西の空が朱に染まっていた。窓から入り込んできた秋風が、繊細なレース編みのカーテンと彼女の豊かな金髪を揺らしていく。
(あの子は――ラティルは一体、今どこで何をしているのかしら……?)
 そんなことを考えながら、自室の窓から眼下の中庭を眺めていたルフィナは緑色の目を伏せた。
 隣国であるアレーティア王国から伝わってきた話が気がかりだった。アレーティア王国では、国王が第二王子によって殺害されたのだという。第二王子は聖女を連れて王都を出奔し、国境を越えイフェルナ国内に入り込んでいるらしいなんていう話も聞く。事実、国境の一つであるメイエス峠を擁するスターリッジ伯爵領の警備を担当している部隊からは、アレーティア王国側から反逆者の捜索の協力要請があったらしいなどという話も耳にしていた。
(あのラティルがお父様を……? そんなことがあるのかしら……)
 ルフィナは同母弟であるラティルのことはよく知っているつもりだ。気は強いけれど、まっすぐで、他人のことを考えられる優しい子だ。結婚を機に、アレーティア王国を離れてしまった自分には、何があったのか詳しいことはわからないが、それでも彼が実の父親を手にかけるとはどうしても思えなかった。
 こんこん、と控えめなノックがなされ、部屋の扉が開いた。「ルフィナ様、失礼いたします」部屋の中に入ってきたのはルフィナの侍女であるナタリアだった。傍らにはまだ幼い娘を連れている。
 ルフィナは背後を振り返ると目を細めた。ルフィナによく似た容貌の小さな娘は、ルフィナの姿を認めるとぱたぱたと駆け出した。
「おかあさま!」
 小さな娘はルフィナの腰に手を伸ばすとぎゅっと腕を回した。ルフィナはよしよしと細く柔らかいまだ三歳の愛娘の髪を撫でる。
「ミレーナ、どうしたの? 今日のお勉強は終わった?」
 ルフィナがそう聞くと、ミレーナは大きく頷いた。夕陽を受けてきらきらと輝く純粋な紫色の瞳はアメシストのように美しい。
「あのね、今日はおかあさまとお夕飯をごいっしょしたくてきたの! ねえ、おかあさま、いいでしょう?」
 このところ、心労によってルフィナは体調を崩していて、あまりミレーナと一緒に過ごしてやれていなかった。そうね、とルフィナは屈んでミレーナと目線を合わせてやると、微笑んだ。
「今日は一緒にお夕飯を食べましょうか。ナタリア、饗応の間で食事を摂るから、こちらには運ばなくていいと伝えておいてちょうだい」
「承知いたしましたが……その、ルフィナ様、よろしいのですか? 弟君のこともあってしばらく体調を崩されていましたし、お腹のお子も大事な時期ですから、あまり無理はなされないほうが……」
 主人を案じるナタリアの言葉に、ルフィナはありがとうと立ち上がりながら、大丈夫よと気丈な言葉を返した。
「今日は幾分気分が良いもの。心配をかけてごめんなさいね」
「いいえ、とんでもありません」
 ナタリアはルフィナへとミレーナへと一礼する。そして、彼女はルフィナの部屋を出ていった。
「ミレーナ、まだお夕飯の時間まで少し時間があるわ。少し、中庭でお散歩でもしましょうか」
「はい、おかあさま!」
 ルフィナの提案にミレーナは嬉しそうにぱっと顔を輝かせた。ルフィナは窓を閉め、ミレーナと手を繋ぐと、部屋を後にした。
 窓辺ではガラス越しに差し込んだ夕陽が、花瓶に活けられた青色のアスターの花びらをオレンジに染めていた。

 こつこつという音が聴覚の表面を叩いた。レイフォルトは書類に落としていた視線を上げ、窓の方へと向ける。窓の外では足に書簡を括り付けられた白い鳩が羽ばたきを繰り返している。
 レイフォルトは椅子から立ち上がり、窓辺へと近づくと伝書鳩を室内に招き入れた。鳩の足に結び付けられた紐を解くと、レイフォルトは書簡を手に取る。鳩は用は済んだとばかりにクックーと一鳴きすると窓から外へ出て行った。鳩舎に餌でももらいに行ったのだろう。
 鳩の後ろ姿を視界の隅で見送ると、レイフォルトは書簡を開いた。書簡は国境のメイエス峠に詰めている隊からのもので、鳩を使ったということは定期ではなく急ぎの連絡だろう。
 書簡に綴られた文章を読み進めるうちに、レイフォルトの眉間の皺は自然と深くなっていった。
 文書の内容は、昨日、通行許可の下りていない行商人の馬車がメイエス峠を越えたとのことだった。それだけなら急を要する内容ではなかったのだが、該当の馬車の検問のタイミングで隊の兵士たちが全員昏睡状態に陥るという不可解な現象が発生しており、ラティルと聖女が秘密裏に乗り込んでいた可能性があるとのことだった。それを裏付けるかのように、人が二人入る程度の大きさの木箱の中身――サラザン五袋がメイエス峠を擁するメーニュ山脈に程近いイリモフ池岬で発見されたという。
 今朝、メイエス峠の検問を担当している兵士の一人イフェルナ国側の協力を得て、該当の商人の元を訪れたが、商人からは特に有用な情報を引き出すことは叶わなかったという。イフェルナ国側にラティルと聖女の捜索の助力を頼んだが、それについては軽くいなされてしまったらしい。
(イフェルナ国側は、どうやらこの件に積極的に関わりたくないようだな……一体どうしたものか)
 あの二人をイフェルナ国内で本格的に捜索するのであれば、国と国の間の正式な手続きを踏まねばならない。煩雑なやりとりを交わしている間にラティルたちがルフィナを頼ってイフェルナ王家と接触し、助力を嘆願するかもしれない。ラティルたちがイフェルナ王家の協力を得てしまえば、自分は彼らに手出ししづらくなってしまう。
「……くっそ」
 ラティルとは違い聡明で品行方正なはずのレイフォルトの口かららしくない悪態が漏れた。ぐしゃりと手の中で手紙が潰れる音がした。
 今の状況で何か打てる手はないだろうか。ラティルの伯父にあたるミルベール公爵は拷問にかけているし、オストヴァルトとレゼラルも制圧した。しかし、ラティルたちの尻尾を捉えるための一手が足りない。
(こんなときにファルカス殿が訪ねてきてくれると助かるのだが……ファルカス殿ならどんなふうにこの状況を打開する?)
 幼いころから聡明だの頭脳明晰だのと周囲からもてはやされてきたが、結局のところ自分もまた生まれが特別なだけの凡庸な人間に過ぎない。レイフォルトは己の未熟さに歯噛みした。
 鳩が飛び立っていった空には白い魚の群れが泳ぎ、季節は本格的にに秋へと移ろいつつあることを知らせていた。

 イフェルナ国に入ったラピスとラティルの旅路は、穏やかに順調に進んだ。イフェルナ国に入ってからは、二人は窮屈な変装を解いて旅していたが、誰かに見咎められることはなかった。
 アルデンの馬車を脱出してミヴェロン川沿いを一昼夜歩き続け、二人はヴァロール湖の東にあるシルヴラフトで宿をとった。その後、シルヴラフトで旅に必要なものを補充した二人は、首都イフィリアとシルヴラフトを結ぶ湖東街道を三日ほどかけて踏破し、イフィリアへと足を踏み入れていた。
「ここが、イフィリア……」
 ラピスは目の前に広がる華やかな光景に目を丸くした。画一的な石造りの建物が多いアレーティア王国の王都アレッタとは異なり、イフィリアの街並みは赤、水色、オレンジ、黄色と色彩豊かだ。馬車での移動を基本として作られたアレッタとは異なり、水運が発達しているのか、幾多もの路地の間には小さな橋がかかり、運河を小舟が行き交っている。
「すごい……」
 イフィリアの街並みについては本では読んだこともあったし、絵画で目にしたこともあった。けれど、実物は感動が違う。鮮やかな色と人々の活気がラピスを圧倒してくる。
「城に向かうには、歩いていくよりは舟でいくほうが早いな」
 ついてこい、とラティルはラピスを手招きすると、運河に係留されている一艘の小舟のほうへと歩き出す。ラピスは小走りにラティルを追いかけながら、こう訊ねた。
「ラティル様はこの街に来られたことがあるんですか?」
「四年前、姉上の婚儀の際にな。その際に街に降りる機会もあったから、まったく知らない街ってわけじゃない」
 降りる機会があったんじゃなく、こっそり抜け出して観光したの間違いじゃないかと思ったが、ラピスは黙っておく。当時十四歳の好奇心旺盛で活発な少年が城で歓待を受けているだけで満足できたとは思えない。
「それにしても……わたしたちが城に訪ねていって、おいそれとルフィナ様に会わせてもらえるものなんでしょうか?」
 ラピスが疑問を口にすると、わからない、とラティルはかぶりを振った。シルヴラフトに立ち寄った際には、イフェルナ国内でラピスとラティルを探しているような話は聞かなかったし、この街に入ってからも特段何もない。それでも、今、イフェルナ国内で自分たちの扱いがどうなっているかわからない。
「確かに何の考えもなしに城に近づくのは危険だな。最悪、姉上に会うどころか、捕えられて兄上側に引き渡されるかもしれない」
 どうしたものか、と二人は黙り込む。何かよい手立てはないものかと頭を巡らせていると、ラピスは思いついたことがあって、あ、と声を上げた。
 このイフェルナ国もアレーティア王国と同様に聖フロレンシア教を国教とする国だ。このような大きい街ともなれば、必ず教会があるはずだ。
「ラティル様。この街の教会を頼りましょう。教会の者に頼んで、ルフィナ様と接触を図るんです。
 こんなのでも、わたしは一応、聖フロレンシア教会の総本山に所属する今代の聖女です。聖女の頼みともあれば、教会の者は無碍にできないはずですから」
 彼らはただの繋ぎに過ぎないラピスを煙たく思っているが、聖女である以上、適当にあしらうことができない。それが真実ではあったが、そのことについてはラピスは口にしないでおいた。それを知れば、きっとラティルは教会を頼ることを躊躇う。この人はそういう優しい人だ。
「わかった。直接城へ向かうよりはそのほうが良さそうだ。そうしよう」
 ラティルはあっさりとラピスの提案を呑むと、自分たちのほうを伺っている中年の舟頭の男へと声をかけた。
「教会前広場まで頼めるか?」
「おうよ。それなら銀二枚だ」
 ラティルは懐から財布を取り出し、銀貨二枚を舟頭へと支払うと、小舟へと乗り込んだ。小舟が揺れ、ちゃぷりと川面が音を立てる。
 ラティルはラピスへと手を差し伸べると、彼女が舟に乗り込むのを手伝った。ラピスが舟へと乗り込むと、二人は木で作られた席に腰を下ろす。
「お二人さんは旅行か何かかい?」
 気安く話しかけてきた舟頭に、ええ、とラピスは頷いた。
「イフィリアの街並みが綺麗だというので、南のロサステ国から観光に来たんです」
 口から出まかせのラピスの言葉に、そうかいと男は返すと、話を続ける。
「イフィリアは内陸なのに、こんな造りで驚いただろう。西方のヴァロール湖の水をヴァロメト川を介して街に引き込んでいるんだ。おかげでこの街はこんな内陸にあっても、水に困ることはないんだ」
「そうなんですね、初めて知りました」
「ヴァロール湖の方も景色が綺麗だし、もし日程に余裕があるなら足を伸ばしてみるといいよ」
「ありがとうございます。考えてみますね」
 そうするといい、と笑うと船頭の男は櫂で舟を漕ぎ始めた。
 二人を乗せた舟はするりと水面を走り始める。水の匂いを含んだ風を感じながら、ラピスは色とりどりの建物の中に紛れるようにして覗く教会の尖塔を見つめた。

「ルフィナ様。マーヴェン大司教から急ぎのお手紙が届いております」
 ルフィナが自室で侍女のナタリアに茶を入れてもらっていると、メイドのパオラがノックと共に一通の手紙を手に部屋へと入ってきた。
「マーヴェン大司教から? 何かしら?」
 ルフィナはパオラから花の意匠の封蝋が施された封筒を受け取った。手紙だけが入っているにしてはやけに中身が重い。試しに封筒を振ってみると、何か金属が触れ合うようなかちゃりという音がした。その場にいた三者は顔を見合わせた。
「もしかすると、その手紙、何かが仕込まれているかもしれません。パオラ、ペーパーナイフを持ってきなさい。ルフィナ様に代わって私が開封します」
 ナタリアは茶を淹れる手を止めると、パオラへ指示を出した。パオラははい、と頷くと、ルフィナの文机の引き出しを開ける。彼女はペーパーナイフを探し出して持ってくると、ナタリアへと差し出した。
「ルフィナ様。危険な物が入っているかもしれませんので、少々お下がりを」
「え、ええ」
 ナタリアに促され、ルフィナは彼女に手紙を託して椅子から立ち上がると、扉の近くまで退避する。ナタリアはティーテーブルに封筒を置くと、ペーパーナイフを封筒の縁に走らせた。パオラは恐々といった様子でナタリアのそばで様子を見守っている。
 ナタリアが封筒を逆さにすると、丁寧に折り畳まれた便箋とペンダント、一対のピアスが出てきた。それらに何かが仕込まれている様子はなく、ナタリアは胸を撫で下ろす。
「ルフィナ様。大丈夫です。ペンダントとピアスが同封されていただけで、特に危険性はなさそうです」
「ペンダントとピアス?」
 ルフィナは首を捻りながら、ティーテーブルへと近寄った。そして、テーブルの上に置かれたそれらを目にすると、緑の目を見開いた。
「これは……!」
 花の意匠が刻まれたクリスタルのペンダントはラピスの持ち物で、聖女としての身分を示すためのものだ。そして、ペリドットのピアスは以前にルフィナ自身がラティルの誕生日に贈ったものだった。
 どういうこと、と思いながら、ルフィナは便箋を手に取り広げた。そこには、ラピスとラティルの連名で、現在イフィリアの教会にいること、国王殺しの汚名を着せられてレイフォルトとジリアーニ公爵の一派に追われていること、イフェルナ王家へ自分たちの保護を求めたいといったことが書き綴られていた。便箋の上に並ぶ柔らかな筆致はルフィナの記憶の中にあるラピスのものと一致していて、彼らが今イフィリアにいて自分に助けを求めていることは間違いないと思えた。
「ナタリア、パオラ。急ぎ、教会へ向かいます。ラティルと聖女ラピスラズリが私に助けを求めているの。支度をしてちょうだい」
「ですが、ルフィナ様。まだお体のお加減が……。それに、彼を保護されるというのならば、陛下かセシリオ殿下のご許可が……」
 ナタリアの諫言にルフィナは構いませんと首を横に振った。
「私のことなら構いません。それに、陛下や殿下のお叱りも必要とあらば私が後で受けます。事は一刻を争うのです。さあ、早く、二人とも支度をして」
「……承知いたしました」
 ルフィナの強い口調から彼女の意志の固さを感じとり、ナタリアとパオラは頭を下げた。そして、彼女たちはルフィナの外出の準備のために慌ただしく部屋を出ていった。
 ルフィナは自分の居室の隣に続く扉を開くと衣装部屋に足を踏み入れた。外出のための護衛の近衛兵や舟の準備をナタリアたちがしてくれている間に着替えくらいは済ませておいた方がいい。幸い、今は自分で脱ぎ着できる普段着用のドレスだし、ナタリアたちの手を借りずとも、自力で着替えることくらいはできる。
 ルフィナは色とりどりのドレスの森の中から、お忍び用のダークグリーンの地味なドレスを引っ張り出した。そして、彼女は今着ているドレスの背中のリボンを解くと、外出を急ぐべく着替え始めた。

 ラピスとラティルがマーヴェン大司教に手紙を託してから数刻が経った。教会の応接間に通された二人は、シスターが淹れてくれたハーブティーを啜っていた。この酸味はローズヒップによるものだろうか、と茶を口の中で転がしながらラピスは思う。酸味と同居する蜂蜜の優しい甘さが長旅で疲れた身体に染み渡っていく。
 とんとん、と控えめに応接間の扉がノックされた。扉越しに初老の男の声が聞こえてくる。
「聖女ラピスラズリ様。ルフィナ妃殿下がお見えです」
 その言葉にラピスとラティルは顔を見合わせた。
「姉上……本当に、来てくれたのか……」
 ラティルの表情が安堵で緩んでいく。ラピスはどれだけ今まで彼が気を張っていたのかということを改めて思い知らされた。よかったですね、とラピスは淡く微笑んだ。
「マーヴェン大司教。お通ししてください」
 ラピスがそう告げると、百合の意匠があしらわれた扉が開き、ラティルによく似た面差しの金髪緑眼の女性が入ってきた。身籠っているのか、地味だが品の良いダークグリーンのドレスの腹はうっすらと丸みを帯びている。
「ラティル! ラピス!」
 彼女は二人の姿を認めると、泣きそうに表情を歪めた。彼女の顔は二人の記憶にあるよりもいくらかやつれてしまっていた。
「姉上……!」
「ルフィナ様!」
 異口同音に二人は彼女の名を呼ぶ。すると、ルフィナは駆け寄ってきて、二人の体を抱きしめた。
「よかった……二人とも無事で……!」
 ルフィナの声が湿り気を帯びる。それだけ心配させてしまっていたのだと思うと、ラティルは心が苦しくなった。
「すみません、姉上。心配をかけてしまって。だけど、俺もラピスもこの通り無事です」
 ええ、そうね、とルフィナは涙で顔を濡らしながら二人の体からそっと腕を解く。彼女は目元を指で拭いながら、
「一体何があったのか、あなたたちから詳しい話を聞きたいけれど、まずは身体を休めるのが先ね。城に部屋を用意するわ。一緒に来てちょうだい」
「ありがとうございます、姉上」
「ありがとうございます、ルフィナ様。お心遣い感謝します」
 二人はルフィナへと頭を下げた。いいのよ、とルフィナは濡れた目を優しく細めた。
「それじゃあ、行きましょうか」
 ラピスとラティルはルフィナに誘われて応接室を出た。部屋の外にはルフィナと共にこの教会を訪れたと思われる軍人や侍女らしき人々の姿があった。
 ラピスはルフィナや彼女に随従する人々と廊下を歩きながら、ステンドグラスの窓にちらりと瑠璃色の視線を向ける。異国のこの地でも変わらず、聖女フロレンシアや聖人たちは救いを求める民草へと微笑みを投げかけている。
 ステンドグラス越しに差し込んでくる日差しはいつのまにか夕方の色を帯び、聖人たちの姿を神々しく浮かび上がらせている。ガラスで描かれた彼らの慈愛に満ちた視線に見送られながら、王城へ向かうべく、ラピスたちはその場を後にした。

 ルフィナによって保護され、王城に賓客として迎え入れられた翌日、ラピスとラティルはイフェルナ国王のエクレウスによって、城内の貴賓室に呼び出されていた。会議の間ではなく貴賓室である辺り、まずは内々で話をしたいという意図の現れだろう。
 表向きは客人と午後のティータイムを楽しむ場ということになっていたが、アレーティア王国の内情を知り、ラティルに与する価値があるかどうか判断するための会合というのが実際のところだろう。
 身重だというルフィナにこれ以上の心労をかけられない。自分たちの力でどうにかして、イフェルナ国の協力を勝ち取らねばならなかった。
 そんなふうに決意を新たにしながら絵画の並ぶ廊下を歩いていると、ラピスは慣れないドレスの裾を踏んづけて躓いた。
「わ、わわっ」
 バランスを崩して転びかけたラピスへとさっと手を差し伸べて、その身体を支えてくれたのはラティルの腕だった。
「ら、ラティル様……ありがとうございます」
「怪我はないか?」
「いえ……」
 ルフィナのメイドたちが用意したという王子らしい服装に着替えて、王子然とした立ち居振る舞いをしてくるラティルにラピスはどきりとした。
 一方のラピスも、旅の汚れを落とした後に、ルフィナのメイドが用意してくれた薄紫色のドレスに着替えていた。幾重にも重なったシフォン生地が秋薔薇のような可憐さと上品さを兼ね備えているのだが、ふわふわした裾も高いヒールも動きづらくて仕方がない。普段は背に流したままの髪もドレスに合わせてアップスタイルに整えられていて、すうすうとするうなじが何だか落ち着かない。
 いかにも王子といったふうに、ラティルはラピスの前へと手を差し出すと、
「お手をどうぞ、お嬢さん(マドモアゼル)?」
「あ、ありがとうござい、ます……」
 ラピスはラティルの手に自分のそれを重ねた。指は細く筋張っているのに、手のひらは剣ダコでごつごつとしていて、何だかすごく男の人という感じがした。昔から自分がよく知っているはずの活発でちょっと偉そうな男の子はいつの間にこんなふうに大人の男の人としての羽化を遂げていたのだろう。
「お前を一人にしておくと、呼ばれている時間に遅れそうだからな。一緒に行ってやるよ」
 ラティルは照れ隠しのようにそう言うと、ラピスの手を引いて歩き出す。
 こつり。こつり。純白のパンプスのヒールのせいでゆっくりとしか歩けないラピスのために、ラティルはゆっくりと彼女と歩幅を合わせて歩いていく。
 呼び出された貴賓室の前に辿り着くと、見張りらしき軍人の姿があった。ラティルは軍人を見据えると、
「アレーティア王国第二王子ラティル・アーレントならびに、聖女ラピスラズリ・フローライト、陛下のお召しに応じ、参上いたしました」
「は。少々お待ちを」
 軍人は貴賓室の扉を開けると、二人の訪いを告げる。「お通ししなさい」落ち着いた壮年の男の声が許可を出す。
「どうぞ、お入りください」
 軍人はラピスとラティルに部屋の中に入るように促す。客人を楽しませるためか、室内のあちらこちらに華美で繊細な装飾や彫刻が施されていて、ラピスは借り物のドレスを引っ掛けないようにしないと、と気を引き締めなおした。
「待っていたよ。掛けなさい」
 茶色い髪に緑色の双眸の壮年の男がラティルたちにソファを勧めた。失礼します、と二人はイフェルナ王家の三人と向かい合う形でビロード張りのソファに腰を下ろした。
 ここからは何が自分たちの運命を左右するかわからない。少しでも粗相があれば、イフェルナ国の協力を得るどころか、国境を侵した犯罪者としてレイフォルトに引き渡されてしまう可能性すらある。その事実に、目の前にいるイフェルナ王家の三人を見つめるラピスの顔は自然と強張っていく。
 緊張する二人の様子に、ふふ、とルフィナは小さく苦笑する。
「二人とも、もう少し肩の力を抜いて大丈夫よ。これはあなたたちの今までの話を摘みながら、あくまでお茶を楽しむための場よ。何も取って食おうというわけではないわ。――ねえ、お義父さま?」
 長男の嫁にそう同意を求められ、エクレウスはああ、と頷いた。
「ここはあくまで内々の非公式の場だ。楽にしてくれて構わない」
「は、はい……」
 エクレウスの言葉にラティルはほんの少し表情を緩めたが、ラピスから緊張の色は消えない。その様子を見たルフィナは、
「まったくもう、ラピスは真面目ねえ。それにしても、そのドレス、良く似合ってるわ。可憐でお淑やかな雰囲気がラピスの魅力をよく引き出してくれてるもの。あとでこのドレスを選んだメイドを褒めておかなくっちゃね」
 そういって茶目っけたっぷりにルフィナは弟と同じ色の目を片方閉じてみせると、ぱんぱんと両手を叩く。
「さて、お茶の準備をしてちょうだい!」
 ルフィナがそう命じると、茶器や菓子を乗せたワゴンを押したメイドたちが続き部屋から現れた。メイドたちが茶の用意をしているのを横目に、ルフィナは菓子の皿をテーブルの上に移していく。
「このパイ、今朝私が焼いたのよ。ジャムも庭園のヤマモモから手作りして。久々にラティルに何か食べさせたかったものだから」
 誇らしげに言うルフィナにラティルはげんなりとした顔をした。斜向かいに座る彼女の夫で王太子であるセシリオもラティルに対して同情的な顔をしている。
「姉上の菓子か……大体が黒焦げか半生のどちらかだからな……」
 セシリオはその通りと言わんばかりに大きく頷いている。これはどうやらルフィナが嫁いできてからというもの、度々彼女の手作り菓子の餌食になっているのだろう。可哀想に、とラティルは義理の兄を憐れんだ。
 抽出し終わった琥珀色の茶を温めたティーカップに注いで、メイドは五人の前に並べていく。ラティルの前にメイドはカップを置きながら、しれっとこんなことを宣った。
「どうかご安心ください、ラティル殿下。今日は失礼のないように、粉を測る工程からすべてきっちり私どもが見張っておきましたから」
「そ、そうか……」
 メイドの告白にセシリオが安堵で息を漏らした。一体普段この人は何を食べさせられているんだ、とラティルは思う。炭化したクッキーか、はたまた半生のマフィンか、それともそれ以外か。
 ラティルたちのやりとりにようやく少し気持ちがほぐれてきたラピスはティーカップに手を伸ばすと、中の液体を口に含む。おいしい、と思わず言葉が口から転がり出す。自然な甘みが味覚から嗅覚へ優しく広がっていく。
「これは……栗、ですか?」
 ラピスが聞くと、ええ、と彼女の正面に座る茶髪に紫の目の青年は頷く。
「少し前に交易都市から取り寄せさせたんです。少し前まで、ルフィナの悪阻がひどく、何か気晴らしになるものがあれば、と」
「セシリオ殿下はお優しいんですね。ルフィナ様がお幸せそうで何よりです」
 茶とルフィナの焼いたパイを挟んで、しばらく五人は当たり障りのない世間話を楽しんだ。茶のお代わりが注がれるころになって、本題へと切り込んできたのはエクレウスだった。
「お二人は国を追われ、保護を求めて我が国を訪れたと聞いている。そのことについて、まずは詳しい話をお伺いしたい」
 ラティルはティーカップをソーサーの上に戻すと、居住まいを正す。エクレウスの方へと向き直ると、ラティルは口を開いた。
「エクレウス陛下。失礼ながら、貴殿はレベルラ帝国の脅威についてどれだけご存知でしょうか?」
「南方のシュメズ国やミザール帝国といった小国が属国となったらしいということは存じている。しばらく抵抗の姿勢を見せていた、エゼルテ公国やリーメル皇国も彼の国によって陥とされ、隷属の道を辿ったとか」
 重々しいエクレウスの言葉に、ご認識の通りですと頷くと、ラティルは話を続けていく。
「シュメズ国やミザール帝国はともかく、エゼルテ公国とリーメル皇国は我が国と国境を接しています。この二国が陥ちたことで、我が国にとってもレベルラ帝国の脅威は他人事ではなくなりました。レベルラ帝国に対して、どう対処していくかで、父ゼクトールと兄レイフォルトの意見が割れたのです。
 父はあくまでレベルラ帝国と戦うことを選びました。レベルラ帝国に陥とされた国の人々がどんな暮らしを強いられるか知っていたからです。父は国民にそのような思いをさせたくないと考えていました。
 一方、兄は戦わずしてレベルラ帝国に下ることを選びました。戦争で徒に国土や人々を傷つけるのを厭うたからです。
 そして、議会で日々、両者が対立を深めていた最中、革命は起こりました」
 ルフィナは手で口元を覆った。誰が何をやった結果、ラティルがここにいるのかを理解したのだろう。
「父を殺したのはレイフォルトです。そして、母上の生家であるミルベール公爵家が国王派だったため、レイフォルトは俺のことも殺そうとしました。
 しかし、俺はその場から逃げることを選びました。レイフォルトの思う通りにはさせたくなかった。ところで姉上。姉上であれば、我が国で新王の即位に必要なものを知っていますね?」
「王冠と玉璽、聖フロレンシア教会の承認、ね」
 そうです、とラピスは頷くと話の続きを継ぐ。
「ラティル様は玉璽を持って城を脱出し、教会を訪れました。そして、わたしに今すぐ一緒に来て欲しいと仰られたのです。
 いくら煙たがられている繋ぎの存在とはいえ、聖女であるわたしを連れている以上、レイフォルト殿下やその背後にいるジリアーニ公爵派はわたしたちを傷つけることができません。わたしを傷つけるようなことがあっては、教会の不興を買い、新王の即位にあたっての承認を得られなくなるからです。
 即位に必要なものを取り戻し、邪魔者を排除するために、レイフォルト様は国王殺しの罪をラティル様になすりつけ、反逆者に仕立て上げました。そして、反逆者を捕らえるという名目で、わたしたちを追うようになったのです」
 話はわかったけれど、とセシリオが話に口を挟んだ。
「なぜ、この国を頼ろうと思ったんだい? ご身内――ミルベール公爵家を頼ることもできたんじゃないのか?」
 セシリオの指摘にラティルは悔しげに唇を噛む。あのときの屈辱は今でも忘れられない。
「俺たちもそう思って、最初はミルベール公爵領・グラナータを目指しました。しかし、俺たちが辿りついたころにはもう、グラナータはジリアーニ公爵家の手に陥ちていたんです。仕方なしに、俺たちは国外へ脱出する道を選びました。迷惑は承知で姉上を頼り、貴国に助けを求めようと考えたのです」
 なるほど、とエクレウスは鷹揚に頷いた。しかし、緑の双眸には油断ならない光が宿っている。
「ラティル殿下。話はわかった。しかし、これは外交だ。貴殿を助けたとして、我が国に何のメリットがある?」
 そう問われ、ラティルは小さく息を吸った。案じるようなラピスの瑠璃色の視線に大丈夫だと目線で返すと、ラティルは目の前のエクレウスを強く見返す。
「このまま、レイフォルトが即位し、政権を握るようなことがあれば、アレーティア王国はレベルラ帝国の属国となります。つまり、アレーティア王国が陥ちれば、次にレベルラ帝国の脅威に晒されるのは貴国です。そうならないためにも、どうか、俺が国を取り戻すために力を貸していただけないでしょうか……!」
 ラティルはエクレウスにそう訴えかけると首を垂れた。ううむ、と唸るエクレウスにラピスは追い打ちをかける。
「レベルラ帝国の国教であるイェラジール教は、人々の暮らしを大きく制限するものです。食物の多くはイェラジール教の神であるヴィトジに捧げられます。食べるものはヴィトジに捧げた残りを王侯貴族から優先的に配給され、末端の民の口にほとんど入ることはありません。肉を食べることも酒を飲むことも禁じられた上で、です。
 イェラジール教は民たちの職業から結婚相手に至るまで、ヴィトジの神宣といった形で人生のすべてを強要してきます。そして、男たちはまだしも、女たちは声を出して笑うことも家から出ることもすべて禁じられるのです。陛下は自国の民に、そんな未来を望みますか?」
 ラピスはじっとエクレウスを見た。これでもまだ力を貸してくれるつもりがないのなら、イフェルナ国が辿るかもしれない未来をいくらでも語って聞かせるつもりでいた。
 はあ、とエクレウスが溜息をついた。彼は冷めた茶を啜り、口の中を潤すと肩をすくめた。
「どうやら『星の聖女』は随分と脅しがお上手なようだ。いいだろう。私とて自国の民をそのような目に遭わせるのは本意ではない。
 ラティル王子、今の貴殿には何が必要だ? 申してみよ」
 ラティルはがばっと顔を上げた。今のはつまり、イフェルナ国がラティルの後ろ盾となることを了承してくれたということである。
「エクレウス陛下……! ありがとうございます……!」
 よい、と首を横に振りながら、エクレウスは茶のお代わりを淹れるようにメイドたちに指示を出す。「御意に」控えていたメイドたちが三杯目の茶を入れるべくてきぱきと動き出す。
「それで、何が必要だ? 私は、貴殿のために何をしてやれる?」
 そう問われて、ラティルは顔の前で二本指を立ててみせた。
「二つ、あります。まず一つ目は、レイフォルトこそが真の逆賊であり、彼らに対抗する旨の声明をこの国から発表すること。そしてもう一つは、王都を奪還するまでの間、兵をいくらかお貸しいただきたいということ」
 ラティルの要求にいいだろう、とエクレウスは頷くと、
「これらの取り決めについて、正式な文書を用意させよう。後日、内容について相違ないかご確認いただきたい」
 それを受諾の返事と取ったラティルはありがとうございますと改めてエクレウスへと頭を下げた。
「さて、国同士の面倒な話が終わったところで、個人的な話がしたいのだけれど」
 話の口火を切ったのはルフィナだった。個人的な話って、とラティルは訝しげに眉根を寄せる。しかし、ルフィナは実弟へは目もくれず、その隣に座るラピスへと視線を向けた。
「ラピス、ラティルにここまで付き合ってくれてありがとう。ラティルのことだから、ろくに説明もなく着の身着のままで連れ出されて怖い目にもあったでしょう? それなのに、この子と一緒にいてくれてありがとう」
「いえ、最初は巻き込まれたとはいえ、ラティル様と一緒にここまで来たのはわたしの意思ですから……」
 とんでもないです、とラピスは首を横に振った。ルフィナはセシリオへと水を向けると、
「ねえ、セシリオ様。ラピスに個人的に褒賞を授けたいわ。あれ――聖杖プリギエーラをラピスに渡してもいいかしら?」
「ああ。国宝とはいえ、今の所有者は君だ。君の好きにするといい」
 聖杖プリギエーラ。それは聖フロレンシア教の祖となった聖女フロレンシアの朋友にして、彼女の教えをこの地に広めた聖人ヴェルタースの持ち物だったと伝えられている。ヴェルタースがフロレンシアから下賜されたというこの杖は教会がイフェルナ国へと友好の証として献上し、国宝として代々王妃が――王妃の座が空位の今は王太子妃のルフィナが管理していた。
 お願い、とルフィナがメイドたちに合図をすると、年嵩のメイドが隣の控えの間から布につつまれた棒状のものを掲げ持って現れた。年嵩のメイドはルフィナの元に跪くと、布包みを解く。すると、百合の葉と羽の意匠の銀の杖が姿を現した。杖の先端では大きな水晶が無垢な輝きを放っている。
 ルフィナは杖を拾い上げると、ラピスの方へと差し出した。しかし、ラピスはぶんぶんと首を振ってそれを拒んだ。
「駄目です、ルフィナ様! そんな貴重なもの、いただけません! 第一、そんなものわたしには不釣り合いもいいところです!」
「私はそうは思わないわ。ねえ、ラティルに無理やり連れ出されたっていうことは、あなた、今、杖を持っていないでしょう? それに、この杖は私が他でもないラピスだからこそ持っていて欲しいの。この先もあなたがラティルとともに行くのなら、この杖はきっとフロレンシアの末裔であるあなたを助けてくれる。それだけは間違いないもの」
 躊躇いながらもラピスは目の前の杖を手に取った。その杖はまるで遥か昔から自分のものであったかのように、不思議なくらいラピスの手に馴染んだ。水晶はラピスの魔力に呼応するように、彼女の瞳と同じ色の神秘的な光を放っている。
 ほらね、とルフィナは微笑んだ。ラティルが息を呑むのが聞こえた。ふむ、とエクレウスは両腕を組み、様子を見守っている。
 セシリオはそういえば、と神秘的な光に包まれるラピスを見つめながら、小さく呟く。
「確か……聖人ヴェルタースの元を離れてから、この杖は何人が触れようとも何の反応も示すことはなかったと伝えられているはずです。なのに、なぜ……」
「この杖はラピスのことを待っていたのかもしれないわね。ラピス、もう一度言うわ。この杖を受け取ってちょうだい」
 ルフィナがまっすぐにラピスを見た。その強い目に、ラピスは否やを唱えることはできなかった。ラピスは杖を恭しく押し頂くと、
「有り難く頂戴いたします。ルフィナ様、ご厚意に感謝します」
「お礼を言うのはこちらのほうよ。本当にありがとう、ラピス。だけど、願わくはどうか、まだもう少しその力をラティルのために貸していて欲しいの。私の大切な祖国を守るために」
 もちろんです、とラピスは首を縦に振った。手の中の杖と自分に課せられた責任を改めて重いと彼女は思った。けれど、ルフィナの思いには報いたい。それに、できることならラティルの支えになりたかった。
 ラピスは瑠璃色の光を湛える杖を見つめる。こうして、想いを託された以上、アレーティア王国をレイフォルトから取り戻すため、ラティルの側で最善を尽くそうとラピスは思いを新たにする。ラティルのほうへと視線を向けると、彼はラピスの思いに応えるように力強く頷き返した。
 エクレウスとセシリオはラピスたちの様子を見守っている。甘い香りを漂わせる菓子と茶が並べられたテーブルの上で、先行きを寿ぐようにゼラニウムが可愛らしく桃色の花弁を広げていた。

 その日、レイフォルトが公務を終えようとしたとき、執務室の扉が特徴的なリズムを伴って叩かれた。トン、トトン、ト、トン。その音で誰が訪れたのかを察したレイフォルトは誰何を問うこともなく、「……入れ」扉の向こう側にいる人物を招き入れた。
 この城によく出入りする教会の神官たちのものに酷似した衣に身を包んだ、これといった特徴のない眼鏡の青年はするりと執務室の中に痩躯を滑り込ませてきた。
「……ファルカス殿。毎度のことながら、貴殿はどうやってこの城に入り込んできているのだ」
「普通に正面からですよ。どうやらこの格好をしていると、城下の教会の神官だと思って衛兵の皆さんは私のことをあっさり通してくださるんですよ」
「……」
 この城の警備のザルさ具合を嘆くべきなのだろうか。国境を接するリーメル皇国とエゼルテ公国がレベルラ帝国の属国となるまで、この国は平和な日々を送っていた。そのころの感覚がまだ抜けきらないのか、この城の衛兵たちは顔馴染みの人間はろくなチェックもせずに通してしまう。まあどこかで会ったことがあるようにもないようにも見えてしまうファルカスの顔では、チェックを徹底させただけでおそらく無駄なのだろうけれど。
「ところで、ファルカス殿。今日は何のご用事で?」
 ご挨拶ですね、とファルカスは薄い笑みを浮かべるといつも通り手土産のワインをレイフォルトへ渡してくる。
「今年の葡萄で作ったワインを一足早くお持ちしましたよ。ところで、レイフォルト殿下。その後の首尾はいかがですか?」
「メイエス峠からラティルたちがイフェルナ国に密入国したかもしれないという情報までは掴んでいる。しかし、イフェルナ国がラティルたちの捜索にさほど協力的でないこともあって、それ以降の足取りが掴めていない」
 レイフォルトはワインボトルを受け取ると、応接用のソファに腰を下ろす。座るといい、とレイフォルトが勧めると、ファルカスはローテーブルを挟んだ向かい側へと座った。
「まあ、最悪の事態を想定して動くべきでしょうね。――ラティル王子はイフェルナ国の協力を得て、反撃のときが訪れるのを待っている、と」
「だろうな。問題はいつ、どこに、どのくらいの規模で反撃を仕掛けてくるかだ」
「いつ、どの規模で、というのは追々わかることでしょう。大人数の集団が移動していれば、自然と情報は入ってくるものですし、行軍速度から交戦開始がいつになるか予測することもできますから。
 どこに、は簡単なことです。ラティル王子たちはおそらく国内に拠点を築きたがっています。だとすれば、まずはミルベール公爵領のどこかを取り戻そうとするのではないでしょうか」
「ふむ……」
 イフェルナ国内で大規模な軍事行動の兆しが見られ次第、ミルベール公爵領――特にグラナータに戦力を集めるべきだろう。向こうが打って出るというのなら、こっちも万全の体制で迎え撃ち、首魁であるラティルたちの身柄を押さえなければならない。
 そんなことを考えながら、レイフォルトはソファから立ち上がると、ワインオープナーを探して執務机の引き出しを漁り始めた。

 貴賓室での非公式な会談から三日が経った。今後の詳しい方針を詰めるために、ラピスたちは今度は会議の間へと呼び出されていた。
 今日のラピスの装いはフリルがたっぷりとついた薄青のドレスだ。ルフィナが「せっかくだからラピスには可愛いのを着せたいの!」と主張して譲らなかったのだと、着替えを手伝ってくれたパメラというメイドが言っていた。
 ラピスがドレスの裾を踏まないように気をつけながら、廊下を歩いていると、会議の間の前でルフィナとラティルが何か話をしているのが目に入った。ルフィナは侍女と幼い娘を連れている。
「ルフィナ様、ラティル様」
 おはようございます、とラピスが二人に頭を下げようとしたとき、金髪の幼い少女がラピスを指さしてあーっと声を上げた。
「わたし、知ってる! あなた、星のせーじょさまでしょ!」
 母と色は違えど同じ利発さを秘めた紫の目が無遠慮にラピスに向けられる。ルフィナは、こら、と少女を諌めると、
「ミレーナ、人を指さしたら駄目でしょう? ラピス、この子は私の娘のミレーナよ。この子が失礼なことをしてごめんなさいね」
 いえ別に、と言いかけたラピスの言葉を遮り、天真爛漫な幼い少女はとんでもない爆弾発言を放ってきた。
「ねえ、おかあさま。せーじょさまとおじさまはこいなかなの?」
 ふぇっ、と思わずラピスの喉の奥から裏返った声が発された。「……おじさまって……」ラティルはラピスとは違う単語に反応して、なんだかなあとでも言いたげな表情を浮かべている。ミレーナにとって、ラティルは母親の弟――つまり叔父だが、齢十八にしておじさま呼ばわりは複雑なものがあるのだろう。
「まったく、ミレーナったらどこでこんなませたことを覚えてきちゃったのかしら……それはそうと、そろそろ時間ね。ナタリア、ミレーナのことを頼むわね」
 ルフィナはミレーナを抱き上げ、頬に口づけを落とすと、側に控えていた侍女へと娘を渡す。「承知いたしました」ミレーナを抱いたまま、ナタリアは会議の間の前を後にした。
 ラティルはすうっと息を吸うと、会議の間の扉に手をかける。彼は目の前の精緻な細工の施された扉を押し開けると、ラピスとルフィナとと共に会議の間に足を踏み入れた。
 大理石で設られた長机の一番奥にはエクレウスが座しており、その脇にはほっそりとした栗色の髪の男が侍っていた。壁側の席にはセシリオと一席開けたところに見知らぬ黒髪青目の男が座っている。服装を見る限り、軍人だろうか。
 失礼します、と頭を下げるとラティルはセシリオの向かいに腰を下ろした。ラピスも淑女の礼をすると、ラティルの横へと座る。ルフィナは壁側へと回ると、夫であるセシリオの手を借りながら彼の横の席へと座った。
 関係者が全員一堂に介したことを確認すると、エクレウスは口を開いた。
「皆の者、わざわざ足労いただいて済まないな。今後のアレーティア王国への支援の件に関して、今日はこの場に集まってもらった。ラティル王子殿下、まずは先日の決定についてご確認を願いたい。ティベル、例の文書の用意はできているな?」
 ティベルと呼ばれた栗色の髪の男は、懐から二通の文書を取り出した。そして、彼はペンと共にそれらをラティルの前に置いた。
 文書の内容は三日前にラティルたちがエクレウスたちと話したことについてだった。ラティルがアレーティア国内へ向けて声明を出すことを認めること。ラティルがアレーティア国内を平定するために、兵力および輜重を貸し与えること。それらが文書には綴られ、末尾にはエクレウスのサインがされていた。ラティルは改めてエクレウスへの厚意に感謝を覚えながらペンを手に取り、二通の文書に自分のサインを記していった。
 ラティルがサインを終えると、ティベルは文書を片方回収し、エクレウスへと渡した。エクレウスはラティルのサインを確認すると、文書をティベルへと戻した。
「そちらの文書はラティル王子殿下がお持ちください。この盟約を証明するために必要となることもあるかもしれませんから」
 ティベルの言葉にラティルは頷く。「ラピス、預かっておいてくれるか?」彼はサインを済ませた文書をラピスへと手渡した。
「さて、軍人を貸し与えるという件だが」
 エクレウスはこの場の末席に座る黒髪の青年へと視線を向ける。
「そちらのフレナード准将と二個大隊を貸し与えようと思う」
 水を向けられた黒髪の青年は席を立つと、ラピスとラティルへ恭しく一礼した。
「イフェルナ国軍准将、シリウス・フレナードと申します。此度のアレーティア王国奪還の命、誠心誠意尽力させていただきますので、よろしくお願いいたします」
 ラティルは先から立ち上がり、シリウスの向かいへ立つと、「フレナード准将か。よろしく頼む」折目正しく挨拶をする彼へと右手を差し出した。「よろしくお願いします」ラピスもシリウスへと一礼する。
「それで、アレーティア王国を取り戻すとのことでしたが、まずはどこを攻めるかラティル王子殿下にお考えはありますか?」
「まずはミルベール公爵領・グラナータを。国内にひとまずの足場が欲しいし、グラナータを解放できれば、伯父上の元にいる兵たちとも合流できるかもしれない」
 なるほど、とシリウスは頷くと、会議の間の壁に貼られていた地図を剥がして持ってくると、指先を走らせながら、作戦を話し始める。
「殿下がどこにいるかはっきりと知られていない今、奇襲を仕掛けるのが効果的でしょう。湖東街道沿いのヴァロメト川を都市間の物資を輸送する貨物船に偽装して進み、夜闇に紛れてヴァロール湖を渡りましょう。ヴァロール湖上からアレーティア国内に入るのです」
 国境を越える上で、メーニュ山脈越えやテスリム砂漠を越えるルートを取る旅人は多いが、ヴァロール湖を越えようとするものは多くはない。地方を一つ丸々包括してしまいそうな大きさの湖を渡るのは正気の沙汰ではないからだ。
「しかし、ヴァロール湖を渡るという案は些か無理があるのでは? それに、グラナータは湖西街道を挟んですぐの場所です。いくら夜でも、ヴァロール湖を大挙して舟が押し寄せてくれば、気づかれるはずです」
 シリウスの案にラティルは冷静に指摘を入れる。どうしたものかと思考を巡らせる二人の間にラピスは口を挟んだ。
「ラティル様、シリウス様。わたしにならその穴を埋めることができます。ヴァロール湖を渡る舟に幻影魔法をかけるのです。そうすれば、ジリアーニ公爵家の兵士たちに気づかれることなく、最短ルートでグラナータへ向かうことができます」
「ラピス、お前……幻影魔法をかけるって言ったって、かなりの規模になるぞ? そんなの、今のお前には……」
 できない、といいかけたラティルの言葉を遮るとラピスはできます、と断言した。
「今のわたしにはルフィナ様から頂いた杖があります。あの杖があれば、その程度のことは今のわたしには造作もないことです」
 ふむ、とシリウスは青い目を思案げに細めた。
「『星の聖女』は神聖魔法の代わりに暗黒魔法を扱うらしいと噂には聞いておりますが……戦力として期待してもよろしいのですね?」
「もちろんです」
 ラピスは胸を張り、シリウスを見返した。彼は驚いたように目を瞬かせていたが、「そうですか。『星の聖女』の活躍に期待しております」そう言って口元を綻ばせた。
「イフェルナ国から声明を発表するのは、奇襲と同時がいいだろうな」
「そうですね、ラティル殿下方の動向がなるべくぎりぎりまでわからないほうが、奇襲の意味が増しますし……」
 ラティルとシリウスがグラナータ奪還の作戦を詰めているのを聞きながら、ようやく反撃に出られるのだとラピスは実感していた。ジリアーニ公爵派に行く先々で苦汁を飲まされたが、今度はこちらが彼らに一泡吹かせる番だ。
 グラナータに辿り着いた日、既にジリアーニ公爵派の手によって陥落していたあの光景を目にしたときにラティルが味わった屈辱はラピスには計り知れない。しかし、ようやくその雪辱を果たす機会が巡ってきたのだと思うと、自然と気分が高揚してくるのをラピスは感じた。
 アレーティア王国をレイフォルトやジリアーニ公爵派の手から取り戻すために自分に何ができるだろう。ラピスは腰から吊るした聖杖プリギエーラの感触を確かめる。
 今の自分はもうろくな魔法しか使えない無力な小娘じゃない。神聖魔法は使えずとも、この身に宿る力を駆使してラティルとともに最後まで戦い抜くのだと、ラピスは銀の杖をしっかりと握った。