蹂躙される兵士たちの悲鳴が響き渡っていた。
その後、ラティルたちは、王城へ向かう道中で、何度かジリアーニ公爵派の兵士たちと交戦した。しかし、ラティル自身や麾下にあるハイヴェルやケンデルの部隊が奮戦して彼らを退け、ラティルたちは城門へと辿り着いていた。
ラティルたちの侵入を警戒してか、城門はぴったりと閉ざされている。城壁の上からは、射手たちの弓矢が虎視眈々とラティルたちを狙っていた。
「どうしたものか……これでは正面から城に入ることは難しそうだ」
ケンデルは手綱を軽く握り込み、ラティルの隣に馬を止めると、城壁を見上げながらそう言った。追い縋るジリアーニ公爵派の兵士を振り払って追いついてきたハイヴェルもラティルの横へと馬を並ばせると、
「ラティル様。俺が城門を開けましょうか? うちの部隊から何人か連れて乗り込みますよ」
ハイヴェルの提案にラティルは待て、と首を横に振った。城壁の上には所狭しと射手たちが居並んでおり、いくらハイヴェルの部下たちが工作活動に慣れた精鋭揃いだとはいっても、さすがに分が悪い。
「さすがにそれは危険すぎる。そのくらいなら、他の出入り口に回った方がましだ」
「どうやらそうするまでもないようです、ラティル様。――援軍だ」
ぐちゃぐちゃぬちゃぬちゃと湿った音を立てながら、ゾンビの大群が姿を現した。どうやらジリアーニ公爵派の兵士たちは、ゾンビたちに押し潰されてしまったようだ。
ゾンビたちの登場に城壁の上の射手たちがどよめいた。つい、と一本の矢が城壁の上から放たれる。それを皮切りに射手たちは迫りくるゾンビを目掛けて矢の雨を浴びせ始めた。
ゾンビたちの体に矢が刺さっていくが、首を切られるか脳を破壊されない限り、彼らの歩みが止まることはない。ラティルは彼らを利用できないかと思考を巡らせる。
(こうして、奴らは矢を浴びせ続けているが、矢の数は有限だ。いつか、矢が尽きるときがくる。それまで、こいつらに凌がせることができれば……!)
ゾンビたちに敢えて城壁を登らせ、射手たちに狙い撃ちさせる。そうすれば、機を見てハイヴェルたちを侵入させ、内側から城門を開けさせることができる。
ゾンビたちはラピスにより、ラティルの支援をするように命じられているはずだ。自分の言葉にゾンビたちが従うかはわからなかったが、ラティルはゾンビたちへと号令をかける。
「古の兵たちよ! 城壁を登れ!」
端的なラティルの指示に呼応するようにグオオオオとゾンビたちは咆哮を上げる。一体、二体、とゾンビたちは城壁に取り付くと、壁の継ぎ目に腐肉がまとわりついた指をかけて登り始める。
「うわあああああ! こいつら、登ってきたぞ!」「とにかく落とせ! どうにかしろ!」「そんなこと言ったって、こいつらどんだけ射ったって死なないじゃないっすか!」
城壁の上が恐慌に包まれる。全身に矢が刺さったゾンビたちが次々と緩慢な動きで城壁を登っていく。ゾンビたちを狙った矢が動揺でややずれた軌道を描いて地面へと降り注ぐ。自分たちを掠めて降り注ぐ矢の驟雨にも自我を持たない彼らは意に介したふうもなく、ねちゃねちゃと音を立てながらラティルの命令に従って城壁を上り続ける。
射手たちが、ジリ貧の攻防を始めてからしばらく経ったころ、城壁の上で悲鳴が上がった。
「まずい、矢が尽きたぞ!」「こっちもだ!」「やばい、ゾンビが城壁の上に!」
射手たちの攻撃が止み、ゾンビたちが城壁の上へと辿り着き始めていた。彼らは遠距離からの攻撃には分があるが、近接戦闘に持ち込まれた場合、反撃する手立てがない。死を恐れず、死ぬことのない兵士を前にして、どうやってももう彼らに勝つことは能わないと悟った射手たちは顔を青くする。
理性の感じられない咆哮と共にゾンビたちが射手たちに襲いかかり始める。城門を制する戦いの趨勢が自分たちへと傾き始めたのを確認すると、ラティルはハイヴェルを振り返る。
「ハイヴェル。この混乱に乗じて、城門を開けてくることはできるか?」
「そのくらいお安い御用ですよ、ラティル様」
任せてください、とハイヴェルは気安い調子でラティルの頼みを請け負うと、鐙を脱ぐ、右足を左側へ回し、馬体に己の腹を押し付けて飛び降りた。そして、ハイヴェルは背後に控える部下たちへと向かって声を張り上げる。
「第一特務分隊に告ぐ! 今のうちに城壁の向こう側へ降り、城門を開ける!」
了解、とハイヴェルの部下たちは返事をする。ハイヴェルはそれじゃあちょっと行ってきますね、と片目を瞑ると、部下たちを伴って城壁へと向かっていった。
ハイヴェルたちが城壁の向こう側へと姿を消すと、ラティルは違和感に気がついた。ゾンビたちの匂いに紛れて今まで気づかなかったが、風に乗って煙の匂いが漂ってきている。
「ラティル殿下! 城下が燃やされています!」
ゾンビたちが討ち漏らしたジリアーニ公爵派の兵士たちを無力化し、ようやく追いついてきた味方の兵士たちの誰かがそう叫んだ。ラティルが街を振り返るとあちらこちらで赤い炎が揺れ、黒い煙が立ち上っている。ラティルは唇を噛む。
(兄上め……街を燃やすことで、ゾンビたちを焼き殺そうとしたのか……? この量のゾンビたちは脅威だろうが、だからといってやっていいことと悪いことの区別もあいつはつかないのか……!)
愚かな、とラティルは呟く。ケンデルが気遣わしげにラティルを見ていた。
金属が引きずられるような重い音が城門の中で響いた。閂が引き抜かれた音だった。そして、ギギギ、と音を立てて城門が開く。勝負が決したのか、城壁の上はいつの間にか静まり返っていた。
「これより王城に突入する! ケンデルの隊とゾンビたちは俺と来い! 残りは城下の鎮火に当たってくれ! 逃げ遅れた者は保護し、礼拝堂へと避難させろ! 俺とラピスの名前を出せば、教会側も民の受け入れを拒みはしないはずだ!」
「御意に!」
その場の味方の生きた兵士たちが一斉にそう唱和した。そして、人間の兵士たちは事態の収拾にあたるべく、城下への道を駆け足で戻っていった。
「ケンデル、俺たちも行こう。この手で、かならず兄上――レイフォルトを止める」
そう言うとラティルは脚で馬へと合図を送る。そして、ラティルはケンデルたちを伴って、城門を駆け抜けた。
城内に入ると、ラティルは兵士たちに散開するように命じた。
「レイフォルトを探せ! 必ず奴を捕えるんだ!」
「不測の事態に備えて、おれの部隊は必ず分隊単位で行動しろ! いいな!」
ラティルに続き、ケンデルは自分の部下たちに指示を出す。敵の首魁は王都に火を放とうとするやつだ。どのような事態が起きてもおかしくはない。
「ハイヴェル、この城の敵戦力は今どのくらいかわかるか?」
「おそらく、約一万といったところでしょう。レインデリスにも人を割かれていますし、市街地や城門に展開された兵たちもあらかた倒したはずですから」
ハイヴェルはラティルの問いにそう答える。そうか、と頷くと、ラティルは味方の士気を上げるように檄を飛ばす。
「いいか! 今ここにいる戦力だけでも、こちらは相手を大きく上回っている! これは勝てる戦だ! しかし、絶対に油断はするなよ!」
応、と人間の兵士たちが返事をする。そして、行け、とラティルが命じると、兵士たちは人間もゾンビもレイフォルトを探して散って行った。
「それじゃあオレたちも行きましょうか。いくらラティル様がお強いとはいえ、何かあったら事ですから、オレとケンデルがお供しますよ」
「悪いな、恩に着る」
外套の裾を翻し、ラティルはいつ会敵しても問題ないように剣を構えながら、廊下を進み始める。
(兄上がいるとしたらどこだ……? 王の執務室か……? いや、さすがにこの状況でそんなところに籠っている人じゃない。それなら……)
何となく、レイフォルトは玉座の間にいるような気がする。レイフォルトは戦わずしてレベルラ帝国の元へ下るという己の意見を貫き通すため、即位を望んでいる。王の座を望む彼は、王たるものがおわすべきその場所で自分を待ち受けているような気がした。
こっちだ、とラティルはハイヴェルやケンデル、その部下たちを従えて、階段を登り始める。そのとき、ヒュッと空を切って階上から何かが降ってきた。「ラティル様!」警告するようには声を上げる。
大丈夫だと頷き返すと、ラティルは手に持っていた剣で落下物を払い除けた。階段の上には、槍を持った兵士たちがこちらを狙っている。
「気をつけろ! 上だ!」
ラティルは降り注いでくる槍の間を縫って階段を駆け上がっていく。穂先が何度か外套を掠め、布地を裂いていったが気にしない。
階段の手すりの上、ラティルの横を人影が追い越していった。ラティルの視界の端で亜麻色の髪が揺れる。
カーン、と金属がぶつかり合う音が響く。からんからんと槍が階段を転がり落ちていくと同時にヒュッと何か軽いものが飛んでいく音がした。
「まったく、ラティル様。少しはオレやケンデルのことも頼ってください。あんまり無茶ばっかしてると、ラピス様に怒られますよ」
片手に長剣、もう片方に投げナイフを持ったハイヴェルはにやりと口元を歪めてみせる。彼は敵兵が投げた槍を長剣で叩き落としざまに、投げナイフを手から放つ。
「悪い、ハイヴェル。しばらく凌いでくれるか?」
もちろんですよ、とハイヴェルはこんな局面にも関わらず、茶目っけたっぷりに片目を閉じてみせる。そして、彼は背後の部下たちを振り返ることなく指示を下す。
「第一特務分隊に告ぐ! 殿下の援護をしろ!」
ハイヴェルの部下たちはハイヴェルの言葉に即座に反応し、得物を構える。彼らは自分たちの隊長に付き従うように、空中に身を躍らせると、飛んでくる槍を捌き、そのまま反撃に転じていく。ハイヴェルによって、工作活動向けに訓練された彼らの軽く卓越した動きは賞賛に値するものだった。
「ケンデル、一度この階段を降りて、向こう側から登ってくれ。奴らを挟み撃ちにする」
お任せください、とケンデルはラティルの言葉に頷くと、部下たちを従えて階段を降りていく。ラティルはハイヴェルたちが敵の槍兵たちをいなしてくれているうちに階段を上まで駆け上った。
遠目に向こう側の階段をケンデルたちが登っているのが見える。敵は彼らの存在には気づいてはいるものの、ハイヴェルたちにてこずらされ、そちらの対処にまで手が回っていない。
敵の数はざっと見積もって二個小隊ほど。こちらの手勢は二個分隊のみだったが、明らかに練度が違う。数の利も、階段の上という地の利も向こうにあったが、それでもまだこちらのほうが有利だった。
(俺の朋友をあまり舐めてくれるなよ? そして、この俺のことも)
ラティルは得物を失った敵兵たちを無力化するべく、剣を振るっていく。背後からはハイヴェルとその部下たちによって小さな薄刃のナイフがひっきりなしに飛んでくる。
ラティルは眼前の兵たちに次々に峰打ちを見舞っていく。何人かが床に倒れ伏したころ、向こう側の階段を上り切ったケンデルたちが廊下の向こう側から姿を現した。
「ケンデル! 一気に畳み掛けるぞ!」
ケンデルたちの姿を認めると、ラティルは叫んだ。了解、という返事と同時に余力を残したケンデルたちの分隊が敵の槍兵たちへと襲いかかる。こうして、彼らは左右から挟撃されることとなった。
ケンデルたちはまだ手元に得物を残した兵たちへと切り込んでいく。得物同士を打ち合わせ、跳ね上げ、と熟達した技術を持ってケンデルたちの分隊は敵をいなしていく。ケンデルたちに翻弄される彼らをラティルやハイヴェルたちが襲う。次々と敵兵たちはその場に倒れていき、砂時計の砂が落ちるほどの間に勝負は決した。
ラティルは軽く息を弾ませながら、次の行動に移るべく方針を口にする。
「このまま、玉座の間に向かうぞ。おそらく、レイフォルトはそこにいる。
まだ伏兵がいるかもしれない。決して気を抜くなよ」
そう言うと、ラティルは玉座の間へと足を向ける。その場には戦意と意識を喪失した敵兵たちの沈黙と、冷めかけた戦いの熱気が漂っていた。
それから、ラティルたちは何度か待ち伏せていたジリアーニ公爵派の伏兵と交戦し、玉座の間へと辿り着いた。
びっしりと国花のアマリリスの紋様が刻まれた玉座の間の扉をラティルが開け放つと、視線の先に宝剣を手にしたレイフォルトが立っていた。
ラティルが玉座の間の中へと足を踏み入れようとすると、いくつもの剣の切先が鋭い殺意とともに向けられた。レイフォルト直属の親衛部隊の面々だった。
ちっ、と舌打ちをしながらラティルは後ろへと飛び退る。自分はレイフォルトに用がある。こんな奴らの相手をしている場合ではないし、そもそもで手練れである彼らをすべて相手にするのは自分には荷が勝ちすぎる。
すっと剣を手にハイヴェルとケンデルが前へ出る。
「ラティル様、オレたちが活路を切り拓きますよ」
「だから、ラティル様はラティル様のやるべきことをやってください」
二人は背中を預け合って立ちながら、不敵に笑う。
「殿下のために彼らを足止めしろ!」
「臆するな! 奴らは強いが、数の利はこちらにある!」
二人の指示に従って、彼らの分隊の兵士たちがレイフォルトの親衛部隊を取り囲む。こうして、乱戦は始まった。
「悪いな、助かる」
ラティルは戦いの中を走り抜け、玉座の前に控えるレイフォルトの元へと向かっていく。彼は静かな紫色の目で自分を見るレイフォルトと対峙すると、剣を向ける。
「兄上!」
「……逆賊のご帰還か」
レイフォルトはラティルを認めると、ふんと鼻先で冷笑する。ラティルは強い目でレイフォルトを見返すと、声高にレイフォルトを非難する。
「逆賊はそっちだろう! 兄上がしたことは、国の未来を憂いてのことだとはわかっている。だとしても、こんなやり方が罷り通るべきじゃない! もっとやり方があったはずだろう!」
「私たち王族の務めは、お前にだってわかっているはずだろう? 私たちは、この国の民を守らなければならない。たとえ、どんな手段を用いたとしても、だ」
「街に火を放っておいて、どの口がそれを言っているんだ! それに、自らレベルラ帝国の元に下ることが俺は民を守ることになるとは思えない! 兄上だって、あの国の属国になった国の末路を知らないわけじゃないだろう!」
紫と緑の視線が激突した。どうしたってレイフォルトと分かりあうことは不可能だと察したラティルは剣を構え直した。レイフォルトも手にした宝剣を構える。
「俺は、兄上のやり方を認めない! この国は俺が守る!」
先に動いたのはラティルだった。彼は剣を振り上げると、レイフォルトへと斬りかかる。手加減のない一撃だった。
ラティルの攻撃をレイフォルトが剣で受け止める。レイフォルトはラティルの攻撃を受け流すと、ラティルから距離を取る。
本来のラティルであれば、間髪を容れずにレイフォルトに追撃を仕掛けることができた。しかし、王都に乗り込んでからずっと先陣を切って戦い続けてきたせいで、彼の剣は疲労で精彩を欠いていた。
本来のラティルは、レイフォルトよりも強い。しかし、今のラティルは王族の嗜みとしての剣術しかおさめていないレイフォルトと互角にしか戦えていなかった。
(まずいな……長期戦に持ち込めば持ち込むほど、俺が不利になる)
ラティルは歯噛みする。どうにかして勝機を捕まれば、やられるのは自分だ。負ければレイフォルトは、己の邪魔をするラティルに容赦することはないだろう。待っているのは父王と同じ運命だ。
(駄目だ、弱気になるな)
ラティルは萎みかける己の心を叱咤する。今は耐えて隙を見出すべきだ。人間、長時間集中力を保ったまま戦い続けることはできない。レイフォルトの集中が途切れた隙を狙って、畳み掛けるのが得策だった。
(ラピス……)
不意に想い人のことが脳裏をよぎった。どうかご無事で。不安げな面持ちで送り出してくれた彼女のことを思えば、レイフォルトなんかに負けるわけにはいかなかった。自分が帰ってこなければ、きっとラピスは泣く。好きな女の子を自分のせいで泣かせたくはなかった。
ラティルは一合、二合とレイフォルトと剣を交え続ける。火花が散り、二人の睨み合いは続く。
ラティルはレイフォルトに隙ができる瞬間を待ちながら、彼と剣を交わし続ける。彼の背後では激しい剣戟の音が響いていた。
赤く染まった空を黒い煙が覆おうとしていた。最後方である王都の入り口が見える辺りに控えていたラピスは馬上で眉を顰めた。
「一体、街の中で何が起きているんでしょう……?」
わかりません、とラピスの背後に座ったシリウスは首を振る。
「ですが……何か不測の事態が起きていることは間違いなさそうです」
「前方部隊の皆さんは大丈夫でしょうか……」
聖杖プリギエーラを通じて、自分が呼び起こしたゾンビたちの反応は感じられる。しかし、ゾンビたちの様子がわかったところで、ラティルたちが無事でいるかどうかまではわからない。
ラピスはシリウスを振り返ると、
「シリウス様、一つだけわがままを言っても良いでしょうか?」
「何ですか?」
「わたしたちも突入しましょう。街の中で一体何が起きているのか確かめたいんです」
ラピスの言葉を聞いて、シリウスは小さく溜息をついた。おそらく街の中の状況を確認したいというのは建前だ。何が起きているのかわからない以上、彼女はラティルの元にすぐにでも駆け付けたくて仕方がないのだろう。
「……一つ、約束してください。私が危険だと判断したら、すぐに撤退すると。それをお約束いただけないなら、あなたを街の中にお連れすることはできません」
「……わかりました」
ラピスが頷くと、シリウスは後方に残った兵たちへと号令をかける。
「私とラピス様を囲むように陣形を変更してください! これより、私たちも街へ突入し、状況の確認ならびに、必要に応じて前方部隊の援護を行ないます!」
了解、とスコットの隊の兵士たちは返事をすると、陣形を変更する。すぐに味方の騎兵たちが、ラピスたちを守るように彼女たちの周りを囲んだ。
「進軍開始!」
シリウスは声を張ると、脚を使って馬へ発進の合図を出す。スコットを先頭に、ラピスたちは街へと向かって進み始めた。
ラピスたちが街の中に入ると、前方部隊として先に突入した味方の兵士たちが消火活動や民の避難に奔走していた。ラピスが顔馴染みのミルベール公爵派の兵士を呼び止めて話を聞いたところ、どうやらゾンビの大群を焼き殺すためにレイフォルトが城下に火を放ったのだという。
「なんて、ひどい……」
なりふり構わないレイフォルトの行為にラピスはそう呟いた。これ以上、レイフォルトの好きにさせていては、次は何が起こるかわからない。早急に決着をつける必要があった。
「シリウス様、わたしたちも王城へ向かいましょう。ラティル様の援護をします」
「ですが、ラピス様。城内にどれだけ敵戦力が残っているかわからない状態です。これだけの数で突入するのは危険です。私はその方針には賛同いたしかねます」
シリウスが否やを唱えると、大丈夫です、とラピスは背後を振り向き、まっすぐに彼を見た。
「城内にゾンビたちの反応があります。彼らと合流し、ラティル様たちの元へ向かいましょう。
シリウス様、お願いです。わたしはどうしても、ラティル様をお助けしたいんです。ラティル様のお力になりたいんです」
瑠璃色の双眸には確固たる意志が宿っていた。ああもう、とシリウスは城の尖塔を仰ぎ見る。きっと説得を試みたところで、彼女は行くと言って譲らないだろう。無理に引き留めようとしても、馬を飛び降りて彼女は一人ででもラティルの元へ向かってしまいそうな気がした。
どうかお願いします、とラピスはシリウスへと頭を下げた。わかりましたよ、と彼は渋々ながらも首を縦に振った。
決して、惚れた弱みで絆されたわけではない。シリウスはそう己に言い聞かせながら、周囲の兵たちに城へと向かう旨を伝えた。
ラピスたちが城へとたどり着くと、城門が開放されていた。城壁の周りには夥しい数の矢が落ちていたが、ラティルたちの姿がない辺り、どうにか無力化して中に入ったということなのだろう。ラティルの下には工作活動に長けた者たちもいるし、きっと彼らが上手いこと立ち回ったに違いない。
城門を潜り抜けると、ラピスは馬上で杖を翳し、城内のゾンビたちへと命令を送った。
「――集いなさい、古の戦士たちよ。わたしたちと共に、ラティル様の援護に向かうのです」
城内のゾンビたちが命令に反応し、大広間の扉の向こう側に集まり始めているのをラピスは杖を通じて感じ取った。行きましょう、と彼女はシリウスや周囲を固める兵士たちを促すと、馬を降りる。
冷たい風に乗って、城下から煙の匂いが漂ってくる。エダイス山の方角へラピスが一瞥をくれると、夜の藍色と煙の黒色が混ざり合って、東の端から空を暗い色合いに染めようとしていた。
すっと繰り出された突きが喉元へ伸びてくるのを感じて、反射的にラティルは飛び退った。躱しきれなかった剣の切先が頬を掠め、金の髪が数本宙に舞った。カッと頬に熱が走り、顎へと向かって血が伝っていく。
ぜえぜえ、とラティルは肩で息をする。体力が限界を迎えかけていたが、レイフォルトを見据えるラティルの緑の双眸からはまだ戦意は失われていなかった。ラティルは腹で深く息を吸い、呼吸を整えながら剣を構え直す。
ラティルはふいにラピスの声を聞いた気がした。疲れすぎて幻聴を聞いているのかとラティルは苦笑する。危険が及ばないように、ラピスのことはシリウスに預け、いつでも撤退できるように街の外に待機させている。こんなところにいるはずがなかった。
「うっ、うわあああああ!」
ラティルと相対していたレイフォルトが唐突に絶叫し、耳元を押さえた。その手から剣が転がり落ちる。
「あ……」
ラティルはレイフォルトの顔の周りに黒い靄が漂っているのを見た。これはラピスの魔力だ、とラティルは気づく。
「――影よ、大地より出でて、生者を縛る楔となれ! 《暗影の鎖》」
凛とした少女の声が玉座の間に響き渡った。黒い靄がレイフォルトの身体に纏わりつき、彼の自由を奪う。足を取られてレイフォルトは尻餅をつくように、背後へと倒れ込む。
「ラピス!」
ラティルは入り口の扉の方を見やり、銀髪の少女の姿を認めると、その名を呼んだ。シリウスたちに守られ、背後にゾンビの軍勢を従えた少女は、瑠璃色の光が宿る杖を手に彼の名を叫び返す。
「ラティル様! どうか今のうちに!」
ラピスに促され、ラティルは床に座り込んだまま動けなくなっているレイフォルトへ歩み寄る。ラティルは剣の切先をレイフォルトの喉元に突きつけると、こう告げた。
「兄上、ここまでだ。投降しろ。言っておくが、レベルラ帝国の助けを期待しているなら無駄だ。リーメル皇国とエゼルテ公国の補給線は断たせてもらった。あの国は今、この国に手出しすることはできない」
ラティルの言葉にレイフォルトはくっと唇を噛んだ。ラティルは手で背後を指し示すと、
「それとも、この数を相手にまだやるつもりか? 兄上の優秀な親衛部隊の連中はもう動けないように見えるけどな」
レイフォルトの親衛部隊はハイヴェルやケンデルの分隊の面々にやり込められ、床に膝をつかされていた。状況を把握したレイフォルトは、紫の目に忌々しげな色を浮かべると、弟の顔を睨みつける。
「……殺すなら、殺せばいい。お前にはその権利がある」
レイフォルトはぼそりとそう呟いた。ラティルは厳しい眼差しでレイフォルトを見下ろすと、
「――殺さない。俺は兄上とは違う。俺は殺すことで物事を解決させるような真似はしない」
ラティルは毅然としてレイフォルトへとそう言い放った。甘いな、とレイフォルトは端正な顔を歪める。
「情けをかけるつもりなら勝手にしろ。しかし、いつかその甘さは回り回ってお前の首を絞めるぞ。ラティル、こうやって私を下したからには、この国のこの先については責任を持て。それが王族としての務めだ」
「兄上に言われずともわかっている。俺は俺の信じるやり方でレベルラ帝国からこの国を守ってみせる。兄上が間違っていたと必ず俺が証明してやる」
「……やれるものならやってみればいい。だが、その言葉、後悔するなよ」
不快げに鼻を鳴らし、そう吐き捨てると、レイフォルトはそれきり口を閉ざした。
ラティルはハイヴェルとケンデルへと目配せを送る。
「反逆者レイフォルトを捕えろ。地下牢へ繋いでおけ。親衛部隊の連中もだ」
は、と短く返事をすると、ハイヴェルとケンデルはレイフォルトの腕を掴み上げた。二人は彼の身体を引きずって玉座の間を出ていく。レイフォルトはされるがままで何も言わなかった。
ハイヴェルやケンデルの部下たちやシリウスたちは協力して、七人の親衛部隊の兵士たちを引っ立てる。連行されるレイフォルトの後に続くようにして、彼らもその場を後にした。
玉座の間にはラティルとラピスの二人だけが残された。ラピスはゾンビたちを操っていた術を解くと、ラティルへと駆け寄った。
「ラティル様! ご無事ですか!」
大丈夫だ、とラティルは口の端に苦笑を浮かべると、その場に膝をつく。すべて終わったのだと思うと、途端に気が抜けて立っていられなかった。重たい疲労が彼の全身を襲う。
「まったくラティル様は……! あれほど無茶はしないでくださいと言ったのに……!」
ラティルの状態を見咎めたラピスは膝を負ってかがみ込むと、語気を強くする。大きな怪我はないようだが、全身に細かな傷を負い、ぼろぼろだ。それがどれだけの無茶をラティルが重ねたのかを雄弁に物語っていた。
「お前に言われたくねえよ。お前の身を守るために、お前のことをシリウスに預けたっていうのにこんなところまで来やがって」
だけどお陰で助かった。そう小さく呟くと、ラティルは縋り付くようにラピスの体に手を伸ばし、彼女の胸元に頭を預けた。温もりや命の拍動が伝わってきて、ラティルは安堵の息を漏らす。この城のどこか――おそらくは地下牢に囚われているはずの母の救出に向かわねばならないことはわかっていたが、今はほんの少しだけこうしていたかった。
「悪い、疲れた。少しの間だけでいい、このままでいさせてくれ」
いいですよ、とラピスは微笑を浮かべる。お疲れさまです、と彼女はラティルの背を優しく撫でた。
騒がしかったはずの城内には静寂が降りていた。秋の初めから長きにわたった革命はようやく幕を閉じたのだと噛み締めながら、ラティルはラピスの胸の中で瞼を閉じた。
海面では冴え冴えとした月が波間で揺れている。ラティルは甲板で想い人の瞳によく似た夜空をなんとはなしに眺めながら、溜息をつく。白い呼気が夜の闇へ霧散して消えていく。
あれから、ラピスとろくに話ができていなかった。作戦の話であれば、問題なくできるのだが、二人きりで個人的な話をしようとすると、途端に間に流れる空気がぎこちなく硬くなる。
(どう考えても俺が悪い。俺が嫉妬を抑えられなかったから……)
ラティルはラピスが辛い思いをしているときにそばにいてやれなかったことを悔いていた。それ以上に、そのとき彼女のそばにいたのがシリウスだったという事実を妬んでいた。
ギィ、と蝶番が軋み、船室の扉が開いた。ランプを手にした長身の黒髪の男が甲板へと姿を現す。
「……来たか」
ラティルは背後を振り返ることなく、そう言った。ええ、とラティルの言葉を肯んずる声がする。
「お召しに応じ、馳せ参じました。ラティル殿下」
何かお話があるとか、とシリウスは夜の海風を浴びるラティルの横へと立つ。
ラティルはラピスのことについて話すため、シリウスを呼び出していた。ラピスに手を出したことについて、ラティルは彼に一言物申さずにはいられなかった。
「フレナード准将。お前、ラピスに何か言ったらしいな」
「ええ。グラナータを奪還したあの日、私はラピス様に好意を告げました。あの方が辛そうで苦しそうで。そして、それが痛ましくて、いじらしくて、愛おしくて」
淡々と告げるシリウスをラティルは睨みつける。
「それはまだいい。だけど、お前、あいつに無理やり迫ったらしいじゃないか」
「……ラピス様を怖がらせてしまったことは申し訳ないと思っています」
いいか、とラティルはシリウスの鼻先に人差し指を突きつけると、
「俺は絶対にお前にあいつを渡さない。あいつにあんな顔をさせるようなお前には絶対に、だ」
ラティルはシリウスに向かってそう啖呵を切った。ふ、とシリウスは口の端に苦い笑みを浮かべる。
「やはり、あなたには敵いそうにないですね。安心してください、ルピリル解放の際にラピス様にはきっぱりと振られました。ラティル殿下、あなたのことを好きだから、と」
「え……?」
ラティルは唖然とした。ラピスが自分のことをそんなふうに思ってくれているなど考えてもいなかった。彼女は自分のことなど、単なる幼馴染以上に見ていないだろうと思っていた。
(……あ)
ラティルは自分が思い違いをしていたことに気づいた。思えば、あのときラピスは何か言いたそうにしていた。なのに、自分はラピスがシリウスの気持ちを受け入れたと思い込んで、一方的に己の感情と衝動を彼女にぶつけてしまった。
(……俺、最低だ。こいつのことをどうこう言う資格なんてない)
ラティルは自分の髪を掻きむしりたい衝動に駆られた。それでもそんな無様なところを恋敵に見られたくなくて、ありとあらゆる感情を乗せてラティルは大きく溜息をつく。そんなラティルの様子に構うことはなく、シリウスは話を続けていく。
「お二人の間に何かがあったことはお察しします。ですが、お二人にはなるべく早く和解なりなんなりしていただきたいものですね。でないと、ラピス様に振られた私の立場がありません。それに、スコットも『今度は目のやり場に困るくらい仲睦まじくしていたはずのラティル殿下とラピス様の様子がおかしくてやりづらい』と申しておりましたから」
「……わかった」
不承不承ながら、ラティルは頷いた。悔しいが、シリウスが言っているのは正論だ。シリウスの立場はどうでもいいとしても、自分たちのせいで周りがやりづらさを感じているのならば、今の状況は早くどうにかしたほうがいい。というか、そんな常日頃から目のやり場に困るような行為に及んでいた覚えはないのだが。ラティルは憮然とする。
「フレナード准将。いや、シリウス。お前がまた、ラピスの望まないような行為に出ることがあれば、そのときはただじゃおかない。――そのときは剣で切り刻んでくれる」
ラティルは腰に佩いた愛剣をちらりと示してみせる。彼の言葉は脅すような言い回しに反してひどく真剣だった。
「――承知いたしました。その言葉、この胸によく刻んでおきます」
シリウスはラティルの言葉を受け止め、重々しく頷く。
空を渡る月はわずかに西へと位置を移している。二人の間には潮の匂いが混ざった、刺すように冷たい空気が降りていた。
皇都リミアの奥に頂かれた城の一室で、国の主たる中年の男――カロッソ・リメンディスは書類に目を通しながら、外の喧騒に耳を傾けていた。
オストヴァルトから行商が訪れているということで、城下はいつもより賑やかだ。レベルラ帝国の属国となったことで、人々の暮らしはひどく自由を制限されたものとなっている。重税により、息苦しい生活を送っている民たちにとって、行商人たちの訪いはわずかながら暮らしに彩りと慰め、潤いを与えてくれていた。レベルラ帝国によって関税が釣り上げられてしまってからも、変わらずに季節ごとにこの国を訪れてくれている彼らにカロッソは感謝の意を抱いていた。
今日はこの城にも馴染みの商人が訪れている。イェラジール教の戒律による女性の外出の禁止は皇族も例外ではない。商人たちの訪いは皇族の女性たちが買い物を楽しむための唯一の機会でもあった。
地方から上がってきたという、徴税の緩和に関する書類を前にカロッソは溜息をつく。ヴィトジへの捧げ物だか何だか知らないが、レベルラ帝国による搾取はとどまることを知らない。カロッソとしては、窮地に立たされている地方の訴えを受け入れてやりたいところだが、属国の王に過ぎない彼にレベルラ帝国の決めたことに否を唱える権限はない。彼は訴えを棄却する旨の文章を記すと、書類に判を押した。
今のカロッソは王であって王でない。リーメル皇国内をレベルラ帝国の意に沿うように回していくための事務処理を担う文官とでもいったほうが今の状態には近い。
自国の民のためにすら何もできない傀儡としての立場にいつまで甘んじればいいのだろう。一体いつまで、この地獄は続くのだろう。
(すべて、私が招いたことだ。私がもっと強ければ、しっかりしていれば、この国はこんなふうにはならなかった……!)
カロッソの胸を後悔が去来する。机の上に積まれた書類の紙質も以前に比べてかなり落ちた。国への奏上の文書に使う紙にすら、今のこの国には金を割く余裕がないのだ。この国をこうしてしまったことへの悔恨の念で苦しくなる。
こんこん、と執務室の扉がノックされ、カロッソは現実へと引き戻された。入室の許可を告げると、顔を薄布で隠したレベルラ帝国風の衣装に身を包んだ侍女が部屋の中に入ってきた。
「カティアか。どうした?」
カティアは目を伏せると、口を開く。布越しの言葉はくぐもって聞き取りにくい。
「アンティア様がお越しなのですが、イフェルナ国の商人を陛下にお引き合わせしたいと申しております。どうなさいますか?」
アンティアはリーメル皇国がレベルラ帝国の属国となる前から取引のあるオストヴァルトの商人だ。衣服や装飾品を扱う商人で、年に四回、季節に合わせた商品を持ってこの城を訪れる。気風が良く、明朗な商いを行なうこの商人のことをカロッソは気に入っていた。
(しかし、イフェルナ国か。今のこの国との間に販路を開きたがる者がいるとは珍しい)
リーメル皇国とイフェルナ国の間には大国であるアレーティア王国がある。オストヴァルトを介した多少の取引はこれまでもないではなかったが、イフェルナ国との直接的な交易は今まで行なってこなかった。
(まあいい。アンティア殿の紹介であれば、滅多なこともないだろう)
そう思い直すと、カロッソは椅子を立つ。このまま仕事をしていても、鬱々としてしまうだけなので、気分転換がてらにイフェルナ国から来たという商人と会ってみるのも悪くない。
「カティア、そのイフェルナ国の商人とやらと会おう。彼らは今どこにいる?」
「下の応接室に通しております」
どうぞこちらへ、とカティアに促され、カロッソは部屋を出た。廊下にはレベルラ帝国風の紋様が刻まれた絨毯が敷き詰められている。
そこかしこで焚かれた異国の香の匂いを煩わしく思いながら、カロッソはカティアに連れられて階段を降りていった。
アンティアと共に城の応接室に通されたラピスとラティルは、案内してくれた侍女がその場を辞した機を見計らって変装を解いた。ウィッグの下に押し込められていた髪が解き放たれ、明かりの下で金銀に煌めきを放つ。
うまく行くだろうか。不安が瑠璃の瞳で金砂と共に揺れる。このような真似をして他国の城に入り込んで、話が無事に纏まらなければ、外交問題に発展する可能性だってある。それに、リーメル皇王との間を取り持ってくれたアンティアの信用に罅が入る可能性だって否めない。
「ラピス。大丈夫だ」
ラピスの不安を感じ取ったラティルは彼女を安心させるように華奢な肩に触れる。ラティルだって、これからの自分たちの取引がどう転がるかわからず不安だったが、それは顔には出さないでおく。こんなことで臆していては、レイフォルトから国を取り戻すことなど叶わない。
こんこんと扉がノックされ、ラピスとラティルは居住いを正す。ここが正念場だ。二人は顔を見合わせると頷き合った。
扉が開き、先ほどの侍女に連れられて、中年の男が姿を現した。男は質のいい服に身を包んでいたが、レベルラ帝国風の衣服にまだ不慣れなのか、どこかちぐはぐな印象だった。
「アンティア殿、久しいな。息災なようで何よりだ」
男はラピスたちのほうを気にしながらも、アンティアに右手を差し出した。お陰様で、とアンティアは気安い笑みを浮かべながら、男の手を握り返す。
「ところで、アンティア殿。私にイフェルナ国の商人を紹介したいらしいと聞いているが、そこにいるのは何者だ?」
アンティアの連れである男女二人組はどう見てもイフェルナ国から来たという商人には見えない。金髪緑眼の青年は隣国アレーティア王国の第二王子であるラティル・アーレントだし、その傍らに控える銀髪の少女にも見覚えがある気がする。
謀ったのか、と男――カロッソは険しい目でアンティアへと問うた。申し訳ございません、とアンティアはその場で低頭する。
「こちらのお二人――ラティル王子殿下と聖女ラピスラズリはアレーティア王国からの特使です。お二人の動きが万が一にもレベルラ帝国に気取られないようにという配慮から、このような形をとらせていただきました」
ラティルとラピスはソファから立ち上がる。ラティルはカロッソのほうへと一歩踏み出すと、頭を下げる。
「カロッソ陛下。大変ご無沙汰しております。この度はお取引きのご相談のために馳せ参じた次第です。レベルラ帝国が関与しない、純粋な貴国とのお取引きです」
「取引き?」
カロッソは怪訝そうな顔をした。ラティルはラピスへ目線で合図をする。ラピスは封書を取り出すと、カロッソへと差し出した。
「ラティル殿下からリーメル皇国へと宛てた親書です。ご確認ください」
「あ、ああ……」
困惑しながらも、カロッソはラピスから受け取った親書の封を切る。
先だって発生した革命により、前国王は斃され、アレーティア国内は第一王子レイフォルトと第二王子ラティルによって二分されているという。そんな状況のアレーティア王国と取引をしたとして、リーメル皇国に何か利があるとも思えない。そして、何を持ちかけられたとしても、レベルラ帝国に従うほかない自分に何ができるとも思えなかった。
「……三国同盟、だと?」
カロッソは親書に書かれていた文字と目の前の二人を見比べる。ラピスは楚々とした聖女然とした笑みを浮かべると、
「貴国とエゼルテ公国、アレーティア王国の三国間における同盟関係のご提案です。エゼルテ公国には先んじて使者を送らせていただき、前向きなお返事を既にいただいていますよ」
貴国はどうなさるおつもりですか。色良いお返事を期待していますよ。ラピスは笑顔で言外にカロッソへと圧をかける。
エゼルテ公国からよい返事をもらっているというのはハッタリだ。ラピスたちがエゼルテ公国に向かうのはこの交渉を終えた後だし、使者など送ってもいない。ただ、同調圧力をかけてこの交渉の成功率を少しでも上げるのが狙いだった。それに、エゼルテ公国についてだって、ただのハッタリで終わらせるつもりはない。
「この同盟の狙いは何だ? このような同盟を結んで、貴国に何のメリットがある?」
カロッソは目の前の年若い二人にそう問うた。
「貴国と同様に、我が国もレベルラ帝国に脅かされている身だ。恥ずかしながら、我が愚兄は彼の国と繋がり、自ら国を売り渡す公算を立てている。それを防ぎ、国を取り戻すための助力を願いたい」
ラティルの言葉に、カロッソは更なる問いを重ねていく。
「貴殿の言い分は理解した。しかし、我が国はレベルラ帝国の影響下にあり、大した協力はできない。それに、貴国に協力し、我が国やエゼルテ公国に何の見返りがある?」
「俺が国を取り戻し、王となった暁には、貴国がレベルラ帝国から独立するための手助けをしよう。だからどうか、力を貸してもらえないだろうか?」
真摯な目でラティルはカロッソを見据えた。ふむ、とカロッソは頷く。話を聞く価値はありそうだ。彼は二人を対等な交渉相手として認めると、座るように促した。
「どうか座ってくれ。詳しい話を伺おう。カティア、紅茶の用意をしてくれ」
「陛下、ヴムサリ茶でなくてよろしいのですか?」
「ああ、構わない。あのような香辛料の味しかしない代物、お客人の口には合わないだろう?」
かしこまりました、とカティアは茶の用意を始める。
イェラジール教の戒律で紅茶は禁制品となっており、口にしていい飲み物はヴィトジの恵みとされるヴムサリ茶か水のみとされている。しかし、それを破ることはカロッソにとって、ささやかなレベルラ帝国への抵抗の始まりでもあった。
応接間の中を繊細で上品な茶の香りが漂い始める。カロッソはこういった些細な日常を絶対に取り戻したいと思った。アレーティア王国の提案に乗れば、いつかそんな日が来るのかもしれない。
「貴殿が先ほどの言葉を違えることがないというのなら、貴国と手を結ぶことも吝かではない」
カロッソの口から発された前向きな言葉にラピスたちは内心で確かな手応えを感じた。しかし、と二人の前に座る一国の王は言葉を続けていく。
「今の私には、貴殿のためにしてやれることはそう多くはない。それでも構わないか?」
「問題ない。俺がカロッソ陛下にお願いしたいのは、国境への物資輸送の中止だ」
「物資輸送の中止? なぜ、そのような……」
この秋は豪雨被害がひどく、作物が不作だった。そしてその数少ない実りをレベルラ帝国によって持っていかれてしまっている。それを理由に国境の警備部隊への物資輸送を中止することは可能だが、それをしなければならない理由がわからない。
「わたしたちの狙いは、レベルラ帝国の補給線を断つことです。距離のあるアレーティア王国に攻め込むには、補給が不可欠です。それを断ってしまえば、レベルラ帝国はアレーティア王国に手出しできなくなります」
ラピスの説明になるほどとカロッソは相槌を打つ。アレーティア王国と接するリーメル皇国とエゼルテ公国の国境沿いの補給線を断ってしまえば、次はアレーティア王国を狙っているというレベルラ帝国にとっては大きな痛手となる。レベルラ帝国と繋がっているというレイフォルトと連携をとることも難しくなるはずだ。
「いいだろう、引き受けた」
「ありがとうございます。それでは、こちらにサインをいただけないだろうか」
ラティルは事前に用意してきた同盟の締結文書を二通取り出すと、ペンで自分の名前を記し、カロッソの前へと押しやった。ああ、とカロッソもラティルの名の下に自分の名を書き連ねていく。
ラティルはカロッソのサインを確認すると、文書のうちの一通を手に取り、傍らのラピスへと渡した。ところで、とラティルは世間話を装ってもう一つの用件を切り出した。
「ところで、貴国はかねてよりエゼルテ公国との間に領土問題を抱えていたはずだったな」
「ええ……国境のゼスピラ川沿いのメティカ湿地帯のことですか」
ラティルの意図を測りかねながらもカロッソは頷いた。
「メティカ湿地帯を挟んで、エゼルテ公国との合同軍事演習を行なってもらうことはできるだろうか? この同盟がレベルラ帝国に知れるわけにはいかない。両国が湿地帯を挟んで威嚇し合う状況を作ることができれば、まさか貴国とエゼルテ公国が同盟関係にあるなど、誰も夢にも思わないでしょう。そして、両国の軍事演習でレベルラ帝国の目をそちらに向けられれば、俺も事を起こしやすくなる」
「……検討させていただく」
レベルラ帝国に気取られずに兵たちを動かす準備をするのは難しい。これに関しては即答はできそうになかった。
「どうか、色よいお返事をお待ちしておりますね。こちらのアンティア様を介してご連絡をいただければと思います」
ラピスは優雅に紅茶を飲み干すと、そろそろ失礼しますね、と立ち上がる。ご連絡をお待ちしている、と言うとラティルも彼女と同様に席を立った。
彼らは外套を着込み、荷物からウイッグらしきものを取り出すと頭から被った。金髪の王子と銀髪の聖女は、赤毛の女傭兵と黒髪の少年へと変貌を遂げる。
この姿でこの二人はここまで旅をしてきたのか、とカロッソは悟った。この二人が王子と聖女だとは誰も思うまい。
カサンソネーゼの港での検問でも何も引っかかったという知らせがない辺り、彼らの身分の偽造にイフェルナ国が一枚噛んでいる可能性がある。カロッソはイフェルナ国がラティル王子を支援しているらしいという話を耳にした覚えがあった。
「カティア、お客人方がお帰りのようだ。出口まで送って差し上げろ」
カティアはカロッソからの指示に承知いたしましたとくぐもった声で返事をする。
「そして、今ここで耳にしたことは他言無用だ。いいな?」
カロッソが念を押すと、カティアは無言で頷いた。彼女は三人が荷物を持ったのを確認すると、応接室の扉を開く。
こちらへ、とカティアは彼らを誘って部屋を出ていった。ばたん、と扉が閉まる音を聞きながら、カロッソはため息をつく。
冷めてしまった紅茶を啜りながら、カロッソは先ほど自分がサインを交わした文書へと目を落とす。
とんだことをしてしまった、と思う。アレーティア王国と三国同盟を締結したことが、そしてこれからやろうとしていることがレベルラ帝国に露見することがあれば、この国の王である自分は無事ではいられないだろう。
乗りかかった船だ。自分のためにも、この国のためにも、やれることがあるならば力を尽くすほかない。
レベルラ帝国との戦争に負けたあの日に失った誇りと一国の王としての風格がカロッソの目の奥に戻り始めていた。
かつんかつん、と石段に靴音が響く。ひんやりとした空気が辺りに満ちている。
レイフォルトは石段を降り切ると、左右に牢が連なった通路を進む。その最奥に目的の人物がいる独房はあった。
足音に気づいたのか、独房の中で項垂れていた女が顔を上げた。長い黒髪は絡まってぼさぼさに乱れているが、緑色の双眸からは意志の力が失われていなかった。その眼差しからは異母弟とよく似た強さが漂っていて、レイフォルトは胃にむかつきを覚える。
独房の中で囚われている中年の女は、ラティルにとっての最大の人質――彼の生母であり、第二王妃でもあるエルシーネだった。
「……レイフォルト殿下ですか。このような場所に一体何の用ですか」
凛とした静かな声がレイフォルトへと向かって投げかけられた。レイフォルトはふんと不快げに鼻を鳴らす。
「エルシーネ妃殿下。あなたの息子が随分と手間をかけさせてくれているものでしてね。少々痛い目を見させる必要があるかと考えておりまして」
レイフォルトは腰に佩いた自分の剣をすらりと抜き放った。薄暗い空間でぬらりと光る剣身を牢の柵越しにレイフォルトは躊躇うことなくエルシーネへと向ける。しかし、剣の切先を喉元に突きつけられてなお、彼女は毅然とした態度を崩すことはなかった。
「武器も持たぬ無抵抗の女に剣を向けるなど、あなたはどこまで堕ちれば気が済むのですか、レイフォルト殿下。亡き陛下もさぞかしあの世でお嘆きのことでしょう」
レイフォルトの行為にエルシーネはたじろぐことなく、彼へと鋭い舌鋒を向ける。あの姉弟の胆力はこの母親譲りかと思うと不快感が喉の奥を駆け上ってくる。
「――黙れ」
レイフォルトは鋭く低い声でそう言い放つ。しかし、エルシーネはやつれた顔を横に振る。息子と同じ色の双眸はレイフォルトを捉えたまま離さない。
「いいえ、黙りません。それに、わたくしに危害を与えたくらいのことであの子は――ラティルは決して屈したりしません」
やれるものならやってみろ。そう言いたげな視線を浴びせかけられ、レイフォルトは自分の中で何かがぷつりと切れるのを聞いた。感情が激昂し、彼は剣の腹をエルシーネの青白い頬に叩きつけた。彼女の頬に赤い筋が走り、ぱさついた黒の髪が幾本も宙に舞った。しかし、エルシーネはレイフォルトの暴力に屈することなく、身じろぎ一つしなかった。
「レイフォルト殿下、あなたは悲しい人ですね。夢のような甘い話に縋った挙句、暴力に訴える以外に己の大義を示す術を持たないのですから」
エルシーネの言葉が耳に痛かった。しかし、レイフォルトは無視をして牢の鍵を開け、石の床に散った彼女の髪をかき集める。そして、彼女の薄汚れたドレスの胸倉を掴み上げると、レイフォルトはサファイアのブローチを乱暴に引きちぎった。
「これをグラナータにいるあなたの息子に送りつける。どのような反応を示すか、見物ですね」
「この程度の脅しにあの子は決して屈したりしません。――そのように育てましたから」
「そう言っていられるのも今のうちですよ」
レイフォルトは乱暴に牢の扉を閉めた。扉を施錠し、それでは失礼、と冷たい視線を浴びせかけるとエルシーネに背を向けた。
レイフォルトは肩を怒らせて、元きた石段を登る。耳の奥では自分のことを悲しい人だと断じたエルシーネの声がぐるぐると渦を巻いていた。
皇都リミアを発ったラピスたちは、ゼスピラ川を越え、エゼルテ公国へと入った。エゼルテ公国出身の商人であるキーロンの案内で、リーメル皇国のときと同じように二人は公都エセンリアの城へと入り込んだ。そして、二人は大公であるサフェムズ・エルジェと面会し、三国同盟を無事締結し、エゼルテ公国の協力を取り付けることができた。
その後、アレーティア王国へ向かう行商人を装って、西側の国境を越え、ラピスたちは帰国の途についた。
ルピリルやパドマボール、ルノーゼなど、ラティルたちミルベール公爵派の貴族や中立派の貴族が治める町や村を経由して、彼らは拠点であるグラナータへと戻っていった。
ラピスたちがグラナータに帰着して一週間ほどしたころ、オストヴァルトにいる商人のアンティアから連絡があった。リーメル皇王がメティカ湿地帯での軍事演習を行なうことを承諾したという内容だった。
その知らせを受け取ったラティルはリーメル皇国とエゼルテ公国の合同軍事演習の実施時期の調整のために動いた。二週間後、レベルラ帝国で建国記念の式典が執り行われる日の正午に軍事演習を開始するように両国に通達するべく、ラティルは手紙を認め、オストヴァルトにいるアンティアとキーロンに託した。
王都アレッタに攻め込む準備を進めるべく、ラティルはシリウスに頼んで、イフェルナ国王エクレウスに連絡を取ってもらった。そして、二連隊分の兵士を追加でイフェルナ国から派遣してもらえるようにシリウスに取り計らってもらった。
また、ラティルはミルベール公爵派の貴族たちに連絡を取り、各地から兵を集めた。彼の呼びかけに反応した貴族たちは多く、国内各地から集まった兵の数は二万人に及ぼうかという勢いだった。
そんなふうに忙しくして日々を過ごしていたラティルは、ある日従兄で現ミルベール公爵のクロードから呼び出された。クロードの執務室に赴いた彼は、彼から差し出されたものを見て、くそっという王子らしからぬ悪態をついた。
クロードに見せられたのは一房の黒の髪とサファイアのブローチだった。ラティルは一目でそれが母親である第二王妃エルシーネのものであるとわかった。
このことからわかるのは、エルシーネがレイフォルトの元で人質になっているということだった。エルシーネがどんな扱いを受けているかわからないし、いつまで無事でいてくれるかわからなかった。
どうしたら、と気持ちが焦った。すぐにでもレイフォルトに捕らわれている人質の解放に向かいたかったが、作戦の決行日までまだ一週間ある。ラティルは唇を噛む。ラティル、とクロードは案じるように彼の名を呼ぶ。
「叔母上の身が心配なのは僕も同じだ。だけど、今はまだ黙って耐えるときだよ。今、ラティルが一人で動いたら、これまでに積み上げてきたものがすべて水の泡になる」
「……わかってる。わかってるよ、クロード従兄さん……」
「あまり思い詰めないようにな。ラティルには僕もいるし、ハイヴェルやケンデルたちだっている。それに何より、ラティルにはラピス様がいるだろう?」
「……うん」
ラティルは精彩を欠いた様子で小さく頷く。
「クロード従兄さん、母上のこと、知らせてくれてありがとう。それじゃあ、俺戻るよ。来週の作戦に向けて、やらないといけないことも多いし……」
口の中でぼそぼそと早口にそう言うと、ラティルは踵を返した。彼の背を見送るクロードの目には、従弟が迷子になってしまった小さな子供のように映った。それほどまでに、今のラティルの様子は危うかった。
ラティルが執務室の外に出ると、廊下を歩いていたラピスと行き合った。常とは異なるラティルの様子に不安を覚えたラピスは、ラティルとぎくしゃくしていたことも忘れて彼に声をかけた。
「ラティル様? どうかなさったんですか?」
自分を案じるラピスの声に、心の中の何かが決壊して、ラティルは無言で彼女の体を抱き寄せ、その肩口に額をつけた。
「ラティル様……?」
ラピスは困惑したような声を上げながらも、細い腕でラティルの身体を抱きしめ返す。ぽんぽん、と背中を撫でてくれる手の優しさが心に沁みた。
「ラピス……母上が、人質に取られてるんだ……。一刻も早く、母上を解放したいのに……俺は、王都突入を指導する立場だから、なにもできないんだ……。何かしたいのに、何もできなくて、それがもどかしくて、悔しくて、苦しい……!」
こんな弱音吐いて格好悪いよな、と震える声で言いながらも、ラティルは誰よりも愛しい少女に縋り付く。大丈夫ですよ、と言ってくれたラピスの言葉には聖女らしい包容力があって、ラティルの視界がぼんやりと滲む。
「格好悪くなんてないです。それに辛いときは辛いって、苦しいときは苦しいって言っていいんです。
ラティル様のお立場では、そういったことを口にしづらいのもわかります。けれど……わたしの前でくらいは、そうやって弱音を吐いてくれたっていいんです。わたしがすべて、受け止めますから」
ありがとう、とラティルはラピスの肩口に顔を埋めたまま小さく呟く。ラピスの暖かさと優しさで心がほぐれ、眼窩の奥から涙が迫り上がってくる。ラティルはラピスに体を預けたまま、声を押し殺して泣いた。
ラティルの肩が微かに揺れる。ラピスは行きどころのない感情に苦しむラティルの背を撫で続けた。
王都突入を翌日に控えた夜、ラピスたちは王都アレッタ郊外のエダイス山の麓に陣を張っていた。
ラピスとラティルがエダイス山を訪れるのは王都を脱出したあの夜以来だ。あのときは、ラティルから何があったか聞かされ、行動の指針はあれど、この先どうなるかわからない不安でいっぱいだったとラピスは思う。
ここまで来るのに、季節が一つ巡ってしまった。それでも、ラティルと二人きりだったあのころと異なり、今は志を同じくする人々が多くいる。一緒に王都をレイフォルトから取り戻してくれる仲間がいる。
明日の夕刻、ラピスたちは王都は突入する。城へと向かうラティルをラピスは後方から援護する予定だった。
聖フロレンシア教会に伝わる記録によれば、王都アレッタは、五百年前のアレーティア王国興国に際して大きな戦いがあった場所である。初代国王オージアスとともに大いなる力を用いて戦ったとされる聖女フロレンシアは、戦いで命を落とした数多の死者たちをこの地に弔った。
オージアスはこの地に都を置いてアレーティア王国を興し、フロレンシアは自らの教えを広めるために教会の総本山を築いた。そう伝えられている。
ラピスたちはこの建国伝説に目をつけた。ラピスたちの軍勢は、ミルベール公爵派の貴族の所有する兵士や、イフェルナ国から借り受けている軍人を合わせて三万人に迫ろうかという勢いだったが、レイフォルトやジリアーニ公爵派の一派を相手取るには少々心許ない。不足している分の兵力を補うため、ラピスたちは五百年前の戦いの死者たちを呼び起こし、自分たちの戦力に加えることを決めた。先の王都脱出の際は、まともな得物を持っていなかったため、墓地の死者を呼び起こすのが限界だったが、聖杖プリギエーラを手にした今のラピスであれば、何万にも及ぶ死者たちを操ることが可能だった。
(明日、か……)
明日の今ごろには、もうすべてが決しているかもしれない。先ほど、各隊長クラスの兵たちを集めた作戦確認のための最後の会議に出席してきたが、意外なくらい不安はない。
(隣で戦えるわけではないけれど、わたしがラティル様を支えないと……!)
気掛かりがあるとすれば、ラティルのことだった。先日、母である第二王妃エルシーネがレイフォルトに捕らわれていることを知ったラティルは、ラピスに縋り付いて弱音を吐いた。あれ以来、彼は取り乱すことなく、気丈に振る舞ってはいたが、それが逆にラピスからしたら心配だった。彼は無理をしていないだろうか。
会議用の大天幕から、ラティルが姿を現した。彼は先ほどの会議が終わった後も、何人かの将官たちと作戦の細部を詰めていた。
月明かりの下、白く浮かび上がったラティルの顔はひどく疲れて見えた。ラピスは堪らなくなって、彼へと声をかける。
「ラティル様」
「ああ、ラピスか」
ラティルは疲れた顔に淡い笑みを浮かべる。
「ラティル様……お疲れみたいですね。大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、問題ない。……悪いな、心配かけて」
休めば大丈夫だ。明日には引きずらせない。そう言うと、ラティルは自分の天幕へと向かって歩き出す。ラピスはラティルを小走りに追いかける。ラティルはラピスが自分を追ってくることに気づくと、歩調を緩める。
ラピスはちらりと横を歩くラティルの顔を窺い見る。あまり悪いことは考えたくないが、明日の決戦の後もこうして彼が自分の隣にいてくれる保証はどこにもない。こうして一緒に過ごせるのは、もしかすると最後になるかも知れなかった。
シリウスとのことについて、きっちりラティルに弁解をしておきたい。そして、その上でラティルに自分の気持ちを伝えたかった。
「ラティル様」
「ラピス」
互いの名を呼ぶ声が重なった。二人の足が止まる。あ、と緑と瑠璃の視線が交錯した。
「……先、話せよ」
ラティルに促され、ラピスははい、と頷いた。すう、と小さく息を吸うと、ラピスは覚悟を決める。
「ラティル様。わたし、以前にシリウス様に好意を告げられたという話をしましたね。あの話には続きがあるんです」
聞いてくださいますか、とラピスが問うと、ラティルは無言で頷いた。
「わたし、シリウス様のお気持ちには応えられないとお伝えしました。ラティル様。わたしはラティル様のことを異性としてお慕いしています。愛して、いるんです」
ふう、とラティルは嘆息した。敵わないな、とラティルは呟く。ラピスに先に好意を告げさせてしまった自分が格好悪い。
「……知ってたよ」
「ご存じだったんですか?」
ラピスは驚いたように目を瞠る。金砂の散った瑠璃の双眸はわずかに潤み、頬と耳がほんのりと朱に染まっている。胸の奥から沸き起こってくる、今すぐにでも抱きしめたいという愛おしさを押し殺して、ラティルは言葉を続ける。
「この前、シリウスから聞いたよ。オストヴァルトからカサンソネーゼに向かう途中にさ。……お前に手を出さないように牽制しておいた」
「え……?」
ラティルの緑の目に真摯な光が宿る。彼から気安い幼馴染の気配が消え、雄の匂いが漂い始める。彼の体の内から漏れる荒々しさに、ラピスはどきりとする。
「――ラピス。お前が好きだ」
「ラティル、さま……」
改めて好意を告げられ、ラピスの胸は高鳴る。どくどくと脈を打つ心臓の音がうるさい。好きな人と思いが通じ合うのは、こんなにも幸せでどきどきすることなのだとは知らなかった。
いいか、とラティルは言葉少なにラピスに問うた。何について許可を求められているのか理解したラピスは、小さく頷く。これから訪れるであろう甘い予感と高揚が波のようにひっきりなしに打ち寄せてくる。
ラティルはラピスの背にそっと手を回すと抱き寄せた。彼の顔が近づいてくると、ラピスはそっと目を閉じた。ラティルはラピスの唇へと自分のそれを重ねる。
初めてのときとは打って変わって、壊れものを扱うような優しい触れ方にラピスの胸はきゅっとなった。
この人が好きだ。どうしようもないくらい、この人のことが好きだ。ラティルのことを愛おしく思う感情が溢れて止まらない。
好き。好き。堪らなくなって、ラピスはラティルの首に両腕を回して抱きついた。ラピスを抱きしめるラティルの腕にも力がこもる。
どれほど時間が経っただろうか。ラピスとラティルはどちらかともなく唇を離した。触れ合った柔らかさと温もりが、優しくて甘い時間が名残惜しくて、ラピスは潤んだ目でラティルの顔を見上げた。
ラティルは優しい手つきでラピスの銀の髪を撫でながら、
「ラピス、明日は頼む。お前にだから……お前にしか、後方は任せられない。お前が必ず後ろから援護してくれるって信じてるから、俺は安心して最前線でレイフォルトの元に突っ込んでいける」
「ラティル様……絶対に、絶対に無事に帰ってきてくださいね」
当たり前だ、とラティルは笑った。その顔はラピスがこれまでに見たことがないくらい優しかった。
「お前をそばで守ってやれなくて、シリウスに預けなきゃならないことは業腹だが……お前も絶対、怪我したりするなよ。危ないと思ったら、すぐにここまで退いてこい。――約束だ」
わかりました、とラピスはラティルの胸の中で返事をする。
「ラティル様も無茶はしないでくださいね。約束してください」
ラピスがおずおずと小指を差し出すと、ラティルは彼女の細い指に自分の指を絡めた。そのやりとりが何だかくすぐったくて、二人は笑い合った。
葉がまばらになった山の木々の間から、冴え冴えとした月の光が降り注いでいる。西へと傾き始めるまで、二人は身を寄せ合っていた。
翌日、いつでも行軍を開始できるように準備を整えていると、斥候として王都に潜り込んでいた兵士たちが戻ってきた。太陽は西に傾き始め、空の端がうっすらと夕方の色を帯び始めている。
部下を率いて戻ってきたハイヴェルは、ラティルの前へ膝をつくとこう告げた。
「ラティル様。王都で動きがありました。一個連隊が王都を出て行きました。おそらくはメティカ湿地帯の合同演習がきっかけと見て間違いないでしょう。奴らの行き先はおそらくレインデリスと見ていいかと」
今日の正午に始まった、メティカ湿地帯でのリーメル皇国とエゼルテ公国の軍事演習。開始から数時間を経て、その知らせが各地に届き始めているのだろう。王都アレッタも例外ではない。
レイフォルトたちジリアーニ公爵派の兵たちが向かったレインデリスは国内第三の都市で、リーメル皇国・エゼルテ公国の両国と国境を接している。オストヴァルトほどではないが、交易で栄えてきた都市であり、両国に怪しい動きがあれば国防の要所にもなる。レイフォルトは両国の動きを警戒して、レインデリスに兵を送ったのだろう。
アレーティア王国ですら、警戒した動きを見せている。レベルラ帝国が動いていないはずがなかった。
ただでさえ、レベルラ帝国は今日は建国記念の式典が行なわれている。その最中に、アレーティア王国で変事が起きても、介入してくるだけの余力はさすがにないだろう。このタイミングを逃す手はない。
ハイヴェルの報告を受けたラティルは、ラピスを連れてシリウスの元を訪れた。ラティルはシリウスを確と見据えると、こう告げた。
「シリウス。お前のことを信じて、ラピスを託す。後方の要はこいつだ。どうか、守ってやってくれ」
「承知しました。作戦通り、最悪の場合に離脱しやすいように、ラピス様は陣の最後尾に、でしたね」
「ああ、それで頼む。戦線離脱が叶わないようなら、陣形はラピスを中心に据えて、周りを固めるものに変えてくれ。シリウス、判断はお前に任せる」
シリウスは頷き、承諾の意を示した。ラティルはラピスの背を押す。ラピスはシリウスのそばへと歩み寄ると、ラティルを振り返った。
「ラティル様。どうかご無事で。無理はなさらないでくださいね」
わかってる、とラティルは柔らかい笑みを浮かべる。彼はラピスの顎をくいと指で持ち上げると、唇の上にキスを落とした。シリウスは見ていられなくて、ついと視線を明後日の方向に逸らす。ラピスにきっぱりと振られたことで踏ん切りはついているものの、彼女へ向けた気持ちがなくなったわけではない。好きな女性が他の男にキスされているのを見るのは少々きつかった。
ラティルは啄(ついば)むような短いキスの後、顔を離すと、愛おしむようにラピスの髪を撫でた。ラピスはその手を掴むと、手のひらへと口付けを返す。
神聖魔法の使えないラピスには、ラティルの身を守るための祝福を授けることができない。それでも、どうかラティルが無事であるようにとラピスは彼の手に触れる己の唇に拙い祈りを込める。
ラピスが唇を離すと、ラティルの緑の双眸と視線が絡んだ。水鏡のように揺れる彼女の瑠璃の双眸を認めると、ラティルの表情に苦いものが混ざる。彼女の目の奥に宿っているのは不安だった。
「そんな顔するなって。大丈夫だから。――俺を信じろ、ラピス」
「はい……」
ラピスは小さく頷いた。ラティルはラピスの銀糸の髪を一本引き抜いた。「つっ」何をするんだと言いたげな目でラティルを見上げると、彼は彼女の髪を服のポケットへとしまう。
「お守り代わりにもらっていく。それじゃあな、行ってくる」
ラティルは気安い調子でそう言うと、踵を巡らせた。恋人じみた二人のやりとりに、空気と化していたシリウスは遠ざかっていくラティルの背に向かって頭を下げた。行ってらっしゃいませ、とラピスは口の中で小さく呟いた。それがラティルの耳に届いたのか、彼は軽く片手を上げるとひらりと振ってみせた。
ラピスはラティルを見送ると、しゃんと背筋を伸ばした。おそらくそう経たないうちに、最前線に出るラティルから出撃の号令が発されるはずだ。それまでに、自分たちも出発の用意をしてしまわないといけない。
「ラピス様、こちらへ。ラティル殿下でなくて申し訳ないのですが、今回は私の馬に同乗してください」
ええ、とラピスは頷いた。二人は放牧していた青毛の馬の元へ向かった。少し待っていてください、と言いおくとシリウスは馬の準備を始める。慣れた手つきで鞍、頭絡と馬装をしていくシリウスをラピスは遠巻きに見守る。
馬装を終えたシリウスはラピスのために踏み台を持ってくると、
「ラピス様、乗ってください」
はい、と頷くとラピスは踏み台に上り、馬の鬣と手綱を左手で一緒くたに掴むと、左の鐙(あぶみ)に足をかける。勢いをつけて体を引き上げると、右足を持ち上げて馬体の右側へと回した。ラピスが鞍に跨ると、続けてシリウスがひらりと馬へと飛び乗った。
シリウスは脹脛で馬に合図を送ると、既に出発準備が整った隊列の後ろに加わる。後方部隊の先頭では、ラピスの警護のためにわずかに残ったイフェルナ国の一個分隊分の軍人たちにスコットがシリウスに代わって何やら指示を出しているのが見えた。
空が金色のグラデーションに染まり始めた頃、陣の遥か前方から喇叭が鳴り響いた。ラピスが耳を澄ませると、総勢三万を超える兵たちを預かる将であるラティルが声を張り上げ、兵たちに呼びかけているのがかすかに聞こえてきた。
「これより出陣する! この国はレイフォルトにもレベルラ帝国にも好きにさせてはならない! 逆賊レイフォルトを討ち、この国を守るため、俺に続け!」
応、と兵士たちが賛同する声が辺りに轟く。いよいよか、とラピスは鞍の前の持ち手を掴み直しながら、気を引き締めた。
歩兵と騎兵の入り混じった前方部隊が王都へ向けて進軍を開始する。隊列を組んだ兵士たちは打ち寄せる波のように緩やかに前へと進んでいく。
前方部隊が出発し終えると、ラピスを含めて十名ほどしかいない後方部隊に出発の順番が回ってきた。先頭のスコットの馬が動き出すと、彼の部下の軍人たちがそれに続く。「行きますよ」そう告げてシリウスが馬体を脹脛で圧迫すると、ラピスの視界がゆっくりと前へ動き出す。
エダイス山の稜線の向こう側から夜の気配が追いかけてくるのを感じながら、ラピスたちは王都へ向かって進み続ける。北颪がラピスの銀の髪を一房攫い、白のローブの裾を靡かせた。
遠目に王都の影が見え始めるころになると、ラピスは聖杖プリギエーラを抜いた。この位置からなら、王都の下に眠る古の死者たちを起こすのに充分だと判断してのことだった。
ラピスは馬上で杖を掲げ持つと、体内の魔力を丁寧に練った。純度の高い魔力が瑠璃色の光となって杖の水晶から溢れ出す。光は杖全体を包み、ラピスの全身へと伝っていった。
ラピスは髪の毛の一本一本に至るまで瑠璃色に光らせながら、古の興国の戦いで命を落とした兵士たちへと思いを馳せる。死者の眠りを妨げることに罪悪感はあったものの、彼らが流した血の上に作られたこの国を守るためには、今一度彼らの力を借りるしかなかった。
すう、とラピスは冬の気配を帯びた冷たい空気を吸った。今は自分にできることをやるたけだ。ラティルとの別れ際の不安が嘘のように、気持ちは凪いでいた。
「開け、冥界の扉、我は理を覆す者なり。大地に眠る我らの祖よ、我が声に応え、我に従え。旧き魂よ、今ここに甦り、闇の力を揮い給え! 《死者の秘蹟》」
ラピスが呪文を紡ぐと、彼女や杖を包んでいた瑠璃色の光が迸り、昼から夜へと移ろいつつある空に数多の筋を描いた。流れ星より速く、光の筋は空を奔り抜けていく。
既に交戦を開始していた前方部隊のほうからどよめきが聞こえた。黒々とした影が肉体を伴って立ち上がり、大地の上でゆらゆらと揺れているのが遠目に見える。
ラピスは杖を手にしたまま、大地から蘇った数万のゾンビの軍勢へと命令を下すべく、声を張った。
「古(いにしえ)の戦士たちよ、戦いなさい! ラティル様たちの援護をするのです!」
グオオオオ、と地鳴りのような咆哮が響く。ラピスは魔力を込めて、杖でゾンビたちを導く。ゾンビたちはラピスたちを中央奥に据え、左右に大きく開いた陣形で隊列を組むと、王都を守るジリアーニ公爵派の軍勢を襲い始めた。
夕暮れの色を纏い始めた空を夥しい数の瑠璃色の光が奔り抜けていくのを王の執務室から金髪紫目の青年は眺めていた。次の流星群はまだ先だと王室付きの学者は言っていたはずだ。
赤と青の対照的なコントラストが神秘的だった。窓の外の光景に圧倒されたまま、彼――レイフォルトは空を見つめ続ける。
つい数時間前に、リーメル皇国とエゼルテ公国の武力対立についての知らせが伝書鳩で舞い込んできた。両国は軍事演習という体でメティカ湿地帯を挟んで威嚇行動を繰り返しており、一触即発の状態だという。
両国の対立がアレーティア王国に飛び火しないとも限らない。レイフォルトは両国と国境を接するレインデリスへと即刻派兵を決断した。
(しかし、妙だ……リーメル皇国もエゼルテ公国もレベルラ帝国の属国だ。古くからの領土問題を抱えているとはいえ、どちらの国もレベルラ帝国の許可なく兵を動かすことはできないはず……)
レベルラ帝国は現在、建国記念の式典の最中で、国内の兵力のほとんどがその警備に割かれているはずだ。属国に対するレベルラ帝国の監視が緩む時期だとはいえ、どうにも妙だった。
ラティル側が攻勢に転じたころから、ファルカスと全く連絡がつかなくなっていた。レイフォルトはこれまでファルカスを通じて、レベルラ帝国に密かに国の内情を伝え続けていたが、このところ何の返事もない。自らレベルラ帝国に下れば、税率や自治権について、優遇してもらえるという約束を反故にするされたのではないかという嫌な予感が背筋を撫でていく。
(この星の動きも……何かの前触れでなければいいが……)
そのとき、執務室の扉が叩かれた。その音からはどこか焦りが感じられた。入れ、とレイフォルトは入室の許可を出す。
「何事だ?」
レイフォルトの問いに、部屋に入ってきた兵士は低頭し、最悪の事態を口にした。
「恐れながら申し上げます。ラティル王子率いる三万ほどの軍勢により、この王都が攻め込まれています。この城に到達するのももう時間の問題でしょう」
何だと、とレイフォルトは顔を顰める。占領したはずのミルベール公爵派の貴族の領地をラティルたちが取り戻しつつあるのは把握していたが、それほどの兵力を有しているとは知らなかった。そして、兵士はまだ話に続きがあるのか言葉を続けていく。
「信じ難いことなのですが……大量のゾンビが現れ、王都に押し寄せてきているようなのです。それも、まるでラティル王子の進軍を後押しするかのように」
は、とレイフォルトの口から間抜けな声が漏れた。彼の思考がぴしりと音を立てて停止する。
大量のゾンビが現れてラティルの援護をしている。ゆっくりとレイフォルトはその事実を脳内で咀嚼する。心を落ち着かせながら、レイフォルトはこの状況を収拾するための手段を考える。己の大義を貫き通すには、ラティルたちの意表を突く以外なかった。
「城下に火を放て。ゾンビ共を焼き殺し、ラティルの戦力を削ぐんだ」
「殿下、今何と……?」
レイフォルトから発された命令が信じられなくて、兵士は聞き返した。聡明なはずの己の主君が口にした非道な言葉を真実だと思いたくなかった。
「だから、城下に火を放てと言っている」
「しかし、城下には民たちが……ゾンビ共を彼らともども焼き殺すおつもりですか!?」
兵士は抗議した。しかし、レイフォルトはそうだ、と冷たい声で兵士の言葉を肯定した。
「私が王とならず、レベルラ帝国と戦争になれば、どのみち失われる命だ。何も問題はないだろう?」
そんな、と兵士は絶句した。しかし、レイフォルトはそんな兵士の様子には構わず、命令を続ける。
「それと、城の守りを固めろ。ネズミ一匹入り込まないように、警戒を怠るな」
了解、と尻すぼみな声で返事をする兵士を横目に、レイフォルトは壁にかけられた剣を手に取る。彼は柄に国花のアマリリスを模した細工が施された、刀身が青光りする宝剣を手にすると、
「万が一のときには私も打って出る。愚弟――反逆者ラティルの始末をこの手でつけるために」
そう宣言すると、レイフォルトは青いマントの裾を翻して大股に部屋を出て行く。
残された兵士は跪いたまま、呆然とレイフォルトの背を見送った。
「――はあっ!」
街の入り口を固めていたジリアーニ公爵派の兵士をラティルは気合いとともに突き崩した。彼が城の方へ視線を向けると、城下を突っ切って新たな軍勢がこちらへと駆けつけてくるのが見える。
こちらへと向かってくるのは二個大隊ほどだろうか。対して、前方部隊のラティルたちの戦力は約三万だ。それに、背後にはラピスが操るゾンビの軍勢だって控えている。
今、前方部隊は指揮官であるラティルを先頭に陣形を組んでいる。数の有利はこちらにある。このまま突っ込み、中央突破を狙うべきだった。自分たちが撃ち漏らしても、彼らの相手は後方のゾンビ軍団に委ねることができる。
「――行くぞ! このまま突破する!」
ラティルは馬上で背後を振り返り、背後に続く兵たちへと指示を出す。応、という返事を浴びながら、ラティルは脚(きやく)だけで馬を操り、こちらへ向かってくるジリアーニ公爵派の兵の隊列の中へと先陣を切って突っ込んでいった。ミルベール公爵派の紋章のついた鎧の兵士たちとイフェルナ国から借り受けた軍人たちがラティルの後に続く。
「うわっ」「ラティル王子だ!」
ジリアーニ公爵派の兵士たちが、ラティルに馬で突っ込まれてどよめきながら左右に割れる。ラティルは剣で兵士たちをいなしながら、その場を駆け抜けた。その後ろをラティルの信望が厚いハイヴェルとケンデルの隊が続けて通り抜けていく。
動揺から立ち直ったジリアーニ公爵派の兵士たちが、更に続いてこちらに向かってくるミルベール公爵派の兵たちの一団を迎え撃つべく、体勢を立て直す。会戦した双方の兵たちにより、辺りに剣戟が幾重にも重なって響く。金属がぶつかり合う音とともにあちらこちらで火花が散る。
ケンデルは背後を振り仰ぐと後続の兵士たちに号令を出す。
「我々は先に行く! 必ず追いついてこい!」
ジリアーニ公爵派の兵士たちと打ち合いを続ける味方の兵たちはケンデルの指示に返事をする。
任せたぞ、と告げると、ジリアーニ公爵派の兵士たちによって分断された前方部隊の後ろ半分からケンデルたちは遠ざかっていく。
「おい、あれ……」「な、なんだ、あれは……!」
城へと先行した部隊の姿が小さくなったころ、ジリアーニ公爵派の兵士たちは、街の入り口から雪崩込んできた人影に息を呑んだ。
よたよたとした足取りで歩く骨の見えた姿。申し訳程度に全身にこびりついた腐った緑色の肉。風に乗って漂ってくる、硫黄のような刺激臭。
「ぞ、ゾンビだ……」
誰かが呟いたその言葉を契機に、ジリアーニ公爵派の兵士たちは浮き足だった。
街の門からゾンビの大群が入り込んできていた。彼らはよたよたと覚束ない足取りながらも、目抜き通りを進み、自分たちの方へと着実に近づいてきている。
ひぃ、と誰かの喉の奥から悲鳴が漏れる。「狼狽えるな、迎え撃て!」隊長の誰かが指示を出すが、その声にもほのかな恐怖の色が滲んでいる。
ジリアーニ公爵派の兵士たちは近づいてきたゾンビたちの大波に緩やかに飲み込まれていく。赤く色づいた空の下、死者たちに蹂躙される兵士たちの悲鳴が響き渡っていた。
その後、ラティルたちは、王城へ向かう道中で、何度かジリアーニ公爵派の兵士たちと交戦した。しかし、ラティル自身や麾下にあるハイヴェルやケンデルの部隊が奮戦して彼らを退け、ラティルたちは城門へと辿り着いていた。
ラティルたちの侵入を警戒してか、城門はぴったりと閉ざされている。城壁の上からは、射手たちの弓矢が虎視眈々とラティルたちを狙っていた。
「どうしたものか……これでは正面から城に入ることは難しそうだ」
ケンデルは手綱を軽く握り込み、ラティルの隣に馬を止めると、城壁を見上げながらそう言った。追い縋るジリアーニ公爵派の兵士を振り払って追いついてきたハイヴェルもラティルの横へと馬を並ばせると、
「ラティル様。俺が城門を開けましょうか? うちの部隊から何人か連れて乗り込みますよ」
ハイヴェルの提案にラティルは待て、と首を横に振った。城壁の上には所狭しと射手たちが居並んでおり、いくらハイヴェルの部下たちが工作活動に慣れた精鋭揃いだとはいっても、さすがに分が悪い。
「さすがにそれは危険すぎる。そのくらいなら、他の出入り口に回った方がましだ」
「どうやらそうするまでもないようです、ラティル様。――援軍だ」
ぐちゃぐちゃぬちゃぬちゃと湿った音を立てながら、ゾンビの大群が姿を現した。どうやらジリアーニ公爵派の兵士たちは、ゾンビたちに押し潰されてしまったようだ。
ゾンビたちの登場に城壁の上の射手たちがどよめいた。つい、と一本の矢が城壁の上から放たれる。それを皮切りに射手たちは迫りくるゾンビを目掛けて矢の雨を浴びせ始めた。
ゾンビたちの体に矢が刺さっていくが、首を切られるか脳を破壊されない限り、彼らの歩みが止まることはない。ラティルは彼らを利用できないかと思考を巡らせる。
(こうして、奴らは矢を浴びせ続けているが、矢の数は有限だ。いつか、矢が尽きるときがくる。それまで、こいつらに凌がせることができれば……!)
ゾンビたちに敢えて城壁を登らせ、射手たちに狙い撃ちさせる。そうすれば、機を見てハイヴェルたちを侵入させ、内側から城門を開けさせることができる。
ゾンビたちはラピスにより、ラティルの支援をするように命じられているはずだ。自分の言葉にゾンビたちが従うかはわからなかったが、ラティルはゾンビたちへと号令をかける。
「古の兵たちよ! 城壁を登れ!」
端的なラティルの指示に呼応するようにグオオオオとゾンビたちは咆哮を上げる。一体、二体、とゾンビたちは城壁に取り付くと、壁の継ぎ目に腐肉がまとわりついた指をかけて登り始める。
「うわあああああ! こいつら、登ってきたぞ!」「とにかく落とせ! どうにかしろ!」「そんなこと言ったって、こいつらどんだけ射ったって死なないじゃないっすか!」
城壁の上が恐慌に包まれる。全身に矢が刺さったゾンビたちが次々と緩慢な動きで城壁を登っていく。ゾンビたちを狙った矢が動揺でややずれた軌道を描いて地面へと降り注ぐ。自分たちを掠めて降り注ぐ矢の驟雨にも自我を持たない彼らは意に介したふうもなく、ねちゃねちゃと音を立てながらラティルの命令に従って城壁を上り続ける。
射手たちが、ジリ貧の攻防を始めてからしばらく経ったころ、城壁の上で悲鳴が上がった。
「まずい、矢が尽きたぞ!」「こっちもだ!」「やばい、ゾンビが城壁の上に!」
射手たちの攻撃が止み、ゾンビたちが城壁の上へと辿り着き始めていた。彼らは遠距離からの攻撃には分があるが、近接戦闘に持ち込まれた場合、反撃する手立てがない。死を恐れず、死ぬことのない兵士を前にして、どうやってももう彼らに勝つことは能わないと悟った射手たちは顔を青くする。
理性の感じられない咆哮と共にゾンビたちが射手たちに襲いかかり始める。城門を制する戦いの趨勢が自分たちへと傾き始めたのを確認すると、ラティルはハイヴェルを振り返る。
「ハイヴェル。この混乱に乗じて、城門を開けてくることはできるか?」
「そのくらいお安い御用ですよ、ラティル様」
任せてください、とハイヴェルは気安い調子でラティルの頼みを請け負うと、鐙を脱ぐ、右足を左側へ回し、馬体に己の腹を押し付けて飛び降りた。そして、ハイヴェルは背後に控える部下たちへと向かって声を張り上げる。
「第一特務分隊に告ぐ! 今のうちに城壁の向こう側へ降り、城門を開ける!」
了解、とハイヴェルの部下たちは返事をする。ハイヴェルはそれじゃあちょっと行ってきますね、と片目を瞑ると、部下たちを伴って城壁へと向かっていった。
ハイヴェルたちが城壁の向こう側へと姿を消すと、ラティルは違和感に気がついた。ゾンビたちの匂いに紛れて今まで気づかなかったが、風に乗って煙の匂いが漂ってきている。
「ラティル殿下! 城下が燃やされています!」
ゾンビたちが討ち漏らしたジリアーニ公爵派の兵士たちを無力化し、ようやく追いついてきた味方の兵士たちの誰かがそう叫んだ。ラティルが街を振り返るとあちらこちらで赤い炎が揺れ、黒い煙が立ち上っている。ラティルは唇を噛む。
(兄上め……街を燃やすことで、ゾンビたちを焼き殺そうとしたのか……? この量のゾンビたちは脅威だろうが、だからといってやっていいことと悪いことの区別もあいつはつかないのか……!)
愚かな、とラティルは呟く。ケンデルが気遣わしげにラティルを見ていた。
金属が引きずられるような重い音が城門の中で響いた。閂が引き抜かれた音だった。そして、ギギギ、と音を立てて城門が開く。勝負が決したのか、城壁の上はいつの間にか静まり返っていた。
「これより王城に突入する! ケンデルの隊とゾンビたちは俺と来い! 残りは城下の鎮火に当たってくれ! 逃げ遅れた者は保護し、礼拝堂へと避難させろ! 俺とラピスの名前を出せば、教会側も民の受け入れを拒みはしないはずだ!」
「御意に!」
その場の味方の生きた兵士たちが一斉にそう唱和した。そして、人間の兵士たちは事態の収拾にあたるべく、城下への道を駆け足で戻っていった。
「ケンデル、俺たちも行こう。この手で、かならず兄上――レイフォルトを止める」
そう言うとラティルは脚で馬へと合図を送る。そして、ラティルはケンデルたちを伴って、城門を駆け抜けた。
城内に入ると、ラティルは兵士たちに散開するように命じた。
「レイフォルトを探せ! 必ず奴を捕えるんだ!」
「不測の事態に備えて、おれの部隊は必ず分隊単位で行動しろ! いいな!」
ラティルに続き、ケンデルは自分の部下たちに指示を出す。敵の首魁は王都に火を放とうとするやつだ。どのような事態が起きてもおかしくはない。
「ハイヴェル、この城の敵戦力は今どのくらいかわかるか?」
「おそらく、約一万といったところでしょう。レインデリスにも人を割かれていますし、市街地や城門に展開された兵たちもあらかた倒したはずですから」
ハイヴェルはラティルの問いにそう答える。そうか、と頷くと、ラティルは味方の士気を上げるように檄を飛ばす。
「いいか! 今ここにいる戦力だけでも、こちらは相手を大きく上回っている! これは勝てる戦だ! しかし、絶対に油断はするなよ!」
応、と人間の兵士たちが返事をする。そして、行け、とラティルが命じると、兵士たちは人間もゾンビもレイフォルトを探して散って行った。
「それじゃあオレたちも行きましょうか。いくらラティル様がお強いとはいえ、何かあったら事ですから、オレとケンデルがお供しますよ」
「悪いな、恩に着る」
外套の裾を翻し、ラティルはいつ会敵しても問題ないように剣を構えながら、廊下を進み始める。
(兄上がいるとしたらどこだ……? 王の執務室か……? いや、さすがにこの状況でそんなところに籠っている人じゃない。それなら……)
何となく、レイフォルトは玉座の間にいるような気がする。レイフォルトは戦わずしてレベルラ帝国の元へ下るという己の意見を貫き通すため、即位を望んでいる。王の座を望む彼は、王たるものがおわすべきその場所で自分を待ち受けているような気がした。
こっちだ、とラティルはハイヴェルやケンデル、その部下たちを従えて、階段を登り始める。そのとき、ヒュッと空を切って階上から何かが降ってきた。「ラティル様!」警告するようには声を上げる。
大丈夫だと頷き返すと、ラティルは手に持っていた剣で落下物を払い除けた。階段の上には、槍を持った兵士たちがこちらを狙っている。
「気をつけろ! 上だ!」
ラティルは降り注いでくる槍の間を縫って階段を駆け上がっていく。穂先が何度か外套を掠め、布地を裂いていったが気にしない。
階段の手すりの上、ラティルの横を人影が追い越していった。ラティルの視界の端で亜麻色の髪が揺れる。
カーン、と金属がぶつかり合う音が響く。からんからんと槍が階段を転がり落ちていくと同時にヒュッと何か軽いものが飛んでいく音がした。
「まったく、ラティル様。少しはオレやケンデルのことも頼ってください。あんまり無茶ばっかしてると、ラピス様に怒られますよ」
片手に長剣、もう片方に投げナイフを持ったハイヴェルはにやりと口元を歪めてみせる。彼は敵兵が投げた槍を長剣で叩き落としざまに、投げナイフを手から放つ。
「悪い、ハイヴェル。しばらく凌いでくれるか?」
もちろんですよ、とハイヴェルはこんな局面にも関わらず、茶目っけたっぷりに片目を閉じてみせる。そして、彼は背後の部下たちを振り返ることなく指示を下す。
「第一特務分隊に告ぐ! 殿下の援護をしろ!」
ハイヴェルの部下たちはハイヴェルの言葉に即座に反応し、得物を構える。彼らは自分たちの隊長に付き従うように、空中に身を躍らせると、飛んでくる槍を捌き、そのまま反撃に転じていく。ハイヴェルによって、工作活動向けに訓練された彼らの軽く卓越した動きは賞賛に値するものだった。
「ケンデル、一度この階段を降りて、向こう側から登ってくれ。奴らを挟み撃ちにする」
お任せください、とケンデルはラティルの言葉に頷くと、部下たちを従えて階段を降りていく。ラティルはハイヴェルたちが敵の槍兵たちをいなしてくれているうちに階段を上まで駆け上った。
遠目に向こう側の階段をケンデルたちが登っているのが見える。敵は彼らの存在には気づいてはいるものの、ハイヴェルたちにてこずらされ、そちらの対処にまで手が回っていない。
敵の数はざっと見積もって二個小隊ほど。こちらの手勢は二個分隊のみだったが、明らかに練度が違う。数の利も、階段の上という地の利も向こうにあったが、それでもまだこちらのほうが有利だった。
(俺の朋友をあまり舐めてくれるなよ? そして、この俺のことも)
ラティルは得物を失った敵兵たちを無力化するべく、剣を振るっていく。背後からはハイヴェルとその部下たちによって小さな薄刃のナイフがひっきりなしに飛んでくる。
ラティルは眼前の兵たちに次々に峰打ちを見舞っていく。何人かが床に倒れ伏したころ、向こう側の階段を上り切ったケンデルたちが廊下の向こう側から姿を現した。
「ケンデル! 一気に畳み掛けるぞ!」
ケンデルたちの姿を認めると、ラティルは叫んだ。了解、という返事と同時に余力を残したケンデルたちの分隊が敵の槍兵たちへと襲いかかる。こうして、彼らは左右から挟撃されることとなった。
ケンデルたちはまだ手元に得物を残した兵たちへと切り込んでいく。得物同士を打ち合わせ、跳ね上げ、と熟達した技術を持ってケンデルたちの分隊は敵をいなしていく。ケンデルたちに翻弄される彼らをラティルやハイヴェルたちが襲う。次々と敵兵たちはその場に倒れていき、砂時計の砂が落ちるほどの間に勝負は決した。
ラティルは軽く息を弾ませながら、次の行動に移るべく方針を口にする。
「このまま、玉座の間に向かうぞ。おそらく、レイフォルトはそこにいる。
まだ伏兵がいるかもしれない。決して気を抜くなよ」
そう言うと、ラティルは玉座の間へと足を向ける。その場には戦意と意識を喪失した敵兵たちの沈黙と、冷めかけた戦いの熱気が漂っていた。
それから、ラティルたちは何度か待ち伏せていたジリアーニ公爵派の伏兵と交戦し、玉座の間へと辿り着いた。
びっしりと国花のアマリリスの紋様が刻まれた玉座の間の扉をラティルが開け放つと、視線の先に宝剣を手にしたレイフォルトが立っていた。
ラティルが玉座の間の中へと足を踏み入れようとすると、いくつもの剣の切先が鋭い殺意とともに向けられた。レイフォルト直属の親衛部隊の面々だった。
ちっ、と舌打ちをしながらラティルは後ろへと飛び退る。自分はレイフォルトに用がある。こんな奴らの相手をしている場合ではないし、そもそもで手練れである彼らをすべて相手にするのは自分には荷が勝ちすぎる。
すっと剣を手にハイヴェルとケンデルが前へ出る。
「ラティル様、オレたちが活路を切り拓きますよ」
「だから、ラティル様はラティル様のやるべきことをやってください」
二人は背中を預け合って立ちながら、不敵に笑う。
「殿下のために彼らを足止めしろ!」
「臆するな! 奴らは強いが、数の利はこちらにある!」
二人の指示に従って、彼らの分隊の兵士たちがレイフォルトの親衛部隊を取り囲む。こうして、乱戦は始まった。
「悪いな、助かる」
ラティルは戦いの中を走り抜け、玉座の前に控えるレイフォルトの元へと向かっていく。彼は静かな紫色の目で自分を見るレイフォルトと対峙すると、剣を向ける。
「兄上!」
「……逆賊のご帰還か」
レイフォルトはラティルを認めると、ふんと鼻先で冷笑する。ラティルは強い目でレイフォルトを見返すと、声高にレイフォルトを非難する。
「逆賊はそっちだろう! 兄上がしたことは、国の未来を憂いてのことだとはわかっている。だとしても、こんなやり方が罷り通るべきじゃない! もっとやり方があったはずだろう!」
「私たち王族の務めは、お前にだってわかっているはずだろう? 私たちは、この国の民を守らなければならない。たとえ、どんな手段を用いたとしても、だ」
「街に火を放っておいて、どの口がそれを言っているんだ! それに、自らレベルラ帝国の元に下ることが俺は民を守ることになるとは思えない! 兄上だって、あの国の属国になった国の末路を知らないわけじゃないだろう!」
紫と緑の視線が激突した。どうしたってレイフォルトと分かりあうことは不可能だと察したラティルは剣を構え直した。レイフォルトも手にした宝剣を構える。
「俺は、兄上のやり方を認めない! この国は俺が守る!」
先に動いたのはラティルだった。彼は剣を振り上げると、レイフォルトへと斬りかかる。手加減のない一撃だった。
ラティルの攻撃をレイフォルトが剣で受け止める。レイフォルトはラティルの攻撃を受け流すと、ラティルから距離を取る。
本来のラティルであれば、間髪を容れずにレイフォルトに追撃を仕掛けることができた。しかし、王都に乗り込んでからずっと先陣を切って戦い続けてきたせいで、彼の剣は疲労で精彩を欠いていた。
本来のラティルは、レイフォルトよりも強い。しかし、今のラティルは王族の嗜みとしての剣術しかおさめていないレイフォルトと互角にしか戦えていなかった。
(まずいな……長期戦に持ち込めば持ち込むほど、俺が不利になる)
ラティルは歯噛みする。どうにかして勝機を捕まれば、やられるのは自分だ。負ければレイフォルトは、己の邪魔をするラティルに容赦することはないだろう。待っているのは父王と同じ運命だ。
(駄目だ、弱気になるな)
ラティルは萎みかける己の心を叱咤する。今は耐えて隙を見出すべきだ。人間、長時間集中力を保ったまま戦い続けることはできない。レイフォルトの集中が途切れた隙を狙って、畳み掛けるのが得策だった。
(ラピス……)
不意に想い人のことが脳裏をよぎった。どうかご無事で。不安げな面持ちで送り出してくれた彼女のことを思えば、レイフォルトなんかに負けるわけにはいかなかった。自分が帰ってこなければ、きっとラピスは泣く。好きな女の子を自分のせいで泣かせたくはなかった。
ラティルは一合、二合とレイフォルトと剣を交え続ける。火花が散り、二人の睨み合いは続く。
ラティルはレイフォルトに隙ができる瞬間を待ちながら、彼と剣を交わし続ける。彼の背後では激しい剣戟の音が響いていた。
赤く染まった空を黒い煙が覆おうとしていた。最後方である王都の入り口が見える辺りに控えていたラピスは馬上で眉を顰めた。
「一体、街の中で何が起きているんでしょう……?」
わかりません、とラピスの背後に座ったシリウスは首を振る。
「ですが……何か不測の事態が起きていることは間違いなさそうです」
「前方部隊の皆さんは大丈夫でしょうか……」
聖杖プリギエーラを通じて、自分が呼び起こしたゾンビたちの反応は感じられる。しかし、ゾンビたちの様子がわかったところで、ラティルたちが無事でいるかどうかまではわからない。
ラピスはシリウスを振り返ると、
「シリウス様、一つだけわがままを言っても良いでしょうか?」
「何ですか?」
「わたしたちも突入しましょう。街の中で一体何が起きているのか確かめたいんです」
ラピスの言葉を聞いて、シリウスは小さく溜息をついた。おそらく街の中の状況を確認したいというのは建前だ。何が起きているのかわからない以上、彼女はラティルの元にすぐにでも駆け付けたくて仕方がないのだろう。
「……一つ、約束してください。私が危険だと判断したら、すぐに撤退すると。それをお約束いただけないなら、あなたを街の中にお連れすることはできません」
「……わかりました」
ラピスが頷くと、シリウスは後方に残った兵たちへと号令をかける。
「私とラピス様を囲むように陣形を変更してください! これより、私たちも街へ突入し、状況の確認ならびに、必要に応じて前方部隊の援護を行ないます!」
了解、とスコットの隊の兵士たちは返事をすると、陣形を変更する。すぐに味方の騎兵たちが、ラピスたちを守るように彼女たちの周りを囲んだ。
「進軍開始!」
シリウスは声を張ると、脚を使って馬へ発進の合図を出す。スコットを先頭に、ラピスたちは街へと向かって進み始めた。
ラピスたちが街の中に入ると、前方部隊として先に突入した味方の兵士たちが消火活動や民の避難に奔走していた。ラピスが顔馴染みのミルベール公爵派の兵士を呼び止めて話を聞いたところ、どうやらゾンビの大群を焼き殺すためにレイフォルトが城下に火を放ったのだという。
「なんて、ひどい……」
なりふり構わないレイフォルトの行為にラピスはそう呟いた。これ以上、レイフォルトの好きにさせていては、次は何が起こるかわからない。早急に決着をつける必要があった。
「シリウス様、わたしたちも王城へ向かいましょう。ラティル様の援護をします」
「ですが、ラピス様。城内にどれだけ敵戦力が残っているかわからない状態です。これだけの数で突入するのは危険です。私はその方針には賛同いたしかねます」
シリウスが否やを唱えると、大丈夫です、とラピスは背後を振り向き、まっすぐに彼を見た。
「城内にゾンビたちの反応があります。彼らと合流し、ラティル様たちの元へ向かいましょう。
シリウス様、お願いです。わたしはどうしても、ラティル様をお助けしたいんです。ラティル様のお力になりたいんです」
瑠璃色の双眸には確固たる意志が宿っていた。ああもう、とシリウスは城の尖塔を仰ぎ見る。きっと説得を試みたところで、彼女は行くと言って譲らないだろう。無理に引き留めようとしても、馬を飛び降りて彼女は一人ででもラティルの元へ向かってしまいそうな気がした。
どうかお願いします、とラピスはシリウスへと頭を下げた。わかりましたよ、と彼は渋々ながらも首を縦に振った。
決して、惚れた弱みで絆されたわけではない。シリウスはそう己に言い聞かせながら、周囲の兵たちに城へと向かう旨を伝えた。
ラピスたちが城へとたどり着くと、城門が開放されていた。城壁の周りには夥しい数の矢が落ちていたが、ラティルたちの姿がない辺り、どうにか無力化して中に入ったということなのだろう。ラティルの下には工作活動に長けた者たちもいるし、きっと彼らが上手いこと立ち回ったに違いない。
城門を潜り抜けると、ラピスは馬上で杖を翳し、城内のゾンビたちへと命令を送った。
「――集いなさい、古の戦士たちよ。わたしたちと共に、ラティル様の援護に向かうのです」
城内のゾンビたちが命令に反応し、大広間の扉の向こう側に集まり始めているのをラピスは杖を通じて感じ取った。行きましょう、と彼女はシリウスや周囲を固める兵士たちを促すと、馬を降りる。
冷たい風に乗って、城下から煙の匂いが漂ってくる。エダイス山の方角へラピスが一瞥をくれると、夜の藍色と煙の黒色が混ざり合って、東の端から空を暗い色合いに染めようとしていた。
すっと繰り出された突きが喉元へ伸びてくるのを感じて、反射的にラティルは飛び退った。躱しきれなかった剣の切先が頬を掠め、金の髪が数本宙に舞った。カッと頬に熱が走り、顎へと向かって血が伝っていく。
ぜえぜえ、とラティルは肩で息をする。体力が限界を迎えかけていたが、レイフォルトを見据えるラティルの緑の双眸からはまだ戦意は失われていなかった。ラティルは腹で深く息を吸い、呼吸を整えながら剣を構え直す。
ラティルはふいにラピスの声を聞いた気がした。疲れすぎて幻聴を聞いているのかとラティルは苦笑する。危険が及ばないように、ラピスのことはシリウスに預け、いつでも撤退できるように街の外に待機させている。こんなところにいるはずがなかった。
「うっ、うわあああああ!」
ラティルと相対していたレイフォルトが唐突に絶叫し、耳元を押さえた。その手から剣が転がり落ちる。
「あ……」
ラティルはレイフォルトの顔の周りに黒い靄が漂っているのを見た。これはラピスの魔力だ、とラティルは気づく。
「――影よ、大地より出でて、生者を縛る楔となれ! 《暗影の鎖》」
凛とした少女の声が玉座の間に響き渡った。黒い靄がレイフォルトの身体に纏わりつき、彼の自由を奪う。足を取られてレイフォルトは尻餅をつくように、背後へと倒れ込む。
「ラピス!」
ラティルは入り口の扉の方を見やり、銀髪の少女の姿を認めると、その名を呼んだ。シリウスたちに守られ、背後にゾンビの軍勢を従えた少女は、瑠璃色の光が宿る杖を手に彼の名を叫び返す。
「ラティル様! どうか今のうちに!」
ラピスに促され、ラティルは床に座り込んだまま動けなくなっているレイフォルトへ歩み寄る。ラティルは剣の切先をレイフォルトの喉元に突きつけると、こう告げた。
「兄上、ここまでだ。投降しろ。言っておくが、レベルラ帝国の助けを期待しているなら無駄だ。リーメル皇国とエゼルテ公国の補給線は断たせてもらった。あの国は今、この国に手出しすることはできない」
ラティルの言葉にレイフォルトはくっと唇を噛んだ。ラティルは手で背後を指し示すと、
「それとも、この数を相手にまだやるつもりか? 兄上の優秀な親衛部隊の連中はもう動けないように見えるけどな」
レイフォルトの親衛部隊はハイヴェルやケンデルの分隊の面々にやり込められ、床に膝をつかされていた。状況を把握したレイフォルトは、紫の目に忌々しげな色を浮かべると、弟の顔を睨みつける。
「……殺すなら、殺せばいい。お前にはその権利がある」
レイフォルトはぼそりとそう呟いた。ラティルは厳しい眼差しでレイフォルトを見下ろすと、
「――殺さない。俺は兄上とは違う。俺は殺すことで物事を解決させるような真似はしない」
ラティルは毅然としてレイフォルトへとそう言い放った。甘いな、とレイフォルトは端正な顔を歪める。
「情けをかけるつもりなら勝手にしろ。しかし、いつかその甘さは回り回ってお前の首を絞めるぞ。ラティル、こうやって私を下したからには、この国のこの先については責任を持て。それが王族としての務めだ」
「兄上に言われずともわかっている。俺は俺の信じるやり方でレベルラ帝国からこの国を守ってみせる。兄上が間違っていたと必ず俺が証明してやる」
「……やれるものならやってみればいい。だが、その言葉、後悔するなよ」
不快げに鼻を鳴らし、そう吐き捨てると、レイフォルトはそれきり口を閉ざした。
ラティルはハイヴェルとケンデルへと目配せを送る。
「反逆者レイフォルトを捕えろ。地下牢へ繋いでおけ。親衛部隊の連中もだ」
は、と短く返事をすると、ハイヴェルとケンデルはレイフォルトの腕を掴み上げた。二人は彼の身体を引きずって玉座の間を出ていく。レイフォルトはされるがままで何も言わなかった。
ハイヴェルやケンデルの部下たちやシリウスたちは協力して、七人の親衛部隊の兵士たちを引っ立てる。連行されるレイフォルトの後に続くようにして、彼らもその場を後にした。
玉座の間にはラティルとラピスの二人だけが残された。ラピスはゾンビたちを操っていた術を解くと、ラティルへと駆け寄った。
「ラティル様! ご無事ですか!」
大丈夫だ、とラティルは口の端に苦笑を浮かべると、その場に膝をつく。すべて終わったのだと思うと、途端に気が抜けて立っていられなかった。重たい疲労が彼の全身を襲う。
「まったくラティル様は……! あれほど無茶はしないでくださいと言ったのに……!」
ラティルの状態を見咎めたラピスは膝を負ってかがみ込むと、語気を強くする。大きな怪我はないようだが、全身に細かな傷を負い、ぼろぼろだ。それがどれだけの無茶をラティルが重ねたのかを雄弁に物語っていた。
「お前に言われたくねえよ。お前の身を守るために、お前のことをシリウスに預けたっていうのにこんなところまで来やがって」
だけどお陰で助かった。そう小さく呟くと、ラティルは縋り付くようにラピスの体に手を伸ばし、彼女の胸元に頭を預けた。温もりや命の拍動が伝わってきて、ラティルは安堵の息を漏らす。この城のどこか――おそらくは地下牢に囚われているはずの母の救出に向かわねばならないことはわかっていたが、今はほんの少しだけこうしていたかった。
「悪い、疲れた。少しの間だけでいい、このままでいさせてくれ」
いいですよ、とラピスは微笑を浮かべる。お疲れさまです、と彼女はラティルの背を優しく撫でた。
騒がしかったはずの城内には静寂が降りていた。秋の初めから長きにわたった革命はようやく幕を閉じたのだと噛み締めながら、ラティルはラピスの胸の中で瞼を閉じた。



