体育の授業でバスケットボールの練習をしていたとき、


 「美久!大丈夫っ!?」

 叫び声に振り返ると、美久が頭を抱えてうずくまっていた。足元からボールが転がって、クラスメイトたちが心配の声をあげながら集まっている。

 隣のコートでゲームをしていたので、美久のほうは見ていなかった。

 「どうしたの?」

 駆け寄って尋ねると、

 「あ……ボール当たっちゃって。でも、軽くだから大丈夫」

 「何かあったらどうするの。念のため保健室行ったほうがいいんじゃない?」

 「大丈夫だよー……でも、ちょっと休んでようかな」

 美久は頭を押さえて言った。

 それからゲームに戻ったけれど、壁際で座っている美久が心配でしょうがなかった。

 ボールが当たっただけ。

 そんなに心配することじゃない。

 前なら、これくらいで心配することはなかった。

 でも、いまは違う。

 些細なことでも、心臓が止まりそうなくらいヒヤリとする。

 ちょっと過保護すぎるかもしれない、と自分でも思う。

 でも、仕方がない。

 だって、いまの美久はーー普通とは違うのだから。

 ゲームが終わるなり、私は美久のそばに駆け寄った。

 「美久、大丈夫?」

 「じつはね、当たる直前にとっさに避けたから、全然痛くないんだ」

 美久が顔を上げてよくわからないことを言った。

 「えっ、じゃあ、当たってないの?」

 「うん。心配させちゃってごめんね」

 でも、さっき美久はたしかに、ボールが頭に当たったと言った。

 「なんでそんな嘘を……」

 「そう言ってほしそうだったから」

 美久が言った。

 「どういうこと?」

 「さっきね、言われたの。小声で、調子乗るなって」


 「ーー誰に?」

 かっと頭が熱くなった気がした。

 調子に乗るな……?

 なにそれ。

 いったい、誰が調子に乗ったというのか。


 「それは、言わないとく。だって言ったら灯里、絶対突撃するから」

 「当たり前でしょ」

 すでにはらわたが煮えくり返っているくらいだ。

 いつも私が目を光らせているからって、見ていない隙を狙うなんて。

 結局、美久が何も言わなかったから、ボールを当てた犯人はわからなかった。

 美久に対しての接し方は、様々だった。

 心配する人や、いままでと変わらず接しようとする人。

 その中にはきっと、口にしないだけで、よく思っていない人もいるだろう。

 美久はよくも悪くも、目立ってしまうから。

 わかっていたつもりだったけど……やっぱりもどかしい気持ちは消えなかった。

 次の日の朝、風邪気味だから今日は学校を休ませる、と美久のお母さんから連絡があった。

 もしかしてーー昨日のことを気にしいてるんだろうか。

 美久は二時間以上前のことを覚えられない。

 だから当然、昨日のことも覚えていないだろうけれど。

 日記には驚くほど細かくその日の出来事が書いてあるから、見返して知ることはあるかもしれない。


 「姉ちゃん、邪魔なんだけど」

 洗面台の鏡の前でぼうっとしていると、後ろから弟の晃良が言った。

 「あっ、ごめんごめん」

 「大して変わんねえんだから早くしてくれよなー」

 中学生になって反抗期真っ最中の晃良は、口を開けば憎まれ口を叩かないと気がすまないらしい。

 「そういえば最近、大地くんと一緒に行ってねえの?」

 歯磨きをしながら晃良が言う。

 「むしろなんで高校生にもなって一緒に行かなきゃいけないの」

 私は髪をとかしながら答えた。

 「いやだって目の前だし、行き先も同じじゃん」
 「まあそうだけど……最近、お店の手伝いで忙しそうだからさ」

 最近、大地が何かとお店の手伝いで忙しそうなのは本当だった。

 たまにお店が休みのときは一緒に帰ったりはするけれど、クラスも違うし、二年生になってから顔を合わせることが減っていた。

 美久がいなかったら、ほとんど会わないかもしれない。

 「大地がどうかしたの」

 晃良が小学生の頃は、大地ともよく一緒に遊んでいた。

 「べつにー。またゲームやろって言っといてよ」

 そう言うと、うがいをして洗面台を出て行った。

 「……自分で言ってよ」

 それからどうでもいいけど寝癖ついてるって言いそびれたな、と思いながら鏡に向き直って髪をとかした。

 「灯里、おはよー」
 「おはよう」

 教室に入ってクラスメイトと挨拶を交わしながら席につく。

 「あれ、今日美久は?」

 梨奈が振り返って尋ねる。

 「風邪で休みだって」
 「え、そうなんだ。心配だね」
 「ちょっとした風邪だから病院行って様子見るって美久のお母さん言ってたけど、心配だから学校終わったら顔出してみるよ。よかったら梨奈も……」

 言い終わる前に、梨奈はすっと立ち上がって言った。

 「そうなんだ。お大事にって伝えといて」

 いま、ちょっと逃げたような気がするけれど……。

 教室のざわめきの中、ふいに取り残されたような気分になる。

 いつもの教室。みんなも、窓から見えるグラウンドも。

 だけど、美久がいない。

 それだけで、こんなにもいつもと違うんだ。

 私の日常の大部分は、美久のことで埋め尽くされている。美久の学校での日記に私ばかりが登場するみたいに。

 それがいいことなのか、そうじゃないのか、時々わからなくなる。
 でもーー、

 『これからもどうか、美久のこと見守ってあげてください』

 深く頭を下げてそう言った美久のお母さんの言葉を思い出すたび、しっかりしなきゃ、と自分を奮い立たせる。

 私には役割がある。美久を守るといういちばん大事な役割が。

 あの日、できなかったかわりに。

 美久がいない学校での時間は、淡々と過ぎていった。

 二時間ごとに気を張ったり、説明したりしなくていいのがこんなに楽なんだと、前までの感覚を忘れかけていた。

 前の私は、どうやって過ごしていたんだっけ。

 ーーまだ、1ヶ月しか経っていないのに。

 文庫本とお弁当を持って教室を出ようとしたとき、

 「灯里、うちらと一緒に食べない?」

 と女子の一人が声をかけてくれた。

 「あ、うん、じゃあ」

 広げかけた包みを結び直して、席を移動する。

 女子グループの四人がすでに机を寄せて、笑いながら話していた。

 誰と誰が付き合いはじめたとか、振られたとか、彼氏とどこに行ったとか。

 聞いていて、びっくりした。

 女の子の会話って、こんなに恋愛中心だったっけ。

 普段、美久と恋バナなんてしたことがない。

 『男の子が苦手なの』

 前に美久がそう言っていたから。

 『小学生のときに男の子にいじめられて、次は何されるんだろうっていつもビクビクしてて。最近では怖いと思うことはなくなったけど、面と向かうと緊張しちゃって』

 きっとその男の子は美久のことが好きだったんだろうなと少し同情しつつも、本気で嫌だったらしい美久には言えなかった。

 だから、なんとなく、大地を好きなことも言えなかった。

 それに、恋バナなんてしなくても、ほかに話すことはたくさんあったから、気にならなかったんだ。

 「ーー美久もねー。いまはアレだから」

 ふいに美久の名前が出てきて、箸を止めた。

 なんとなく、でもすごく嫌な感じがして、胸がざわつく。

 聞こえなかったふりをして流せばよかった。

 でも、できなかった。



 「アレってなに?」



 自分でも驚くほど、棘のある声が出た。

 いや、とひとりが庇うように答える。

 「やーだって、ね。美久、いま大変でしょ。だからなんとなくみんな気遣っちゃうっていうか」

 「そうそう、なんかあったら困るしねー」

 「灯里も大変だよねー。朝来てから帰るまでずっとつきっきりでさ。たまには息抜きしたほうがいいんじゃない?」

 昨日、美久に『調子に乗るな』と言ったのは、この子たちかもしれない。

 そう思った。

 はっきりと口にしたわけじゃないけれど、四人の表情にははっきりと美久への悪意が見て取れた。

 証拠があるわけじゃない。
 ここで昨日のことを詰めよったって、はぐらかされるに決まってる。
 だから、ぐっと堪えた。

 でも……

 「ていうか、そこまでして学校来る意味ある? どうせ全部忘れちゃうんでしょ?」

 その言葉だけは、見過ごせなかった。

 どうして、そんなことが言えるの。

 学校に来なくていいなんて。

 そんな人、いない。

 そんなこと、言っていいはずない。

 頭がカッと熱くなって、気づけば立ち上がっていた。

 「そういう言い方はないんじゃない。美久だって大事なクラスメイトでしょ。友達でしょ。美久がどれだけ頑張ってるか、我慢してるか、知らないでしょっ」

 そこまで言って、声を詰まらせた。泣きそうだった。
 こんなことくらいで泣いてる場合じゃないのに。
 でも、美久はいつもこんな視線に晒されていたんだと思うと、たまらなくなった。

 『どうせ全部忘れちゃうんでしょ』

 ただいつも通り学校に来るだけで、そんなことを思われるなんて。

 でもそれは美久が怒ることであって、私が怒ることじゃない。

 「……ごめん。つい熱くなって」

 私はすとんと椅子に腰を下ろした。

 「うちらも、言いすぎた」

 四人が気まずそうにそう言って、なんとかその場は落ち着いた。

 それからは美久の話題は避けて、無難な話題になった。


 お弁当を食べ終えて席に戻ってから、机に顔を突っ伏した。

 ーー何やってるんだろう、私。


 『灯里も大変だよね』

 つい怒ってしまったのは、否定できなかったから。

 美久が学校を休んで、解放された、こんなに楽なんだ、そう思ってしまった自分が、たまらなく嫌になったからだ。

 美久を誰よりも病人扱いしているのは、あの子たちじゃなく、私なんじゃないかな。


 午後の授業が終わってすぐに、私は学校を出て、美久の家に向かった。

 チャイムを押すと、はーい、とインターフォンから明るい声がして、美久のお母さんがドアを開けた。

 「いらっしゃい、灯里ちゃん。あがって」

 お邪魔します、と靴を脱いであがる。

 「さっき、ちょっと熱が引いてきたところなの。美久、部屋で寝てるからよかったら顔出してあげて」

 「ありがとうございます」

 階段をのぼって美久の部屋のドアを叩く。

 はあい、と意外に元気な声が帰ってきたので開けると、寝起きなのかぼんやりした顔の美久がベッドに横になっていた。

 カーテンやベッドシーツやカーペットなどはオフホワイトで統一され、机やクッションやなどの小物はほとんど淡いピンク色で揃えられた部屋は、いつ来ても美久らしい部屋だと思う。

 美久は目をこすりながら頭をあげる。

 「うーん……灯里、おはよう〜」

 「調子どう?」

 ベッドの横にしゃがんで尋ねると、美久がぼうっとしながらうなずく。

 額に手を当ててみると、カイロみたいに熱かった。これで引いたほうなら、相当高熱だったということだ。

 退院してからはとくに身体の不調もなく、寝ていることが増えた以外は元気そうだった美久。

 だけどやっぱり、疲れてるんだ。

 私は美久の熱い手を両手で包んでつぶやく。

 「……ごめんね、美久」

 熱でぼんやりとした美久の目が、ふいにあの日の記憶と重なった。

 道路に横たわった美久の黒い目が、暗闇からじっとこっちを見つめている。

 私に向かって手を伸ばし、何かをつぶやく。

 振り切りたくてもできない、固まった血みたいに頭にこびりついた事故の残像。

 そのときふいに、額に温かいものが触れた。

 びっくりして顔をあげると、美久がじっと覗き込みながら、私の額に手を当てていた。

 「えっと……熱はないけど」

 戸惑いながらそう言うと、美久はにっこりと笑った。

 「小さい頃ね、わたしが落ち込んだり不安になったとき、お母さんがこうやっておでこに手を当ててくれたの。そしたら不思議と、すうっと不安な気持ちが消えていくの。灯里もいま、そういう顔してたから」

 「美久……」

 情けなさに、心が押し潰されそうだった。

 いちばん大変なはずの美久に慰められてどうする。

 事故の日から、いつも不安でいっぱいだった。 

 守るなんて、私にできるんだろうか。

 いつか、もっと大変なことになるんじゃないか。

 つねに気を張って、起こってもいないことばかり考えて気持ちが重くなった。

 でも、美久にはわかるんだ。私の暗い気持ちが伝わってしまうんだ。

 「うん。ありがとう」

 泣きそうになりながら言うと、美久はまるで全部わかっているみたいに笑った。

 「親友だから。落ち込んでるとき元気出してほしいって思うのは、わたしも同じだよ」


 怖がってばかりいたらだめだ。

 たまにはいつもと違う場所に行くのもいいかもしれない。

 私は少し前向きになって言った。

 「そうだ。元気になったらどっか行こうよ。美久、どこ行きたい? あんまり遠いとこは無理だけど」

 「いいね」

 美久は嬉しそうに目を輝かせて、

 「じゃあ、観覧車に乗りたい」

 と即答した。

 「観覧車って。すぐ近くじゃん」

 もう少し遠くを思い浮かべていた私は拍子抜けして言った。

 港のほうにある小さな遊園地の観覧車のことを言っているのだろう。

 それなら、学校の窓からでも見えるくらいだ。

 「うん。でも、そういえば小さい頃に乗ったきりだなって」

 そういえば、私も小学生のときに家族で乗って以来乗っていない。

 いつも景色の中にあったから、わざわざ行って乗ろうとは思わなかった。

 「いいよ。観覧車乗ろう」

 「やった! じゃあ日記にメモしとくね」

 急に元気になって、美久は枕元の日記帳に書き込んだ。

 ーーはやく元気になるといいな。

 素直にそう思えた自分に安心した。

 トントンとドアをノックする音がして、美久のお母さんがお盆にカップをふたつ乗せて入ってきた。

 ふわりとチョコレートの甘い香りがした。

 「ココア! ありがとうお母さん」

 美久が言った。

 「やっぱり風邪のときはコレよね」

 この家ではココアが薬みたいな扱いなんだろうか。

 のどかな親子のやりとりに、私は笑いながらカップに口をつけた。

 夏に飲む熱いココアは甘くて濃厚で、弱った心も体も内側から温めてくれそうだった。



 ✣



 翌朝。

 「まだ体調が完全に回復していないから、もう1日大事をとって休むことにするわ。心配かけてごめんなさいね」

 と美久のお母さんから連絡があった。

 二日も美久を迎えに行かない日がつづくと、なんだかサボっているみたいで落ち着かない。

 二時間目が終わったあとの少し長めの休憩中、次の数学の予習をしていたら、

 「灯里、スマホ鳴ってるよ」

 と前の席の梨奈に肩をつつかれた。

 「えっ、あ、ほんとだ」

 画面を見ると美久のお母さんだった。

 学校にいるあいだに電話がかかってくることはまずないので、ドキリとしながら廊下に出た。

 通話ボタンを押すと、もしもし、と美久のお母さんが早口で言った。

 「美久がいなくなったの。灯里ちゃん、何か聞いてない?」

 「ーーえ」

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。

 「さっき、美久が寝てるうちに、近所のスーパーにお昼ご飯を買いに行ったの。すぐに帰ってきたんだけど、いなくなってて……自転車はあるけど、鞄がないのよ」

 いまにも潰れそうな声だった。

 「まだ切り替わる時間じゃなかったのに……どこに行ったんだろう……灯里ちゃん、心当たりはある?」

 「ごめんなさい……わかりません」

 「そうよね、急に言われても困るわよね」

 「私、探してきます」

 いてもたってもいられなくてそう言うと、えっ、と電話越しに戸惑うような声がした。

 「こんな非常事態に、授業なんて受けてられませんから」

 私はきっぱりと言って、電話を切った。

 「海野、どうかしたのか」

 橋本先生に気だるそうに言われて、振り返って言った。

 「すみません、体調不良で早退しますっ!」

 「めちゃくちゃ元気そうだけどな。まあ気をつけろよー」

 橋本先生はそう言って送り出してくれた。

 隣の教室を通り過ぎるとき、扉の窓ガラス越しに大地が見えた。

 退屈そうにあくびを噛み殺しながら黒板を見ている。

 ちらりとこちらを見た大地と、目が合った。

 こうなったら、大地にも一緒に探してもらったほうがいいかもしれない。眠そうだし。

 私は窓越しに、 

 『みくがいなくなった』

 と手でジェスチャーを送った。

 大地は眉をひそめて首をかしげている。

 ……私、すごいバカっぽい。

 はたから見たら、おかしなポーズをとっている変な人だ。

 私は急に恥ずかしくなって、足早に教室の前を通り過ぎた。

 『美久がいなくなったの』

 美久のお母さんの震える声。

 さっきまで部屋で寝ていたはずなのに。

 美久が行きそうなところ。

 どこに行ったんだろう。

 真っ先に向かったのは、音楽室だった。

 五階まで階段を駆け上がると、当たり前のように扉の向こうから歌声が聴こえてきた。

 そりゃ、授業中だよね……。

 ここにいると、時間が巻き戻ったように感じる。

 私と、美久と、大地がいた。


 ーー六月三日。


 たった一ヶ月前のことなのに、あのときといまでは何もかも違う。

 時間は確実に過ぎている。

 でも、どれだけ時間が進んで美久の中では一日も経っていないんだ。

 時間の感覚が揺らいで、頭がくらりとする。

 壁にもたれて手をかける。

 まるでこの場所に閉じ込められているような感覚にとらわれる。

 だけどいまは、立ち止まっている場合じゃない。
 美久を探さないと。

 なんとなく、学校にはいないような気がした。

 でも、ほかに美久が行きそうなことろなんて見当がつかない。

 学校でも家でもない。ほかにはーー

 いつもそばにいるのに、なんで肝心なとき何もわからないんだろう。

 なんのために一緒にいるんだ。

 そのとき、はっとした。

 『観覧車に乗りたい』

 美久は言っていた。嬉しそうに笑って。
 もしかして、と思った。

 でも、わざわざ一人で乗ろうと思うだろうか。

 自信はなかった。だけど家でもなく学校でもなく、いま美久が行くとしたら。そこ以外に思いつかなかった。


 学校を出て、駅に向かおうとしたところで愕然とした。

 慌てていたので、鞄を教室に置いてきてしまったのだ。

 持っているのは携帯電話だけ。これじゃあ電車にもバスにも乗れない。

 ーー何やってるんだ、私は。

 教室に戻るべきか、家に帰るべきか。

 迷っているとき、

 「灯里っ!」

 大地が息を切らしながら走ってきた。

 「おまえな、さっきのなんだったんだよ。ちょっと心配になっただろ」

 「美久がいなくなったの。わかってよ」

 「わかるか。……って、え? いなくなった!?」

 「昨日、美久の家に行ったとき、観覧車に乗りたいって言ってたの」 

 「あの遊園地の?」

 「……たぶん。でも、財布教室に忘れちゃって」

 「なら、持ってきて正解だったな」

 大地がニッと笑って私のかばんを持ち上げた。

 「持ってきてくれたの?」

 私は目を見開いて言う。

 「灯里が早退なんて、よっぽどだろ。なんか緊急事態かと思って。違ったらカラオケでも行こうかと」

 「……ありがと」

 私はバッグを受け取って言った。

 「おっ、今日は素直」

 大地が笑う。

 「早く行くよっ」

 「おう」

 で、駅を目指して走っているわけだけれど。

 「……遅」

 大地が振り返って言った。

 「だって、普段、走、る、ことなんて、ない、から……っ」

 ぜえぜえ息を切らしながら走っているのに、情けないほどの遅さだった。

 大地が立ち止まって、ほら、と手を差し出す。

 思わず、ドキリとした。

 え? なにその手? 手つなぐの? 転ばない? いやいやそういう問題じゃなくて……っ!

 火照った顔の温度がさらに上昇したとき、

 「かばん、持つよ」

 と大地が言う。

 「あ、こっちね」

 「こっちって、なんだと思ったんだよ?」


 ……一人で緊張していたのが、バカみたいだ。


 教科書が入ったバッグの重みが肩からなくなると、ずいぶん楽になった。

 近いからいつでも行けると思っていたのは、晴れた日にはいつも音楽室の窓から観覧車がくっきりと見えていたからだった。

 少しでも曇ると霞んでよく見えなくなるくらい、それは遠くにあったんだ。

 頭上の太陽が容赦なく照りつけてきて、制服の白いカッターシャツも紺色のプリーツスカートも汗だくだった。

 布が肌に張りつく心地悪さや通りすがりの人たちの視線を感じながら、そんなことを気にしている場合じゃないと振り切る。

 美久を探さなきゃ。

 いまもどこかで蹲っているかもしれない。

 ひとりで助けを求めているかもしれない。

 電車に乗って、港町についた。

 駅から遊園地は目と鼻の先だ。

 星や虹が描かれたカラフルな門の前まできて、はっと立ち止まった。

 門の脇に、美久が蹲っていた。白いTシャツにストライプのスカートパンツというラフな格好で。

 腕で膝を抱えて顔を隠していた。

 「美久!」

 駆け寄ると、美久はおそるおそる顔をあげた。

 知らない場所で迷子になった子どもみたいに、不安に満ちた目で私を見る。

 「灯里……なんで」

 「よかった」

 私は言って、そっと美久の肩に手を置いた。

 無事でよかった。泣いてなくてよかった。

 美久がいなくならなくてよかった。

 「心配かけてごめんね」

 と美久が小さな声でつぶやいた。

 「何かあったの?」

 尋ねると、美久は首を振った。

 「……何もなかった。起きたら、何もなかったの」

 「急がなくていいから、話してくれる?」

 自分がここにいることを確認するみたいに、ゆっくりと話しはじめた。

 目が覚めると、自分の部屋にいた。

 さっきまで学校にいたはずだったのに、パジャマを着てベッドで寝ていたのだ。

 家には誰もいなかった。お母さん、と呼びかけてもしんとしている。

 何があったんだろう。

 わからない。なにもわからない。

 怖くなって、机の財布だけを掴んで家を飛び出した。どこに行けばいいかもわからなくて、しばらく街をさまよった。

 歩きながら、観覧車、と思った。

 頭の中で弾けるように、唐突に浮かんだ。

 観覧車に乗りたい。

 いつだったかわからないけれど、前に、そう思っていたような気がするってーー


 「覚えてるの?」

 私は驚いて言った。

 一瞬期待しかけたけれど、美久はううん、と小さく首を振った。


 「全部、日記に書いたこと読み返しただけ」

 「……そっか。でも、どうしてここにいたの?」

 財布を持っていたなら、中に入れたはずだ。

 それがね、と美久は少し恥ずかしそうにした。

 「定期はあったから電車には乗れたけど、お金がなくて。それで、中にも入れないし帰ろうと思って、でも、疲れちゃって」


 ーーああ、そうか、美久も。

 何も考えずに、何も持たずに、飛び出してきてしまったんだ。

 「私と一緒だ」

 疲れを通り越して、思わず笑ってしまった。

 美久はポカンと私を見ていたけれど、やがて小さく笑みを浮かべた。

 「さっきまでどうしようもないくらい不安だったのに、灯里の顔見たらなんかほっとしちゃった」

 「それはよかった」

 少し照れながら私も笑った。

 「あ、そうだ」

 美久のお母さんに知らせなくてはと思い携帯電話をポケットから取り出した。
 電話をかけるとすぐに繋がった。

 「よかった……っ、ありがとう灯里ちゃん」

 ほんとうにありがとう、と美久のお母さんは何度もそう繰り返した。

 入口でチケットを購入して、ゲートを通って中に入っ平日昼間の遊園地は空いていた。

 何年かぶりだったけれど、小さな遊園地だからマップを見なくてもすぐに配置を思い出せる。

 最後に来たのは、小学校の頃、大地の家族とうちの家族で来たときだっけ。

 大地と明良と三人でメリーゴーランドに乗った。

 コーヒーカップを回しすぎて気持ち悪くなって、お化け屋敷では怖がりの大地がずっと腕にくっついていた。

 大地は高いところが苦手だから、観覧車にはお父さんとお母さんと四人で乗ったのを覚えている。

 夕方空が赤くなるまで遊んでいた。

 小さい頃の楽しい思い出にはいつも、家族と大地がいた。

 二人で一緒にいろんなところに行った。遠くには行け
 ないけれど、どこにでも行けるような気がしていた。

 『大きくなったら、もっと遠くに行きたいな』

 と大地が言った。

 大きくなったらっていつのことだろう。

 もっと遠くってどこだろう。

 私はそう思いながら、でもなんだか楽しそうだから、

 『うん、行こうよ!』

 そう言ったのだった。


 「じゃあ、乗るか。観覧車」

 大地がそう言って、ふと思い出す。

 「大地、観覧車苦手じゃなかった?」
 「えっ」

 ……まだ高いところは苦手らしい。

 「無理しなくてもいいよ? わたしのワガママだし……」

 「いや、乗るよ、ダイジョウブ」

 もはやロボットみたいになっている。

 でももう入口に入ってしまっているので、引き返せない。 

 「いってらっしゃーい」

 スタッフのお姉さんに笑顔で見送られながら、ゴンドラに乗り込んだ。

 コーヒーカップやメリーゴーランドやジェットコースターが、だんだん小さくなっていく。

 だんだん街が遠くなって、空が近くなっていって。

 「みて、すっごくきれい」

 美久が言って、意識が遠のきかけていた大地が、ちらりと窓の外を見て目を見開く。

 「わ……すごいな」

 ゴンドラがいちばん高いところまで来た。遮るものは何もなく、窓の外は一面の空だった。

 ゴンドラの中が夕陽の金色の光に包まれる。

 なんだか、夢の中にいるみたいだった。


 大地は美久の横顔に見惚れていた。

 ズキン、と胸が痛む。


 こんなに近くにいるのに、気持ちが通じることはない。


 好きな人が自分のことを好きになってくれる可能性って、奇跡みたいなことだと思う。

 ヒロインのそばにいる友達は、いつだって傷つく役だ。

 「これなら俺も大じょ……うぶじゃないかも……」


 ゴンドラが下降を始めた途端、大地が手で顔を覆った。

 景色が見えるとダメみたいだ。

 目をつむって、

 「ついた?」「もうついた?」

 としきりに確認している。

 「なんかごめんね……?」

 観覧車を降りてから、美久が申し訳なさそうに言った。

 「いや、全然ヘイキ……」

 とげっそりしながら言う大地。

 「でも、乗れたね。観覧車」

 私は言った。

 「おう。スリル満点だったけどな……」


 乗れたのはきっと、美久がいたからだ。

 もし私と二人だったら、カラオケには行けても、観覧車は乗れなかったと思う。

 美久が羨ましい。

 かわいくて、素直で、性格もよくて。

 ただそこにいるだけで人を惹きつけてしまう美久が、心底羨ましい。


 私はそんなふうになれない。

 たくさんの人に見てほしいわけじゃない。

 たった一人に見てほしいのに、それは叶わないんだ。



 ーーこんなにたくさんのものを持ってるんだから、少しくらいハンデがあったって、いいじゃん。



 「灯里ー、ソフトクリーム食べよっ!」


 美久が手を振って呼んでいる。

 私はうん、と返事をして、駆け寄った。


 たったいま浮かんだ最低な考えを打ち消して。