新学期の朝は、美久を迎えに行った。
「おはよう美久」
「おはよーっ」
美久のすっかり元気にな様子に、私はほっとした。
「灯里、夏休み何してた?」
なんでもない質問に、ドキリとする。
「えっと……お祭りとか、親戚の家とかかな」
「お祭りわたしも行ったよ! 灯里にあったって書いてあった」
ーー書いてあった、か。
そうだよね。美久の記憶は六月の昼間のまま。
その後倒れて大変だったことも、やっぱり覚えてないようだ。
今日で事故から三ヶ月が経った。
美久は夏休みの間、ほとんど毎日リハビリ施設でトレーニングに通っていると聞いていたけれど……。
その効果は、残念ながらあまりなさそうだった。
教室に入って席につくなり、前の席の里紗がニヤニヤしながら乗り出してくる。
「ねね、鈴村とは新展あった?」
…やっぱり。くるだろうなとは思ってた。
「ないよ。なんにも」
私は苦笑しながら答える。
「えーっ。あんなラブラブお祭りデートしてたのに?」
「ラブラブでもデートでもないからっ」
それどころか、過去最高に気まずい空気になってしまった。
はっきりケンカしたわけじゃないし、顔を合わせればいつも通りに挨拶はする。
あからさまに避けている感じではないのだけれど。
大地のほうから話しかけてくることも、私から話しかけることもなく、前みたいに何気なく話すことができなくなってしまった。
そしてその空気を作ったのは、ほかでもない私なのだった。
『大地も、美久のことめんどくさいって思ってるんじゃないの?』
なんであんなこと言っちゃったんだろう。
思い出すたびに自分の顔をひっぱたきたくなる。
さらにその返事は、いちばん聞きたくない言葉だった。
『そんなこと言うってことはさ、灯里がいちばん、そう思ってるんじゃないの?』
そんなことない。
めんどくさいなんて、一度も思ったことない。
でも、そう言われたとき、ドキリとした。
ーー本当に?
本当に一度も、そう思ったことない?
「えー、九月は待ちに待った合唱コンクールがあるわけだが」
朝のホームルームで、担任の橋本先生が教壇に立って、少しも楽しくなさそうな顔で言う。
合唱コンクールの課題曲は毎年決まった曲の中からくじ引きで決まる。
どうしてかはわからないけれど、昔から続いている伝統らしい。
「うちのクラスの課題曲はくじ引きで『惑星の彼方へ』に決まった。投票とかめんどいから、指揮者は海野でいいか? 去年やっただろう」
「ええ……」
めんどくさいという理由だけでサラッと丸投げしたな、この先生……。
「じゃ決定なー」
まだ何も言ってないんですけど。
まあ、歌は苦手だから、むしろ助かるんだけど。それにしてもこのあまりにも一方的な感じは教師としてどうなのかと思う。
「しかし、問題があってだな。伴奏者が、いないんだ」
橋本先生が苦々しい顔で言う。
こういう行事のときのために、だいたいクラスに一人はピアノ経験者がいるものと聞いていたけれど。
「いや、いるにはいるんだがな、今年はその〜……」
言いながら、チラッと美久のほうを見る。
……ああ、なるほど。
橋本先生のひどく言いづらそうな様子に、納得した。
そのクラスで一人のピアノ経験者が、美久だったのだ。
渋るのも無理はない。
いくら練習しても、二時間後には忘れてしまう伴奏者がどこにいるだろう。注文もつけられないし、やりにくいことこの上ない。
伴奏は少しでも間違えれば全体のリズムが狂ってしまう、指揮者と同じくらい重要な役だ。
「森下に頼むのはちょっとアレだし、ここは音楽の先生にお願いしようと思うんだが……」
そのとき、美久が手を挙げた。
「あの、わたし、やります」
美久の言葉に、全員が唖然とした。
「やりますって……できるのか?」
すごく心配そうな、というか、疑っている目だった。
はい、と美久がうなずく。
「その曲、去年先輩たちが歌ってて……いい曲だから、家で練習してたんです。だから、覚えてます」
「おお、そうか! それならよかった。あーまじでどうしようかと思ったわー」
橋本先生は安心しきって、大きすぎるため息を吐いた。
美久は曲を覚えるのは得意だけど、暗譜はできないと言っていた。
つまり、ほとんど一年前の記憶だけを頼りに弾かなければいけないことになる。
いくら覚えるのが得意だからといって、そんなことができるのだろうか。
「美久、ほんとに大丈夫?」
ホームルームが終わってから、私は心配になって尋ねた。
「リハビリとかもあるし、無理しないほうがいいんじゃ……」
ほかのクラスの伴走者は、放課後、日替わりで音楽室に残って練習することになっている。
でも、美久は練習しても覚えられないのだ。どうしたってほかのクラスとの差はできてしまう。
「わたしね、新しい曲は覚えられないけど、ピアニストになる夢諦めてないんだ。だから、難しいかもしれないけど、やってみたいの。応援してくれる?」
「うん……もちろんだよ」
「それに、前に練習したことはちゃんと指が覚えてるからね」
「へえ、そういうものなんたま」
私は感心して言ったけれど、いまの美久は、どこか無理をしているように見えた。
事故の前と同じように、何も問題なんてないように振る舞おうとしているように。
いつか無理が重なって、壊れてしまうんじゃないか。
合唱コンクールのことよりも、私はそれが心配だった。
✣
美久がピアノから鍵盤を離した瞬間、時間が止まったように音楽室が静かになった。
そして、みんながはっと現実に戻ったように拍手が起こった。
「美久、すごいっ!」
「カンペキじゃん!」
本当にーー一年ぶりに弾いたなんて思えないくらい、完璧だった。
『惑星の彼方へ』は、壮大な宇宙を連想させるバラード調の曲だった。
ゆったりとしたテンポなのがよかったのかもしれない。美久は一度もつっかえることなく、最後まで見事に弾いてみせたのだった。
「森下さん、それじゃあ、お願いね。でも、くれぐれも無理はしないようにね?」
「はい」
心配する必要なんて、なかったのかもしれない。
美久なら、本当にピアニストになるっていう夢を叶えてしまいそうな気がした。
それなら、私は必要ないんじゃないかな。
美久一人だって……
はっとした。
私、何を考えてるんだろう。
「海野さん? どうしたの?」
「すみません、ちょっと気分が悪くて……保健室に行ってきます」
先生が何か言う前に、音楽室を飛び出した。
一人でいたかった。
……とくに美久には、見られたくなかった。
いま、私、すごく嫌なこと考えてるから。
こんな気持ち、知られたくなかった。
なのに。
「なんでいるの……」
保健室の扉を開けて、がっくりと肩を落とした。
大地が振り返って言う。
「お、灯里。体育のサッカーで転んじゃってさ。先生いないし」
見ると、膝が赤く滲んでいる。しかも両方。
「うそでしょ。体育でそんなケガする……?」
「ハデにスライングしたんだよ。消毒どこにあるか知らない?」
「しょうがないなあ。そこ座って」
大地を椅子に座らせて、棚から消毒液とガーゼを取り出す。
「いや、なんでそんな詳しいんだよ?」
「一年のとき保健委員で、手当てしたことあるから」
一人になりたかった。
保健室のカーテンの向こうで、寝ていたかった。
こんなに醜いことを考えている自分を、誰にも見られたくなかった。
だけど、どうしてだろう。大地になら、言える気がした。
嫌な部分を見せたくない。
そう思う反面、全部話してしまいたい、そう思った。
「大地の言う通りだった」
私は、ぽつりとそうつぶやいた。
「私、美久のこと、めんどくさいって思ってた」
最低だった。
美久は私の代わりに事故にあったのに。
私を守ってくれたのに。
親友なのに。
こんなこと思いたくなかったのに。
無理にでも明るく振る舞おうとする美久を見て、すごいなと思うのと同時に、疲れるって、思ってしまった。
夏休みの間、美久と離れて過ごして、心が軽くなった気がした。
解放された、と思った。
「いいんじゃねえの? べつに」
大地が言った。なんでもないことみたいに。
「え……?」
「友達だって、めんどくさいと思うことくらいあるだろ。いつも一緒にいるなら余計に。実際、大変だろ。同じクラスで、つねに一緒に行動しててさ。ほかのやつらは心配するだけでなんにもしないし。ずっと一緒にいたら、そりゃ、誰でもしんどくなるって」
「いいの……?」
そう言うのと同事に、涙がこぼれ落ちた。
めんどくさいって、思っても、いいの?
「いいだろ。親友だからって、なんでも許せるわけじゃないよ。ケンカだってするし、俺だって友達といるのめんどくさくて、一人になりたいときとかあるし」
「大地でもそんなことあるの?」
「いや、あるだろ。一年に一回くらいは」
「一年に一回って。ほとんどないじゃん」
笑った拍子に、涙が頬を伝って、大地の膝に落ちた。
「おい、傷口に塩を塗るなよ。染みるだろ」
「女子の涙を塩って言うな」
バシッと絆創膏を貼りつけてやった。
「いってえ! 何するんだけが人に」
「もう治ったから大丈夫でしょ」
壊れそうだったのは、私のほうかもしれない。
無理をして、何も問題なんてないように、いつも通りに振る舞おうとして。
ヒビが入って割れそうなガラスのコップみたいに。
壊れそうだったんだ。
心の中の言葉を吐き出して、ようやくそのことに気づいた。
「この前は、ごめん」
私はもう一つの絆創膏を貼りながら、言った。
ーーやっと言えた。
「イライラしてて、ひどいこと言った」
「うん。俺も、先走りすぎた」
心が軽くなったら、いつもより少しだけ素直になれた。
✣
「たのもーっ!」
音楽室でお弁当を食べていると、勢いよく扉が開いた。
「うわっ。なんか変な人来た」
私は見るなり顔をしかめた。
「変な人って言うな」
大地がずかずかと入ってきた。
「大地くん、どうしたの?」
「あっ、森下さん、こんにちは」
美久の前ではガチガチなのは、相変わらずだ。
いい加減慣れないものなんだろうか。
「俺も指揮者やることになったから」
「へえ、そうなんだ」
私は卵焼きを食べながら適当にうなずいた。
「というわけで、勝負だ」
「え、なんの……?」
「勝ったほうがふくふく屋のフルーツ大福」
「やる」
「森下さんも一緒にどう?」
大地は美久のほうを向いて言う。
美久が食べ物がかかっている勝負に乗らないはずがなかった。
「やる!」
もうすでに勝つ気満々で目をキラキラさせている美久に、私は笑った。
✣
連休開けの金曜日。
「はあー、ドキドキするねー」
「だね」
体育館にぞろぞろと生徒が入っていく。
私たちのクラスは、いちばん最初になった。
「美久、ほんとに大丈夫?」
もう何度も聞いたことだけれど、やっぱり心配になって言ってしまう。
毎日合わせて練習しているし、心配いらないのはわかってるんだけど。
「大丈夫だよ。指がちゃんと覚えてるからねっ」
美久はピースをして言った。
「うん、頑張ろうね。フルーツ大福がかかってるし」
そう言うと、うん、と美久はキョトンと首をかしげた。
「それでは一番。二年一組の『惑星の彼方へ』です」
クラスのみんなが舞台に出てきて、台の上に並んだ。
美久がピアノの前に座って、楽譜を譜面台に乗せる。
練習のときも、一度も間違えることはなかったけれど、やっぱり心配ではあったらしい。
始まる直前まで、書き込みだらけの楽譜を真剣に見直していた。
最後に私が指揮台に上がって、一礼をする。
いつもより高い台の上からは、クラス全員の顔がしっかりと見渡せた。
みんな緊張を浮かべながら、始まるのを待っている。私も自分の心臓の音が聞こえそうなほど、緊張している。
私はすうっと息を吸って、手を挙げた。
美久が鍵盤に指を乗せた。イントロが始まって、歌に入る。
それぞれのパートが溶け合うように重なって、一つの音楽になるのがわかる。
合唱って、不思議だ。
一人一人違う声、ピアノの音、指揮の動き。
それらが一つになって、会場全体に広がっていく。
音の渦に飲み込まれるように。
やがて合唱が終わり、体育館がしんと静かになった。
次の瞬間、盛大な拍手が起こった。
すべてのクラスの合唱が終わって、結果が発表される。
「優勝は、二年一組です!」
「やったー!」
「すごーい!」
最初はだるいと言っていたクラスメイトたちも、みんな肩を抱き合って喜んでいた。
昼休みのチャイムが鳴った。
「灯里、お昼いこっ」
「うん」
お弁当の入ったかばんを持って、教室を出たとき。
「森下さん」
大地がいた。
「大地くん。どうしたの?」
「ちょっと話があるんだけど、いいかな」
大地が真剣な顔で言った。
ドクン。
心臓が大きく鳴った。
私、いま、どんな顔してるだろう。
きっと、嫌な顔してる。
「……先行ってるね」
それだけ言って、走り出した。
✣
音楽室の窓から、ぼんやりと校庭を眺める。
どうして昼休みに呼び出すんだろう。
ごはんの時間を邪魔されるのが、美久は嫌いなのに。
でもそんなこと、みんな知らないから。
そんなこと、美久は口にしないから。
「お待たせー。お腹すいたーっ!」
扉を開けた美久は、拍子抜けするくらい、いつもとまったく同じだった。
「……なんて、返事したの?」
いつもと同じように、そう聞こうとしたのに、声がつっかえてしまった。
美久はお弁当を食べるのをやめて、
「ごめんなさいって」
と言った。
「わたしこんなだし、きっと迷惑かけちゃうから」
と、少し寂しそうに。
「そっか……」
私はうなずいて言った。
✣
「今日は俺のおごりだから。好きなだけ食べるといい」
学校の近くの和菓子屋『ふくふく屋』のショーケースの前で、大地が言った。
「いや、くり大福そんないっぱい食べれないから」
「わーい。ごちそうになります」
美久が嬉しそうにはしゃぐ。
大地は晴れ晴れとした顔で、自分も大福を頬張る。
「うまっ!」
「うん、おいしいっ!」
わかってたんだ。
告白の返事も。
美久が全部忘れてしまうことも。
お昼の出来事を、夕方の美久が覚えていないことも。
わかったうえで、こうしてるんだ。
「いつも悪いわね、二人とも」
美久を家まで送っていくと、美久のお母さんが出てきて言った。
「ありがとう。また来週ね」
「うん、また来週」
美久と別れて、大地と並んで帰り道を歩く。
「なーんか、一日長かったなー」
「うん」
「俺、振られた」
「うん」
「迷惑かけちゃうから、ごめんなさいって」
「うん」
「迷惑ごと受け止める覚悟、してたんだけどなあ」
「うん」
知ってるよ。
大地が本気で美久のこと好きだってこと。
問題があったって、めんどうだって、それでもいいってくらい、その気持ちが大きいんだって。
いつも見てるから、知ってるよ。
「書いてくれるかな」
ぽつりと大地が言った。
「何を?」
「日記に、今日のこと。書いてあったら、日記見返すたびに俺のこと思い出すだろ? それってなんか嬉しいじゃん」
「どんだけポジティブなの」
夕陽に染まる道に映る私たちの影を見て、あっと気づいた。
かばんからスマホを取り出して、パシャ、と写真を撮る。
「え、なんで地面撮った? なんか落ちてる?」
大地が不思議そうに言う。
「ううん、ちょっとね」
私は言いながら、スマホをかばんにしまった。
「なんだよ」
「秘密ー」
えー、と不満そうな大地に、私はあははと笑う。
二人の影がゆらゆらと揺れて、ちょっとだけ、手を繋いでいるみたいに見えたんだ。
ーー恥ずかしいから絶対、言わないけど。

