湖を渡る秋の夜風が冷たかった。ラピスは聖杖プリギエーラを手にしたまま、華奢な身をぶるりと震わせた。
ラピスの周囲には夥しい数の小舟が真っ暗な水面の上を走っている。この作戦のためにイフィリアから連れてきた水手たちは、月明かりだけを頼りに進むしかないこの状況下においてもいい仕事をしてくれていた。
ふと、ラピスの肩の上に暖かなものが触れた。何だろうとラピスが肩に視線を向けると、教会の白いローブの上からカーキの軍服の上着がかけられていた。上着の持ち主を探してラピスが背後を振り返ると、そこにはシリウスが立っていた。
「シリウス様」
「ラピス様、お疲れ様です」
ラピスは彼の名を呼ぶ。シリウスは幻影魔法を発動させ続けているラピスへと会釈を返すと横に並ぶ。
旗頭であるラティルは、味方の士気を保つために一番前の舟に詰めていた。ラピスは安定して味方全体に幻影魔法を施すために、護衛を買って出てくれたシリウスとともに味方に囲まれた中央の舟に残っていた。
「シリウス様、上着、ありがとうございます」
「とんでもないです。女性が身体を冷やすのはよくないですから」
ラピスはシリウスの上着に袖を通し、前をかき合わせた。ラティルのものとは異なる少しスパイシーさを感じさせる香りにラピスは何だか落ち着かない気持ちになった。
「湖に出てからずっと、術を使われてるんですよね。お疲れになられませんか?」
シリウスは軍服のズボンのポケットからキャラメルの包みを引っ張り出すと、ラピスへと渡した。いただきます、とラピスはそれを受け取り、包み紙を剥がすと口の中に放り込んだ。香ばしく、ほのかな苦味を内包した甘さが口の中に広がっていく。
ラピスは視線の先の小舟の群れに視線を向けながら、
「わたし、神聖魔法は使えませんけど、魔力量だけはあのフロレンシア並みだと言われてるんですよ。それにルフィナ様からいただいたこの杖は魔力の伝導率がとても良いので、最小限の魔力で術を保っていられるんです」
そうなんですね、と相槌を打つとシリウスはラピスの横に並んで立つ。不躾な質問ですみませんが、とシリウスは躊躇いがちに疑問を口にする。
「ラピス様は代々聖女を輩出している、あのフローライト家の正当な血を引いたご嫡女であらせられるんですよね? それなのになぜ、神聖魔法をお使いになれないのでしょう?」
やっぱり気になりますよね、と水晶に瑠璃色の光が灯る杖を翳しながら、ラピスは苦笑した。
「教会施療院の医師の見立てによると、純血を守るために一族の間で近親相姦を繰り返してきたことによる遺伝子異常の結果だそうです。本来ならばわたしは今の地位にあるはずはなかったのですが、ルフィナ様とラティル様に守っていただいたことと亡き母がわたし以外の子を為さなかったために、あくまでも繋ぎとしてですが、今代の聖女の座につくこととなりました」
「そうなのですか……。ラピス様は、今のご自分の立場を厭うてはいないのですか?」
「流されるままに生きてきたとは思いますが、それでもわたしは今の自分を嫌だとは思っていません。こんなわたしでも、今は必要としてくれる人がいますから」
ルフィナがイフェルナ国へ嫁いでいってからも、ラピスがフローライト家によって非人道的な目に遭わされずに済んでいるのはラティルの存在があるからだ。教会上層部は、多額の寄進をしてくれるミルベール公爵家との蜜月関係を崩したくない。ラティルがいなければ、今ごろラピスは母のエスメラルダと同じように、女児を孕むまで不特定多数の男と毎晩番わされるような日々を送っていただろう。
ラティルに今まで守ってもらった分、ラピスは自分にできることを少しでもラティルに返したかった。そのためなら、周囲に忌み嫌われるこの力をいくらでも揮う覚悟があった。
「あなたは、お強いのですね」
シリウスはそう呟いた。夜風が湖の上を渡り、暗い水面に幾重もの波紋を描いた。ラピスの銀髪を一房、夜風が攫っていく。帆に風を受けた小舟は、水面を渡る速度をすっと上げた。
風の冷たさにラピスが身を震わせていると、シリウスの手がそっと伸びてきて、彼女の手に触れた。
「……へ?」
動揺で杖の水晶に灯る光が一瞬揺らいだ。ラピスは術が途切れないように精神を集中し直す。
「冷たいですね。ですが、こうしていれば少しは寒くないでしょう?」
シリウスは杖を握っていない方のラピスの手を自分の手で包むとそっとさすった。その大きな手にはラティルのものとは異なる男の逞しさがあった。
「シリウス様は寒くないのですか?」
「私ですか? このくらいの寒さなら何てことありません。テスリム砂漠の夜の冷え込みはこの比じゃありませんから」
「テスリム砂漠……シリウス様はそちらのほうのご出身なのですか?」
ラピスがシリウスにそう問うと、彼はいえ、とかぶりを振った。
「出自は交易都市オストヴァルトです。家族を養うために十五の歳に傭兵となったのですが、縁あってイフェルナ国で将官として取り立てていただいて。軍人となってから、テスリム砂漠のあるミヒルネに赴任していたことがあったんです」
シリウスは指先で夜空に地図を描いていく。イフェルナ北部のこの辺りがモンタネール侯爵領で、その中の大部分を占めるテスリム砂漠のどこそこにあるオアシスの街がミヒルネで、という詳しく丁寧な説明からは彼の実直な性格が感じられた。
夜闇の中、遠くにグラナータの城館を照らす灯りがちらちらと揺れているのが見えた。そろそろ前方の舟は岸についているだろう。
そろそろ作戦を次の段階に移す頃合いだ。ラピスは頭の中で作戦を反芻し、この後自分がやらねばならないことを確認する。ラピスが担うのは、常人ならば顔を背けたくなってしまうであろう所業だ。ほんの少しの忌避感と躊躇いはあるが、問題なくやれる。
大丈夫、とラピスは小さく呟くと杖を握り直す。これから使う魔法のために、ラピスは体内で膨大な量の魔力を体内で精錬していく。無駄のない研ぎ澄まされた魔力が聖杖プリギエーラを満たし、夜目にもはっきりとわかるほどにはっきりと神秘的な瑠璃の光を放つ。
「これが『星の聖女』……」
神々しさを纏ったラピスの姿に傍らのシリウスの口から思わずそんな言葉が漏れた。彼の胸の奥底を染め上げていくのは、目の前の存在に対する確かな畏怖だった。
ラピスは青い瞳を瞠っているシリウスに淡く微笑んでみせると、形の良い薄い唇で呪文を紡ぎ始めた。
「――開け、冥界の扉、我は理を覆す者なり。大地に眠る我らの祖よ、我が声に応え、我に従え。旧き魂よ、今ここに甦り、闇の力を揮い給え! 《死者の秘蹟》」
前方を進んでいた舟が続々と着岸し、ラティルと彼が率いる兵たちは湖畔へと上陸していた。目指すグラナータは湖西街道を挟んですぐそこだ。
ラティルは自分の前に並んだ兵たちへと向けて、作戦の最終確認を行なっていた。
「いいか、ラピスから合図があり次第、東側にある使用人用の通用口から突入する! 目的は制圧と人質の解放だ、無駄な殺しはするな!」
「御意に」
イフェルナ国から借り受けた軍人たちは作戦への承服の意を示し、ラティルへと敬礼した。
グラナータはヴァロール湖上でイフェルナ国と国境を接しているが、歴史上湖側から攻められたことはない。あまりに湖が広大で横断が困難なことと、舟で近づけばたちどころに見つかってしまうことが理由だった。そのため、すぐ裏手にヴァロール湖を臨む城館の東側は警備が手薄であることをラティルは知っていた。
頭上の空を瑠璃色の光が奔っていった。何本にも枝分かれした光の筋はラティルたちがいるのとは反対側の、グラナータの街の門のほうへと降り注いでいく。ラピスの放った魔法の光だった。
「――行くぞ! これよりグラナータの奪還を開始する!」
ラティルは作戦の開始を宣言した。おお、と軍人たちの鬨の声が上がる。ラティルたちは夜闇の中をグラナータへと向かって駆け出した。
バルウィンはミルベール公爵邸のバルコニーで夜風に吹かれながら、物憂げに湖を見つめていた。
彼――バルウィン・ラッサール男爵は、ジリアーニ公爵派に属する貴族だ。彼は、王都で革命が発生してからほどなくしてレイフォルトの指示により攻め落とされたこのグラナータの管理を遠戚関係にあるジリアーニ公爵から一任されていた。
バルウィンは手に持ったままの文書を手に溜息をついた。彼が持っているのは今日の夕刻にイフェルナ国から届けられた声明文だった。
――ラティル・アーレントこそがアレーティア王国の正当なる統治者であり、これより逆賊レイフォルトを討つべく反攻を開始する。
――また、イフェルナ国はラティル王子の正当性を認め、ラティル王子を支援することを宣言する。
篝火の下、バルウィンが何度文書を読み直してみても、声明文にはそう書かれている。つまり、近いうちにラティル王子がイフェルナ国の軍勢を引き連れて、グラナータを襲撃してくる可能性が高いということである。
幸い、交易都市であるオストヴァルトはジリアーニ公爵派の手に落ちている。ラティルの襲撃に備えて、明日にでもオストヴァルトから物資を取り寄せるよう部下に指示を出しておこう。
そう思い直してバルウィンが城館の中にもどろうとしたとき、夜空に光の筋が走った。
(流れ星か……? それにしては随分と珍しい……)
瑠璃色の光の筋が何本も湖の方角から西へと向けて降り注いでいる。その幻想的で美しい光景にバルウィンが見惚れていると、俄かに街の入り口が騒がしくなった。
(……何だ……?)
訝しげに思いながら、バルウィンは西の方向へと向かってバルコニーから身を乗り出す。兵士たちが何者かと争っている様子が遠目に見えた。
(ラティル王子の襲撃にしては動きが早すぎる……ならば、一体何者だ……!?)
バルコニーの扉がバン、と乱暴に開かれジリアーニ公爵家の紋章が入った兵士が慌てた様子で姿を現した。
「ラッサール卿! 急ぎ、ご報告がございます!」
大方、街の入り口で行われている戦闘についてだろうと思いながら、バルウィンは兵士を振り返る。何かに怯えているのか、兵士の顔は真っ青だった。
「どうした、シートネン少尉。申してみよ」
「ま、街の門がゾンビの軍勢に襲われています!」
「ゾンビの軍勢? ラティル王子の手のものではなく?」
どういうことだ、とバルウィンは眉を顰めた。何が起きているのかわからないが、尋常ならざる事態であることだけは理解できる。シートネンは吐き気を堪えるように手で口元を覆いながら、
「死体が……先のグラナータ制圧の際に死んだ兵たちがゾンビとなって我々に襲いかかってきているんです……!」
自分が口にした言葉が悍ましかったのか、シートネンは口元を覆ったまま、その場に蹲ってえずいた。
一体何が起きているのか確かめねばならない。この城館に常駐しているジリアーニ公爵派の兵たちを集め、今すぐ街の入り口へ向かおう。
バルウィンは蹲るシートネンをそのままに、バルコニーから城館の建物の中へ飛び込むと、一段飛ばしで石造りの階段を駆け降りていく。一刻も早く、兵たちに招集をかけねばならない。
階段の踊り場に差し掛かったとき、バルウィンは一人の兵と行き合った。兵はバルウィンの姿を認めると、食い気味にこう告げた。
「ラッサール卿! この館の東側の警備が破られました!」
「……何だって?」
思わずバルウィンは聞き返した。どうして今夜は次から次へと問題ばかりが起こるというのだろう。頭が痛くなりそうだ。
「それで、賊は何者なんだ?」
「ラティル王子とその手勢です。ラティル王子はラッサール卿を探しておいでです。どこかに身をお隠しください」
「しかし、シートネン少尉から街の入り口が屍の軍勢に襲われていると聞いている。そちらを捨て置くわけにもいくまい。隠れてなどいる場合ではないだろう?」
なんだってこんなときに。そうぼやきかけたまままの形でバルウィンは口の動きを止めた。こんなときだからではない、こんなふうにタイミングが重なるようにあらかじめ調整されていたのだろう。
ラティルは『星の聖女』を連れているという。彼女は神聖魔法ではなく暗黒魔法を扱う聖女らしからぬ人物だというが、街の入り口を襲っているゾンビの軍勢が彼女によるものだとしたら納得がいく。
ラティルたちは声明文の発表をグラナータ突入ぎりぎりのタイミングまで遅らせることで自分たちの居場所を欺瞞し続けていたのだろう。てっきりラティルたちは今、イフェルナ国の首都にいるものだとばかり思い込んでしまっていた。
自分たちの居場所を誤認させた上での奇襲。そして、ゾンビの軍勢による陽動。気が付けば自分たちはラティルたちの術中に嵌められてしまっていた。
「くそっ」
口汚く己を罵りながら、バルウィンは拳で壁を殴る。階下からは聞きなれない男たちの声や靴音が聞こえ始めていた。
「――はっ!」
ラティルは通用口の見張りをしていた兵士二人を鞘の胴を大きく薙ぎ払った。のんびりとした夜半の間隙を突いて襲いかかってきたラティルに遅れをとった兵士たちは体を大きくのけ反らせる。
「ラティル王子だ! ラティル王子が襲ってきたぞ!」
そう叫んで兵士たちはそれぞれの獲物を抜き放つ。しかし、ラティルの動きはそれよりも早かった。
「遅いんだよ、このノロマどもが」
ラティルは一人の兵士の鳩尾に膝蹴りを、もう一人の兵士の顎に拳を叩きつけた。「ぐえっ」「ぐあっ」苦悶の声を上げると兵士二人は動かなくなった。ラティルと共にいたイフェルナ国の軍人たちが彼らの瞼を押し上げて確認すると、どちらも気を失っていた。
「さすがにこいつら弱すぎだろ……仮にもジリアーニ公爵派の兵士だってのにちゃんと訓練してんのか?」
ラティルは呆れたように気絶した二人の兵士に一瞥をくれる。イフェルナ国の軍人――シリウスの副官だというスコットという男はラティルへの感心と倒された兵士たちへの同情を言葉へと滲ませる。
「いえ、ラティル殿下がお強いのだと思いますよ。普段から鍛錬を積まれているんですか?」
「まあ、王国軍の訓練にちょくちょく顔を出していた程度にはな」
ラティルは幼少のころから、王国軍の訓練に混ざって研鑽を積んできた。王族としての嗜みだからではなく、一人の大切な女の子を守るための力が欲しかったというのが理由だ。公務の合間を縫って真剣に剣術にも体術にも取り組んできた結果、人並み以上には戦うための力を身につけられたという自負はある。
ラティルは地面で伸びている兵士二人を手で示すと、
「それより、そいつらを適当なところに寝かせておいてほしい。舌を巻き込まないように気をつけてやってくれ」
承知しました、とスコットは頷くと部下たちに指示を出す。イフェルナ国の軍人たちが兵士二人を地面に横たえてやっているのを横目に、ラティルは通用口の扉を開く。
「行くぞ。作戦通り、今、グラナータを管理しているというラッサール男爵の身柄を押さえ、人質を解放する。この館の造りなら熟知している。ついてきてくれ」
そう言うと、ラティルはスコットたちイフェルナ国の軍人を引き連れて公爵邸の中へと入っていった。
食糧を保管する倉庫から厨房を抜けると、大広間へと出た。騒ぎを聞きつけたジリアーニ公爵派の私兵たちがぱらぱらと姿を現すが、数が少ない。ラピスの陽動により、狙い通りあちら側に人数が割かれているということなのだろう。
「そこを退け。俺はラッサール男爵に用がある」
ラティルは剣を手に兵士たちへと歩み寄っていく。しかし、兵士たちは剣を抜き放ち、切先をラティルへと向けることで返事とした。
「あくまで通す気はないってか。なら、力づくで押し通らせてもらう!」
ラティルは切り掛かってくる兵士たちの剣を鞘がついたままの刀身でいなしていく。相手は八人。本気を出せば勝てない人数ではなかったが、なるべくならば、敵である兄側の派閥の人間であろうと、自国の民を傷つけることはしたくなかった。
「ラティル殿下、勝手ながら助太刀させてもらいます。フレナード准将からそのように言いつかっておりますんで」
スコットはラティルの横に並ぶと、部下たちへと向かって声を張った。
「第一分隊にこの場は預ける! 連中を無力化しろ!」
応、と第一分隊の軍人たちは返事をする。ぱらぱらと十人余りの軍人たちが得物を手にラティルたちの横を駆け抜けていき、この城館に常駐する兵士たちと対峙する。
「ラティル殿下、この場は彼らに任せて先を急ぎましょう。ラッサール男爵がいるとしたら、どの辺りか検討はつきますか?」
「おそらく最上階にある、伯父上の執務室か寝室のどちらかだろう」
ラティルは傍らのスコットにそう告げると廊下を駆け出した。こうして張られていた以上、広間の大階段は使えない。上の階へは他の場所から向かうほかなさそうだった。
ラティルはこの城館の構造を思い浮かべる。確か奥のリネン室の外から最上階のテラスに通じる外階段があったはずだ。
「行くぞ。あっちだ」
ラティルはスコットたちを引き連れ、その場を後にした。背後では剣戟の音が響いていた。
タオルやシーツといった類のものが整然と並ぶ、ほのかな石鹸の香りがする空間を抜けると、ラティルたちは外へと出た。
月が西へと傾き始め、東の空の端に白藍が滲み始めている。朝が近い。ラティルがイフェルナ国の軍人たちとともに攻め込んできていることがラッサール男爵に露呈している以上、早く決着をつけてしまいたい。
(どうかラピス……あと少しだけ、持ち堪えてくれ)
術者ではないラティルには、この作戦の要となる死者たちを操る術がラピスにとってどれほど負担になっているか計り知れない。現在のラピスの掌中にあるのは先のグラナータ制圧戦で命を落としたすべての兵士だ。
王都を脱出する際にラピスが操ってみせたゾンビの数は五十程度だ。グラナータ制圧戦で命を落としたすべての兵士ともなると数はその比ではない。
ラピスにはヴァロール湖を舟で渡る際に大規模な幻影魔法を使ってもらっている。ルフィナから下賜された杖があるから大丈夫だと、別れ際にラピスは笑っていたが、無理をしていないだろうか。
(駄目だ、今はラピスの心配より、目の前のことに集中しないと。グラナータを取り戻すためのこの機会、失敗するわけにはいかない)
外から見えないように高く覆われた城壁の中、幾多もの物干し台が庭に並んでいた。それらの間を縫って庭を進み、建物の影にある外階段をラティルたちは目指す。
(見張りは一人か。このくらいならば何とでもなる)
階段の前に陣取った一人の兵士が、警戒しながら辺りを見回している。ラティルは背後に続く兵士たちに静かにするように合図を出すと、自らは壁に体を貼り付けた。
じわ、じわ、とラティルは気配を消しながら、兵士へと近づいていく。兵士は軒下の暗がりに潜むラティルに気づいている様子はない。
一歩、二歩、三歩。ラティルは小さく息を吸うと、手の中の剣を上段に構える。
(――今だ!)
ヒュッと、剣が空を切る音が鳴る。「……へ?」異変に気づいたときには見張りの兵士はラティルによって、こめかみに思い切り剣を叩きつけられていた。
「――行くぞ!」
ラティルは見張りの兵士が意識を失ったことを確認すると、一段飛ばしで階段を駆け上り始める。後続のイフェルナ国の軍人たちもラティルの後へと続く。
物音を聞きつけたらしいジリアーニ公爵派の兵士が二階の踊り場にぱらぱらと姿を現した。しかし、ラティルは兵士たちの一人に当て身を食らわせると、そのまま階段を駆け上っていく。彼の後に続くイフェルナ国の軍人たちの勢いに呑まれ、兵士たちは手出しすることは能わなかった。
階段を上りきり、バルコニーへ辿り着くと、ラティルは館の中へと続く扉に手をかけた。扉を挟んだ向こう側に人の気配がある。
ラティルに追いついてきたスコットも扉の向こうの伏兵に気づいたらしく、
「これは……ざっと十五から二十ってとこですかね。ラティル殿下、随分と歓迎されているようですよ」
軽口を叩きながらも、スコットは背後を振り返る。先ほど二階の踊り場にいた兵士たちが自分たちを追って階段を上ってきているのが視界の隅に映る。
「第二分隊、第三分隊は伏兵の対処だ! ラティルの殿下の御為に道を切り開け! 第六分隊、後方の足止めを頼む!」
スコットは迅速に方針を打ち立てると、部下たちへと指示を飛ばす。ラティルは扉の向こうの兵たちの攻撃を捌くべく、剣を下段に構えると扉を引き開けた。
刹那、扉の向こう側から一斉に槍が突き出された。ラティルは剣で槍を跳ね上げて受け流すが、対処し切れなかった穂先が彼の金髪を散らし、彼の頬に一筋の傷を描いた。
後退するラティルに代わり、第二分隊と第三分隊の軍人たちが得物を手に前へ出る。ジリアーニ公爵派の兵たちは右手に槍を、左手に盾を持ち、この場を通すまいと反撃してくる。
「右側だ! 右側を切り崩せ!」
スコットが叫ぶと、軍人たちは右側を重点的に攻め始める。バルコニーの扉を守っていた兵士たちは徐々に押され始め、次第に右側から陣形が崩れていく。
「行くぞ! 残りは俺についてこい!」
ラティルは扉の右側にできた隙間から館の中へと突入する。ラティルを通すまいと慌てて突き出された剣や槍の切先が彼の体を傷つける。しかし、彼はそんなことは瑣末ごととばかりに、無理やりその場を押し通る。背後では第二分隊と第三分隊が奮闘しているのか、武器と武器がぶつかり合う音が響き続けている。
扉の前に敷かれた横陣を突破し、ラティルたちは桔梗の彫刻が施された執務室の大扉をバンと乱暴に押し開けた。陽動への対処やラティルたちへの対応のために出払ってしまっているのか、兵士の姿はない。
(誰もいない……ということは、ラッサール男爵はここにはいない……? 一体どこに行きやがった……?)
ラティルは執務室の中を見回すが、執務室の中は平時の静けさを保っており、人の気配はない。続き部屋の寝室の扉を開け、中を検めてみたがそこにもラッサール男爵の姿はなかった。
「……仕方がない。他の部屋を当たるぞ」
ラッサール男爵がいるとしたらどこだろう。公爵邸の間取り図を頭の中で広げながらラティルたちが執務室を出ようとすると、がたんと小さな物音がした。
「……ん?」
ラティルは傍らのスコットと顔を見合わせた。執務机の上に置かれたままの紅茶の入ったティーカップの表面がゆらゆらと揺れている。
(……もしかして)
王城にも壁の中やら床の下やらに有事の際に身を隠すための場所がいくつも設られている。公爵家の執務室という重要な場所にそのようなものがあったとしても不思議はなかった。
「エクロース中佐、絨毯を剥がす。手伝ってくれ」
了解、とスコットは頷くと、執務机の下からビロード張りの肘掛け椅子を引き摺り出した。椅子のあった場所からラティルが丸いアラベスク柄の絨毯を剥ぎ取ると木の床が露わになる。
「――見つけた」
床に不自然な窪みを見つけると、ラティルはその部分の床板を剥ぎ取った。「いましたね」スコットは横から床の下を覗き込み、身なりの良い中年の小男を見つけるとそう言った。
ラティルは床下で膝を抱えて震えるラッサール男爵の首元へと抜き身の真剣を押し当てるとこう言い放った。
「――バルウィン・ラッサール男爵だな。投降してもらう」
城館の尖塔で鐘が鳴っていた。その音色はバルウィンが捕らえられ、ラティルによってグラナータが取り戻されたことを知らせていた。
バルウィンの身柄を拘束し、彼のことをスコットに託すと、ラティルは一分隊分の手勢を連れて執務室を出た。バルウィンを確保したとはいえ、人質として捕らえられている人々を解放しないことには戦いは終わらない。
ラティルは大階段を降り、第一分隊の軍人たちと合流すると、一階の饗応の間の扉を開いた。食糧庫やリネン室などに人気がなかったことから、この館で働く人々が閉じ込められているとしたらここだろうと彼は当たりをつけていた。大勢の人間を閉じ込められる場所など限られている。
食事用のテーブルや椅子が隅に押しやられた部屋の中、メイドや下働きの男たちが押し込められていた。「ラティル殿下!」「ラティル殿下が助けに来てくださったぞ!」姿を現したラティルの姿に不安そうに顔を曇らせていた人々の視線が一斉に集まる。
「みんな、無事か!? グラナータは俺、ラティル・アーレントがこの手で取り戻した。みんな、ジリアーニ公爵派のグラナータ制圧から怖い思いをしただろう? もう大丈夫だ」
ラティルが皆を解放しにきた旨を告げると、人々の表情が不安から安堵へと塗り変わっていった。ざっと見た感じ、手足の自由を奪われている者や怪我を負っている者はおらず、皆ただここに閉じ込められていただけのようだった。
「みんな、伯父上やクロード従兄さんはどこにいる? この城の兵士のみんなは? 地下牢か?」
ラティルが人々にそう問いかけると、赤毛の中年の女が彼の名を呼んだ。ルフィナやラティルが幼いころ、二人の乳母をしていた女性だった。
「エオリア」
エオリアはやつれた顔で、ご無事で何よりです、とラティルに微笑みかけた。しかし、暗褐色の双眸には憂いと悲しみの色が見え隠れしている。
「ラティル様……旦那様は、ヴィリアン様はお亡くなりになられました……。ジリアーニ公爵派の者による拷問の末にお亡くなりになられたのです……」
拷問。おそらくジリアーニ公爵はラティルの所在をヴィリアンに吐かせようとしたのだろう。しかし、ヴィリアンがラティルの動向を知るはずもなく、彼は無駄に苦しめられ、殺されたということになる。
(伯父上……俺のせいだ……!)
ラティルは唇を噛む。目頭が熱くなるが、手のひらに爪を立て、ぐっと堪える。今はまだやることがある。悲しむのも自分を責めるのも後回しだ。そうか、と返した自分の声がやけに乾いて聞こえた。
「エオリア……クロード従兄さんはどうしてる? 生きているのか?」
「クロード様は地下牢で捕えられておいでです。兵士の皆様もご一緒です」
わかった、とラティルは頷いた。行くぞ、とラティルはイフェルナ国の軍人たちを引き連れて踵を返す。饗応の間を出ていくラティルの背をエオリアの案じるような声が叩いた。
「ラティル様……どうか、ご無理だけはなさないよう」
ラティルは一瞬、エオリアを振り返ると大丈夫だと笑ってみせた。泣き出す寸前のような不器用な強がりの笑顔だった。
心の奥から湧き上がってきた感情が溢れ出しそうになり、ラティルはしぱしぱと緑の目を瞬かせる。さりげなさを装って目尻に触れると、指先に湿り気を感じた。ラティルは気づかないふりをして、地下へ続く階段を降りていく。
看守兵が寝泊まりする小部屋から鍵束を取ると、軍人たちとともに、ラティルは地下牢の中へと足を踏み入れた。
「お前ら、無事か!」
ラティルは見知った兵士たちの姿を認めるとそう叫んだ。「ラティル様!」「ラティル様だ!」ラティルに気づいた兵士たちの表情がぱっと明るくなる。
ラティルはイフェルナ国の軍人たちと手分けをして、牢の鍵を開け、兵士たちの拘束を解いていった。
ラティルは兵士の手の縄をほどきながら、従兄の行方についてを問う。
「なあ、クロード従兄さんがどこにいるか知らないか?」
「クロード様は奥の独房にいらっしゃるはずです。ただ、旦那様と同様に拷問に遭わされているようで、まだ無事でいらっしゃるかどうかまでは……」
「わかった。とにかく行ってみる」
ラティルは兵士の縄を解き終えると、雑居房を出る。通路を奥に駆け、更に地下深くへと潜る階段を下りると、独房の中にひどく傷つき、衰弱し切った様子の蜂蜜色の髪の青年がいた。
「クロード従兄さん! 大丈夫か!」
ラティルは手早く独房の鍵を開けると、ぐったりとした様子のクロードの体を抱き起こし、手足の拘束を解いた。
髪や服はじっとりと濡れそぼり、端正な横顔には殴られたらしき痣がある。よく見れば、手指の爪は何枚か剥がされ、そこかしこに拷問の名残が見て取れた。
「クロード従兄さん……俺のせいで、こんなに……! ごめん、俺のせいで……俺のせいで、伯父上だって……!」
ラティルはクロードへと縋り付くと、俯いた。視界がじわじわと滲んでいく。ぼた、ぼた、と眼窩の奥から熱い雫が滴り落ちる。泣いている場合ではないと思うのに止まらない。
「ラティルのせいじゃないよ。それに父上も僕も、ラティルは陛下に手をかけたりなんてしていないって信じてる。だから、聞かせてくれないかな。王都で本当は何があったのかを」
クロードはそう言うと泣きじゃくるラティルの背を傷ついた指先で撫でた。
「クロード従兄さん、俺じゃない。俺じゃないんだ……」
その後に続く言葉は嗚咽に飲まれて消えて行った。クロードはラティルが落ち着くまで、あちらこちらにかぎ裂きができた彼の服の背を撫で続けた。
グラナータが奪還された後、ラピスやシリウスたち後方で待機していた者たちも城館へ突入したラティルたちと合流を果たしていた。
ラピスはメイドたちに手伝ってもらいながら、衰弱のひどいクロードや、怪我を負った軍人たちの治療に奔走していた。
ラピスが怪我人たちの治療を一通り終えるころには残照が西の地平線を朱に染めていた。一足先に夜を迎えたヴァロール湖の対岸では、月が静かに水鏡を覗き込んでいた。
ラピスは陽動のために、ゾンビの兵士たちを戦わせていた街の入り口へと赴いていた。夜間にジリアーニ公爵派の私兵たちと戦闘が行なわれていた門のそばには、死体が新旧入り混じって折り重なっていて、ラピスは口元を押さえた。
(駄目。目を逸らしちゃ駄目。これはわたしがやったことなんだから。わたしが自ら引き受けたことの結果なんだから)
ジリアーニ公爵家の紋章の入った鎧を着込んだ真新しい死体。これらは間接的とはいえ、ラピス自身が手にかけた人々だ。死霊術によってラピスが操ったゾンビたちによって彼らは命を奪われた。
肌が青黒く変色し、腐敗の進んだ死体。ジリアーニ公爵派もミルベール公爵派も入り混じった彼らは、先のグラナータ制圧戦において命を落とした兵たちだ。地面の下で眠りについていたはずの彼らに昨晩この場所を襲うように命じたのは他ならぬラピス自身だった。
(わたしがしたことは……わたしのやっていることは……)
死者を冒涜する行為だ。命を恣に蹂躙する行為だ。王都を脱出したときも、昨夜も精神の昂ぶりによって直視せずにいられた現実がどっと意識になだれ込んできて、あまりの恐ろしさにラピスはその場に立ち尽くした。
ラティルのために、グラナータを取り戻すためには必要なことだった。そのことは理解していても、自分のしたことがあまりに悍ましく、恐ろしかった。
手が、体が、震えた。すうっと顔に冷たさが走っていく。ラピスは立っていられなくなって、その場に座り込んだ。
ぼたぼたと眼窩から滴り落ちた雫が地面に染みを作った。泣くんじゃない、とラピスは自分を叱咤すると服の肩口で乱暴に目元を拭う。
(せめて、できることをしなくっちゃ……今のわたしが、この人たちのためにできることを……)
ラピスは白く細い指先で地面を掘り始めた。今の自分には彼らを弔ってやることしかできない。彼らの生の尊厳を踏み躙ったラピスがそんなことをしても偽善にしかならないが、それ以外に自分ができることを何も思いつけなかった。
気がつけば辺りに夕闇がうっすらと降り始めていた。ラピスは指先を土と血で汚しながら、懸命に地面を掘り進めていたが、この夥しい数の死者たちを眠らせるには遠く及ばなかった。
「……手伝いますよ」
背後で男の声がした。ラピスが背後を振り返ると、シャベルを持ったシリウスが立っていた。
「シリウス様……なんで……」
「窓からあなたの姿が見えたんです。それで、僭越ながらラピス様の力になれればと思い、馳せ参じた次第です」
ラピスの問いにそう答えると、素手の彼女よりも何倍も早い速度でシリウスは地面を掘り進めていく。シリウスは黙々とシャベルを動かしながら、不意にこんなことを口にした。
「この国を出て、私と暮らしませんか? 何もかも投げ捨てて、聖フロレンシア教の信仰が薄い土地へ移り住みませんか? あなたのためならば、私はイフェルナ国軍を辞して傭兵稼業に戻る覚悟があります」
「え……?」
シリウスの唐突な申し出にラピスは驚いて、地面を掘る手を止めた。どういうことですか、とラピスは瑠璃色の目を見開く。白目は充血し、うっすらと赤に染まっている。
「ラピス様があまりにお辛そうで、見ていられないからです。このように暗黒魔法を扱う力を持っていても、あなたは普通の女の子なんです。こんなことを繰り返していては、きっとあなたの心は壊れてしまう。
聖女ラピスラズリ。出会ってまだ日は浅いですが、私は純粋で優しく、聡いあなたに異性として好意を抱いています。だから、どうか私の手を取っていただけませんか? あなたがあなた自身を守るために」
シリウスはシャベルを地面に突き立てるとラピスへと手を差し伸べた。彼の青い瞳は真摯にラピスを見つめている。
シリウスの告白にラピスはゆっくりと首を横に振った。ラピスは涙で濡れた頬に悲しげな微笑を浮かべる。
「シリウス様。お気持ちはありがたいですが、わたしは行けません。あなたがわたしを大事に思ってくださるように、わたしにも大事な人がいます。わたしはその人のそばにいて、力になりたい」
「その選択は、ラピス様自身を苦しめるものですよ。わかっているんですか?」
ラピスのことを案じるようなシリウスの問いに彼女はわかっていますと頷いた。
「それでも、あの人がわたしのことを必要としてくれるから、わたしはここにいたいんです。忌まわしく恐ろしいこの力があの人の役に立つのなら、わたしはこれからも何度だってこの力を揮うでしょう。どれだけ後悔しても、泣くことになっても、苦しむことになっても、それでもわたしはあの人と一緒にこの道を歩み続けるつもりです」
憂慮で曇るシリウスの顔をラピスは見上げた。瑠璃の双眸に宿る意志の煌めきに、ふられてしまいましたね、とシリウスは苦い笑みを浮かべた。
「あのお方には敵いませんね。けれど、ラピス様。私があなたのことを案じているということだけは覚えておいていただければ光栄です」
シリウスは汚れたラピスの右腕を掴むと、手首に口づけを落とした。その性急で強引な行為に濃い雄の気配を感じ、ラピスは体を固くした。ラピスから怯えの色を感じ取ったのか、シリウスはすみませんと短く詫びると手と唇を彼女から離した。
ばくばくと心臓が鳴っている。今、自分が感じたのは異性へのほのかな恐怖だった。ラピスは自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。ただわかるのは、”彼”以外の男性にこんなふうに触れられたくないということだけだった。
夜の藍色に覆われた空では星々が煌めきとともに命を燃やしている。遥かな時の彼方から降り注ぐ星明りに照らされた死者たちを包むように、気まずさを孕んだ沈黙が流れていた。
ラピスの周囲には夥しい数の小舟が真っ暗な水面の上を走っている。この作戦のためにイフィリアから連れてきた水手たちは、月明かりだけを頼りに進むしかないこの状況下においてもいい仕事をしてくれていた。
ふと、ラピスの肩の上に暖かなものが触れた。何だろうとラピスが肩に視線を向けると、教会の白いローブの上からカーキの軍服の上着がかけられていた。上着の持ち主を探してラピスが背後を振り返ると、そこにはシリウスが立っていた。
「シリウス様」
「ラピス様、お疲れ様です」
ラピスは彼の名を呼ぶ。シリウスは幻影魔法を発動させ続けているラピスへと会釈を返すと横に並ぶ。
旗頭であるラティルは、味方の士気を保つために一番前の舟に詰めていた。ラピスは安定して味方全体に幻影魔法を施すために、護衛を買って出てくれたシリウスとともに味方に囲まれた中央の舟に残っていた。
「シリウス様、上着、ありがとうございます」
「とんでもないです。女性が身体を冷やすのはよくないですから」
ラピスはシリウスの上着に袖を通し、前をかき合わせた。ラティルのものとは異なる少しスパイシーさを感じさせる香りにラピスは何だか落ち着かない気持ちになった。
「湖に出てからずっと、術を使われてるんですよね。お疲れになられませんか?」
シリウスは軍服のズボンのポケットからキャラメルの包みを引っ張り出すと、ラピスへと渡した。いただきます、とラピスはそれを受け取り、包み紙を剥がすと口の中に放り込んだ。香ばしく、ほのかな苦味を内包した甘さが口の中に広がっていく。
ラピスは視線の先の小舟の群れに視線を向けながら、
「わたし、神聖魔法は使えませんけど、魔力量だけはあのフロレンシア並みだと言われてるんですよ。それにルフィナ様からいただいたこの杖は魔力の伝導率がとても良いので、最小限の魔力で術を保っていられるんです」
そうなんですね、と相槌を打つとシリウスはラピスの横に並んで立つ。不躾な質問ですみませんが、とシリウスは躊躇いがちに疑問を口にする。
「ラピス様は代々聖女を輩出している、あのフローライト家の正当な血を引いたご嫡女であらせられるんですよね? それなのになぜ、神聖魔法をお使いになれないのでしょう?」
やっぱり気になりますよね、と水晶に瑠璃色の光が灯る杖を翳しながら、ラピスは苦笑した。
「教会施療院の医師の見立てによると、純血を守るために一族の間で近親相姦を繰り返してきたことによる遺伝子異常の結果だそうです。本来ならばわたしは今の地位にあるはずはなかったのですが、ルフィナ様とラティル様に守っていただいたことと亡き母がわたし以外の子を為さなかったために、あくまでも繋ぎとしてですが、今代の聖女の座につくこととなりました」
「そうなのですか……。ラピス様は、今のご自分の立場を厭うてはいないのですか?」
「流されるままに生きてきたとは思いますが、それでもわたしは今の自分を嫌だとは思っていません。こんなわたしでも、今は必要としてくれる人がいますから」
ルフィナがイフェルナ国へ嫁いでいってからも、ラピスがフローライト家によって非人道的な目に遭わされずに済んでいるのはラティルの存在があるからだ。教会上層部は、多額の寄進をしてくれるミルベール公爵家との蜜月関係を崩したくない。ラティルがいなければ、今ごろラピスは母のエスメラルダと同じように、女児を孕むまで不特定多数の男と毎晩番わされるような日々を送っていただろう。
ラティルに今まで守ってもらった分、ラピスは自分にできることを少しでもラティルに返したかった。そのためなら、周囲に忌み嫌われるこの力をいくらでも揮う覚悟があった。
「あなたは、お強いのですね」
シリウスはそう呟いた。夜風が湖の上を渡り、暗い水面に幾重もの波紋を描いた。ラピスの銀髪を一房、夜風が攫っていく。帆に風を受けた小舟は、水面を渡る速度をすっと上げた。
風の冷たさにラピスが身を震わせていると、シリウスの手がそっと伸びてきて、彼女の手に触れた。
「……へ?」
動揺で杖の水晶に灯る光が一瞬揺らいだ。ラピスは術が途切れないように精神を集中し直す。
「冷たいですね。ですが、こうしていれば少しは寒くないでしょう?」
シリウスは杖を握っていない方のラピスの手を自分の手で包むとそっとさすった。その大きな手にはラティルのものとは異なる男の逞しさがあった。
「シリウス様は寒くないのですか?」
「私ですか? このくらいの寒さなら何てことありません。テスリム砂漠の夜の冷え込みはこの比じゃありませんから」
「テスリム砂漠……シリウス様はそちらのほうのご出身なのですか?」
ラピスがシリウスにそう問うと、彼はいえ、とかぶりを振った。
「出自は交易都市オストヴァルトです。家族を養うために十五の歳に傭兵となったのですが、縁あってイフェルナ国で将官として取り立てていただいて。軍人となってから、テスリム砂漠のあるミヒルネに赴任していたことがあったんです」
シリウスは指先で夜空に地図を描いていく。イフェルナ北部のこの辺りがモンタネール侯爵領で、その中の大部分を占めるテスリム砂漠のどこそこにあるオアシスの街がミヒルネで、という詳しく丁寧な説明からは彼の実直な性格が感じられた。
夜闇の中、遠くにグラナータの城館を照らす灯りがちらちらと揺れているのが見えた。そろそろ前方の舟は岸についているだろう。
そろそろ作戦を次の段階に移す頃合いだ。ラピスは頭の中で作戦を反芻し、この後自分がやらねばならないことを確認する。ラピスが担うのは、常人ならば顔を背けたくなってしまうであろう所業だ。ほんの少しの忌避感と躊躇いはあるが、問題なくやれる。
大丈夫、とラピスは小さく呟くと杖を握り直す。これから使う魔法のために、ラピスは体内で膨大な量の魔力を体内で精錬していく。無駄のない研ぎ澄まされた魔力が聖杖プリギエーラを満たし、夜目にもはっきりとわかるほどにはっきりと神秘的な瑠璃の光を放つ。
「これが『星の聖女』……」
神々しさを纏ったラピスの姿に傍らのシリウスの口から思わずそんな言葉が漏れた。彼の胸の奥底を染め上げていくのは、目の前の存在に対する確かな畏怖だった。
ラピスは青い瞳を瞠っているシリウスに淡く微笑んでみせると、形の良い薄い唇で呪文を紡ぎ始めた。
「――開け、冥界の扉、我は理を覆す者なり。大地に眠る我らの祖よ、我が声に応え、我に従え。旧き魂よ、今ここに甦り、闇の力を揮い給え! 《死者の秘蹟》」
前方を進んでいた舟が続々と着岸し、ラティルと彼が率いる兵たちは湖畔へと上陸していた。目指すグラナータは湖西街道を挟んですぐそこだ。
ラティルは自分の前に並んだ兵たちへと向けて、作戦の最終確認を行なっていた。
「いいか、ラピスから合図があり次第、東側にある使用人用の通用口から突入する! 目的は制圧と人質の解放だ、無駄な殺しはするな!」
「御意に」
イフェルナ国から借り受けた軍人たちは作戦への承服の意を示し、ラティルへと敬礼した。
グラナータはヴァロール湖上でイフェルナ国と国境を接しているが、歴史上湖側から攻められたことはない。あまりに湖が広大で横断が困難なことと、舟で近づけばたちどころに見つかってしまうことが理由だった。そのため、すぐ裏手にヴァロール湖を臨む城館の東側は警備が手薄であることをラティルは知っていた。
頭上の空を瑠璃色の光が奔っていった。何本にも枝分かれした光の筋はラティルたちがいるのとは反対側の、グラナータの街の門のほうへと降り注いでいく。ラピスの放った魔法の光だった。
「――行くぞ! これよりグラナータの奪還を開始する!」
ラティルは作戦の開始を宣言した。おお、と軍人たちの鬨の声が上がる。ラティルたちは夜闇の中をグラナータへと向かって駆け出した。
バルウィンはミルベール公爵邸のバルコニーで夜風に吹かれながら、物憂げに湖を見つめていた。
彼――バルウィン・ラッサール男爵は、ジリアーニ公爵派に属する貴族だ。彼は、王都で革命が発生してからほどなくしてレイフォルトの指示により攻め落とされたこのグラナータの管理を遠戚関係にあるジリアーニ公爵から一任されていた。
バルウィンは手に持ったままの文書を手に溜息をついた。彼が持っているのは今日の夕刻にイフェルナ国から届けられた声明文だった。
――ラティル・アーレントこそがアレーティア王国の正当なる統治者であり、これより逆賊レイフォルトを討つべく反攻を開始する。
――また、イフェルナ国はラティル王子の正当性を認め、ラティル王子を支援することを宣言する。
篝火の下、バルウィンが何度文書を読み直してみても、声明文にはそう書かれている。つまり、近いうちにラティル王子がイフェルナ国の軍勢を引き連れて、グラナータを襲撃してくる可能性が高いということである。
幸い、交易都市であるオストヴァルトはジリアーニ公爵派の手に落ちている。ラティルの襲撃に備えて、明日にでもオストヴァルトから物資を取り寄せるよう部下に指示を出しておこう。
そう思い直してバルウィンが城館の中にもどろうとしたとき、夜空に光の筋が走った。
(流れ星か……? それにしては随分と珍しい……)
瑠璃色の光の筋が何本も湖の方角から西へと向けて降り注いでいる。その幻想的で美しい光景にバルウィンが見惚れていると、俄かに街の入り口が騒がしくなった。
(……何だ……?)
訝しげに思いながら、バルウィンは西の方向へと向かってバルコニーから身を乗り出す。兵士たちが何者かと争っている様子が遠目に見えた。
(ラティル王子の襲撃にしては動きが早すぎる……ならば、一体何者だ……!?)
バルコニーの扉がバン、と乱暴に開かれジリアーニ公爵家の紋章が入った兵士が慌てた様子で姿を現した。
「ラッサール卿! 急ぎ、ご報告がございます!」
大方、街の入り口で行われている戦闘についてだろうと思いながら、バルウィンは兵士を振り返る。何かに怯えているのか、兵士の顔は真っ青だった。
「どうした、シートネン少尉。申してみよ」
「ま、街の門がゾンビの軍勢に襲われています!」
「ゾンビの軍勢? ラティル王子の手のものではなく?」
どういうことだ、とバルウィンは眉を顰めた。何が起きているのかわからないが、尋常ならざる事態であることだけは理解できる。シートネンは吐き気を堪えるように手で口元を覆いながら、
「死体が……先のグラナータ制圧の際に死んだ兵たちがゾンビとなって我々に襲いかかってきているんです……!」
自分が口にした言葉が悍ましかったのか、シートネンは口元を覆ったまま、その場に蹲ってえずいた。
一体何が起きているのか確かめねばならない。この城館に常駐しているジリアーニ公爵派の兵たちを集め、今すぐ街の入り口へ向かおう。
バルウィンは蹲るシートネンをそのままに、バルコニーから城館の建物の中へ飛び込むと、一段飛ばしで石造りの階段を駆け降りていく。一刻も早く、兵たちに招集をかけねばならない。
階段の踊り場に差し掛かったとき、バルウィンは一人の兵と行き合った。兵はバルウィンの姿を認めると、食い気味にこう告げた。
「ラッサール卿! この館の東側の警備が破られました!」
「……何だって?」
思わずバルウィンは聞き返した。どうして今夜は次から次へと問題ばかりが起こるというのだろう。頭が痛くなりそうだ。
「それで、賊は何者なんだ?」
「ラティル王子とその手勢です。ラティル王子はラッサール卿を探しておいでです。どこかに身をお隠しください」
「しかし、シートネン少尉から街の入り口が屍の軍勢に襲われていると聞いている。そちらを捨て置くわけにもいくまい。隠れてなどいる場合ではないだろう?」
なんだってこんなときに。そうぼやきかけたまままの形でバルウィンは口の動きを止めた。こんなときだからではない、こんなふうにタイミングが重なるようにあらかじめ調整されていたのだろう。
ラティルは『星の聖女』を連れているという。彼女は神聖魔法ではなく暗黒魔法を扱う聖女らしからぬ人物だというが、街の入り口を襲っているゾンビの軍勢が彼女によるものだとしたら納得がいく。
ラティルたちは声明文の発表をグラナータ突入ぎりぎりのタイミングまで遅らせることで自分たちの居場所を欺瞞し続けていたのだろう。てっきりラティルたちは今、イフェルナ国の首都にいるものだとばかり思い込んでしまっていた。
自分たちの居場所を誤認させた上での奇襲。そして、ゾンビの軍勢による陽動。気が付けば自分たちはラティルたちの術中に嵌められてしまっていた。
「くそっ」
口汚く己を罵りながら、バルウィンは拳で壁を殴る。階下からは聞きなれない男たちの声や靴音が聞こえ始めていた。
「――はっ!」
ラティルは通用口の見張りをしていた兵士二人を鞘の胴を大きく薙ぎ払った。のんびりとした夜半の間隙を突いて襲いかかってきたラティルに遅れをとった兵士たちは体を大きくのけ反らせる。
「ラティル王子だ! ラティル王子が襲ってきたぞ!」
そう叫んで兵士たちはそれぞれの獲物を抜き放つ。しかし、ラティルの動きはそれよりも早かった。
「遅いんだよ、このノロマどもが」
ラティルは一人の兵士の鳩尾に膝蹴りを、もう一人の兵士の顎に拳を叩きつけた。「ぐえっ」「ぐあっ」苦悶の声を上げると兵士二人は動かなくなった。ラティルと共にいたイフェルナ国の軍人たちが彼らの瞼を押し上げて確認すると、どちらも気を失っていた。
「さすがにこいつら弱すぎだろ……仮にもジリアーニ公爵派の兵士だってのにちゃんと訓練してんのか?」
ラティルは呆れたように気絶した二人の兵士に一瞥をくれる。イフェルナ国の軍人――シリウスの副官だというスコットという男はラティルへの感心と倒された兵士たちへの同情を言葉へと滲ませる。
「いえ、ラティル殿下がお強いのだと思いますよ。普段から鍛錬を積まれているんですか?」
「まあ、王国軍の訓練にちょくちょく顔を出していた程度にはな」
ラティルは幼少のころから、王国軍の訓練に混ざって研鑽を積んできた。王族としての嗜みだからではなく、一人の大切な女の子を守るための力が欲しかったというのが理由だ。公務の合間を縫って真剣に剣術にも体術にも取り組んできた結果、人並み以上には戦うための力を身につけられたという自負はある。
ラティルは地面で伸びている兵士二人を手で示すと、
「それより、そいつらを適当なところに寝かせておいてほしい。舌を巻き込まないように気をつけてやってくれ」
承知しました、とスコットは頷くと部下たちに指示を出す。イフェルナ国の軍人たちが兵士二人を地面に横たえてやっているのを横目に、ラティルは通用口の扉を開く。
「行くぞ。作戦通り、今、グラナータを管理しているというラッサール男爵の身柄を押さえ、人質を解放する。この館の造りなら熟知している。ついてきてくれ」
そう言うと、ラティルはスコットたちイフェルナ国の軍人を引き連れて公爵邸の中へと入っていった。
食糧を保管する倉庫から厨房を抜けると、大広間へと出た。騒ぎを聞きつけたジリアーニ公爵派の私兵たちがぱらぱらと姿を現すが、数が少ない。ラピスの陽動により、狙い通りあちら側に人数が割かれているということなのだろう。
「そこを退け。俺はラッサール男爵に用がある」
ラティルは剣を手に兵士たちへと歩み寄っていく。しかし、兵士たちは剣を抜き放ち、切先をラティルへと向けることで返事とした。
「あくまで通す気はないってか。なら、力づくで押し通らせてもらう!」
ラティルは切り掛かってくる兵士たちの剣を鞘がついたままの刀身でいなしていく。相手は八人。本気を出せば勝てない人数ではなかったが、なるべくならば、敵である兄側の派閥の人間であろうと、自国の民を傷つけることはしたくなかった。
「ラティル殿下、勝手ながら助太刀させてもらいます。フレナード准将からそのように言いつかっておりますんで」
スコットはラティルの横に並ぶと、部下たちへと向かって声を張った。
「第一分隊にこの場は預ける! 連中を無力化しろ!」
応、と第一分隊の軍人たちは返事をする。ぱらぱらと十人余りの軍人たちが得物を手にラティルたちの横を駆け抜けていき、この城館に常駐する兵士たちと対峙する。
「ラティル殿下、この場は彼らに任せて先を急ぎましょう。ラッサール男爵がいるとしたら、どの辺りか検討はつきますか?」
「おそらく最上階にある、伯父上の執務室か寝室のどちらかだろう」
ラティルは傍らのスコットにそう告げると廊下を駆け出した。こうして張られていた以上、広間の大階段は使えない。上の階へは他の場所から向かうほかなさそうだった。
ラティルはこの城館の構造を思い浮かべる。確か奥のリネン室の外から最上階のテラスに通じる外階段があったはずだ。
「行くぞ。あっちだ」
ラティルはスコットたちを引き連れ、その場を後にした。背後では剣戟の音が響いていた。
タオルやシーツといった類のものが整然と並ぶ、ほのかな石鹸の香りがする空間を抜けると、ラティルたちは外へと出た。
月が西へと傾き始め、東の空の端に白藍が滲み始めている。朝が近い。ラティルがイフェルナ国の軍人たちとともに攻め込んできていることがラッサール男爵に露呈している以上、早く決着をつけてしまいたい。
(どうかラピス……あと少しだけ、持ち堪えてくれ)
術者ではないラティルには、この作戦の要となる死者たちを操る術がラピスにとってどれほど負担になっているか計り知れない。現在のラピスの掌中にあるのは先のグラナータ制圧戦で命を落としたすべての兵士だ。
王都を脱出する際にラピスが操ってみせたゾンビの数は五十程度だ。グラナータ制圧戦で命を落としたすべての兵士ともなると数はその比ではない。
ラピスにはヴァロール湖を舟で渡る際に大規模な幻影魔法を使ってもらっている。ルフィナから下賜された杖があるから大丈夫だと、別れ際にラピスは笑っていたが、無理をしていないだろうか。
(駄目だ、今はラピスの心配より、目の前のことに集中しないと。グラナータを取り戻すためのこの機会、失敗するわけにはいかない)
外から見えないように高く覆われた城壁の中、幾多もの物干し台が庭に並んでいた。それらの間を縫って庭を進み、建物の影にある外階段をラティルたちは目指す。
(見張りは一人か。このくらいならば何とでもなる)
階段の前に陣取った一人の兵士が、警戒しながら辺りを見回している。ラティルは背後に続く兵士たちに静かにするように合図を出すと、自らは壁に体を貼り付けた。
じわ、じわ、とラティルは気配を消しながら、兵士へと近づいていく。兵士は軒下の暗がりに潜むラティルに気づいている様子はない。
一歩、二歩、三歩。ラティルは小さく息を吸うと、手の中の剣を上段に構える。
(――今だ!)
ヒュッと、剣が空を切る音が鳴る。「……へ?」異変に気づいたときには見張りの兵士はラティルによって、こめかみに思い切り剣を叩きつけられていた。
「――行くぞ!」
ラティルは見張りの兵士が意識を失ったことを確認すると、一段飛ばしで階段を駆け上り始める。後続のイフェルナ国の軍人たちもラティルの後へと続く。
物音を聞きつけたらしいジリアーニ公爵派の兵士が二階の踊り場にぱらぱらと姿を現した。しかし、ラティルは兵士たちの一人に当て身を食らわせると、そのまま階段を駆け上っていく。彼の後に続くイフェルナ国の軍人たちの勢いに呑まれ、兵士たちは手出しすることは能わなかった。
階段を上りきり、バルコニーへ辿り着くと、ラティルは館の中へと続く扉に手をかけた。扉を挟んだ向こう側に人の気配がある。
ラティルに追いついてきたスコットも扉の向こうの伏兵に気づいたらしく、
「これは……ざっと十五から二十ってとこですかね。ラティル殿下、随分と歓迎されているようですよ」
軽口を叩きながらも、スコットは背後を振り返る。先ほど二階の踊り場にいた兵士たちが自分たちを追って階段を上ってきているのが視界の隅に映る。
「第二分隊、第三分隊は伏兵の対処だ! ラティルの殿下の御為に道を切り開け! 第六分隊、後方の足止めを頼む!」
スコットは迅速に方針を打ち立てると、部下たちへと指示を飛ばす。ラティルは扉の向こうの兵たちの攻撃を捌くべく、剣を下段に構えると扉を引き開けた。
刹那、扉の向こう側から一斉に槍が突き出された。ラティルは剣で槍を跳ね上げて受け流すが、対処し切れなかった穂先が彼の金髪を散らし、彼の頬に一筋の傷を描いた。
後退するラティルに代わり、第二分隊と第三分隊の軍人たちが得物を手に前へ出る。ジリアーニ公爵派の兵たちは右手に槍を、左手に盾を持ち、この場を通すまいと反撃してくる。
「右側だ! 右側を切り崩せ!」
スコットが叫ぶと、軍人たちは右側を重点的に攻め始める。バルコニーの扉を守っていた兵士たちは徐々に押され始め、次第に右側から陣形が崩れていく。
「行くぞ! 残りは俺についてこい!」
ラティルは扉の右側にできた隙間から館の中へと突入する。ラティルを通すまいと慌てて突き出された剣や槍の切先が彼の体を傷つける。しかし、彼はそんなことは瑣末ごととばかりに、無理やりその場を押し通る。背後では第二分隊と第三分隊が奮闘しているのか、武器と武器がぶつかり合う音が響き続けている。
扉の前に敷かれた横陣を突破し、ラティルたちは桔梗の彫刻が施された執務室の大扉をバンと乱暴に押し開けた。陽動への対処やラティルたちへの対応のために出払ってしまっているのか、兵士の姿はない。
(誰もいない……ということは、ラッサール男爵はここにはいない……? 一体どこに行きやがった……?)
ラティルは執務室の中を見回すが、執務室の中は平時の静けさを保っており、人の気配はない。続き部屋の寝室の扉を開け、中を検めてみたがそこにもラッサール男爵の姿はなかった。
「……仕方がない。他の部屋を当たるぞ」
ラッサール男爵がいるとしたらどこだろう。公爵邸の間取り図を頭の中で広げながらラティルたちが執務室を出ようとすると、がたんと小さな物音がした。
「……ん?」
ラティルは傍らのスコットと顔を見合わせた。執務机の上に置かれたままの紅茶の入ったティーカップの表面がゆらゆらと揺れている。
(……もしかして)
王城にも壁の中やら床の下やらに有事の際に身を隠すための場所がいくつも設られている。公爵家の執務室という重要な場所にそのようなものがあったとしても不思議はなかった。
「エクロース中佐、絨毯を剥がす。手伝ってくれ」
了解、とスコットは頷くと、執務机の下からビロード張りの肘掛け椅子を引き摺り出した。椅子のあった場所からラティルが丸いアラベスク柄の絨毯を剥ぎ取ると木の床が露わになる。
「――見つけた」
床に不自然な窪みを見つけると、ラティルはその部分の床板を剥ぎ取った。「いましたね」スコットは横から床の下を覗き込み、身なりの良い中年の小男を見つけるとそう言った。
ラティルは床下で膝を抱えて震えるラッサール男爵の首元へと抜き身の真剣を押し当てるとこう言い放った。
「――バルウィン・ラッサール男爵だな。投降してもらう」
城館の尖塔で鐘が鳴っていた。その音色はバルウィンが捕らえられ、ラティルによってグラナータが取り戻されたことを知らせていた。
バルウィンの身柄を拘束し、彼のことをスコットに託すと、ラティルは一分隊分の手勢を連れて執務室を出た。バルウィンを確保したとはいえ、人質として捕らえられている人々を解放しないことには戦いは終わらない。
ラティルは大階段を降り、第一分隊の軍人たちと合流すると、一階の饗応の間の扉を開いた。食糧庫やリネン室などに人気がなかったことから、この館で働く人々が閉じ込められているとしたらここだろうと彼は当たりをつけていた。大勢の人間を閉じ込められる場所など限られている。
食事用のテーブルや椅子が隅に押しやられた部屋の中、メイドや下働きの男たちが押し込められていた。「ラティル殿下!」「ラティル殿下が助けに来てくださったぞ!」姿を現したラティルの姿に不安そうに顔を曇らせていた人々の視線が一斉に集まる。
「みんな、無事か!? グラナータは俺、ラティル・アーレントがこの手で取り戻した。みんな、ジリアーニ公爵派のグラナータ制圧から怖い思いをしただろう? もう大丈夫だ」
ラティルが皆を解放しにきた旨を告げると、人々の表情が不安から安堵へと塗り変わっていった。ざっと見た感じ、手足の自由を奪われている者や怪我を負っている者はおらず、皆ただここに閉じ込められていただけのようだった。
「みんな、伯父上やクロード従兄さんはどこにいる? この城の兵士のみんなは? 地下牢か?」
ラティルが人々にそう問いかけると、赤毛の中年の女が彼の名を呼んだ。ルフィナやラティルが幼いころ、二人の乳母をしていた女性だった。
「エオリア」
エオリアはやつれた顔で、ご無事で何よりです、とラティルに微笑みかけた。しかし、暗褐色の双眸には憂いと悲しみの色が見え隠れしている。
「ラティル様……旦那様は、ヴィリアン様はお亡くなりになられました……。ジリアーニ公爵派の者による拷問の末にお亡くなりになられたのです……」
拷問。おそらくジリアーニ公爵はラティルの所在をヴィリアンに吐かせようとしたのだろう。しかし、ヴィリアンがラティルの動向を知るはずもなく、彼は無駄に苦しめられ、殺されたということになる。
(伯父上……俺のせいだ……!)
ラティルは唇を噛む。目頭が熱くなるが、手のひらに爪を立て、ぐっと堪える。今はまだやることがある。悲しむのも自分を責めるのも後回しだ。そうか、と返した自分の声がやけに乾いて聞こえた。
「エオリア……クロード従兄さんはどうしてる? 生きているのか?」
「クロード様は地下牢で捕えられておいでです。兵士の皆様もご一緒です」
わかった、とラティルは頷いた。行くぞ、とラティルはイフェルナ国の軍人たちを引き連れて踵を返す。饗応の間を出ていくラティルの背をエオリアの案じるような声が叩いた。
「ラティル様……どうか、ご無理だけはなさないよう」
ラティルは一瞬、エオリアを振り返ると大丈夫だと笑ってみせた。泣き出す寸前のような不器用な強がりの笑顔だった。
心の奥から湧き上がってきた感情が溢れ出しそうになり、ラティルはしぱしぱと緑の目を瞬かせる。さりげなさを装って目尻に触れると、指先に湿り気を感じた。ラティルは気づかないふりをして、地下へ続く階段を降りていく。
看守兵が寝泊まりする小部屋から鍵束を取ると、軍人たちとともに、ラティルは地下牢の中へと足を踏み入れた。
「お前ら、無事か!」
ラティルは見知った兵士たちの姿を認めるとそう叫んだ。「ラティル様!」「ラティル様だ!」ラティルに気づいた兵士たちの表情がぱっと明るくなる。
ラティルはイフェルナ国の軍人たちと手分けをして、牢の鍵を開け、兵士たちの拘束を解いていった。
ラティルは兵士の手の縄をほどきながら、従兄の行方についてを問う。
「なあ、クロード従兄さんがどこにいるか知らないか?」
「クロード様は奥の独房にいらっしゃるはずです。ただ、旦那様と同様に拷問に遭わされているようで、まだ無事でいらっしゃるかどうかまでは……」
「わかった。とにかく行ってみる」
ラティルは兵士の縄を解き終えると、雑居房を出る。通路を奥に駆け、更に地下深くへと潜る階段を下りると、独房の中にひどく傷つき、衰弱し切った様子の蜂蜜色の髪の青年がいた。
「クロード従兄さん! 大丈夫か!」
ラティルは手早く独房の鍵を開けると、ぐったりとした様子のクロードの体を抱き起こし、手足の拘束を解いた。
髪や服はじっとりと濡れそぼり、端正な横顔には殴られたらしき痣がある。よく見れば、手指の爪は何枚か剥がされ、そこかしこに拷問の名残が見て取れた。
「クロード従兄さん……俺のせいで、こんなに……! ごめん、俺のせいで……俺のせいで、伯父上だって……!」
ラティルはクロードへと縋り付くと、俯いた。視界がじわじわと滲んでいく。ぼた、ぼた、と眼窩の奥から熱い雫が滴り落ちる。泣いている場合ではないと思うのに止まらない。
「ラティルのせいじゃないよ。それに父上も僕も、ラティルは陛下に手をかけたりなんてしていないって信じてる。だから、聞かせてくれないかな。王都で本当は何があったのかを」
クロードはそう言うと泣きじゃくるラティルの背を傷ついた指先で撫でた。
「クロード従兄さん、俺じゃない。俺じゃないんだ……」
その後に続く言葉は嗚咽に飲まれて消えて行った。クロードはラティルが落ち着くまで、あちらこちらにかぎ裂きができた彼の服の背を撫で続けた。
グラナータが奪還された後、ラピスやシリウスたち後方で待機していた者たちも城館へ突入したラティルたちと合流を果たしていた。
ラピスはメイドたちに手伝ってもらいながら、衰弱のひどいクロードや、怪我を負った軍人たちの治療に奔走していた。
ラピスが怪我人たちの治療を一通り終えるころには残照が西の地平線を朱に染めていた。一足先に夜を迎えたヴァロール湖の対岸では、月が静かに水鏡を覗き込んでいた。
ラピスは陽動のために、ゾンビの兵士たちを戦わせていた街の入り口へと赴いていた。夜間にジリアーニ公爵派の私兵たちと戦闘が行なわれていた門のそばには、死体が新旧入り混じって折り重なっていて、ラピスは口元を押さえた。
(駄目。目を逸らしちゃ駄目。これはわたしがやったことなんだから。わたしが自ら引き受けたことの結果なんだから)
ジリアーニ公爵家の紋章の入った鎧を着込んだ真新しい死体。これらは間接的とはいえ、ラピス自身が手にかけた人々だ。死霊術によってラピスが操ったゾンビたちによって彼らは命を奪われた。
肌が青黒く変色し、腐敗の進んだ死体。ジリアーニ公爵派もミルベール公爵派も入り混じった彼らは、先のグラナータ制圧戦において命を落とした兵たちだ。地面の下で眠りについていたはずの彼らに昨晩この場所を襲うように命じたのは他ならぬラピス自身だった。
(わたしがしたことは……わたしのやっていることは……)
死者を冒涜する行為だ。命を恣に蹂躙する行為だ。王都を脱出したときも、昨夜も精神の昂ぶりによって直視せずにいられた現実がどっと意識になだれ込んできて、あまりの恐ろしさにラピスはその場に立ち尽くした。
ラティルのために、グラナータを取り戻すためには必要なことだった。そのことは理解していても、自分のしたことがあまりに悍ましく、恐ろしかった。
手が、体が、震えた。すうっと顔に冷たさが走っていく。ラピスは立っていられなくなって、その場に座り込んだ。
ぼたぼたと眼窩から滴り落ちた雫が地面に染みを作った。泣くんじゃない、とラピスは自分を叱咤すると服の肩口で乱暴に目元を拭う。
(せめて、できることをしなくっちゃ……今のわたしが、この人たちのためにできることを……)
ラピスは白く細い指先で地面を掘り始めた。今の自分には彼らを弔ってやることしかできない。彼らの生の尊厳を踏み躙ったラピスがそんなことをしても偽善にしかならないが、それ以外に自分ができることを何も思いつけなかった。
気がつけば辺りに夕闇がうっすらと降り始めていた。ラピスは指先を土と血で汚しながら、懸命に地面を掘り進めていたが、この夥しい数の死者たちを眠らせるには遠く及ばなかった。
「……手伝いますよ」
背後で男の声がした。ラピスが背後を振り返ると、シャベルを持ったシリウスが立っていた。
「シリウス様……なんで……」
「窓からあなたの姿が見えたんです。それで、僭越ながらラピス様の力になれればと思い、馳せ参じた次第です」
ラピスの問いにそう答えると、素手の彼女よりも何倍も早い速度でシリウスは地面を掘り進めていく。シリウスは黙々とシャベルを動かしながら、不意にこんなことを口にした。
「この国を出て、私と暮らしませんか? 何もかも投げ捨てて、聖フロレンシア教の信仰が薄い土地へ移り住みませんか? あなたのためならば、私はイフェルナ国軍を辞して傭兵稼業に戻る覚悟があります」
「え……?」
シリウスの唐突な申し出にラピスは驚いて、地面を掘る手を止めた。どういうことですか、とラピスは瑠璃色の目を見開く。白目は充血し、うっすらと赤に染まっている。
「ラピス様があまりにお辛そうで、見ていられないからです。このように暗黒魔法を扱う力を持っていても、あなたは普通の女の子なんです。こんなことを繰り返していては、きっとあなたの心は壊れてしまう。
聖女ラピスラズリ。出会ってまだ日は浅いですが、私は純粋で優しく、聡いあなたに異性として好意を抱いています。だから、どうか私の手を取っていただけませんか? あなたがあなた自身を守るために」
シリウスはシャベルを地面に突き立てるとラピスへと手を差し伸べた。彼の青い瞳は真摯にラピスを見つめている。
シリウスの告白にラピスはゆっくりと首を横に振った。ラピスは涙で濡れた頬に悲しげな微笑を浮かべる。
「シリウス様。お気持ちはありがたいですが、わたしは行けません。あなたがわたしを大事に思ってくださるように、わたしにも大事な人がいます。わたしはその人のそばにいて、力になりたい」
「その選択は、ラピス様自身を苦しめるものですよ。わかっているんですか?」
ラピスのことを案じるようなシリウスの問いに彼女はわかっていますと頷いた。
「それでも、あの人がわたしのことを必要としてくれるから、わたしはここにいたいんです。忌まわしく恐ろしいこの力があの人の役に立つのなら、わたしはこれからも何度だってこの力を揮うでしょう。どれだけ後悔しても、泣くことになっても、苦しむことになっても、それでもわたしはあの人と一緒にこの道を歩み続けるつもりです」
憂慮で曇るシリウスの顔をラピスは見上げた。瑠璃の双眸に宿る意志の煌めきに、ふられてしまいましたね、とシリウスは苦い笑みを浮かべた。
「あのお方には敵いませんね。けれど、ラピス様。私があなたのことを案じているということだけは覚えておいていただければ光栄です」
シリウスは汚れたラピスの右腕を掴むと、手首に口づけを落とした。その性急で強引な行為に濃い雄の気配を感じ、ラピスは体を固くした。ラピスから怯えの色を感じ取ったのか、シリウスはすみませんと短く詫びると手と唇を彼女から離した。
ばくばくと心臓が鳴っている。今、自分が感じたのは異性へのほのかな恐怖だった。ラピスは自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。ただわかるのは、”彼”以外の男性にこんなふうに触れられたくないということだけだった。
夜の藍色に覆われた空では星々が煌めきとともに命を燃やしている。遥かな時の彼方から降り注ぐ星明りに照らされた死者たちを包むように、気まずさを孕んだ沈黙が流れていた。



