チャイムが鳴って、スピーカーからクラシック音楽が流れ始めた。昼休みが始まる合図だ。
「灯里、お昼食べにいこっ」
美久が声を弾ませて言った。
「その前に美久、さっき呼び出されてなかった? 八組の山下くんに」
私が言うと、美久はあっ、という顔をした。
「そういえば、そうだった……」
完全に忘れてたな、これ。
「先行っとくね」
私は苦笑しながら、お弁当の入ったバッグを手にとった。それから、読みかけの文庫本も中に入れる。
音楽室の扉を開けて、真ん中の席に座った。文庫本のしおりが挟んであるページを開く。
美久が来るまで、続きを読んでいよう。
ページをめくると、たちまち物語の世界に引き込まれて、現実が遠のいていく。
いま読んでいるのは、現代を舞台にしたSF小説だった。
女の子がある出来事をきっかけに、一日を何度も繰り返すようになる。ループから抜け出すために必死に方法を探す話だ。
主人公は何度も問題にぶつかり、時間を遡りながら、その度に仲間と協力して解決していくのがおもしろくて、夢中でページをめくる。
読みながら、自分だったらどうするだろう、とつい妄想が膨らむ。
「お待たせ! お腹すいたあ〜っ」
扉が開いて、美久が入ってきた。
男子に呼出されて戻ってきたあとの第一声が「お腹すいた」って、女子高生としてどうなんだろうか。
まあ、美久らしいといえばそうなんだけど。
「おかえり」
私は本を閉じて机に伏せて置いた。
「もう、なんでお昼に呼び出すんだろう。自分の一方的な気持ちを主張するために人の貴重なお弁当タイムを奪うことに罪悪感は覚えないのかな」
美久が隣の席に座ってため息を吐く。
「みんなそんなにお弁当に情熱注いでないからね。それにうちの学校、昼休み長いし」
午後は授業中に居眠りをする生徒が多いという理由で、昼休みを長めにとっているらしい。
休み時間が長いと心の余裕も増えるか、この時間に美久が呼び出されることがやたらと多いのだった。
……が、本人の反応はこの通り。
食べるのが大好きな美久は、食事の時間を邪魔されると機嫌が悪くなるのだ。
猫みたいだな、と私はひそかに思っている。
「で、なんて返事したの?」
「えっと、ふつうにごめんなさいって……」
美久はモテる。こんなに告白される子が実在するんだってびっくりするくらい、ものすごくモテる。
サラサラの長い髪に色白の肌、モデルみたいに小さく整った顔立ち。黙っていれば『深窓の令嬢』なんて言葉がよく似合う美少女だ。しゃべるとそんな雰囲気はどこかにいってしまうのだけれど。
一年の頃より多少落ち着いたものの、その頻度は相変わらずだった。
一度や二度振られても諦めずに再チャレンジしてくる猛者もいるくらいだ。
「美久は優しいから。やんわりした言い方だと、相手もまだ希望あるって思うのかもね」
まあ、告白なんてされたこともない私には縁のない話なんだけど。
一度だけ、美久と歩いているときに、いきなり面と向かって「好きです付き合ってください」と言われたことならある。でも、おそらく私の姿は完全に視界からシャットアウトされていただろうから、ノーカウントだ。
「わたしも明音みたいにはっきり『人の貴重な昼休みを潰すなこのゴミ屑が』とか言えたらいいんだけどなあ」
「そんなこと言った覚えないし、そこまで言わなくていいと思うよ……?」
告白しただけでゴミ屑呼ばわりは哀れすぎる。
「あんまり興味持てないんだよね、そういうの。なんでみんなそんなに付き合いたいのかなあ」
美久はぽつりとつぶやいた。
私は何も返せなかった。
美久が恋愛に興味がないのは知っている。
男の子が苦手なのも。
だから、試しに付き合ってみたら、なんて無責任なことは言えない。
だけど、たとえ無理でも気持ちを伝えようとする人は、すごいと思う。
自分の気持ちを言葉にして、相手に伝えるって、勇気がいることだから。
「まあいいや。気を取り直してお弁当食べよー」
言いながら、美久はお弁当の包みをほどいた。
まあいいやの一言で片付けられた八組の山下くんに同情しながら、私も弁当箱を取り出した。
「いただきまーす」
美久は嬉しそうに言って、三段の弁当箱を一つずつ並べる。おにぎり、卵焼き、ミートボール、サラダにコロッケに野菜の肉巻きにパスタ。
さすがに毎日見ていると慣れたけれど、相変わらずすごい量だ。
美久のお弁当に比べると、私のはダイエット中の女子のお弁当にしか見えない。いたって普通の量なんだけど。
本当、その細い体のどこに入っているんだろう、と見るたびに不思議に思う。体重を気にしたことなんて、生まれてから一度もないんじゃないかな。
「何読んでたの?」
「ああ、これ? 『六月の世界』っていうSF小説。おもしろいよ」
「へえー、どんな話?」
「何度も同じ時間をループするの。もしそうなったら自分ならどうするかなって、考えちゃう」
美久ならどうする? そう尋ねると、
「うーん……変わらないんじゃないかなあ」
と言った。
「変わらない?」
「うん、だって、変わったことしたって、結局戻っちゃうんでしょ? だったらいつも通りにしてたほうがずっと楽しいよ、きっと」
「いや、百回くらい繰り返してたらさすがに飽きるでしょ」
「それもそうか」
美久は笑って言った。
いつの間にか、あんなにてんこ盛りだったお弁当箱が空っぽになっていた。
「あっ、そうだ」
美久は何かを思い出したように言って、お弁当箱をいそいそと片付け始めた。
そして、バッグの中から何かを取り出した。
サテン生地の白いリボンのついた、ピンク色のかわいらしい箱だ。
「灯里、誕生日おめでとう!」
「えっ、ありがとう」
今日ーー六月月三日日は、私の十七歳の誕生日だった。
「開けてもいい?」
「うん!」
するりとリボンをほどいて、箱を開ける。
「わ、かわいい」
中に入っていたのは、腕時計だった。
ピンクゴールドのベルトとケースに、真珠色の文字盤。
先がスペードみたいな形の針もかわいらしい。
腕にはめてみると、キラキラと光って、見慣れた自分の腕までなんだかいいものに思えてくる。
「ありがとう。大事に使うね」
美久はえへへ、と照れたように笑った。
「喜んでもらえてよかった。じつはね、もう一つプレゼントがあるの」
と立ち上がって、ピアノのほうに歩いていった。
グランドピアノの鍵盤蓋を開ける。
そして、長い指を鍵盤に置いて、なめらかに滑らせた。
ーーあ。この曲。
イントロの部分で、ピンときた。
この間、音楽の授業で習ったベートーヴェンの『月光』だ。
クラシックにはまるで詳しくないけれど、この曲は好きだな、と思った。ピアノを習っている美久の影響で、家でもいろんな人のピアノ動画を観たりしている。
ゆるやかな第一楽章から始まって、軽快な第ニ楽章、急速な第三楽章へとテンポが変わっていく。
美久が弾いているのは、その中の第二楽章だった。
私がいちばん好きなところ。どこか孤独感を感じさせる第一楽章とはうって変わって、第二楽章は月夜にダンスをするような、楽しげな感じがする。
その感じは、ベートーヴェンがこの曲を作った当時の背景を知って、さらに強くなった。
この曲はベートーヴェンが恋心を寄せる少女に贈った曲だそう。いつも額縁の中からしかめっ面でこっちを睨んでいるベートーヴェンが、スキップしながら月がきれいな夜に好きな人のもとへ向かう様子を想像すると、なんだかおかしかった。
結局、身分の違いからその恋は終わってしまうのだけれど、そんな悲しい結末を感じさせない美しいメロディーに、うっとりしてしまう。
美久の指が鍵盤の上をリズミカルに滑る。
なめらかに、そして跳ねるように。
この曲も好きだけれど、私は美久のピアノを聴くのが大好きだった。
幼い頃からピアノを習っていて、コンクールでいくつも賞をとっている美久は、誰もが認める才能を持っている。
これからもっとその才能が花開いていくんだろうなって想像させる。
曲が終わって、最後の音がゆっくりと消えていく。
私はしばらく、じいんとその余韻に浸っていた。
ふう、と美久が息を吐いて鍵盤から指を離した。
「前に灯里がこの曲好きって言ってたから、練習したんだ」
美久の声に、ようやく我に返った。
「すっごい、完璧。しかも全部覚えてるの?」
「じつは、昔練習したことがあったの。楽譜覚えるのは得意なんだ。暗譜は全然できるようにならないんだけどね」
暗譜というのは、楽譜を見ながらピアノを弾くことだ。
恥ずかしそうに言うけれど、暗譜ができなくたって、この長い曲を覚えれるだけで、素人からしたら十分すごいと思う。
「ありがとー美久。大好きっ!」
「わたしもー」
抱き合ってはしゃいでいると、扉がガラリと開いた。
「うわ、なにイチャイチャしてるんだよ」
入ってくるなり、大地が言った。
「悪い?」
「や、全然悪くない。むしろもっと見たいかも……」
「それはそれでキモいから。で、なんの用?」
「えー、なんだっけ。忘れた」
大地は首のうしろをさすりながら笑う。
……あー、もう、わかりやすすぎ。
私たちのやりとりを見ていた美久が、ぷっと笑った。
「大地くんて、おもしろいね」
「そ、そう?」
嬉しそうに顔をゆるめる大地に、イラッとする。
「バカって意味でね」
イラッとついでに、余計なことを言ってしまう。
「へいへい」
大地はつまらなさそうに下唇を突き出した。
大地がわざわざ五階にある音楽室に来る理由。そんなの、聞かなくてもわかる。
美久と話したいからだ。
隣のクラスの大地は、たまに用事があるふりをして昼休みにここに来る。
一緒にお弁当を食べるんじゃなくあえて終わりがけに来るのは、緊張しすぎて間がもたないからだろう。
しかも一人のときの美久にはまともに話しかけられない筋金入りのヘタレっぷりだ。
わかりやすすぎて、イライラする。
いっそ早く告白して、いさぎよく振られればいいのに。
最近、よくそう思う。
でも……
ずっと見ていたからわかるんだ。
大地が美久のことばかり見てること。
行動がすべて裏目にでるようなヘタレだけど、それでも頑張って近づこうとしてるんだってこと。
そして、本気で美久のことが好きなんだってこと。
わかるからこそ、余計に辛くなる。
知らなかった。
好きな人の視界の中心に自分がいないって、こんなに辛いことなんだって。
私は小さい頃から、本を読むのが好きだった。
とくに小説を読んでいるときの、自分が主人公になったみたいな感じが好きだった。
絵も音もない文字だけの世界では、私は勇敢なヒーローにも、かわいいお姫様にだってなれた。
だけど、現実は違う。
美久を見ていると、物語のヒロインになる女の子って、こういう子なんだろうな、と思う。
敵にさらわれたり、トラブルに巻き込まれたりしながら、最終的にはヒーローが助けてくれる、そんな女の子。
かわいくて、素直で、よく笑って、ピアノの才能まであって。
私じゃどう頑張ったって、美久みたいにはなれない。
主人公には絶対になれない脇役だから。
せいぜいヒロインの取り巻きとか、友人Aとかが関の山だ。
大地の好きな人が、美久じゃなければよかったのに。
それならきっと、思いっきり嫌いになれたのに。
あんな子のどこがいいの、とか、心のなかで愚痴っていたかもしれない。
でも、相手が美久じゃ、文句も言えない。
だって、こんな完璧な女の子、憎みようがないでしょ。
それにーー美久は男子と積極的に話したがらないけれど、大地には心を開いているように見える。
まあ、男子と思われてないだけかもしれないけれど。
むしろその可能性のほうが大きいけれど。
二人といると、落ち着くし楽しい。
でも、二人といると、思ってしまうんだ。
私、ここにいないほうがいいんじゃないかなって。
予鈴が鳴った。そろそろ戻らないと。
「灯里、ちょっといい?」
音楽室を出るとき、大地に呼び止められた。
いつもと違う声のトーンに思わずドキリとしながら振り返ると、大地がいつになく深妙な顔をしていた。
少し迷ってから、あのさ、と切り出した。
「放課後、中庭に来てって伝えてくれない?……森下さんに」
「え」
時間が止まった気がした。
私は何も言えずに、ただ大地を見ていた。
開いたドアの向こうでは、美久がちょっと振り返って、先行くねー、と階段のほうに歩いていった。
「告白、しようと思うんだ」
聞いてもいないのに、大地は緊張を浮かべながら言った。
そんなの、わざわざ私に言わなくたっていいのに。
ああ、そうか。自分じゃ言えないから、私に頼んでるのか。
「そっか」
私は呆然と音楽室の扉の前で立ちつくしながら、言った。
そしてなんとか、言葉を絞り出した。
「わかった、言っとく。うまくいくといいね」
私、ちゃんと笑えてる?
ちゃんと応援してるって顔してる?
引きつってない?
ーーお人好し。
声になるのは、心にもない言葉だけ。
本当はちっとも、そんなこと思ってないくせに。
応援どころか、さっさと振られればいいって思ってるのに。
「まじ? ありがと灯里!」
と大地は一瞬で顔を輝かせて言った。
私は苦笑しながら、うなずいた。
……ずるいよ。
そんなふうに笑われたら、力になりたくなってしまう。
自分が傷つくだけだとしても、いいよって言ってしまう。
応援なんて、できるわけない。
告白なんて、勝手にすればいいじゃん。
いちいち私を通さないでよ。
私はマネージャーか何かか?
それくらい自分で言ってよ。
そう思うのに、私は何一つ本当の気持ちを言えない。
✣
私と大地は、幼稚園の頃からの幼馴染だった。
家が向かいにあって、親同士も仲良し。
大地のお父さんが家の一階で喫茶店をやっていて、よく学校帰りに寄り道をして、サンドイッチやジュースをごちそうになった。
小さい頃の大地は、私より背が小さくて、泣き虫だった。
転んでは泣いて、いじめられては泣いて、ペットのインコを窓からうっかり逃がしてしまったときも泣いていた。
そのたびに私はよしよしと頭をなでてなぐさめていた。
私には三つ下の弟がいるのだけれど、弟が二人いるような感じだった。
そのちっちゃかった大地が、中学に入って急に背が伸び始めて、声が低くなって、いきなり男っぽくなった。
あっという間に私の背を抜かして、そして全然泣かなくなった。
それだけでも十分戸惑っていたのに、高校に入るとさらに身長が伸びて、見上げるほどになって。
いつからかなんて覚えていないくらい自然に、私は大地を意識するようになった。
だけど、いちばん近くにいた幼馴染を意識し始めたからって、どうしたらいいのかなんてわからなかった。
もっと一緒にいたいような、早くどこかに行ってほしいような、複雑な気持ちだった。
いまじゃ三十センチくらいある身長差も、がっしりとした肩幅や首すじも、一瞬知らない人に見えるくらい、どんどん変わっていく。
これからもっと変わっていくのかもしれない。
そんなの、想像できなかった。
大地は大地なのに。
意識し始めたら、その気持ちはどんどん大きくなって、もう無視なんてできなくなった。
でも、この気持ちを口にすることはできなかった。
大地の気持ちが私と同じじゃないことは、最初からわかっていたから。
大地にとって私は、ただの幼馴染なんだ。
これからも、これからもずっと。
それ以上にも、それ以下にもならない。
勇気を出して伝えてぎこちなくなってしまうくらいなら、いまのままのほうがずっといい。
だけど、もしかしたらーーほんの少しの可能性を、考えてしまう。
もしかしたら、何かのきっかけで振り向いてくれるかもしれない。
いまは無理でも、いつかは。
でも、待っているだけじゃ、ダメだったんだ。
ひそかに抱いていた期待は、高校に入学してすぐに、あっさりと砕かれてしまった。
その女の子が教室に入ってきたとき、私は目を奪われた。
サラサラの長い髪。モデルみたいに小さな顔。大きな茶色の瞳。
こんな女の子が本当にいるんだって、思わず見惚れてしまうくらい、かわいい女の子だった。
私だけじゃなく、クラスメイトの視線が美久に集中していた。
だけどーー
私はそのとき、大地を見ていた。
好きな人が、自分じゃないほかの誰かを好きになる瞬間を。
あ、だめだ、と思った。
あんな完璧な女の子、勝てっこない。
戦わずして負ける、不戦敗だ。
好きな人の視界の真ん中に、私はいない。
真ん中どころか、視界にすら入れない。
水の中にいるみたいに、もがけばもがくほど苦しくなる。
どうしようもなくて、苛立つ。
二年生になってわかりやすく落ち込んでいたけれど、大地は諦めずになんとかして関わりを持とうと頑張っている。
美久に対してまっすぐな気持ちをぶつけている大地を見ると、苛立つ反面、すごいな、とも思う。
本当のヘタレは大地じゃなくて、失敗が怖くて外側から眺めているだけの私だった。
✣
『放課後、中庭に来てって伝えといてくれる?……森下さんに』
大地の言葉を、頭の中で繰り返す。
言わなきゃ。
だけどそう思えば思うほど、言えなくなる。
大地はずるい。
自分で言う勇気がないからって、私に押しつけて。
私の気持ちにまったく気づいてないから、そんなことが言えるんだ。
だけど、わかったって言ってしまったからには、言わないと。
何度も言いかけては口を閉じる。そんなことを繰り返しているうちに、放課後になってしまった。
「……あのさ、美久」
「ん?」
美久がキョトンとして目を瞬かせる。
「あの、ね」
絞り出すように声を出す。
ただ、一言、伝えればいいだけ。
『大地が中庭で待ってるって』
ただそれだけで、私の役目は終わり。
なのにその一言が、どうしても言えなかった。
「……大地のこと、どう思ってる?」
「大地くん?」
キョトンとする美久に、うん、と私はうなずいた。
「おもしろいし、いい人だと思うよ」
「そ、そっか」
「大地くんがどうしたの?」
さっさと告白して、振られればいい。
そう思っていた。
でも、もし、そうならなかったら?
美久と大地が付き合うことになったらーー
私、どうすればいいの。
「ううん。なんでもない」
私は首を振った。代わりに、
「あ、そうだ。ほしい本があるんだけど、本屋に付き合ってくれない?」
嘘だった。
新しい本は、読んでいる本を読み終わってから買うことにしているから。
用なんてなかったのに、とっさにそう言っていた。
「うん、いいよー。あ、そういえば私も新しいノートがほしかったんだ」
何も知らない美久の顔を見ながら、真っ白な紙に墨を垂らしたように、自分の心が黒く染まっていくのを感じた。
隣の教室は、まだホームルームをやっている。
窓は閉まっていて、奥のほうにいるはずの大地の姿は見えなかった。
見えないけれど、終わるのをそわそわしながら待っているのがわかる。
ーーごめん、大地。
やっぱり私、応援できない。
校門を出てから、大地にメッセージを送った。
『美久、今日は予定あるから行けないって。
それに、やっぱりこういうのは自分で言ったほうがいいと思う』
送ってから、最低だ、と思う。
自分が傷つかないための、意地汚い、弱い嘘。
こんなことに意味はないかもしれないけれど。
今日の出来事を明日に延ばすだけかもしれないけれど。
私にとっては、ほかに方法がないギリギリの延命措置だった。
ぽつり、と頭の上に冷たい滴が落ちてきた。
「うそ。雨降ってきたよ……」
空からぽつりと滴が落ちて、頭を濡らした。
かと思うと、一気に雨足が強くなってきた。
「ええー、さっきあんなに晴れてたのに」
美久がそう言いながら、バッグを傘代わりに頭の上にかざす。
「大丈夫。こういうときのために、傘二本持ってるから」
私はそう言って、折りたたみ傘を二本バッグから取り出した。
「えっ、ありがとう。灯里、準備よすぎだよ」
「もうすぐ梅雨だしね。傘は何本あったっていいの」
駅前の本屋の前の、大きな交差点で赤信号になって止まった。
ふたり並んで横断歩道の前に立つ。
「あっ!そういえば今日『ギャグ曜日』の最新刊が出たんだった。それもあったら買おうっと」
美久が思い出したように声を弾ませる。
「あの変なギャグ漫画、まだやってたの?」
「変って失礼な。大人気連載中だよ。今年で十周年なんだから」
「へー。それはすごいすごい」
「灯里も読んでよー。最近ギャグセンスに磨きがかかってるんだから」
「ほんとに……?」
そんな会話をしているうちに信号が変わった。横断歩道を渡ろうとした、そのときだった。
「ーー灯里ッ!」
美久の声が飛んできた。
ーーえっ?
その瞬間。
目の前で、美久の体が宙に浮いた。
頭が真っ白になった。なにが起こっているのだろう。
激しいブレーキ音。
ドンッ、という衝撃音。
トラックから青ざめた男の人が出てきて、あっという間に人だかりができた。
我に返って立ち上がった。
「美久……っ!」
人混みをかき分けて、美久のもとに駆け寄る。
雨の交差点。横断歩道の真ん中に、人が横たわっている。
道路に転がる潰れた赤い傘。
雨に混じって、赤が白線をじわりと染めていく。
倒れているのは美久だ。それは明らかなのに、自分の目が信じられなかった。
うそだと言ってほしかった。
でも、誰もそんなことは言ってくれない。
横断歩道の上に横たわった美久がぼんやりと私を見て、ゆっくり、手を伸ばした。
「ねえ、美久……」
美久が、小さく口を動かした。
私は、心臓をわし掴みにされた気がした。
『う そ つ き』
そう言ったように見えたから。
救急車がサイレンとともにやってきて、数人がかりで美久を担架に乗せた。
ほかに同乗する人がいなかったから、私も一緒に救急車に乗ることになった。
病院に着くまでの時間が永遠に思えた。
だけどそんなの、まだ生ぬるかったのだと、後になって知ることになる。
その日から、美久の時間は止まってしまった。
そして私もーー
壊れた時計の針みたいに、止まったままだ。

