ラピスたちがジリアーニ公爵派からグラナータを取り戻してから数日が経った。手酷い拷問を受けたクロードの体調も快方へと向かい始め、ミルベール公爵邸は平時の様相を取り戻し始めていた。
 その日の午後、ミルベール公爵邸では会議が行なわれていた。会議の卓を囲むのは、ラピスとラティル、シリウスとスコット、そして新たなミルベール公爵となったクロードだった。
「つまるところ、陛下を手にかけたのはレイフォルト殿下なんだね? この街に攻め入ってきたジリアーニ公爵派の兵士たちは、ラティルが陛下を手にかけた反逆者などと言っていたけど」
 これまでのあらましを聞いたクロードは念を押すようにそう聞いた。間違いありません、とラピスはクロードの疑問を肯んずる。
「ラティル様自身もレイフォルト様に命を狙われました。そのため、ラティル様は玉璽を持ち出し、聖女であるわたしを連れ出して王都を出奔したんです」
「なるほど……しかし、あのレイフォルト殿下が陛下やラティルを害そうとするなんて……。レイフォルト殿下ほどの聡明な方が、何でそんな……」
 第一王子レイフォルトは冷静で聡明な人物だ。戦争は国を弱らせるだけで、何も生まないということをよく承知していた。そして、その聡明さはレベルラ帝国との間に戦端を開かないために力づくで自分が王になるという愚行を産んでしまった。
「兄上は焦っていたんだろう。それほどまでに、今、この国にはレベルラ帝国の脅威が迫っている」
 ラティルとて、レイフォルトの凶行が国を憂いての行動であったことくらいは理解している。ラティルだってこの国をレベルラ帝国の魔の手から守りたいという思いは同じだ。
「レベルラ帝国の脅威はさることながら、今はこの国をレイフォルト王子とジリアーニ公爵派から取り戻すことを考えないといけませんね」
 まずはこれからのことを考えないと、とシリウスは口を開く。シリウスの横に座っていたスコットはうんうん、と上官の言葉に同意を示しながら、
「クロード様の先ほどの話だと、ミルベール公爵派の街がいくつかジリアーニ公爵派に陥されているんすよね? あとは、治外法権であるはずのオストヴァルトまでジリアーニ公爵派に掌握されちゃってるんでしたよね」
 アレーティア国内の状況を確認するスコットに、その通りだとクロードは首を縦に振ってみせる。
 シリウスの故郷でもあるという交易都市オストヴァルトはアレーティア国内においても特殊な街である。オストヴァルトはアレーティア国内にありながらも、自由交易のためにアレーティア王家の支配の影響を受けない。それは納税の義務がない代わりに、有事の際にアレーティア王国の支援を受けられないことを意味していた。
 ジリアーニ公爵派がオストヴァルトを掌握した。それは本来なら守られるべきオストヴァルトの権利が害されたことを意味している。
「グラナータを取り戻したことで、当面の足場はできましたけれど……物資調達のための拠点は欲しいところですよね。グラナータにある備蓄だけで、わたしたちが動き続けるのは限界がありますから」
「そうなれば、まず取り戻すべきはオストヴァルトの権利でしょう。治外法権であるはずのあの街の人々は、ジリアーニ公爵派の不法占拠により、不満を募らせていることでしょうから」
 ラピスの言葉の後を継ぎ、シリウスがオストヴァルトの解放を提案する。自らの故郷が受けた仕打ちに対する憤りが彼の言葉尻で揺れている。
「オストヴァルトを解放することは僕も悪くないと思う。ラティルの主導でグラナータの兵たちを含む部隊の再編は終わっているとはいえ、何か策はあるのかい?」
 クロードに問われ、会議の卓を囲む面々は思案を巡らせる。ラピスも自分にできることはないかと考える。
 ラピスが得意とするのは暗黒魔法だ。そこには死霊術や呪詛なども含まれる。
「今オストヴァルトを支配しているのは、ジリアーニ公爵派のドゥルマ子爵でしたよね? その方に対して嫌がらせをしましょう」
「嫌がらせ?」
 ラピスの提案にラティルが訝しげに聞き返す。はい、とラピスはラティルに対し頷きを返し、同席している人々を見回すと、説明を続けた。
「わたしの呪詛の力をドゥルマ子爵に対して使うんです。心配せずとも、大したことをするつもりはありません。ただ、小さな不幸を積み上げていくだけです」
「小さな不幸って、黒猫が前を横切るとかそういうレベルのやつっすか?」
 そう聞いてきたスコットにラピスはそうですと答えた。
「スコット様の仰るようなささやかな不幸をわたしの呪詛の力でドゥルマ子爵には味わい続けてもらいます。一つ一つは些細なことであっても、いろいろなことが重なれば、人間は疑心暗鬼に陥らずにはいられません。そうやってドゥルマ子爵を内面から弱らせ、自発的にオストヴァルトから出ていくように仕向けるんです」
「ラピス、お前なかなかえげつないことを考えるな……」
 ラティルは呆れたようにラピスを見る。しかし、卓の一番奥に座るクロードはラティルよりも濃い色の目に感心の色を浮かべ、ラピスの案を称賛した。
「合理的な案ではあるね。オストヴァルトを襲うことなくドゥルマ子爵を追い出すことができれば、間違いなくラティルの心証はよくなるだろうしね」
 たとえ、解放のためとはいえ武力に物を言わせるのであれば、ジリアーニ公爵派と何ら変わりはない。しかし、街や人々を傷つけることなくオストヴァルトを支配から解き放つことができれば、クロードの言う通り、人々はラティルへの認識を改めるだろう。
「それは今後、オストヴァルトと協力関係を結ばねばならない私たちにとって大きなことです。オストヴァルトの民は恩には恩で報いようとするものですから」
「目には目を、歯には歯を。良くも悪くもオストヴァルトの商人たちはその意識が強いですからね」
 シリウスの言葉にスコットが同意を示す。二人の言葉を信じるなら、レイフォルトから国を取り戻すため、オストヴァルトの支援を交渉することも不可能ではなさそうだ。
 アレーティア王国がレベルラ帝国の属国となれば、治外法権など関係なく、オストヴァルトも彼の国の支配を受けることになるのは間違いない。そうなれば、レベルラ帝国はヴィトジへの捧げ物という名目でオストヴァルトの民たちからありとあらゆるものを取り上げていくだろう。それを共に阻止したいという方向に話を持っていければ、きっと協同関係を結ぶことができる。
「オストヴァルトを解放し、協同関係を結ぶのを当面の目的にするのはいいとして、その後はどうするつもりだい?」
 クロードの問いかけに、ラティルはこう答えた。
「オストヴァルトを解放してから考える。あの街の協力を得られれば、俺たちの立てられる作戦の幅が広がる。今、何を考えても皮算用だ」
 それもそうか、とクロードは納得した様子を見せる。ラティルは隣に座るラピスへと向き直ると、改まったように告げた。
「ラピス、今回の作戦もお前の存在が要になる。お前にばかり負担をかけて悪いとは思ってる。けど、やってくれるか?」
 もちろんです、とラピスは微笑んだ。
「ラティル様がそう望むのであれば、及ばずながら力にならせていただきます」
 ほう、とスコットは興味深そうにラティルとラピスを見比べた。
 卓の向かい側からシリウスが二人をじっと見ている。その視線に気づいたクロードは、なかなかにラティルの周りの人間関係は大変そうだと包帯を巻かれたままの肩をすくめた。

 アーメッド・ドゥルマがオストヴァルトに赴任してから二週間ほどが経過していた。
 王都でのラティル王子の凶行、そしてここに来てのジリアーニ公爵派のオストヴァルト占領。表向きは反逆者であるラティル王子がこの街で匿われるのを防ぐためにジリアーニ公爵派の貴族である自分が常駐するだけだと説明してあるが、この街の商人たちが納得している様子はない。赴任にあたって商人たちの元締め宅を接収したことも手伝ってか、アーメッドに対する人々の目は冷たい。
 レイフォルトやジリアーニ公爵がこの街を占拠することを選んだ真の狙いは、国内最大の補給地点を潰すことだ。ラティルがどこかで援軍を得ることができたとしても、補給がままならなければレイフォルトと対立し続けることなどできない。
 先日、ラティルの率いる一派がミルベール公爵領のグラナータを奪還したらしいと早馬で知らせがあった。しかし、それ以来、拍子抜けするほど何も起きていない。
 アーメッドはジリアーニ公爵の私兵たちからなる警邏隊から上がってきていた報告書に目を通していた。商人たちの冷ややかな態度に変わりはないが、彼らが反乱を起こす様子はない。利に聡い強かな彼らのことだ、きっと機を窺っているのだろう。少しでも気を緩めれば、たちどころに喉元に食らいついてくるに違いない。
 毎日変わり映えしない内容の報告書に目を通し終えると、アーメッドは椅子から立ち上がった。
 窓の外の空が昼から夜へのグラデーションで染め上げられていた。もう日が暮れる。腹が減ったし、この屋敷にいるメイドに命じて何か食べるものを用意させよう。
 ダイニングルームに赴くべくアーメッドが扉に手をかけようとした瞬間、がたっと背後で物音がした。
「……ん?」
 アーメッドが振り返ると、壁にかけられた絵が床に落ちていた。絵に描かれた女の顔が恨めしげにアーメッドを見ている。
 妙なこともあるものだ。後でメイドに言って直させておこう。
 アーメッドは絵のことをさして気にしたふうもなく、部屋の扉を開ける。絵の中の女の目がぎょろりと動き、部屋を出ていくアーメッドの背を睨みつけていたことに彼が気づくことはなかった。

「希うは禍い。求むるは天誅。地の底に座す百魔の王よ、我が声を聞き届け給え! 《災禍の徽(フランマ・カラミタティス)》」
 折り畳んだ紙。その上に塩を盛ると、ラピスは聖杖プリギエーラを手に呪文を紡ぐ。瑠璃色の魔力が満ちた杖の先から漆黒の炎が生まれ、紙と塩が燃え上がる。
 真っ黒な煙は風の流れに逆らって、北の方向へと流れていく。煙が伸びていく方角、湖西街道の先にはオストヴァルトがある。
「ラピス様。こんなところにおられたのですか」
 ミルベール公爵邸の庭でラピスが杖を手に何かをしているのを目にしたシリウスは彼女に声をかけた。彼女の足元では漆黒の炎が揺らめき、同じ色の煙が空を泳いでいる。
「あっ……シリウス、さま……」
 ラピスはシリウスに気づくとぐっと杖を握る手に力を込める。自分を見る金砂の散った瑠璃の瞳から警戒を感じ取ったシリウスは苦笑する。
「そう警戒なさらないでください。今日は何もするつもりはありませんよ。それはそうと、今は何をされていたんですか?」
「この前の会議で出た”嫌がらせ”です。オストヴァルトにいるドゥルマ子爵はじきに小さな不幸に見舞われることになると思いますよ」
 なるほど、とシリウスは興味深げに熾火に変わっていく黒い炎を覗き込む。地面には灰が小さな山を作っている。
 ラピスは杖から手を離すと、近くの木に立てかけていた箒に持ち替えた。
「呪詛というのは後片付けまでしっかりやるのが肝要なんですよ。そのままにしておくと、意図しないところにまで呪いの影響が及んでしまうことがあるので」
 そう言いながら、ラピスは箒で地面の灰を掃いていく。手伝いましょうか、とシリウスが箒の方へと手を伸ばすと、ラピスは首を横に振った。
「お気持ちだけ、ありがたくいただいておきますね。それに、このくらいすぐに済みますから」
 掃除得意なんですよと冗談めかして言った自分の顔が自然に笑えているかどうか、ラピスには分からなかった。
 庭の木々は赤や黄といった秋の色を纏い始めている。庭を抜ける鳩吹く風がぎこちない空気をかき混ぜて通り過ぎていった。

 アーメッドは昼食を終えると、街の視察のために邸宅を出た。オストヴァルトの街は歩いて見回るには少々広い。そのため、アーメッドは馬の準備をするように下働きの男に言いつけていた。
 アーメッドは屋敷の裏にある厩へと向かった。厩では鞍と頭絡が取り付けられた栗毛の馬が不機嫌そうに鼻先で自分の腹を探りながら、彼の訪いを待っていた。
 アーメッドが姿を現すと、下働きの男が踏み台をさっと馬の左側へと置く。鐙を下ろし、手綱と鬣をアーメッドは左手でまとめて持つ。そして、彼は踏み台に登って左足を鐙にかけると右足を持ち上げる。馬上で右足を回して鞍に跨ると、アーメッドは脹脛で馬に合図を送る。「……いってらっしゃいませ」ぼそぼそとした下働きの男の声に見送られ、アーメッドは馬を歩かせて街の目抜き通りへと出ていった。
 秋にしては妙に暑い日だった。馬体にはハエが集り、馬も苛立たしげにそれを追い払おうとする仕草を繰り返している。
 ぽく、ぽく、ぽく、ぽく。ゆっくりと動いていた馬の歩みが止まった。ぼと、ぼと、と何かが背後で落下する音がする。どうやら馬は排泄を済ませるまで動く気はないようだった。アーメッドは、はあ、と溜息をつく。
 馬の用事が済むと、アーメッドは再び足で馬体を圧迫し、合図を送った。しかし、今度は馬はしきりに虫を気にしていて動く様子はない。足で馬の腹を蹴ってみたり、踵をぐりぐりと押し当ててみたりと、アーメッドは馬を動かそうと試みるが、馬の関心ごとは虫のままだ。
 不意に頭上を黒い影が横切った。それに驚いたらしい馬は急に後ろ足で立ち上がる。
「う、わ」
 バランスを崩し、アーメッドの体が左へと傾ぐ。咄嗟に手綱を掴み直すが、体重を支えきれずにじりじりと体が鞍から落ちていく。
 どさ。ゆっくりとアーメッドは尻から地面へと落下した。手綱が手から離れる。
 落馬の衝撃でどこかを負傷した様子はない。しかし、尻の下に生暖かくもさもさとした何かの感触を感じた。アーメッドは立ち上がると、ズボンの尻を確認する。
「……あ」
 草混じりの鶯色の塊がズボンの尻を汚していた。どうやら自分が落下したのは運悪く馬糞(ボロ)の上だったらしい。
 アーメッドはちっと舌打ちをする。秋口に仕立てたばかりの新しい服だったというのに最悪だ。通りを行き交う人々がざまあみろとでも言いたげに冷笑を浴びせかけてくるのが最悪さ具合に拍車をかけている。
 馬を驚かせた元凶は、すぐそこの野菜を売る店の屋根にとまり、こちらを馬鹿にするように見下ろしていた。
 アーメッドは小さな不幸を恨みながら、屋根の上の黒い鳥を睨みつけた。鳥は意に介したふうもなく、カア、と一鳴きするとアーメッドの鼻先を掠めて飛び去っていった。

 とんでもない目に遭った。アーメッドは湯船に身を沈めながら嘆息した。一応、あれからすぐに予定を切り上げて帰宅し、医者を呼び、地面に打ちつけた腰や尻を痛めていないか診てもらったがどうということはなかった。それだけが不幸中の災いだ。
 ざぷん、と水音を立ててアーメッドは湯船から出る。そばで控えていたメイドはかごから乾いた布を取り出すと、無表情のままアーメッドの体を拭いていく。先ほど、彼女に命じてしっかりと石鹸で全身を清めさせたが、何だかまだ馬糞(ボロ)臭い気がする。後で香水でもたっぷりと浴びておくか、などと考えているうちにアーメッドはメイドによって服を着せられ終えていた。男の裸体を前にもう少し恥じらいでも見せてくれればいいものをまったくもって面白くない。
 湯の始末を始めたメイドを横目に、アーメッドは浴室の鏡に一瞥をくれる。そこに映り込んでいたものに、アーメッドは息が止まりそうになった。
 顔から血を流す長い黒髪の女がこちらを見て嗤っていた。知らない女だった。喉の奥からひゅっと悲鳴が漏れそうになる。
 疲れているのだろうか、とアーメッドはふやけたままの指で目元を擦る。一瞬の後には、鏡の中から女の姿は消えていた。なんだったんだ、と胸を撫で下ろしかけたとき、鏡がぱりんと割れて砕け散った。
「え」
 アーメッドは固まった。湯船の掃除をしていたメイドは、この鏡古かったですからねなどと独りごちている。
「おいお前、そこの始末もしておけよ。あと、鏡は新しいものを手配しておけ。たとえゾウが踏んだとしても割れないような頑丈なやつだ」
 どんなだよ、と胸中で突っ込みながらもメイドはすました顔でかしこまりましたとアーメッドの無茶な要求を承服した。
 無理ですとかそういう反応を期待していたのに本当に面白くない。アーメッドは肩をいからせながら、浴室のある離れを出ていった。
 腹が立ったら腹が減った。アーメッドは近道をしてダイニングルームへ向かうべく、庭へと降りた。
 湯上がりの汗ばんだ体にからりと乾いた涼風が心地よい。夕焼けの朱色を夜の藍色が覆い隠そうとしており、散々だった一日が終わろうとしていることをアーメッドに知らせていた。
 こんな日はさっさと食事を済ませ、酒でも飲みながら寝てしまうに限る。先ほどの無表情女とは違うメイドを寝室に呼びつけ、八つ当たりがてら夜伽を申しつけるのも悪くはない。
 そんなことを考えながら、ダイニングルームへ向かう足を急がせようとしたとき、アーメッドの目の前を何か黒くて小さな生き物が通り過ぎていった。今度は一体何だと、胡乱げな視線を庭の隅に向けると真っ黒な子猫がいた。子猫は目を金色に光らせながら、にゃあと鳴いた。
 一体なんだというのだろうか。一つ一つは小さなこととはいえ、何だか今日は小さな不幸が多いような気がする。黒猫が前を横切ることや鏡が割れるのは不幸の前兆として有名な話だ。落馬して新品の服を馬糞(ボロ)で駄目にしてしまったのも、鏡の中に女の幻覚を見てしまったのも、昨日部屋の絵が落ちてきたのも積み重なれば不気味に思えてくる。
 とりあえず、あんな馬を用意した下働きの男はこの家から追放してやろう。あの無愛想なメイドの女もだ。
 そう心に決めると、アーメッドはどすどすと靴音を立てながら、ダイニングルームのある母屋の中へと入っていった。

 その夜、寝室で酒に酔い潰れたアーメッドは夢を見た。
 何者かがアーメッドを追いかけてきていた。逃げ回るうちに、いつしか行き止まりに追いやられてしまった彼は地面に引き倒される。
 正体のわからない何者かはアーメッドの上にのしかかってきた。大きくがっしりとした手が彼の首に回される。彼の首を締め上げる力はまるで万力のようで、どれだけ振り解こうともがいてもびくともしなかった。
 苦しい。苦しい。苦酸っぱい何かが胃を込み上げてくる。苦しい。苦しい。吐き気がする。
(……吐き気?)
 目の前の光景と己の感覚が噛み合わない違和感に、アーメッドの意識は眠りの闇の中から浮上する。
 額を冷たい汗が伝っていく。寝巻きはまるで失禁でもしたかのようにぐっしょりと濡れている。今にも胃の中身が迫り上がってきてしまいそうな激しい吐き気を感じる。
「ぐえっ……」
 アーメッドはえずいた。暗闇の中、酒瓶を冷やしていた桶を見つけると、彼はベッドを転がり落ちるようにして抜け出し、床を這っていく。
 桶を腕の中に抱えると、アーメッドはその中に胃の中のものを盛大に吐いた。桶の底が消化途中の夕飯の具材が混ざった黄土色の吐瀉物で満たされる。
 苦しさと吐き気で涙になりながら、アーメッドは必死で思考を巡らせる。寝酒が過ぎたのだろうか。そんなはずはない。今日は普段の三分の一も飲んでいない。
 だとしたら、夕飯に使われていた食材の何かに中ってしまったのだろうか。そうだ、きっとそうに違いない。
 食材を仕入れてきた奴も、食材の下拵えをした奴も、調理をした奴も、盛り付けや給仕を担当した奴も全員この屋敷から追い出してやる。何ならこの寝酒を選んだ奴もだ。
 変な夢は見るし、食あたりは起こすしもう散々だ。妙なことばかり起きるしもう嫌だ。
 そんな思いと共に食道を胃液が込み上げてきて、アーメッドは桶に顔を突っ込んだ。壁にかかった絵の中の女は、暗がりで昨日とは違う表情を浮かべながら、えずき続ける惨めな男を眺めていた。

 ドゥルマ子爵がご乱心らしい。そんな噂がグラナータに聞こえてくるようになったのは、ラピスがドゥルマに呪詛をかけ始めてから一週間ほどが経ったころだった。
 ドゥルマは自分の身の回りで何かが起こる度に元々オストヴァルトの商人の元締めの屋敷にいた使用人たちを追い出しているのだという。更には、自分のことをオストヴァルトの商人たちが結託して殺そうとしているのではないかと騒いでいるらしい。
「……ところで、二人とも。毎日毎日いちゃいちゃいちゃいちゃと僕の前で見せつけるのはやめてくれないかな? 僕、そろそろ見てるの辛くなってきたんだけど……」
 茶だの茶菓子だのとラティルの世話を焼くラピスと何の疑問も抱いていなさそうな顔で焼き菓子を齧っているラティルを前にクロードは苦言を呈した。この二人は朝食が済んで一段落すると朝のティータイムを過ごすために決まってこのリビングルームに現れる。
 いちゃいちゃ。その響きにラピスは頬を赤らめる。
「い、いちゃいちゃだなんてそんなはしたないこと、天地神明に誓ってしていません! ただ、わたしはグラナータ奪還の際に怪我をされたラティル様のために鎮静作用のお茶をお淹れしているだけです! それにクロード様にも同じものをお出ししているじゃないですか!」
 ひどいです、とラピスは瑠璃色の目をうっすらと潤ませる。クロードは居心地悪げに爪の剥がれた指先で頬を掻きながら、
「うーん……それにしては僕とラティルの扱いに差があるような……」
「差があって当然だろ。俺、一応王子だし。それに俺とラピスは幼馴染だけど、クロード従兄(にい)さんは違うだろ」
「それはそうなんだけど、そうじゃないんだよ……」
 クロードは溜息をつく。そして、ラピスが淹れてくれた茶で口の中を潤すと、そんなことよりもと別の話題を切り出した。
「ラティル、オストヴァルトの件だけどそろそろまずいんじゃないかな」
 湖西街道を南下してきた馴染みの行商人からオストヴァルトの状況を聞いたというクロードは柔和な顔を曇らせた。
「ドゥルマ子爵がラピスのせいで疑心暗鬼になって騒いでるって話は知ってるけど」
 まずいって何がだ、とラティルは首を捻った。ラピスもラティルのために二杯目の茶を淹れる準備をしていた手を止める。
「商人たちに殺されるくらいなら街中皆殺しにしてやるって錯乱しているらしいんだ。そろそろ介入しないと、血を見る事態になりかねない」
 本来ならば、アレーティア王国がオストヴァルトで起きている問題に対して介入することはない。しかし、オストヴァルトに恩を売りつけ、味方につけたい今はそうも言っていられない。何より、自分たちが作り出したこの状況の収拾に当たらないわけにはいかない。
「わかった、急ぎオストヴァルトに兵を出そう。フレナード准将とハイヴェルに声をかけておいてくれ。向かわせる部隊は最小限にしたい。エクロース中佐とケンデルにはここに残ってもらえ」
 ラティルは口の中の焼き菓子を飲み下し、これからの方針を打ち立てる。わかった、とテーブルを挟んで向かい側に座るクロードはソファから立ち上がる。
「二人に指示を出してくるよ。出発はいつにする? 馬車の用意に時間がかかるから、夜までにつきたいなら明日にしたほうがいいと思うけど。ラピス様は馬に乗れないだろう?」
 大丈夫です、とラピスは首を横に振った。
「わたしのせいで時間をとらせてしまうくらいなら、ラティル様の馬に同乗させてもらいます。王都から脱出したときも一緒に乗せていただきましたし、わたしはそれで構いません。ラティル様、よろしいですか?」
 ラピスがラティルに確認を取ると、彼は構わないとラピスを同乗させることを快諾した。
「別にラピスなら二人でも三人でも乗せてやる」
「ラティル様、わたしは一人しかいませんよ。それにそんなに何人も人が馬に乗ったら、馬が悲鳴を上げるでしょう?」
「それもそうか」
 何なんだこの夫婦漫才は。クロードは半眼で目の前の二人を見やった。
 この二人は明らかに互いが互いに対して異性としての好意を抱いているように見えるのに、なぜか相手の気持ちに気づいているようには見えない。傍目から見るとあまりにむず痒いその光景にクロードは髪を掻きむしりたくなる。頼むからさっさとくっつくか爆発するかしてくれ。
 クロードの口からはあ、と吐息がこぼれ出る。いつでも出られるように準備しておいて、と言い置くとクロードはリビングルームを出ていった。

 ラピスたち一行がオストヴァルトに到着したのは、その日の夕刻のことだった。一個小隊分のミルベール公爵家の兵士とイフェルナ国の軍人を引き連れ、ラピスたちがオストヴァルトの街の門を潜ると、俄に騒ぎが耳に飛び込んできた。
「私を害そうとしているのは誰だ! いや、誰でもいい! 全員皆殺しにしてやる!」「やめろ! 俺たちは関係ない! すべて身から出た錆だろう!?」「そうだ! これ以上俺たちの暮らしをめちゃくちゃにするってんなら、ただじゃおかねえ!」
 クロードが言っていた通りだった。あとほんのわずかにでも空気が揺らげば、殺し合いが始まってしまいそうな雰囲気が辺りに充満している。
「うるさいうるさいうるさい! まずは貴様からだ! 殺してやる!」
 仕立てのいい服に身を包んだ小太りの男が腰にはいた剣を抜き放った。男の目は落ち窪んで血走り、顔は憔悴しきっていた。視線はあらぬ方向へと向けられており、およそ正気とは思えなかった。
「あいつ――ドゥルマ子爵を止める。ラピス、手伝ってくれ」
 わかりました、とラピスが返事をすると、ラティルは脹脛で馬に合図を送りながら手綱を捌いて、馬の頭をドゥルマのほうへと向ける。自らも剣をすらりと抜き放つと、(きゃく)だけで馬を操り、錯乱して手近な商人に襲い掛かろうとするドゥルマの元へと迫っていく。
「――アーメッド・ドゥルマ、そこまでだ!」
 ラティルは馬上から剣をドゥルマへと向かって振り下ろした。「何だ貴様は!」ドゥルマは重たいラティルの攻撃にたたらを踏む。
「目上の人間に対する口の利き方がなってないな。俺はラティル・アーレント。アレーティア王国の第二王子だ」
 そう言いながら、ラティルはドゥルマへと向かって二合、三合と剣を打ち込んでいく。
 貴族の嗜みとして手習い程度の剣術しか身につけていないドゥルマと日々しっかりと鍛錬を積み重ねているラティルでは実力に雲泥の差がある。防戦一方となりながらも、ドゥルマはしばらく耐えていたが、ついには剣を弾き飛ばされた。カーン、と金属の鳴る高い音が響く。ドゥルマは地面に尻餅をついた。
「ラピス、頼んだ」
 ラティルは鞍の後ろに乗せていたラピスを一瞥した。夜空を切り取った色の瞳はわかったと目配せを返してくる。
 ラピスは馬上で聖杖プリギエーラを構えると、体内で自分の魔力を練る。錬成した魔力が杖の先端を彩る水晶の中に満ちると、ラピスの唇は呪文を詠う。
「影よ、大地より出でて、生者を縛る楔となれ!  《暗影の鎖(トールケム・テネラルブム)》」
 夕陽に照らされたドゥルマ自身の黒い影が地面から這い出してきて、彼の体の自由を奪っていく。金縛りにあったように動かなくなっていく体にドゥルマは瞠目する。
「な……おま、えは……」
 ラティルの馬の後ろに乗る銀髪の少女に一体何をされたのだろう。声が出ない。指の一本すらまともに動かせない。
「あ、ごめんなさい。これからお話をしないといけないというのに、これでは喋ることもままなりませんね」
 教会の紋章が入った白いローブの少女はそう言うと、手に持った杖を軽く一振りする。すると、締め上げられたように苦しかった喉が楽になるのをドゥルマは感じた。すかさず、ドゥルマは唾を吐き散らしながら吠える。
「貴様は何だ! 小娘、私に何をしやがった!」
「お初にお目にかかります、ドゥルマ卿。わたしは聖フロレンシア教会の今代の聖女、ラピスラズリ・フローライトと申します。オストヴァルトの情勢が不安定だと耳にしたので、古くからの友人であるラティル王子殿下とともに様子を見に伺いました」
 オストヴァルトはアレーティア王国の支配を受けないが、聖フロレンシア教会を信奉してはいる。そのため、ラピスがこうして介入してきても、誰も文句をいうことはできなかった。ラピスは素知らぬ顔で楚々とした笑みを浮かべながら、話を続けていく。
「こうして訪ねてきてみれば、ドゥルマ卿の様子がおかしかったので、こうしてお話をするために少々手荒な真似をさせていただきました。
 それにしても、ドゥルマ卿。あなたは少々お疲れのようですね。ラティル様もそう思われませんか?」
 ラピスによって水を向けられ、ラティルはそうだなと同意する。
「見たところ、顔色がお悪いようだ。卿のその様子は、この国を統べるものとして気にかかる。
 ドゥルマ卿、しばし休暇を取るのはいかがだろうか。海沿いにある王家の直轄地に景色が素晴らしいところがある。きっと卿の心も慰められることだろう」
 しかし、とドゥルマは言い淀む。
「お心遣いいただき恐縮なのですが、私はジリアーニ公爵より直々にこの地を任せられている身。お気持ちだけありがたく頂戴いたしましょう」
 持ってろ、とラティルはラピスに手綱を預けると、右足を鐙から抜き、鞍に腹を這わせて馬から飛び降りた。ラティルはドゥルマへと近づいていくと、喉元に剣の切先を突きつけた。
「お前、勘違いをしているな」
 首に触れる刃物の感触に、ドゥルマはひぃっと引き攣った悲鳴を上げる。しかし、ラティルは意に介したふうもなく言葉を続けていく。
「ロムルス・ジリアーニはたかが公爵、対して俺は王族だ。その空っぽな頭でもどちらの言葉により重みがあるか、理解できるな? それがどこの派閥に与する人間だろうと、首を刎ねることくらい俺には簡単にできるんだよ。――もちろん卿の首も、な」
 ラティルは剣を握る手に力を込めた。すっと刃が薄くドゥルマの首の皮を裂く。ラティルの深緑の双眸には、冷ややかな怒りが炎となって揺れていた。
 それともう一つ、とラピスは杖の先でドゥルマを指すと涼やかな声で付け加えた。
「オストヴァルトはアレーティア王国内にありながらも治外法権の地。ミルベール公爵派にも王家にも支配することはできず、ジリアーニ公爵派もまた同様です。ドゥルマ卿、どうかその点についても勘違いなきようお願いしますね」
「貴様ら、人をどれだけ虚仮にすれば気が済むんだ……! 許さん、許さんぞ……!」
 ドゥルマはラピスとラティルを睨みつけると喚いた。ラティルは目を細めると、低い声で凄んだ。
「うるせえんだよ、この羽虫が。特別に選ばせてやる。この地を出て休暇を取るか、このままここで俺に殺されるか。卿はどちらをお望みだ?」
 クソが、とドゥルマは吐き捨てると自暴自棄になったように叫んだ。
「わかった、出ていく! それでいいんだろう!? こんなろくでもない街、こっちから願い下げだ!」
 ラティルが目で合図すると、ラピスはドゥルマに向けていた杖を一振りした。ドゥルマの戒めが解け、黒い影は霧散して夕闇の中に消えていく。
 そろり、そろりとドゥルマは座り込んだまま後ずさる。自分の体が自由を取り戻していたことに気づくと、彼はラピスたちを口汚く罵りながら街の外へと走り去っていった。
 ラピスは先ほどのラティルの真似をして、右脚を鐙から抜いて馬の尻を蹴らないように気をつけて馬上で回す。左脚も鐙(あぶみ)から抜き、身体を鞍に押し付けるようにして馬から降りると、ラピスは今まで様子を窺っていた商人たちを見渡した。
「ただいまをもって、このオストヴァルトの自治権が回復したことを、この聖女ラピスラズリ・フローライトが宣言させていただきます。皆様、お怪我はないですか? 怪我をされた方がいらっしゃれば、不肖ながらこのわたしが手当させていただきます」
 そう言ってラピスは商人たちへと聖女らしい優しい笑みを振りまいてみせる。「あれが『星の聖女』……」「ツノやら牙やらが生えた悪魔の子だって聞いてたけど、普通の女の子だな」「ラティル王子と行動を共にしているっていうのは本当だったんだな」人々は遠巻きにラピスを見ながらさざめき立つ。彼女はそれを気にしたふうもなく、杖を手に一歩踏み出した。
「オストヴァルトは自由交易を行なう商人の街。この街の元締めの方はどちらですか? 一つ商談をさせていただきたいのです」
 ラピスのその発言は商人たちの間で更なる波紋と戸惑いを産んだ。「イザークさんを呼ぶか?」「王子はともかく、あの『星の聖女』とはいえ、教会関係者を無碍に扱うわけにはいかないだろう」「彼女たちに助けられたのは事実だ。恩を感じるのなら、せめて話くらいは聞くのが礼儀じゃないか?」ラピスは聖女然とした表情を崩さないまま、街の人々を見据えている。
 いつの間にか朱色の輝きは西の地平線の彼方に姿を消し、空は彼女の双眸と同じ色へと変貌を遂げていた。

 その日の夜、ラピスたちは商人たちの元締めであるイザークによって、商工会の会議所へと呼ばれていた。オストヴァルトを解放してくれた礼を兼ねてささやかな酒宴が饗され、ラピスたちは歓待を受けていた。さすがは交易都市というべきなのか、食事も飲み物も珍しいものが多い。お口に合えば幸いだ、とイザークは笑っていたが、交易都市の商人の矜持を見せつけたかったのだろう。
 酒と食事が進み、ラピスはこの会の本題に触れることにした。
「イザーク様。よろしければ、商談についてお話しさせていただきたいのですが……」
 この会のホストとして、卓を囲む面々にあれ食えこれ飲めとひっきりなしに世話を焼いていた灰色の髪と目の初老の男は手を止めると、
「構わねえよ。一体何の話がしたい? ああ、聖女さん、よかったらそこの林檎酒(シードル)を飲むといい。リーメル皇国から入ってきた希少品だ」
 ありがとうございます、とラピスは杯で透き通った金色の液体を受けると、話を切り出す。
「イザーク様は、レベルラ帝国を巡るアレーティア王国の情勢をどれだけ把握しておられますか?」
 ああ、とイザークはウィスキーを煽ると、
「彼の国によって周辺の小国――シュメズ国にミザール帝国、エゼルテ公国やリーメル皇国もすべて陥とされ、属国と化した。そして、次はこの国の番、というところか」
 その通りです、と頷くと、ラピスの隣に座っていたシリウスはイザークへと向き直る。
「この都市は今、我がイフェルナ国以上に危険に晒されています。この国がレベルラ帝国によって陥とされれば、この都市も巻き添えになる。我々東側諸国が結んだこの都市の独立協定など、彼の国にとっては何の関係もないんです。
 この国が陥ちれば、オストヴァルトもこれまでのように自由な商売ができなくなる。ヴィトジへの捧げ物という名目で商品は根こそぎ彼の国へと持っていかれ、おそらくこの都市の運営そのものが危ぶまれる状態になるでしょう」
「つまりは、そうならないために、ミルベール公爵派による一時的な支配を受けろということか? そんなの真っ平御免だ。お前たちも見ただろう? ジリアーニ公爵派の――あのドゥルマという男のせいで荒れた街の様子を」
 シリウスの話を途中で遮り、跳ね除けようとするイザークにラティルは待ったをかけた。
「イザーク殿。俺たちはこの街を自分たちの支配下に置くつもりはない。何も物資をただで寄越して欲しいなんて無茶は言わない。ただ、少しの間、俺たちを助けて欲しいんだ。
 この街の者は恩には恩で報いるらしいと小耳に挟んでいる。あなたたちの自治権にも自由交易権にも一切口出しをする気はない。ただ、この街を解放した恩の分だけで構わない、俺たちを支援してくれないか?」
 どうしたものかとイザークは値踏みするように灰の双眸を細める。これまでに耳にしてきたラティルの風聞を勘案し、彼に与するのが得となるか損となるか計算しているのだろう。
 あの、とこの卓の隅に席を連ねていたハイヴェルが口を開く。
「王都での革命の噂を気にされているのでしたら、あれは真っ赤な大嘘です。陛下を殺害したのはレイフォルト殿下です。殿下とジリアーニ公爵の一派は陛下殺害の罪をラティル様になすりつけるために嘘をついたんです」
「……それは本当か?」
 白いものが混ざったイザークの眉がぴくりと動く。はい、とラピスは頷くと、ハイヴェルの話を継ぐ。
「陛下とレイフォルト殿下はレベルラ帝国に関する方策について対立しておられました。その末に、陛下は殺害され、母君の生家が国王派に与するミルベール公爵家であるラティル様も命を狙われました。そして、レイフォルト殿下を即位させないためにラティル様は玉璽を持ち出し、わたしを連れ出して、この国を守るために逃げたのです」
「ラティル様はルフィナ様を頼ってイフェルナ国へ赴かれ、イフェルナ国の軍人の助けを得て戻ってきてくれました。そして、ジリアーニ公爵派の貴族、ラッサール男爵の支配からグラナータを、オレたちを解放してくれたんです。
 ジリアーニ公爵派はもう、レイフォルト殿下を王とするためなら手段を選ばないでしょう。そして、レイフォルト殿下が王となれば、この国はレベルラ帝国へと売り渡されます」
「な……」
 イザークは絶句した。まさか、王族自ら国を売るために革命を起こしたなどとは思っていなかったのだろう。ラピスとハイヴェルの真摯な訴えに重ねるようにラティルはイザークへとこう告げた。
「イザーク殿。貴殿もこの街の者たちも、そのような未来は望まないだろう? どうか、俺を信じて力を貸してくれないか? ――頼む」
 ラティルはイザークへと向かって首を垂れた。眩い色の金髪がさらりと揺れる。ラピスも彼の隣で頭を下げる。
「ラティル殿下。聖女さんも。頭を上げてくれ」
 そう言われてゆっくりと二人は頭を上げる。イザークは居心地悪げな苦笑を浮かべた。
「殿下がいい意味で噂とは異なるお方だということはよくわかった。聖女の嬢ちゃんについてもな。いいだろう、その話、承ろうじゃないか」
 イザークはラティルへ向けて右手を差し出す。ありがとうございます、とラティルはイザークの手を握った。
「それで、ラティル殿下。支援の形にも様々あると思うが、殿下は何をお望みだ?」
「ジリアーニ公爵派に占領された街をいくつか取り戻したいと思っている。それを手伝って欲しい」
 ふむ、とイザークは両腕を組む。
「それは吝かではねえが、そうなると何が必要だ?」
 失礼、とシリウスは軍服のポケットからペンを取り出した。そして、手近にあった紙ナプキンに彼はアレーティア王国北部の沿岸部の地図を書いていきながら、
「西の沿岸部にあるレゼラルがジリアーニ公爵派の手に落ちていたはずです。この街に次いで大きな港を擁するこの街を取り戻すこと意義は大きいはずです。海側からレベルラ帝国がこの国に入ってくることが難しくなりますから。
 それで、必要なものですが、船と藁人形を大量に用意してもらえますか?」
「なるほど、要するに虚仮威しをかけるんですね。大軍がいきなり押し寄せてきたように見せかけて」
 他国の将軍の考えることは勉強になるなあ、とハイヴェルは感心したようにうんうんと頷いている。
「いいだろう、用意させてもらう。他に何か手伝ってやれることはあるか?」
 イザークにそう聞かれ、ラピスは林檎酒(シードル)の入った杯に目を止めた。
(これがここにあるということは、少なくともオストヴァルトとリーメル皇国との間の販路はまだ生きているということ……これを上手く利用できれば……!)
 あの、とラピスは小さく片手を上げる。周囲の注目がラピスへと集まる。
「リーメル皇国やエデルテ公国にゆかりのある商人の方を紹介していただけませんか。それから、オストヴァルトからリーメル皇国のカサンソネーゼへ向かう船を一隻と、カサンソネーゼから皇都を経由して、エゼルテ公国の公都エセンリアへ向かう馬車の手配を」
「ラピス、お前、一体何をするつもりだ?」
 ラティルは疑問の声を上げる。今このタイミングで国外に出て何がしたいのかいまいち掴めない。
「イフェルナ国籍の人間として行商人のふりをしてリーメル皇国とエゼルテ公国を訪れ、水面下でこの二国と手を結ぶんです。後にレベルラ帝国から独立するための手助けをするから、アレーティア王国への侵略を阻む手助けをしてくれ、と」
「この二国に具体的に何をしてもらうつもりだ?」
 ラティルの問いにええと、とラピスは口籠る。軍事に疎いラピスには、何をしてもらえばいいのかまでは検討がつかなかった。それなら、と隣からシリウスが助け舟を出す。
「この二国にレベルラ帝国の補給線を絶ってもらうように依頼しましょう。レベルラ帝国とアレーティア王国の間には距離がありますから、補給は侵攻のための生命線になります」
「それを欠いてしまえば陸地からの侵攻は難しくなるし、そのころにはレゼラルもこちらが取り戻している予定だから海から攻めることもできなくなるということですね。そうすれば、レベルラ帝国はアレーティア王国に手出しできなくなります」
 そうだなとシリウスとハイヴェルの言葉に同意を示すと、念のためにとラティルはもう一案付け足す。
「レイフォルトと決着をつけるために王都へ乗り込むタイミングで、両国に国境のゼスピラ川沿いででも軍事合同演習を実施してもらえれば最高だな。レベルラ帝国はそちらに意識を割かざるを得なくなり、本当に身動きが取れなくなる」
 それはいい、と男たちは頷き合う。イザークはごほんと咳払いをすると、
「話をまとめると、こっちが用意するのはレゼラルを取り返すための船と藁人形、あとはリーメル皇国とエデルテ公国に繋ぎをつけるための人材と移動手段、これで相違ないな?」
 ああ、とラティルは頷くと、支払いの件へと話を移す。
「これらの支払いだが、俺がこの国をレイフォルトから取り戻すまで待ってもらえないか。俺が王として即位したら必ず、全額まとめて支払わせてもらう」
 すまない、とラティルはイザークをまっすぐに見た。実直な緑色の視線にふっとイザークは相好を崩す。
「構わねえよ。俺たちは殿下の未来に対して投資する、それだけだ。だから、きっちり国を取り戻して、俺たちの生活を守ってくれよ、王子さん?」
 恩に着る、とラティルは再び頭を下げる。いいってことよ、とイザークは笑う。
「夜のうちに契約書は用意しておく。さて、硬い話はここまでにして宴の続きといこうじゃねえか」
 テスリム砂漠で採れた黒葡萄で作られたワインなんだが飲んでみな、とイザークはラティルの杯にどばどばとワインを注いでいく。イザークの態度は宴が始まったときよりも親しみやすいものへと変わっていた。
 おいしいですね、とみずみずしく軽やかな味わいに表情を綻ばせるラティルを横目にぬるくなった林檎酒(シードル)をラピスは舐める。ここ一番の交渉を切り抜け、緊張が抜けたラティルは年相応の青年らしい顔をしている。
「よかったですね」
 ヴァロール湖で獲れたというニジマスのバターソテーにフォークとナイフを這わせていたシリウスは、ラティルを見て嬉しそうに目を細めているラピスへとそっと囁いた。「ふぇっ」口の中の林檎酒(シードル)を飲み下すと、驚いたようにラピスは振り向いた。少し酒が回っているのか、柔らかく細められた瑠璃色の双眸はほのかに潤み、頬はほんのりと赤く染まっている。
 その愛らしさに自分の心拍が上がるのを感じつつも、シリウスはなんてことないふうを取り繕いながら、
「無事に、ラティル殿下がイザーク殿と交渉を成し遂げられて。それと……」
 あなたが私の前でそんなふうに笑顔を見せてくれて正直ほっとしています。それが酒の力によるものだったとしても。口をついて出かけた言葉をシリウスは理性で飲み込んだ。そんな不用意な言葉を口にして、彼女の表情が自分を意識して強張るのを見たくなかった。それくらいなら、自分のことを意識してくれなかったとしても、彼女が自然に笑っていてくれたほうがずっといい。
 どうかしましたか、とラピスは可愛らしく小首を傾げる。何でもありません、とシリウスは微笑んでみせると、これも美味しいですよとニジマスを切り分けて彼女の皿に乗せてやった。
 会議所の中は酒の匂いと喧々たる空気で満たされている。エールのジョッキを傾けるシリウスへちらりとラティルが一瞬刺すような視線を向けたことに彼は気づかなかった。

 イフェルナ国は完全にラティル側についた。それどころか、ラティルたちにミルベール公爵領・グラナータを奪還されてしまった。
 イフェルナ国からの声明発表とグラナータの奪還開始がほぼ同時だった。イフェルナ国の軍事行動には目を光らせていたはずなのに、一体どう隠蔽が為されていたのか、襲撃が開始されるまでラティルたちの行動に気づくことができなかった。
 レイフォルトにとって頭が痛いのはそれだけではなかった。
 オストヴァルトの暫定統治を任せていたジリアーニ公爵派の貴族であるアーメッド・ドゥルマ子爵が幻覚や怪奇現象に悩まされ続けた挙句、己の職務を放棄したのだという。アーメッドが錯乱状態にあったところに訪れたラティルたちがオストヴァルトを解放し、自治権を回復させたらしい。
 目には目を、歯には歯をというのがあの街の商人たちの信条だ。おそらく、彼らはラティルたちから受けた恩には恩で報いようとするだろう。
 それはつまり、ラティルたちとオストヴァルトの商人たちとの間に繋がりができる――彼らの支援を受けられるということを意味する。商人たちを味方につけて勢いづいたラティルたちは、グラナータとオストヴァルトだけに留まらずレイフォルトたちが制圧したミルベール公爵派の貴族たちの領地を解放しようとするだろう。
(次はどこだ……? イスヴァーチアか……?)
 エゼルテ公国との国境に程近い場所に、ローゼンフェルト侯爵領・イスヴァーチアはある。国内第二の都市であるこの街をラティルたちが奪還する意義は大きい。エゼルテ公国との貿易で栄えたこの街を彼らが取り戻すことがあれば、今後、彼らを相手取るにあたってレイフォルトたちは物資面で苦戦を強いられる。
 とにかく今はイスヴァーチアの守りを固めなければならない。今、自分たちはラティルたちによって二連続で街を奪還されている状況だ。二度あることは三度あるなどという言葉もあるが、三度目を許すわけにはいかない。
 レイフォルトは机の上の紙に、逆賊によるイスヴァーチアの奪還を防ぐべく、兵を増員するようにという旨の文を認めた。文末にサインをすると、紙を折りたたんで封筒に入れ、封蝋を施した。
 机の隅に置いたベルを鳴らしてレイフォルトはメイドを呼び出すと、書き上げたばかりの手紙を彼女に託した。
「鳩舎へ行き、この手紙をイスヴァーチアへ送りなさい。急ぎの連絡です」
 承知いたしました、とメイド服の裾を広げて一礼すると、メイドの少女は言葉少なに執務室を出ていった。
 守りは固めた。ラティルがイスヴァーチアの奪還にどれだけの戦力を投入してくるかはわからないが、これ以上、彼に勝手な真似を許すわけにはいかないとレイフォルトは改めて己に言い聞かせた。

 オストヴァルトからグラナータへと戻ったラピスたちは、商人たちがレゼラルへ見せかけの襲撃の準備をしている間に、もう一つ町を取り戻すべく行動を起こしていた。
 狙う場所は、ジリアーニ公爵派の手に落ちたローゼンフェルト侯爵領・ルピリルである。ローゼンフォルト侯爵の親戚筋であるキブロム男爵が治めるこの町は国内最大の穀倉地帯を擁している。近隣にある王都に次ぐ大都市・イスヴァーチアの陰に隠れて目立たないが、オストヴァルトがジリアーニ公爵派から解放された今、レイフォルトたちがラティルと戦うための糧食を確保する上での要所となっていた。
 ルピリルを取り戻すため、ラピスたちは近くにあるシリオット男爵領・パドマボール村に身を潜めていた。まだジリアーニ公爵派の手が及んでいない場所で、ルピリルに近づける限界の場所がそこだった。
 シリオット男爵はどちらの派閥にも属さない数少ない中立派で、ラピスたちの訪問を快く受け入れたわけではなかったが、村から追い出そうとすることもなかった。彼は自分と領地に害が及ばない限りは積極的にラピスたちと関わらないスタンスのようだった。
 パドマボールに身を寄せるようになってから三日目。ラピスはラティルに連れられて、ルピリル奪還の仕込みのために昨日同様、村の外を訪れていた。ラティルの馬に乗って二人は村の外の間道を進んでいく。
 ラピスは作戦の最中だとはわかっていても、この時間が好きだった。ラティルの役に立てることはもちろん、こうやって人目も憚らずにラティルにべったりと寄り添っていられることが嬉しかった。ただ一緒に時間を過ごしているだけなのに、色づいた木々の間から差し込む陽だまりのように心が温かくなる。
(わたし……ラティル様のこと……)
 いつの間にか、幼い自分を救ってくれた恩人に向けるものでもなければ、長年交誼を結び続けてきた幼馴染に向けるものでもない感情をラティルに対して抱き始めていることにラピスは気づいていた。けれど、ラピスはその気持ちをラティルに告げようとも思わない。
 もう十八歳であるラティルが、第二王子という身の上にも関わらず、今まで婚約者の一人も作らずに来たことのほうが不自然なくらいだった。しかし、レイフォルトを斃し、王として即位すれば、次代へと血を繋ぐために誰か相応しい女性を迎え入れることになるだろう。そのとき、彼の隣にいるのが自分ではないということをラピスは知っている。そのことを寂しくも悲しくも思いながらもラピスは受け入れていた。
 きゅぴきゅぴとホオジロが愛らしく鳴くのを聴覚の表面に捉えながら、ラピスは後ろに座るラティルの胸に背中を預ける。シトラスのような爽やかな香りと彼の生の鼓動が伝わってきて、ラピスの胸はきゅっとなった。
 ゆっくりと間道を抜け、遠くに小さくイスヴァーチアが見えるあたりまで来ると、ラティルはぐっと手の中の手綱を握り込み、馬を止めた。
「ラピス、今日もこの辺りでいいか? って、おーい、ラピス?」
 どうした、とラティルは自分の胸に頭をもたせかけている少女の頬を指先でつついた。すると、ラピスははっとした表情になると、
「あっ、ラティル様、ごめんなさい。少しぼんやりしてました。ここで大丈夫です」
「ぼんやり、って大丈夫か? 疲れが溜まっているんじゃないのか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと木漏れ日と風が気持ちよくって……」
「それならいいけどさ。まったく、緊張感ねえんだから」
 すみません、と苦笑するとラピスは聖杖プリギエーラを抜く。浮かれてふわふわと揺れる心を落ち着かせながら、彼女は体内で魔力を練っていく。しかし、背後に感じる温もりが心臓を落ち着かせてくれなくて、魔力が上手く纏まらず、掴もうとしても体の中で解けていってしまう。
 普段よりも少し苦労して魔力を錬成すると、ラピスはそれを杖の中に満たした。杖の先端の水晶の中がじんわりと瑠璃色の光を放っている。
「闇よ、悪夢を紡ぎ、世界を閉ざせ! 《夢魔の誘い(インヴィタティオ・スツクゥビ)》」
 ラピスが幻覚の呪文を詠い上げると、杖の先からするすると瑠璃色の光が煙のように出ていった。瑠璃色の煙はイスヴァーチアのほうへと流れていく。煙がイスヴァーチアの上空を薄く覆ったのを確認すると、ラピスは杖をしまう。
「これで大丈夫です。今ごろ、イスヴァーチアの近くではミルベール公爵派の兵士がうろついているように見えているはずです」
 戻りましょう、とラピスが促すと、そうだな、とラティルが背後で頷いたのが気配で分かった。ラティルは右脚で強く馬体を押し、手綱の左側を軽く開くと、緩やかに馬を回転させる。
「ルピリルの様子を偵察に行ったハイヴェルたちも戻ってきているころかもしれない。俺たちも戻ろう」
 警備状況を探るために、ハイヴェルの分隊やスコットの分隊が日替わりでルピリルを偵察に訪れていた。ラピスの魔法により、イスヴァーチアの周辺にミルベール公爵派の兵士をちらつかせて警戒を高めさせ、代わりにルピリルの警備を引き剥がす作戦だった。
 ラティルは脹脛(ふくらはぎ)で馬体を圧迫し、ゆっくりと間道を戻っていく。風がふわりと前に座るラピスの髪を揺らし、ほのかに甘い香りがラティルの鼻腔をくすぐった。その香りをラティルは道の脇に茂る時季が終わりかけたジャスミンに似ていると思った。
 色なき風が背を追いかけてくるのを感じながら、ラティルは間道を進む。澄んだ高い空が深まる秋を二人に知らせていた。

 レゼラルはオストヴァルトからルウォス海道を西に進んだところに位置する港街である。ジリアーニ公爵派による制圧と同時に、同派閥の貴族オクローフ男爵とともに一個中隊分の兵士が派遣されていた。
 エムレルとフェルナンはジリアーニ公爵の私兵だ。港の見張りの当番に当たっていた二人は桟橋で船の出入りをおざなりに確認していた。
 今日も港を出入りしているのは許可証を保持した登録済みの船舶のみだ。寄港して荷物を下ろしては新しい荷物を積み込んで港を出立していく。
「なあ、フェルナン。あれ……何だ?」
 遠くに船影が見えた。数は一つや二つではない。夥しい数の船が水平線をびっしりと覆い尽くしている。
「あん?」
 相棒にそう問われて、フェルナンは目を細めた。何十隻にも及ぶ船の姿に背を冷や汗が伝っていくのを感じる。
 フェルナンは双眼鏡を取り出すと、目元に押し当て、水平線を窺う。こちらに向かってくる船の帆にはどれも弓矢と桔梗の印――ミルベール公爵家の紋章があしらわれていた。そして、どの船にも何十人もの人影が黒く揺れている。
 ぐえっともうぇっともつかない濁った声がフェルナンの喉から漏れた。
「ま、まじかよ……」
「フェルナン、一体何が見えたんだ?」
 俺にも見せろよ、とエムレルは相棒の手から双眼鏡をひったくる。エムレルは双眼鏡を覗き込むと、今しがたのフェルナンと同じ反応を示した。
 ミルベール公爵派が海から攻めてきた。概算で敵戦力は千を大きく上回ると見ていい。しかし、レゼラルに派遣されている兵士は自分たちを含めて二百にも満たない。どう考えても太刀打ちできる数ではない。
「ど、どうすんだよ、これ……」
 エムレルは双眼鏡を手にしたまま呆然と呟いた。
 イフェルナ国の助けを得たラティル王子がグラナータとオストヴァルトを解放し、勢いづいていることは末端の兵士である自分たちも把握してはいた。海運の要衝であるこの街を彼らがいつか取り戻しにやってくる可能性は考えてはいたが、それがまさかこんな形と規模でやってくるとは思わなかった。このレゼラルも含め、ミルベール公爵派の貴族が治める主要な街の多くをジリアーニ公爵派が押さえている今、ラティル王子がこれほどの兵力を保持しているとは思わなかった。
「と、とりあえずこれは……リラード大尉に報告するしかねえだろ……」
 唖然としたままフェルナンはそう言った。遠くにゆらめく船影はまるで陽炎のようで何だか現実感がない。悪夢なら覚めてほしいと彼は思った。
「そ、そうだな……リラード大尉のところへ行こう。今の時間なら伯爵邸にいらっしゃるはずだ」
 エムレルとフェルナンは頷き合うと、海へと背を向け、伯爵邸への道を走り出した。

 オクローフ男爵により、レゼラルの放棄命令が通達されたのは、それからほどなくしてのことだった。部下から報告を受けたリラード大尉から、ミルベール公爵派の大軍が海から押し寄せてきていることを聞かされ、彼はジリアーニ公爵の命に反してレゼラルから手を引くことを決めた。
 攻め込んできたミルベール公爵派の兵数はレゼラルに駐留している兵数の数倍にも及んでいた。
 戦の基本は数である。それを考えれば到底太刀打ちできるはずもなかった。
 こうして、レゼラルからオクローフ男爵とジリアーニ公爵の麾下の兵たちは姿を消した。ラティルとミルベール公爵家の一派はオストヴァルトの商人たちの協力を得て、一滴の血も流すことなくレゼラルをジリアーニ公爵派の手から取り戻したのだった。

 パドマボールに潜伏するラピスたちの元にレゼラル解放の報せが飛び込んできたのと時を同じくして、ルピリルでも動きがあった。
 ラピスが連日、イスヴァーチア方面にミルベール公爵家の兵士の幻影を投影し続けたことにより、狙い通り、ジリアーニ公爵派はラティルたちミルベール公爵派への警戒を強めた。レゼラルに続き、次はイスヴァーチアを奪還されると踏んだジリアーニ公爵派は、街の警備を厚くするために、ルピリルから兵士を呼び寄せた。
 ルピリルの警戒が弱まった。偵察に出ていたスコットの部隊からその報告を受けたラティルはすぐにルピリルへ派兵することを決断した。二個小隊分の兵士を引き連れ、ラティルたちはルピリルへと発った。
 ルピリルの手前の小高い丘の上で、ラティルたちを守るように随従していたシリウスは、手綱を握り込んで馬を止める。シリウスは黒い目を細めながら、ルピリルの様子を俯瞰する。
「なるほど、中佐の報告にあった通り、随分と兵の数が減っていますね。町の入り口に二、男爵邸の前に二といったところですか。他に兵士がいるようには見えませんが、男爵邸の中にはまだ他にも兵士がいるかもしれません。ラティル殿下、どう攻めますか?」
「戦って勝てない数じゃない。ルピリルの連中は俺たちがイスヴァーチアを狙っていると思っているはずだ。その油断につけ込んで強襲をかければ、あの町を奪還できる」
 そうですね、とシリウスはラティルの言葉を肯んずる。
「で、あの街に乗り込むとして、メンバーはどうします? 白兵戦の最中にラピス様をお連れするわけにはいかないでしょう」
 スコットの指摘にラティルはルピリルへ乗り込むメンバーを思案する。念のために、ラピスの元には強い者を残すべきだ。ラピスに何かあったら悔やんでも悔やみきれない。
「まず、フレナード准将はここに残ってラピスの警護をしてくれ。万が一、危険が及ぶことがあれば、そのときは自己判断でパドマボールまで引いてくれて構わない。彼女の命を何より最優先にしてくれ」
 頼んだぞ、とラティルはシリウスを見やった。承知いたしました、とシリウスはラピスの警護を快く引き受けた。
「次に、ハイヴェルの部隊は門を突破した後、町の鐘楼に速やかに向かってほしい。作物を保管する倉で火事が起きたように見せかけたい」
「でも、それって実際に倉に火をつけるのは無しですよね?」
 ハイヴェルに確認され、当たり前だとラティルは言った。
「なるべく、町を傷つけたくないし、備蓄を失うような真似はしたくない。それに小麦の入った倉に火をつければ、爆発が起きて大惨事になる可能性も否めない。それは避けるべきだ」
「けれど、鐘楼を鳴らすだけじゃ、すぐにそれが誤報だと露見してしまいますよ。何か手は……」
 あの、とラピスは口を挟んだ。
「鐘楼の音が聞こえたら、わたしが倉のある一帯から煙が上がっているように見えるように術を使います。それでいかがですか?」
「悪い、ラピス。頼めるか?」
 もちろんです、とラピスは微笑んだ。
「エクロース中佐の隊は俺と一緒に男爵邸へ向かう。ハイヴェルたちも男爵邸の中の残存兵力を誘き出すための工作が終わり次第、俺たちと合流してくれ」
 事前にオストヴァルトの商人たちから仕入れた情報によると、現在ルピリルを占拠しているのはジリアーニ公爵派に属するハルディ大尉だという。彼の周りから他の兵士たちを引き剥がしてしまえば、ルピリルの制圧は容易になる。ラティルが行動方針を伝えると、了解とハイヴェルとスコットは敬礼した。
「それじゃあ、ラピス、行ってくる。悪いが後方支援は頼んだぞ」
 はい、と返事をするとラピスはラティルの馬の上から降りる。
「ラティル様……どうか、ご無事で」
 祈るようなラピスの言葉にラティルは任せておけ、とにっと笑ってみせる。一瞬の後、ラティルは真顔に戻ると号令を発した。
「これよりルピリルの奪還を開始する! 第一小隊ならびに第二小隊は俺に続け!」
御意に(イエス・サー)
 ラティルは馬の腹へと(きゃく)を使って合図を送ると、丘を駆け降りていく。他の兵士たちもそれに続いた。
 ラピスは遠ざかっていく彼らの背をじっと見つめる。シリウスは自分の馬から下りると、彼女の横に並び立つ。
「……っ、シリウス、さま」
 ラピスは反射的に身体を強張らせる。グラナータを解放した日の夕方に見せた彼の雄の顔がまだ彼女の心に恐れの爪痕を残していた。
 ラピスの反応に苦いものを感じながら、シリウスは彼女に話しかける。
「ラピス様。ラティル殿下が心配ですか?」
「え、ええ、まあ……」
 胸の裡を言い当てられ、ラピスはたじろいだ。
「ラピス様はラティル殿下にお心を寄せていらっしゃるのですよね。無理もないことです」
「な、んで……」
 自分の心の深いところに踏み込まれ、ラピスは声を震わせる。自分がラティルに向ける気持ちをよりにもよってこの人に見透かされていたことが気まずくて恥ずかしい。
「あなたのことを見ていればわかりますよ。あなたが誰のことを見ているかなんて」
「そう、ですか……」
 ラピスはぐっと拳を握りしめる。自分たちのために、ここで己の気持ちをシリウスにはっきりと伝えてしまうべきだと思った。でなければきっと、シリウスの心はラピスに囚われたまま、次へと進んでいくことができない。ラピスはシリウスの顔を確と見据えると口を開いた。
「シリウス様。わたしはラティル様のことが好きです。強くて、まっすぐなあの方のことを異性としてお慕いしています。だから、この先、わたしがシリウス様のお気持ちに応えられることはありません」
 ラピスはきっぱりとした口調でそう言い切った。そうでしょうね、とシリウスは苦笑すると、空を仰ぐ。目元に滲んだものが日の光を浴びて控えめな煌めきを放つ。
「……あなたは、今と同じ言葉をラティル殿下にお伝えするべきだと思いますよ。きっと殿下はあなたの気持ちに応えてくださるでしょうから」
「え……?」
 シリウスの言っている意味がわからなかった。ラティルは自分に対して、好意の片鱗すら見せたことはない。彼はラピスを単なる幼馴染以上には思ってなどいないだろう。
 どういうことですか、と言いかけたラピスをシリウスは制する。
「あなたの幸せを願ってこそいますが、あなたが他の男のものになる手伝いができるほど私も割り切れていません。どうか、これ以上はご自分で考えていただけると」
「は、はい……」
 ラピスとシリウスの間をからりと乾いた風が吹き抜ける。秋の色を帯びた木々の葉が揺れる音がやけに大きく聞こえる。背後の茂みではオレンジ色の花が甘く優しい香りを放っていた。
 二人の間に降りた沈黙を遠くから響く鐘の音が切り裂いた。火事を知らせるこの鐘の打ち方は、ハイヴェルたちからの合図だ。
 ラピス様、と静かな声でシリウスに促され、ラピスは杖を抜いた。ずきずきと疼痛を訴える心を宥めながら、ラピスは自分の魔力を練っていく。他人の好意を拒絶するというのは、こんなにも心が痛くなるものなのだと、ラピスは初めて知った。
 杖に魔力が満ち、水晶が瑠璃色の光を纏うと、ラピスは詠唱のために口を開く。
「闇よ、悪夢を紡ぎ、世界を閉ざせ! 《夢魔の誘い(インヴィタティオ・スツクゥビ)》」
 煙のように杖の先から瑠璃色の光が抜け出していく。ルピリルの上空へとラピスの魔力からなる煙が流れていく。
 これで、今ごろルピリルでは小麦の保管倉に火がつき、煙が上がっているように見えているはずだ。
 ラティルのために、こんなことしかできない自分が歯痒かった。貴き身分でありながら、いつも自ら前に出ていってしまう彼が今回もどうか無事であるようにとラピスは願う。
 出来損ないの聖女でしかないラピスの祈りに、ラティルを守る力など微塵もない。それでもラピスはラティルの無事を思いながら、瑠璃色の煙が流れていった先を見つめ続けた。

 カーンカーンと、激しい鐘の音が鳴り響いていた。男爵邸の近くの民家の陰に身を潜めながら、ラティルはどうやらハイヴェルたちの工作が成功したらしいことを知る。
「火事だ!」「うわ、燃えてる!」「倉から火が!」「早く消せ!」
 町の中が俄かに騒がしくなる。どうやら、丘の上に残してきたラピスも上手くやってくれたようだ。
 ラティルは事態の収拾のために男爵邸からジリアーニ公爵派の兵士たちが姿を現すのを待つ。彼らがいなくなり、ハルディ大尉が一人になったところを叩くつもりだった。ハイヴェルたちと別行動をしているとはいえ、こちらにはまだ一個小隊分の戦力が残されている。ハルディ大尉がどのような人物かは知らないが、数の勝負に持ち込んだしまえばひとたまりもないに違いない。
 バタン、と乱暴に玄関の扉が開かれた。ジリアーニ公爵家の紋章の刻まれた鎧に身を包んだ兵士たちが飛び出してきた。彼らは駆け足で倉が立ち並ぶエリアへと向かっていく。
「――行くぞ、突入する!」
 ラティルは背後に控える兵士たちに合図を出す。彼は剣の柄に手をかけると建物の陰から走り出す。
「うわ、何だ!?」「ラティル王子か!」
 男爵邸の前で見張りをしていた兵士二人がどよめく。
「――はっ!」
 ラティルは剣を鞘ごと外すと、兵士二人を薙ぎ払う。彼らがよろけた隙を狙ってラティルは玄関の扉を押し開け、屋敷の中へと突入する。
「エクロース中佐! 続いてくれ!」
「はーい、了解ですよっ、と!」
 軽い気合いと共にスコットは兵士の片方のうなじに峰打ちを叩き込む。そして、体勢を整え直し、襲いかかってきた兵士が剣を振り上げた隙を狙って彼は鳩尾へと蹴りを放つと、先を行くラティルを追いかけた。
 兵士たちが出払ってしまって人気のない屋敷の中、ラティルたちは階段を駆け上っていく。
 階段を上り切った先にある大扉にラティルが手をかけたとき、部屋の中で殺気が膨れ上がった。
(ハルディ大尉……なかなかの使い手のようだな)
 手加減できる相手ではなさそうだと判断し、ラティルは剣を鞘から抜く。そして、ラティルについて階段を登ってきた味方へと彼は警告を発する。
「相手は一人だが、決して油断するな! 行くぞ!」
 ラティルはハルディの攻撃に備え、金剛の構えを取ると扉を開け放った。
 刹那、扉の向こうから突きがラティルを襲ってきた。顎を捉えようとした切先をラティルはまっすぐに立てた剣の刀身で捌く。容赦のない攻撃だった。
(こいつ、強い……!)
 ラティルはハルディの攻撃を受け止めた剣を相手へ向かって振り下ろす。しかし、ハルディはラティルの剣を受け止めるとそのまま跳ね上げる。
 カーン、と金属と金属がぶつかり合う音が響く。火花が散る。
「お前ら! ラティル殿下をお助けしろ!」
 スコットが部下たちに指示を出す声が聞こえる。イフェルナ国の軍人たちはラティルに加勢すべく、得物を手にハルディへと襲いかかる。しかし、彼らの攻撃を見切ったハルディは自分に迫りくる刃の数々を払いのける。
 ハルディの反応はすべてに対して的確だ。二合、三合とラティルは彼と切り結びながら、打開策を考える。
 そのとき、部屋の外から階段を駆け上ってくる足音が聞こえた。別行動していたハイヴェルたちが追いついてきたのだろう。
(――そうだ)
 このまま膠着状態を続けてもジリ貧だ。この状況を打開するにはフェイントを仕掛けるしかない。
(頼む、ハイヴェル。合わせてくれよ……!)
 ラティルとハイヴェルの付き合いは長い。子供のころからグラナータを訪れる度に、クロードも含めてつるんでいた仲だ。自分の意図を的確に汲んでくれると信じたい。
「ラティル様!」
 駆けつけてきたハイヴェルがラティルの名を呼ぶ。ラティルはハルディの攻撃を誘うように、剣を敢えて下段に構える。ガラ空きになった体の正面を狙って、ハルディの突きがこちらへと飛び込んでくる。
「ハイヴェル! こいつの気を逸らしてくれ!」
 ラティルは背後を振り返ることなく、ハイヴェルへ指示を出す。了解、という気安い返事と同時に、金色に光るものが部屋の中を横切っていった。一瞬、ラティルと相対するハルディの意識がそちらへと逸れる。
 ラティルはその隙を見逃さなかった。下段からラティルは剣を跳ね上げ、ハルディの得物を弾き飛ばす。
 からんからん、とハルディの得物が床を転がる。そのままラティルはハルディに当身を食らわせ、床に押し倒す。ラティルは膝でハルディの鳩尾を押さえつけ、喉元に剣先を突きつけた。
「フロラス・ハルディ大尉。ここまでだ。投降しろ」
 ラティルは低い声で凄んだ。「くそっ」ハルディは口汚い言葉を吐きながらも、ラティルから逃れようともがいている。
 ハルディの周りをスコットやハイヴェルの部下たちが取り囲む。さすがに分が悪いと察したのか、悔しげにハルディは唇を噛む。
「お前ら、こいつの手足を拘束しろ!」
 ラティルが命じると、味方の兵士たちは縄でハルディの手足を戒めた。体の自由を奪われ、ハルディはようやく大人しくなった。
「ハルディ大尉をどこかに捕らえておけ! 逃げられないように監視を怠るなよ」
 了解、と返事をすると味方の兵士たちはハルディを引きずって部屋を出ていった。
 どうにかルピリルを取り戻したという安堵でラティルはずるずるとその場に座り込んだ。ハルディとの激しい戦いのせいで息が上がっている。
 部屋の隅には先ほどハイヴェルが投げたカフスボタンが転がっている。窓から差し込む金色の日差しが今しがたの先頭の爪痕が残る部屋を照らしていた。

 まさか、ラティルの狙いがイスヴァーチアではなく、ルピリルだとは思ってもいなかった。しばらくの間、イスヴァーチアの近辺をこちらを挑発するかのようにミルベール公爵派の兵士が彷徨いていたらしいと定期連絡が来ていたが、二度ならず三度までもラティルたちにしてやられたということになる。あれはルピリルの警護を剥がすための陽動だったのだ。
 ルピリル奪還と時を前後して、海運の要衝であるレゼラルにミルベール公爵派の大群が押し寄せてきたと報告を受けている。あまりの戦力差に暫定統治をしていたオクローフ男爵はジリアーニ公爵家の配下の兵たちとともに戦わずしてレゼラルを放棄したという。
 どいつもこいつも、とレイフォルトは指先で机を叩く。この分ではまだラティルたちは何かを企んでいることは疑いないが、それが何なのかは自分では想像がつかない。
(こういうときこそ、ファルカス殿の考えを伺いたいものだが……)
 そういえば、最近、ファルカスの姿を見ていないような気がする。他国の人間が容易く入り込んで来られる状況がそもそも異常だったのだが、それでも何となく落ち着かない。
(まさか……見放された?)
 度重なるレイフォルトたちジリアーニ公爵派の失態。与するに値しないと判断し、ファルカスがこの国から手を引いた可能性がないわけではなかった。
(ファルカス殿は、祖国を侵略される痛みを知っている。そんなことをするはずが――)
 ない、とは言い切れなかった。彼はレベルラ帝国に外交の腕を見込まれ、主人を鞍替えした強かな男だ。
 この革命はもうとっくに走り出してしまった。もしかしたら、自分は取り返しのつかないことに手を染めてしまったのかもしれない。それでも、今は自分の掲げた大義を信じて走り続けるしかレイフォルトにできることはなかった。

 ルピリルを奪還してから数日後。グラナータに戻ってきていたラピスたちは、オストヴァルトへの出立を翌日に控えていた。
 シリウスに頼んでイフェルナ国王のエクレウスに、イフィリアに住む商家の息子『エトワール・シュタイン』とその護衛の女傭兵『クロエ・シャムス』の戸籍を用意してもらったラピスとラティルは、リーメル皇国やエゼルテ公国との交渉の旅に出ることになっていた。
(国相手の交渉はイフェルナ国のときに一度やっているけれど……今回はレベルラ帝国を敵に回す相談を持ち掛けなければならない。上手くいくといいんだけれど……)
 ラピスは公爵邸のバルコニーでヴァロール湖の暗い湖面を見つめていた。髪を撫でていく夜風は冷たく、移り変わる季節の気配を感じる。
 ギィ、と扉が開き、誰かが屋敷の中からバルコニーへと出てきた。ラピスが夜空と同じ色の視線を扉の方へ向けると、彼女が心を寄せるその人がそこにいた。
「ラティル様……」
 彼の名を呼ぶ声ととともに白い息が口をついて出た。ラティルはラピスに気づくと気安い調子で彼女に手を上げてみせた。
「ラピス、こんなところでどうしたんだ?」
「明日からのことを考えると眠れなくて……」
 そう答えるとラピスは眉尻を下げる。俺も似たようなもんでさ、と小さく笑うとラティルはラピスの横に並ぶ。
「なあ、ラピス。一つ、聞いてもいいか?」
「何ですか?」
「お前、フレナード准将――シリウスと何かあったのか?」
「え……?」
 ラピスは驚嘆の声を漏らした。どうして、と言った言葉尻が動揺で震える。なぜ、この人はシリウスと自分の間に何かがあったことを知っているのだろう。ラティルにだけは知られたくなかった、という思いが心の中で渦を巻く。
 やっぱりな、とラティルは肩をすくめると、
「ここを取り返したころくらいから、お前、様子がおかしかっただろ? 見てたら、シリウスに対するお前の態度が変だったから、何かあったんじゃないかと思ってさ。――それで、なにがあった?」
 真摯な光を湛えたラティルの緑の目がラピスを見据えた。ラピスは後ろめたさを覚えながらも、あの日のことを口にする。
「グラナータを取り戻したあの日の夕方、わたしは術で呼び起こしてしまった人たちの埋葬をしながら、泣いたんです。自分が選んだこととはいえ、ああやって命を蹂躙してしまったことが恐ろしくて。
 そしたら、シリウス様がいらっしゃって、あまりに辛そうで見ていられないから、この国を出て、どこか遠くでともに暮らさないかとおっしゃってくださったんです。わたしに対して、異性として好意を抱いているから、とシリウス様はわたしに迫ってこられました……」
「くそっ」
 ラティルはバルコニーの壁を殴りつけた。その拳はラピスの耳元すれすれを通り過ぎていき、ラピスは後ずさる。
 踵が、背中が壁に触れる。いつの間にかラピスは、ラティルによって壁に押し付けられるような形になっていた。
 ラティルは悔しかった。自分が手一杯だったときだとはいえ、ラピスがひとりで辛く苦しい思いをしていたことに気づいてやれなかった。そのことに気づいたのが自分ではなく、他の男――それもラピスに対して想いを寄せる男だったということが我慢ならなかった。
「何で、何であいつなんだよ! 何で、俺じゃないんだよ!」
 ラティルの眦が吊り上がる。緑色の目の奥では激情が揺れている。
「俺はずっとずっと、お前のことだけを見てきた! ラピス、あんなぽっと出の男なんかじゃなく、俺のことを見てくれよ! 俺は、お前が他の男のものになるのは嫌だ! 俺はずっとずっと、お前のことが好きだった!」
 ラピスの顔に泣きそうに表情を歪めたラティルの顔が迫る。
「ラティル、さま……、あの……?」
 ラティルはおそらく大きな勘違いをしている。弁解をしようとしたラピスの唇を荒々しく迫ってきたラティルのそれが封じた。
「っん……」
 唇に感じるその柔らかな感触に、小さく声が漏れた。あの日、自分の手首に触れたシリウスのそれは恐ろしかったのに、ラピスは今のラティルを怖いとは思わなかった。
 ぎゅっとラティルの腕がラピスの体に回される。彼の腕から伝わってくる温かさをラピスは幸せだとすら思った。好きな人にこうやって触れられるのは嫌じゃない。むしろ、もっともっとと年相応の少女の自分が彼を欲している。
 今のこの瞬間がずっと続けばいいのに。ラピスがラティルを抱きしめ返そうとしたとき、はっと我に返ったようにラティルは腕を解き、ラピスから距離を取った。
「……悪かった。こんなふうに感情に任せてお前に迫るんじゃ、あいつと何も変わらないよな。ごめん、今のは忘れてくれ」
 ラティルはラピスの顔を見ないまま、早口にそう言うと、踵を返した。早足に扉の方へと戻っていくと、彼は建物の中に足を踏み入れようとしながら、
「明日、朝早いから早く寝ろよ。あと、あんまり身体を冷やすな。風邪、引くぞ」
 ラピスを振り返ることなく、そう言い残すとラティルは建物の中に姿を消した。
「ラティル様、待って……!」
 ラピスは叫んだ。しかし、その言葉はラティルの耳には届かないまま、バタンとバルコニーの扉は閉まり、二人を隔てた。
「ラティル、さま……」
 ラピスは両手で顔を覆った。せっかく、ラティルも自分と同じ気持ちでいてくれていることがわかったというのに、彼に変な誤解をされたままになってしまっているのが苦しかった。きっと、今のラティルはラピスがシリウスの告白を受け入れたと思っている。誤解を解きたかったけれど、あの状態のラティルにどう話せばいいのかわからなかった。
 冬めいた夜風が、ラティルの温もりを消し去ろうとするようにラピスの背中を撫でていった。そっと見上げた夜空に浮かぶ月はやけにぼやけてラピスの網膜にその姿を映していた。