月のない夜だった。空は暗雲に覆われ、夜空を彩る星々は姿を隠しているというのに、赤い凶星だけがその存在をやけに主張している。
 何だか嫌な感じがする。長い銀の髪を靡かせながら扉を押し開け、ラピスは礼拝堂の中へと足を踏み入れた。
 ラピス――ラピスラズリ・フローライトはこの聖フロレンシア教会に属する、当代の聖女である。細かな金色の星が散りばめられたような不思議な印象の瑠璃色の瞳にちなみ、彼女は『星の聖女』と渾名されていた。
 ラピスの生家であるフローライト家は、代々教会の聖女を輩出してきた一族だ。四年前、彼女は十二歳のときに、母で先代聖女であったエスメラルダの後を継いで聖女となった。
 しかし、聖女とは名ばかりで、ラピスには神聖魔法を扱うことができなかった。血筋を保つために近親相姦を繰り返してきた結果、遺伝子異常のため、ラピスは神聖魔法を扱うための素質を持たずにこの世に生まれてきてしまった。そのため、ラピスは次の世代に聖女の血を繋ぐためだけに生かされていた。
 ラピスは小さな炎が揺れる手燭を持ち、暗い礼拝堂の中を進んでいく。中央の通路の左右に列をなすチャーチベンチの間を歩き、祭壇の前まで来るとラピスは床へと跪いた。手燭を床に置くと、ラピスは小さな灯りでぼんやりと浮かび上がるステンドグラスに描かれた聖女フロレンシアの姿を見つめ、両手を合わせる。
(どうか、何事もなく平和な日々が続きますように……明日も明後日も、この国の人々が平穏に暮らしていけますように……)
 聖女としての力を持たないラピスのささやかな祈りなど、神に届くことはない。それでも、西の大国の影がちらつくようになっている以上、人々が一日でも長く今のままの暮らしを続けていけるようにと祈らずにはいられない。
 かつての戦乱の時代、大いなるその力をもってこの国に平和をもたらしたという、フローライト家の始祖にして、初代聖女であったフロレンシア。名ばかりの聖女である自分では、この国を、無辜の民たちを守ることなど叶わない。
 祈りを捧げ終え、あまりにちっぽけな己の存在を恥じながらラピスが、杖を掲げ持つフロレンシアの姿を眺めていると、突然外側から乱暴に扉が開かれた。
「――誰?」
 ラピスは背後を振り返り、誰何を問うた。床に置いた手燭を掲げながら、彼女は床から立ち上がる。
 何者だろう。賊だろうか。聖職者としての体裁を取り繕うためだけに教会から与えられている自分の杖は自室に置いてきてしまった。
(……どうしよう)
 ラピスは歯噛みする。彼女は一瞬の逡巡の後、礼拝堂の入り口に立つ人影へと向けて利き手を向けた。
 ラピスの利き手に黒い靄が纏わりつき始める。その色は暗闇の中にいてなお、はっきりとわかるほどに禍々しい闇の色をしていた。
「影よ、大地より出でて――」
 ラピスの薄紅色の唇から何者かを縛めるための呪詛がこぼれ落ちる。彼女は自分の体の内側で、闇を纏った己の魔力が練り上げられていくのを感じた。
 ラピスが扱えるのは神聖魔法ではなく、暗黒魔法の類だ。彼女が得手としているのは、闇の力を操って相手の行動を阻害する類の魔法や、死霊術や呪詛などといった、聖女には不似合いなものばかりだった。
「ラピス! 待て! 俺だ!」
 礼拝堂の入り口に立つ人影から発されたのは、焦ったような知り合いの声だった。聞き覚えのある人物の声に、ラピスは詠唱を中断する。
「……ラティル様?」
 なぜ、この国の第二王子である彼がこんな時間にこんなところにいるのだろう。訝しげに思いながらも、ラピスは手燭を持って彼の方へと向かっていく。
 小さな灯が金髪緑眼の青年の姿を照らしだした。ゆらゆらと揺れる灯りを反射して、彼の全身がちらちらと小さな煌めきを放つ。
 ふいにラピスはラティルが血の匂いをさせていることに気づいた。そして、同時にラティルの体のいたるところできらきらと光っているものの正体がガラスの欠片であることに彼女は気がついた。
「ラティル様! 一体どうしたんですか! そんなに怪我をされて……!」
 今救急箱を持ってきます、とラピスはラティルを押し除けて礼拝堂の外へ出ようとする。しかし、待て、とラティルは彼女を押し留めた。
「俺のことはいい。――そんなことよりもラピス、お前に頼みがある」
 ラティルは緑の瞳で頭ひとつ分低い位置にあるラピスの顔を見据えた。自分を見るラティルの目は真剣そのもので、ラピスは何も言えなくなる。緊迫した面持ちで、ラティルが口にした言葉はとんでもないものだった。
「ラピス、何も聞かずに俺と一緒に来てくれないか。どうしても、お前が必要なんだ。――頼む」
 そう懇願するラティルにラピスはただならぬものを感じた。ラピスの知らないところで、何かが起きている。
 ラティルの身に一体何が起きているのかはわからない。けれど、ラピスは彼の頼みを断る気にはなれなかった。
 ラピスはラティルと、隣国のイフェルナ国に嫁いでいった彼の姉・ルフィナに大恩がある。
 ラピスが神聖魔法の代わりに暗黒魔法の才能を最初に示したのは、彼女が三歳のときだった。飼っていた小鳥が死んでしまい、悲しみに暮れていた幼いラピスは無意識のうちにその身に宿した力を揮ってしまった。
 ラピスの力により、土の下へと弔ったはずの小鳥は生ける屍となって甦った。ラピスのしでかした所業が知れ渡ると、教会中は騒然となった。
 気味が悪い、悪魔の子だとラピスは教会の関係者たちから忌み嫌われるようになった。これまで守ってきた血筋のことなどかなぐり捨て、ラピスに代わる次の聖女候補を産ませるために、フローライト家の者たちは毎晩のように彼女の母のエスメラルダにどこの馬の骨とも知れない不特定多数の男たちとまぐあわせるようになった。
 他に次代の聖女としての候補がいない以上、ラピスが命を脅かされることはなかった。しかし、教会の人々から口さがない悪口を言われたり、石を投げられたりといった嫌がらせを受け、ラピスは孤立し、幼い心に傷を作った。
 そんな折に礼拝のために、ルフィナとラティルがこの礼拝堂を訪れた。この姉弟の母は第二王妃のエルシーネであり、聖フロレンシア教会はエルシーネの生家であるミルベール公爵家からの多額の寄進によって支えられていた。
 ラピスの境遇を知ったルフィナは、教会の者たちによるラピスへの仕打ちを糾弾し、ラピスを庇った。ラティルは二つしか年が違わないにもかかわらず、しゃんとしろ、顔を上げろとラピスのことを叱ってくれた。
 こうして、王族の二人と縁を持ち、彼らに守られるようになったラピスに対し、教会の人々が表立って嫌がらせをしてくることはなくなった。ミルベール公爵家の不興を買い、後ろ盾を失うことを恐れたがゆえのことだった。
 ラピスが十二歳で聖女となるまで、彼女は彼らの庇護下にありつづけた。
 エスメラルダは梅毒が原因でこの世を去ったが、彼女は生涯でラピス以外に子を生さなかった石女(うまずめ)だった。
 エスメラルダの死によって、ラピスの地位は確固たるものとなった。正式に聖女となるまでの九年間を支えてくれたのは、紛れもなくルフィナとラティルであり、ラピスはそのことに今も感謝していた。
(事情はわからない。けれど、今こそラティル様たちから受けた恩をお返しするべきときなんだわ。わたしは……ラティル様と行く)
 ラピスは意を決して、瑠璃色の瞳でラティルの顔を見返した。そして、彼女は静かに首を縦に振った。
「わかりました」
「ありがとう。悪いな、ラピス」
 バツが悪そうな顔でラティルは感謝と謝罪の言葉を口にすると、ラピスの手を掴んだ。ラピスはラティルに手を引かれるまま、彼とともに礼拝堂の建物を出た。
「……え?」
 目に飛び込んできた光景が信じられなくて、ラピスは思わず声を漏らした。礼拝堂の周りを軍服を着た兵士たちが包囲している。
「ラティル王子! 陛下を殺害した容疑で拘束する!」
 兵士の言葉にラティルはちっと舌打ちをした。どうやらレイフォルトは、ゼクトールを殺害した罪を自分になすりつけるつもりらしい。
「陛下を殺害って一体どういう……!」
 今しがた耳にした言葉が信じられなくて、ラピスは声を上げた。昔からよく知っている、まっすぐな心根の友人がそんなことをするはずがない。ラピスはそう信じたかった。
「違う、俺じゃない。ラピス、後で全部説明する。だけど、今はここを突破したい。協力してくれ」
 真摯なラティルの言葉にラピスは頷いた。
「約束ですからね。それより、ラティル様。その剣を貸してください。わたしに考えがあります」
「これをか? 構わないけどどうする気だ?」
「見ていればわかります」
 ラティルは怪訝な顔をしながらも、自分の剣を鞘ごと渡した。ありがとうございます、と受け取った剣はずしりと重くて、ラピスは思わずたたらを踏んだ。戦う者ではない自分にはこの剣は重すぎる。
 ラピスはこの場を切り抜けるため、暗黒魔法によって、礼拝堂裏の墓地に眠る死者たちを呼び起こすつもりだった。今いる場所と墓地の距離を鑑みれば、力の支点となるべきものが必要だった。本来、力を使う上では杖が一番効率が良いのだが、自分の杖が手元にない今、贅沢は言っていられなかった。
 ラピスはずっしりと重い剣を宙に掲げると、死者を甦らせるための魔法を詠唱し始めた。
「開け、冥界の扉、我は(ことわり)を覆す者なり。大地に眠る我らの(おや)よ、我が声に応え、我に従え。(ふる)き魂よ、今ここに甦り、闇の力を揮い給え」
 ラピスの掲げた剣が闇色の靄に包まれていく。彼女の練り上げた魔力が剣身に纏わりついていく。
「《死者の秘蹟(サクラメントゥム・モルトゥアロム)》」
 腹に力を込め、ラピスが朗々と呪文を歌い上げると、剣先から黒い光が迸った。光は紫色の稲妻となって夜空を駆け、墓地へと降り注いだ。
 礼拝堂の裏にある墓地にいくつもの亀裂が走った。亀裂の中、地面の底から煙のように闇が立ち上り始める。
 ぐっと亀裂が広がり、人影のようなものが闇の中から現れた。
 唐突に雲が晴れ、月が露わになった。月明かりが浮かび上がらせたそれの正体は、海松色の腐肉を体に纏わり付かせた骸骨だった。
 一体、二体、三体。眠りから目覚めた屍たちが黒い靄を纏いながら、地面の裂け目から姿を現す。夜の墓地から墓石が倒れる音が、ぬちゃぬちゃという足音が聞こえてくる。
 気づけば、五十体ほどの生ける屍――ゾンビの群れが墓地から溢れ出し、兵士たちを取り囲んでいた。
「うわあっ、化け物!」「何だ、こいつらは!?」「こいつら……ゾンビか!?」
 ゾンビたちに囲まれた兵士たちの間に動揺が走る。ラピスはその様子を静かな目で見つめると、ゾンビたちへと命令を下すべく声を張った。
「屍の兵たちよ、戦いなさい! 血路を開いて!」
 ラピスの声に反応し、ゾンビたちが兵士たちに襲いかかり始める。ところどころで悲鳴が上がるのが聞こえた。兵士たちはゾンビの群れに対抗すべく、武器を抜き応戦し始める。
「何なんだ、こいつら! 倒しても倒しても起き上がってくるぞ!」
 何度でも起き上がってくるゾンビたちに、兵士たちは困惑の声を上げる。もう既に死んでいる彼らは二度も死ぬことはない。
「ラティル様、今です!」
 そう言いながら、ラピスはラティルへと剣を返す。
「ああ」
 ラティルはラピスから剣を受け取ると頷いた。
「行くぞ。ラピス、絶対に俺から離れるな」
 ラティルはラピスの手を握り直す。彼はラピスの手を引いて、崩れかかっている包囲網の端を目掛けて走り出した。
「はあっ!」
 彼はゾンビに明らかに圧されている兵士を狙って、当て身を食らわせた。体勢を崩した兵士がゾンビを巻き込んで地面へと転がる。
 ラティルはその脇をラピスを連れて駆け抜ける。城を脱出するときに乗ってきた馬の姿を見つけると、そのそばへと走り寄る。
 目の前で繰り広げられている戦いに興奮しているのか、青鹿毛の牡馬は嘶きながら後ろ足で立ち上がっている。どうどうと馬を宥めてやりながら、ラティルはラピスを振り返る。
「ラピス、乗ってくれ」
 促されるまま、ラピスは白地に金の刺繍が入ったローブの裾をたくし上げ、手綱と馬の鬣(たてがみ)を纏めて持つ。左足を鐙(あぶみ)に掛けると、ラピスは半分ラティルに押し上げてもらう形になりながらも、馬上へと跨った。
 続けて、ラティルは勢いをつけてひらりと鞍の上へと飛び乗る。彼はラピスの後ろに跨ると、彼女を抱き込むようにして手綱を握る。
「口、閉じてろ。舌噛むぞ」
 そう注意すると、ラティルは馬体を脹脛で圧迫し、馬を発進させる。ラティルが右足を後ろに引き、左足を強く馬体に押し込むと、馬は走り出した。
「ラティル王子が逃げるぞ!」
 気づいた兵士が叫んだが、ゾンビたちに阻まれ、彼らに二人を追うことはできなかった。
 ラピスとラティルを乗せた馬は少しずつ礼拝堂の建物から遠ざかっていく。ラピスの力の範囲から外れたことで、兵士たちと戦っていたゾンビたちが力を失って動かなくなっていく。突然動かなくなったゾンビたちを前に兵士たちがどよめいた。
 二人を乗せた馬は風を切って走る。ラピスの視界を猛スピードで王都の街並みが横切っていく。
「ラティル王子だ! ここを通すな!」
 街の入り口にたどり着くと、待ち構えていた衛兵たちがこちらを見てそう叫んだ。武器を向けられ、ラティルは脚(きやく)だけで馬を操りながら抜剣する。
 ラティルは打ち込まれてくる衛兵たちの攻撃を剣で受け止める。しかし、普段ならば相手の武器を弾き飛ばすくらいの実力があるはずのラティルの動きは常よりも鈍い。おそらくは全身から流れ落ちる血が彼の力を奪っている。
 ここを突破するための隙を作らねばならない。ラピスは左手で鞍に縋り付くと、右手を前へと突き出した。人差し指に体内の魔力を纏わせながら、ラピスは呪文を紡ぐ。基本的には魔法の行使には支点となる道具が必要だが、これだけ近距離かつ小規模なものであれば、何もなくてもどうにかなる。
「影よ、大地より出でて、生者を縛る楔となれ! 《暗影の鎖(トールケム・テネラルブム)》」
 街灯に照らされた石畳から、黒い影が実体を持って立ち昇る。影は今まさにラティルに切りかからんとしていた兵士の体へと纏わりつき、その動きが封じられる。
 兵士は驚愕と恐怖で目を見開く。体が指一本たりとも動かない。ラピスが使ったのは、金縛りの暗黒魔法だった。
「今だ! 行くぞ!」
 ラティルは王都の入り口を守る門を衛兵を跳ね飛ばすようにして無理やり突破する。そうして、二人を乗せた馬は宵闇に包まれた街道へと飛び出していった。
 これから一体どうなってしまうのだろう。一抹の不安を抱えながらも、ラピスは目の前の闇を見つめる。
 頬に触れる秋の夜風は冷たい。一度は顔を見せたはずの月は、再び暗雲の中に顔を埋めてしまっていた。
 雲に覆われた夜空からぽつぽつと雨が降り始めた。視界に降り注ぐ雫を見つめながら、ラピスは馬の揺れに身を任せ続けた。

 一体どのくらい走り続けただろうか。まだ、三十分ほどしか経っていないような気もするし、何時間も経ったような気もする。
 王都を離れた二人は、街道を離れ、郊外にあるエダイス山の中へと分け入っていた。山の中に小さな沢を見つけると、二人はそこで馬を止める。
「よっと」
 ラティルは馬上で器用に体を回すと地面へと飛び降りる。ラピスもラティルに倣って鐙から抜いた右足を馬の尻を蹴らないように気をつけながら回すと、馬の胴に体を這わせるようにして鞍上から降りた。
 腹帯を解き、ラティルが背から鞍と敷き布を下ろしてやると、馬は水を飲みに沢へと降りていった。ラティルは馬の背を見送ると、糸が切れたようにその場に座り込んだ。
「ラティル様、大丈夫ですか?」
 ラピスはラティルの顔を覗き込んだ。怪我を負った状態で無理をし続けたせいか、彼の顔は夜目にもわかるほど青ざめていた。
 大丈夫だ、とラティルは笑った。しかし、それが嘘であることくらい、長年の付き合いがあるラピスにはわかった。
「ラティル様、服を脱いでください。傷の手当てをします」
 まずは傷を洗いましょう、とラピスは血で汚れ、無数のガラス片が突き立ったラティルの上着へと手をかけた。
「悪いな。巻き込んだ上にこんなことまでさせて」
「構いません。他でもないラティル様のためですから」
 ラティルから上着とシャツを脱がせると、ラピスは彼の手を取って立ち上がらせる。
「歩けますか?」
 ラピスが聞くと、ああ、とラティルは頷いた。ラピスはラティルの手を引きながら、沢へと降りていった。
 ラティルの傷を洗いながら、ラピスは手探りで彼の体に刺さったガラス片を取り除いていった。
 ラティルの体からガラス片を取り除き終えると、ラピスは近くの茂みへと入っていった。彼女は何かを探すように茂みの中でごそごそとしていたが、しばらくすると何かの葉のようなものを手に再び姿を現した。
「それは何だ?」
 ラティルはラピスが持っているものに目をやると、そう尋ねた。刺激臭で鼻がつんとする。
 ラピスは川の水で葉を洗いながら、自分が手にしているものについて、ラティルに説明した。
「これは化膿止めの薬草です。わたし、神聖魔法でラティル様のお怪我を治すことはできませんけど、これでも一応聖職者ですから、薬草には詳しいんですよ」
 ラピスは洗った薬草を手で揉むと、ラティルの傷へと貼り付けていく。そして、彼女は自分のローブの裾を細く割くと、包帯がわりに薬草の上から巻いていった。
 ラピスによる手当てが終わると、ラティルは濡れたシャツを絞り、素肌の上から羽織る。彼は川辺に座ってシャツのボタンを止めながら、ラピスへと礼を言った。
「ありがとうな」
「いいえ、とんでもないです。わたしにはこのくらいしかできませんから」
 そう言うと、ラピスはラティルの横へと腰を下ろした。濡れた服越しに伝わってくる彼の体温がほのかに温かい。
「ラティル様。そろそろ聞いてもいいですか? 一体、何があったのかを」
 ラピスはずっと気になっていたことを切り出した。そうだな、とラティルは悲しげに緑の目を細めると、口を開いた。
「レベルラ帝国の魔の手がこの国にも迫りつつあるのは、ラピスも知っているよな?」
「はい」
「レベルラ帝国と戦うか、戦わずして彼の国の元に下るかで父上と兄上は対立していた。それで今日の夕方、父上を邪魔に思っていた兄上が、父上を殺害した――つまり、兄上が革命を起こしたんだ」
「レイフォルト殿下が……?」
 ラピスはルフィナやラティルとは親しくしていたが、第一王子のレイフォルトとはさほど関わりはなかった。しかし、いきなりこのような苛烈な手段に出るような人物だとは思ってはいなかった。ラピスにとって、ラティルは活発で太陽のような印象であるのに対し、腹違いの兄であるレイフォルトは物静かな月のような印象だった。
「ああ。父上だけでなく、俺も捕らえられかけた」
「ラティル様も……?」
「母上の実家、ミルベール公爵家は国王派だ。俺もこの国には邪魔な人間なのだと兄上は言っていた。さきほどの感じだと、俺に父上殺しの罪をなすりつけて処刑するつもりだったんだろう」
 そんな、とラピスは手で口元を覆った。
「俺とて、兄上がレベルラ帝国に国を売り渡すのを指を咥えてみているつもりはない。ただ、兄上を止めるためには、一度退いて体制を立て直すしかないと思って、俺は逃げた。さっきの怪我はそのときの――父上の執務室の窓を破って飛び降りたときのものだ」
「なんということを……」
 ラピスはラティルの無茶にため息をついた。そうしていなければ彼は殺されていたかもしれないとはいえ、無茶苦茶だ。
「馬を奪って俺は城を逃げ出した。それで、俺はお前を頼ることを思いついた。今の王都で頼れる相手なんてお前以外にいなかったし、聖女を連れて逃げているとなれば、兄上は俺に手出しをしづらくなる」
 この国においては、王族の即位には王冠と玉璽、聖フロレンシア教会の承認が必要だ。名ばかりの繋ぎの聖女とはいえど、ラピスを傷つけるようなことがあれば、教会側からのレイフォルトへの心証が悪くなる。
 なるほど、とラピスは頷いた。そして、彼女はこれからのことについて疑問を口にする。
「ラティル様、これからどうするおつもりですか? いつまでもここに隠れているわけにはいかないのでしょう?」
 ああ、とラティルは重々しく頷くと、
「いつまでもここにいては、兄上や兄上を擁立しているジリアーニ公爵派の兵士に見つかってしまう。おそらく、彼らは兄上の命で俺たちのことを血眼で探しているだろうからな」
 そうでしょうね、とラピスは相槌を打つ。ラティルは言葉を続けていく。
「朝になったら山を下りよう。まずは麓にあるエヴェラムの町へ行こうと思う」
「わたしたち、着の身着のままですもんね。どこに行くにしても、このままでは目立ちますし、旅の支度を整える必要がありますから。ですけど、金策はどうされるつもりですか?」
 ラピスがそう尋ねると、水を飲み終えて草を食み始めた馬へとラティルは緑色の視線を向けながら、
「あいつを――馬を売ろうと思う。田舎では食い詰めて家畜を売ることなんて珍しくないだろう? 鞍さえここに捨てていってしまえば、しばらくは俺たちの足取りをごまかせるはずだ」
 ラティルの傍らに置かれた鞍と敷き布には王国軍の紋章が刻まれている。しかし、それさえなければ、軍馬であると見抜かれることはないだろう。
「エヴェラムにはわたしだけで行きましょう。ラティル様の姿を知っている人は多くても、わたしが誰だかわかる人はそう多くないでしょうから」
 聖女として出来損ないであるラピスは、あまり信者たちの前に姿を現すことはない。体が弱いという設定で、教会の上層部は『星の聖女』という汚点をなるべく表に出さないようにしていた。
「悪い、そうしてくれるか?」
 もちろんです、とラピスは微笑むと、
「馬を売って旅の荷物を整えたら戻ってきますので、ラティル様はわたしが戻るまで休んでいてくださいね」
「わかった。それで、明日以降の俺たちの動きなんだが、東へ向かおうと思っている」
 東ですか、とラピスは聞き返した。ああ、とラティルは頷き返すと、
「ミルベール公爵領、グラナータに行こうと思っている。兄上の暴挙を止めるための力になってもらうつもりだ」
 なるほど、とラピスは得心する。現在のミルベール公爵はラティルの伯父だ。事情を話し、レイフォルトに対抗するために兵を借りる相手としては申し分ない。
 それに、王都を追われた自分たちには足場が必要だ。グラナータへ向かうのは妥当な判断だといえた。
「悪いけど、俺は休ませてもらう。ラピスも朝まで適当に休んでてくれ」
 そう言うと、ラティルはラピスの肩に身体を預けて目を閉じた。何かあったときのためにすぐ抜剣できるように、利き手は剣の柄にかけられているが、よっぽど消耗していたのか、ラティルはすぐにすうすうと小さな寝息を立て始めた。
 ラピスは肩にラティルの体温と重みを感じながら、右手の人差し指を立てる。彼女は体内で魔力を練ると、人差し指へと意識を集中させる。指に闇よりも黒い靄が纏わりつくのを確認すると、彼女は小声で呪文を詠う。
「闇よ、悪夢を紡ぎ、世界を閉ざせ! 《夢魔の誘い(インヴィタティオ・スツクゥビ)》」
 ラピスの指先からするすると靄が伸び、辺りの木々へと絡みついた。異変を感じたのか、沢のそばで座り込んで身体を休めていた馬の耳がぴくんと動いた。「ほーらほーら」ラピスは低い声で警戒する馬を宥める。
 ラピスが使ったのは人に幻覚を見せるための暗黒魔法だった。気休め程度のこの狭い範囲に限るものではあるが、追手の目をくらますための一助にはなるだろう。
 ラピスは寄りかかってくるラティルの身体へと自分の体重を預け返す。今夜起きた一連の出来事に頭がついていかずに、精神が昂っていたが、無理にでも眠らないと、きっと体が持たない。
 頭上の木々の葉を雨が打つ音がする。激しくなる雨の音を聴覚の表面で捉えながら、ラピスは瑠璃の目を閉じた。
 とくとく、と雨音に合わせるように拍を打つ自分とラティルの鼓動を聞いているうちに、何だかふっと体の力が抜けていくのをラピスは感じた。闇の中にたゆたう眠気の気配に身を委ねると、彼女の意識は緩やかに眠りの中に落ちていった。

 夜の城下を初風が流れていた。夕刻に城で起きた出来事――第一王子レイフォルトの革命とは裏腹に夜風は穏やかに凪いでいる。
 換気のために開け放った窓から王の執務室へと入り込んできた湿り気を帯びた風がうなじで結えたレイフォルトのさらりとした金の髪を攫っていく。親衛隊の軍人たちや配下のメイドたちに命じて部屋と死体は片付けさせたものの、まだ室内には血の匂いがうっすらと澱のように降りている。
(それにしても、ラティルは面倒なことをしてくれたものだ……玉璽さえあれば、私は今夜にも即位できたはずだったというのに)
 レイフォルトはいらいらと執務机の上を指で叩く。幸い、前王であり父であるゼクトールからは王冠を奪えてはいたが、自分が即位するにはこれだけでは足りない。
 こんこん、と外側から執務室の扉が叩かれた。
「レイフォルト殿下、ヴィルフレードです。ラティル王子について、ご報告がございます。少々、お時間よろしいでしょうか」
 入れ、とレイフォルトが入室を許可すると、親衛隊の軍服に身を包んだ赤毛の青年が部屋へと入ってきた。申し上げます、とヴィルフレードは執務机の前で膝をつく。
「殿下、レグナルとカロルスが兵を率いてラティル王子を追いましたが、教会にて戦闘となり、逃げられたようです。ラティル王子は『星の聖女』を連れて街の入り口の警備を破り、王都の外へと脱出しました」
 何、とレイフォルトは紫の双眸を細めた。ラティルが幼いころから教会の厄介者である『星の聖女』と交流があったことは把握していた。いくら煙たがられていても聖女は聖女、彼女を連れて逃げているラティルを敵に回すことは教会組織を敵に回すにも等しい。レイフォルトがこの国の王として即位するためには王冠と玉璽だけでなく教会の承認が必要なのだ。教会の不興を買うような下手な真似はできない。
「ヴィル、捜索範囲を広げろ。ラティルは手負いの身だ。そう遠くまで行けるはずもない。ラティルと聖女を早く見つけ出して捕らえるのだ」
 万が一ということもある。ラティルが逃げ込みそうなところ――母方のミルベール公爵家の領内や、彼の同母姉・ルフィナの嫁ぎ先であるイフェルナ国方面の国境についても手を打っておくべきだった。
「ミルベール公爵領とイフェルナ国との国境へも念のために兵を派遣しておけ。この状況でラティルが頼るとしたらミルベール公爵かルフィナのところだろう」
 承知いたしました、とヴィルフレードは顔を伏せたまま、了承の意を示した。そして、御前失礼いたします、と彼は立ち上がると執務室を出て行った。
 この国を守るため、王となるのはこの自分だ。そのためにはラティルをこのまま野放しにしておくわけにはいかない。絶対に捕まえてやる、とレイフォルトは紫の双眸に強い意志の光を宿らせて、窓の外の赤い凶星を睨め上げる。遠くの空を灰色の雲が覆っていた。

 早朝に目覚めると、ラピスは薄闇の中を馬の手綱を曳いて、エヴェラムへと出発した。昨夜打ち合わせた通り、山の中でラティルを待たせているが、ラピスの魔法の効果が切れていなければ、そう簡単に追手に見つかることはないだろう。
 昨夜の雨は嘘のように止み、日が昇ってくる東の地平線は淡い藍色のグラデーションに染まっていた。きっとこれなら今日は晴れるだろうと、街道のところどころにできた水たまりを跳ねさせながらラピスは思った。
 ラピスがエヴェラムの街に着くころには、すっかり明るくなり、人々は朝の営みを始めていた。教会の紋章が入ったローブを脱ぎ、ただの白いワンピース姿となったラピスが聖女であることに気づく者はいないようで、誰一人として彼女に目を止めなかった。
 ラピスは馬の買取の交渉をすべく、借馬屋へと向かった。軍馬としてきっちりと鍛え抜かれたこの馬は、肉にするよりも生かしたままのほうが遥かに価値がある。そう考えての判断だった。
「すみません。この馬を買い取っていただけないでしょうか」
 そう言ってラピスは借馬屋の戸を叩いた。すると、ほどなくして戸が開き、まだ眠たげな顔をしている中年の男が顔を覗かせた。
「なんだあ?」
 男は怪訝そうにラピスと馬を見比べた。ラピスはこの街へ向かう道中で考えていた口上を口にする。
「こちらは父が育てていた馬なんですが、父が亡くなって我が家は食い詰めてしまって。この馬をいくらかで引き取ってもらえないでしょうか」
 ふうむ、と男は馬を観察する。毛艶や筋肉のつき方は申し分ない。歯の本数からしてまだ若い馬だし、蹄の状態もいい。通常なら金三百は下らないはずの馬だ。
「嬢ちゃん、こいつは随分といい馬だ。交易都市の専門の問屋にでも持って行けば相当いい値がつくはずだ。
 ただ、うちのような小さな店ではせいぜい金百枚くらいしか買い取ってやれねえ。それでも構わねえか?」
「構いません。どうしても今すぐにお金が必要なんです」
「わかった。それじゃあ取引成立だ。ちょっと待ってな」
 もったいねえなあと独りごちながら、借馬屋の店主は店の中に顔を引っ込める。ドア越しに貨幣を数えるじゃらじゃらという音が響きはじめる。
 しばらくして、再び戸が開き、貨幣の入った袋と証文を持った男が顔を出した。男は貨幣の詰まった皮袋をラピスへと渡すと、
「その中には金貨百枚が入っている。この条件で構わなければ、この証文にサインをくれ」
 男とラピスの間で交わした取引が記された証文と羽ペンを受け取ると、彼女は逡巡した。ここで本名を使えば足がつく。
 ラピスはさらさらと古い言葉で星を意味する単語を記すと、証文を男へと返した。「確かに」男はラピスのサインを検めると、馬の手綱を掴む。
「元気でね」
 ラピスは自分たちの事情に巻き込まれてしまった哀れな馬の首筋を最後にそっと撫でてやった。これだけいい馬であれば、ひどい扱いを受けることはないと思いたい。
「それじゃあこの度はどうもな。また何かあったら馬でも牛でも連れてきな」
 男は馬を連れて、店の裏の厩へと消えていった。ラピスは男に小さく会釈をすると、借馬屋の前を離れた。
 ラピスは金貨の入った袋を服の中にしまうと、足早に歩き出す。旅に必要な支度を調えて、早くラティルの元に戻らねばならない。
 丈夫で動きやすい旅用の服と靴。雨風を凌ぐためのマント。火を起こすための道具や食糧。自分たちの特徴を隠すための変装道具。
 少しずつ、街の中に兵士の姿が増えてきているような気がする。なるべく目立たないように手早く買い物を済ませようと、ラピスは雑踏の中に姿を消した。

「ラティル様、ラピスです。ただいま戻りました」
 ラピスがラティルの待つエダイス山に戻ったのはそろそろ午前から午後へ時刻が移り変わろうかというころだった。
「エヴェラムの様子はどうだった?」
「少し兵士の姿が多かったように思いました。レイフォルト殿下が放った追手かどうかまではわかりませんでしたけど」
 そう言いながら、ラピスは地面にエヴェラムで買い込んできた荷物を広げていく。衣類と変装用のウィッグをラピスが手渡すと、ラティルは怪訝そうな顔をした。
「……これ女物じゃないのか?」
 茶色のチュニックに、深緑のギャザーの寄ったスカート。そして、極め付けは長い赤毛のウィッグだ。
「そうですよ」
 ラティルの疑問にラピスはあっさりと頷いた。そして、彼女は自分の分の服を抱えると、着替えてくるので少し待っていてください、と木立の中に消えていった。
 ラピスは着ていた白いワンピースを脱ぎ、肌着姿になると、男物のシャツを身に纏っていく。ネイビーのズボンに足を通し、シャツの上からズボンと同色のジャケットを羽織ると、ラピスは仕上げに短い黒髪のウィッグの中に自分の長い銀髪を押し込んだ。
「お待たせしました」
 再びラティルの前に現れたラピスの姿は少しいい家のお坊ちゃん然とした少年のものになっていた。ラピスが着替えている間に自分も着替えを済ませていたラティルは、へえ、と小さく声を漏らす。
「化けるもんだな」
「ラティル様もですよ。よくお似合いです。誰も男性だとは気づかないかと」
「冗談言うなって。俺、女顔なの気にしてんだから」
 ラティルの姿は金髪の王子から、赤毛の女傭兵の姿へと変貌を遂げていた。しかし、ラティルは自分の姿に不満らしく、「何で俺が女装なんか……なんか足スースーするし」ぼやきを繰り返している。
「ラティル様。レイフォルト殿下たちが探しているのは第二王子と聖女、もしくは金髪の青年と銀髪の少女の二人連れです。赤毛の女傭兵と黒髪の少年には用はないはずです」
「それはそうなんだが……もう少し何かあったはずだろ……」
 ラティルは沢の水面に映った自分の姿にがっくりと肩を落とす。ラピスはそんなラティルの様子など意に介したふうもなく、
「念のため、偽名も考えないといけませんね。わたしは『星』にちなんで、エトワールと名乗ることにします。ラティル様はそうですね……瞳の色にちなんで、新緑を意味する『クロエ』なんていかがですか?」
 ラピスの提案にラティルはもう好きにしてくれと言わんばかりに遠い目をした。ラピスはこうしましょう、と話を続けていく。
「『エトワール』はグラナータにあるとある商家の三男坊です。『クロエ』は王都から帰る『エトワール』に護衛として雇われた女傭兵、これでいきましょう。――わかりましたか、クロエ?」
「わかったけれど……主人と護衛だというなら、その敬語は崩した方がいいんじゃないでしょうか? エトワール坊ちゃん?」
 恨みがましげな半眼でラティルにそう言い返され、ラピスは小さく笑った。
「そうですね……じゃなくて、そうだね、クロエ」
 いつもと逆転してしまった立場に順応するにはしばらくかかりそうだと思いながら、ラピスは荷物を背負った。そして、ラピスはラティルを振り返ると、
「それじゃあ行こうか。グラナータまでよろしく頼むよ。――クロエ」
「はいはい、わかりましたよ。お供させていただきます、エトワール坊ちゃん」
 半ば諦めたようにラティルは返事をすると自分の荷物を背負う。そして、二人は細い山道を辿り、街道へと降りていった。
 木々の葉を濡らす雨露が秋の日差しを受けてきらきらと輝いている。旻天を白い小魚の群れが泳いでいた。