ラピスとラティルが街道を東に旅して数日が経った。日が傾き始め、もう少しでグラナータというときに、異変を察知してラティルは足を止めた。
「クロエ、どうかしたのか?」
人通りはないが、ラピスは念のため、エトワールとしてラティルにそう聞いた。ラティルは無理やり作った裏声でこう言った。
「エトワール坊ちゃん、どうやらこの先は既にジリアーニ公爵派の手に落ちているようです」
「……え?」
ラピスは瑠璃色の目を瞬いた。
「どういうことですか……じゃなかった、どういうことだ?」
ラピスは自分の設定を忘れそうになりながら、ラティルに問い返した。ラティルは緑の目を細め、視線の先を探りながら、言葉を続ける。
「あの橋を越えればミルベール公爵領に入りますが、あそこにいる兵士はジリアーニ公爵派の者です。あの鎧に入っている紋章はジリアーニ公爵家のものですから」
そんな、とラピスは落胆でため息をついた。
「じゃあ、ミルベール公爵は……?」
「よくて監禁、悪ければ殺されているでしょうね」
ラピスの横で、赤毛の女傭兵に扮したラティルは淡々とそう言った。しかし、橋の先を見つめる眼光は鋭く、悔しさが滲み出ている。くそ、とラティルが小さく毒付くのが聞こえた。
旅の支度のため、二人はエヴェラムで馬を売ってしまっていた。徒歩での旅となってしまった二人より先回りし、レイフォルト側がミルベール公爵領を攻め落とすことは大いにあり得ることだった。レイフォルトに読まれてしまうような甘い手しか打てないでいる自分がラティルは情けなくて仕方なかった。こうしてラピスを巻き込んだにも関わらず、何もできずにレイフォルトの掌の上で踊らされているだけなのがひどくもどかしい。
「クロエ、アテが外れてしまったけれど、これからどうしようか?」
ラピスはあくまでもエトワールとクロエとしての会話を続けながら、今後の方針をラティルへと問うた。彼はぎりぎりと歯を食いしばって視線の先を睨みつけると、押し殺した声でこう告げた。
「東へ向かいましょう。国境を越え、イフェルナ国を目指そうと思いますが、いかがでしょうか、エトワール坊ちゃん」
イフェルナ国。ラピスはその言葉が意味することに気づく。
「なるほど。クロエのお姉さんを頼るということか」
その通りです、とラティルは頷いた。
クロエ、もといラティルの姉――元アレーティア王国第一王女のルフィナは、四年前に隣国であるイフェルナ国へと嫁いでいる。ミルベール公爵家を頼ることができなくなった今、自分たちが頼れるのは彼女しかいなかった。
「行こう、クロエ。イフェルナ国へ」
はい、とラティルは返事をする。ラピスのほうへと向けられた彼の緑色の双眸には怒りと決意の炎がゆらゆらと揺れていた。
「……絶対に、取り戻す。今は無理でも、絶対にグラナータを解放してみせる……!」
素のラティルとしての噛み付くようなその言葉にラピスは何も言えなかった。今の彼に何を言っても、安い慰めにしかならないような気がした。
首を洗って待っていろ、そう吐き捨てるとラティルは遠くに見え始めていたグラナータの街並みに背を向け、歩き始めた。
ラピスは旅装のマントを翻し、ラティルについて踵を返す。
グラナータの街は血のような夕焼けに包まれ、遠ざかっていく二人の背を見送っていた。二人が進む道の先では夜の闇がぽっかりと口を開けて待ち構えていた。
その日の夜、グラナータから距離を取ったラピスとラティルは街道から少し外れた小川のほとりで野宿をしていた。
以前にエヴェラムでラピスが調達してきた干し肉を二人は焚き火で炙って齧っていた。
「……ラティル様、すみませんでした。グラナータがレイフォルト殿下によって陥されていたというのに、何もできなくて」
ラピスは素の口調に戻って、今日の出来事をラティルへと詫びた。杖がない以上、自分の暗黒魔法を駆使して彼とともにグラナータへ突入するという選択肢は取れなかった。仕方ないとはわかっていても、聖女とは名ばかりでラティルのために何もできない無力な自分がラピスは口惜しかった。自分が亡き母のように皆から一目置かれるような立派な聖女であったなら、杖などなくともジリアーニ公爵側に政治的な取り引きを持ちかけ、グラナータを取り返すことだってできたかもしれない。
「別にラピスが悪いわけじゃない。俺の想定が甘かっただけだ」
ラティルは干し肉を飲み込むとかぶりを振った。今は赤毛のウィッグは脇に下ろされ、露わになった艶やかな金髪が星明かりを受けて静かな煌めきを放っている。
「それにしても……イフェルナ国を目指すと言ってもどうするんですか? このまま真っ直ぐ東を目指せればよかったんですけど、ミルベール公爵領を通るわけにはいきませんし」
そうだな、と相槌を打つとラティルは自分の荷物から地図を取り出し、ラピスにも見えるように広げてみせる。
「このままミルベール公爵領を迂回して、南のルノーゼを目指そうかと思っている。イフェルナ国に入るルートは陸路と海路があるが、海路を取るのは時間がかかりすぎる。このままメーニュ山脈を越えてイフェルナ国へ入るルートを取ろうと思う」
「なるほど」
現在、自分たちがいるのはグラナータの南東の街道の外れだ。ここから北の港町へ向かうのは時間がかかりすぎるし、目指すべきイフェルナ国の首都・イフィリアも比較的南の内陸寄りだ。時間が経てば経つほど、国内の要所要所の警戒は厳しくなり、レイフォルトを旗頭としたジリアーニ公爵派の支配下に置かれる街も増えていくことは容易に予想できる。それならば、現在地から考えて最短と思われる、南東から山を越えるルートを採るのは賢明な判断だと言えた。
ラピスは自分も肉を食べ終えると、鍋に湯を沸かし始めた。そこに野営の準備をしているときに見つけた小さな紫色の花とすぅっとした匂いを放つ緑色の花を入れてラピスは煮出していく。
ラピスはふつふつと小さな泡を立てる液体を濾すと、椀の中に注ぐ。彼女は一瞬考え込むそぶりを見せたが、荷物の中から琥珀色の液体が入った小瓶を出してくると、中身を一滴ずつ椀の中に垂らした。
「ラティル様。どうぞ」
ラピスは二つある椀のうちの一つをラティルへと差し出すと微笑んだ。
「飲むと気持ちが落ち着くお茶ですよ。聖フロレンシア教会秘伝のブレンドなんです」
ラピスの言葉にはっとして、ラティルは彼女を見た。自分はそんなにも思い詰めた顔をしていたということなのだろうか。
「ありがとう。もらう」
ラティルは差し出された椀を受け取ると口をつける。口の中を清涼感と優しい甘みが満たし、少しずつ心の波が凪いでいくのを感じた。ラティルはぽつぽつと椀を傾けながら言葉をこぼし始めた。冷たい風が露わになったラティルの金髪とラピスの銀髪をぐしゃりとかき混ぜていく。
「ルノーゼ経由でイフェルナ国へ行く。これが今の俺がやらないといけないことだってことくらいわかってるんだ。だけど、ルノーゼもグラナータと同じように兄上の手に陥ちていたらどうしようと、イフェルナ国へ無事に渡れなかったらどうしようと思うと、気持ちばかりが急いてしまう」
そうですか、とラピスは相槌を打つと、ラティルに話の続きを促した。
「凡庸な俺と違って、兄上は昔から聡い方だ。俺たちが今どこにいるかまではわからずとも、行きそうなところくらいは簡単に見当がつくんだろう。
兄上が、この国をレベルラ帝国に売り渡すことを提案し始めたときだってそうだ。理屈では兄上が正しいのかもしれないけれど、陛下も俺も……何より民が許さないと思った。
レベルラ帝国に下れば、多くの民が苦しめられる。それをわかっていて、兄上の案を受け入れることは陛下は絶対にしなかった。俺にもう少し力があれば……伯父上たちと連携して、兄上の動きを阻止できていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
「ラティル様」
ラピスは夜空と同じ色の瞳でラティルをまっすぐに見つめた。ラピスは地面に茶の入った椀を置くと、そっとラティルの腕に触れる。
「そんなふうに自分を責めないでください。ラティル様は今、自分がなすべきことをしっかりと果たされています。ラティル様が国璽を持ち、わたしと共に王都から姿を消したからこそ、レイフォルト殿下はわたしたちを探す以上のことができずにいるのでしょう? ルノーゼや国境のメイエス峠がどうなっているかはわかりませんけど、一緒にどうするか考えていきましょう」
そう言うとラピスは柔らかく微笑んだ。年下の少女のその笑みをラティルは眩しく思った。
(ああ……ラピスは繋ぎでもなければ、出来損ないでも何でもない。人の心に寄り添い、包み込める立派な聖女なんだ……)
そんな実感が唐突に自分の中に降りてきて、ラティルはふうっと息を吐いた。それと同時に、彼は自分で自分を追い詰めすぎて、上手に息ができていなかったことを知る。
「だから、ラティル様はもう少し力を抜いてください。せめて、今だけでも、少しだけ楽になさってください。ラティル様はひとりじゃないんですから。及ばずながら、わたしがラティル様のそばにいます」
「……ありがとう、ラピス」
ラティルはラピスの体をぐっと引き寄せると抱きしめた。「え、っと……ラティル様?」ラピスがラティルの腕の中で戸惑っていると、彼の手から空になった椀が転がり落ち、ことんと音を立てた。
「お前がいてくれて、よかった」
ラティルはラピスの耳元でそう囁いた。ラピスは何だかその感触がくすぐったくて、もう、と抗うように小さく声を漏らした。
「ごめん、あと少しだけ、こうしていてもいいか?」
仕方ないですね、とラピスは苦笑した。同時に彼女はずるいですよ、と胸中で呟いた。
子どもの頃から知っているその人の腕はいつの間にか、筋肉がつき、力強いものへと変わっていた。逞しい胸板から雄の気配を感じ取り、彼も男の人なのだとラピスはぼんやりと思った。
それでも自分に触れるその温もりを嫌だとはラピスは思わなかった。ラピスは昔よりは大きく広くなった彼の背中に触れると、安心させるようにぽんぽんと撫でた。
月が南の高い空に登るまで、二人はそうして寄り添い合っていた。虫たちの奏でる夜想曲に紛れるようにして、荻の声が響いていた。
「ラティル王子は玉璽を奪い、『星の聖女』を連れて逃走中ですか」
茶色の髪に茶褐色の目の、これといって外見に特徴を持たない客人は執務室の応接用のソファに腰掛け、手酌でワインをグラスに注ぎながら、困りましたねえと他人事のように口にした。殿下も飲みますか、と気安い調子で彼は自国から手土産に持ってきたワインのボトルの口をレイフォルトのほうへと向ける。
「……頂こう、ファルカス殿」
渋い顔でレイフォルトが頷くと、ファルカスは慣れた手つきでもう一方のグラスへと暗赤色の液体を注いでいく。
客人――ファルカス・コーウェンはシュメズ国の外交官だ。レベルラ帝国によって侵攻を受けた後も、その手腕を買われて彼(か)の国の元で働いている。
ファルカスとこうして密会を重ねるようになったのは、シュメズ国に嫁いだ伯母のエルミーラからの親書をこっそりとレイフォルトの元に彼が届けにきたのがきっかけだった。
エルミーラからの手紙には、レベルラ帝国に負けて属国となった国がどのような末路を下ったかということが認められていた。そして、アレーティア王国もこのままではシュメズ国や他の周辺国と同じ道を辿るのではないかと、手紙の上で彼女は故国の未来を憂慮していた。
エルミーラからの手紙を受けて、ファルカスはレベルラ帝国の特使としてレイフォルトにある提案をした。
――戦わずして、レベルラ帝国へと下るつもりはないか。いたずらに民を傷つけ、国を疲弊させる必要はないのではないか。
――自らレベルラ帝国に下るのであれば、この国が他国と同じ道を辿らないように上手く取り計らおう。税率や自治権についても優遇してもらえるように皇帝に掛け合ってやろう。
その言葉をただの甘言とレイフォルトは一蹴できなかった。伯母からの手紙に書かれていたシュメズ国の辿った末路はあまりにも悲惨だった。他の属国――ミザール帝国、エゼルテ公国、リーメル皇国の三国についても、明るい噂は全く耳にしない。
そんな悲惨な未来から、レイフォルトは国と民を守らねばならない。そうした王族としての義務感から、レイフォルトはファルカスの手を取った。
そして、先日、父王であるゼクトールを斃したこの革命により、事態は決定的に走り出してしまった。この国の未来を思うなら、レイフォルトが一刻も早く即位し、レベルラ帝国との間で交わした密約を履行するほかなかった。そのために、早くラティルを捕らえて玉璽と聖女を取り戻さねばならない。
「それで、レイフォルト殿下。ラティル王子の足取りは掴めそうなんですか」
「今はまだ。ミルベール公爵領には現れていないようだし、国境を越えてイフェルナ国へ密入国するつもりではないかと考えている。国境の検問を厳しくするように各地へと指示を出しておいた」
そう言うとレイフォルトはグラスの中のワインを口の中に含んだ。口の中に広がるワインの味は南の地方のものらしく、芳醇な果実味を孕んでいた。
「賢明なご判断です。ですが、ラティル王子たちが国外へ脱出するとして、それが陸路とは限りません。念のため、海路にも注意を払うことを私はおすすめしますよ」
「海路……レゼラルとオストヴァルトか。レゼラルを制圧するのは大した手間ではないが、オストヴァルトに手を出すのは……」
交易都市オストヴァルトはアレーティア王国の領内にありながらも、どこの国家の支配も受けない。治外法権にあるかの地をアレーティア王国の支配下に置くのは、商人たちからの大きな反発が予想された。
「この国のことを思うのならば、オストヴァルトのことなど些事に過ぎないでしょう。レイフォルト殿下、あなた以外に誰がこの国と民を守れるというのですか」
酒に酔わされたのか、耳触りの良い言葉に酔わされたのか。レイフォルトは口の中のワインを嚥下するとそうだな、と頷いた。
ワインを傾けながら、レイフォルトは頭の中でレゼラルとオストヴァルトへの派兵計画を練り始めた。
ワインボトルと一対のグラスが乗ったマホガニーのローテーブルの上ではキャンドルの火が揺れている。閉じられた厚手のカーテンには顔を寄せ合って話す男二人の姿が浮かび上がっていた。
それから数日、ラピスとラティルは、エトワールとクロエとしてミルベール公爵領を迂回するようにして南下を続けた。
幸いレイフォルト側には足取りを捕捉されてはいないらしく、道中でジリアーニ公爵家の兵士と遭遇することはなかった。
ルノーゼの街に入るときも、この辺りを治めるエンダース侯爵家の兵士が街の門を守っていただけで、追っ手の姿を目にすることはなかった。
ルノーゼの街で宿をとった二人は久方ぶりに旅の汚れを落とし、屋根のある場所で休息を取れることになった。しかし、宿屋の女主人によって通された部屋にはベッドが一つしかなく、どちらがベッドを使うかという問題が発生していた。
「ベッドはラティル様が使ってください。わたしがラティル様を差し置いてベッドで寝るわけにはいきませんから。わたしはあちらのソファで充分です」
ベッドを譲り渡すべくラピスがラティルの名前を連呼していると、「ちょっ、おまっ」ラティルはぎょっとした顔で慌ててラピスの口を手で塞いだ。きょとんとしてラピスが目を瞬かせていると、ラティルは彼女の耳元で早口に囁いた。
「大声でその名前を連呼するな。ここは壁も扉も薄い。この街にはまだジリアーニ公爵派の兵士は入り込んでいないようだが、俺がここにいることが知れるのはまずい。それと、宿の人が様子を見にくることもあるかもしれないから、ここにいる間も眠るとき以外はなるべくウィッグは取らないでいてくれ」
わかりましたかエトワール様、とラティルは顔を離しながら、女傭兵のクロエとして念を押した。
「あ、ああ……」
ラピスは着替えたときに外してしまっていた黒髪のウィッグの中に長い銀髪を押し込み直す。そして、ラピスは腰掛けていたベッドから窓際のソファへと移動すると、先ほどと同じ趣旨のことをエトワールとして言い直した。
「道中の僕の護衛でクロエは疲れているだろう? ベッドはクロエが使いなよ。僕はこっちで構わないから」
いけません、と赤毛のウィッグを被り直したラティルは首を横に振る。
「ベッドはエトワール様がお使いください。私こそ、そちらのソファで充分です」
だけど、とラピスがなおも反論しようとすると、ラティルが近づいてきて、彼女の頭の脇にどんと手をついた。
「……? クロエ?」
どうしたんだい、という言葉を最後まで言わせないまま、ラティルはラピスの白い清潔なシャツの背とダークブラウンのスラックスの膝裏に手を回すと持ち上げる。「ひゃっ」思わず裏返った声が口をついて出て、ラピスはラティルの首筋にしがみつく。そして、ラティルはラピスをベッドまで運んでいくと、シーツの上に華奢な体を横たえた。
「えっ、ちょっと」
ラピスが困惑していると、ラティルは腰に手を当て、高い位置から彼女の顔を見下ろしてくる。
「エトワール様がこちらでお休みください」
ソファのほうへ戻ろうとするラティルの服の袖をラピスは掴んで引き留める。
「クロエ。幸い、このベッドはそれなりの大きさがある。詰めれば二人で寝られないこともない」
ベッドの大きさはおそらくはセミダブルだ。ラピス自身は小柄だし、ラティルも筋肉はついていても細身の部類なので、一緒に寝ることは不可能ではないだろう。ぽんぽんとラティルの服を掴んでいるのとは反対の手でラピスがベッドを示してみせると、ラティルは大きく嘆息した。
ラピスが厚意でベッドを勧めてくれているのは百も承知だ。彼女に他意はなく、おそらく男女が同じベッドで一夜を過ごすことの意味に気づいていない。
(こうなるのが嫌で、俺はラピスにベッドを譲ろうとしたっていうのに、何でわかんねえかな……! この鈍感聖女……!)
ああもうと喚きたい思いに駆られながらもラティルはベッドの端に腰を下ろす。しかし、実際に騒げば何事かと宿の人間が確認に来てしまうかもしれないので、心の中に留めておく。
ラティルはなるべくラピスから距離を取るように気を配りながら、ベッドに横たわる。「……ラピス」
小さな声で彼女の名を呼ぶと、満天の夜空を映したような綺麗な双眸が何の邪気もなくラティルの顔を覗き込んだ。
「どうかされましたか?」
「お前な……絶対に俺以外のやつにこういうことするなよ。どうなっても知らねえからな」
「どういうことです?」
「自分で考えろ。お前なんてせいぜい悶々と考え込みながら寝ちまえばいいんだ」
思いがけず、棘のある言葉が口を飛び出した。しかし、仕方ないだろ、と内心で言い訳をしながらラティルはラピスに背を向ける。小さいころから気になって仕方がなかった女の子が同じベッドにいるこの状況で平静でいられるはずがない。
おやすみ、と小さな声で呟くとラティルは緑の目を閉じた。彼は眠りに落ちて行こうとする聴覚の表面で、おやすみなさいというラピスの戸惑いを帯びた声を聞いた気がした。
ラピスは軽く身体を起こすと、ベッドサイドに置かれたキャンドルを手のひらで扇ぎ消した。暗闇の中にはキャンドルのほのかに甘い花の香りと熱の残滓が揺らめいていた。
翌朝目覚めたラピスとラティルはそれぞれの役割にあった旅装に着替えると、宿屋の食堂で朝食を摂っていた。なぜかラティルと視線が妙に合わないのが気になったが、ラピスが何を聞いてものらりくらりと躱されるだけだった。
何だかなあ、と思いながらもラピスは手に持ったフォークとナイフでキノコのガレットを切り分けていく。切り分けた生地の端にキノコとベーコンを乗せて、ナイフで押さえながらフォークでくるくるとラピスはそれを巻いていく。
「あっ、おいしい」
ガレットを頬張るとラピスは瑠璃色の目を見張った。ぽろりとこぼれ落ちたラピスの本心からの言葉にラティルの口元がふっと綻んだ。朝から続いていたぎこちない雰囲気が崩れて消えていくのを感じる。
「エトワール坊っちゃん、メーニュ山脈で採れるキノコや山菜はこの街の特産品ですよ」
そうなのか、とラピスはラティルの言葉に相槌を打ちながら、サラダへとフォークを伸ばす。このサラダに使われている水菜も、おそらく窓の外に見えるメーニュ山脈で採れたというものだろう。しゃきしゃきとして、新鮮な味がする。
ラピスとラティルが朝食に舌鼓を打ち、食後の紅茶の馥郁とした香りを楽しんでいると、隣の席から会話が聞こえてきた。二人は目線を交わし合い、紅茶を味わうふりをしながら隣の会話に耳をそばだてる。
どうやら隣の席で食事をしているのは、行商人のようだった。彼は、今日メーニュ山脈経由で国境を越える予定だと、給仕をしている宿の女主人相手に話していた。
ラティルは紅茶を飲み終えると、客室に戻る旨を視線で知らせてきた。何か話したいのだろうと察したラピスはラティルの意を汲んで、
「クロエ。部屋に戻ろうか。僕たちも出発の準備をしないとね」
ラピスがそう言って立ち上がると、ラティルは頷いた。彼も席を立つと、客室のある階上へ戻るラピスを追って階段を登る。
ラピスとラティルは自分たちが宿泊している客室に戻り、扉をしっかりと閉める。今はほとんどの宿泊客が下の食堂で朝食を摂っているはずだが、念のために誰も入ってこられないように鍵をかけるとラピスは小声で切り出した。
「ラティル様。先ほどの商人の方、イフェルナ国へ向かうと言っておられましたね。いくらかお支払いして、馬車に同乗させてもらえないでしょうか?」
しかし、ラティルは駄目だと首を横に振った。
「国境のメイエス峠で検問があるだろ。兄上も俺たちの国外脱出を見越して国境には人員を割いているだろうし、馬鹿正直に乗せてもらうんじゃ簡単に見つかってしまう」
「でも、イフェルナ国へ向かうには今のところメーニュ山脈を越えるのが最善なんでしょう? だったらどうしたら……」
困惑でラピスの顔が曇る。しかし、ラティルは目の付けどころは悪くないとにっと笑ってみせた。
「俺に考えがある。おそらく、あの商人はメーニュ山脈に入る前に休憩を取る。山道を進むのは神経を使うからな。
あの商人には悪いが、その隙を狙って荷物を捨てて馬車に潜り込む。検問もどうせ全部の荷物を確認するわけじゃない、なるべく奥の方の木箱にでも隠れていればそう簡単には見つからないはずだ」
「なるほど……でも、あの商人の方には申し訳ない気もしますけど……」
諸手を挙げてラティルの案に賛同できないラピスに対し、彼も苦々しい表情を浮かべる。
「今はこうするしか国境を越える方法がない。俺もあの商人には悪いと思っているが、国の大事の前にはこのくらいの些事は目を瞑らないといけないこともある。割り切れとは言わないが、理解はしてくれ」
「わかり……ました」
ラピスは小さく呟いた。その歯切れの悪さから、彼女の現実との葛藤が透けて見えた。
ラティルはベッドの下から自分の荷物を引っ張り出して背負いながら、
「そういうわけだから、早く行くぞ。まだこの街での仕入れの時間なんかはあるだろうが、あの商人より先に休憩ポイントに回り込んでおかないといけない」
待ち伏せするってことですね、とラピスも自分の荷物をベッドの下から引っ張り出す。彼女は荷物を背負うと、まっすぐにラティルを見据えた。
「どのような方法を取るにしても、わたしはラティル様を信じます。たとえ決して褒められたものではなかったとしても、それが最善だというなら、わたしはラティル様の決めたことを信じます。
だから、祈りましょう。今日が終わるころには、わたしたちが無事にイフェルナ国のどこかにいることを。ラティル様の考えたこの作戦が成功することを」
ラピスの淀みのなく澄んだ言葉に、ラティルは一瞬呆けたように動きを止めた。やがて、彼は口元に弧を描いた。目には彼生来の勝気な明るさが宿っている。
「きっと大丈夫だ。何とかなる。何てったって、今代の聖女様が――他でもないお前が俺のことを信じてくれているんだからな。
俺はこの作戦を成功させるために最善を尽くす。だからラピス、お前も俺に力を貸してくれ」
「喜んで」
ラピスは微笑んだ。ラティルは少し照れたように彼女に笑みを返すと、鍵を開け、扉のドアノブに手をかける。
行くぞ、とラティルは扉を開け、廊下へと出る。ええ、と頷き返すと、ラピスはその背を追いかけた。
階下の食堂からは朝食時のざわめきが聞こえてくる。ラピスは廊下の突き当たりの窓から差し込んでくる秋の朝日を背に感じながら階段を降りていった。
ラピスとラティルは商人よりも先にルノーゼを発った。二時間、三時間と二人は金烏が東から南の高い空へと舞い上がっていくのを横目に国境方面へと街道を急いだ。
ラティルはメーニュ山脈の麓に池を見つけると、足を止めた。水面には色づき始めた山々が映り込んでいる。ラティルは地図を取り出して確認しながら、
「エトワール様、ここがメーニュ山脈に入る前の最後の水場――イリモフ池です。おそらくあの商人が休息を取るとしたらここでしょうし、あそこの茂みに隠れて待ちましょう」
「ああ」
ラティルが指で指し示した花の時期をとうにすぎたアセビの茂みへと二人は身を隠した。生い茂るアセビの葉の下でラティルはラピスへと囁く。
「今のうちに飯食っとけ。メーニュ山脈を越えるまでそれどころじゃないだろうからな」
そうですね、と頷くとラピスは自分の荷物からパンを取り出した。今日の朝食を気に入ったラピスが出発前に宿で買ってきた山菜とチーズのパンだった。
「よかったらこれ、一つ食べてください」
ラピスはラティルへとふたつあるパンのうちの一つを彼に手渡した。「ありがとう。もらう」ラティルはラピスからパンを受け取ると、それに齧り付く。王子とは思えない野性味のある所作にラピスは自分のパンをちぎりながらふふっと小さく笑った。
「何だよ」
「いえ……いつもより乱暴な食べ方をするのが珍しくて」
「ああ、これか。軍の模擬演習で行軍に参加したことがあるんだが、非常時には食事作法なんてクソ喰らえだって教えられたんだ。いつどこから敵に攻撃されるかわからない状況下では、食事なんてなるべくさっと済ませられるに越したことはないからな」
ラティルと知り合ってから十年以上が経つが、ラピスは王子としての彼しか知らない。しかし、そういう訓練をラピスの知らないところで受けていたのなら、それも当然のことかと腑に落ちた。確かにラティルの言う通り、戦場では食事作法なんてクソ喰らえだ。
二人がアセビの茂みに身を潜めてから一時間ほどが経ったが、朝、宿にいた商人は来なかった。代わりに、イフェルナ国側からメーニュ山脈を越えてきたらしい旅人の馬車がここを訪れ、しばらく人馬ともに休息をとっていった。それを見て、ここで山越えをする旅人たちが休憩をとっていく可能性は非常に高そうだと、二人は確信を強めた。
それからしばらくして、ルノーゼの街の方から馬車が近づいてくる音が聞こえてきた。ラティルがそっと街道の方を窺い見ると、馬車の御者席には今朝宿の食堂にいた商人の男が座っているのが確認できた。
「来たぞ。――作戦開始だ」
ラティルが耳打ちすると、ラピスは頷いた。地面に下ろしていた荷物を背負い直し、いつでも動けるように準備をする。
池のほとりに商人は馬車を止めると、御者台を降りた。商人が馬車を牽引するためのハーネスを馬から外してやると、馬は水を求めて池の方へと歩いていった。商人は近くの木の根元に腰を下ろすと、昼食らしきものを食べ始めた。
「ラピス、あの商人の注意を逸らしたい。どうにかしてあの馬を脅かすことはできないか?」
「わかりました。やってみます」
ラピスは茂みからほんの少し顔を出して、池で水を飲んでいる馬へと自分の利き手を向ける。利き手に集まった闇の魔力が黒い靄として可視化される。ラピスは小声で呪文を詠唱し始める。
「己が裡に眠りし畏れの記憶よ、絶望の歌を囁け! 《忘れじの旋律》」
ラピスの腕にまとわりついていた黒い靄が色なき風に乗って宙を泳ぎ、馬の耳を覆った。
刹那、それまで穏やかに池の水をのんびりと飲んでいた馬が嘶き、後ろ足で立ち上がった。耳を後ろに伏せた馬は、立ち上がったまま、何かに怯えるように嘶きを繰り返す。
「タウルス、どうした!?」
馬の異変に驚いたらしい商人は立ち上がると馬へと駆け寄った。商人は必死で馬を宥めるが、馬は興奮したまま落ち着く様子はない。
「今です!」
ラピスが合図をすると、ラティルは駆け出した。彼は商人に気づかれないように馬車の荷台を開け、手近な木箱から中の布袋をを引っ張り出す。ラピスもラティルを追いかけると、ずっしりと重い布袋を下ろすのを手伝った。
何か粉らしきものが詰まった布袋を五つほど茂みに隠すと、空になった木箱を荷台の奥に押し込み、二人は荷台へと乗り込んだ。荷台を閉め、二人は布袋の入っていた木箱の中に入ると蓋を閉めた。日の光が遮断され、二人の視界に闇が広がった。
「なあ、ラピス。あの馬に一体何をしたんだ?」
狭い空間で身を寄せ合うようにしながら、ラティルはラピスの耳元で疑問に思っていたことを聞いた。
「暗黒魔法であの馬に幻聴を聞かせたんです。おそらく、あの馬にとって一番怖いと思っている音が聞こえたはずですよ。何が聞こえたかまではわかりませんけれど」
「ふうん」
「そういえば、わたしたちが捨ててしまったあの袋、一体何が入っていたんでしょう?」
「中身がおそらく粉で、ルノーゼで仕入れて最後に積み込んだのだとすると、きっとサラザンだろうな」
「サラザンっていうと、今朝食べたガレットの生地に使われているっていう材料ですよね」
「そうだ。このエルダース侯爵領で採れるサラザンは質が良いことで有名だから、イフェルナ国の都市部で売り捌いておいしい思いをするつもりだったんだろう」
それなら本当に悪いことをしましたねとラピスが表情を曇らせたとき、がたん、と荷台が大きく揺れた。それから少し置いて前方の御者台の方に車体が一瞬傾くのを二人は感じた。商人が御者台に戻ったのだろう。
ヒュウ、と鞭がしなる音が聞こえる。おそらく馬が落ち着き、出発できる状態になったのだろう。
ごとりと荷台の下で車輪が動き出す音がした。最初こそ、荷台はがたごとと揺れていたが、街道に出ると馬車の動きは滑らかなものに変わっていった。
馬車の向かう先にはメーニュ山脈がある。無事に国境を越えられるようにとラピスは心から祈った。
メーニュ山脈へと入り、しばらくがたごとと揺れる山道を進んでいた馬車が緩やかに減速し始めていた。
おそらくこの馬車はもうすぐ止まる。国境のメイエス峠が近いのだろう。
「ラピス、たぶんもうすぐ検問だ。物音を立てないようにしろよ」
ラティルの忠告にラピスはわかりましたと首を縦に振った。
ほどなくして、馬車が止まった。おそらくメイエス峠に着いたのだろう。馬車の外で兵士と商人が話しているらしい声が聞こえてくる。
「私は行商を営んでいるアルデンという者でして、この先、イフェルナ国内をレーセズ、ラマルネン、ヴァサリア、スラリース、フロンデ、首都イフィリアと回る予定です」
「なるほど、それでは通行証を見せろ」
御者台でがさがさと紙を広げるような音がした。おそらくアルデンが兵士に通行証を見せているのだろう。
「いいだろう。それでは、不審なものがないか荷台を検めさせていただく」
はい、というアルデンが了承の返事をすると、兵士たちによって荷台が乱暴に開けられる音がした。
がさがさと荷物が漁られる音がする。がたごととあちらこちらの木箱が開けられる音がする。きっとこんなところまでは確認されないだろうとはわかっていても、荷台の中に物音が響くたびに背に冷や汗が伝うのをラピスは感じていた。
荷台を検めるといっても、手前の荷物をいくつか確認する程度の形式的なものだとばかり思っていた。それにしては随分と時間がかかっているような気がする。なんだ、とラティルは訝しげに眉根を寄せる。
「あの……随分と念入りに確認されるんですね? 何か不審な点でもありましたか?」
妙だと感じていたのはアルデンも同様だったようで、作業を続ける兵士たちに御者台から彼はそう問うた。いつもはもっとさらっとしか確認されないのか、彼の声には戸惑いが滲んでいる。
兵士は香辛料の小包が詰まった木箱の中身を確認する手を止めると、こう言った。
「国王陛下を殺害した逆賊、ラティル王子が聖女を連れて逃亡しているらしくてな。国外脱出を試みる可能性があるため、こうして検問を厳しくさせてもらっている。荷物のどこかに紛れ込んでいるかもしれないのでな」
兵士の意識がアルデンに向いている隙に、音を立てないように気を配りながら、ラティルはわずかに木箱の蓋を持ち上げて外を伺い見た。
アルデンと話している兵士の鎧にはジリアーニ公爵家の紋章が刻まれていた。おそらく、ラティルがこうすることを読んでいて、レイフォルトはこのような対応に打って出たのだろう。もしかすると、ルノーゼにジリアーニ公爵派の兵士の姿がなかったのはラティルたちを油断させるためのブラフであった可能性すらある。ラティルは唇を噛むと兵士に気づかれないように木箱の蓋を閉めた。
「ラピス。やっぱりここにも兄上の手が回っている。おそらく奴らは全部の荷物を確認するつもりだろう。だからここは見つかる前に強行突破しようと思う」
ラティルは腰に下げた剣の柄に手をかける。いつでも兵士たちの不意をついて飛び出していけるように彼は姿勢を低くする。
待ってください、とラピスはラティルの服の袖を引いた。
「ここで騒ぎになれば、イフェルナ国に入ってからもわたしたちは確実に追われ続けることになります。わたしたちの旅をそんなものにしないためにも、ここは手荒な真似は控えてください。わたしがどうにかします」
ラピスは利き手の人差し指を立てると自身の魔力を集中させる。術の支点となるものが安定性のある杖でなく自身の指というのが心許なくはあるが、この場にいる兵士をどうにかすることくらいはできる。
「幽世の母よ、揺蕩う夜の褥へ迷える子らを導け! 《遠き日の子守唄》」
小声でラピスは呪文を紡ぐ。彼女の指にまとわりついていた魔力の靄は黒い光となって、目の前の板を貫いた。
しばらくして、ごん、と荷台の上に鈍い音が響いた。
「……何をしたんだ?」
ラピスの耳元でラティルは訝しげに問うた。ラピスは彼へと囁き返す。
「眠らせただけです。この人を荷台から下ろしてもらってもいいですか?」
ああ、と小さく頷き返すとラティルは木箱の中から這い出した。荷台の中で気を失って倒れている兵士の足を掴むと、ラティルは兵士をぞんざいに引き摺り落とした。どさ、と峠道の草むらに兵士の体が落ちる音がする。
ここは国境の要所の一つだ。他にも見張りの兵士がいるはずだったが、反応する様子はない。おそらく兵士たち全員が、ラピスの魔法の影響下にあるのだろう。
「先から騒がしいが何なんだ? あまり荷台を荒らさないでくれよ」
物音を訝ったらしいアルデンの声が前方の御者台から聞こえた。ラティルは手で喉を押さえ、荷物を調べていた兵士のものに声色を似せると、
「ああ、悪い、何でもない。それよりもう行っていいぞ。時間をとらせて悪かったな」
そう言うとラティルは内側から馬車の荷台を閉めた。暗闇に包まれた荷台の中、ラティルは目を凝らしながら慎重にラピスのいる木箱の元へと戻った。
ラティルが再び木箱の中に身を潜め、蓋を閉じると、御者台でヒュンと鞭がしなる音がした。がたん、と馬車が揺れ二人の下で車輪が回り始める。
こうして、自身が運んでいる厄介な荷物の存在に気付かぬまま、アルデンの馬車は国境を越え、峠道を下り始めた。馬車の行手では、青空にうっすらと夕方の金色が混ざり始め、一日の終わりが近づきつつあることを告げていた。
馬車が止まったのは、メーニュ山脈を抜けてしばらく進んだ街道外れでのことだった。水場が近いのか、川のせせらぎが聞こえてくる。
ギィ、と御者台が軋み、荷台が揺れた。おそらくアルデンが御者台を下りたのだろう。
「よし、タウルス、よく頑張ったな。今日はもう休んでていいぞ」
馬からハーネスを外しているのか、かちゃかちゃと馬車の外から金具の音が漏れ聞こえてくる。ほどなくして荷台が揺れ、どこかへと向かう蹄の音が遠ざかっていった。
「どうやら今日はここで野営にするみたいだな」
「レーセズまで行かないんですか?」
ラティルの言葉にラピスは首を傾げた。
「行かない、というより行けない、が正しいな。あの商人だって、今日中にレーセズまで行きたかっただろうが、メイエス峠で随分と時間をとられたからな。無理に夜道を進むよりはここで休んだほうが賢明だ。山道に入る前にイリモフ池畔(ちはん)で休憩を挟んでいるとはいえ、馬も疲れているだろうしな」
「なるほど……それで、わたしたちはどうするんですか?」
「夜中になってあの商人が寝静まるのを待って、俺たちはここを脱出する。メーニュ山脈からまだそう離れていないということは、ここはたぶんミヴェロン川の辺りだろう。川沿いに進んで、まずはヴァロール湖の東にあるシルヴラフトを目指す」
ラティルの打ち出した方針に、ラピスはあれ、と疑問の声を上げた。
「わたしたちはレーセズには行かないんですか?」
「あの商人が、兵士たちにレーセズへ向かうと言ってしまっていたからな。たぶん、今ごろメイエス峠はお前がやった集団催眠のせいで問題が起きているだろう。未許可のまま国境を越えた行商人の馬車がいるってな。もしかしたら、その件で追手がかかるかもしれない。それなら、若干遠回りでも今は一度シルヴラフトのほうを目指したほうがいい」
わかりました、とラピスは頷いた。ルフィナの元で安全を保証してもらえるまでは、慎重に動くしかない。
そのときがちゃりと荷台の後ろが空いた。びくり、とラピスは木箱の中で体を強張らせた。「大丈夫だ、静かにしてろ」警戒するラピスの耳元でラティルは囁いた。
「あー……あんにゃろう、随分とぐちゃぐちゃにしてくれやがって……」
アルデンのぼやく声がした。彼はがさがさと荷物の整理を始め、ラピスは思わずラティルの服の袖に縋り付いた。
しばらくアルデンはメイエス峠での検閲の際にぐちゃぐちゃにされた荷物を整理していたが、その手がラピスとラティルが潜む木箱に及ぶことはなかった。アルデンは野営に必要な火を起こす道具や食べ物、毛布などを取り出すと、荷台を閉めた。見つからなかったことにラピスは安堵で胸を撫で下ろした。
「夜中になったら出発する。だから、しばらく休んでおけ。俺も少し寝る」
そう言うとラティルは緑の目を閉じ、ラピスの肩に自分の体を預けた。その横顔には濃い疲労の色が滲んでいる。これだけ日々緊張を強いられ続けていることを考えると当然のことだった。
ラピスも瑠璃の瞳を閉じ、しばらく遠くにある眠気の気配に身を委ねていると、ぱちぱちと火が爆ぜる音を聴覚の表面が捉えた。おそらくアルデンが野営の準備をしているのだろう。
いつの間にか空はすっかり藍色に包まれ、夜の様相を見せ始めていた。夜の訪れに抗うように、残照がメーニュ山脈の稜線を浮かび上がらせている。
ラピスとラティルは、木箱の中で身を寄せ合ったまま夜が更けるのを待ち続けた。
深更の南の高い空に月の船が浮かんでいた。アルデンは眠りについているのか、虫と風の奏でる歌の隙間から小さくいびきが聞こえている。
「ラピス、起きろ」
ラティルは自分に体を預けているラピスの無防備な寝顔に顔を寄せると、小声で囁いた。「……ん……ラティル、さま……?」ラピスはむにゃむにゃとそんなことを口にしながら、うっすらと瑠璃色の目を開ける。銀色のまつ毛の間から覗く瑠璃の虹彩はまだ眠いのかいまいち焦点が定まっていない。
「行くぞ、ラピス。あの商人が眠っている今のうちにここを発つ」
「ふぁ、ふぁい……」
欠伸を噛み殺しながら返事をすると、ラピスは眠たげに手で目元を擦る。ラティルは自分の分とまとめてまだ眠そうな様子のラピスの荷物も担ぐと、木箱の蓋を開ける。
「っと」
ラティルは二人分の荷物を持ったまま、軽い身のこなしで木箱から出た。彼は眠気で足元がおぼつかない様子のラピスに手を貸して、彼女が木箱から出るのを手伝ってやる。
なるべく音を立てないように気を配りながら、ラティルは内側から荷台を開けた。荷台から川畔の草むらにラティルは飛び降りる。ほら、とラティルが促すとラピスも彼に倣って荷台から飛び降りた。がさり、と音が鳴り川辺の木の下で座って眠っていた馬がびくりと立ち上がり、目と耳をこちらに向ける。
ほーほー、とラティルは敵意がないことを示すように低い声を出す。馬はじっと大きな目でこちらを見つめていたが、騒ぐことはなかった。
「行くぞ」
ラティルは開けたときと同じように音に気をつけながら荷台の後ろを閉める。傍らのラピスを促すと、焚き火のそばで毛布にくるまって眠るアルデンやこちらを警戒している馬から遠ざかるように、ミヴェロン川に沿って歩き出す。ラピスは暗闇の中、先を歩くラティルの背を追いかけた。
イフェルナ国の夜空に浮かぶ星々の図形はほんの少しだけアレーティア王国で見るものとは違う。それでも唯一変わることのない北の一つ星を目指して、二人は闇の中を歩き続けた。
翌朝、アルデンが野営の始末をし、出発の準備をしていると、二騎の兵士が彼を訪ねてきた。一人はジリアーニ公爵家の紋章をつけた鎧を、もう一人はイフェルナ国軍の紋章が刺繍された軍服を身に纏っている。
「――アルデン・メルキースだな。貴殿にいくつか訊ねたいことがある」
ジリアーニ公爵家の紋章をつけた軍人は下馬すると、尊大な態度でアルデンへと話しかけてきた。彼は通行記録が記入された書類を取り出して、アルデンの鼻先に突きつけると、こう告げた。
「昨日、貴殿が不正に国境であるメイエス峠を通過した疑いがある」
突きつけられた書類には、昨日の日付でアルデンの名前が記されているが、検問について記録と通行の可否についての記録が空欄になっていた。
「しかし、私は昨日、問題がないから通っていいと言われましたよ」
戸惑いながらアルデンが反論すると、ジリアーニ公爵家の軍人はふうむと腕組みをした。それ以上、追及してこないのは、向こうにも何か後ろめたい事情でもあるのだろう。
「もう一つ聞きたいことがある。貴殿は昨日、メーニュ山脈に立ち入る前に、イリモフ池に立ち寄ったか?」
思い直したようにそう聞いてくるジリアーニ公爵家の軍人に、ええまあとアルデンは曖昧に頷いた。すると、思いもよらないことを軍人は口にした。
「貴殿の荷物でなくなっているものはないか? 昨日の夕刻、イリモフ池畔の茂みでサラザンが五袋ほど発見された」
「サラザンが……?」
アルデンは眉を顰めた。確かに昨日、イフェルナ国内で売るために、自分はルノーゼでいくらかサラザンを仕入れていた。そんなまさか、と思いながらもアルデンは確認のために荷台の後ろを開け、積荷を検めていく。
「あ、れ……?」
サラザンの入った木箱の数を数えながら、アルデンは顔を強張らせた。昨夜は疲れていて気づかなかったが、明らかにサラザンが一箱足りない。
そんなはずないだろ、と思いながらアルデンは荷台を奥の方まで調べていく。すると、荷台の一番奥から空の木箱が出てきて、アルデンは固まった。
「なんで……」
アルデンがそう呟くと、やはりなと近づいてきたジリアーニ公爵家の軍人はとんでもないことを口にした。
「貴殿の馬車は、逃亡中の反逆者であるラティル王子と聖女の国境越えのために利用された疑いがある。ウィンウッド准尉殿、貴国側にも反逆者の捜索をご協力願えないだろうか?」
ウィンウッドと呼ばれたイフェルナ国側の軍人は、承知いたしましたと慇懃に頭を下げる。
「気には留めておくようにいたしましょう。それらしき人物を見かけたら貴国へとご連絡差し上げます」
他国の厄介ごとに積極的に関わりたくないのかウィンウッドは協力に関する明言をそれとなく避けた。
アルデンは自分がいつの間にかとんでもないことに巻き込まれていたらしいことを悟り、頭を抱える。ハーネスに繋がれて出発を待っていた馬は、主人の様子に異変を覚えたらしくちらちらと視線と耳でこちらの様子を伺っている。あまりのことに呆然とする彼の背を秋めいた朝の日差しが照らしていた。
「クロエ、どうかしたのか?」
人通りはないが、ラピスは念のため、エトワールとしてラティルにそう聞いた。ラティルは無理やり作った裏声でこう言った。
「エトワール坊ちゃん、どうやらこの先は既にジリアーニ公爵派の手に落ちているようです」
「……え?」
ラピスは瑠璃色の目を瞬いた。
「どういうことですか……じゃなかった、どういうことだ?」
ラピスは自分の設定を忘れそうになりながら、ラティルに問い返した。ラティルは緑の目を細め、視線の先を探りながら、言葉を続ける。
「あの橋を越えればミルベール公爵領に入りますが、あそこにいる兵士はジリアーニ公爵派の者です。あの鎧に入っている紋章はジリアーニ公爵家のものですから」
そんな、とラピスは落胆でため息をついた。
「じゃあ、ミルベール公爵は……?」
「よくて監禁、悪ければ殺されているでしょうね」
ラピスの横で、赤毛の女傭兵に扮したラティルは淡々とそう言った。しかし、橋の先を見つめる眼光は鋭く、悔しさが滲み出ている。くそ、とラティルが小さく毒付くのが聞こえた。
旅の支度のため、二人はエヴェラムで馬を売ってしまっていた。徒歩での旅となってしまった二人より先回りし、レイフォルト側がミルベール公爵領を攻め落とすことは大いにあり得ることだった。レイフォルトに読まれてしまうような甘い手しか打てないでいる自分がラティルは情けなくて仕方なかった。こうしてラピスを巻き込んだにも関わらず、何もできずにレイフォルトの掌の上で踊らされているだけなのがひどくもどかしい。
「クロエ、アテが外れてしまったけれど、これからどうしようか?」
ラピスはあくまでもエトワールとクロエとしての会話を続けながら、今後の方針をラティルへと問うた。彼はぎりぎりと歯を食いしばって視線の先を睨みつけると、押し殺した声でこう告げた。
「東へ向かいましょう。国境を越え、イフェルナ国を目指そうと思いますが、いかがでしょうか、エトワール坊ちゃん」
イフェルナ国。ラピスはその言葉が意味することに気づく。
「なるほど。クロエのお姉さんを頼るということか」
その通りです、とラティルは頷いた。
クロエ、もといラティルの姉――元アレーティア王国第一王女のルフィナは、四年前に隣国であるイフェルナ国へと嫁いでいる。ミルベール公爵家を頼ることができなくなった今、自分たちが頼れるのは彼女しかいなかった。
「行こう、クロエ。イフェルナ国へ」
はい、とラティルは返事をする。ラピスのほうへと向けられた彼の緑色の双眸には怒りと決意の炎がゆらゆらと揺れていた。
「……絶対に、取り戻す。今は無理でも、絶対にグラナータを解放してみせる……!」
素のラティルとしての噛み付くようなその言葉にラピスは何も言えなかった。今の彼に何を言っても、安い慰めにしかならないような気がした。
首を洗って待っていろ、そう吐き捨てるとラティルは遠くに見え始めていたグラナータの街並みに背を向け、歩き始めた。
ラピスは旅装のマントを翻し、ラティルについて踵を返す。
グラナータの街は血のような夕焼けに包まれ、遠ざかっていく二人の背を見送っていた。二人が進む道の先では夜の闇がぽっかりと口を開けて待ち構えていた。
その日の夜、グラナータから距離を取ったラピスとラティルは街道から少し外れた小川のほとりで野宿をしていた。
以前にエヴェラムでラピスが調達してきた干し肉を二人は焚き火で炙って齧っていた。
「……ラティル様、すみませんでした。グラナータがレイフォルト殿下によって陥されていたというのに、何もできなくて」
ラピスは素の口調に戻って、今日の出来事をラティルへと詫びた。杖がない以上、自分の暗黒魔法を駆使して彼とともにグラナータへ突入するという選択肢は取れなかった。仕方ないとはわかっていても、聖女とは名ばかりでラティルのために何もできない無力な自分がラピスは口惜しかった。自分が亡き母のように皆から一目置かれるような立派な聖女であったなら、杖などなくともジリアーニ公爵側に政治的な取り引きを持ちかけ、グラナータを取り返すことだってできたかもしれない。
「別にラピスが悪いわけじゃない。俺の想定が甘かっただけだ」
ラティルは干し肉を飲み込むとかぶりを振った。今は赤毛のウィッグは脇に下ろされ、露わになった艶やかな金髪が星明かりを受けて静かな煌めきを放っている。
「それにしても……イフェルナ国を目指すと言ってもどうするんですか? このまま真っ直ぐ東を目指せればよかったんですけど、ミルベール公爵領を通るわけにはいきませんし」
そうだな、と相槌を打つとラティルは自分の荷物から地図を取り出し、ラピスにも見えるように広げてみせる。
「このままミルベール公爵領を迂回して、南のルノーゼを目指そうかと思っている。イフェルナ国に入るルートは陸路と海路があるが、海路を取るのは時間がかかりすぎる。このままメーニュ山脈を越えてイフェルナ国へ入るルートを取ろうと思う」
「なるほど」
現在、自分たちがいるのはグラナータの南東の街道の外れだ。ここから北の港町へ向かうのは時間がかかりすぎるし、目指すべきイフェルナ国の首都・イフィリアも比較的南の内陸寄りだ。時間が経てば経つほど、国内の要所要所の警戒は厳しくなり、レイフォルトを旗頭としたジリアーニ公爵派の支配下に置かれる街も増えていくことは容易に予想できる。それならば、現在地から考えて最短と思われる、南東から山を越えるルートを採るのは賢明な判断だと言えた。
ラピスは自分も肉を食べ終えると、鍋に湯を沸かし始めた。そこに野営の準備をしているときに見つけた小さな紫色の花とすぅっとした匂いを放つ緑色の花を入れてラピスは煮出していく。
ラピスはふつふつと小さな泡を立てる液体を濾すと、椀の中に注ぐ。彼女は一瞬考え込むそぶりを見せたが、荷物の中から琥珀色の液体が入った小瓶を出してくると、中身を一滴ずつ椀の中に垂らした。
「ラティル様。どうぞ」
ラピスは二つある椀のうちの一つをラティルへと差し出すと微笑んだ。
「飲むと気持ちが落ち着くお茶ですよ。聖フロレンシア教会秘伝のブレンドなんです」
ラピスの言葉にはっとして、ラティルは彼女を見た。自分はそんなにも思い詰めた顔をしていたということなのだろうか。
「ありがとう。もらう」
ラティルは差し出された椀を受け取ると口をつける。口の中を清涼感と優しい甘みが満たし、少しずつ心の波が凪いでいくのを感じた。ラティルはぽつぽつと椀を傾けながら言葉をこぼし始めた。冷たい風が露わになったラティルの金髪とラピスの銀髪をぐしゃりとかき混ぜていく。
「ルノーゼ経由でイフェルナ国へ行く。これが今の俺がやらないといけないことだってことくらいわかってるんだ。だけど、ルノーゼもグラナータと同じように兄上の手に陥ちていたらどうしようと、イフェルナ国へ無事に渡れなかったらどうしようと思うと、気持ちばかりが急いてしまう」
そうですか、とラピスは相槌を打つと、ラティルに話の続きを促した。
「凡庸な俺と違って、兄上は昔から聡い方だ。俺たちが今どこにいるかまではわからずとも、行きそうなところくらいは簡単に見当がつくんだろう。
兄上が、この国をレベルラ帝国に売り渡すことを提案し始めたときだってそうだ。理屈では兄上が正しいのかもしれないけれど、陛下も俺も……何より民が許さないと思った。
レベルラ帝国に下れば、多くの民が苦しめられる。それをわかっていて、兄上の案を受け入れることは陛下は絶対にしなかった。俺にもう少し力があれば……伯父上たちと連携して、兄上の動きを阻止できていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
「ラティル様」
ラピスは夜空と同じ色の瞳でラティルをまっすぐに見つめた。ラピスは地面に茶の入った椀を置くと、そっとラティルの腕に触れる。
「そんなふうに自分を責めないでください。ラティル様は今、自分がなすべきことをしっかりと果たされています。ラティル様が国璽を持ち、わたしと共に王都から姿を消したからこそ、レイフォルト殿下はわたしたちを探す以上のことができずにいるのでしょう? ルノーゼや国境のメイエス峠がどうなっているかはわかりませんけど、一緒にどうするか考えていきましょう」
そう言うとラピスは柔らかく微笑んだ。年下の少女のその笑みをラティルは眩しく思った。
(ああ……ラピスは繋ぎでもなければ、出来損ないでも何でもない。人の心に寄り添い、包み込める立派な聖女なんだ……)
そんな実感が唐突に自分の中に降りてきて、ラティルはふうっと息を吐いた。それと同時に、彼は自分で自分を追い詰めすぎて、上手に息ができていなかったことを知る。
「だから、ラティル様はもう少し力を抜いてください。せめて、今だけでも、少しだけ楽になさってください。ラティル様はひとりじゃないんですから。及ばずながら、わたしがラティル様のそばにいます」
「……ありがとう、ラピス」
ラティルはラピスの体をぐっと引き寄せると抱きしめた。「え、っと……ラティル様?」ラピスがラティルの腕の中で戸惑っていると、彼の手から空になった椀が転がり落ち、ことんと音を立てた。
「お前がいてくれて、よかった」
ラティルはラピスの耳元でそう囁いた。ラピスは何だかその感触がくすぐったくて、もう、と抗うように小さく声を漏らした。
「ごめん、あと少しだけ、こうしていてもいいか?」
仕方ないですね、とラピスは苦笑した。同時に彼女はずるいですよ、と胸中で呟いた。
子どもの頃から知っているその人の腕はいつの間にか、筋肉がつき、力強いものへと変わっていた。逞しい胸板から雄の気配を感じ取り、彼も男の人なのだとラピスはぼんやりと思った。
それでも自分に触れるその温もりを嫌だとはラピスは思わなかった。ラピスは昔よりは大きく広くなった彼の背中に触れると、安心させるようにぽんぽんと撫でた。
月が南の高い空に登るまで、二人はそうして寄り添い合っていた。虫たちの奏でる夜想曲に紛れるようにして、荻の声が響いていた。
「ラティル王子は玉璽を奪い、『星の聖女』を連れて逃走中ですか」
茶色の髪に茶褐色の目の、これといって外見に特徴を持たない客人は執務室の応接用のソファに腰掛け、手酌でワインをグラスに注ぎながら、困りましたねえと他人事のように口にした。殿下も飲みますか、と気安い調子で彼は自国から手土産に持ってきたワインのボトルの口をレイフォルトのほうへと向ける。
「……頂こう、ファルカス殿」
渋い顔でレイフォルトが頷くと、ファルカスは慣れた手つきでもう一方のグラスへと暗赤色の液体を注いでいく。
客人――ファルカス・コーウェンはシュメズ国の外交官だ。レベルラ帝国によって侵攻を受けた後も、その手腕を買われて彼(か)の国の元で働いている。
ファルカスとこうして密会を重ねるようになったのは、シュメズ国に嫁いだ伯母のエルミーラからの親書をこっそりとレイフォルトの元に彼が届けにきたのがきっかけだった。
エルミーラからの手紙には、レベルラ帝国に負けて属国となった国がどのような末路を下ったかということが認められていた。そして、アレーティア王国もこのままではシュメズ国や他の周辺国と同じ道を辿るのではないかと、手紙の上で彼女は故国の未来を憂慮していた。
エルミーラからの手紙を受けて、ファルカスはレベルラ帝国の特使としてレイフォルトにある提案をした。
――戦わずして、レベルラ帝国へと下るつもりはないか。いたずらに民を傷つけ、国を疲弊させる必要はないのではないか。
――自らレベルラ帝国に下るのであれば、この国が他国と同じ道を辿らないように上手く取り計らおう。税率や自治権についても優遇してもらえるように皇帝に掛け合ってやろう。
その言葉をただの甘言とレイフォルトは一蹴できなかった。伯母からの手紙に書かれていたシュメズ国の辿った末路はあまりにも悲惨だった。他の属国――ミザール帝国、エゼルテ公国、リーメル皇国の三国についても、明るい噂は全く耳にしない。
そんな悲惨な未来から、レイフォルトは国と民を守らねばならない。そうした王族としての義務感から、レイフォルトはファルカスの手を取った。
そして、先日、父王であるゼクトールを斃したこの革命により、事態は決定的に走り出してしまった。この国の未来を思うなら、レイフォルトが一刻も早く即位し、レベルラ帝国との間で交わした密約を履行するほかなかった。そのために、早くラティルを捕らえて玉璽と聖女を取り戻さねばならない。
「それで、レイフォルト殿下。ラティル王子の足取りは掴めそうなんですか」
「今はまだ。ミルベール公爵領には現れていないようだし、国境を越えてイフェルナ国へ密入国するつもりではないかと考えている。国境の検問を厳しくするように各地へと指示を出しておいた」
そう言うとレイフォルトはグラスの中のワインを口の中に含んだ。口の中に広がるワインの味は南の地方のものらしく、芳醇な果実味を孕んでいた。
「賢明なご判断です。ですが、ラティル王子たちが国外へ脱出するとして、それが陸路とは限りません。念のため、海路にも注意を払うことを私はおすすめしますよ」
「海路……レゼラルとオストヴァルトか。レゼラルを制圧するのは大した手間ではないが、オストヴァルトに手を出すのは……」
交易都市オストヴァルトはアレーティア王国の領内にありながらも、どこの国家の支配も受けない。治外法権にあるかの地をアレーティア王国の支配下に置くのは、商人たちからの大きな反発が予想された。
「この国のことを思うのならば、オストヴァルトのことなど些事に過ぎないでしょう。レイフォルト殿下、あなた以外に誰がこの国と民を守れるというのですか」
酒に酔わされたのか、耳触りの良い言葉に酔わされたのか。レイフォルトは口の中のワインを嚥下するとそうだな、と頷いた。
ワインを傾けながら、レイフォルトは頭の中でレゼラルとオストヴァルトへの派兵計画を練り始めた。
ワインボトルと一対のグラスが乗ったマホガニーのローテーブルの上ではキャンドルの火が揺れている。閉じられた厚手のカーテンには顔を寄せ合って話す男二人の姿が浮かび上がっていた。
それから数日、ラピスとラティルは、エトワールとクロエとしてミルベール公爵領を迂回するようにして南下を続けた。
幸いレイフォルト側には足取りを捕捉されてはいないらしく、道中でジリアーニ公爵家の兵士と遭遇することはなかった。
ルノーゼの街に入るときも、この辺りを治めるエンダース侯爵家の兵士が街の門を守っていただけで、追っ手の姿を目にすることはなかった。
ルノーゼの街で宿をとった二人は久方ぶりに旅の汚れを落とし、屋根のある場所で休息を取れることになった。しかし、宿屋の女主人によって通された部屋にはベッドが一つしかなく、どちらがベッドを使うかという問題が発生していた。
「ベッドはラティル様が使ってください。わたしがラティル様を差し置いてベッドで寝るわけにはいきませんから。わたしはあちらのソファで充分です」
ベッドを譲り渡すべくラピスがラティルの名前を連呼していると、「ちょっ、おまっ」ラティルはぎょっとした顔で慌ててラピスの口を手で塞いだ。きょとんとしてラピスが目を瞬かせていると、ラティルは彼女の耳元で早口に囁いた。
「大声でその名前を連呼するな。ここは壁も扉も薄い。この街にはまだジリアーニ公爵派の兵士は入り込んでいないようだが、俺がここにいることが知れるのはまずい。それと、宿の人が様子を見にくることもあるかもしれないから、ここにいる間も眠るとき以外はなるべくウィッグは取らないでいてくれ」
わかりましたかエトワール様、とラティルは顔を離しながら、女傭兵のクロエとして念を押した。
「あ、ああ……」
ラピスは着替えたときに外してしまっていた黒髪のウィッグの中に長い銀髪を押し込み直す。そして、ラピスは腰掛けていたベッドから窓際のソファへと移動すると、先ほどと同じ趣旨のことをエトワールとして言い直した。
「道中の僕の護衛でクロエは疲れているだろう? ベッドはクロエが使いなよ。僕はこっちで構わないから」
いけません、と赤毛のウィッグを被り直したラティルは首を横に振る。
「ベッドはエトワール様がお使いください。私こそ、そちらのソファで充分です」
だけど、とラピスがなおも反論しようとすると、ラティルが近づいてきて、彼女の頭の脇にどんと手をついた。
「……? クロエ?」
どうしたんだい、という言葉を最後まで言わせないまま、ラティルはラピスの白い清潔なシャツの背とダークブラウンのスラックスの膝裏に手を回すと持ち上げる。「ひゃっ」思わず裏返った声が口をついて出て、ラピスはラティルの首筋にしがみつく。そして、ラティルはラピスをベッドまで運んでいくと、シーツの上に華奢な体を横たえた。
「えっ、ちょっと」
ラピスが困惑していると、ラティルは腰に手を当て、高い位置から彼女の顔を見下ろしてくる。
「エトワール様がこちらでお休みください」
ソファのほうへ戻ろうとするラティルの服の袖をラピスは掴んで引き留める。
「クロエ。幸い、このベッドはそれなりの大きさがある。詰めれば二人で寝られないこともない」
ベッドの大きさはおそらくはセミダブルだ。ラピス自身は小柄だし、ラティルも筋肉はついていても細身の部類なので、一緒に寝ることは不可能ではないだろう。ぽんぽんとラティルの服を掴んでいるのとは反対の手でラピスがベッドを示してみせると、ラティルは大きく嘆息した。
ラピスが厚意でベッドを勧めてくれているのは百も承知だ。彼女に他意はなく、おそらく男女が同じベッドで一夜を過ごすことの意味に気づいていない。
(こうなるのが嫌で、俺はラピスにベッドを譲ろうとしたっていうのに、何でわかんねえかな……! この鈍感聖女……!)
ああもうと喚きたい思いに駆られながらもラティルはベッドの端に腰を下ろす。しかし、実際に騒げば何事かと宿の人間が確認に来てしまうかもしれないので、心の中に留めておく。
ラティルはなるべくラピスから距離を取るように気を配りながら、ベッドに横たわる。「……ラピス」
小さな声で彼女の名を呼ぶと、満天の夜空を映したような綺麗な双眸が何の邪気もなくラティルの顔を覗き込んだ。
「どうかされましたか?」
「お前な……絶対に俺以外のやつにこういうことするなよ。どうなっても知らねえからな」
「どういうことです?」
「自分で考えろ。お前なんてせいぜい悶々と考え込みながら寝ちまえばいいんだ」
思いがけず、棘のある言葉が口を飛び出した。しかし、仕方ないだろ、と内心で言い訳をしながらラティルはラピスに背を向ける。小さいころから気になって仕方がなかった女の子が同じベッドにいるこの状況で平静でいられるはずがない。
おやすみ、と小さな声で呟くとラティルは緑の目を閉じた。彼は眠りに落ちて行こうとする聴覚の表面で、おやすみなさいというラピスの戸惑いを帯びた声を聞いた気がした。
ラピスは軽く身体を起こすと、ベッドサイドに置かれたキャンドルを手のひらで扇ぎ消した。暗闇の中にはキャンドルのほのかに甘い花の香りと熱の残滓が揺らめいていた。
翌朝目覚めたラピスとラティルはそれぞれの役割にあった旅装に着替えると、宿屋の食堂で朝食を摂っていた。なぜかラティルと視線が妙に合わないのが気になったが、ラピスが何を聞いてものらりくらりと躱されるだけだった。
何だかなあ、と思いながらもラピスは手に持ったフォークとナイフでキノコのガレットを切り分けていく。切り分けた生地の端にキノコとベーコンを乗せて、ナイフで押さえながらフォークでくるくるとラピスはそれを巻いていく。
「あっ、おいしい」
ガレットを頬張るとラピスは瑠璃色の目を見張った。ぽろりとこぼれ落ちたラピスの本心からの言葉にラティルの口元がふっと綻んだ。朝から続いていたぎこちない雰囲気が崩れて消えていくのを感じる。
「エトワール坊っちゃん、メーニュ山脈で採れるキノコや山菜はこの街の特産品ですよ」
そうなのか、とラピスはラティルの言葉に相槌を打ちながら、サラダへとフォークを伸ばす。このサラダに使われている水菜も、おそらく窓の外に見えるメーニュ山脈で採れたというものだろう。しゃきしゃきとして、新鮮な味がする。
ラピスとラティルが朝食に舌鼓を打ち、食後の紅茶の馥郁とした香りを楽しんでいると、隣の席から会話が聞こえてきた。二人は目線を交わし合い、紅茶を味わうふりをしながら隣の会話に耳をそばだてる。
どうやら隣の席で食事をしているのは、行商人のようだった。彼は、今日メーニュ山脈経由で国境を越える予定だと、給仕をしている宿の女主人相手に話していた。
ラティルは紅茶を飲み終えると、客室に戻る旨を視線で知らせてきた。何か話したいのだろうと察したラピスはラティルの意を汲んで、
「クロエ。部屋に戻ろうか。僕たちも出発の準備をしないとね」
ラピスがそう言って立ち上がると、ラティルは頷いた。彼も席を立つと、客室のある階上へ戻るラピスを追って階段を登る。
ラピスとラティルは自分たちが宿泊している客室に戻り、扉をしっかりと閉める。今はほとんどの宿泊客が下の食堂で朝食を摂っているはずだが、念のために誰も入ってこられないように鍵をかけるとラピスは小声で切り出した。
「ラティル様。先ほどの商人の方、イフェルナ国へ向かうと言っておられましたね。いくらかお支払いして、馬車に同乗させてもらえないでしょうか?」
しかし、ラティルは駄目だと首を横に振った。
「国境のメイエス峠で検問があるだろ。兄上も俺たちの国外脱出を見越して国境には人員を割いているだろうし、馬鹿正直に乗せてもらうんじゃ簡単に見つかってしまう」
「でも、イフェルナ国へ向かうには今のところメーニュ山脈を越えるのが最善なんでしょう? だったらどうしたら……」
困惑でラピスの顔が曇る。しかし、ラティルは目の付けどころは悪くないとにっと笑ってみせた。
「俺に考えがある。おそらく、あの商人はメーニュ山脈に入る前に休憩を取る。山道を進むのは神経を使うからな。
あの商人には悪いが、その隙を狙って荷物を捨てて馬車に潜り込む。検問もどうせ全部の荷物を確認するわけじゃない、なるべく奥の方の木箱にでも隠れていればそう簡単には見つからないはずだ」
「なるほど……でも、あの商人の方には申し訳ない気もしますけど……」
諸手を挙げてラティルの案に賛同できないラピスに対し、彼も苦々しい表情を浮かべる。
「今はこうするしか国境を越える方法がない。俺もあの商人には悪いと思っているが、国の大事の前にはこのくらいの些事は目を瞑らないといけないこともある。割り切れとは言わないが、理解はしてくれ」
「わかり……ました」
ラピスは小さく呟いた。その歯切れの悪さから、彼女の現実との葛藤が透けて見えた。
ラティルはベッドの下から自分の荷物を引っ張り出して背負いながら、
「そういうわけだから、早く行くぞ。まだこの街での仕入れの時間なんかはあるだろうが、あの商人より先に休憩ポイントに回り込んでおかないといけない」
待ち伏せするってことですね、とラピスも自分の荷物をベッドの下から引っ張り出す。彼女は荷物を背負うと、まっすぐにラティルを見据えた。
「どのような方法を取るにしても、わたしはラティル様を信じます。たとえ決して褒められたものではなかったとしても、それが最善だというなら、わたしはラティル様の決めたことを信じます。
だから、祈りましょう。今日が終わるころには、わたしたちが無事にイフェルナ国のどこかにいることを。ラティル様の考えたこの作戦が成功することを」
ラピスの淀みのなく澄んだ言葉に、ラティルは一瞬呆けたように動きを止めた。やがて、彼は口元に弧を描いた。目には彼生来の勝気な明るさが宿っている。
「きっと大丈夫だ。何とかなる。何てったって、今代の聖女様が――他でもないお前が俺のことを信じてくれているんだからな。
俺はこの作戦を成功させるために最善を尽くす。だからラピス、お前も俺に力を貸してくれ」
「喜んで」
ラピスは微笑んだ。ラティルは少し照れたように彼女に笑みを返すと、鍵を開け、扉のドアノブに手をかける。
行くぞ、とラティルは扉を開け、廊下へと出る。ええ、と頷き返すと、ラピスはその背を追いかけた。
階下の食堂からは朝食時のざわめきが聞こえてくる。ラピスは廊下の突き当たりの窓から差し込んでくる秋の朝日を背に感じながら階段を降りていった。
ラピスとラティルは商人よりも先にルノーゼを発った。二時間、三時間と二人は金烏が東から南の高い空へと舞い上がっていくのを横目に国境方面へと街道を急いだ。
ラティルはメーニュ山脈の麓に池を見つけると、足を止めた。水面には色づき始めた山々が映り込んでいる。ラティルは地図を取り出して確認しながら、
「エトワール様、ここがメーニュ山脈に入る前の最後の水場――イリモフ池です。おそらくあの商人が休息を取るとしたらここでしょうし、あそこの茂みに隠れて待ちましょう」
「ああ」
ラティルが指で指し示した花の時期をとうにすぎたアセビの茂みへと二人は身を隠した。生い茂るアセビの葉の下でラティルはラピスへと囁く。
「今のうちに飯食っとけ。メーニュ山脈を越えるまでそれどころじゃないだろうからな」
そうですね、と頷くとラピスは自分の荷物からパンを取り出した。今日の朝食を気に入ったラピスが出発前に宿で買ってきた山菜とチーズのパンだった。
「よかったらこれ、一つ食べてください」
ラピスはラティルへとふたつあるパンのうちの一つを彼に手渡した。「ありがとう。もらう」ラティルはラピスからパンを受け取ると、それに齧り付く。王子とは思えない野性味のある所作にラピスは自分のパンをちぎりながらふふっと小さく笑った。
「何だよ」
「いえ……いつもより乱暴な食べ方をするのが珍しくて」
「ああ、これか。軍の模擬演習で行軍に参加したことがあるんだが、非常時には食事作法なんてクソ喰らえだって教えられたんだ。いつどこから敵に攻撃されるかわからない状況下では、食事なんてなるべくさっと済ませられるに越したことはないからな」
ラティルと知り合ってから十年以上が経つが、ラピスは王子としての彼しか知らない。しかし、そういう訓練をラピスの知らないところで受けていたのなら、それも当然のことかと腑に落ちた。確かにラティルの言う通り、戦場では食事作法なんてクソ喰らえだ。
二人がアセビの茂みに身を潜めてから一時間ほどが経ったが、朝、宿にいた商人は来なかった。代わりに、イフェルナ国側からメーニュ山脈を越えてきたらしい旅人の馬車がここを訪れ、しばらく人馬ともに休息をとっていった。それを見て、ここで山越えをする旅人たちが休憩をとっていく可能性は非常に高そうだと、二人は確信を強めた。
それからしばらくして、ルノーゼの街の方から馬車が近づいてくる音が聞こえてきた。ラティルがそっと街道の方を窺い見ると、馬車の御者席には今朝宿の食堂にいた商人の男が座っているのが確認できた。
「来たぞ。――作戦開始だ」
ラティルが耳打ちすると、ラピスは頷いた。地面に下ろしていた荷物を背負い直し、いつでも動けるように準備をする。
池のほとりに商人は馬車を止めると、御者台を降りた。商人が馬車を牽引するためのハーネスを馬から外してやると、馬は水を求めて池の方へと歩いていった。商人は近くの木の根元に腰を下ろすと、昼食らしきものを食べ始めた。
「ラピス、あの商人の注意を逸らしたい。どうにかしてあの馬を脅かすことはできないか?」
「わかりました。やってみます」
ラピスは茂みからほんの少し顔を出して、池で水を飲んでいる馬へと自分の利き手を向ける。利き手に集まった闇の魔力が黒い靄として可視化される。ラピスは小声で呪文を詠唱し始める。
「己が裡に眠りし畏れの記憶よ、絶望の歌を囁け! 《忘れじの旋律》」
ラピスの腕にまとわりついていた黒い靄が色なき風に乗って宙を泳ぎ、馬の耳を覆った。
刹那、それまで穏やかに池の水をのんびりと飲んでいた馬が嘶き、後ろ足で立ち上がった。耳を後ろに伏せた馬は、立ち上がったまま、何かに怯えるように嘶きを繰り返す。
「タウルス、どうした!?」
馬の異変に驚いたらしい商人は立ち上がると馬へと駆け寄った。商人は必死で馬を宥めるが、馬は興奮したまま落ち着く様子はない。
「今です!」
ラピスが合図をすると、ラティルは駆け出した。彼は商人に気づかれないように馬車の荷台を開け、手近な木箱から中の布袋をを引っ張り出す。ラピスもラティルを追いかけると、ずっしりと重い布袋を下ろすのを手伝った。
何か粉らしきものが詰まった布袋を五つほど茂みに隠すと、空になった木箱を荷台の奥に押し込み、二人は荷台へと乗り込んだ。荷台を閉め、二人は布袋の入っていた木箱の中に入ると蓋を閉めた。日の光が遮断され、二人の視界に闇が広がった。
「なあ、ラピス。あの馬に一体何をしたんだ?」
狭い空間で身を寄せ合うようにしながら、ラティルはラピスの耳元で疑問に思っていたことを聞いた。
「暗黒魔法であの馬に幻聴を聞かせたんです。おそらく、あの馬にとって一番怖いと思っている音が聞こえたはずですよ。何が聞こえたかまではわかりませんけれど」
「ふうん」
「そういえば、わたしたちが捨ててしまったあの袋、一体何が入っていたんでしょう?」
「中身がおそらく粉で、ルノーゼで仕入れて最後に積み込んだのだとすると、きっとサラザンだろうな」
「サラザンっていうと、今朝食べたガレットの生地に使われているっていう材料ですよね」
「そうだ。このエルダース侯爵領で採れるサラザンは質が良いことで有名だから、イフェルナ国の都市部で売り捌いておいしい思いをするつもりだったんだろう」
それなら本当に悪いことをしましたねとラピスが表情を曇らせたとき、がたん、と荷台が大きく揺れた。それから少し置いて前方の御者台の方に車体が一瞬傾くのを二人は感じた。商人が御者台に戻ったのだろう。
ヒュウ、と鞭がしなる音が聞こえる。おそらく馬が落ち着き、出発できる状態になったのだろう。
ごとりと荷台の下で車輪が動き出す音がした。最初こそ、荷台はがたごとと揺れていたが、街道に出ると馬車の動きは滑らかなものに変わっていった。
馬車の向かう先にはメーニュ山脈がある。無事に国境を越えられるようにとラピスは心から祈った。
メーニュ山脈へと入り、しばらくがたごとと揺れる山道を進んでいた馬車が緩やかに減速し始めていた。
おそらくこの馬車はもうすぐ止まる。国境のメイエス峠が近いのだろう。
「ラピス、たぶんもうすぐ検問だ。物音を立てないようにしろよ」
ラティルの忠告にラピスはわかりましたと首を縦に振った。
ほどなくして、馬車が止まった。おそらくメイエス峠に着いたのだろう。馬車の外で兵士と商人が話しているらしい声が聞こえてくる。
「私は行商を営んでいるアルデンという者でして、この先、イフェルナ国内をレーセズ、ラマルネン、ヴァサリア、スラリース、フロンデ、首都イフィリアと回る予定です」
「なるほど、それでは通行証を見せろ」
御者台でがさがさと紙を広げるような音がした。おそらくアルデンが兵士に通行証を見せているのだろう。
「いいだろう。それでは、不審なものがないか荷台を検めさせていただく」
はい、というアルデンが了承の返事をすると、兵士たちによって荷台が乱暴に開けられる音がした。
がさがさと荷物が漁られる音がする。がたごととあちらこちらの木箱が開けられる音がする。きっとこんなところまでは確認されないだろうとはわかっていても、荷台の中に物音が響くたびに背に冷や汗が伝うのをラピスは感じていた。
荷台を検めるといっても、手前の荷物をいくつか確認する程度の形式的なものだとばかり思っていた。それにしては随分と時間がかかっているような気がする。なんだ、とラティルは訝しげに眉根を寄せる。
「あの……随分と念入りに確認されるんですね? 何か不審な点でもありましたか?」
妙だと感じていたのはアルデンも同様だったようで、作業を続ける兵士たちに御者台から彼はそう問うた。いつもはもっとさらっとしか確認されないのか、彼の声には戸惑いが滲んでいる。
兵士は香辛料の小包が詰まった木箱の中身を確認する手を止めると、こう言った。
「国王陛下を殺害した逆賊、ラティル王子が聖女を連れて逃亡しているらしくてな。国外脱出を試みる可能性があるため、こうして検問を厳しくさせてもらっている。荷物のどこかに紛れ込んでいるかもしれないのでな」
兵士の意識がアルデンに向いている隙に、音を立てないように気を配りながら、ラティルはわずかに木箱の蓋を持ち上げて外を伺い見た。
アルデンと話している兵士の鎧にはジリアーニ公爵家の紋章が刻まれていた。おそらく、ラティルがこうすることを読んでいて、レイフォルトはこのような対応に打って出たのだろう。もしかすると、ルノーゼにジリアーニ公爵派の兵士の姿がなかったのはラティルたちを油断させるためのブラフであった可能性すらある。ラティルは唇を噛むと兵士に気づかれないように木箱の蓋を閉めた。
「ラピス。やっぱりここにも兄上の手が回っている。おそらく奴らは全部の荷物を確認するつもりだろう。だからここは見つかる前に強行突破しようと思う」
ラティルは腰に下げた剣の柄に手をかける。いつでも兵士たちの不意をついて飛び出していけるように彼は姿勢を低くする。
待ってください、とラピスはラティルの服の袖を引いた。
「ここで騒ぎになれば、イフェルナ国に入ってからもわたしたちは確実に追われ続けることになります。わたしたちの旅をそんなものにしないためにも、ここは手荒な真似は控えてください。わたしがどうにかします」
ラピスは利き手の人差し指を立てると自身の魔力を集中させる。術の支点となるものが安定性のある杖でなく自身の指というのが心許なくはあるが、この場にいる兵士をどうにかすることくらいはできる。
「幽世の母よ、揺蕩う夜の褥へ迷える子らを導け! 《遠き日の子守唄》」
小声でラピスは呪文を紡ぐ。彼女の指にまとわりついていた魔力の靄は黒い光となって、目の前の板を貫いた。
しばらくして、ごん、と荷台の上に鈍い音が響いた。
「……何をしたんだ?」
ラピスの耳元でラティルは訝しげに問うた。ラピスは彼へと囁き返す。
「眠らせただけです。この人を荷台から下ろしてもらってもいいですか?」
ああ、と小さく頷き返すとラティルは木箱の中から這い出した。荷台の中で気を失って倒れている兵士の足を掴むと、ラティルは兵士をぞんざいに引き摺り落とした。どさ、と峠道の草むらに兵士の体が落ちる音がする。
ここは国境の要所の一つだ。他にも見張りの兵士がいるはずだったが、反応する様子はない。おそらく兵士たち全員が、ラピスの魔法の影響下にあるのだろう。
「先から騒がしいが何なんだ? あまり荷台を荒らさないでくれよ」
物音を訝ったらしいアルデンの声が前方の御者台から聞こえた。ラティルは手で喉を押さえ、荷物を調べていた兵士のものに声色を似せると、
「ああ、悪い、何でもない。それよりもう行っていいぞ。時間をとらせて悪かったな」
そう言うとラティルは内側から馬車の荷台を閉めた。暗闇に包まれた荷台の中、ラティルは目を凝らしながら慎重にラピスのいる木箱の元へと戻った。
ラティルが再び木箱の中に身を潜め、蓋を閉じると、御者台でヒュンと鞭がしなる音がした。がたん、と馬車が揺れ二人の下で車輪が回り始める。
こうして、自身が運んでいる厄介な荷物の存在に気付かぬまま、アルデンの馬車は国境を越え、峠道を下り始めた。馬車の行手では、青空にうっすらと夕方の金色が混ざり始め、一日の終わりが近づきつつあることを告げていた。
馬車が止まったのは、メーニュ山脈を抜けてしばらく進んだ街道外れでのことだった。水場が近いのか、川のせせらぎが聞こえてくる。
ギィ、と御者台が軋み、荷台が揺れた。おそらくアルデンが御者台を下りたのだろう。
「よし、タウルス、よく頑張ったな。今日はもう休んでていいぞ」
馬からハーネスを外しているのか、かちゃかちゃと馬車の外から金具の音が漏れ聞こえてくる。ほどなくして荷台が揺れ、どこかへと向かう蹄の音が遠ざかっていった。
「どうやら今日はここで野営にするみたいだな」
「レーセズまで行かないんですか?」
ラティルの言葉にラピスは首を傾げた。
「行かない、というより行けない、が正しいな。あの商人だって、今日中にレーセズまで行きたかっただろうが、メイエス峠で随分と時間をとられたからな。無理に夜道を進むよりはここで休んだほうが賢明だ。山道に入る前にイリモフ池畔(ちはん)で休憩を挟んでいるとはいえ、馬も疲れているだろうしな」
「なるほど……それで、わたしたちはどうするんですか?」
「夜中になってあの商人が寝静まるのを待って、俺たちはここを脱出する。メーニュ山脈からまだそう離れていないということは、ここはたぶんミヴェロン川の辺りだろう。川沿いに進んで、まずはヴァロール湖の東にあるシルヴラフトを目指す」
ラティルの打ち出した方針に、ラピスはあれ、と疑問の声を上げた。
「わたしたちはレーセズには行かないんですか?」
「あの商人が、兵士たちにレーセズへ向かうと言ってしまっていたからな。たぶん、今ごろメイエス峠はお前がやった集団催眠のせいで問題が起きているだろう。未許可のまま国境を越えた行商人の馬車がいるってな。もしかしたら、その件で追手がかかるかもしれない。それなら、若干遠回りでも今は一度シルヴラフトのほうを目指したほうがいい」
わかりました、とラピスは頷いた。ルフィナの元で安全を保証してもらえるまでは、慎重に動くしかない。
そのときがちゃりと荷台の後ろが空いた。びくり、とラピスは木箱の中で体を強張らせた。「大丈夫だ、静かにしてろ」警戒するラピスの耳元でラティルは囁いた。
「あー……あんにゃろう、随分とぐちゃぐちゃにしてくれやがって……」
アルデンのぼやく声がした。彼はがさがさと荷物の整理を始め、ラピスは思わずラティルの服の袖に縋り付いた。
しばらくアルデンはメイエス峠での検閲の際にぐちゃぐちゃにされた荷物を整理していたが、その手がラピスとラティルが潜む木箱に及ぶことはなかった。アルデンは野営に必要な火を起こす道具や食べ物、毛布などを取り出すと、荷台を閉めた。見つからなかったことにラピスは安堵で胸を撫で下ろした。
「夜中になったら出発する。だから、しばらく休んでおけ。俺も少し寝る」
そう言うとラティルは緑の目を閉じ、ラピスの肩に自分の体を預けた。その横顔には濃い疲労の色が滲んでいる。これだけ日々緊張を強いられ続けていることを考えると当然のことだった。
ラピスも瑠璃の瞳を閉じ、しばらく遠くにある眠気の気配に身を委ねていると、ぱちぱちと火が爆ぜる音を聴覚の表面が捉えた。おそらくアルデンが野営の準備をしているのだろう。
いつの間にか空はすっかり藍色に包まれ、夜の様相を見せ始めていた。夜の訪れに抗うように、残照がメーニュ山脈の稜線を浮かび上がらせている。
ラピスとラティルは、木箱の中で身を寄せ合ったまま夜が更けるのを待ち続けた。
深更の南の高い空に月の船が浮かんでいた。アルデンは眠りについているのか、虫と風の奏でる歌の隙間から小さくいびきが聞こえている。
「ラピス、起きろ」
ラティルは自分に体を預けているラピスの無防備な寝顔に顔を寄せると、小声で囁いた。「……ん……ラティル、さま……?」ラピスはむにゃむにゃとそんなことを口にしながら、うっすらと瑠璃色の目を開ける。銀色のまつ毛の間から覗く瑠璃の虹彩はまだ眠いのかいまいち焦点が定まっていない。
「行くぞ、ラピス。あの商人が眠っている今のうちにここを発つ」
「ふぁ、ふぁい……」
欠伸を噛み殺しながら返事をすると、ラピスは眠たげに手で目元を擦る。ラティルは自分の分とまとめてまだ眠そうな様子のラピスの荷物も担ぐと、木箱の蓋を開ける。
「っと」
ラティルは二人分の荷物を持ったまま、軽い身のこなしで木箱から出た。彼は眠気で足元がおぼつかない様子のラピスに手を貸して、彼女が木箱から出るのを手伝ってやる。
なるべく音を立てないように気を配りながら、ラティルは内側から荷台を開けた。荷台から川畔の草むらにラティルは飛び降りる。ほら、とラティルが促すとラピスも彼に倣って荷台から飛び降りた。がさり、と音が鳴り川辺の木の下で座って眠っていた馬がびくりと立ち上がり、目と耳をこちらに向ける。
ほーほー、とラティルは敵意がないことを示すように低い声を出す。馬はじっと大きな目でこちらを見つめていたが、騒ぐことはなかった。
「行くぞ」
ラティルは開けたときと同じように音に気をつけながら荷台の後ろを閉める。傍らのラピスを促すと、焚き火のそばで毛布にくるまって眠るアルデンやこちらを警戒している馬から遠ざかるように、ミヴェロン川に沿って歩き出す。ラピスは暗闇の中、先を歩くラティルの背を追いかけた。
イフェルナ国の夜空に浮かぶ星々の図形はほんの少しだけアレーティア王国で見るものとは違う。それでも唯一変わることのない北の一つ星を目指して、二人は闇の中を歩き続けた。
翌朝、アルデンが野営の始末をし、出発の準備をしていると、二騎の兵士が彼を訪ねてきた。一人はジリアーニ公爵家の紋章をつけた鎧を、もう一人はイフェルナ国軍の紋章が刺繍された軍服を身に纏っている。
「――アルデン・メルキースだな。貴殿にいくつか訊ねたいことがある」
ジリアーニ公爵家の紋章をつけた軍人は下馬すると、尊大な態度でアルデンへと話しかけてきた。彼は通行記録が記入された書類を取り出して、アルデンの鼻先に突きつけると、こう告げた。
「昨日、貴殿が不正に国境であるメイエス峠を通過した疑いがある」
突きつけられた書類には、昨日の日付でアルデンの名前が記されているが、検問について記録と通行の可否についての記録が空欄になっていた。
「しかし、私は昨日、問題がないから通っていいと言われましたよ」
戸惑いながらアルデンが反論すると、ジリアーニ公爵家の軍人はふうむと腕組みをした。それ以上、追及してこないのは、向こうにも何か後ろめたい事情でもあるのだろう。
「もう一つ聞きたいことがある。貴殿は昨日、メーニュ山脈に立ち入る前に、イリモフ池に立ち寄ったか?」
思い直したようにそう聞いてくるジリアーニ公爵家の軍人に、ええまあとアルデンは曖昧に頷いた。すると、思いもよらないことを軍人は口にした。
「貴殿の荷物でなくなっているものはないか? 昨日の夕刻、イリモフ池畔の茂みでサラザンが五袋ほど発見された」
「サラザンが……?」
アルデンは眉を顰めた。確かに昨日、イフェルナ国内で売るために、自分はルノーゼでいくらかサラザンを仕入れていた。そんなまさか、と思いながらもアルデンは確認のために荷台の後ろを開け、積荷を検めていく。
「あ、れ……?」
サラザンの入った木箱の数を数えながら、アルデンは顔を強張らせた。昨夜は疲れていて気づかなかったが、明らかにサラザンが一箱足りない。
そんなはずないだろ、と思いながらアルデンは荷台を奥の方まで調べていく。すると、荷台の一番奥から空の木箱が出てきて、アルデンは固まった。
「なんで……」
アルデンがそう呟くと、やはりなと近づいてきたジリアーニ公爵家の軍人はとんでもないことを口にした。
「貴殿の馬車は、逃亡中の反逆者であるラティル王子と聖女の国境越えのために利用された疑いがある。ウィンウッド准尉殿、貴国側にも反逆者の捜索をご協力願えないだろうか?」
ウィンウッドと呼ばれたイフェルナ国側の軍人は、承知いたしましたと慇懃に頭を下げる。
「気には留めておくようにいたしましょう。それらしき人物を見かけたら貴国へとご連絡差し上げます」
他国の厄介ごとに積極的に関わりたくないのかウィンウッドは協力に関する明言をそれとなく避けた。
アルデンは自分がいつの間にかとんでもないことに巻き込まれていたらしいことを悟り、頭を抱える。ハーネスに繋がれて出発を待っていた馬は、主人の様子に異変を覚えたらしくちらちらと視線と耳でこちらの様子を伺っている。あまりのことに呆然とする彼の背を秋めいた朝の日差しが照らしていた。



