「君は……君は、誰?」
トゥルクが少女に尋ねると、少女は黒く大きな双眸を瞬かせた。すう、と少女の形のよい薄桃色の唇が空気を吸い込む音がやけに大きく室内に反響する。
「私は、ソラ。ええと……あなたは誰?」
「ごめん、そうだよね。僕はトゥルク。トゥルク・ツェイラー」
当然の疑問をソラにぶつけられて、トゥルクは苦笑しながら名乗った。トゥルク、と小さく口の中で繰り返すと、ソラは何かを思い出そうとするかのようにじっとトゥルクを見つめる。そして、ソラは何かに思い当たったのか、はっとしたような表情をその端正な顔に浮かべると、
「ねえ、トゥルク。私たち、会ったこと……ある?」
目の前の少女の問いにトゥルクは茶褐色の目を見開く。自分は昔から何回も何十回もソラに夢の中で会っていたが、まさかソラの側もそうだとは思ってもみなかった。馬鹿馬鹿しいって思うかもしれないけれど、とソラは前置きすると、
「私、ずっとずっと夢を見てたの。同じくらいの年の男の子が出てくる夢。夢の中でなぜか私は誰だか知らないその男の子のことを呼んでいるの。私を見つけて、って。その男の子はここに来て、私に何かを話しかけてくれるんだけど、私には男の子が何を言っているのか聞こえないの。トゥルクは……夢に出てきた男の子にとってもよく似てる」
ソラの顔はとても真剣で、嘘をついている様子はない。実はね、とトゥルクは信じられない気持ちでいっぱいになりながらも、幼いころから繰り返し見てきた夢のことを初対面の少女に告白した。
「僕も小さいころからずっと、ソラみたいな女の子が出てくる夢を何回も何十回も繰り返し見てた。その女の子はちょうどここみたいなところで眠りながら、僕を呼んでるんだ。私を見つけて、って」
トゥルクとソラは顔を見合わせた。もしかして、とあり得ない想像が頭の中に広がっていく。
「ねえ、ソラ。僕たちってもしかして、夢の中でずっと……」
「ずっと、お互いに呼び合っていた、ってことなのかな……?」
尻すぼみになりかけたトゥルクの言葉尻を引き継ぎ、ソラがその可能性をはっきりと言葉にした。普通なら馬鹿馬鹿しいとしか思えないはずなのに、なぜかそうとしか思えなかった。どうしてなのか理由などわからない。けれど、幼い頃から見続けた少女の夢は、ソラとこうして出会うためにあったに違いないと根拠はないけれどトゥルクは確信を覚えた。
「ねえ、ソラ。聞いていい? どうしてソラはこんなところで一人で眠っていたの? お父さんとお母さんは一緒じゃないの?」
「一人……?」
ソラは聞き返すと、何かを考え込む様子を見せた。やがて、何かが腑に落ちたのか、そっか、とソラは寂しげな表情を浮かべた。彼女のその顔はやけに大人びて見えると同時にトゥルクの目には迷子のように映って、何だかたまらない気分になった。聞くべきじゃなかった、とトゥルクは後悔した。
「たぶん……お父さんとお母さんは、ずっと昔に死んじゃった。だから、私は一人」
そうなんだ、と相槌を打った自分の声がやけにそっけなく聞こえた。きっと一人でこんなところに放り出されて心細いであろう彼女を元気付けるにも、親と死別したという彼女を慰めるにも、どんな言葉を選べばいいのかトゥルクにはわからなかった。その代わり、それならさとトゥルクはある提案をした。
「ソラ、これから近くの街に戻るんだけど、僕と一緒に来ない? 行くところ、ないでしょう?」
「いいの?」
少し不安そうな顔をするソラへ、もちろんとトゥルクは笑みを浮かべてみせる。戸惑うソラのひんやりとした白い手をトゥルクはぎゅっと握る。細く滑らかなソラの手はいかにも女の子という感じがして、トゥルクは少しだけどきりとした。
「それじゃ、ソラ。行こうか」
なんてことはないふうを装いながら、トゥルクはソラに声をかける。うん、とソラが頷くと、トゥルクは彼女の手を引いて部屋を出た。
トゥルクがソラを連れて遺跡を出ると、太陽が傾きかけていた。リブレを繋いでいる小川のそばまで戻ると、ソラはトゥルクの愛馬を見て首を傾げた。
「これは……馬?」
「そうだけど……ソラ、馬って見たことない?」
「ドウガとかシャシンで見たことはあるけど……本物をこんなに近くで見るのは初めて」
「そうなんだ? 触ってみる?」
ソラの言うドウガやシャシンがなんのことかはわからなかったが、トゥルクはそれは一旦置いておくことにする。一人で心細い思いをしているに違いない彼女に、今細かいことを根掘り葉掘り聞く気にはなれなかった。
「ソラ、この子はリブレ。女の子だよ。この子、ちょっと怖がりだから、名前呼びながら首の辺りを撫でてあげて」
トゥルクがリブレとの触れ合い方をソラに説明してやると、彼女はわかったと頷いた。「リブレ」
優しく名前を呼びながら、ソラはリブレの首筋へと手を伸ばす。しかし、ソラの手が触れるよりも早く、リブレはぐっと後ろに耳を倒し、ソラに噛みつこうと威嚇してきた。
「ほら、リブレ。この子はソラ。怖くないよ」
ソラを怖がるリブレの鼻面をトゥルクは宥めるように撫でてやる。主人の声を聞いて少し落ち着いたのか、リブレはトゥルクの肩へと顔を擦り寄せた。
今度こそ、とソラがもう一度リブレに近づこうとすると、リブレは再び耳を後ろに倒す。どうやら、リブレはソラに触られるのを拒んでいるようだった。
「ソラ、ごめんね。いつもはこんなんじゃないんだけど。慣れてきて、ソラは怖くないってわかったら、たぶんそのうち触らせてくれるようになると思うよ」
そうかなあと、疑問に思いつつもソラはリブレを眺める。額の白いハート模様は可愛らしいが、態度がいまいち可愛くない。なぜか女として敵対視されているような気すらする。
「もうすぐ夕方になっちゃうし、街まで戻ろうか。ソラは高いところとか大丈夫?」
「大丈夫だけど、どうして?」
「歩いて帰ると時間かかっちゃうから、一緒にリブレに乗って帰ろうかと思って」
ソラの疑問にトゥルクがそう答えると、ソラはえ、とあからさまに顔を引き攣らせた。
「ねえ、トゥルク……私、この子に嫌われてる気がするんだけど、本当に乗せてくれるかな? 振り落とされない?」
「大丈夫だよ。僕も一緒に乗るからそんなことにはならないよ」
そう言いながら、トゥルクはリブレを繋いでいた紐を解くと、ナップザックへとしまった。トゥルクは鞍の左側から鐙を吊るしている革の長さを調節して伸ばすと、
「ソラ、手綱とリブレのたてがみを掴んだら、左足を鐙にかけて体を持ち上げて。そしたら、リブレのお尻を蹴らないように気をつけながら、右足を向こう側に持っていって」
「わかった……けど、たてがみなんて掴んでリブレは痛くないの?」
「馬はその辺りは掴んでも痛くないから大丈夫だよ」
そうなんだ、と相槌を打ちながら、ソラはトゥルクに言われた通り、手で手綱とリブレのたてがみをまとめて握る。左足を鐙に引っ掛けると、弾みをつけて体を上へ持ち上げる。右足を回して鞍の向こう側に下ろすと、ソラは鞍の上へ腰を下ろした。
「ソラ、鞍の前に持ち手みたいなものがあるはずだから、そこ持っててくれる?」
ソラはそれらしきものを見つけて指差すと、「これ?」「うん、それ」トゥルクもリブレの上に跨り、前に座るソラを抱きかかえるようにして手綱を握る。
左手を伸ばして、ソラが乗る前に伸ばした鐙を自分の足の長さに直すと、トゥルクはリブレへと動くように指示を出す。リブレが動き出すと、ソラは思わずといったふうに、
「わっ、動いた!」
「そりゃ動物だしね。少しスピード出すからちゃんと捕まっててね」
余裕ありげにトゥルクはそう言ったが、内心では前に座るソラの存在にどぎまぎとしていた。密着した背は細く華奢なのに、トゥルクが手を置いている彼女の太腿は柔らかく弾力がある。なるべく意識しないようにしながら、トゥルクは手綱を短く持ち直すと、左脚で合図を送り、リブレを走らせ始めた。
トゥルクがコルニスの街の宿屋に帰り着くと、カウンターキッチンで夕飯の仕込みをしていたエルカが二人を出迎えた。エルカはベージュのエプロンで手を拭いながら、
「トゥルクくん、おかえりなさい。今日は早いのね。って、そちらのお嬢さんは?」
「この子はソラ。今日行った先で一人でいたところを見つけたんですけど、行くところがないっていうので連れてきたんです」
嘘にならない程度に適当に事情をぼかしながら、トゥルクはソラと出会った経緯をエルカに説明する。夢の話など、とてもではないがエルカには言える気がしない。あらまあ、とエルカはオリーブグリーンの目を丸くしながら、
「ソラちゃんだったかしら? 私はエルカ。この宿を切り盛りしているの。ところで、ソラちゃんはご両親は一緒じゃないの? もし迷子とかだったら、自警団の人に相談して探してもらうけれど」
いえ、とソラは首を横に振ると、
「両親はずっと昔に亡くなったので。だから、私一人なんです」
「そうなの。ソラちゃん、お金は持ってる? それよりもご飯とか着替えとかは大丈夫?」
「私、お金は持ってなくて……」
おずおずとソラがそう言ったとき、きゅうと彼女の腹が小さく鳴った。くすり、とエルカは笑うと、
「何はともあれ、まずはご飯ね。ソラちゃん、何か好き嫌いはある?」
「それは大丈夫ですけど、私、お金が……」
「子供がそんなこと気にしないの。それじゃそうね、すぐできるものでキノコのリゾットにでもしようかしら。
あと、トゥルクくん。料金はそのままでいいから、向かい側の二人部屋に移ってちょうだい。この街にいる間はソラちゃんと二人でその部屋を使ったらいいわ」
ありがとうございます、とトゥルクとソラはエルカへと頭を下げる。どういたしまして、と朗らかに笑いながらエルカはカウンターキッチンの向こう側へ戻っていった。
まだ夕食どきには少し早い時間帯だからか、食堂には他の宿泊客の姿はない。エルカは食材の入ったカゴから、何種類かのキノコや玉ねぎ、ニンニクなどを取り出しながら、
「トゥルクくんは一旦部屋に荷物を置いていらっしゃい。今朝まで使ってた部屋に置いてある荷物は、後で息子に運ばせるからそのままでいいわよ。
ご飯、ソラちゃんと同じのをトゥルクくんにも用意しておくから、すぐ戻ってくるのよ。冷めたリゾットなんて美味しくないからね」
はい、とトゥルクは返事をすると、二階への階段を登っていく。客室が並ぶ廊下を進み、突き当たりの左側の扉をトゥルクは開ける。綺麗に整えられた部屋に並べられた二つのベッドに天然木のテーブルと椅子二脚が彼を出迎えた。
トゥルクは手前側のベッドの脇に、リブレの背に乗せていた荷物と背負っていたナップザックを下ろす。荷解きや道具の手入れをしてしまいたかったが、エルカがすぐに戻ってくるように言っていたのを思い出し、トゥルクは部屋を出た。
トゥルクが一階の食堂へ降りていくと、ちょうど出来上がったリゾットをエルカが皿によそっているところだった。カウンター席のスツールに腰掛けたソラは何だか肩身が狭そうな顔をしていた。
チーズとキノコの美味しそうな匂いに思わず顔を緩めながら、トゥルクはソラの横のスツールに腰を下ろした。
「はい、トゥルクくん、ソラちゃん。おまちどうさま」
エルカは二人の前へとリゾットの入った皿とスプーンを置く。いただきますと両手を合わせると、トゥルクはスプーンへと手を伸ばす。ソラは本当に食べていいのかとまだ躊躇っているようだった。
「気にしないで食べなよ。エルカさんの料理、美味しいよ」
トゥルクが声をかけると、ソラはこくりと頷いた。リゾットの皿の前でソラは手を合わせると、スプーンを手に取り、料理を口に運び始めた。
「……おいしい」
口の中に広がる幾重にも重なったキノコのコクとチーズのクリーミーさにソラは思わず声を漏らした。ともすれば濃厚すぎるようにも感じられるそれを仕上げにかけられたブラックペッパーがピリリと引き締めている。
ぱくぱくとソラが夢中でリゾットを食べ進めているのを見て、トゥルクは自分の分のリゾットに口をつける。濃厚さの中に同居するガーリックの存在が食欲を刺激する。美味しそうに自分の料理を食べる子供二人をエルカは調理器具を洗って片付けながら、嬉しげに口元を綻ばせた。
「ソラちゃん、そういえば着るものもないんだったかしら? 私が若いころに着ていたものが残ってるから、よかったら使ってちょうだい」
洗ったフライパンを布巾で拭いて片付けながらエルカがそう言うと、ソラはスプーンを動かす手を止め、申し訳なさそうに、
「こうやってご飯を食べさせていただいた上に、寝泊まりする場所まで用意していただいたのに、これ以上甘えるわけには……」
いいのいいの、とエルカは顔の前でひらひらと手を振りながら、
「子供が遠慮なんてしないの。それに着替えがなくて困っているのは事実でしょう? それに服もこのままじゃ箪笥の肥やしになるだけだし、ソラちゃんみたいなかわいい子に着てもらえたほうが私は嬉しいわ」
それでもまだ躊躇する様子を見せるソラにエルカは仕方ないわねと苦笑すると、
「ソラちゃん。じゃあこうしましょう。服をあげる代わりに、食べ終わった後の二人分のお皿を洗っておいてくれないかしら?」
エルカの提案にそれなら、とソラはようやく首を縦に振った。
「それじゃあ、ソラちゃん。早くそれ食べちゃいなさい。私はソラちゃんが食べてる間に、服を取ってきちゃうから」
エルカに促されて、ソラは再びスプーンを動かし始める。それを見てエルカは満足そうな顔をすると、その場を離れ、裏口から外へ出ていった。
二人がリゾットを食べ終えたころ、綺麗に畳まれた服が入ったかごを抱えて、宿の外からエルカが戻ってきた。かごの中には小花柄のワンピースや、レースとフリルが可愛らしいブラウス、刺繍が美しいスカートなどが入っている。
「ソラちゃん、これ、ここに置いておくわね。ソラちゃんの趣味に合うかはわからないけれど」
いえ、ありがとうございます、とソラはリゾットの皿をカウンターキッチンの中で洗いながら頭を下げた。
食器を洗い終わったソラが、エルカが持ってきた籠に入れられた服を見ていると、チャリンというベルの音が鳴った。ドアが開き、入ってきたのは恰幅の良い豪気そうな髭面の中年男性――オーレンだった。
「あら、オーレンさん。おかえりなさい」
エルカがオーレンを出迎えると、おう、と彼は手をあげる。とりあえずビール一杯くれ、と言いながら、彼は背負っていた荷物を床に置いて、手近な席に腰を下ろす。
「まったく、オーレンさんてば空きっ腹にお酒は体に良くないわよ」
小言を言いながらもエルカは、氷水を入れた大きな木桶で冷やしていたビールの瓶を取り出し、ジョッキへと中身を注いでいく。チーズをナイフで切って、小皿へと盛り付けると、エルカはビールとチーズをオーレンがいる客席へと運んでいく。
「ほら、オーレンさん。仕方ないからチーズはサービスしとくわ」
サンキュ、とオーレンはビールとチーズを受け取ると、服を広げて見ているソラとトゥルクへと視線をやり、
「なあ、エルカさん。あの変わった服を着ている女の子は何なんだ? トゥルクの彼女か?」
耳に入ってきたオーレンの言葉に慌てふためいたトゥルクは、顔を真っ赤にしてオーレンを振り返り、
「オーレンさん! ソラはそんなんじゃないから!」
「お、じゃあどんなんなんだ?」
オーレンはビールを啜りながら、顔をにやつかせた。
「今日行った先で偶然出会ったんだよ。それで、家族もいないし、行く先もないっていうから連れて帰ってきたんだけど」
ふうん、と言いながらオーレンは再び、ソラへと視線を向ける。惰性で皿に盛られたチーズへと手を伸ばしながら、
「それで、何で服?」
オーレンが疑問を口にすると、ソラは服から顔を上げ、
「私が着替えを持っていないのを知ったエルカさんが、昔着ていた服をくださったんです」
「ふうん、道理でデザインが妙に古くさいと思ったら」
「悪かったわね」
エルカが筒状に丸めた本日のディナーメニューが書かれた紙でオーレンを小突いた。しかし、オーレンはさして気にしたふうもなく、
「トゥルク、明日は月に一度の大市の日だ。その子と服でも見に行ってきたらどうだ?」
「でも、私、お金が……」
「それはトゥルクに立て替えてもらえばいいさ。それでもって、服代は今後のトゥルクの仕事を手伝うなりして、稼いで返せば何も問題ないんじゃないか?」
妙案とでも言いたげにオーレンはがははと笑うと、ビールを煽る。それいいね、とオーレンの言葉を肯定すると、トゥルクはソラを振り返り、
「どうかな? ソラが嫌じゃなかったらそうしない?」
「いいの?」
戸惑っている様子のソラにトゥルクはもちろんと力強く頷く。
「ところで、トゥルクの仕事って何なの?」
ソラの当然の疑問に、そうだよねとトゥルクは苦笑すると、
「僕はトレジャーハンターをしてるんだ。いろんなところに行って、見つけた宝物の類を買い取ってもらったお金で暮らしてる。今日、ソラとあそこで会ったのも、ドバシアの森に隠された財宝を探しに行っていたからなんだ」
そうなんだ、とソラが相槌を打とうとしたとき、ぱんぱんと手を叩きながらエルカが割り込んできて、
「二人とも。そろそろ、本格的に宿泊のお客さんが増えてくる時間だから、その辺りを片付けて上に戻ってちょうだいな」
そう言われてトゥルクが食堂の隅にある古時計に目をやると、午後六時を回りかけていた。確かにそろそろ、腹をすかせた利用客たちが増えてくる時間だった。
トゥルクはソラと協力して、テーブルの上に広げた服の数々をたたみ直してカゴの中に片付けていく。
よいしょ、と、服の入ったかごをトゥルクは持ち上げると、ソラと共に客室のある二階へ続く階段を上がっていった。
トゥルクがベッドの上に仰向けで横たわり、今日訪れたドバシアの森の地図を眺めていると、ドアの外からとんとんと誰かが階段を上がってくる音が響いてきた。足音は段々と近づいてきて、トゥルクのいる部屋の前で止まった。こんこん、という軽いノックから一拍遅れてドアが開き、ソラが部屋の中に入ってきた。
レースとリボンが可愛らしい淡いグリーンのネグリジェに身を包んだソラは、湯を使った後なのか、ほのかなせっけんの匂いを漂わせていた。エルカのものを貸してもらったのか、少し緩い胸元を押さえているのが、何だか艶かしく見えて、トゥルクはなるべく見ないように目を逸らした。どくどくと心臓が鳴っている。こんな可愛い子と一晩同じ部屋で過ごすのかと思うと、気が気ではない。
「トゥルク、何見てたの?」
ソラはトゥルクの向かい側のベッドに腰を下ろすとそう聞いた。トゥルクはベッドから体を起こすと、
「今日行ったドバシアの森の地図。ソラも見る?」
見せて、と言うとソラは立ち上がり、トゥルクの隣へと移動してきた。肩のあたりに感じるソラの体温にどぎまぎとしながらも、トゥルクは地図を隣に座る彼女へと見せてやる。
「この印の辺りがリブレを待たせていたところで、しばらく南西にいったこの辺りにあるのがソラが眠っていた遺跡があった場所。……って、ソラ?」
トゥルクの説明を聞いているのかいないのか、ソラは地図に記された印の近くにある書き込みをまじまじと見つめている。どうしたの、とトゥルクがソラへ声をかけると、彼女は何でもない、とかぶりを振る。そんなまさかね、とソラは一人ごちると、
「ちょっと知り合いの字に似てただけ。でも、多分気のせいだよ」
「似てた、って……ソラは昔の文字が読めるの?」
「そうみたい。代わりにトゥルクたちが使っている文字はさっぱりだけど。看板とか見ても、何が書いてあるのか全然わからなかったもん」
そうなんだ、とトゥルクは相槌を打つ。やはりソラは不思議な子だとトゥルクは改めて思った。彼女に聞きたいことはいくらでもある。しかし、出会って間もない今の状態でどれだけ踏み込んでいいものかもわからない。それでも、とトゥルクは心を決めると、口を開く。
「ねえ、ソラ。聞いてもいいかな。もし、話したくないことだったら、話さなくても大丈夫だから」
「うん、何?」
「ソラは、どうして一人であの場所で眠っていたの? あの遺跡は一体何なの?」
一息にトゥルクがそう問うと、そうだよね、とソラは苦笑する。そして、彼女は表情を消してすっと真顔になると、
「あのね、トゥルク。今日、トゥルクが私を見つけたあの場所はウチュウセンなの。
笑わないで聞いてね。私、この星の人間じゃないの。私の住んでいた星はね、疫病とか環境汚染とかで住めなくなってしまって、あのウチュウセンで逃げてきたの。でも、この星まではとても時間がかかるから、仮死状態のまま、ずっとずっと眠ってた」
トゥルクにわかるように言葉を選んでくれているようだが、それでもソラの話はトゥルクには難しい。トゥルクにはウチュウセンというのが一体何なのかわからない。それにそもそも、ソラがこの星の人間ではないというのは一体どういうことなのだろう。
いまいち話が伝わっていないことをソラは察したのか、
「ねえ、トゥルク。トゥルクは宇宙ってわかる?」
「ウチュウ?」
「地上から見える空よりもずっとずっと上には真っ暗でとっても大きな空間が広がっているの。夜になると空に星が見えることがあるでしょう? あれらは全部宇宙にあるもので、場所によってはここみたいに人が暮らしていたりもするの。私が住んでいた星もその一つだったんだけど、人間が住める環境じゃなくなっちゃったんだ」
どうして、とトゥルクが問うとソラの黒瞳が悲しげに揺れた。そうだなあ、と自嘲気味に微笑む顔は泣き出す寸前の表情によく似ていた。
「科学の進歩による自然破壊に大気汚染、それに温暖化。戦争で使われた細菌兵器による病気の蔓延。すごく数が少なくなってしまった人間は、住んでいた星を捨てて、他の星に移住することを考えたの。自分たちを破滅に追いやった科学の力を総動員して、ね」
ソラの話にトゥルクは言葉を失った。ソラの話は聞いたこともないようなもので、想像はしづらかったけれど、ソラの言葉の端々からそれがひどく辛く悲しいことであるのは理解できた。
「私のお父さんとお母さんは科学者だったの。ムジンタンサキによる調査で、いくつも銀河を超えた先の宇宙の果てに人が住める星があるってわかったから、移住のために必要な研究――宇宙空間におけるワープの技術や、長時間の航行に耐えるためのコールドスリープの研究をしてた」
「ソラ、ムジンタンサキってなに?」
「無人探査機っていうのは、宇宙の調査に使う、人が乗れない小型のウチュウセンのことだよ」
ふうん、とトゥルクは頷いてはみせたが、一体それがどんなものなのかまったく想像がつかない。この世にはまだまだ自分が知らないことがたくさんあるのだとトゥルクは思った。
「それじゃあ、ワープとコールドスリープっていうのは?」
「ワープっていうのは簡単に言うと、本来かなり距離があるところに短時間で移動することかな。コールドスリープは、人間を本来の寿命を超えて生きながらえさせるために仮死状態――長期間半分死んでいるような状態で眠らせておくことかな。そうしたら、人間って歳を取らないの」
ソラの話から、彼女の住んでいた星の科学水準はトゥルクの想像を絶するレベルであったことが窺えた。ソラは訥々と話の続きを薄桃色の唇から紡いでいく。
「住んでいた星がもうこれ以上は本当に駄目だってなったとき、まだコールドスリープのキカイは実験中の段階で、実用に足るものじゃなく、試験用のものが七台あるだけだった。
これらの研究を主導していた私のお父さんとお母さんは、一つの決断をした。自分たちの部下だった七人の若い研究者を被検体としてコールドスリープマシンの中に眠らせることを。そして、隠し持っていたカイハツキのコールドスリープマシンに一人娘の私を眠らせることを」
そう話すソラの黒い目はどこか寂しそうだった。長い眠りから覚めると、どことも知れない場所で一人きりだったわけだから仕方ない。
「私が眠っていたあの場所は宇宙船――宇宙を移動するための乗り物なの。研究者の人たちと私を眠らせた後、たぶんお父さんとお母さんは暮らしていたところに残って、まだ研究途中だったワープ装置を使って宇宙船を遠い宇宙空間に転移させたんだと思う。あの場所はもう生き物が暮らせる状態じゃなかったから、きっとそれからすぐにお父さんとお母さんは死んじゃったはずだよ」
ソラの話はトゥルクの理解の範疇を超えていた。しかし、ソラがきっと両親を恋しく思っているであろうことは理解できた。
「ソラは……お父さんとお母さんに会いたい?」
ソラはうん、と静かに頷いた。トゥルクが彼女の表情をそっと窺うと、彼女は泣き出す直前のような顔で唇を噛み締めていた。
「僕がトレジャーハンターをしているのはね、未知のものに出会いたいからなんだ。僕の死んだおじいちゃんが学者だったんだけど、この世界に関するいろんな面白い話をしてくれて、僕は自分で探しに行きたいって思ったんだ。中でも一番印象的だったのは、この世界にはいくつか、七賢人の遺産が残されているらしいって話」
「七賢人って?」
「この世界を作ったって言われている人たちだよ。皆、常識では考えられないような、神様みたいな力を持っていたって言われてる。そんな人たちが残したものが、いくつかこの世界には眠っているらしいんだけど、そのどれもが超常的な力を持っているって言われてるんだ。七賢人の遺産の力をもってすれば、それこそソラがお父さんやお母さんにもう一度会うことだってできるかもしれない。
だからさ、ソラ。オーレンさんがさっきあんなふうにいったからってわけじゃないんだけど。しばらく、僕と一緒にトレジャーハンターの仕事をしてみない?」
トゥルクがソラへと誘いの言葉をかけると、彼女は不安そうに瞳を揺らしながら、
「迷惑じゃない?」
「そんなことないよ。僕だって、七賢人の遺産なんていうものが本当にあるなら見てみたいから」
だから僕と一緒に行こうよ、とトゥルクはソラへと右手を差し出した。うん、と頷きながらソラはおずおずと自分の右手をトゥルクの手に重ねる。トゥルクはにっと笑って見せながら、ソラの白い手をしっかりと握る。
「それじゃ、ソラ。よろしくね」
「うん、トゥルク。よろしく」
そう言うと、ソラもトゥルクの手を握り返す。
テーブルの上のキャンドルの灯りが、ぱちぱちと炎がはぜる音と甘い蜜蝋の香りとともに、手を握り合う少年と少女の姿を温かく見守るように照らしていた。
トゥルクが目覚めると、既に部屋の中にソラの姿はなかった。ベッドの上には、シーツや彼女が昨夜着ていたネグリジェが綺麗に畳んで置かれている。
トゥルクは自分の荷物から服を取り出すと、寝巻きを脱ぎ、手早く黒のスタンドカラーシャツとカーキのズボンという軽装に着替えていく。ブラウンのブーツに足を突っ込み、いつも腰につけているポーチを手に取ると、トゥルクは部屋を出た。
トゥルクが食堂に降りていくと、ソラはオーレンと一緒のテーブルで、芳醇なバターが香る分厚いトーストとベーコンエッグの朝食を食べていた。トゥルクの姿を認めると、ソラとオーレンは朝食を食べる手を止め、
「トゥルク、おはよう」
「お、何だ? トゥルク、寝坊か?」
おはよう、と挨拶を返すと、トゥルクは椅子を引き、ソラの横に腰を下ろした。水差しを手に忙しく立ち働いていたエルカはトゥルクへ近づいてくると、
「トゥルクくん、おはよう。よく眠れた? ところで今日の朝ごはん何にする?」
「ええと、じゃあ、今日はホットケーキで」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
水の入ったグラスをトゥルクの前に置くと、エルカはベージュのエプロンの裾を翻して去っていく。
「朝からホットケーキなんて、子供っぽくない?」
「……ソラ、何か言った?」
別に、とソラは首を横に振ると食事を再開する。育ちがいいのか、ベーコンエッグを切り分けるフォークとナイフの扱いは洗練されている。フォークに刺した焼いたソーセージをオーレンは肉汁を豪快に飛ばしながら噛みちぎった。オーレンはソラが一瞬嫌そうな顔をしたのを特に気にしたふうもなく、
「まあお前らの年代だと、女の子のほうが精神年齢が上だって言うしなあ。さっき聞いた話じゃあ、ソラちゃんはトゥルクの一個下の十二らしいけど、どう考えてもトゥルクよりソラちゃんのほうが大人だよなあ。しかもかわいいし」
「ほら、オーレンさん、早くご飯食べちゃってください。九時のベネット島行きの船に乗るって言ってませんでした?」
焼き上がったホットケーキの皿を運んできたエルカが呆れたように言った。はい、とエルカはトゥルクの前に可愛らしいホットケーキを置く。「エルカさーん、コーヒーお代わり!」別の宿泊客に呼ばれ、エルカは一礼するとトゥルクたちのテーブルを去っていった。ソラはちらりとトゥルクの朝食に目をやると、
「かわいい……けど、十三歳でこれは子供っぽくない?」
大きなホットケーキが一つに、その上部にくっつけるように置かれた小さな半円型の二つのホットケーキ。大きなホットケーキの中心にはバニラアイスが乗せられていて、チョコソースで目と鼻らしきものが描かれている。一緒に添えられた小さな器にはメープルシロップがなみなみと入れられており、甘党のトゥルクが味を変えながら最後まで楽しめるように配慮されていた。
「まあ……くまの形なのは確かにちょっと、僕にはかわいすぎるかもしれないけど……でも、朝は甘いもの食べないと何かいまいち元気出ないっていうか……」
トゥルクが口の中でごにょごにょとそんなことを言っていると、朝食を食べ終えたオーレンが立ち上がりながら、
「そうだ、トゥルク。昨日、俺の馴染みの取引先が面白いネタ掴んだって言ってたぜ。今日、ソラちゃんの服を見にいくんなら、ついでに寄ってみたらどうだ? 今日の大市で旅用の保存食の露店を出してる奴なんだが、俺の名前を出せば大丈夫なはずだ」
それじゃあ俺は船の時間があるから、とオーレンはテーブルの下に置いていた荷物を担ぎ上げると、踵を返す。エルカを呼び止め、勘定を済ませると、彼は宿を出て行った。
トゥルクは愛らしいホットケーキをどう切るか少し逡巡する。とりあえず、くまの耳の部分である小さな半円型のホットケーキにメープルシロップをかけると、トゥルクはそれを口に運ぶ。片耳を失ったホットケーキのくまが心なしか恨みがましい目でトゥルクを見ていた。小さな葛藤を繰り返しながら朝食を食べ進めていくトゥルクの横では、ソラが足をぶらぶらさせながら、涼しい顔でブラックコーヒーを飲んでいる。
「それじゃあ、僕たちもそろそろ行こうか」
ホットケーキを食べ終え、メープルシロップやアイスで汚れた口元を紙ナプキンで拭うと、トゥルクはソラを促しながら立ち上がった。食事の間、テーブルの上に置いていたポーチを腰のベルトに吊るすと、トゥルクは客のいなくなったテーブルから食器を下げているエルカへと近づいていく。
「エルカさん、ごちそうさまでした。お勘定お願いします」
トゥルクがそうエルカに話しかけると、彼女はトゥルクから数枚の硬貨を受け取ってエプロンのポケットへと入れた。トゥルクが支払いを済ませている間に、コーヒーの残りを飲み終わったらしいソラが追いついてきて、ごちそうさまでした、と頭を下げた。さらりと細い肩を滑り落ちた長い黒髪からは何だかいい香りがした。
トゥルクがソラを伴って宿の外に出ると、朝日が燦々と輝いていた。晴れた空は今日も夏らしく清々しい色をしている。
港へ向かう坂道の上を朝食を探す海鳥が舞っていた。遠くにはボー、ボー、ボーという汽笛を鳴らしながら海面を滑り出していく連絡船の姿が見える。ベネット島に行くと言っていたオーレンは今ごろあの船の中なのだろうかとトゥルクは思った。
木組みの街並みを横目に坂道を降りていくと、広場に市が立っていた。この場所では毎朝、朝市が行なわれているが、月に一度の大市の日だという今日は店の数も人出も桁違いだった。
「すごい……」
こういうところに来るのが初めてなのか、ソラは目を輝かせながら、感嘆の声を上げた。小花柄が散らされた白いワンピースに身を包んだソラの姿をすれ違う人々がちらちらと振り返っている。いかにもお嬢さん然としたソラの姿は、その整った顔立ちも相まって人目を引く。しかし、彼女は人々の視線をさして気にしたふうもなく、ワンピースの裾をふわりと翻しながら、くるりと半回転してトゥルクを振り返ると、
「ねえ、トゥルク、どこから見る? 早く行こうよ!」
お金がないからと遠慮していた昨日の様子はどこへやら、興奮したようにソラはトゥルクを急きたてる。自分のおかれた状況を受け入れ、割り切って開き直ることにでもしたのだろうか。出会ったばかりの昨日は緊張や戸惑いからなのか、心細そうで口数が少なかったり、遠慮した様子が目立っていたが、もしかしたらこれが彼女の素なのかもしれなかった。大市にはしゃぐソラの明るい笑顔は、年相応の少女らしくとても可愛らしくて、トゥルクは自分の鼓動が脈打つのを感じた。
「もう、トゥルク、早く行くよ!」
うっかりソラの笑顔に見惚れていたトゥルクは、彼女に手を引っ張られて思わずつんのめる。トゥルクは体勢を整えるふりを装いながら、さりげなくソラの手を握り返した。
あちらこちらの露店から、客を呼び込む元気の良い声が響いている。忙しなく辺りにきょろきょろと視線を巡らせ続けているソラの手を引きながら、トゥルクは歩き始めた。
トゥルクが少女に尋ねると、少女は黒く大きな双眸を瞬かせた。すう、と少女の形のよい薄桃色の唇が空気を吸い込む音がやけに大きく室内に反響する。
「私は、ソラ。ええと……あなたは誰?」
「ごめん、そうだよね。僕はトゥルク。トゥルク・ツェイラー」
当然の疑問をソラにぶつけられて、トゥルクは苦笑しながら名乗った。トゥルク、と小さく口の中で繰り返すと、ソラは何かを思い出そうとするかのようにじっとトゥルクを見つめる。そして、ソラは何かに思い当たったのか、はっとしたような表情をその端正な顔に浮かべると、
「ねえ、トゥルク。私たち、会ったこと……ある?」
目の前の少女の問いにトゥルクは茶褐色の目を見開く。自分は昔から何回も何十回もソラに夢の中で会っていたが、まさかソラの側もそうだとは思ってもみなかった。馬鹿馬鹿しいって思うかもしれないけれど、とソラは前置きすると、
「私、ずっとずっと夢を見てたの。同じくらいの年の男の子が出てくる夢。夢の中でなぜか私は誰だか知らないその男の子のことを呼んでいるの。私を見つけて、って。その男の子はここに来て、私に何かを話しかけてくれるんだけど、私には男の子が何を言っているのか聞こえないの。トゥルクは……夢に出てきた男の子にとってもよく似てる」
ソラの顔はとても真剣で、嘘をついている様子はない。実はね、とトゥルクは信じられない気持ちでいっぱいになりながらも、幼いころから繰り返し見てきた夢のことを初対面の少女に告白した。
「僕も小さいころからずっと、ソラみたいな女の子が出てくる夢を何回も何十回も繰り返し見てた。その女の子はちょうどここみたいなところで眠りながら、僕を呼んでるんだ。私を見つけて、って」
トゥルクとソラは顔を見合わせた。もしかして、とあり得ない想像が頭の中に広がっていく。
「ねえ、ソラ。僕たちってもしかして、夢の中でずっと……」
「ずっと、お互いに呼び合っていた、ってことなのかな……?」
尻すぼみになりかけたトゥルクの言葉尻を引き継ぎ、ソラがその可能性をはっきりと言葉にした。普通なら馬鹿馬鹿しいとしか思えないはずなのに、なぜかそうとしか思えなかった。どうしてなのか理由などわからない。けれど、幼い頃から見続けた少女の夢は、ソラとこうして出会うためにあったに違いないと根拠はないけれどトゥルクは確信を覚えた。
「ねえ、ソラ。聞いていい? どうしてソラはこんなところで一人で眠っていたの? お父さんとお母さんは一緒じゃないの?」
「一人……?」
ソラは聞き返すと、何かを考え込む様子を見せた。やがて、何かが腑に落ちたのか、そっか、とソラは寂しげな表情を浮かべた。彼女のその顔はやけに大人びて見えると同時にトゥルクの目には迷子のように映って、何だかたまらない気分になった。聞くべきじゃなかった、とトゥルクは後悔した。
「たぶん……お父さんとお母さんは、ずっと昔に死んじゃった。だから、私は一人」
そうなんだ、と相槌を打った自分の声がやけにそっけなく聞こえた。きっと一人でこんなところに放り出されて心細いであろう彼女を元気付けるにも、親と死別したという彼女を慰めるにも、どんな言葉を選べばいいのかトゥルクにはわからなかった。その代わり、それならさとトゥルクはある提案をした。
「ソラ、これから近くの街に戻るんだけど、僕と一緒に来ない? 行くところ、ないでしょう?」
「いいの?」
少し不安そうな顔をするソラへ、もちろんとトゥルクは笑みを浮かべてみせる。戸惑うソラのひんやりとした白い手をトゥルクはぎゅっと握る。細く滑らかなソラの手はいかにも女の子という感じがして、トゥルクは少しだけどきりとした。
「それじゃ、ソラ。行こうか」
なんてことはないふうを装いながら、トゥルクはソラに声をかける。うん、とソラが頷くと、トゥルクは彼女の手を引いて部屋を出た。
トゥルクがソラを連れて遺跡を出ると、太陽が傾きかけていた。リブレを繋いでいる小川のそばまで戻ると、ソラはトゥルクの愛馬を見て首を傾げた。
「これは……馬?」
「そうだけど……ソラ、馬って見たことない?」
「ドウガとかシャシンで見たことはあるけど……本物をこんなに近くで見るのは初めて」
「そうなんだ? 触ってみる?」
ソラの言うドウガやシャシンがなんのことかはわからなかったが、トゥルクはそれは一旦置いておくことにする。一人で心細い思いをしているに違いない彼女に、今細かいことを根掘り葉掘り聞く気にはなれなかった。
「ソラ、この子はリブレ。女の子だよ。この子、ちょっと怖がりだから、名前呼びながら首の辺りを撫でてあげて」
トゥルクがリブレとの触れ合い方をソラに説明してやると、彼女はわかったと頷いた。「リブレ」
優しく名前を呼びながら、ソラはリブレの首筋へと手を伸ばす。しかし、ソラの手が触れるよりも早く、リブレはぐっと後ろに耳を倒し、ソラに噛みつこうと威嚇してきた。
「ほら、リブレ。この子はソラ。怖くないよ」
ソラを怖がるリブレの鼻面をトゥルクは宥めるように撫でてやる。主人の声を聞いて少し落ち着いたのか、リブレはトゥルクの肩へと顔を擦り寄せた。
今度こそ、とソラがもう一度リブレに近づこうとすると、リブレは再び耳を後ろに倒す。どうやら、リブレはソラに触られるのを拒んでいるようだった。
「ソラ、ごめんね。いつもはこんなんじゃないんだけど。慣れてきて、ソラは怖くないってわかったら、たぶんそのうち触らせてくれるようになると思うよ」
そうかなあと、疑問に思いつつもソラはリブレを眺める。額の白いハート模様は可愛らしいが、態度がいまいち可愛くない。なぜか女として敵対視されているような気すらする。
「もうすぐ夕方になっちゃうし、街まで戻ろうか。ソラは高いところとか大丈夫?」
「大丈夫だけど、どうして?」
「歩いて帰ると時間かかっちゃうから、一緒にリブレに乗って帰ろうかと思って」
ソラの疑問にトゥルクがそう答えると、ソラはえ、とあからさまに顔を引き攣らせた。
「ねえ、トゥルク……私、この子に嫌われてる気がするんだけど、本当に乗せてくれるかな? 振り落とされない?」
「大丈夫だよ。僕も一緒に乗るからそんなことにはならないよ」
そう言いながら、トゥルクはリブレを繋いでいた紐を解くと、ナップザックへとしまった。トゥルクは鞍の左側から鐙を吊るしている革の長さを調節して伸ばすと、
「ソラ、手綱とリブレのたてがみを掴んだら、左足を鐙にかけて体を持ち上げて。そしたら、リブレのお尻を蹴らないように気をつけながら、右足を向こう側に持っていって」
「わかった……けど、たてがみなんて掴んでリブレは痛くないの?」
「馬はその辺りは掴んでも痛くないから大丈夫だよ」
そうなんだ、と相槌を打ちながら、ソラはトゥルクに言われた通り、手で手綱とリブレのたてがみをまとめて握る。左足を鐙に引っ掛けると、弾みをつけて体を上へ持ち上げる。右足を回して鞍の向こう側に下ろすと、ソラは鞍の上へ腰を下ろした。
「ソラ、鞍の前に持ち手みたいなものがあるはずだから、そこ持っててくれる?」
ソラはそれらしきものを見つけて指差すと、「これ?」「うん、それ」トゥルクもリブレの上に跨り、前に座るソラを抱きかかえるようにして手綱を握る。
左手を伸ばして、ソラが乗る前に伸ばした鐙を自分の足の長さに直すと、トゥルクはリブレへと動くように指示を出す。リブレが動き出すと、ソラは思わずといったふうに、
「わっ、動いた!」
「そりゃ動物だしね。少しスピード出すからちゃんと捕まっててね」
余裕ありげにトゥルクはそう言ったが、内心では前に座るソラの存在にどぎまぎとしていた。密着した背は細く華奢なのに、トゥルクが手を置いている彼女の太腿は柔らかく弾力がある。なるべく意識しないようにしながら、トゥルクは手綱を短く持ち直すと、左脚で合図を送り、リブレを走らせ始めた。
トゥルクがコルニスの街の宿屋に帰り着くと、カウンターキッチンで夕飯の仕込みをしていたエルカが二人を出迎えた。エルカはベージュのエプロンで手を拭いながら、
「トゥルクくん、おかえりなさい。今日は早いのね。って、そちらのお嬢さんは?」
「この子はソラ。今日行った先で一人でいたところを見つけたんですけど、行くところがないっていうので連れてきたんです」
嘘にならない程度に適当に事情をぼかしながら、トゥルクはソラと出会った経緯をエルカに説明する。夢の話など、とてもではないがエルカには言える気がしない。あらまあ、とエルカはオリーブグリーンの目を丸くしながら、
「ソラちゃんだったかしら? 私はエルカ。この宿を切り盛りしているの。ところで、ソラちゃんはご両親は一緒じゃないの? もし迷子とかだったら、自警団の人に相談して探してもらうけれど」
いえ、とソラは首を横に振ると、
「両親はずっと昔に亡くなったので。だから、私一人なんです」
「そうなの。ソラちゃん、お金は持ってる? それよりもご飯とか着替えとかは大丈夫?」
「私、お金は持ってなくて……」
おずおずとソラがそう言ったとき、きゅうと彼女の腹が小さく鳴った。くすり、とエルカは笑うと、
「何はともあれ、まずはご飯ね。ソラちゃん、何か好き嫌いはある?」
「それは大丈夫ですけど、私、お金が……」
「子供がそんなこと気にしないの。それじゃそうね、すぐできるものでキノコのリゾットにでもしようかしら。
あと、トゥルクくん。料金はそのままでいいから、向かい側の二人部屋に移ってちょうだい。この街にいる間はソラちゃんと二人でその部屋を使ったらいいわ」
ありがとうございます、とトゥルクとソラはエルカへと頭を下げる。どういたしまして、と朗らかに笑いながらエルカはカウンターキッチンの向こう側へ戻っていった。
まだ夕食どきには少し早い時間帯だからか、食堂には他の宿泊客の姿はない。エルカは食材の入ったカゴから、何種類かのキノコや玉ねぎ、ニンニクなどを取り出しながら、
「トゥルクくんは一旦部屋に荷物を置いていらっしゃい。今朝まで使ってた部屋に置いてある荷物は、後で息子に運ばせるからそのままでいいわよ。
ご飯、ソラちゃんと同じのをトゥルクくんにも用意しておくから、すぐ戻ってくるのよ。冷めたリゾットなんて美味しくないからね」
はい、とトゥルクは返事をすると、二階への階段を登っていく。客室が並ぶ廊下を進み、突き当たりの左側の扉をトゥルクは開ける。綺麗に整えられた部屋に並べられた二つのベッドに天然木のテーブルと椅子二脚が彼を出迎えた。
トゥルクは手前側のベッドの脇に、リブレの背に乗せていた荷物と背負っていたナップザックを下ろす。荷解きや道具の手入れをしてしまいたかったが、エルカがすぐに戻ってくるように言っていたのを思い出し、トゥルクは部屋を出た。
トゥルクが一階の食堂へ降りていくと、ちょうど出来上がったリゾットをエルカが皿によそっているところだった。カウンター席のスツールに腰掛けたソラは何だか肩身が狭そうな顔をしていた。
チーズとキノコの美味しそうな匂いに思わず顔を緩めながら、トゥルクはソラの横のスツールに腰を下ろした。
「はい、トゥルクくん、ソラちゃん。おまちどうさま」
エルカは二人の前へとリゾットの入った皿とスプーンを置く。いただきますと両手を合わせると、トゥルクはスプーンへと手を伸ばす。ソラは本当に食べていいのかとまだ躊躇っているようだった。
「気にしないで食べなよ。エルカさんの料理、美味しいよ」
トゥルクが声をかけると、ソラはこくりと頷いた。リゾットの皿の前でソラは手を合わせると、スプーンを手に取り、料理を口に運び始めた。
「……おいしい」
口の中に広がる幾重にも重なったキノコのコクとチーズのクリーミーさにソラは思わず声を漏らした。ともすれば濃厚すぎるようにも感じられるそれを仕上げにかけられたブラックペッパーがピリリと引き締めている。
ぱくぱくとソラが夢中でリゾットを食べ進めているのを見て、トゥルクは自分の分のリゾットに口をつける。濃厚さの中に同居するガーリックの存在が食欲を刺激する。美味しそうに自分の料理を食べる子供二人をエルカは調理器具を洗って片付けながら、嬉しげに口元を綻ばせた。
「ソラちゃん、そういえば着るものもないんだったかしら? 私が若いころに着ていたものが残ってるから、よかったら使ってちょうだい」
洗ったフライパンを布巾で拭いて片付けながらエルカがそう言うと、ソラはスプーンを動かす手を止め、申し訳なさそうに、
「こうやってご飯を食べさせていただいた上に、寝泊まりする場所まで用意していただいたのに、これ以上甘えるわけには……」
いいのいいの、とエルカは顔の前でひらひらと手を振りながら、
「子供が遠慮なんてしないの。それに着替えがなくて困っているのは事実でしょう? それに服もこのままじゃ箪笥の肥やしになるだけだし、ソラちゃんみたいなかわいい子に着てもらえたほうが私は嬉しいわ」
それでもまだ躊躇する様子を見せるソラにエルカは仕方ないわねと苦笑すると、
「ソラちゃん。じゃあこうしましょう。服をあげる代わりに、食べ終わった後の二人分のお皿を洗っておいてくれないかしら?」
エルカの提案にそれなら、とソラはようやく首を縦に振った。
「それじゃあ、ソラちゃん。早くそれ食べちゃいなさい。私はソラちゃんが食べてる間に、服を取ってきちゃうから」
エルカに促されて、ソラは再びスプーンを動かし始める。それを見てエルカは満足そうな顔をすると、その場を離れ、裏口から外へ出ていった。
二人がリゾットを食べ終えたころ、綺麗に畳まれた服が入ったかごを抱えて、宿の外からエルカが戻ってきた。かごの中には小花柄のワンピースや、レースとフリルが可愛らしいブラウス、刺繍が美しいスカートなどが入っている。
「ソラちゃん、これ、ここに置いておくわね。ソラちゃんの趣味に合うかはわからないけれど」
いえ、ありがとうございます、とソラはリゾットの皿をカウンターキッチンの中で洗いながら頭を下げた。
食器を洗い終わったソラが、エルカが持ってきた籠に入れられた服を見ていると、チャリンというベルの音が鳴った。ドアが開き、入ってきたのは恰幅の良い豪気そうな髭面の中年男性――オーレンだった。
「あら、オーレンさん。おかえりなさい」
エルカがオーレンを出迎えると、おう、と彼は手をあげる。とりあえずビール一杯くれ、と言いながら、彼は背負っていた荷物を床に置いて、手近な席に腰を下ろす。
「まったく、オーレンさんてば空きっ腹にお酒は体に良くないわよ」
小言を言いながらもエルカは、氷水を入れた大きな木桶で冷やしていたビールの瓶を取り出し、ジョッキへと中身を注いでいく。チーズをナイフで切って、小皿へと盛り付けると、エルカはビールとチーズをオーレンがいる客席へと運んでいく。
「ほら、オーレンさん。仕方ないからチーズはサービスしとくわ」
サンキュ、とオーレンはビールとチーズを受け取ると、服を広げて見ているソラとトゥルクへと視線をやり、
「なあ、エルカさん。あの変わった服を着ている女の子は何なんだ? トゥルクの彼女か?」
耳に入ってきたオーレンの言葉に慌てふためいたトゥルクは、顔を真っ赤にしてオーレンを振り返り、
「オーレンさん! ソラはそんなんじゃないから!」
「お、じゃあどんなんなんだ?」
オーレンはビールを啜りながら、顔をにやつかせた。
「今日行った先で偶然出会ったんだよ。それで、家族もいないし、行く先もないっていうから連れて帰ってきたんだけど」
ふうん、と言いながらオーレンは再び、ソラへと視線を向ける。惰性で皿に盛られたチーズへと手を伸ばしながら、
「それで、何で服?」
オーレンが疑問を口にすると、ソラは服から顔を上げ、
「私が着替えを持っていないのを知ったエルカさんが、昔着ていた服をくださったんです」
「ふうん、道理でデザインが妙に古くさいと思ったら」
「悪かったわね」
エルカが筒状に丸めた本日のディナーメニューが書かれた紙でオーレンを小突いた。しかし、オーレンはさして気にしたふうもなく、
「トゥルク、明日は月に一度の大市の日だ。その子と服でも見に行ってきたらどうだ?」
「でも、私、お金が……」
「それはトゥルクに立て替えてもらえばいいさ。それでもって、服代は今後のトゥルクの仕事を手伝うなりして、稼いで返せば何も問題ないんじゃないか?」
妙案とでも言いたげにオーレンはがははと笑うと、ビールを煽る。それいいね、とオーレンの言葉を肯定すると、トゥルクはソラを振り返り、
「どうかな? ソラが嫌じゃなかったらそうしない?」
「いいの?」
戸惑っている様子のソラにトゥルクはもちろんと力強く頷く。
「ところで、トゥルクの仕事って何なの?」
ソラの当然の疑問に、そうだよねとトゥルクは苦笑すると、
「僕はトレジャーハンターをしてるんだ。いろんなところに行って、見つけた宝物の類を買い取ってもらったお金で暮らしてる。今日、ソラとあそこで会ったのも、ドバシアの森に隠された財宝を探しに行っていたからなんだ」
そうなんだ、とソラが相槌を打とうとしたとき、ぱんぱんと手を叩きながらエルカが割り込んできて、
「二人とも。そろそろ、本格的に宿泊のお客さんが増えてくる時間だから、その辺りを片付けて上に戻ってちょうだいな」
そう言われてトゥルクが食堂の隅にある古時計に目をやると、午後六時を回りかけていた。確かにそろそろ、腹をすかせた利用客たちが増えてくる時間だった。
トゥルクはソラと協力して、テーブルの上に広げた服の数々をたたみ直してカゴの中に片付けていく。
よいしょ、と、服の入ったかごをトゥルクは持ち上げると、ソラと共に客室のある二階へ続く階段を上がっていった。
トゥルクがベッドの上に仰向けで横たわり、今日訪れたドバシアの森の地図を眺めていると、ドアの外からとんとんと誰かが階段を上がってくる音が響いてきた。足音は段々と近づいてきて、トゥルクのいる部屋の前で止まった。こんこん、という軽いノックから一拍遅れてドアが開き、ソラが部屋の中に入ってきた。
レースとリボンが可愛らしい淡いグリーンのネグリジェに身を包んだソラは、湯を使った後なのか、ほのかなせっけんの匂いを漂わせていた。エルカのものを貸してもらったのか、少し緩い胸元を押さえているのが、何だか艶かしく見えて、トゥルクはなるべく見ないように目を逸らした。どくどくと心臓が鳴っている。こんな可愛い子と一晩同じ部屋で過ごすのかと思うと、気が気ではない。
「トゥルク、何見てたの?」
ソラはトゥルクの向かい側のベッドに腰を下ろすとそう聞いた。トゥルクはベッドから体を起こすと、
「今日行ったドバシアの森の地図。ソラも見る?」
見せて、と言うとソラは立ち上がり、トゥルクの隣へと移動してきた。肩のあたりに感じるソラの体温にどぎまぎとしながらも、トゥルクは地図を隣に座る彼女へと見せてやる。
「この印の辺りがリブレを待たせていたところで、しばらく南西にいったこの辺りにあるのがソラが眠っていた遺跡があった場所。……って、ソラ?」
トゥルクの説明を聞いているのかいないのか、ソラは地図に記された印の近くにある書き込みをまじまじと見つめている。どうしたの、とトゥルクがソラへ声をかけると、彼女は何でもない、とかぶりを振る。そんなまさかね、とソラは一人ごちると、
「ちょっと知り合いの字に似てただけ。でも、多分気のせいだよ」
「似てた、って……ソラは昔の文字が読めるの?」
「そうみたい。代わりにトゥルクたちが使っている文字はさっぱりだけど。看板とか見ても、何が書いてあるのか全然わからなかったもん」
そうなんだ、とトゥルクは相槌を打つ。やはりソラは不思議な子だとトゥルクは改めて思った。彼女に聞きたいことはいくらでもある。しかし、出会って間もない今の状態でどれだけ踏み込んでいいものかもわからない。それでも、とトゥルクは心を決めると、口を開く。
「ねえ、ソラ。聞いてもいいかな。もし、話したくないことだったら、話さなくても大丈夫だから」
「うん、何?」
「ソラは、どうして一人であの場所で眠っていたの? あの遺跡は一体何なの?」
一息にトゥルクがそう問うと、そうだよね、とソラは苦笑する。そして、彼女は表情を消してすっと真顔になると、
「あのね、トゥルク。今日、トゥルクが私を見つけたあの場所はウチュウセンなの。
笑わないで聞いてね。私、この星の人間じゃないの。私の住んでいた星はね、疫病とか環境汚染とかで住めなくなってしまって、あのウチュウセンで逃げてきたの。でも、この星まではとても時間がかかるから、仮死状態のまま、ずっとずっと眠ってた」
トゥルクにわかるように言葉を選んでくれているようだが、それでもソラの話はトゥルクには難しい。トゥルクにはウチュウセンというのが一体何なのかわからない。それにそもそも、ソラがこの星の人間ではないというのは一体どういうことなのだろう。
いまいち話が伝わっていないことをソラは察したのか、
「ねえ、トゥルク。トゥルクは宇宙ってわかる?」
「ウチュウ?」
「地上から見える空よりもずっとずっと上には真っ暗でとっても大きな空間が広がっているの。夜になると空に星が見えることがあるでしょう? あれらは全部宇宙にあるもので、場所によってはここみたいに人が暮らしていたりもするの。私が住んでいた星もその一つだったんだけど、人間が住める環境じゃなくなっちゃったんだ」
どうして、とトゥルクが問うとソラの黒瞳が悲しげに揺れた。そうだなあ、と自嘲気味に微笑む顔は泣き出す寸前の表情によく似ていた。
「科学の進歩による自然破壊に大気汚染、それに温暖化。戦争で使われた細菌兵器による病気の蔓延。すごく数が少なくなってしまった人間は、住んでいた星を捨てて、他の星に移住することを考えたの。自分たちを破滅に追いやった科学の力を総動員して、ね」
ソラの話にトゥルクは言葉を失った。ソラの話は聞いたこともないようなもので、想像はしづらかったけれど、ソラの言葉の端々からそれがひどく辛く悲しいことであるのは理解できた。
「私のお父さんとお母さんは科学者だったの。ムジンタンサキによる調査で、いくつも銀河を超えた先の宇宙の果てに人が住める星があるってわかったから、移住のために必要な研究――宇宙空間におけるワープの技術や、長時間の航行に耐えるためのコールドスリープの研究をしてた」
「ソラ、ムジンタンサキってなに?」
「無人探査機っていうのは、宇宙の調査に使う、人が乗れない小型のウチュウセンのことだよ」
ふうん、とトゥルクは頷いてはみせたが、一体それがどんなものなのかまったく想像がつかない。この世にはまだまだ自分が知らないことがたくさんあるのだとトゥルクは思った。
「それじゃあ、ワープとコールドスリープっていうのは?」
「ワープっていうのは簡単に言うと、本来かなり距離があるところに短時間で移動することかな。コールドスリープは、人間を本来の寿命を超えて生きながらえさせるために仮死状態――長期間半分死んでいるような状態で眠らせておくことかな。そうしたら、人間って歳を取らないの」
ソラの話から、彼女の住んでいた星の科学水準はトゥルクの想像を絶するレベルであったことが窺えた。ソラは訥々と話の続きを薄桃色の唇から紡いでいく。
「住んでいた星がもうこれ以上は本当に駄目だってなったとき、まだコールドスリープのキカイは実験中の段階で、実用に足るものじゃなく、試験用のものが七台あるだけだった。
これらの研究を主導していた私のお父さんとお母さんは、一つの決断をした。自分たちの部下だった七人の若い研究者を被検体としてコールドスリープマシンの中に眠らせることを。そして、隠し持っていたカイハツキのコールドスリープマシンに一人娘の私を眠らせることを」
そう話すソラの黒い目はどこか寂しそうだった。長い眠りから覚めると、どことも知れない場所で一人きりだったわけだから仕方ない。
「私が眠っていたあの場所は宇宙船――宇宙を移動するための乗り物なの。研究者の人たちと私を眠らせた後、たぶんお父さんとお母さんは暮らしていたところに残って、まだ研究途中だったワープ装置を使って宇宙船を遠い宇宙空間に転移させたんだと思う。あの場所はもう生き物が暮らせる状態じゃなかったから、きっとそれからすぐにお父さんとお母さんは死んじゃったはずだよ」
ソラの話はトゥルクの理解の範疇を超えていた。しかし、ソラがきっと両親を恋しく思っているであろうことは理解できた。
「ソラは……お父さんとお母さんに会いたい?」
ソラはうん、と静かに頷いた。トゥルクが彼女の表情をそっと窺うと、彼女は泣き出す直前のような顔で唇を噛み締めていた。
「僕がトレジャーハンターをしているのはね、未知のものに出会いたいからなんだ。僕の死んだおじいちゃんが学者だったんだけど、この世界に関するいろんな面白い話をしてくれて、僕は自分で探しに行きたいって思ったんだ。中でも一番印象的だったのは、この世界にはいくつか、七賢人の遺産が残されているらしいって話」
「七賢人って?」
「この世界を作ったって言われている人たちだよ。皆、常識では考えられないような、神様みたいな力を持っていたって言われてる。そんな人たちが残したものが、いくつかこの世界には眠っているらしいんだけど、そのどれもが超常的な力を持っているって言われてるんだ。七賢人の遺産の力をもってすれば、それこそソラがお父さんやお母さんにもう一度会うことだってできるかもしれない。
だからさ、ソラ。オーレンさんがさっきあんなふうにいったからってわけじゃないんだけど。しばらく、僕と一緒にトレジャーハンターの仕事をしてみない?」
トゥルクがソラへと誘いの言葉をかけると、彼女は不安そうに瞳を揺らしながら、
「迷惑じゃない?」
「そんなことないよ。僕だって、七賢人の遺産なんていうものが本当にあるなら見てみたいから」
だから僕と一緒に行こうよ、とトゥルクはソラへと右手を差し出した。うん、と頷きながらソラはおずおずと自分の右手をトゥルクの手に重ねる。トゥルクはにっと笑って見せながら、ソラの白い手をしっかりと握る。
「それじゃ、ソラ。よろしくね」
「うん、トゥルク。よろしく」
そう言うと、ソラもトゥルクの手を握り返す。
テーブルの上のキャンドルの灯りが、ぱちぱちと炎がはぜる音と甘い蜜蝋の香りとともに、手を握り合う少年と少女の姿を温かく見守るように照らしていた。
トゥルクが目覚めると、既に部屋の中にソラの姿はなかった。ベッドの上には、シーツや彼女が昨夜着ていたネグリジェが綺麗に畳んで置かれている。
トゥルクは自分の荷物から服を取り出すと、寝巻きを脱ぎ、手早く黒のスタンドカラーシャツとカーキのズボンという軽装に着替えていく。ブラウンのブーツに足を突っ込み、いつも腰につけているポーチを手に取ると、トゥルクは部屋を出た。
トゥルクが食堂に降りていくと、ソラはオーレンと一緒のテーブルで、芳醇なバターが香る分厚いトーストとベーコンエッグの朝食を食べていた。トゥルクの姿を認めると、ソラとオーレンは朝食を食べる手を止め、
「トゥルク、おはよう」
「お、何だ? トゥルク、寝坊か?」
おはよう、と挨拶を返すと、トゥルクは椅子を引き、ソラの横に腰を下ろした。水差しを手に忙しく立ち働いていたエルカはトゥルクへ近づいてくると、
「トゥルクくん、おはよう。よく眠れた? ところで今日の朝ごはん何にする?」
「ええと、じゃあ、今日はホットケーキで」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
水の入ったグラスをトゥルクの前に置くと、エルカはベージュのエプロンの裾を翻して去っていく。
「朝からホットケーキなんて、子供っぽくない?」
「……ソラ、何か言った?」
別に、とソラは首を横に振ると食事を再開する。育ちがいいのか、ベーコンエッグを切り分けるフォークとナイフの扱いは洗練されている。フォークに刺した焼いたソーセージをオーレンは肉汁を豪快に飛ばしながら噛みちぎった。オーレンはソラが一瞬嫌そうな顔をしたのを特に気にしたふうもなく、
「まあお前らの年代だと、女の子のほうが精神年齢が上だって言うしなあ。さっき聞いた話じゃあ、ソラちゃんはトゥルクの一個下の十二らしいけど、どう考えてもトゥルクよりソラちゃんのほうが大人だよなあ。しかもかわいいし」
「ほら、オーレンさん、早くご飯食べちゃってください。九時のベネット島行きの船に乗るって言ってませんでした?」
焼き上がったホットケーキの皿を運んできたエルカが呆れたように言った。はい、とエルカはトゥルクの前に可愛らしいホットケーキを置く。「エルカさーん、コーヒーお代わり!」別の宿泊客に呼ばれ、エルカは一礼するとトゥルクたちのテーブルを去っていった。ソラはちらりとトゥルクの朝食に目をやると、
「かわいい……けど、十三歳でこれは子供っぽくない?」
大きなホットケーキが一つに、その上部にくっつけるように置かれた小さな半円型の二つのホットケーキ。大きなホットケーキの中心にはバニラアイスが乗せられていて、チョコソースで目と鼻らしきものが描かれている。一緒に添えられた小さな器にはメープルシロップがなみなみと入れられており、甘党のトゥルクが味を変えながら最後まで楽しめるように配慮されていた。
「まあ……くまの形なのは確かにちょっと、僕にはかわいすぎるかもしれないけど……でも、朝は甘いもの食べないと何かいまいち元気出ないっていうか……」
トゥルクが口の中でごにょごにょとそんなことを言っていると、朝食を食べ終えたオーレンが立ち上がりながら、
「そうだ、トゥルク。昨日、俺の馴染みの取引先が面白いネタ掴んだって言ってたぜ。今日、ソラちゃんの服を見にいくんなら、ついでに寄ってみたらどうだ? 今日の大市で旅用の保存食の露店を出してる奴なんだが、俺の名前を出せば大丈夫なはずだ」
それじゃあ俺は船の時間があるから、とオーレンはテーブルの下に置いていた荷物を担ぎ上げると、踵を返す。エルカを呼び止め、勘定を済ませると、彼は宿を出て行った。
トゥルクは愛らしいホットケーキをどう切るか少し逡巡する。とりあえず、くまの耳の部分である小さな半円型のホットケーキにメープルシロップをかけると、トゥルクはそれを口に運ぶ。片耳を失ったホットケーキのくまが心なしか恨みがましい目でトゥルクを見ていた。小さな葛藤を繰り返しながら朝食を食べ進めていくトゥルクの横では、ソラが足をぶらぶらさせながら、涼しい顔でブラックコーヒーを飲んでいる。
「それじゃあ、僕たちもそろそろ行こうか」
ホットケーキを食べ終え、メープルシロップやアイスで汚れた口元を紙ナプキンで拭うと、トゥルクはソラを促しながら立ち上がった。食事の間、テーブルの上に置いていたポーチを腰のベルトに吊るすと、トゥルクは客のいなくなったテーブルから食器を下げているエルカへと近づいていく。
「エルカさん、ごちそうさまでした。お勘定お願いします」
トゥルクがそうエルカに話しかけると、彼女はトゥルクから数枚の硬貨を受け取ってエプロンのポケットへと入れた。トゥルクが支払いを済ませている間に、コーヒーの残りを飲み終わったらしいソラが追いついてきて、ごちそうさまでした、と頭を下げた。さらりと細い肩を滑り落ちた長い黒髪からは何だかいい香りがした。
トゥルクがソラを伴って宿の外に出ると、朝日が燦々と輝いていた。晴れた空は今日も夏らしく清々しい色をしている。
港へ向かう坂道の上を朝食を探す海鳥が舞っていた。遠くにはボー、ボー、ボーという汽笛を鳴らしながら海面を滑り出していく連絡船の姿が見える。ベネット島に行くと言っていたオーレンは今ごろあの船の中なのだろうかとトゥルクは思った。
木組みの街並みを横目に坂道を降りていくと、広場に市が立っていた。この場所では毎朝、朝市が行なわれているが、月に一度の大市の日だという今日は店の数も人出も桁違いだった。
「すごい……」
こういうところに来るのが初めてなのか、ソラは目を輝かせながら、感嘆の声を上げた。小花柄が散らされた白いワンピースに身を包んだソラの姿をすれ違う人々がちらちらと振り返っている。いかにもお嬢さん然としたソラの姿は、その整った顔立ちも相まって人目を引く。しかし、彼女は人々の視線をさして気にしたふうもなく、ワンピースの裾をふわりと翻しながら、くるりと半回転してトゥルクを振り返ると、
「ねえ、トゥルク、どこから見る? 早く行こうよ!」
お金がないからと遠慮していた昨日の様子はどこへやら、興奮したようにソラはトゥルクを急きたてる。自分のおかれた状況を受け入れ、割り切って開き直ることにでもしたのだろうか。出会ったばかりの昨日は緊張や戸惑いからなのか、心細そうで口数が少なかったり、遠慮した様子が目立っていたが、もしかしたらこれが彼女の素なのかもしれなかった。大市にはしゃぐソラの明るい笑顔は、年相応の少女らしくとても可愛らしくて、トゥルクは自分の鼓動が脈打つのを感じた。
「もう、トゥルク、早く行くよ!」
うっかりソラの笑顔に見惚れていたトゥルクは、彼女に手を引っ張られて思わずつんのめる。トゥルクは体勢を整えるふりを装いながら、さりげなくソラの手を握り返した。
あちらこちらの露店から、客を呼び込む元気の良い声が響いている。忙しなく辺りにきょろきょろと視線を巡らせ続けているソラの手を引きながら、トゥルクは歩き始めた。



