「お腹空いたなあ。灯里、どっか寄ってかない?」


 放課後。騒がしい下駄箱で靴を履き替えながら、美久が言った。

 「さっき家庭科の調理実習でマフィン食べたばっかじゃん」

 「そうなの?」

 と、美久はキョトンとする。

 さすが底なしの胃袋。いったいその細い体のどこにそんなに入るんだろう。

 校門をでたとき、

 「こんにちは。君が森下さんかな?」

 と声をかけられた。

 見ると、愛想笑いを貼りつけたような色黒の胡散臭い男が立っていた。

 「合唱コンクールの動画、見させてもらったよ。いやあ、素晴らしかった。それで、少しお話を聞かせてもらいたいんだけど……」

 ーーまたか。

 私は思わず、ため息つきたくなった。

 合唱コンクールのあと、

 『記憶喪失の美少女』

 と、ピアノを演奏する美久の動画が拡散されて、美久は一気に有名人になった。

 一度ネットで広まったら、その動画が完全に消えることはない。

 美久の記憶は二時間しかもたない。

 その二時間の間に何が起こっても、六月二日以降のことは覚えられない。

 そして二時間経ったら、またリセットされる。

 そんな特殊な病気の美少女に、世間が食いつかないはずがなかった。

 合唱コンクールが終わってからというもの、放課後は必ずどこかで呼び止められる。

 記憶喪失で、しかも美少女なんて。

 話題性はたっぷりすぎるほどある。

 ついでに私のこともなぜか広まっている。

 「美少女のお付の人」として。

 お付の人で悪かったな。どうせ存在感薄いですよ。

 と文句を言いたいところだけど、自分でもそう思うのだから厄介だった。

 記者ならいいけれど、中にはストーカーや変質者だっているかも知れない。

 そして問題なのはーー

 「いいですよ」

 美久がどんなに怪しげな人でも、分け隔てなく応じてしまうことだった。

 よっぽど変な人じゃない限り、止めはしないけど……。

 「おっ、助かるなあ。じゃあいくつか手短かに質問させて
 もらうね。まず事故のことについて教えてもらえるかな」
 と、記者はにこやかに言う。

 「はい。えっと、私が知ってるのは……」

 美久は緊張した様子で、事故のことーー日記に書いてあることを話し始めた。

 入院して、三週間で退院したこと。

 体調は何も問題がなかったこと。

 リハビリも続けているけれど、記憶は元に戻らないこと。

 こういうとき、私はそばに立って、空気のように存在感を消すことにしている。

 「森下さんは、知らない曲の楽譜をその場で見て、すぐに覚えて演奏したそうだね」

 記者は言った。

 「いえ、前から知ってました。うちの学校の合唱コンクールの課題曲は毎年同じで、去年の課題曲を覚えていたんです」

 と美久は説明する。

 「あ、そうなのか。聞いていたことと違うなあ。失礼、失礼」

 記者は謝って、メモに何かを書き加えた。

 そのとき少しだけ、にやりと小さく笑ったように見えた。

 「じゃあ、前から知っていたから、弾けたということだね」

 「そうです」

 美久はうなずく。

 「僕はピアノにはあまり詳しくないんだが、新しいことを覚えられないのに一曲弾ききるなんて、なかなかできることじゃないと思うよ」

 「ありがとうございます。練習したので」

 「へえ。覚えられなくても、練習することに意味はあるのか。勉強になるよ」

 記者はメモをとりながら、感心するようにうなずいた。

 十分ほどの短い取材を終えて、記者は私と美久に名刺を渡して去っていった。

 聞いたことのないマイナーそうな出版社の名前と、名前と連絡先が書いてあった。

 「また明日ねー」

 「うん、ばいばい」

 美久の家の前で別れて、一人道を歩く。

 これまでに何度か聞いている、取材の内容とほとんど同じだった。

 だけど何か、違和感を覚えた。

 何が……?

 記者と美久のやり取りを反芻して、あ、と気づいた。

 そうだ。あの人は、言ったんだ。

 『森下さんは、知らない曲の楽譜をその場で見て、すぐに覚えて演奏したそうだね』

 と。

 しかも、聞いていたことと違うとも言っていた。

 いったい、誰が言ったのだろう。

 話をおもしろくしようとしたデマ?

 でも、ネットで検索しても、そんな情報はどこにも見つからなかった。

 取るに足らない、大したことない、小さな疑問。

 だけどその疑問が引っかかって、取れなかった。

 何度目かの呼び出し音で、はい、と声が聞こえた。

 「ああ、さっきのつき……いや、海野さんだね」

 名前は覚えてくれたらしい。また付き人って言いかけたけど。

 「あの、さっきの話で、ちょっと気になったことがあって」

 「うん? 何かな?」

 電話越しでもわかる愛想笑いで、記者は言った。

 「うちの学校の合唱コンクールは、毎年課題曲が同じで、その中からくじ引きで曲を選ぶんです。だから美久が知らなかったっていうのに、少し引っかかって」

 やけに断定的な言い方だった。

 質問というより、確認するみたいな、もしくは、何かを試すみたいな。

 「じつはね、さっきは言わなかったけど、そんなはずはないんだ」

 「どういうことですか?」

 「あの『惑星の彼方へ』という曲は、校長先生の息子さんが作詞作曲したものなんだよ。それを校長先生がこっそり課題曲と入れ替えたらしい」

 「どうしてそんなことを……?」

 「校長先生の息子さんは作曲家志望らしくてな。そこそこ歳はいってるんだがどうにも諦められず、校長先生が親バカと校長権限を発揮して、これまでの課題曲とこっそり入れ替えたってわけだ」

 え……どういうこと?

 頭が混乱してきた。

 あの曲は、去年の課題曲の中にはなかった?

 課題曲は毎年同じ曲と決まっている。

 だからうちのクラスが歌った『惑星の彼方へ』が去年の課題曲にあったかどうかなんて、気にもしていなかった。違和感を覚えた生徒はいたかもしれないけれど、少なくともそれを表立って口にする人はいなかった。
 
 つまり、『惑星の彼方へ』という曲のことは、誰も知らなかったはずなのだ。

 九月に課題曲が発表されるまでは。

 それならどうして、美久は『あった』と言ったのだろう。

 どうして知っているふりなんてしたのだろう。

 そしてどうして、暗譜をできないはずの美久が、その曲を覚えられたのだろう。

 だからーーと、記者はもったいぶるような口調で、続けた。

 「森下さんがその曲を前から知っていたなんてことは、あるはずがないんだよ。これがどういうことかわかるかな」

 電話の向こうで、記者がおもしろそうに笑う顔が想像できた。

 きっと適当なことを言ったんだ、と思った。

 そう思いたかった。

 あんな胡散臭い記者の言葉、信じたくなかった。

 でも、もしあの記者のほうを信じるならーー

 美久は私たちに、嘘をついていることになる。


 その日、私は初めて仮病を使って学校を休んだ。

 ずる休みをして向かった先は、病院だ。

 ホームページで調べて、火曜日ならあの人がいるのは知っていた。

 いつ来ても、大きな病院だった。

 売店やカフェ、ジムや美容院まである。芝生の生えた庭園の花壇には紫やピンク色のコスモスが咲いていて、車椅子の人や杖をついた人が微笑ましそうに眺めている。

 のどかな光景。この場所に、制服姿でいるのがなんだかひどく場違いに思えて、私は足早に病院の建物に入っていった。

 「ご予約はされていますか?」

 受付で事務員さんにそう言われて、しまったといまさら気づく。

 いきなり来ても、診察とかで忙しいよね……。

 してません、と答えると、少々お待ちください、と事務員さんは言って、電話をかけ始めた。

 「もう少ししたら時間がとれるそうなので、診察室の前で待っててもらえますか?」

 「わかりました。ありがとうございます」

 お礼を言って、診察室に向かった。

 こんなこと、したくなかった。

 こんなーー探りを入れるようなこと。

 だけど、知らなければ、ずっとわだかまりは残ったままだから。

 聞かなきゃ、と思った。

 たとえそれが、知りたくないような内容だとしても。

 十五分ほど待って、扉が開いた。

 「海野さん、中へお入りください」

 名前を呼ばれて、失礼します、と言って中に入った。

 白衣を着た男性が、パソコンに向けていた顔をこちらに向けた。

 「そろそろ来る頃だろうと思っていたよ」

 その人ーー檜山先生は、挨拶もなく、いきなりそう言った。

 「檜山先生、前に言いましたよね。これ以上、うちでできることはないって」

 「ああ。言った」

 「あれは……どういう意味ですか」

 声が震えた。

 聞きたくなかった。

 「そのままの意味だ」


 檜山先生は表情を変えずに、言った。




 「彼女の記憶は、とっくに正常に戻っているはずだ」