SORA-水底に眠る世界の秘密-

「――え?」
 トゥルクはソラが一体何を言っているのかわからず、思わず聞き返した。そうだよね、とソラは苦笑する。
「あのね、トゥルク。この場所は、私の両親の研究所なの。お父さんがここの所長で、お母さんがその助手で」
 だからソラはこの建物の構造に詳しかったのか、とトゥルクの中で一つの疑問が氷解する。だけど、とトゥルクはソラへとそもそもの疑問を投げかけた。
「ソラは違う星から来たっていう話だったよね? なのに、どうしてこんなところにソラのお父さんとお母さんの研究所があるの? それに、僕たちが暮らすこの世界が、ソラの住んでいた星の上にあるってどういうこと?」
 トゥルクの疑問に、順を追って説明するね、とソラは前置きすると、
「この世界の街並みとか、かつて使われていたっていう古い文字とか。そういったものが私の住んでいた星――地球では失われてしまったはずのものにとてもよく似ているの。さっき、海の底に見えた廃墟だって、私が生まれ育った街そのもので。今、私たちがつけているこの指輪も、実験の合間を縫って、お父さんが開発していたものなんだ。どうにかして、あのころの地球環境に適応するためのものを作れないか、別の惑星に移住せずともそのまま地球で暮らしていく方法はないかって、お父さんはずっと考えていたから。ここが地球でなければ、地球に残ったはずのお父さんが作ったものがこの世界で見つかるはずなんてないでしょう?
 それにね、ここにこうして、お父さんとお母さんの研究所がある――それが海の底にあるものがかつての地球だったっていう何よりの証拠だよ」
 空中に表示されていた画像をソラが指先でつつくと、ソラの一家の幸せな瞬間がふっと姿を消し、代わりにフォルダとファイルの一覧が映し出された。ソラは空中に指を走らせ、フォルダの中のデータを一つ一つ調べていく。その中には研究内容をまとめた報告書や、進捗や課題をまとめた管理資料、実験の記録映像、各種パラメータや装置の仕様などが記載された詳細資料の数々が、几帳面な性格のソラの父らしく、綺麗に分類分けされて格納されていた。
 ソラは最後にここを訪れた日に、父親によって作成されたファイルを見つけると、それを開いた。空中に光の文字が表示され始めると、トゥルクが訝るように声を上げる。
「これは……?」
「難しいところは私にもわからないけれど、これは多分、この研究所で最後に行なわれた実験の記録」
 ここを見て、とソラは人名の羅列らしき箇所を指で指し示した。
「ソフィア・ラスウェル、倉橋梨乃愛(くらはしりのあ)、カミラ・ハワード、ベネット・ウォーカー、柳艾琳(りゅうえりん)、セディ・コールマン、ライリー・マルティネス。ねえ、トゥルク。この名前を聞いて、何か気づくことはない?」
 そう問われて、トゥルクははっとして息を呑んだ。
「七賢人と同じ名前……?」
「そう。この世界で七賢人と呼ばれているのは、おそらく、|Squad Of a Relief Ark《≪救済の方舟≫研究チーム》――通称SORAに所属していた、ここの研究所の若い研究員の人たちだよ。研究員の人たちとは私はあまり関わりはなかったけど、同じ日系人ということもあって、リノアはこの研究所に出入りする私のことを可愛がってくれた。
 だから、この島に来てリノアの像を見たときに確信した。リノアは私の知っているあのリノア――倉橋梨乃愛なんだって。今のこの世界の礎を築いたのはリノアや他のSORAの研究員の人たちだったんだって」
 ソラは若手の研究員七名の名前の下に書かれた名前を見つめる。ワープ装置の実験担当者および結果確認者の欄に書かれた二つの名前――戸森匠真(ともりしょうま)戸森涼香(ともりりょうか)はソラの両親の名だ。そして備考欄にはコールドスリープマシンの開発機を使用した被験対象の名として戸森蒼來(ともりそら)――まだ十二歳の彼らの愛娘であるソラの名前が記されていた。
 会いたいな、と小さくつぶやくと、ソラは指の腹でネクタイピンを撫でる。空中に光のキーボードを表示させると、ソラはその上に指を滑らせる。その横顔はひどく寂しそうに見えたが、トゥルクは何も言えなかった。
 ソラの指の動きと連動するように空中に光の文字の羅列が綴られていくのを眺めていると、トゥルクはとあることを思い出した。ソラと出会う直前、トゥルクはドバシアの森でこうやって何もない空間に文字が記されていくのを見た覚えが確かにある。
(あの金属の棒……!)
 あのときはソラと出会ったことによるあれこれでオーレンに鑑定してもらうことすら忘れていたが、もしかしたらソラであれば何かわかるのではないだろうか。トゥルクは淡い期待を胸に、ナップザックからドバシアの森で手に入れた花の意匠の飾りがついた正体不明の金属の棒を取り出した。
「ねえ、ソラ。これが何だかわかったりする?」
 見せて、と言うとソラは手を止めて、トゥルクから金属の棒を受け取ると、その大きな黒い目を更に大きく見開いた。
「リノアのかんざし……!」
 オレンジと白のガラスの小さな花々。金細工の葉と垂れ下がった同色の細いチェーン。そのデザインにソラは見覚えがあった。
 リノアは自分の興味がないことになると途端にいい加減になるタイプの人間だ。彼女には髪がまとめられるなら何でもいいと言わんばかりに、そのとき手元にある棒状のもの――実験用の攪拌棒や温度計に始まり、果てには食べ終わった後のアイスの棒や割り箸などを髪に挿す悪癖があった。このかんざしは見かねたソラが、かつてリノアへと贈ったものだった。
「ねえトゥルク、これ、どこで手に入れたの?」
「ソラと出会う直前にドバシアの森で。僕がこれに触れたら、さっきみたいに何もないところに文字が映し出されてさ。古い言葉が多すぎて、内容は断片的にしかわからなかったんだけど、それでもそれのおかげで僕はソラを見つけることができたんだ」
 ソラはかんざしの側面の小さなボタンを押した。どうやら起動時に特定のメッセージが表示されるように設定されているらしく、空中に光の文字が綴られていく。
『これを見つけた後世の誰かへ。今の時代は幸せでしょうか。空は青く、水は澄んでいますか。豊かさと自然の間で、人々は笑えていますか。
 もし、今が私が夢見たそんな時代ならば、これを読んでいるあなたにお願いがあります。ここから南西に千五百歩ほどのところに女の子が一人眠っています。どうか彼女を目覚めさせ、今の時代で幸せに生きさせてあげてほしいのです。すべてを失ってしまったあの子へ、ただそれだけのささやかな幸せをどうか与えてあげてください。
 これを読んでいるあなたがどうか、善良な人間であることを切に願います。そして、あなたとあの子のこの先が幸せであることを心より祈っています。』
 リノアのメッセージを読み終えたソラは唇を噛み締め、目をしばたたかせた。今の自分がトゥルクと出会えたのは彼女の計らいだったのだと知って、何だか泣きそうだった。眠っている間に長い時間が経ち、何もなくなってしまった地球に放り出されて、まだ十六歳だったリノア自身だって心細かったに違いないのに、彼女はこうしてソラのことを心から案じていてくれた。
 しかし、なぜ、リノアは自身の目覚めと共にソラを長い眠りから目覚めさせてくれなかったのだろうか。それだけが不可解だった。もしかしたらその答えがここにあるのかもしれない、とソラは再び手の中のかんざしの側面のボタンを押す。すると、今度は空中にパスコードを求める旨の文言が表示された。研究者としては類を見ないほど優秀なのに、どうでもいいところはとことんいい加減な彼女はどうせ、パスコードは初期のものから変えていないのだろう。そう当たりをつけたソラはレーザーペンとなっているかんざしの先端で数字の一を四つ横並びに空中へと書き綴った。予想通り、あっさりとロックが解除されたかんざしの形をしたリノアのデバイスの中をソラは若干の引け目を覚えつつも調べていく。
 宙に表示されたろくに整理されていないデータ一覧の中に、研究内容に関する覚え書きらしきものに紛れるようにして、『蒼來ちゃんへ』というタイトルのファイルが存在しているのがソラの目に入った。何だろう、と思いながらもソラは指先でそのファイルを選択し、その場に展開していく。
 目の前に半透明の少女の姿が像を結ぶ。それはソラの記憶にあるよりも少し大人びたリノアの姿だった。モカブラウンの髪をお団子にした薄汚れた少女は気安い笑みを浮かべると、
『ソラちゃん。久しぶり、リノアです。これをソラちゃんが見ているってことは、元気にしててくれてるってことでいいのかな?』
「え……?」
 半透明の少女が話しかけてきたことにトゥルクは戸惑った顔をする。
「これは記録映像だよ。今、ここに本当にリノアがいるわけじゃない」
 そう説明してやると、ソラは懐かしい少女の姿をじっと見つめる。映像の少女はふっと真顔になると言葉を続けていく。
『ごめんね、ソラちゃん。ソラちゃんがこれを見ているころには、私もSORAの皆ももうこの世にはいません。
 ソラちゃんを一人にしてしまうこと、私は正直迷いました。ただでさえ匠真先生や涼香さんと生き別れになって心細いはずのソラちゃんを一人にしてしまいたくはなかったけれど、私が目覚めた今の時代よりも、きっとこの先の未来で生きた方がソラちゃんは幸せになれるんじゃないかと思って、私は敢えてソラちゃんを目覚めさせないことを選びました。
 ただの自己満足だと、偽善だと、私を詰ってくれても構いません。けれど、これだけは伝えておきます。私だけでなく、匠真先生も涼香さんもソラちゃんがどうすれば幸せに生きていけるか、ずっと考えていました。匠真先生が私たちの知らないところで開発用のマシンをソラちゃんに使うことを決断していたことには驚きましたが、匠真先生の気持ちはわかる気がします。匠真先生も涼香さんも、せめて一人娘のソラちゃんだけでも遠い未来にどこかで幸せに生きられるようにとずっと気を揉んでいたから。だから表向きは私たち七人を試験機の被験体とするという形をとりながらも、匠真先生はそういった決断をしたんだと思います。
 もう一つ、ソラちゃんに伝えておきたいことがあります。今、これを見ているということは、賢いソラちゃんなら薄々気づいているかもしれませんが、私たちSORAの研究は半分は成功していましたが、半分失敗していました。
 コールドスリープに関しては問題のない結果となっていました。しかし、問題はワープ装置のほうです。
 結論から言うと、あの装置にはワープの機能はありません。どうやら、要となる時空間に干渉するためのモジュールを実装する際に、重大なバグを作り込んでしまったようで、これはワープではなく、過去や未来へ時間移動するためのものになってしまっているようです。昔のSF小説をよく読んでいたソラちゃんにはタイムマシンみたいなものだって言ったらわかりやすいのかな。
 ねえ、ソラちゃん。私たちの持つ科学や技術は結果として、かつての地球を滅ぼしてしまいました。きっと科学や技術の発達は私たち人間にとって早すぎて、同時にその力は手に余るものだったのでしょう。
 今のこの世界を人が暮らしていけるように最低限の形に整えたのは私たちです。ですが、私たちは自分たちの持つこの科学や技術の力は後世に伝えることなく、封印してしまうことを決めました。過ぎた力はきっと、私たち人類に再び過去と同じ轍を踏ませかねないと思ったからです。
 だから、ソラちゃん。お願いです。もし、この先ソラちゃんが築地にあったSORAの研究所を見つけることがあったとしても、私たちの研究については触れることなく、このまま眠らせておいてください。
 最後にもう一つだけ。匠真先生も涼香さんも、もちろん私もソラちゃんの幸せをずっと祈っています』
 室内に反響するリノアの声が消えていくとともに、彼女の姿が徐々に薄くなっていく。過去の映像だとはわかってはいても、空気の中に溶け込んでいく彼女をどうにかしてこの場に繋ぎ止めておきたくて、ソラは手を伸ばす。しかし、指先はただの光の粒子の集合体でしかない虚像をすり抜けていく。あ、と声をソラが声を漏らすと、わずかなきらめきを残して、リノアの姿は霧散した。
「リノア……」
 行き場を失って宙を泳ぐ手を引っ込めると、ソラは顔を覆った。こうして、リノアや両親の思いに触れ、納得できる部分はあった。ある程度予想していた部分も覚悟していた部分もあった。それでも、ずるいと思った。リノアも両親もソラのためだと言って、勝手な理想と都合ばかり押し付けていく。
「ずるいよ……みんな、みんな勝手だよ……!」
 ソラの唇が震える。指の間から、ぽたり、ぽたりと涙が滴り落ちていく。
「ソラ……」
 ソラが泣いていることに気づいたトゥルクは、彼女を案じるようにそっと細い肩に触れた。静かに嗚咽を漏らすソラの肩は小さく上下動を繰り返していた。
 ソラだって、リノアが言いたいことは頭では理解できる。しかし、感情がそれを受け入れるのを拒否していた。自分はそんなことは望んでいなかったと年相応のソラが心の中で泣き喚いている。
(リノア……私、そんなこと言われて受け入れられるほど賢くもなければ、いい子でもないよ……!)
 リノアのメッセージに触発され、会いたいという思いが加速していく。両親にもリノアにも会いたかった。会って直接、彼らに自分の想いを伝えたかった。大切な人たちとあんなふうに引き離されたくはなかった、一緒にいたかったと、ソラの意志を蔑ろにしたことを詰りたかった。そのためならば、何だってできるような気がした。
 リノアは、あのワープ装置はタイムマシンのようなものだと言っていた。ならば、まだソラが両親に再会するための術は残されているということになる。
(あの装置を使えば、お父さんとお母さん、リノアに会える。まだ、皆が生きていた、あの時代に戻れる……!)
 先程のメッセージの中で自分たちの研究はこのまま眠らせておいてほしいとリノアは言っていた。しかし、あのワープ装置の存在は、今のソラにとって大きな誘惑だった。
 胸の奥からこみ上げてくる、会いたいというどうしようもなく強い衝動に突き動かされ、ソラは乱暴に目元を拭う。ソラは父のものだったネクタイピンに触れ、空中にもう一度キーボードを表示させる。
 ガラスの向こうの続き部屋は実験室だ。実験室へ行けばSORAのみんなが研究していた装置を操作できるはずだ。ソラは空中に映し出された光のキーボードに指を走らせ、続き部屋へのロックを解除する。ガチャリという解錠音によし、とソラは頷いた。
 来て、とソラはトゥルクを誘うと、隣の実験室へと続く扉を開ける。大昔のスポーツであるサッカーのコートほどの広さがあろうかというその空間には、様々な装置が並んで
いた。金属製の大きな円柱から配管パイプが幾本も伸びた、二酸化炭素を分解して酸素を生成するための循環器。メーターの取り付けられた四角い箱のような見た目の、室内から酸素をなくすための真空装置。巨大なプロペラが印象的な重力制御装置。基盤やケーブルが芸術的なまでに整然と組み上げられた、室内に人為的に宇宙を発生させるための小型ハドロン衝突加速器。
 ぐちゃぐちゃと並べられたマシン類の間を縫って、ソラは目的の装置の元へと迷いなく歩を進めていく。
「ここはこの施設最大の実験室。ここでワープについての実験が行なわれていたの。つまり、この部屋こそが、トゥルクが探していた七賢人の遺産――SORAによる《方舟計画》の産物なんだよ」
「え……」
 トゥルクはソラから明かされた真実に呆然とした。先ほどからソラには突拍子もない話ばかり聞かされ続けていて、そろそろ頭がパンクしてしまいそうだった。それに《方舟計画》というのは一体何なのだろう。トゥルクがそれをソラへと尋ねると、
「《方舟計画》はね、暮らせなくなってしまった地球から人類が脱出するためにSORAの皆が推し進めていた計画のことだよ。お父さんたちがコールドスリープやワープの研究をしていたのは、この《方舟計画》の一環だったんだ。そうだ、リノアが書いた《方舟計画》についての記録がさっきあったから見せるね」
 ソラはリノアのかんざしを取り出すと、乱雑に突っ込まれたファイルの中から、リノアの残したメモファイルを探す。ファイルを開き、リノアの文章が空中に表示され始めると、ソラの時代の文字にさほど明るくないトゥルクのために、ソラはその内容を彼へと話して聞かせた。ソラの口から明かされた《方舟計画》の顛末から今のこの世界の創造にまつわる真実にわたる物語を呆然としながらも、トゥルクはどうにか理解を試みる。
 それでこれが、とソラは色とりどりのケーブルがぐちゃぐちゃと複雑に接続された一番大きなマシンを手で指し示す。
「これがSORAの皆が研究してたワープ装置……ううん、時を越えるための装置。研究途中だったから、当然小型化なんてできてなくてこんな大きさなんだけど。
 ええと……さっき見たお父さんの研究記録によると、これを……こう、でいいはず」
 そう言いながら、ソラは筐体に接続されたキーボードを叩いていく。すると、ピ、ピ、という音と共に、壁の大量のモニターに夥しい量の複雑な数式や図が映し出された。
「ええと、ここのパラメータがたぶんこうで……あっちはあれとあれの計算結果が入って……」
 ソラはモニターに表示された数式を見つめながら、ぶつぶつと何事かつぶやいている。カタカタとキーボードを打つ音を立てながら、ソラは大量のパラメータを埋めていく。ターン、とエンターキーをソラが叩くと、トゥルクとソラを囲むように床に大きな光のサークルが現れる。
「トゥルク、見て。私の生まれ育った世界を。人間の技術の進歩が壊してしまった、汚れてしまった世界の終わりの姿を」
 ソラはそう言うと、筐体の横にある丸く赤いボタンを小刻みに震え続ける手のひらで撫でる。その顔はどこか複雑そうだ。躊躇うようにボタンに触れ続けるソラにトゥルクはそっと問う。
「ソラ、押さないの?」
「私……少し、怖いみたい」
 ソラ自身、自分がとんでもないことをしている自覚はあった。それが自分のことを思ってくれた人たちの気持ちを無碍にする行為だということも理解してはいた。そっか、とトゥルクは穏やかに頷くと、ソラを優しく見つめた。
「ソラはどうしたい? 僕はソラの気持ちを尊重するよ」
「私は……」
 ソラは口ごもる。自分の気持ちに従って動くことが果たして正しいことなのかどうかはわからない。今のソラを見たら、彼らは何を思うのだろう。それでも、とソラは唇を噛む。心の奥から湧き上がってくるこの感情は止められそうにない。
「お父さんとお母さん、リノアにもう一度会いたい……! 会いたいの……!」
 震える声でそう言ったソラの手をトゥルクはそっと握った。トゥルクは茶褐色の真剣な眼差しをソラの顔へと向けると、
「ねえ、ソラ。どうしても怖いって言うなら、僕が一緒に押すよ」
「うん……トゥルク。お願い、一緒に押して」
 わかった、とトゥルクは首を縦に振る。トゥルクとソラは絡めた手をボタンの上へと置き直す。二人は目と目を合わせて頷き合うと、ボタンをぐっと押し込んだ。
『第一フェーズ開始まで、三、ニ、一……』
 二人の頭上で無感情な女の声によるカウントダウンが開始される。足元のサークルが激しく発光し始める。ちかちかと明滅する青白い光の粒子が巨大な円柱を形成し、二人の全身を包んでいく。
『まもなく超加速フェーズに突入……』
 女の声のアナウンスと同時にがたがたと部屋全体が大きく揺れ始めた。体勢を崩したトゥルクの手からソラの手が離れていく。「わっ……」ぐわんと体が大きく揺さぶられるような感じがして、トゥルクは思わず声を上げ、蹲る。頭の中がぐるぐるとするし、何だか耳が詰まっているような感じがする。振動に内臓を揺り動かされ、胃にほんのりと不快感を覚えたトゥルクは手で口元を覆う。ソラも耳の辺りを押さえながら、揺れに耐えるように姿勢を低くしていた。
 トゥルクは自分の足が光に同化するようにして消えかけていることに気づいた。口元を押さえていた手を見ると、その輪郭がほろほろと崩れ、青白い光の粒へと置き換わり始めていた。その光景はどこか神秘的ですらあるというのに、自分が自分ではない何かになってしまうような気がしてトゥルクは背筋に寒気を覚えた。
 ソラを見ると、彼女もまた、青白い光の中に体を呑み込まれ、消えかけていた。
「ソラ! 大丈夫!?」
 トゥルクは既に胸から下がなくなってしまっている彼女へと手を伸ばす。そうしている間にも、ソラの長い黒髪がきらきらと光をまといながら、毛先から消えていく。ソラはトゥルクを安心させるように、差し伸べられた彼の手を握り直すと、
「大丈夫。これは時間移動にあたって、私たちの体を一度タキオン粒子に変換しているだけだから。一度、私たちの体は分解されてバラバラになるけど、後で元通りに再構築される仕様だから心配しないで」
 繋いだ二人の手が光の粒となってほろほろと崩れ、溶けていく。ソラの手の感触が、温もりが、トゥルクの触覚から失われていく。ソラはああ言っていたものの、なんだかこのままソラが永遠に失われてしまうのではないかという恐怖にかられて、振動に翻弄されながらもトゥルクは手足がなくなってしまった自分の胴体を無理やり転がしてソラへと近づいていく。大部分が既に青白い光の中へと消えてしまっているソラは、トゥルクの必至な顔を見ると、
「トゥルク、そんな顔しなくても大丈夫だよ。また向こうで会えるから。それじゃあ、後でね」
 仕方ないなあとでも言いたげにソラは淡い笑みを浮かべると、彼女の顔は光の粒となって消えていった。
「ソラ!」
 彼女の名前を呼んだはずのトゥルクの声は音にならなかった。辛うじて消えずに残っていたトゥルクの顔も光の中へ溶けていき、彼の意識はぶつりと糸が切れるように暗転した。

 トゥルクが意識を取り戻すと、彼の視界にはソラが装置を動かす前と何ら変わりのない実験室の風景が広がっていた。いつの間にか、あれほど激しかったはずの揺れも止まっているし、二人を包んでいた青白い光も消えている。はっとして視線を落とすと、消えてしまったはずの手があった。きちんと感覚も戻っているし、体の部位がどこか欠けている様子もない。
「ソラ! よかった……無事で」
 すぐ傍に見慣れた長い黒髪の少女の姿を認めると、安堵でトゥルクは胸を撫で下ろした。光の中に溶けて消えてしまったはずの彼女がきちんと五体満足でここにいる。大袈裟だなあとソラは呆れたような表情を浮かべると、
「だから、大丈夫って言ったでしょ?」
「でも僕、このままソラが消えて、もう会えなくなっちゃうんじゃないかって不安だったから……」
 そのとき、無機質な声が、無事に過去への転移が終わったらしいことを告げた。
『転移完了。終了フェーズに移行します』
 ソラは立ち上がると、キーボードに指を滑らせて手元の装置を操作していく。一体ソラは何をやったのか、実験室の壁や天井、床が透明になり、トゥルクは瞠目した。
「トゥルク、これが私の生まれ育った……」
 そう言いかけたソラの言葉が不自然に途切れた。彼女は信じられないものを見るようにあんぐりと口を開けたまま、壁の向こうの光景を凝視している。
 透き通った壁の先には深い藍色の海が広がっていた。魚一匹いない暗い世界では、荒廃しきった街並みが眠りについていた。
「何、で……どうして……!」
 ソラは思わず筐体に拳を叩きつけた。外の景色は、トゥルクとソラが研究所に入る前に見ていたものと大差ない。自分たちの体が今ここできちんと再構築されている以上、大きな問題は起きていないはずだった。もしかしてリノアたちですら把握していなかった不具合があったのかとソラは混乱しながらもコンソールを覗き込む。黒い画面に何やら白い文字が出力されており、ソラはそれに目を走らせていく。文章を読み進めるごとに、ソラの表情は固く強張っていく。
(そんな……パラメータのアンダーフローなんて……!)
 コンソールにはエラーメッセージが出力されていた。ソラはこの機械を動かすにあたって、元々暮らしていた時代をパラメータとして入力していたが、演算で使用するうちに、システムが許容できる最小値を下回ってしまったようだった。
 自分が暮らしていた時代に戻ってこられなかったことは理解できたが、それなら今は一体いつなのだろうとソラはシステムの時計を確認する。
「西暦十二万年……?」
 ソラが地球を離れたのは西暦二三一六年のことだ。今いる時代はソラが生きていた時代から遥か先だ。トゥルクの時代は一体どれだけ先の未来だったのだろうと思うと、ソラは何か大きなものに飲み込まれてしまったような心細さを感じた。
 今いる時代からもう一度、この装置を使えば今度こそ元の時代に戻れるだろうか。そう思いながら、モニターの表示を切り替え、エネルギー残量を確認したソラは愕然とした。
 恐らく、この装置を使えるのはあと一度が限度だ。しかし、ソラが自分の時代に帰るためにこの装置を使ってしまっては、トゥルクが自分の時代に帰れなくなってしまう。
「どうしよう……」
 ソラは弱りきったように眉尻を下げる。どうしたの、とトゥルクは問う。
「あのね、トゥルク。一度に移動できる時間には限界があるみたいで、私の時代に戻ろうと思ったら、もう一回、この装置を使わないといけないみたいなの。だけど、エネルギーの残量からして、この装置が使えるのもあと一回が限度。つまり、私の生まれ育った時代に戻ることを選べば、トゥルクは自分の時代に帰れなくなっちゃうってこと」
 そう、というトゥルクの反応は究極の二者択一を突きつけられているとは思えないほど落ち着いたものだった。どうしようと動揺するソラの目をトゥルクはまっすぐに見つめると、
「ねえ、ソラ。もう一度聞くよ。ソラはどうしたいの?」
「………」
 ソラは俯いた。あの時代に戻り、両親やリノアに会いたいのは事実だ。けれども、ソラの理性はトゥルクから元の時代で生きる権利を奪ってまですることではないと訴えていた。あくまでソラの意志を最優先してくれようとする優しい彼は、きっと自分が元の時代に帰れなくなったとしても怒りはしないだろう。しかし、美しい世界で生きることを望まれた結果、大好きだった人たちとの別れを強いられたソラ自身がそれはすべきではないと知っていた。大人たちが良かれと思ってした決断に、ソラは感謝もしていたが、同時に憤りをも覚えていた。
「わかんないよ。トゥルク、私、わかんないの。自分がどうしたいのか、どうするべきなのかわかんないの……!」
 ソラはトゥルクの腕を掴むと、縋り付くようにその胸元へとつるりとして滑らかな額をつける。
「お父さんもお母さんも私のことを思って、私のことを送り出したのはわかってる。リノアだって、幸せな時代に私が生きられるようにって、あえてトゥルクに見つけてもらえるまで私をそのままにしておいたんだってことも、頭では理解してる。
 だけど、お父さんとか、お母さんとか、リノアに会いたいって思っちゃいけないの? 私の幸せって一体なんなの?」
 トゥルクはソラの背中にそっと腕を回した。細いその体は小刻みに震えている。トゥルクは優しく彼女の名前を呼ぶ。
「ソラ。ソラは今、不幸せ? 僕とこうやって、旅をしながら過ごす生活は嫌?」
「そんなことないけど……でも」
「でも?」
 ダークブラウンのシャツの胸元にじわりと温かい液体が広がっていく。涙で声を滲ませるソラの背中をトゥルクはよしよし、とそっと撫でる。
「みんなみんな、勝手だよ。私にとって何が幸せなのかを勝手に決めつけて、私を一人にして。それを幸せなんて言葉で片付けるのはずるいよ……」
 喉の奥から絞り出すようなその言葉から漏れ出す感情に胸が苦しくなって、トゥルクはソラをぎゅっと抱きしめた。彼女を愛していた人々がトゥルクの生きる時代へと繋いでくれた彼女の命は、どくどくと鼓動を打っていて温かい。
「ソラは……寂しかったんだね。ソラの意志なんて関係なく、大人たちだけでソラのことをどうするか決められて。それが善意からのものだったとしても」
 腕の中でソラが頷くのをトゥルクは感じた。わかるよ、とトゥルクは言葉を続けていく。
「幸せになって、ってすごく身勝手な言葉だよね。二年前、僕のおじいちゃんも亡くなる前にそう言ってて、どうしたらいいんだって思ったよ。そんなよくもわからない未来のことなんてどうでもいいから、今ここからいなくならないでって、一人にしないでって。
 だけどね、ソラ。僕は感謝してるよ。こうやって、ソラのことを大事に思って、ソラの幸せを願ってくれた人たちがいたからこそ、僕はこうやってソラと出会えたんだから」
「トゥルク……」
「僕とソラは今ここで生きてる。何のためでもなく、誰のためでもなく、自分のために生きてるんだよ。
 ここしばらく、ソラは僕と一緒に色々な物を見てきて、楽しくはなかった? 知らないものを見て、わくわくしたりはしなかった? 僕はね、美しくて沢山の謎が眠るこの世界が大好きだよ。僕がこういうものに興味を持てるように育ててくれたおじいちゃんにも今は感謝してる。
 僕はできれば、この先もソラに僕が大好きな世界を見せてあげたい。一緒にくだらないことで笑い合ったり、美味しいものを食べたりしながら、明日も明後日も僕は生きていきたい。
 ねえ、ソラ。ソラがどうしても元の時代に帰りたいっていうんなら、僕はそれを止めない。だけど、ソラはご両親やリノアっていう人に会ったあと、どうするの? ソラが生きたい明日はどこにあるの?」
「私の……明日?」
 はっとしたようにソラは顔を上げる。動揺で言葉尻が揺れている。両親やリノアに会いたいという気持ちばかりが先行して、元暮らしていた時代に戻ったとして、その後どうするのかなんて考えてはいなかった。
 トゥルクと出会った時代へ帰るための手段がない以上、あのころに戻ったとしてもトゥルクとソラは蔓延する疫病や肺を蝕む汚れた空気などによって、遠からず死に至るであろうことは疑いない。だとすれば、自分は一体何のためにあの時代へ帰るのだろう。命を賭して送り出してくれた両親の前に自分が姿を現したら、二人はどう思うのだろう。ソラは初めてそのことを考えた。
 今、ソラがここにいるのは、両親やリノアの愛情によるものなのだろう。ソラにも言いたいことはあるが、それだけはきっと確かなことなのだろうと信じられた。
(私が戻れば、お父さんとお母さんの気持ちも覚悟も無駄になる……リノアの心遣いだって……。私に皆の思いを踏み躙る覚悟はあるの?)
 ソラは改めて、自分の胸にそう問いかける。しかし、そんなものを背負うだけの覚悟は自分にはないとソラは思った。同時に、どれだけ自分が軽はずみに両親やリノアに会いたいと言っていたのか、今になってようやく実感が込み上げてきた。
「私がしたいことは、少なくとも、お父さんやお母さん、リノアの思いを踏み躙ることじゃない……。死んじゃったとしてもいいからお父さんやお母さんと一緒にいたかったのにああいう形で引き離されちゃったのは悲しかったし、私の気持ちなんて無視して、大人たちだけで何もかも決めちゃったのが嫌だったのは確かだよ。だけど、私がしたいのはそんなことじゃない……!」
 ソラは喉の奥から言葉を絞り出すようにしてそう言った。それは紛れもないソラの本音だった。
「私、トゥルクといるの嫌じゃないよ。トゥルクと一緒にいろんなところに行って、冒険するのも楽しいし。まだ、トレジャーハンターが今の私のやりたいことなのかどうかわからないけど……それでも、私、トゥルクと一緒にいてもいいかな? 私、これ以上、誰かと別れたくない。一人になりたくないの」
 いいよ、とトゥルクは頷いた。大きな目を真っ赤に泣き腫らしたソラの頭をぎゅっと抱き寄せると、トゥルクは耳元で囁く。
「ソラ、僕は一緒にいるよ。ソラから離れたらなんてしないから。二度とソラにそんな思いをさせたりなんてしないから。
 だから、ソラ。一緒に帰ろう。僕たちの時代に。僕たちの日常に」
「うん。……帰ろう、トゥルク」
 ソラはとん、とトゥルクの肩口に一瞬、額をつけるとするりと猫のような動きでその腕の中から抜け出した。ソラはごしごしと黒いジャケットの袖口で目元を拭うと、強気な笑みを浮かべる。明るくて気丈な、トゥルクがよく知っているソラの笑顔だった。
 ソラはワープ装置に手を触れると、トゥルクと出会った時代へ戻るための準備を始める。キーボードの上に指を走らせ、パラメータをソラは入力していく。二人を囲むように、先程と同じ光のサークルが床に現れたことを確認すると、ソラは丸く滑らかな手触りの赤いボタンに手を触れた。
「トゥルク」
「うん」
 トゥルクは背後からソラを抱きしめるようにして、ソラの手の上からボタンに触れる。トゥルクとソラは顔を見合わせて頷き合うと、ボタンを押した。
『第一フェーズ開始まで、三、ニ、一……』
 部屋の中に無機質な女性の声が響く。足元のサークルが眩い光を放ち始め、青白い光の円柱が二人を覆う。再び、二人の体は光の粒子となって、末端からほろほろと分解され始めた。
「ねえ、トゥルク」
「なあに?」
「ありがとね」
 ソラは背後のトゥルクを振り返ると、はにかんだような表情を浮かべる。大好き、とソラは小さく呟いたが、スピーカーから発せられた機械音声にかき消されて、トゥルクの耳に届いた様子はなかった。
『まもなく加速フェーズに突入……』
 これから訪れるであろう揺れに備えて、ソラは背後のトゥルクへと背中を預けた。トゥルクはそれを拒むことはなく、背後から両腕を回してソラの肩を抱いた。
 もうこれで、自分が両親やリノアに会えることはきっとない。今日のこの選択を後悔することがあるかもしれないけれど、それでもこの決断をした自分を今は誇っていたいとソラは思った。
 とくとくと脈打つお互いの鼓動がやけに大きく聞こえる。トゥルクとソラは互いの体温を感じながら、その時を――再び時間を越えるその瞬間を待った。