翌日。


 「こんにちは」


 病室のドアを開けると、ベッドの横に座っていた美久のお母さんがはっとしたように振り返った。


 「こんにちは。灯里ちゃん。昨日は迷惑かけちゃってごめんなさいね」


 慌てて立ち上がって、申し訳なさそうに言う。

 「いえ、全然。美久はまだ……?」

 美久のお母さんは静かに首を振った。

 「疲れちゃったのかもしれないわね。夏休みでよかったわ。学校があったら、またすぐに行くっていいかねないもの」

 「そうですね」

 昨日の美久の言葉が、頭から離れなかった。

 『わたし、どうしてここにいるんだろう』

 あのときの不安げな表情。

 『夢でも見てたのかな。ダメだなあ、しっかりしなきゃ』

 そう言って、いつもみたいに笑ってたけど、その笑顔はいまにも崩れそうだった。


 いつか、美久が元に戻るのを信じてる。

 美久のお母さんは、前にそう言っていた。


 信じていなければ、崩れてしまうから。
 まわりがしっかりしなければ、いけないから。

 だけど、必死に頼っているその希望さえ、いまにも紐が切れた風船みたいに飛んでいってしまいそうだった。

 「ちょっと電話をしてくるわね」

 美久のお母さんが言って、はい、と私は弾かれたように顔をあげた。いつも気を張っているからだろう。

 ほっそりとした背中が、余計に小さく見えた。

 カラカラとドアが閉まり、静かな病室がさらにしんとなった。
 私は椅子に座って、美久の寝顔をじっと眺めた。

 布団の上に伸ばされた手に触れると驚くほど冷たくて、このままずっと目を覚さなかったら……そう思って、ぞっとした。

 「ーー美久」

 私は美久の白く細い手を両手で握りしめた。

 「ごめんね」

 思わずそうつぶやくと、堪えきれずに涙がこぼれた。
 力を込めて、ごめんね、と繰り返す。

 全部、私のせい。

 私が嘘なんてついたから。

 罰が当たったんだ。


 「ほんとはーーあの日、大地に頼まれて美久を呼び出すことになってたんだ。私、約束破って、嘘ついて美久を誘った。行かせたくなかった。美久の気持ちはわからないけど、もしかしたら、うまくいくかも。そんなの嫌だ、って思った」

 好きだから。

 取られたくないと思ってしまったから。

 気持ちを伝える勇気もないくせに。

 伝えるって決めた大地のほうが、ずっとずっとすごいのに。

 最低だ。

 そんな私の代わりに、美久は、いまも苦しんでいる。

 「いまからでも戻れるならやりなおしたい。元に戻りたい。そうしたら、今度は絶対嘘なんてつかないから」


 ーーうそつき。

 あのとき、美久はそう言ったのかもしれない。

 本当はどうだったかわからない。

 でも、いまははっきりとした口の形が私に告げてくる。

 何度も美久が夢に出てきて、横たわる空虚な目で私を見ながらそう言う。

 うそつき。うそつき。うそつきーー


 事故の日からずっと、怖かった。

 口にするのが、自分のしたことを認めるのが。

 私のせい。

 わかっているつもりでも、反発するようにその事実を受け入れられない自分がいた。

 わかってる。いまさら何を言ったって言い訳にしかならない。

 こんなことには何の意味がない。

 それでも、止まらなかった。


 ーーそのとき。


 握り締めた手がかすかに動いた気がした。

 「美久……っ?」

 はっと目を見開いて、美久の寝顔と手を交互に見つめる。

 指先に体温がこもるのを感じるのと同時に、閉じたまぶたがゆっくりと開いて、


 「灯里……?」


 美久はぼんやりとした顔で言いながら体を起こして、あたりを見回した。

 「あれ、ここ、病院? 学校にいたのになんで?」

 私は思わず手を伸ばして抱きついた。

 「よかったあ……っ」

 「ええ、なに? 灯里、どうしたの?」

 美久のお母さんが戻ってきて、美久! と駆け寄って抱きしめた。

 看護師さんと檜山先生も駆けつけて、静かだった病室の空気が一気に賑やかになった。

 檜山先生だけは、いつも通りむすっとした表情だったけれど。

 この先生は、これがふつうの顔なんだな……ってだんだんわかってきた。

 目を覚ました美久は拍子抜けするくらいけろりとしていて、いつもと何も変わらなかった。

 前と同じだ。

 目を覚ました美久は、どこにも悪いところなんてないように元気そうに笑っている。

 でも、美久の時間は6月で止まったまま。

 ーーそして私も。

 時間は止まってくれない。

 どんどん、現実の時間と離れていってしまう。

 それが怖かった。



 「おはよー美久」

 「灯里! おはよう」

 机に向かっていた美久が、ぱっと振り返った。

 「体調はどう?」

 私は手土産のりんごとクッキーをベッドの脇の机に置いて尋ねた。

 「全然大丈夫。もうやることなさすぎて、宿題やってたよー」

 美久はそう言いながら、うーんと伸びをする。

 美久の宿題は、一学期の前半の内容だけをまとめたプリントだった。

 「じゃ、これ見たら元気になるんじゃない?」

 私は病院の売店で買った漫画を袋ごと鞄から取り出して見せた。

 来る途中に、ふと思いついて買ってみたのだ。

 「えっ! うそ、ギャグ曜日だ! 最高! これがあれば夏休みが五倍くらい楽しくなるよー」

 「大げさだなあ」

 「あれっ、もう最新刊出たの?この前出たばっかりなのに」

 「えっ」

 思わずドキリとした。

 そうだーー美久の中では、六月に出たのが最新刊なんだ。

 けれど美久はすぐに納得したように切り替えて、

 「あ……そっか、いま八月なんだっけ」

 と笑って言った。

 その笑顔に胸がぎゅっと締めつけられる。

 美久はきっと、まわりに心配かけないようにしているんだ。

 なんでもないように笑って、慎重に言葉を選んで。

 無意識にでもそれが少しずつ積み重なって、きっと、限界がきてしまったんだ。

 わかっているのに、何もできない自分がもどかしかった。

 そのとき、さっそく漫画を読みはじめた美久がぷっと吹き出した。

 「あははっ、やっぱりおもしろいなー」

 漫画を読みながらケラケラ笑う美久を見て、私は拍子抜けする。

 「ギャグ漫画ってどこから読んでもおもしろいから大好き。灯里も読んでみて。絶対ハマるよ」

 「そうかなあ」

 「そうだよー。これ読んでると真面目なこと考えるのが馬鹿らしくなるんだ」

 前に美久に勧められて借りたギャグ漫画があまりにもつまらながったので期待していなかったけれど、そこまで言うなら、と受け取って開いてみた。

 「え、なにこの人、頭大丈夫?」

 「ね、おもしろいでしょ?」

 美久がいたずらっぽく笑った。

 「うん、思ったより。あはは、なにこれ」

 「灯里が漫画で笑ってるのなんて初めて見た……」 

 「おもしろければ笑うよ。積極的に読まないだけで」

 「わたしからしたら全部おもしろいんだけどなあ」

 「美久は笑いのツボが浅すぎなんだよ」

 それから、美久のお母さんが切ってくれたりんごを食べたり、おしゃべりしているうちに、あっという間に二時間が経った。

 ーー二時間。

 その瞬間は、すぐにわかる。

 美久が一瞬、電池の切れたロボットみたいに動きを止める。

 そして次の瞬間には、たったいままでのことは全部忘れて、六月二日に戻っている。


 「あれ? ここーー」

 いつものやり取り。

 繰り返される時間。

 そのとき、気づいた。

 私が、この時間に慣れてしまっていることに。

 時計を見ると、もうすぐお昼ご飯の時間だった。

 「そろそろ帰ろうかな」

 と言うと、美久のお母さんが、

 「じゃあ外まで送るわね」

 と一緒に立ち上がった。

 わたしも、と立ち上がりかけた美久に、


 「美久は宿題でしょ?」

 とすかさず言う。

 「はーい……」
 「お邪魔しました。美久、また来るね」

 「うん、またね」

 家の外に出て、美久のお母さんは神妙な顔つきで口を開いた。

 「じつはね、違う施設に通うことになったの」

 唐突な言葉に、私は目を見開いた。

 「違う病院に移るってことですか?」

 「ううん。病院ではもうできることがないって言われたでしょう。それにあの檜山って先生、冷たい感じがして苦手なのよね」

 それは納得だった。

 たしかに、檜山先生は言い方が冷たい。

 もうどうしようもないと、なんだか見放されているような気がするのだ。

 「病院じゃなくて、民間のリハビリ施設よ」

 と美久のお母さんは言った。

 「リハビリ?」

 「そう。知り合いの紹介でね。美久のことを相談したら、そこに通うといいかもしれない、って教えてくれたの」

 「どんなことをするんですか?」

 「基本的には運動ね。効率的に記憶力をあげるトレーニングよ」

 病院でできることがなくても、ほんの少しの可能性にでも縋りたい、という美久のお母さんの気持ちが痛いくらいに伝わってきた。

 「治るんでしょうか」

 私が言うと、どうかしらね、と美久のお母さんは首をすくめた。

 「それは、お医者さんにもわからないんだから、私にもわからないわ。でも、試す価値はあると思うの」

 「そうですね」

 私はうなずいた。

 いまは何もわからない。


 どうすればいいのか、いつまで続くのか、もしくは、ずっと続くのかーー。


 だけど、わからないということは、変わる可能性もあるということだから。








 お盆の初日。

 夕飯を食べていたら、突然、外から怒鳴り声が聞こえてきた。ついでガラスの割れるような音も。

 「えっ、何?」

 私はびっくりして、ごはんを食べる箸を止めた。

 「ちょっと、お向かいじゃないの」

 お母さんが立ち上がって、カーテンを開けて言う。

 向かいといえば、大地の家、そして『喫茶スズムラ』だ。

 「派手にやってるわねえ。夫婦げんかかしら」

 心配そうに言いながら、野次馬精神がモロに出ている。
 「灯里、ちょっと見てきてよ」

 「ええっ、なんでわたし?」

 「だって、あんたが行ったほうが角が立たないでしょ? ご近所さんちの揉め事をおもしろがるだなんて、そんな、ねえ?」

 ……思いっきりおもしろがってるじゃん。

 くそぅ。こういうとき明がいれば、一緒に引っ張ってくのに。

部活が休みだからって、友達の家に泊まりに行っているのだった。

 食べ終わったお皿を片付けて、仕方ないなあ、と言いながら立ち上がる。

 本当は、会えるのが嬉しかった。 

 学校がなければ、約束をしないとめったに会わない。

 お店に行けば会えるけれど、なんとなく邪魔している気がして、頻繁には行けなかった。

 こんなにすぐそばにいるのに、変な感じ。


 ……でも、どうしたんだろう。


 大地の家とは、昔から家族ぐるみで仲がよかった。

 お父さんもお母さんも気さくでいい人たちだ。ケンカしているところなんて、見たことがない。

 外に出ると、たしかに一階の店の窓ガラスが、派手に割れていた。

 ーも、もしかして泥棒? でも、あんな真正面から窓割って堂々と入る?

 それに、店の明かりはついていた。

 そのとき、扉を開けて大地が出てきた。



 「だ……」



 大地が一瞬、こっちを見た。

 ドキリとした。

 その目に涙が浮かんでいたから。

 大地はすぐにふいっと顔をそむけて、どこかに走っていってしまった。

 少ししておじさんが出てきて、玄関の前にしゃがんだ。

 わかりやすく落ち込んでるなあ……。

 「あの、おじさん、何かあったんですか」

 声をかけると、おじさんは顔をあげて、

 「ああ、灯里ちゃん。ちょっと大地とケンカになっちゃってね。ご迷惑おかけして申し訳ないね」

 と、恥ずかしそうに頭をかいた。

 そのあと、せっかくだからアイスでも食べていきなさいと言われて、お店のカウンターに座っている。

 ……なんでこうなった。

 そう思いながら、ナイフでフルーツを切るおじさんの背中をぼんやりと眺めた。

 ーー大きいな。

 おじさんを見ると、いつも思う。背が高くてがっしりしていて、大きな体を無理矢理制服に押し込んでいるような感じがする。

 だけど大きく見えるのは体格だけじゃなく、雰囲気もだと思った。

 その堂々とした佇まいや、顔いっぱいに広がる笑顔が、きっとそう感じさせるのだ。

 そういうところが、大地にそっくりだった。

 「はいどうぞ。スズムラ特製アイスクリーム」

 ガラスの器に入った丸いバニラアイス、さくらんぼにオレンジにウエハース。

 「ありがとうございます。なんかすみません……」

 と遠慮ぎみに言うと、おじさんに豪快に笑われた。

 「何を水くさいことを。昔は毎日のように食べに来てたじゃないか」

 小学校くらいの頃は遠慮を知らなくて、もらえるとわかって毎日のように通っていたのだ。

 我ながら図々しさに恥ずかしくなりながら、スプーンでアイスをすくって口に運んだ。

 とろりとした滑らかな甘みが口いっぱいに広がる。

 昔からずっと変わらない、幸せの味。食べるのがもったいなくて、少しずつ食べる。

 おじさんがしみじみと言った。

 「しかし早いもんだな。大地も灯里ちゃんも大きくなったなあ。初めてここに来たときはこんなに小さかったのに」

 「そんなに小さくはなかったと思いますけど」

 下ろした手の位置が3歳児くらいの身長だったので、思わず笑ってしまった。

 あの頃からおじさんは全然変わっていないように思える。少し髪の生え際が寂しくなったような気もするけれど。

 「大地に店を継いでもらおうと思ってたんだが、どうなることやら……はあ」

 おじさんがため息を吐いた。

 「大地、何かあったんですか?」

 「それが、大地のやつ、いきなり留学したいって言いだしたんだ」

 「留学……?」

 予想もしなかった言葉に、私はぽかんとおじさんを見た。

 大地の口から、そんなこと、一言も聞いたことがなかった。

 「喫茶店は継がずに、本格的に料理の勉強をしたいって言いだしてな。最近、やたら店の手伝いに乗り気だと思ったけど、まさかだよ」

 「あの、留学って、どこに……?」

 「フランスだってさ。行きたいところもチェックしてるらしい。どうしたもんかねえ……うちにはそんなお金ないってのに」

 おじさんはカウンターに手をついて、頭を抱えた。

 確かめなきゃ、と思った。

 明日学校で、じゃない。

 いま、大地に会って、大地の言葉で、ちゃんと聞きたい。

 「おじさん、ごちそうさまでしたっ!」

 私は椅子が倒れそうな勢いで立ち上がって言った。

 「おう、またいつでもおいで」

 おじさんはさっきの心配そうな表情を追いやるように、にこやかに手を振った。

 お店を出て、家とは反対の方向に向かった。

 大地の居場所は、探さなくてもわかった。

 裏の公園だ。落ち込んだり悩んだりしたとき、大地はたいていそこにいるから。

 『大きくなったら、どっか遠くに行きたいな』

 小さい頃、大地はよくそう言っていた。

 大地は昔から、ずっと遠くのほうを見てたんだね。

 私よりもずっと遠く。

観覧車に乗れなくて、お化け屋敷で泣いていた頃から。

 私はそのとき、当たり前のように自分も一緒にそこに行くんだって、疑いもしなかった。

 だけど、もう小さな子どもじゃないから、わかる。

 本当に遠くに行くには、お金とか覚悟とか、いろいろなものが必要なんだって。

 いつの間にか、大地がずっと遠くに行ってしまったような気がした。

 だけど、いま何もしなかったら、もっと遠くに行ってしまう。

 いつでも会えるなんて、そんなの、嘘。

そんな保証はどこにもないし、待っていれば誰かがくれることもない。

自分で行動しないと。


 いまじゃなきゃ、ダメだった。

 いま、大地に会いたかった。

 公園の前まで来て足を止めた。暗闇の中、ブランコに座っている大地が見えた。

 私は大地の目の前に立って言った。


 「大地」

 「灯里……なんだよ」

 大地は泣いているのを見られたくないのか、ぶっきらぼうに目をそむけて言う。

 「そっちこそ、なんなの」


 ーーああ、また。


 私の悪い癖。

 心配しているのに、つい刺々しい言葉を口にしてしまう。

 「留学するっておじさんに聞いた。なんでそんな急に……なんにも言ってくれないの」

 「いや、留学っていっても、卒業してからだし。それに灯里、森下さんのことで精一杯で、話せる雰囲気じゃなかっただろ」
 「じゃあ、美久のことは、いいの?」

 ーーちがう。こんなことが言いたいんじゃない。

 「好きなんでしょ。忘れちゃうとしても、何度でも言いなよ。その程度の気持ちなの。それとも、大地もほかの顔だけで告ってくるやつと同じで、美久のことめんどくさいって思ってるの?」

 言ってから、はっとした。

 大地がじっと私の顔を見ている。 

 怒るかもしれないと思った。でも、大地は怒るでもなく、冷たい口調で、言った。

 「そんなこと言うってことはさ、灯里がいちばん、そう思ってるんじゃないの?」

 「私が? そんなわけ……」 

 「帰るか」

 大地はいきなり立ち上がって言った。

 「あんまり遅くなると、心配かけるだろ」

 これ以上話すことはない。そう言われたような気がした。

 大地と別れて家に帰った。

 どうだった? と興味津々なお母さんを素通りして、自分の部屋にいく。

 ドアを閉めて、へなへなと座り込んだ。

 ……やってしまった。

 なんでわざわざ追いかけてって責めてるの。 

 バカなの、私。

 うん、バカだ。どうしようもないバカ。

 ほんとは、行かないで、って言いたかったんだ。

 ーー置いてかないで。

 ただそれだけ、言いたかったのに。