SORA-水底に眠る世界の秘密-

 青、紺、水色――青系統のタイルがふんだんに使われた建物が立ち並ぶメインストリートをソラは歩いていた。ロングジレの下に着た半袖の白いシャツから覗く腕に感じる秋の風に、ソラはそろそろ新しい上着を買わないと、と思う。トゥルクにコルニスの大市で服を買ってもらったときはまだ暑い時期だったので、裾を結んだシャツの下から露出した腹やモスグリーンのハーフパンツから伸びる生脚がそろそろ寒い。首元にひんやりとした空気を感じて、ソラは緩みかけていた水色のリボンタイを手早く結び直す。
 トゥルクとソラがこのリノア島にやってきて一週間ほどが経つ。この島に来てから、いくつかの財宝を発見し、そろそろ二人は違う島へ移動しようかと考えていた。
 ここ何日かの成果を持って、今、トゥルクはこの街の鑑定士の元を訪れている。その間、ちょっとした観光も兼ねて、ソラは重厚的な印象の建築物が多いシャトンの街をぶらぶらと歩いていた。
 この世界は街によって、随分と印象が異なる。しかし、どれもどこかで見た覚えのあるような佇まいの街が多いようにソラは思う。今いるこのシャトンの街の景色も、似たようなものを過去に古い記録写真か絵画で見たことがあるような気がする。
 そんなことを考えながら、砂色のレンガと青いタイルで作られた神殿の前でソラは足を止めた。この神殿の賢人の像のところでソラはトゥルクと落ち合う予定だった。この街では定番の待ち合わせスポットなのか、ソラと同じように誰かを待つ人の姿が像の周りには散見された。
 ソラは頭上にある未来を司る賢人リノアの石像を見上げる。その石像はソラよりもいくつか年上の少女の姿をしていた。その目鼻立ちはソラが知っている人物のものに酷似していて、かねてより抱いていた疑惑を裏付けているように彼女には思えた。
(似てる……。アガルテのときは確証が持てなかったけど、彼女はたぶん……)
 以前暮らしていた星で、ソラは科学者であった両親の研究所によく出入りしていた。ソラの両親の研究所にはまだ若い研究者たちも多く、中でも一番歳若かったのが、まだ学生ながら研究所随一の天才と呼ばれた倉橋梨乃愛(くらはしりのあ)――リノアだった。
 リノアは時間を見つけては、ソラのことをよく構ってくれた。ソラは一人っ子だったが、自分のことを可愛がってくれる四つ年上の彼女を姉のように慕っていた。
(七賢人っていうのはもしかして……)
 ソラはリノア以外の若い研究者たちとはあまり接点がなかったが、アガルテでセディの像を見たときも既視感を覚えた。ドバシアの森の地図に書かれていた文字はリノアのものに酷似していたし、ここにある石像の姿はソラが慕っていた彼女に瓜二つだ。
 だとしたら、と脳内を占めていくとある可能性にソラが確信を強めていると、聞き慣れた少年の声に名前を呼ばれた。石像を見上げながら思考に耽っていたソラは一瞬遅れて、彼を振り返る。
「あっ、トゥルク」
「ソラ、お待たせ。どうしたの、リノアの像なんて見上げて」
 はいこれ、とトゥルクは甘い匂いと湯気が漂う茶色い液体が入った紙コップをソラへと渡す。「ありがと」ソラはココアの入った紙コップを受け取って、口をつけながら、
「別に、ちょっと考えごとしてただけ。ねえ、それよりこの後、服見に行きたいんだけどいいかな? そろそろもう少し温かい服が欲しくって。女の子にとって冷えは大敵だもん」
 いいよ、とトゥルクは頷く。トゥルクとしてもそろそろいつも使っているナイフを手入れに出しておきたかったし、ソラと街をぶらつくことについては何も異存はない。
 二人はココアを飲み切ると、青いタイルの街並みの中へと足を踏み出した。ああでもないこうでもないと服を扱う店のショーウィンドウの数々とにらめっこをしながらソラは歩いている。先ほど合流する前に何かひどく考え込んでいたのが気がかりだったが、こんなふうに服を見ながら百面相をしている彼女を見ている限り、どうということはなさそうだとトゥルクは安堵する。
 ソラの後ろをゆっくりとついて歩いていたトゥルクは、ショーウィンドウの内側からこちらを見ているマネキンに目を止めた。マネキンに着せられているのはソラが好きそうな色の暖かそうなハイネックのワンピースだ。
「ねえ、ソラ。あれとかどう?」
 トゥルクが服を指差すと、どれ、とソラは振り返った。ふうん、と彼女は呆れたような顔でトゥルクの顔と服を見比べると、
「トゥルクってこういうのが好きなんだ? 本当に男の子ってこういう服好きだよね」
「えっ、そういうつもりじゃあ……! ただ、僕はソラはこういう色の服好きなんじゃないかなって思っただけで!」
 慌てふためくトゥルクに、冗談、とソラは笑う。トゥルクとて、ぴったりと体のシルエットが出るそのデザインに下心を覚えないといったら嘘になるが、ソラに軽蔑されてしまいそうなのでそれは口にしないでおいた。
 ざっくりと編まれた水色のニットワンピース。暖かそうだが、太腿が露わになりそうな短い丈。体のラインが浮き彫りになる細身のデザイン。
「まあ、いいけどね。そうだなあ……これに合わせるんだったら、ジャケットは黒かグレーで、パンツは白とかかなあ……」
 マネキンを前にソラはコーディネートを考え始める。うんうんと唸るソラの横で、トゥルクはショーウィンドウのガラスに見知った人物の姿が映り込んでいることに気づいて、後ろを振り返った。
「オーレンさん!」
 トゥルクが彼の名を呼ぶと、恰幅の良い中年の商人はおう、と足を止めた。彼はトゥルクとソラのほうへ近づいてくると、
「トゥルクじゃねえか。奇遇だな。こんなところで何してるんだ?」
「買い物。ソラが服見たいっていうから」
 ああ、とショーウィンドウに張り付くソラを見て、オーレンは納得したように頷いた。
「まあ、最近だいぶ涼しくなったし、あの恰好じゃちょっと寒いわな。あれじゃあ、体冷やしちゃうんじゃないかって、俺でも心配だ」
 まるでソラの父親か何かのようなコメントをすると、ソラちゃん、とオーレンは財布の中身を確認している彼女へと話しかける。ソラは自分の財布から顔を上げると、オーレンへと向き直り、
「オーレンさん、お久しぶりです」
「ソラちゃん、服買いに来たってトゥルクから聞いたけど、何か困ってるのか?」
 オーレンの問いにソラは少しばつの悪そうな顔をすると、
「そこの服買おうと思ったんですけど、意外と高くて。上着とパンツも新調したかったので、どうしようか迷ってたところです」
「それなら、俺のところにカミラ島で仕入れてきた服が手元にあるから、後で見にこないか? 気に入ったものがあれば、三割引にしてやるよ」
 いいんですか、とソラが聞くと、おうよ、とオーレンはその髭面に朗らかな笑みを浮かべ、
「どうせ、トゥルクにも用があったからな」
「僕に用事って?」
「急ぎじゃねえけど、会えたらそのうち伝えようと思ってたネタがあってな。二人とも、夕方の五時半に俺が泊まってる金鳥亭まで来てくれ。ソラちゃんの服を見てから、ゆっくり飯でも食いながら話そうや」
 わかりました、とトゥルクは頷いた。「俺はまだこれから商談があるから」オーレンは手をひらひらと振ると、忙しそうに去っていった。ソラは遠ざかっていくオーレンの背中を見送ると、ショーウィンドウの中のワンピースへと視線を戻し、
「私、この服買ってくるね。ジャケットとパンツは夕方、オーレンさんのところで見せてもらうことにする」
 トゥルクはここで待ってて、と言うとソラは複雑な幾何学模様の彫刻が施されたドアを開き、店の中へと入っていった。
 トゥルクはショーウィンドウのガラス越しに、店内で買い物をするソラの姿をなんとはなしに眺めながら、夕方までにやるべきことを頭の中に並べていく。ナイフを研ぎに出しに行きたいし、少なくなってきた携帯食料を買い足しにもいきたい。時間が余れば、最近この街で流行っているという砂糖をたっぷりまぶしたチュロスをソラに食べさせてあげたい。
 よし、と気合を入れるとトゥルクは青いタイルの建物に囲まれた空を見上げる。頭上を覆う青色は、力強い夏のものから切なさを帯びた秋のものへといつの間にか表情を変えていた。ソラと出会ってからまださほど経っていない気がするのに、季節は確かに進んでいる。
 しばらくすると、ギィ、と店の内側からドアが開けられ、店のロゴが入った紙袋を手にしたソラが姿を現した。その顔はどことなくほくほくとして機嫌が良さそうだ。
「それじゃあ、ソラ。次、行こうか」
「武器を手入れに出すんだっけ?」
 そうだよ、とトゥルクはソラと共に次の目的地へと歩き出す。
 秋の涼やかさを孕んだ風が青色が散りばめられた建物の間をするりと吹き抜けていった。

 トゥルクとソラがオーレンの泊まる金鳥亭を訪れたのは待ち合わせの五分前のことだった。いらっしゃいませ、と若い男性の店員に出迎えられ、「あの、待ち合わせなんですけど。商人のオーレンさんっていう人と」待ち合わせである旨をトゥルクが説明すると、彼は二人をビールの空き瓶が積み上げられた客席へと案内してくれた。ソラはうわぁ、と顔を引き攣らせると、
「オーレンさん……一体、何時から飲んでらっしゃったんですか……?」
 恐る恐るといったふうのソラの問いに、オーレンは四時ぃ、と答えた。トゥルクとソラを待っている間に一体どれどけ飲んだのか、呂律が回っていない。
 ごゆっくりどうぞ、と店員は呆れたようにビール瓶を回収すると、代わりに人数分のグラスと水差しを置いて去っていった。ソラはオーレンの向かいに腰を下ろすと、手早くグラスに水を注いでいく。水の入ったグラスをソラはオーレンに渡しながら、
「オーレンさん、これ飲んでください。というか、ご飯も食べずにお酒ばっかりあんなに飲んじゃ駄目じゃないですか」
 今日はもうお酒禁止です、と言うソラからオーレンはグラスを受け取りながら、
「ソラちゃん手厳しいな……」
 ぼやきながら水に口をつけるオーレンへと、駄目なものは駄目です、とソラは畳み掛けた。
 しばらくして多少酔いが覚めたのか、顔色から少し赤みが薄れたオーレンがそうだった、とこの時間に待ち合わせた理由を思い出したように、
「そうだ、ソラちゃん。約束していた服の件だが、欲しいやつあったら言ってくれ。たぶん、昼間見てたあのワンピースは買うだろうと思ってたから、上着と下、合わせやすそうなものである程度絞っておいた」
 オーレンはテーブルの下から衣類が入った大きな紙袋を取り出しながら、夜の客を迎える準備をしている店員へと「悪いが、もう一個テーブル使わせてくれ」「いいですよー」店員の許可を得ると、まだ少し体をふらつかせながらもオーレンは立ち上がり、隣の四人がけのテーブルの上に服を広げていく。
 温かな色味の茶色い格子柄の薄手のコート。ボディラインにぴったりと張り付くデザインのネイビーのレギンス。シンプルながらもフェミニンさを合わせ持った黒いジャケット。オフホワイトのスリムパンツ。繊細な刺繍が美しいロングカーディガン。千鳥格子柄のハイウエストパンツ。
 わあ、とソラは大きな黒い目をきらきらとさせながら、椅子から立ち上がるとオーレンの側に近寄っていく。服を手に取って、自分の体に合わせてみたりしながら、ああでもないこうでもないとソラは服を吟味していく。ソラは検討に検討を重ね、最終的に残った黒のジャケットとオフホワイトのスリムパンツを手に、
「オーレンさん。これとこれ、いいですか?」
「おう。二枚で銀二枚でいいぜ」
 銀二枚、とソラは思わず聞き返した。昼間に買ったワンピースが金貨一枚に銀貨二枚という価格だったのを考えるとこれは破格の値段だ。街中で会ったときに三割引にするだとか言っていた気がするが、それを踏まえてもいくら何でも安すぎないだろうか。それをソラがオーレンへと伝えると、彼は美少女割だなどと嘯いて、
「トゥルクが相手だったらこんなに安くしねえよ。ソラちゃんはかわいいから特別ってやつだ。ま、そういうわけだから気にするな」
 はあ、と呆気に取られながらも、ソラは自分のミニリュックから財布を取り出した。銀貨二枚を財布から出すと、ソラはそれをオーレンへと差し出す。いいのかな、と思いつつも、これ以上問答を重ねることで、オーレンの厚意を無碍にはする気になれなかった。
 毎度、とオーレンは銀貨を受け取ると、テーブルの上に広げた衣類を畳んで片付け始めた。ソラも買ったばかりの黒いジャケットに袖を通すと、スリムパンツはミニリュックの中へとしまった。
「よし、トゥルク、ソラちゃん。それじゃあ、飯にするか。好きなもん頼みな」
 そう言いながら、オーレンはトゥルクの斜向かいへと腰を下ろした。ソラもトゥルクの隣に座ると、メニュー表を覗き込む。
「ねえ、トゥルク。これは何て読むの? あとこれは? 牛肉っていうのは読めるんだけど」
「こっちはラタトゥイユ、そっちはビーフシチューだね」
 ソラがトゥルクと出会ってから、一ヶ月ほどが過ぎた。文字が読めなかったソラは日々、トゥルクにいろいろと教えてもらって、簡単な単語や数字くらいであれば読めるようにはなっていた。しかし、難しい固有名詞などになると、まだまだ知識不足は否めず、今でもこうしてトゥルクに時々補足してもらうことがある。
「じゃあ、私はラタトゥイユにしようかな」
「じゃあ僕はゴロゴロ肉のガーリックライス」
「あ、それいいな」
「ソラ、ちょっと食べる?」
「うん。トゥルクにもラタトゥイユ分けてあげるね」
「僕はいいよ、ナス苦手だし」
「もうトゥルク、好き嫌いしてたら健康にも悪いし、大きくなれないんだから」
 えー、とトゥルクは嫌そうな顔をする。少年と少女の向かいに座ったオーレンは咳払いをすると、
「お二人さん、随分と仲がよろしいことで。もしかしなくても、おじさん邪魔?」
「オーレンさん誤解だってば! ソラも何か言って!」
「えー、私はいいよ。そうやって慌ててるトゥルク見てるの面白いもん」
「ソラ!」
 ソラに適当に受け流されたトゥルクは思わず声を上げた。こちらを見るオーレンのにやにやとした視線が痛い。
「トゥルクー、ちょっと会わねえ間に随分と尻に敷かれてんなあ。っていうか、ソラちゃんってこんな感じだったっけか? 何かもっと大人しそうな子だった印象があるんだが」
「オーレンさん、ソラはこれが本性なんだよ……前のときはまだ猫被ってたというか……」
 何か言った、とソラはトゥルクとオーレンの顔を見比べながら、にっこりと笑みを浮かべる。可愛らしいはずのその顔が何故か恐ろしいものに見えて、「何でもないです……」トゥルクは視線を泳がせた。オーレンは肩をすくめると、頑張れよ、とうんうん頷いていた。
 それじゃあそろそろ飯頼むか、とオーレンはアイコンタクトで店員を呼び寄せた。
「ラタトゥイユとガーリックライス、ポークソテーと鶏肉の生ハム、あとビール」
 オーレンさん、とソラが再び笑顔でオーレンを威圧する。オーレンはソラを軽く拝むと、
「ソラちゃん、一杯、一杯だけだから。トゥルクもソラちゃんも食後にデザート頼んでいいから、一杯だけ見逃してくれ」
 仕方ないですね、とソラは肌が露わになっている細い腰に手を当てると、
「金鳥亭特製スペシャルプリンパフェ。約束ですからね」
 デザートをちらつかせてソラを陥落させると、オーレンは注文にビールと金鳥亭特製スペシャルプリンパフェ二つを追加した。注文を確認し、男性の店員がトゥルクたちのテーブルを去っていくと、それで、とオーレンは本題を切り出した。
「トゥルク、お前に教えておきたい話がある」
 何、とトゥルクはオーレンの真面目な顔を見て居住まいを正した。横に座るソラもつられて背筋を伸ばして座り直す。
「このシャトンからしばらく西に行ったところにリーウェっていう村がある。リーウェの近くにあるナコル浜の沖合で何やら廃墟のようなものが見つかったらしい」
「廃墟? 海に?」
 トゥルクは聞いたこともない話にテーブルから身を乗り出した。テーブルが揺れ、グラスに入った水がちゃぷりと音を立てた。ああ、とオーレンは逞しい両腕を胸の前で組むと、
「眉唾物の話なんだがな。あの辺りで素潜り漁をしていたリーウェの漁師が見たんだと。見たこともないような建物が、それも明らかに今の時代のものじゃなさそうなものが海の底にたくさん見えたって話だ。けど、長時間海の底に潜ることなんて今の技術じゃまず無理だし、真偽のほどを確かめるのは難しいだろうな」
 見たこともないような、今の時代ではありえない建物群。トゥルクとソラは顔を見合わせた。それはもしかしたら、トゥルクが探している七賢人の遺産やソラが両親と再会するための手段に繋がる何かかもしれなかった。
「オーレンさん。その話、詳しく教えてもらえませんか?」
 ソラはオーレンへと頭を下げる。その黒瞳は真摯な光を湛えていて、オーレンはやれやれとかぶりを振った。
「トゥルク。ソラちゃん。こっから先は冗談みてえな荒唐無稽な話だ。それでもいいか?」
 構わない、とトゥルクとソラは頷いた。「仕方ねえな……」オーレンは彼が聞いたという話を語り始めた。
 午後六時を回り、夕飯や宿泊の客が食堂に増え始めていた。ざわざわとした喧騒の中を肉が焼ける匂いやトマトのフレッシュな香りが混ざり合い、人々の食欲を刺激するようにたゆたっていた。

 その日の夜、ソラは夢を見た。オーレンから聞いた海底の廃墟の話に期待を覚えてしまったせいか、まだ両親やリノアがそばにいたあのころの懐かしい夢だった。
 夢の中のソラは、研究員たちが忙しく立ち働く研究室の片隅で、空中に映し出された子供向けの通信教育のテキストをおざなりに眺めていた。その内容は情報工学についてだったが、テキストに載っているレベルのプログラムの解説は科学者の両親を持つソラには簡単すぎて、文字の羅列が視覚の表面を素通りしていく。
「ソラちゃん、今日も退屈そうだねえ。ねえねえ、お姉さんとちょっとお茶しない?」
 ソラが振り返ると、モカブラウンの髪を花の意匠のかんざしでお団子にまとめ、よれよれになった白衣に身を包んだ少し年上の少女が茶目っ気たっぷりにウィンクしていた。その手には湯気の立ち上るブラックコーヒーの入った紙コップが二つ握られている。
「リノア! いいの? こんなところでサボってると、また他の人に怒られるよ?」
 ソラがそう聞くと、いいのいいのと笑いながらリノアはソラの隣へと腰を下ろす。ソラは右耳の水色の星型のイアホンに触れ、目の前のテキストを消すと、リノアの手から紙コップを受け取る。
「休憩時間を取るのは労働者の権利なんだからいいの。ただでさえ、研究なんてやってたら意識的に休憩取るようにしないと、いつまでだってずるずる仕事しちゃうんだから。ここのところ、ずっと徹夜続きでもう私疲れたー! 単位はとっくに全部取り終えたとはいえ、一応、私まだ学生なのにちょっと働かされ過ぎじゃない? 私の青春どこ行ったの!」
 休みほしーい、と喚きながらリノアはテーブルに突っ伏す。そして、もぞもぞと白衣のポケットをまさぐりながら起き上がると、
「あ、そうだ。ソラちゃん、こんなものしかないけどお茶請けにどうぞ」
 おそらくはチョコレートだったものだと思われる小さな袋を手渡され、ソラは受け取った。ソラは隣でううともああともつかないおっさんくさい呻き声を上げながらちびちびとコーヒーを舐めている四つ年上の少女にじっとりとした視線を向けると、
「ねえ、これ賞味期限一年くらい過ぎてるんだけど……しかも溶けてるし」
「あれ? いらない? 過ぎてるっていったって所詮賞味期限だし、まだ全然イケるよ?」
「……リノアってどうでもいいことに対しては本当に適当だよね……。天才って皆こうなの?」
 ソラが呆れたように言うと、リノアは天才という単語だけを都合よく拾い上げて、
「えー、やだソラちゃんってば、天才だなんて、そんな褒めないでよー! いくら本当のことだからってさー!」
「そこは否定しないんだ……。ところで実際のところ、研究の進捗ってそんなによくないの? 他の研究員の人たち、ずっとすごくぴりぴりしてるけど」
 ソラはチョコレートの包みを手でもてあそびながらそう聞いた。同じ研究所の中にいても何日か両親には会えていないし、他の研究員たちは所長夫妻の娘であるソラの扱いがわからず遠巻きにしている。リノアにくらいしかこんなことは聞けそうになかった。リノアはコーヒーをぐいっと飲み干すと、一ヶ月は洗濯していなさそうな薄汚れた白衣の両腕を組み、
「いやー、ワープ理論の方がちょっとね。宇宙空間にワームホールを生成して、その間を宇宙船で超光速航法で駆け抜けることで、航行時間を大幅に短縮させる想定なんだけど、ワームホールを繋げられる距離の制限が破れなくって。それに今のままだと超加速フェーズに入ったときに、人間が耐えきれずに、原子レベルに分解されて元に戻れなくなっちゃいそうなんだけど、それの打開案が見つからなくってさ。一度、タキオン粒子にコンバートをかけるアプローチで検討し直してるんだけど、再コンバートのための技術が確立されてないからお手上げ状態で。それでも、わからないけどわからないなりに闇雲に頑張らないといけない状況だから、皆ちょっとぴりぴりしちゃってるみたい。
 でもまあ、この星ももう何年ももたない――何週間先に、何日先にその日が来るかわからないって言われてるからね。私たち科学者は何のためにいるのか、地下のシェルター暮らしの人々が多い今の世の中でどうしてこんなに衣食住の面で優遇してもらえてるのかって話よ。この星が秒読み状態の今、人類の未来を守るために、私たち科学者は今、頑張らないと」
 使命感に燃えるリノアの顔は、連日の激務で頬がげっそりとこけていて、ひどくやつれて見えたが、それでもソラの目にはとても眩しく見えた。ところで、とリノアは自分の思想を語った直後にけろりとして話題を変えると、
「ソラちゃん、何日か匠真(しょうま)先生にも涼香(りょうか)さんにも会ってないでしょ? さっき一個実験が終わったところだし、今なら会えると思うよ。行ってみない?」
「いいの? 後でリノアが怒られたりしない?」
「大丈夫、大丈夫。二人ともソラちゃんのこと大好きだし。それに、そもそも二人がソラちゃんに会えないくらい毎日頑張るのは、ソラちゃんのためでもあるしね」
 どういうこと、とソラは聞き返す。ふふ、とリノアは立ち上がりながら含み笑いを漏らすと、
「それはきっと、ソラちゃんが大人になったらわかるよ」
「大人って……リノアだってまだ十六のくせに」
 適当にごまかされた気がして、ソラは頬を膨らませる。リノアは指先でソラの頬をつんつんと突っつくと、行くよ、と立つようにソラを促した。
 二人は途中で倉庫に立ち寄り、何種類かの合成食料を調達すると、ソラの両親が居室がわりにしている研究室へと向かった。
「匠真先生、涼香さん。今いいですか? 私、リノアです」
 研究室の前に立ち、リノアがこんこんと扉をノックする。はーい、と女の声が中から聞こえ、ピピっという電子音と共に扉が開いた。
「あらリノアちゃん、どうしたの? って、ソラも一緒なの? ソラ、駄目でしょう? リノアちゃんにわがまま言って、迷惑かけたら。リノアちゃんだって研究で忙しいのよ」
 扉から顔を出した三十代後半の女性――ソラの母親の涼香は、数日ぶりに会う娘の姿を認めると、彼女を咎めた。リノアは違うんです、と首を横に振ると、
「私がソラちゃんに頼んで、涼香さんたちにご飯持ってくるの手伝ってもらったんです。涼香さんたちだってせめて食べるもの食べないと倒れちゃうでしょう? そしたら元も子もないじゃないですか」
 仕方ないわね、と肩をすくめると涼香は二人を部屋の中に招き入れた。
 部屋の中では涼香と同じくらいの年齢の白衣の男――この研究所の所長でソラの父親の匠真がデスクの前でたくさんのモニターを険しい顔で見つめていた。あなた、と涼香が匠真を呼ぶと、彼は振り返った。
「リノアちゃんとソラがご飯を持ってきてくれたの。実験は少し研究員の子たちに任せて、私たちは少し休憩にしましょう」
 ああ、と匠真は頷いた。そして、ソラの姿を認めると優しげに目を細め、その名を呼んだ。
「お父さん!」
 ソラは匠真へと駆け寄ると、その腕に縋りついた。無邪気な笑みを浮かべる愛娘の髪を匠真はよしよしと撫でながら、
「ソラ、元気にしてたかい? ちゃんと勉強は順調?」
「うん、私は元気だよ! 勉強だって、順調も何も、この前のテキストの範囲なんて私、とっくに完璧だよ? ねえ、私、勉強なんかより、お父さんたちのお手伝いがしたい! 何か私にできることはない?」
 匠真はそうだなあと穏やかに微笑むと、
「ソラにできることは、そうやって元気で笑っていてくれることかな。それが一番、お父さんもお母さんも励みになるんだ」
 何それ、とソラは茶化されたような気分になって、むくれた顔をする。何だか先ほどもリノアに同じようなことを言われて煙に巻かれたような気がする。
「リノア」
 開けっぱなしになっていた研究室の扉の外から、余裕なくぴりついた若い女性研究員の声がかけられた。リノアは手に持っていた合成食料の包みを涼香に手渡すと、戸口を振り返る。
「ソフィア。どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、そろそろ次の実験の開始時間です。持ち場に戻ってください」
「了解、すぐ行くね。それじゃあ、ソラちゃん、またね。匠真先生も涼香さんも、失礼します」
 そう言うとリノアは年相応の少女から天才科学者としての顔に戻り、足早に部屋を出ていった。
 縋りついた匠真の顔。夫と娘を眺めながら、やれやれと微笑む涼香の表情。遠ざかっていくリノアのよれた白衣の背中。それらすべてがソラの視界からぼやけていく。匠真と涼香がソラへと話しかけてくる声が遠い。
 はっとしてソラが目を開くと、視界に映るのは、ここ何日か宿泊しているシャトンの宿屋の天井だった。隣のベッドではシーツにくるまって鳶色の髪の少年がすうすうと穏やかな寝息を立てている。
「夢、か……」
 落胆を覚えながら、ソラは小さく呟いた。意識が覚醒するにつれて、つい先ほどまで一緒にいたはずの両親やリノアの気配が薄れていく。
 ひどく懐かしい夢を見た、と思った。あのころは当たり前にあった、ソラにとっては大切な日常の風景だった。
 七賢人の遺産の力を持ってすれば、両親やリノアにまた会うこともできるかもしれないとトゥルクは言っていた。オーレンから聞いた海底の廃墟の話はやはり、七賢人の遺産と関係のある話なのだろうか。
 確かめたい、とソラは思った。朝になったら、リーウェに行きたいと改めてトゥルクと話をしてみようと心に決める。
 窓の外の空はまだ闇に覆われていたが、月は西に傾き始めている。世界はまもなく訪れる朝を受け入れる準備を始めていた。

「ねえ、ソラ。リーウェまで来たはいいけどどうするの?」
 海で遊ばせていたリブレを引いて、浜へと上がってきたトゥルクはソラへとそう問うた。カーキのズボンやブラウンのブーツはすっかり濡れてしまっている。
 トゥルクの問いにソラは得意げに胸を張ると、
「大丈夫、私に一つ案があるの。……って、トゥルク、リブレは一体何してるの?」
 リブレはピンクがかった砂の上に体を横たえ、ごろんごろんと転がりまわっている。濡れた黒い被毛に砂が付着して薄汚れていくが、当の本人は至って楽しげで意に介したふうもない。
 ああこれ、とトゥルクは豪快に砂浜を転げ回ったり、地面にじょりじょりと体を擦り付けて遊ぶ自身の愛馬に、茶褐色の双眸を向けると、
「ソラは見るの初めてだっけ? これは砂浴びっていって、簡単に言えば馬のお風呂みたいなものだよ。ソラもお風呂入ったときに、スポンジで体を洗うでしょ? それと同じで、こうすることで汗とか虫とかが落ちるらしいんだけど……さすがにこれは後で洗ってブラシかけてあげたほうがいいかもなあ」
 満足したのか、青鹿毛の牝馬は起き上がると身震いした。「うわぁ」リブレの体に付着していた海水と砂が容赦なく飛んできて、ソラは思わず飛び退いた。
「ごめんね」
 リブレの粗相を代わりに詫びると、トゥルクはリブレを引きながら、ゆっくりと波の打ち寄せるナコン浜の砂の上を歩き出す。キャメルの薄手のコートの裾と首元に巻いた深紅のストールが冷たい海風に煽られながら、数歩遅れでトゥルクの後をついてくる。
 オーレンから海底の廃墟の話を聞いてから数日が経っていた。オーレンから聞かされた話は眉唾物ではあったが、ソラの強い希望もあって、二人はシャトンの西方にあるリーウェという漁村を訪れていた。
 鮮やかな青い外壁に、同じような色合いの扉と屋根という、すべてが濃淡の異なる青色で染め上げられた民家の数々。複雑に入り組んだ青くて細い路地。建物の塀や屋根の上から人々の営みをのんびりと眺めるでっぷりと太った野良猫たち。埠頭を中心に放射状にさざなみを刻んでいく小舟の群れ。
「それで、案があるって何? 普通に潜るんじゃ一分で息が限界だし、海底の廃墟までたどり着けるとも思えないけど」
 トゥルクは歩きながら、傍らのソラに方策を再度問うた。すると、ひんやりとした風が運んでくる潮の香りを一身に受け止めながら、ソラは左手を腰に当てる。いい、とソラは右手の人差し指を顔の前に立てると、腹案を披露していく。
「トゥルク。前にシェリサさんのところで手に入れた指輪、覚えてる?」
「うん。砂漠とか雪山みたいな環境にも適応できるようになるっていう指輪だよね。あれがどうかしたの?」
「あの指輪を使えば、水の中で息をすることもできるんじゃないかと思って。駄目元とはいえ、試してみる価値はあるんじゃない? もし、これで海に潜れるようになれば、誰も調査できそうにないっていう廃墟に誰よりも早く挑むことができる」
 やるだけやってみようよ、とソラの双眸に強気で挑戦的な光が灯る。意外と跳ねっ返りで頼もしい相棒へとそうだね、とトゥルクは頷くと、ナップザックの中からシェリサの店で手に入れた指輪を取り出した。トゥルクは二つのうちの一つをソラへと手渡すと、自分の分を右手の中指へとはめる。ソラもトゥルクから指輪を受け取ると、同じように指にくぐらせた。
「つける前と後で特に何かが変わった感じもないけど、本当にこれ効果あるのかな?」
「まあいいんじゃない? どうせ駄目元なんだし、沖の方に行って試すだけ試してみようよ。私、船借してもらえないか、あそこの漁師さんたちに聞いてみる」
 そう言うとソラはトゥルクの返事も待たずに漁師の男性たちが作業をしている船着き場の方へと、長い黒髪を潮風になびかせながら走っていった。「ああもう、行っちゃった……」トゥルクは行動力のありすぎる相棒の背を見送りながら苦笑する。ソラの後を追いかけようにも、一度リブレを宿に預けに行かなければならない。トゥルクはリブレの無口につけたロープを引きながら、宿への道を戻っていった。
 トゥルクがソラに追い付いたころには、もう既にソラが漁師と交渉し、小舟を一艘借り受ける算段がついていた。漁師の男はトゥルクを見ると、
「お、坊主がお嬢ちゃんの彼氏? 駄目だろー、こういう交渉事を彼女に任せっきりってのは。男なんだから坊主がしっかりして、彼女をリードしてやんねえと」
 別にトゥルクとソラはただの旅の相棒であって恋愛関係にあるわけではないし、今のこれはトゥルクがしっかりするしないの話ではなく、ただソラが先走っただけだ。いわれのない非難を初対面の人間に浴びせられて、トゥルクは深々と溜息をついた。
「トゥルクー、早くー!」
 いつの間にかソラは小舟に乗り込んでいて、トゥルクのほうへと手を差し伸べている。なんだかなあ、と思いながらトゥルクはソラの手を借りて小舟へと乗り込んだ。
「ほら、坊主。しっかりやれよー!」
 漁師が半ば放り投げるようにして、トゥルクへと櫂を渡す。「投げないで!」緩い弧を描いて宙を舞う櫂をトゥルクは手を伸ばしてどうにか受け止める。がくんと衝撃で小舟が海面に着きそうなくらい激しく揺れた。
 揺れがおさまったのを見計らって、トゥルクは櫂を握り直す。足を進行方向に突っ張り、体を前傾させると、トゥルクは小舟を漕ぎ始めた。
 二人を乗せた舟はするりと海面を滑り、内海を進み始めた。海の上を進んでいく少年と少女を青のグラデーションに染め上げられた村の家々が眺めていた。

 追い風に恵まれた二人を乗せた小舟が沖合に出ると、トゥルクとソラは協力して重たい錨を下ろし、小舟をその場に係留した。
えい、と何の躊躇いもなくソラが海の中へと飛び込んだ。派手に水飛沫が上がり、がくんと大きく反動で小舟が揺れる。
 しばらく水の中に潜っていたソラは、海面から顔を出すと、
「トゥルク、やっぱりこれがあれば水の中でも大丈夫みたい。息、全然苦しくならないよ」
「本当に?」
 トゥルクが聞き返すと、ソラは頷いた。自分の目論見が見事に当たり、ソラは嬉しそうな顔をしている。
 小舟が転覆しないように気を配りながらトゥルクも海中にその身を躍らせる。塩辛い水の中へ潜っても、ソラの言う通り、呼吸が苦しくなることはなくトゥルクは茶褐色の目を丸くした。ね、と片目をつぶってみせるソラに「すごい!」トゥルクは興奮気味に頷いた。
 エメラルドグリーンに光る海の中を泳ぎながら、トゥルクとソラは海底へと向かって下降していく。普段なら重くまとわりついてくるはずの水が髪や体を撫でるようにしてすり抜けていくのを感じる。
 頭上で銀色に光る魚の群れが回遊しているのが見えた。その圧倒的なスケールにソラは息を呑む。
 下を見れば、思い思いの色鮮やかな衣装に身を包んだ魚たちが無邪気に水の中を舞い踊っている。青い体に黄色の尾を持つナンヨウハギ。白と黒のストライプ模様が個性的なイシダイ。オレンジ色と白の小さな体が色鮮やかなクマノミ。海上から差し込むきらきらとした光を浴びながら、ふわりふわりと半透明の体を漂わせているクラゲ。元の世界ではあり得ない、生命が息づく美しい光景にソラは目を奪われる。
「綺麗……」
 思わず呟いたソラへそうだね、とトゥルクは同意する。ゆったりとした動きで水をかきながら、ウミガメが二人の後ろを通り過ぎていった。
 この世界にはたくさんの美しいものがある。その事実にソラはなんだか泣きそうになる。自然が生み出した美しいものも、人の手が作り出した綺麗なものも、ソラにとってはすべては人の技術の進歩によって失われてしまったものだ。記録映像などで目にしたことはあっても、自分の目で実際に見てみると、喜びと悲しみが入り混じったものが胸を迫り上がってくる。
 何かがじわじわと込み上げてきて、ソラはさりげなさを装ってグローブをはめた手で目頭を押さえた。一瞬の後には、何事もなかったような表情を浮かべると、ソラは少し前を泳ぐトゥルクを追いかけて、手足を動かした。
 グロテスクな造形がチャーミングな深海魚が縄張りを主張する、海上の光が届かない深さまで到達したころ、先端が真っ二つにへし折られた赤い鉄塔のようなものを視界に見つけ、トゥルクは何あれ、と疑問の声を上げた。
 ぼそり、とソラがトゥルクの横で何かを呟いた。何、とトゥルクは聞き返したが、その言葉が届いているのかいないのか、眼下の光景を目にしたソラは目を見開いて、顔を強張らせていた。
 海底に広がっていたのは、オーレンやリーウェの人々に事前に聞いていた通りの廃墟だった。しかし、それはソラが生まれ育った風景と酷似していた。
(あれは、東京タワー……!)
 折れた鉄塔を取り巻く崩れた高層ビル。街中を駆け巡るところどころ崩落が見受けられる道路のようなものは首都高速だろうか。朽ちて倒壊しかかっているあの寺のようなものはきっと増上寺、その隣の海藻に覆われた空間は芝公園だった場所に違いない。
 ひび割れた道路に転がっている水色の標識はきっと遥か昔にその仕事をやめた地下鉄のものだ。首都高速の上に散らばるコンクリートの破片はかつては空港へと向かうモノレールが走っていたレールだったものだろうと思われる。ばらばらになって地上に散らばった鉄骨はきっと、この辺りを山手線が走っていたときのもので、その向こうにはおそらく浜離宮庭園だったのだろうと思われる水草と苔にまみれた空間が広がっていた。
 ソラはトゥルクと出会ってから感じていた違和感に対して確信を得た。記録映像などで見覚えのある異国の美しい景色。かつてソラが住んでいた星で使われていたものに酷似した古い文字。ソラを可愛がってくれたリノアによく似た賢人の像。コールドスリープマシンで眠り、宇宙へと送られた若き研究者たちとこの世界で祀られている賢人たちの名前と人数の一致。そして、今二人のことを守ってくれている二つの指輪。
 おそらく、この場所はかつてソラたちが暮らしていた星――人がいなくなった後も温暖化による海面上昇が止まらずにすべてが水没してしまった後の地球だ。自分が目覚めたとき、リノアたちの姿がなかったことから、ソラは彼らはコールドスリープマシンの不具合で死んでしまったのだとばかり思いこんでいた。しかし、それはきっとソラの思い違いで、宇宙の彼方へと送られたはずのリノアをはじめとする七人の研究者たちは、どうにかしてこの惑星へと舞い戻り、今のこの世界の礎を築いたに違いない。だからこそ、この世界には遠い昔に地球に存在していた美しい景色やかつて使われていた言語などが残されているのだろう。
 自分の中にことりと音を立てて着地したこの世界の真相に、ソラは体が勝手に震えるのを感じた。自分が生まれ育った遠く離れた惑星は、ソラの記憶とは変わり果てた形で最初からここに存在していた。
 トゥルクの言う七賢人の遺産というのは、おそらくかつてリノアたち研究者が残した科学技術による産物なのだろう。しかし、ソラの生きていた時代の科学水準では、時を超えるための技術など、確立されてはいなかった。つまり、それはこの海の底で七賢人の遺産が見つかったとしても、ソラが自分の生きていた時代へ戻れるわけではないということを意味していた。
 ソラはこれまで自分が抱いていた淡い希望が打ち砕かれるのを感じた。すうっと顔が冷たくなっていく。
「ねえ、トゥルク。私……」
「どうしたの、ソラ。さっきから様子が……」
 思わず弱音を吐きかけたソラは何でもない、とかぶりを振る。ソラはかつて大きな市場が存在していたという築地の辺りに半ば崩れかけた、外壁を苔と水草に覆われた大きな施設――以前のソラがよく出入りしていた両親の研究所を見つけ、指差した。
「トゥルク、あそこ。あそこにたぶん、七賢人の遺産が……この世界ができる前の失われた技術が眠ってる」
「ソラ……どうしてそんなことがわかるの?」
 トゥルクは戸惑いを露わにしてソラへと問うた。ソラは寂しそうな表情を浮かべると、
「行けばわかるよ」
 ソラは半ば強引にトゥルクの手を掴むと、潮の流れに乗って泳ぎ出す。ソラの視界では仰向けになって泳ぐ大きなダイオウグソクムシの姿が二重になって滲んでいた。

『生体認証をしてください』
 トゥルクとソラが、海底の遺跡の前へと降り立つと、入り口の扉が無感情な女の声でそう言葉を発した。縦にも横にも大きいその建物は外壁がガラス張りで、ソラが眠っていた宇宙船を連想させた。少なくともあの宇宙船も目の前の遺跡も同じ文明レベルの技術で作られているであろうことは疑いない。
 ソラは黒いグローブを外すと、彼女は扉の横の認証装置へと右手を翳した。扉はピピっという音を発すると、再び平板な女の声を発した。
『暗証番号を入力してください』
 認証装置の上に白く光る十個の数字が浮かび上がる。ソラはその細い指を迷いなく数字の上に滑らせていく。
 一体どういう仕掛けになっているのか、ピピっという音と共にすっと目の前の扉が開いた。どうしてこの遺跡の仕掛けをソラが簡単に解くことができるのか聞きたかったが、行けばわかると彼女が言っていた以上、今はそれを聞くべきではないとトゥルクは判断した。
 通路の天井には炎を光源としない白い灯りが揺れている。ソラを見つけた宇宙船同様、ここでもとりあえずランプの用意をする必要はなさそうだった。「電気系統がまだ生きているなんて……」そうひとりごちると、ソラはトゥルクを先導するように、ところどころひび割れたリノリウムの廊下を迷いなく進み始めた。
「ソラ、待って。こういう初めてのところで迂闊に動くと危ないよ。どこにどんなトラップが仕掛けられているかわかったもんじゃないし」
 トレジャーハンターとしての経験に基づいて、トゥルクは躊躇いなく遺跡の中を進もうとするソラに待ったをかける。しかし、彼女は首を横に振ると、
「大丈夫。ここ、私の知っているところだから」
「知ってるってどういうこと?」
「それもじきにわかるよ。ちゃんと説明するから……あともう少しだけ待って、トゥルク」
 そう言ったソラの瞳の奥では不安と諦観と動揺が混ざり合って渦を巻いていた。お願い、という懇願じみた切実な声に、トゥルクはわかったと頷くことしかできなかった。自分で話すと言っている以上、この状態の彼女に無理やり詰問するような真似はトゥルクにはできそうになかった。
 入口と同様に、ソラは時折扉の脇にある生体認証装置に手を翳しながら、トゥルクと一緒に建物の中を進んでいく。彼女の足取りは明らかにこの場所を熟知している者のそれだった。
 何個も扉を抜け、いくつも階段を降りた後、ソラは一つの部屋の前で足を止めた。部屋の中に入るのを躊躇っているのか、ソラは扉の前で唇を噛んで俯いている。認証装置に触れようとしている彼女のその手は明らかに震えていた。
「ソラ……大丈夫?」
 大丈夫と頷いたソラの顔は青褪めていた。それでも気丈に振る舞おうとする彼女を見ていると、何だかトゥルクまで胸が苦しくなった。一体この扉の先に何が待ち受けていると言うのだろう。無理しないでと言いかけたトゥルクをソラは押し留めると、
「いいよ、行こう。この先にはトゥルクが知りたかったことがあるはずだから」
 ソラが扉の脇の装置に手を翳すと、ピッという音を立てて扉が開いた。ソラはふぅ、と息を吐くと、何かを覚悟したような顔で部屋の中に入っていく。トゥルクも遅れないように彼女の後に続く。
 その部屋の中にはいくつかの作業机や高性能な演算装置の筐体、壁に所狭しと貼り付けられた大量の液晶モニターといった光景が広がっていた。室内に置かれた大小様々な机の上にはトゥルクの知らない材質の素材や見たことのないような道具が散乱していた。
 一番大きな机の上に目を向けると、ソラは見覚えのあるものが大量の資材に埋もれるようにして無造作に置かれていることに気がついた。それはソラの父がよく身に着けていたものだった。ネイビーのラインが入った真鍮製のネクタイピンを手に取り、冷たく滑らかなその表面に触れると、一枚の画像が宙に映し出された。それを目にしたトゥルクは思わず息を呑む。
「これは、ソラ……?」
 白衣を着た三十代後半の男女の間で満面の笑みを浮かべる黒髪の少女の姿は、今トゥルクの傍らにいる少女と瓜二つだった。そうだよ、とソラは懐かしそうに目の前に映し出された家族写真を眺めながらトゥルクの疑問を肯定した。
「これは私。一緒にいるのは私のお父さんとお母さん」
 聞いて、とソラはトゥルクへと向き直った。トゥルクを見るその目は真摯な光を湛えていた。
「あのね、トゥルク。この世界は、私が暮らしていた星――一度滅びてしまった地球の上にできているの」