美久の意識が戻らないまま、4日が経った。 


『灯里っ!』


 雨の交差点。猛スピードで迫る車。

 何が起こったのか、理解する暇もなかった。

 気づいたら、目の前で美久が倒れていた。

 横断歩道二転がる赤い傘。雨に滲む赤……。

 何度もフラッシュバックする光景に、目をつむった。

 
『頭を強く打ってるから、目が覚めたとき後遺症が残るかもしれないって……』

 檜山という名前の担当医から説明を聞いた美久のお母さんが、廊下の椅子に座って顔を覆って言った。

 美久のお父さんは、私と顔を合わせようとしなかった。

 ……当然だよね。

 本当なら、ベッドで寝ているのは私のはずだったんだから。

 美久は、飛び出してきた車から私を守って事故に遭った。

 話どころか、挨拶すらしたくないんだろう。

 でも、落ち込んでいる場合じゃない。

 美久が、命がけで守ってくれたのだから。

 だから、今度は私がしっかりしないと。 

 いつ意識が戻っても、大丈夫なように。


 学校が終わると、急いで病院に向かった。

 エレベーターで五階に行く。

 美久が入院しているのは広めの個室で、ホテルみたいにきれいな部屋だった。

 赤や黄色や水色。花瓶に挿してある色とりどりの花は、きっと、美久のお母さんが毎日変えているのだろう。

 いつ来ても瑞々しくてきれい、と見とれてしまう。

「今日は数学の中間テストがあったよ。いつも通り抜き打ち。最近ちょっと勉強サボってたから、ビミョーな点とっちゃったよ。あと、家庭科の調理実習でグラタン作ったよ。六月にグラタンってちょっと季節外れだなあって思ったけど、おいしくできたよ。美久がいたら感激してたね」

 私はベッドの隣の椅子に座って、今日あったことを思い出しながら報告する。

 閉じた目はぴくりとも動かない。

 それでも、もしかしたら返事が返ってくるかもしれないと期待して話しかけた。

「灯里ちゃん、いつもありがとう。来てくれて美久も喜んでると思うわ」

 美久のお母さんはほほ笑んで言った。

「いえ。私にできることは、これくらいなので……」

 そう言いながら、少し心配になった。

 目の下にくまが浮かんでいる。きっと心配で眠れないのだろう。

 美久のお母さんには、懇談会のときなんかに何度か顔を合わせたことがあるけれど、色白で線が細くて、本当にきれいな人だった。

 そして、美久にそっくり。大人になったらこんな感じなんだろうな、ってつい想像してしまうくらい。

 お父さんに会ったのは、一度だけだった。きっと忙しい人なのだろう。

 そう思いながら、顔を合わせなくて済むことに、内心ホッとしていた。

 好かれてはいないことが、はっきりとわかるから。

「そろそろ帰ります。また来ますね」

 そう言って、美久のお母さんに見送られながら病室を出た。

 エレベーターを待っていたとき、

「灯里ちゃんっ!」

 突然、呼び止められた。

 美久のお母さんが、戸惑った様子で私を見ていた。

「美久が、目を覚ましたの」

「えっ、本当ですか」

「でも、様子が変なのよ」

 と、困惑気味に言う。

「変って……?」

「こっちに来て」

 美久のお母さんは不安そうに瞳を揺らした。

 どういうことだろう。

 私は不思議に思いながら、あとをついていく。

 病室の扉を開けると、窓の外に顔を向けていた美久が振り返って、ぱっと笑顔を見せた。

「灯里っ!」

 私はぽかんとした。

 一週間も意識を失っていたなんて、嘘みたいに、美久は元気だった。

 頭の包帯が痛々しいけれど……。

「美久、もう大丈夫なの? 起き上がって平気?」

 私は戸惑いながら尋ねる。

 美久はキョトンと首をかしげた。

「うん、もう平気。起きたらなぜか病院にいて、びっくりした」

「そっか、そうだよね」

 ずっと寝ていたのだから、わからないのも無理はない。

 夢みたいだ。でも、夢じゃない。本当に、目を覚ましたんだ。

 私は涙ぐみながら駆けよった。

「よかったあ……」

「あ、そうだ。灯里、誕生日おめでとう! ごめんね。プレゼントいま持ってないみたい。今度渡すね」


「え?」

 美久の言葉に、私は固まった。

 四日前、私は美久からプレゼントをもらった。

 腕時計と、ピアノの演奏。

 事故のショックで忘れてしまったんだろうか。


『でも、様子が変なのよ』


さっき、美久のお母さんは、そう言った。


 美久が目覚めて嬉しいはずなのに。


 何も問題がなければ、そんなこと言うはずがない。


「プレゼントなら、この前もらったよ。ほら、今日も持ってる」

 ほら、と私は学校のバッグに入れて持ち歩いている腕時計を取り出して見せた。

「なんで? わたし、まだ渡してないはずなのに……なんで灯里が持ってるの?」

 美久は混乱した様子で言う。

 ただ忘れているというだけでは、ない気がした。

 何かはわからないけれど、違和感があった。

 なんだろう。胸の奥が、嫌な感じにざわめく。

「あまり混乱させないほうがいいですよ」

 後ろから、声が聞こえた。

 私と美久のお母さんが、同時に振り返った。

 担当医の檜山先生だった。メガネをかけた若い男の先生だ。

「美久さんは、一時的に記憶を失っている状態だと思われます。いまはなるべく刺激を与えないように接してあげてください」

 檜山先生は、そう言った。

「そんな……」

 美久のお母さんは両手で口を覆った。

『頭を強く打ってるから、目が覚めたとき後遺症が残るかもしれないって……』

 たしかに、そう言っていたけれど。

 でも、こんなに元気そうなのに、記憶がないなんて、信じられなかった。

 でもーー問題は、それだけじゃなかったのだ。



 ✣



「おはよー」

 と挨拶をしながら美久が教室に入ってきたとき、私は思わず固まってしまった。

 クラスメイトたちが一斉に美久のほうを向く。

「美久! もう大丈夫なの!?」

「うん。ご心配おかけしました」

「よかったー。心配したよー」

 クラスメイトたちに、美久は笑顔で応えている。

 事故から一ヶ月。

 美久の体力はみるみる回復し、頭の怪我もほとんどわからないくらいきれいになった。

 退院して、今日から学校に復帰することになった。

 屈託のない笑顔。いつもと変わらないように見える。

 でも、美久の記憶は、戻ったわけではなかった。

『灯里はいつも通りにしててね。みんなにはちゃんと説明するから』

 昨日、心配で電話をかけた私に、美久は笑って言った。

 どうしてあんなふうに普通に笑えるんだろう。

 ーー私は全然、いつも通りにできる自信ないよ。

 朝のホームルームで担任の橋本先生が連絡事項を伝えてから、

「えー……森下から話があるそうだ」

 と、苦々しい顔を浮かべながら言った。

 困惑するのも無理はない。

 いま、ここで事情を知っているのは、私と橋本先生だけなのだから。

「え、なに?」
「なんか発表?」
 教室がざわつき始めた。

 美久が黒板の前に立って、ピンク色の日記帳を開いた。

「みんなに伝えておかなければいけないことがあります」

 緊張した声が教室に響く。

 その声に、騒がしかった教室が、水を打ったように静かになった。


「わたしの記憶は、二時間しか持ちません」


 と、美久は言った。

「え? どういうこと?」

「美久、大丈夫……?」

 突然の報告に、みんなの顔に戸惑いの色が浮かんだ。

 冗談なのか本気なのか、わからない様子だった。

 橋本先生は頭を押さえて首を振っている。

 厄介なことになった……そんな本音がだだ漏れだった。


『美久さんの記憶は、二時間で元に戻ってしまいます』

 と檜山先生は言った。

『戻るって、どういうことですか』

 美久のお母さんが意味がわからない、というように尋ねた。

『彼女の意識はいまも、六月三日のままです。正確には、六月三日の十二時から十四時頃を行き来している状態です。そして二時間経つと記憶が途切れ、その二時間の間に起こった出来事はすべて忘れてしまう。それ以降の記憶を蓄積するのは難しいでしょう』

 六月三日ーー事故の日から、一ヶ月が経った。

 現実の時間は着実に進んでいる。

 だけど美久の意識はいまも、あの日の昼間に取り残されたままだった。

 朝も夜も、学校にいても家にいても。

 二時間ごとに記憶を失くして、美久だけが何度も六月三日の昼間に戻ってしまう。

 美久の話を、クラスメイトも先生も、信じられない様子で聞いていた。

 そんな突拍子もないことを急に言われたって、信じられないのは当然だ。

 私だって、まだ信じられないのだから。

「みんなには、迷惑をかけるかも、というか、かけてしまうと思います。でも……」

 美久は震える声でそう言って、日記から顔を上げた。
「いつも通りに、していたいです。学校に来て、授業を受けて、家に帰ってごはんを食べて、当たり前だと思っていた日常をてきるだけ続けていきたいです。すごくワガママだと思うけど……」

 いまにも泣きそうになりながら、それでもそこに立っている美久を、強いと思った。

 二時間ごとに記憶を失って、そのたびに日記を見返して、忘れたことを取り戻す。

それを一日に何度も繰り返す。

 それはきっと、途方もなく大変で、怖いことだと思う。

 私が同じ立場なら、きっと不安でいっぱいになって、学校なんて来れないと思う。家から出る勇気すらないかもしれない。

 だけど美久は、家から出るどころか、いままで通り学校に行きたいと言った。

 いつも通りの生活を送っていたほうが、はやく治るかもしれないから。そう言って。

 そのとき、一人が声をあげた。

「迷惑なんかじゃないって!」

 美久がうつむきかけた顔をぱっと上げた。

「うんうん。困ったことがあったら助けるし」

「そのうち気づいたら戻ってるかもしれないしね」

「ありがとう、みんな」

 美久は目に涙を溜めて言った。

 目がじんと熱くなった。
 みんなびっくりしているのに、それでも前向きな言葉をかけてくれる。

『美久が学校に行くなら、全力でサポートするから』


『灯里がいてくれるなら安心だね』

 昨日の電話でのやりとりを思い出して、私は気を引き締めた。

 そうだ。美久が命がけで守ってくれた代わりに、今度は私が支えになるって決めたのだから。

 まだ不安でいっぱいだけれど、一人じゃない。
 助けてくれる人がいるんだと思ったら、少しだけ安心できた。
  

 ✣



「灯里、お昼いこっ!」

 チャイムが鳴るなり、美久が私の席に来て言った。

「ほんと、灯里と美久ってラブラブだよねー」

 隣の席のが茉優が私たちを見ながら笑う。

 茉優はいつも彼氏と学食で食べている。そっちのほうがよっぽどラブラブだと思うけれど。

「でしょー」

 美久が私の腕を組んでピースをする。

「ていうか美久の場合、早くお弁当食べたいだけでしょ」

「えへへ。バレた?」

 私たちはいつものように、音楽室に向かった。

 美久が一ヶ月ぶりに学校に来て、いろんなことが変わった。

 いちばんに変わったのは、周囲の反応だった。 

 みんな、避けたりしないで声をかけてくれる。

 心配する人も、いつも通りに接してくれる人も。

 だけど、美久に告白する人は、一人もいなくなった。

 いまの美久と付き合いたいと言う人は、誰もいなくなった。

 美久は昼休みをゆっくり過ごせていいって言うかもしれないけれど。

 だけどそう思うことすら、できないんだ。

「最近、おもしろい本読んだ?」

 美久が言った。

 美久はどちらかというと、小説より漫画派だ。しかもなぜかギャグ漫画しか読まない。

 それでも興味はあるのか、ときどきこの質問をする。

「うん。『六月の世界』っていう小説。おもしろいよ」

 私はバッグの中から文庫本を取り出して言った。

「へえー、どんな話?」

「六月のある日を何度もループする女の子の話。同じ日を繰り返しながら、出口を探すの」

「なんか……それって、いまのわたしみたいだね」

 美久が言って、そうかもしれない、と思った。

 六月に取り残されてしまった女の子。

 過去に戻ることも、進むこともできない。

 ずっと同じ時間を行き来している。

 でも、小説と違うのは、現実の時間はちゃんと進んでいるということ。

 世界じゃなくて、美久だけが一人、その中に閉じ込められてしまったこと。

 そっくり同じ世界を繰り返すのと、自分だけがそこに取り残されること。

 どちらが残酷なのだろう。


『美久ならどうする?』

『うーん……変わらないんじゃないかなあ』

『変わらない?』

『うん、だって、変わったことしたって、結局戻っちゃうんでしょ? だったらいつも通りにしてたほうがずっと楽しいよ、きっと』

 美久は、変わらないことを選んだ。

 いつも通り学校に来て、授業を受けて、音楽室でお弁当を食べる。

 当たり前だった日常を繰り返す。

 でも私には、無理にそうしているように見えた。

 まるでそうしなければいけないみたいに、線で描かれた同じ日をなぞっているように、私には見えた。

「……やっぱり、もう少し休んでたほうがよかったんじゃないかな」

 お弁当を食べながら、私は言った。

 あと一ヶ月で夏休みだ。学校に来るのは夏休みが明けてからでも、問題はないはずだった。

 こんなこと考えたくないけれどーー何をしても、二時間後には消えてしまうのだから。

「そうだよね。灯里には負担かけちゃうよね……ごめんね」

 美久が目を伏せて言った。

 朝のホームルームのあと、私は職員室に呼び出された。
 もちろん美久のことで。

 橋本先生もサポートするけれど、私にもなるべくそばについて見ていてほしいと頼まれた。いつもついていられるわけじゃないから、と。

「不安なの」

 美久がぽつりと言った。

「いつも通りのことをしてないと、不安でたまらなくなるの。病院にいても、家にいても、ずっと怖かった。このままどうなっちゃうんだろうって……だからせめて、はやく戻るように、何かしてたいの」

 美久も不安なんだ。そんな顔は少しも見せずに、みんなの前では笑っていたけれど。

 日記を見ないと数時間前に何をしていたのかわからないなんて……不安じゃないわけないよね。 

 だからね、と美久が顔をあげて、私を見た。

「二時間後には忘れちゃうけど、できる限りいままで通りでいたいんだ。ピアノも続けるつもり」

「そっか……すごいね」

 私がつぶやくと、ううん、と美久は首を振った。

「わたしはすごくなんかないよ。灯里がいるから前を向けるんだよ。だから、わたしが笑っていられるのは灯里のおかげ」

 そう言って、不安なんてどこにも感じさせない明るさで笑った。

 ズキリ、と胸が痛む。

 私のおかげなんて、言わないでほしい。

 こうなったのは、私のせいなのに。

「あっ、そうだ。灯里に渡したいものがあるの」

 美久がバッグの中を探る。

「あれ? ないなあ……ちゃんと入れたはずなのに」

「プレゼントなら、この前もらったよ。ほら、今日も持ってる」

 ほら、と私はバッグからつややかなピンクゴールドの腕時計を取り出して言った。

 学校ではつけることができないから、いつもポーチに入れて持ち歩いているのだ。

 電池はあえて入れていなかった。もらったときのまま、スペードみたいな形の針は、ずっと十二時を指したままだ。

「そっか。もう渡してたかあー。ちゃんと日記に書いとかないとね」

 美久がピンク色の日記帳を取り出して、

「灯里に腕時計を渡した、と」

 とペンで書いた。

「あっ、じゃあピアノは? もう聴いた?」

 私は一瞬止まって、ううん、と首を振る。

「まだ、聴いてないよ」

 とっさにそう言っていた。

 どうして嘘をついたのかわからない。

 でもなんとなく、美久がそう言ってほしそうに見えたから。

「ほんと? いっぱい練習したからそう言ってもえるとありがたいな」

 美久はえへへと笑って、ピアノの前に座った。

 鍵盤の上に手を置いて、息を吸う。音が流れ始める。

 その瞬間、あの瞬間の空気がまるごと戻ってきたみたいに、ありありと思い出す。

 夕方から雨が降るなんて思えないくらい、青く澄んだ空。昼間の日差しを浴びた白い音楽室。


『月光』の美しい音色を聴きながら、涙が浮かんだ。

 幻想的な夜の音色。楽しげに弾むような第二楽章。

 ーー美久は、夜を覚えていられないんだ。

 朝も夜も、美久の中では昼間のままなんだ。

 そこから進むことなく、何度も巻き戻って、同じ時間を繰り返してる。

 ピアノに集中していた美久が、私を見て目を丸くした。

「ええっ、灯里泣いてる?」

「泣いてない」

「号泣しながら言っても説得力ないよ?」

「ほっといて……」

 ずび、と鼻をすすりながら言う。

 でも、いいか。ここは音楽室だし。

 そのとき、扉がそろりと開いた。

「あの〜、入ってもいい? さっきからいたんだけど、なんか気まずくて」

 と、大地が気まずそうに顔を出す。

「気まずいなら入ってくるな!」

 私は泣き顔を見られたのが恥ずかしくて、あわてて後ろを向いた。



 ✣



「じゃあ、班に分かれてー」

 先生のかけ声で、六人ずつの班のメンバーで固まった。

 歴史の課題で、班ごとにテーマを決めて、調べものをまとめてレポートにすることになっている。

「あっ、美久のとこはあたしが調べることになったから、大丈夫だよ」

 美久が机に積んである資料の本を開こうとすると、茉優があわてて言った。

「そうだ。美久、絵描いてくれる? ここ、スペースあるからさ」

「了解っ!」

 美久ははりきって鉛筆を走らせた。

 事故以来、すべてが変わってしまった。

 昨日、美久と同じ班になった子に、グループを変えてほしいと頼まれた。

 私一緒のほうが、美久もやりやすいだろうから、という理由で。

 だけど、気を遣うような言葉とは裏腹に、一緒にいると疲れる、気が重い、という気持ちが、にじみ出ていた。

 まわりの反応も様々だった。

 あきらかに避けている人、気を遣って声をかけてくる人。先生は授業中、まるで美久がそこにいないように振る舞う。

 毎日のようにあった呼び出しも、ピタリとなくなった。

 人気者だった美久は、あの事故で、「問題のある子」になってしまったのだ。

「美久、あの、それって犬……?」

 梨奈が困惑気味の表情で言った。

「え? 織田信長だよ?」

 当たり前のように美久は言うけれど、どう見ても犬にしか見えない。それもかなり不細工な。どうやったら織田信長を犬っぽく描けるんだ。

 そうだった。美久の画力が致命的……」

 肩を落とす美久に、私はあわててフォローする。  

「そっ、そんなことないって。ほら、もうちょっと鼻を高くして、目をキリッとさせて、耳を小さくすれば、織田信長っぽくなるでしょ」

「あっ、ほんとだ。さすが灯里!」

「いや、この犬を織田信長にできるの天才かよ」

 なんとかなったことに安心しつつ、まあね、と私は笑った。

 美久が事故にあって、すべてが変わってしまったように感じていた。

 でも、変わらないものもある。そしてそれはきっと、私たち次第なんだ。



 
 ✣




 六月後半になって、本格的に梅雨に入った。
 朝は止んでいたけれど、昼からまた降りはじめて、授業が終わる頃にはいっそう激しさを増していた。

「俺も一緒に帰るよ。今日は店の手伝いないから」

 HRが終わるとすぐ、待ち構えていたように大地が教室にやってきた。

「森下さん、いい?」

 といつも通り美久にだけちゃんと確認して、

「うん、もちろん」

 と美久が笑って答える。

「私もいるんですけど?」
「灯里はいいだろ。帰るとこ同じだし」

 いつものやりとりなのに、不覚にもドキリとしてしまった。

 ーーいやいや、帰る場所同じって、同じ家じゃないから。向かいってだけだから!

「何やってんの?」

「……べつに」


 私は火照った顔を見られたくなくて、ふいと背けた。

 最近、大地はよく両親が経営する喫茶店の手伝いに入っている。

 バイトの代わりにお小遣い稼ぎをしているらしい。

 何かほしいものでもあるのかもしれない。

 一緒に帰るのは、久しぶりだった。

 学校でしょっちゅう会ってるのに、帰り道を歩くだけで緊張してしまう。

 美久は毎日、お母さんが学校の送り迎えをしている。途中で何かあったら危ないからだ。

 今日は美久のお母さんが用事で来られないからと、私が家まで送ることになっている。

 校舎を出て降り続く雨を前に、ああそうか、と今さらのように気づいた。

 雨だから、大地は心配してそう言ったんだ。
 事故の日も、雨が降っていたから。

「どうしよう。傘忘れちゃった。明日は雨って昨日の日記に書いてあったのに」

 昇降口まで来て、美久が困ったように言う。

「これ、美久の傘じゃない?」

 傘立てには、美久のピンク色の傘が立てかけてあった。
急に雨が降ったときのために、学校に予備の傘を置いている生徒はけっこういる。

「あっ、置き傘あったんだ。よかったぁ〜」

 美久はピンク色の傘を手にとって笑った。

「あ。俺も傘忘れた」

 と大地が手を挙げた。

「はあ? あんたは持ってきなさいよ。夕方雨予報だったでしょ」

「相変わらず俺にはきついな」

 大地の言葉に、自分で言っておいてズキンと胸が痛んだ。

 どうしてこんなかわいくない言い方しかできないんだろう、って自分でも嫌になる。

「……しょうがないなあ。折りたたみ二本あるから、はい」

 前の赤い傘は事故のときに折れてしまったから、まだ一度も使っていないほうの傘を差し出した。

「なんで二本も持ってるんだよ」

 大地はそう言いながら、ありがと、と笑って受け取った。 

 三十分ほど雨の中を歩いて、住宅街の一角にある美久の家に着いた。

 大きな家。白いタイル張りの、真四角の家だった。

 チャイムを押そうとしたとき、家の前に赤い車が停まった。

 ちょうど返ってきたところらしい美久のお母さんが私たちに気づいて会釈をする。

 美久のお母さんが車を停めて下りてきて、

「灯里ちゃん、わざわざ送ってくれてありがとう。ええと、そちらは……?」

 言いながら、大地のほうを向いた。

 途端に大地がぴんと背筋を伸ばして、

「初めまして! 隣のクラスの鈴村大地と申します。今後お見知り置きを!」

 と彼女の家に挨拶にでも来たかのようにがちがちに緊張しながら言った。

「大地くん、よろしくね。よかったらあがっていってね」

「はいいっ!」 
 大地の威勢のよさに、美久と美久のお母さんは一緒に笑った。

 うーん……やっぱりそっくりだ。

 家の中は全体的に白が多く、白い布張りの大きなソファには汚れひとつ見当たらなかった。

「大したおもてなしもできないけど、よかったらどうぞ」

 言いながら、クッキーが並んだお皿をテーブルに置いた。

「ではお言葉に甘えてお邪魔シマス!」

 無駄に威勢のいい大地に、まあ、ありがとう、と美久のお母さんは笑いながら、美久の隣に腰を下ろした。

「美久、今日は学校で何をしたの?」

「えっと、今日はね」

 美久が言いながら、ピンク色のノートを取り出す。

「歴史の授業でレポートを書いて、体育は苦手なバレーだった。でも灯里とペアで練習したのは楽しかったな。お昼は明音のお弁当をもらって、すっごくおいしかった」

 数時間前の自分のことを、美久はまるで友達のことのように話す。
「わたし、こんなことしてたんだ」
 なんて、おかしそうにときどき笑いながら。

「午後の授業はバレーで、灯里とペアで練習して楽しかった。掃除の時間はーー」

 美久の日記には、私がたくさん登場する。

 まるで専属のボディーガードみたいに、そばに張りついて動き回っている。 

 それは仕方のないことだった。ボディーガードとまでは言わなくても、学校では私が美久の見守り役みたいなものだから。


 日記を読み終わると、美久は日記帳をぱたんと閉じて、
「しまってくるね」
 と言って部屋を出ていった。

「これね、学校から帰ったら、毎日やってるのよ」

 美久の姿が見えなくなってから、美久のお母さんが言った。

「檜山先生に?」

 檜山先生の印象は、正直いってあまりよくなかった。

 どこか突き放すような言い方をするからだ。


『残念ですが、これ以上、病院でできることはありません』

 檜山先生はそう言った。

 そして、美久は退院することになった。

 何も正常には戻っていないのに。

 無理やり日常に戻れと言われた気がした。

『そんな……これからどうすればいいんですか』

 美久のお母さんは呆然としながら言った。

『ご自宅で安静にしてもらうしかないでしょう』

『安静にしていれば元に戻るんでしょうか』

『それは、私からは断定できません』

「あのいけ好かない医者、ほんっと腹立つ。一発殴ってやりたかったわ」

 美久のお母さんは、思い出して近くにあった紙をグシャリと握りしめた。

 見ると、病院からの請求書だった。

「お、お母さん落ち着いて……っ」
 私と大地があわててなだめる。

「追い出されるみたいに退院して、ほかの病院を探そうと思ったの。でもね、美久が嫌だって言うのよ。もうあんなふうに追い出されたくないって……」

 できるだけいつも通りにしていたいと言った美久。
 拒絶されるのは、辛い。

 病院にいられなくなって、学校に居場所を求めたんだ。

「できることなら、あの子の希望を叶えてあげたいのよ。もちろん全部できるわけじゃないし、私もいつもそばにいられるわけじゃない。だから、あなたたちには本当に感謝してる。あの子を支えてくれてありがとう」

 美久のお母さんは深く頭を下げて、改まって言った。

 そんな、と私が慌てて言うと、彼女は改めてお礼を言いたかったの、とほほ笑んだ。

「美久が学校から帰ってから、日記を通して今日の出来事を聞いていたら、美久がどれだけあなたたちに支えられているかわかる。たとえ本人が数時間後には忘れてしまったとしても、完全にゼロになるわけではないと思うの」

 美久のお母さんは事故以来、記憶に関する本をたくさん読んで、知識をつけているという。

「脳のリハビリのためには、怖がらずにたくさん動いて、できる範囲でいろんな経験をして、刺激を与えたほうがいいんですって。そのためには、どうしても周りで支えてくれる人が必要になる。だからこれからも美久のこと、迷惑をかけてしまうけど、どうか見守ってあげてください」

 美久のお母さんは震える声で言って、深く頭を下げた。
 その姿が、教室で、クラスメイトの前で頭を下げた美久の姿と重なって、胸が締めつけられた。

 そのとき、大地が勢いよく立ち上がった。

「お母さん、顔をあげてください」

 私は驚いて大地を見上げた。

「安心してください。俺たちが、全力で美久さんを守りますから」

 大地は迷いなく「俺たち」と言った。

 その一言で、雨が上がるみたいに、心の中が少しだけ晴れた気がしたんだ。

「何話してたの?」

 と戻ってきた美久が言った。

 ううん、と私はその声に救われた気持ちで首を振った。

「これからも頑張ろうって話してたの」

 と言うと、ふーん? と美久は不思議そうに首を傾げた。

 帰りは少し雨足が収まっていたものの、まだ雨は降り続けていた。

 美久のお母さんが送っていこうかと言ってくれたけれど、

「ありがとうございます。でも大丈夫です。傘ありますんで!」

 大地が折りがたみの傘を鞄から取り出して笑顔で返す。
「人の傘借りといて何をえらそうに」 

「あ、そうだった」

 と、照れたように言った。



 雨がポツポツと傘に当たる。

 二人並んで歩くのはいつぶりだろう。

 そんなに前のことじゃないはずなのに、ずいぶん久しぶりに感じた。

 濡れた自分の靴をを見つめながら歩く。

 何を話していいかわからなかった。

 こんなこと、前はなかったのに。


「あのさ、この前のことだけど」

 大地がいつになく真面目な口調で言った。

「灯里の言うとおり、やっぱり大事なことは、自分で言うべきだよな。俺が間違ってた」

 なんでいま、そういうこと言うの。

 また、あの日に引き戻されそうになる。

 間違っていたのは、私も同じ。

 自分の気持ちを伝えるのがどれだけ勇気がいることなのか、痛いほどわかる。

 その気持ちが強ければ強いほど、簡単に口にできなくなるんだって、知っている。

 俺さ、と大地が力を込めた声で言った。

「俺、信じてるよ。いつか森下さんがよくなるって。だから元に戻ったら、今度こそ、ちゃんと自分で告白するよ」

 本当に信じて疑わないまっすぐな目に、胸がぎゅっと締めつけられる。

 美久が事故にあって、いろいろなことが変わった。
 でも、大地は変わらなかった。
 いまも、まっすぐな気持ちのままなんだ。

「……そっか」

 ふいに泣きそうになって、飲み込んだ。

 泣いてる場合じゃない。

 強くならなきゃ。

 もっと、もっと、強くならなきゃ

 だからーー

「うん。私も、信じてる」 

 私も、うなずいてそう言った。




 ✣



 雨が上がって、からりとした快晴の放課後。

「プールだーっ!」

「プール掃除だけどねー」 
 クラス全員でプール掃除。毎年持ち回りで掃除をしていて、今年はうちのクラスの番らしい。

「おいおい誰だよプール掃除なんか引き当てたやつ……あ、俺だわ」

 橋本先生は一人で何かブツブツ言って落ち込んでいる。

「あっちー。俺はそこで休んでるから。あとはお前らに任せた」

 橋本先生は堂々と言い放って、ベンチに向かおうとした足をぴたりと止めた。

「あ、森下はきつそうなら無理しなくていいからな?」

 こんなところで倒れられたりしたら困る、という本音がだだ漏れだった。

「大丈夫です。体調は問題ないので」

 と美久はにっこり笑って言った。

 美久は負けず嫌いで、心配されると逆に意地でもやりたくなるタイプだった。

 橋本先生、美久の心に油を注いだだけのような……。

「先生、俺もプール掃除やらせてくださいッ!」

 と、いきなりフェンスの扉を開けて、ジャージに着替えた大地が入ってきた。

「ん? 君、うちのクラスじゃないよな?」

「どうしてもプール掃除がしたいんです」

「そうか。じゃ、よろしく頼むわ」

 橋本先生は手をひらひらとさせて、屋根つきベンチに仰向けになり、タオルを顔に乗せていびきをかきはじめた。

 ダメな大人の鑑のような先生だ。


「プールだーっ!」

 大地がバンザイして水の入っていないプールに飛び込んだ。

「あっつ! 足あっつ!」

「じゃあ水かけてやるよ」

 男子の一人が勢いよくホースの水を汰一にかけた。

 開始一分で全身びしょ濡れ。っていうか、全然掃除になってない。

「何しにきたのあいつ……」

 私は呆れて言った。

「あはは。やっぱり大地くん、おもしろいよね」

 美久が声をあげて笑った。

 そのまぶしいほどの笑顔に、そこにいる全員が目を奪われた。爆睡している橋本先生以外は。

「なんか、神々しいな……」

「ああ。女神だよな……」

 太陽の下、その眩しい笑顔に、男子たちは涙まで浮かべている。

 びしょ濡れの大地は照れ隠しのつもりなのか、突然、猛烈にデッキブラシをこすり始めた。

 小学生か、とツッコミたくなる。



 お調子者でヘタレなところは、小さい頃からちっとも変わっていない。

 呆れながらも、私はその姿をずっと見ていたいと思っていた。