「誰かやってくれるやつ本当にいないか〜、内申にもつながるし。このままだと多数決になるぞ」
 長い沈黙に疲れたような口調で担任の芝原が言うが、みなそっぽ向いて知らんふりしている。林間学校の実行委員に自ら立候補する人など稀だ。修学旅行ならまだ、イベント好きそうな女子が意気揚々と片手を挙げそうなものだが。純矢も芝原と目が合わないように前の席のやつの肩甲骨あたりを見つめる。新緑の澄んだ空気と新学期の緊張感はふたつでひとつだ。どうか早くこの時間が終わりますように。
「先生、道嶋がいいと思う!」
 右ななめ後ろに座る亮が自然なタメ口で無邪気に言い放つ。純矢は嘆息した。当てられないための小さな努力は水の泡だ。突如自分に向けられた関心に少し萎縮しながらも若干の小声で抗議する。
「ふざけんなよお前」
「だって純矢部活も委員もやってないしさ〜、いつも暇そうじゃん」
「お前もだろ」
「え〜?」
 ふたりのやりとりを見て、近くに座る生徒たちはくすくす笑っている。ノリになってしまったら純矢は断れない。亮は昨年から同じクラスで一番仲のいい友人だ。ただ時々おふざけが過ぎる。まあこういったくだらない応酬はふたりの常になっていて、軽口を言い合うことに純矢は心地よさを感じている部分もある。
 放課後暇なことに変わりはなかったし、結局純矢は亮と周りの雰囲気に負けて、実行委員になることを承諾した。けれども芝原は諦めたような声色でうろたえる。
「あと一人〜、もう多数決するか」
 そうだ、もう一枠あるんじゃん。首をぐるりと回し彼をふり返る。亮は純矢の思惑に気づいているのか、顔をひきつらせている。
「な、何だよ」
 そのまま圧をかけるように見つめ続ける。亮がその視線に気まずそうな表情になり顔を背けたところで
「俺、やります」
と廊下側から聞こえてきて、教室がどよめいた。
 その声の主を確認したとき、実行委員を担当するということが、純矢にとって本当に憂鬱なものになった。

 須田樹。「クラスで人気なヤツTOP10」とかいうありふれた順位をつけるなら、純矢は須田がぶっちぎりで一番だと思う。何でもそつなくこなすが、それを鼻にかけたようすもなく人あたりがいい。誰とでも仲がよくていつも笑っている気がする。加えて彫りが深く、軽そうな黒髪を短く切っていて、頼りがいのありそうな、それでいて爽やかな印象がある。彼はクラスの中心だった。純矢も亮をはじめとして、割と色んな人と話したりふざけたりしているが、須田はいつも人に囲まれているので、純矢からわざわざ話しかけたこともないし、つるむグループも違う。だから林間学校の実行委員を担当するにあたり、ふたりきりで話したことがないから少し緊張してしまう。
 だが、気まずい気まずくないの関係性よりもっと、須田と関わりたくない理由が純矢にはある。それは彼から感じる鋭い視線だ。
 最初はクラス替えの次の日だった。朝、純矢が教室に入ると須田とその友人たち二、三人が教卓の周りで駄弁っていた。そのうちのひとりが純矢に気づいて
「よっす、道嶋〜」
と声をかけてきた。
「道嶋きゅんは今日もスカしてるね」
「ねえよ、ひっつくな」
「やだ、ひど〜い」
 何人かといっしょになって純矢が笑ったり小突きあったりしている横で、須田だけ微動だにせず険しい顔をして純矢を睨んでくる。純矢はびっくりして声が出そうになったが、周囲のクラスメイトたちは誰も気づいていないようなので、そのまま会話を続けた。自分が何か気に触ることを彼にしてしまったのかと考えたが、同じクラスになったのは初めてで話したこともなかったから思い当たる節がない。
 それから純矢は彼からの視線を気にせずにはいられなかった。授業中先生に当てられて発表するときや、休み時間に亮がちょけて大声を出したときなど、自分が目立つシチュエーションになったら、確認するように須田のほうを見るようになった。そうすると、必ず彼は純矢に厳しい視線を向けている。いつも屈託なく誰とでも仲のいい須田から睨まれるのは普通に怖い。視線を感じるたび、ひゅっと心臓が萎縮する感じがした。体育の授業で休憩中に体育館の隅でしゃがんでいたときも、たまたま下駄箱でいっしょになったときも、何か話しかけてくるわけでもなくただ純矢のことを凝視してくる。
 正直、視線の理由が気になって気になって仕方がなかったが、心あたりがなさすぎるから怖くて話しかけられない。自分はクラスに溶け込むのが得意なほうだと思っているし、過度な校則違反や暴力的なことをしてクラスメイトから疎まれているわけでもない。あまりにも見当がつかない。自分は嫌われているのだろうか。そんな思考から逃げるためか、純矢は彼に裏の顔があるのではないかとさえ思ってしまうようになっていた。彼の嫌なところを探さなければ不安になる。あまり関わりのないクラスメイトだけれど、自分にだけそっけないなんて思いたくない。話したことのない人に嫌われているなんて、誰だっていい気はしないだろう。
 そんなやつと実行委員なんてできるのだろうか。そもそも純矢が委員の一枠を担当するとわかっていたのに、どうして須田は立候補したのだろう。誰も手を挙げそうにないクラスの様子を加味してのことだったにしても、嫌いな相手と協力しないといけない環境に自らを置くだろうか。ますますわからなくなってくる。
「ま〜じ助かったあ!」
 実行委員を逃れ安堵した亮の声がななめ後ろから聞こえた。ほんとこいつは気楽でいいよ。純矢はちらりと廊下側のほうを見やる。休み時間になっていたので須田は席をはずしているようだった。安堵と不安でなんとも言えない気持ちになる。そしてまた亮をふり返り大きくため息をついた。
「へ?なに?」
 亮は純矢の心持ちも知らないで、目を丸く見開いてほけっとしている。

「洗剤」
 放課後、メッセージアプリを開くと母から命令が下されていた。洗剤を買ってこいということは学校から見て家とは反対の方向にあるドラッグストアまで行けということだ。そこでは会員限定の電子クーポンが使える。
 命令の遂行中、純矢はやはりこれから夏まで続く実行委員のことを考えていた。須田のことがあるから不安ではあるが、学校行事に深く携わることは初めてのことだったので、少しわくわくしている部分もある。住宅街を進むと、自分の心情がそうだからか、人や家、電柱さえも新しい季節にそわそわしているような気がした。考えすぎかもしれないと思いながらも、自分も確かにその爽快な雰囲気を感じ、さらに気分を高揚させている。始業式からすでに一ヶ月弱経っているが、二年生になったという実感がようやく湧き始めた感じがする。純矢の両親はフルタイムの共働きだ。普段は高校から帰る時間には二人とも家にいないが、母は有休消化のため、塾の運営職として勤務している父は休校日なので家にいるはずだ。機会の少ない三人での食卓に期待していることも、この胸の高鳴りに寄与しているのだろう。
 ドラッグストアからの帰り、洗剤が2パック入っている袋は予想していたより重く純矢は辟易していた。行きの溌剌とした歩みがうそのようだ。ちょうど夕方の時間で強い陽が差し、額からは汗がふきだした。長い距離を重い荷物を持ちながら歩くのは久々だった。母の命令を受けたことを後悔し始めたそのとき、コンビニの敷地ほどの小さい公園を見つけた。いくつかの子どもの群れや親子の姿が見られた。体操服を着た小学生たちが砂でつくったトンネルに水を流して泥だらけになったり、ブランコから靴とばしをして明日の天気を占ったりしている。純矢は学校帰りだろうに元気あふれる子どもたちを遠目に見ながら、入り口近くの木でできた焦茶のベンチに座る。さすがに休憩が欲しかった。ベンチに両手をつき、しばらくぼーっとしていると、時間の感覚がなくなってくる。子どものときってどんなだったっけ。時間が経つのがすごくはやかった気がする。亮が言っていたとおり、確かに最近は放課後暇で、家に帰っても時間を潰すのに努力していた。漫画を読んだり料理を始めてみたり確かに楽しいはずなのに、これは今するべきことなのだろうかという疑問が常に頭の中にあった。実行委員になったのは半ば強引だったけれど、新しいことを始めるという選択は間違っていなかったのかもしれない。
「何してんの?」
 ベンチに座り呆けていただらしない顔を、急に覗き込まれて純矢はたじろいだ。
「うお!」
 至近距離でも爽やかさを感じさせるその顔の持ち主は須田樹その人だった。相変わらず厳しい顔つきだが、そのすんとした冷たい表情でさえ彼の顔立ちのよさは隠せない。
「須田?」
「おう」
 なぜここに。いや見つけたとしても何で話しかけてくる。落ち着いて状況を整理していると、彼が誰かと手をつないでいることに気づいた。須田が少し腰を曲げないといけないくらいの身長で、きちんと手入れされているさらさらストレートの黒髪をひとつまとめにしていた。また、その前髪が長くしっかりカーブしたまつ毛にかかっている。幼いながらも凛とした印象だった。須田は妹と公園に遊びに来ているらしかった。気づけば数秒くらい彼女と見つめあっていた。純矢はひとりっ子なので、子どもとどうコミュニケーションをとればいいのかわからない。
「えと、こんにちは?」
 少女はしばらく固まったあと
「だれ?」
と横にいる須田に不安げに聞いた。そりゃそうだ。見ず知らずの人間に急に話しかけられたのだから。
「俺のクラスメイト」
 須田はやさしい眼差しで妹に告げる。普段自分に向ける視線とあまりに違いすぎて、純矢は胸やけした。学校でも家でも優等生ってか。どうして自分だけに厳しい顔を向けるのか。今はこいつのいいところを見たくない。純矢は兄妹の応酬を傍目に、須田がどうして声をかけてきたのか、その真意を図りかねていた。訝しげな視線を投げる純矢に気づいたのか、須田が妹との会話をやめてこちらを向いた。
「ここで何やってんだ」
 純矢は目を合わせないようにして淡々と答える。
「おつかい。荷物重くて休んでた」
「ふーん」
 やはり須田はぴくりとも笑わず、純矢の左隣に置いてあるビニール袋に視線をうつす。
「家どこ方面?」
「は?」
 須田は純矢の返事を待たないで、空いている右手でビニール袋をつかんだ。
 え? 代わりに俺の家まで荷物を運ぶつもりなのか?
 純矢は思考がままならず、しばらく口をぽかんと開けていたが、須田が今まで自分にだけそっけない態度をとったことの罪滅ぼしみたいなものとして、親切な対応をしようとしているのではないかと思いはじめた。
 気づけばビニール袋をひったくり叫んでいた。
「いらねーよ」
 その瞬間、憎い彼の隣にたたずむ少女の肩がびくっと震えたのが見え、少し罪悪感を覚えたが、純矢は見ないふりをして早足で公園をあとにした。重い荷物なんて屁でもない。

 家に帰ると夕飯の準備はもう済んでいるらしく、両親はふたりそろってリビングで夕方のワイドショーを見ながらくつろいでいた。時刻はもう六時半だった。父がカーペットに横になりながら首だけ振り向いて聞いてきた。
「遅かったね。他にもどこか寄ったの」
「いや、別に」
 純矢は気分が落ち込んだり不機嫌だったりするとき無口になる。父はそれ以上何も聞かなかった。母は純矢から受け取ったビニール袋の中を見るなり
「このブランドじゃないわよう」
と嘆いた。純矢はダイニングチェアに制服のジャケットを掛け、そのまま腰をおろした。
「そうだっけ」
「そうよ、柔軟剤はここのだけど」
「まあそんな変わらないだろう」
 父が母を落ち着けるように言いながら夕食の席に着く。
「全然ちがうわよ〜」
母はまだ不満そうだったが、冷蔵庫から麦茶を取り出し三人分のコップに注ぎはじめた。純矢はしばらく何も考えずにして気を落ち着かせると、さっきの須田とのやりとりを思い出した。実行委員の最初のミーティングは明日の放課後だ。なんと殺生な。少々気が立ったにしても、素直に親切を受けておけばよかった。明日、どんな顔をしてあいつと話せばいいのだろう。
「何かあったのかい」
 一度はスルーしたものの純矢があまりにも上の空だったからか、父が静かに尋ねてきた。
「別に」
 純矢は冷たい感じにならないように言った。父は肩をすくめ、少し寂しそうな顔をした。
「そう。純矢は学校のこと、あんまり話してくれないから」
 母がコップの乗ったおぼんをダイニングテーブルにおき、着席しながら配膳する。
「ほんとよねえ」
 若干わがままを言われているようなニュアンスで、ふたりに責められているとは思っていないが、純矢は話したくないわけじゃないということを伝えたかった。
「ほんとに別に、わざわざ取り立てて話すようなことがないだけだよ」
「ふ〜ん」
と両親はにやにやしながら顔を見合わせた。純矢は恥ずかしくなる。
「ほんと、スカしてるわねえ。誰に似たのかしら」
「スカしてるってやめろよ」
 純矢は口のなかのものが飛ばないように配慮して反抗した。
「ははは」
 父は優しい顔をして笑った。

 この高校に入学し二年目になるが、初めて視聴覚室の扉を開けた。大してクラスの教室と変わらなかったが、机と椅子の数が極端に少なかった。教卓には学年主任の教師が立っている。席は自由だったが、だいたいがクラスごとに隣に座っているらしい。須田はすでに窓側の席に座っていて、純矢は仕方なくその右隣に着席した。何も言葉は交わさなかった。
 最初の委員会は大して実践的なこともなく、自己紹介と林間学校までのスケジュールの説明、次回の委員会までの課題が教師の口から述べられる。一日目のお昼に予定されている、レクリエーションの案を考えてくるというのが課題だった。やはり須田との協力は免れない。ちらりと左隣を見ると、頬杖をついている彼の端正な横顔があった。純矢の視線にも気づかず真剣に話を聞いている。そのさらりとした肌が夕陽に照らされるのを見ていると、憎らしいという彼への感情もしょうもないものに感じられる。
 やっぱり責任をもって委員をやり切るには、彼との関係を確かめておかなくてはならない。このミーティングが終わったら、厳しい視線のわけについて聞いてみる。すっとぼけられたら容赦なく殴ってやる。彼の顔につけられた傷を見たらいくらかすっきりするだろう。純矢は決意した。

「委員ほとんど強制みたいだったけど。よかったの」
 委員会が終わりほかの生徒が続々と教室をあとにする中、須田から話しかけてきた。そっちから関わりをもとうとしてくるところが、余計意味わかんないんだよな。不信感を悟られないように純矢は答える。
「ん、まあ。別に部活とかやってるわけじゃないし、そういうノリだったから」
「ふ〜ん」
 気の抜けた相槌に反するように、彼は鋭い目つきになった。なんか返答間違えたか? 自分から聞いてきたくせに興味なさそうだし。
 気づけば視聴覚室には純矢と須田しかいなかったので、ずっと聞くに聞けなかったことを話題にあげるのは今だと思った。
「あのさ」
 覚悟はしたものの、怖くて彼のほうを見ることはできない。
「ずっと思ってたんだけど。なんか最近めっちゃ見てくるくない?」
 キモい聞き方かも、と純矢は顔が赤くなった。表情からの反応を確かめるのも憚られる。なんとか言えよと言いかけたそのとき、
「気づいてた?」
と須田。そこで純矢はようやく左に視線を動かす。射るような鋭い瞳と目があった。彼は怠そうに肘の角度をかなり小さくして机に身体を預けている。純矢は彼の余裕からこの会話の流れをもっていかれそうな気がして、腕を組みわざと気にしていないふうに流石にね、と答えた。
 あの視線が須田の意図するものだということがわかり、なにか気に障ることをしてしまったのかと本気で不安になってくる。しかしその核心に近づくのが怖くて、純矢は言葉を失ってしまった。
 すると須田は頬杖をついただらしない態度のまま、確かにこう言い放った。
「かわいいって言われない?」
 ん?
 かわいいって可愛いだよな。赤ちゃんとか人なつこい犬とか、女の子とかを表現して言うあれだよな。子どもの頃はお世辞で親戚とかに言われたかもしれない言葉。けど男という性に生まれれば成長するにつれて掛けられなくなってくる言葉。俺って直接言われないだけで本当は可愛いのか? 可愛い、かわいい、かわいい、、、。
 純矢の思考はフリーズした。
 須田はずっとだらしない姿勢のまま続ける。
「ほら、今も」
「なにが!?」
 想像以上に大きい声が出たが、純矢のまごまごしているようすを一切気にせず、須田はただ落ち着いた自分のペースだ。
「もう正直に言うとさ」
 彼は視線を外さないままゆっくりと顔を近づけてきた。
「なんか可愛いと思っちゃうんだよな、そんですげえ見ちゃう」
「………。はあ?」
 いやいやいや意味わかんねえ。今なんの話してたんだっけ。完全にペースをもっていかれた。そうだ。こいつがなんでにらんでくんのかって話! それがなんでこうなったんだ。俺を置いてけぼりにするなよ!
 気づかず全部声に出ていて、純矢は早口でまくし立てていた。俺ふだんはこんなに取り乱すことないのに!
 須田は相変わらず腹立たしいほど落ち着き払っていたが、さっきと違うのは純矢へ向ける表情が今までに見たことがないくらい優しいものになっていたこと。そして極めつけのこの一言。
「俺、お前のこと好きなのか?」
 純矢の脳は沸騰した。
「知らねえよ!」
 ほとんど咆哮だったそれは、ゆったりと時間の流れる放課後を切り裂くように校舎に響きわたった。