赤い夕日が城の尖塔を照らしていた。東の空から顔を出し始めた夜の藍色が、西の空を染める朱色を飲み込もうとしている。
「――はっ!」
裂帛の気合いとともに、ラティルは正眼の構えから突きを繰り出した。対峙する兵士の隙のできた喉元へとラティルの剣先が迫る。切先が相手の軍服を浅く裂き、決まった、と思いながらラティルは動きを止める。
「――そこまで! 勝者、ラティル殿下!」
このアレーティア王国の軍の元帥であるオーヴァンの声が、周囲へとラティルの勝利を宣言する。ふっと体から力を抜き、ラティルは剣を下ろした。彼は剣を鞘に収めると、シャツの袖で額に滲んだ汗を拭った。
季節はもう秋に差し掛かっていたが、こうして剣の稽古をするにはまだまだ暑い。頬を撫でていく乾いた金風が心地よい。
ラティル・アーレントは十八歳となるこの国の第二王子だ。彼は執務の合間を縫って、近衛兵たちの訓練に混ぜてもらい、剣の腕を磨いていた。
王子の身でありながら、ラティルの剣の腕は抜きん出ている。つい先ほども、近衛兵たちと勝ち抜き試合をしていたが、最後まで勝ち残ってしまった。
「はあ……ラティル様は本当にお強いですねえ」
先ほどまで剣を交えていたイリオンは剣を収めながら苦笑する。「俺なんてもう三年はラティル様に勝ててねえよ」「もう王子なんて辞めて軍人になればいいのに」ラティルとイリオンの試合を眺めていた兵士たちが遠巻きに騒いでいる。何やかんやといいながらも、彼らにラティルをやっかむような雰囲気はない。身分は違えど、ラティルのことを仲間として受け入れているからのこその軽口だった。
「今日の訓練はこれで終わりにする。皆のもの、殿下に負けぬよう、鍛錬を怠らないように。解散!」
オーヴァンの言葉に、横一列に並んだ兵とラティルは一斉に頭を下げた。
「ありがとうございました!」
オーヴァンが練兵場を出ていくと、ぱらぱらと列が崩れ始めた。仲間の兵士たちはだらだらと同僚たちと話しながら、訓練の後片付けを始める。
「ねーねー、ラティル様ぁ。オレ、ラティル様にお願いがあるんスけど、聞いてもらえません?」
訓練に使った刃引きの剣を片付けていた青年は、ラティルの姿を認めると、擦り寄ってきて猫撫で声を出す。
「はいはい何だよ」
シャツの上から上着を羽織り直し、身支度を整えていたラティルは彼を適当にいなしながら、
「ジュスト。くだらない話なら聞かないぞ」
「いやいや、オレ的にはめっちゃ重要な話なんで! ラティル様のところにアイシアちゃんってメイドいるじゃないスか? 紹介してもらえません? ね? ね?」
「断る」
「えー、いいじゃないスかー! オレめっちゃ大事にしますからー!」
「彼女は故郷に婚約者がいて、嫁入り修行の一環としてロベルティア子爵から預かっている子だ。それに、彼女に婚約者がいなかったとしても、俺の大事なメイドをお前みたいな軽薄そうなやつに任せる気はない」
それじゃあな、と話を強引に終わらせ、壁際に立てかけていた自分の剣を腰から吊るすとラティルは踵を返す。「オレ超誠実ですよー!」ジュストの声が背中を追いかけてきたが無視をする。この前も別のメイドに声をかけていたくせに何が誠実だ。
「さて……そろそろ行かないとな」
夕飯の前に、この国の王であり、父であるゼクトールに呼び出されていた。思った以上に試合が白熱して長引いてしまったため、着替えてから向かう余裕はなさそうだった。少し汗の匂いは気になるが、仕方なくこのまま国王の執務室に向かうことを決め、ラティルは練兵場を後にした。
空は夜の色に染まり、ちらほらと星が光を放ち始めている。?惑星が禍々しい赤色の光を地上に落としながら、ラティルの背を見送っていた。
「陛下、ラティルです」
ラティルは国王の執務室の前につくと、精緻な細工がびっしりと施された扉を叩いた。入室の許可を待ちながら、何かが妙だと思いながらラティルは辺りを見回した。
第一に、いつもなら扉の前にいるはずの警護と取り次ぎを兼ねた兵士の姿がない。そして、第二に部屋の中から人間の気配がしない。静かすぎて何かがおかしい。
にわかに廊下が騒がしくなった。「第二王子ラティルを探せ!」「ラティル王子を捕らえろ!」何やら自分を探しているらしい声と足音が階段を上って近づいてきている。声の様子からして、探している理由はおそらく穏やかなものではない。ラティルはいつでも抜けるように、普段から持ち歩いている剣の柄に手をかける。
「すみません、陛下。入ります」
ラティルは国花のアマリリスの細工が施された金のドアハンドルを掴むと、執務室の扉を押し開ける。鍵がかけられていなかったのか、何の抵抗もなく、キィという蝶番が軋む音を立てながら、あっさりと扉は開いた。
執務室の中へ足を踏み入れたラティルは、視界に飛び込んできた光景に緑の双眸を見開いた。
血溜まりに倒れ伏した中年の金髪の男。赤い絨毯の上にばら撒かれた書類。傷つき、倒された調度品。胸を貫かれ、絶命した侍女。
「――陛下!」
ラティルは倒れた男――父王のゼクトールへと駆け寄った。ゼクトールの傍らに膝をつき、首元の脈を確認する。しかし、指に脈拍が触れることはない。
ラティルはゼクトールの体を仰向けにする。開かれたままの目はあらぬ方向を見つめており、瞳孔が散大していた。血で汚れ、肌に張り付いた服をめくって体を検めると、腹部に刺された跡があり、それが死因になったと推測された。
(一体、誰が父上を……? 一体、何のために……?)
ゼクトールの瞼を閉じてやると、ラティルは立ち上がる。このような凶行に及んだ人物に繋がる手がかりがないかと、ラティルは荒らされた部屋の中を検め始める。
「ラティル、このようなところで何をしている?」
インク瓶や花瓶が倒れた執務室の周りを探っていると、男の声が響いた。さっとラティルがそちらへと視線を向けると、金髪に紫の目の二十代半ばの男が己の親衛部隊の兵士たちを従えて、そこに立っていた。
「兄上……?」
「何をこのようなところで、物取りのような真似をしている。ここは私の部屋だ」
私の部屋。ここは父王の執務室だというのに、一体、何を言っているんだと思いながら、ラティルは兄――第一王子レイフォルトを見た。レイフォルトの頭には、ゼクトールが身につけていたはずの王冠が頂かれていて、ラティルは誰がこの事態を引き起こしたのかということを理解した。これは革命だ。その端緒として、父王は斃された。ラティルは腹違いの兄を怒りに満ちた目で睨みつける。
「兄上……! お前が陛下を殺したのか!? どうして……!」
レイフォルトへと向かってラティルは吠えた。しかし、そんなラティルをつまらないものを見るように、一瞥すると冷たく言い放つ。
「どうして? そんなこともわからないほどお前は愚かなのか? 決まっているだろう。この国の未来のために、そこの男が邪魔だったからだ」
今、この国は西の大国であるレベルラ帝国の脅威に晒されていた。
この国はレベルラ帝国と国境こそ接してはいない。しかし、隣国であるエゼルテ公国とリーメル皇国が彼の国の支配下に置かれ、隷属を強いられている。
彼の国の支配下に置かれた国は、言葉や宗教のみならず、生活習慣に至るまでのすべてをレベルラ式に改めさせられるという。抗うものは誰であり、厳罰に処せられるらしいとラティルは聞かされていた。
周辺国を次々と呑み込み、力をつけたレベルラ帝国の魔の手がこの国に向くのも最早時間の問題だった。彼の国と戦って勝てるだけの兵力はこの国にはない。そのため、日々議会では民の誇りを守るために戦うことを受け入れざるを得ないと主張する国王ゼクトールの派閥と、いたずらに国を疲弊させることを避けるために自らレベルラ帝国の元へと下るべきだと主張するレイフォルトの派閥が激しい対立を続けていた。
「お前の生家――ミルベール公爵家は国王派だったな? ラティル、お前もこの国にとっては邪魔な人間だ」
捕らえろ、とレイフォルトは背後に控える兵士たちへと号令を発する。「応!」兵士たちは返事をすると、武器を手にラティルへと迫ってくる。
ラティルは唇を噛んだ。剣の腕には覚えはあるが、それでも精鋭揃いと名高いレイフォルトの親衛部隊全員を相手取って勝てる気がしない。
(……この革命を――兄上の暴走を止めるためには、逃げて体制を整えるしかない)
ここは退くしかない。そう決断すると、散らかった執務机の上に置かれていた玉璽を手に取り、上着の内ポケットへと突っ込んだ。これがなければ、レイフォルトは国王として即位することはできない。
「――はぁぁぁぁぁぁっ!!」
ラティルは飛び上がると、腕で顔を庇いながら、窓辺へと身を躍らせる。ガシャァァァンとガラスが割れる音がした。
「……くっ」
全身にガラス片が突き刺さり、痛みでラティルは顔を顰める。しかし、今はそんな瑣末事に構っている場合ではない。
ラティルは城壁の窪みに指をかける。がくん、という振動を伴いながら、身体の落下が止まる。
(今、王都で俺の力になってくれそうなのはあいつしかいない。軍の手が回る前に、あいつのところに行かないと)
まずは馬を奪って、この城を脱出しなければならない。混乱の残る頭でラティルはこれからの暫定方針を決めると、城壁を降り始めた。
ラティルが逃げ出したことによって、城内は騒然としていた。地面へと降り立つと、ラティルは厩舎を目指して駆け出した。
秋宵の空では、ラティルを嘲笑うように凶星が一際強く赤い光を放っている。東の地平線から登り始めた秋の月は、黒い雲の中に再び顔を隠そうとしていた。
「――はっ!」
裂帛の気合いとともに、ラティルは正眼の構えから突きを繰り出した。対峙する兵士の隙のできた喉元へとラティルの剣先が迫る。切先が相手の軍服を浅く裂き、決まった、と思いながらラティルは動きを止める。
「――そこまで! 勝者、ラティル殿下!」
このアレーティア王国の軍の元帥であるオーヴァンの声が、周囲へとラティルの勝利を宣言する。ふっと体から力を抜き、ラティルは剣を下ろした。彼は剣を鞘に収めると、シャツの袖で額に滲んだ汗を拭った。
季節はもう秋に差し掛かっていたが、こうして剣の稽古をするにはまだまだ暑い。頬を撫でていく乾いた金風が心地よい。
ラティル・アーレントは十八歳となるこの国の第二王子だ。彼は執務の合間を縫って、近衛兵たちの訓練に混ぜてもらい、剣の腕を磨いていた。
王子の身でありながら、ラティルの剣の腕は抜きん出ている。つい先ほども、近衛兵たちと勝ち抜き試合をしていたが、最後まで勝ち残ってしまった。
「はあ……ラティル様は本当にお強いですねえ」
先ほどまで剣を交えていたイリオンは剣を収めながら苦笑する。「俺なんてもう三年はラティル様に勝ててねえよ」「もう王子なんて辞めて軍人になればいいのに」ラティルとイリオンの試合を眺めていた兵士たちが遠巻きに騒いでいる。何やかんやといいながらも、彼らにラティルをやっかむような雰囲気はない。身分は違えど、ラティルのことを仲間として受け入れているからのこその軽口だった。
「今日の訓練はこれで終わりにする。皆のもの、殿下に負けぬよう、鍛錬を怠らないように。解散!」
オーヴァンの言葉に、横一列に並んだ兵とラティルは一斉に頭を下げた。
「ありがとうございました!」
オーヴァンが練兵場を出ていくと、ぱらぱらと列が崩れ始めた。仲間の兵士たちはだらだらと同僚たちと話しながら、訓練の後片付けを始める。
「ねーねー、ラティル様ぁ。オレ、ラティル様にお願いがあるんスけど、聞いてもらえません?」
訓練に使った刃引きの剣を片付けていた青年は、ラティルの姿を認めると、擦り寄ってきて猫撫で声を出す。
「はいはい何だよ」
シャツの上から上着を羽織り直し、身支度を整えていたラティルは彼を適当にいなしながら、
「ジュスト。くだらない話なら聞かないぞ」
「いやいや、オレ的にはめっちゃ重要な話なんで! ラティル様のところにアイシアちゃんってメイドいるじゃないスか? 紹介してもらえません? ね? ね?」
「断る」
「えー、いいじゃないスかー! オレめっちゃ大事にしますからー!」
「彼女は故郷に婚約者がいて、嫁入り修行の一環としてロベルティア子爵から預かっている子だ。それに、彼女に婚約者がいなかったとしても、俺の大事なメイドをお前みたいな軽薄そうなやつに任せる気はない」
それじゃあな、と話を強引に終わらせ、壁際に立てかけていた自分の剣を腰から吊るすとラティルは踵を返す。「オレ超誠実ですよー!」ジュストの声が背中を追いかけてきたが無視をする。この前も別のメイドに声をかけていたくせに何が誠実だ。
「さて……そろそろ行かないとな」
夕飯の前に、この国の王であり、父であるゼクトールに呼び出されていた。思った以上に試合が白熱して長引いてしまったため、着替えてから向かう余裕はなさそうだった。少し汗の匂いは気になるが、仕方なくこのまま国王の執務室に向かうことを決め、ラティルは練兵場を後にした。
空は夜の色に染まり、ちらほらと星が光を放ち始めている。?惑星が禍々しい赤色の光を地上に落としながら、ラティルの背を見送っていた。
「陛下、ラティルです」
ラティルは国王の執務室の前につくと、精緻な細工がびっしりと施された扉を叩いた。入室の許可を待ちながら、何かが妙だと思いながらラティルは辺りを見回した。
第一に、いつもなら扉の前にいるはずの警護と取り次ぎを兼ねた兵士の姿がない。そして、第二に部屋の中から人間の気配がしない。静かすぎて何かがおかしい。
にわかに廊下が騒がしくなった。「第二王子ラティルを探せ!」「ラティル王子を捕らえろ!」何やら自分を探しているらしい声と足音が階段を上って近づいてきている。声の様子からして、探している理由はおそらく穏やかなものではない。ラティルはいつでも抜けるように、普段から持ち歩いている剣の柄に手をかける。
「すみません、陛下。入ります」
ラティルは国花のアマリリスの細工が施された金のドアハンドルを掴むと、執務室の扉を押し開ける。鍵がかけられていなかったのか、何の抵抗もなく、キィという蝶番が軋む音を立てながら、あっさりと扉は開いた。
執務室の中へ足を踏み入れたラティルは、視界に飛び込んできた光景に緑の双眸を見開いた。
血溜まりに倒れ伏した中年の金髪の男。赤い絨毯の上にばら撒かれた書類。傷つき、倒された調度品。胸を貫かれ、絶命した侍女。
「――陛下!」
ラティルは倒れた男――父王のゼクトールへと駆け寄った。ゼクトールの傍らに膝をつき、首元の脈を確認する。しかし、指に脈拍が触れることはない。
ラティルはゼクトールの体を仰向けにする。開かれたままの目はあらぬ方向を見つめており、瞳孔が散大していた。血で汚れ、肌に張り付いた服をめくって体を検めると、腹部に刺された跡があり、それが死因になったと推測された。
(一体、誰が父上を……? 一体、何のために……?)
ゼクトールの瞼を閉じてやると、ラティルは立ち上がる。このような凶行に及んだ人物に繋がる手がかりがないかと、ラティルは荒らされた部屋の中を検め始める。
「ラティル、このようなところで何をしている?」
インク瓶や花瓶が倒れた執務室の周りを探っていると、男の声が響いた。さっとラティルがそちらへと視線を向けると、金髪に紫の目の二十代半ばの男が己の親衛部隊の兵士たちを従えて、そこに立っていた。
「兄上……?」
「何をこのようなところで、物取りのような真似をしている。ここは私の部屋だ」
私の部屋。ここは父王の執務室だというのに、一体、何を言っているんだと思いながら、ラティルは兄――第一王子レイフォルトを見た。レイフォルトの頭には、ゼクトールが身につけていたはずの王冠が頂かれていて、ラティルは誰がこの事態を引き起こしたのかということを理解した。これは革命だ。その端緒として、父王は斃された。ラティルは腹違いの兄を怒りに満ちた目で睨みつける。
「兄上……! お前が陛下を殺したのか!? どうして……!」
レイフォルトへと向かってラティルは吠えた。しかし、そんなラティルをつまらないものを見るように、一瞥すると冷たく言い放つ。
「どうして? そんなこともわからないほどお前は愚かなのか? 決まっているだろう。この国の未来のために、そこの男が邪魔だったからだ」
今、この国は西の大国であるレベルラ帝国の脅威に晒されていた。
この国はレベルラ帝国と国境こそ接してはいない。しかし、隣国であるエゼルテ公国とリーメル皇国が彼の国の支配下に置かれ、隷属を強いられている。
彼の国の支配下に置かれた国は、言葉や宗教のみならず、生活習慣に至るまでのすべてをレベルラ式に改めさせられるという。抗うものは誰であり、厳罰に処せられるらしいとラティルは聞かされていた。
周辺国を次々と呑み込み、力をつけたレベルラ帝国の魔の手がこの国に向くのも最早時間の問題だった。彼の国と戦って勝てるだけの兵力はこの国にはない。そのため、日々議会では民の誇りを守るために戦うことを受け入れざるを得ないと主張する国王ゼクトールの派閥と、いたずらに国を疲弊させることを避けるために自らレベルラ帝国の元へと下るべきだと主張するレイフォルトの派閥が激しい対立を続けていた。
「お前の生家――ミルベール公爵家は国王派だったな? ラティル、お前もこの国にとっては邪魔な人間だ」
捕らえろ、とレイフォルトは背後に控える兵士たちへと号令を発する。「応!」兵士たちは返事をすると、武器を手にラティルへと迫ってくる。
ラティルは唇を噛んだ。剣の腕には覚えはあるが、それでも精鋭揃いと名高いレイフォルトの親衛部隊全員を相手取って勝てる気がしない。
(……この革命を――兄上の暴走を止めるためには、逃げて体制を整えるしかない)
ここは退くしかない。そう決断すると、散らかった執務机の上に置かれていた玉璽を手に取り、上着の内ポケットへと突っ込んだ。これがなければ、レイフォルトは国王として即位することはできない。
「――はぁぁぁぁぁぁっ!!」
ラティルは飛び上がると、腕で顔を庇いながら、窓辺へと身を躍らせる。ガシャァァァンとガラスが割れる音がした。
「……くっ」
全身にガラス片が突き刺さり、痛みでラティルは顔を顰める。しかし、今はそんな瑣末事に構っている場合ではない。
ラティルは城壁の窪みに指をかける。がくん、という振動を伴いながら、身体の落下が止まる。
(今、王都で俺の力になってくれそうなのはあいつしかいない。軍の手が回る前に、あいつのところに行かないと)
まずは馬を奪って、この城を脱出しなければならない。混乱の残る頭でラティルはこれからの暫定方針を決めると、城壁を降り始めた。
ラティルが逃げ出したことによって、城内は騒然としていた。地面へと降り立つと、ラティルは厩舎を目指して駆け出した。
秋宵の空では、ラティルを嘲笑うように凶星が一際強く赤い光を放っている。東の地平線から登り始めた秋の月は、黒い雲の中に再び顔を隠そうとしていた。



