「ではそのスケジュールで。よろしくお願いいたします」
そう言って、電話を切った。
スケジュール表に予定を記入して、椅子の背にもたれた。
今日はとくに多忙だった。
朝から担当している作家さんとの打ち合わせが二件、装画を担当するイラストレーターさんの打診、それから新しい企画の会議に資料作り…
まだまだやることは山積みだけど、時計に目をやるともう定時を過ぎている。
そろそろ行かなくては、とパソコンの電源を落とす。
私はいま、出版社の文芸部で働いている。
大学を卒業した後、憧れの出版社に就職して、今年で五年目になる。くじけそうになることは多々あるけれど、去年初めて自分が関わった作品がヒットになり、ようやく仕事で自信が持てるようになってきた。
最近では担当する作家も増えてきて、毎日目が回るほどの忙しさだけど、疲れと同じくらい、充実感で満たされている。
なんといっても、大好きな小説の仕事に関われているのだ。自分が手がけた作品が、書店に並んで、たくさんの人の手に渡る。そのためなら疲れている暇なんてなかった。
「海野さん、おつかれー。金曜日だし、軽く飲みに行かない?」
普段から目をかけてくれる先輩社員が声をかけてきた。
新人の私に仕事のノウハウを教えてくれた、憧れの先輩だ。普段なら二つ返事で行きたいところだけど、
「ごめんなさい。今日は予定があるんです」
と断った。
「お、なになに、もしかしてデート?」
「そんなんじゃないですよ。でも、大切な人との約束です」
「えー、意味深だなあ」
そんな会話をしてから、会社を後にした。
六月。もうすぐ梅雨入りの時期だ。雨じゃなくてよかった、と夕暮れの空を見上げてほっとした。
早足で駅まで向かう。週末の駅前は街へ繰り出す人たちでいっぱいで、人混みをかき分けてやってきた電車に乗り込んだ。
本当は朝からずっと、落ち着かなかった。
打ち合わせ中も、会議中も、気を抜くとそのことばかり考えてしまいそうになった。
冷静に仕事をこなせた自分に拍手したい気分だ。
十年ぶりの再会だった。
再会といっても、直接話すことはできないかもしれないけれど。それでも、よかった。
三ヶ月前、チケットが届いた。
ピアノコンサートのチケットだった。
淡いピンク色の封筒に、チケットが一枚と、短い手紙が同封されていた。
『海野灯里様
お久しぶりです。お元気ですか。
突然の手紙を失礼します。
六月にピアノコンサートを開催することになりました。
ご都合が合えば来てもらえると嬉しいです。
会場でお待ちしています。
園原美久』
手書きのその文字を見た瞬間、懐かしさがこみ上げてきた。
ーー美久。
数年前から、テレビや雑誌やネット、いろんなところでその名前を見かけるようになった。
画面の向こうで穏やかにほほ笑む美久は、洗練された美しい女性になっていた。
いまではもう、誰もが認める世界的なピアニストだ。
美久は、自分の実力で、夢を叶えたのだ。
電車の窓をぼんやりと眺めながら、十年前のことを思い出す。
高校二年の十一月。
学園祭が終わった後、美久は突然、姿を消した。
私の前から、学校から、この街から。
どこを探しても見つからなかった。
美久がいなくなってから、私は一度だけ、檜山先生に会いに行った。
どうしてもわからないことがあったから。
『美久が嘘をついているってこと、どうして美久の親に言わなかったんですか?』
そんな大事なことは、私よりもまず、美久の両親に言うべきだと思った。
『彼女がそれを望んでいないことがわかったからだ。彼女の嘘は、彼女が自分を守るために作り上げた世界だ。僕にはそう思えたから、言わなかった』
『自分を守るため……?』
『幼少期の家族との関係から愛着障害を生じ、対人関係の不安定さや自己肯定感の低さにつながることがある。彼女の父親は、子供に関心を持っていないようだった。おそらく彼女の嘘は、もっと前から始まっていたのではないかと思う。彼女は両親の気を引くために嘘をつき始めたのではないかと』
本当のことは彼女にしかわからないが、と檜山先生は付け足した。
その後、美久の両親が離婚したことを人づてに知った。
全然、知らなかった。
私が知っていた美久は、いつも笑っていたから。
明るくて、可愛くて、人気者で。暗い影なんて見せなかった。
だけどあの事故があってから、何かが狂ってしまった。
『ときどき、どこにいるかわからなくなるの』
泣きそうにそうつぶやいた美久の顔を、いまでもよく覚えている。
あのときの言葉は、嘘じゃないような気がした。
人混みの中、美久は本当に一人ぼっちでそこに立っているように見えた。
本当のことは、いまとなってはわからないけれど。
美久は嘘をついた。
ショックだった。何を信じればいいのかわからなくなった。
でも、美久は私に教えてくれた。
いつも脇役だと思っていた私にも、魅力があるってこと。
『灯里は自分の魅力を知らなすぎるよ』
そんなことを言われたのは初めてだった。
いつも誰かの影だと思っていた私に、誰かに好きになってもらえる魅力があるなんて、考えたこともなかった。
あの日、学園祭の夜。
私は大地に告白した。
ずっと言えなかった気持ちを、このままずっと言えないかもしれないとすら思っていた気持ちを、いま言わなきゃ、と思った。
いま言わなかったら、きっとまた、言えなくなってしまう。そう思ったから。
大地はびっくりして、固まっていた。
それから急に慌てだした。
『えっ? えっ? うそ? ええええ?』
本当に私の気持ちには微塵も気づいていなかったらしい。
『えっ、これドッキリ?』
『そんなわけないでしょ』
『じゃあ、ほんとに……?』
『ほんとに』
『えええ? い、いつから?』
『そんなの覚えてないよ』
『そっかあああ〜』
大地はそう言って、顔を覆ったり頭を抱えたり、挙動不審もいいところだった。
そして、しばらくして落ち着いてから、言った。
『ごめん、俺、全然気づいてなくて、灯里にひどいこと言った』
『いいよ。気づいてないのはわかってたし』
『うん……』
大地は首のうしろを押さえながら続けた。
『俺、いま本気で料理のこと勉強しててさ、バイトしまくってお金も溜めてる。もちろんそれだけじゃ全然足りないけど、やっと父さんに認めてもらったんだ。卒業したら留学して、しばらく帰ってこられないと思う』
だからーー
『ごめんな』
大地らしい、まっすぐで、誠実な返事だった。
いつも一生懸命な大地が、真剣に考えてだした答えだから。
誠実だからこそ、私がどう頑張ったってその気持ちが揺らぐことはないって、わかった。
『うん』
私はうなずいて言った。
言ったことを、後悔はしなかった。
『大地の夢、応援してるよ』
どこにいても。遠く離れてしまっても。
大好きな人の夢を応援したい。
心からそう思えたんだ。
大地は卒業後、宣言通りフランスに留学した。
たまに連絡をとるけれど、相変わらず忙しい日々を送っているようだった。
『いつか自分の店を持ちたい』
その夢は、もう叶ったのだろうか。
何年かかっても、叶ったらいいなと思う。
私もいま、したいことをしている。
本を出版して、たくさんの人に知ってもらうこと。
そのお手伝いをすること。
思えば編集者の仕事は、ずっと脇役だと思っていた私にはぴったりな気がした。
自分の好きな作品を、そばで見守りながら、全力で推せるのだから。
脇役だっていいじゃないか。
そう思うと、心が前よりずっと軽くなった気がしたのだ。
ふいに腕につけている時計に目を落とす。
十七歳の誕生日に美久にもらった、ピンクゴールドの時計。
定期的に磨いているおかげで、当時と同じ輝きを保っている。
あの日ーー十年前の六月に止まってしまった時間は、いまは正確に時を刻んでいる。
道はそれぞれ違うけれど。
着実に、前に進んでいる。そう思えた。
電車を降りて、会場へと急ぐ。
会場にはすでに人が集まっていて、続々と中に吸い込まれていく。
私はチケットを出して、ホールの中に入った。
段になったたくさんの席が並ぶ、大きなホールだった。
こんな大きな会場で演奏できるなんて、本当にすごい。
高校のとき、音楽室でピアノを弾いていた美久を思い出して、演奏を聴く前からもう涙ぐんでしまう。
私の席は、前のほうの、ステージがよく見える場所だった。
舞台の中心に置かれたどっしりとしたグランドピアノが、天井の照明に照らされて煌々と輝いている。
席はほとんど埋まっていて、もうすぐ始まる時間になった。
隣の席だけが、直前になってもぽつんと空いていた。
急用でもできたのかな、と見知らぬ人の心配をしていると、
「すみません、通してもらえますか」
と、慌ただしくやってきた人がいた。
背の高い、男の人ーー
顔を上げて、目を見開いた。
「あ」
「あ」
その人も私に気づいて、驚いた顔をした。
そこにいたのは、大地だった。
かっちりとしたスーツに身を包んだ大地は、なんだか知らない人みたいで、だけど隣に座った瞬間、ふっと顔を緩ませた。
「久しぶり」
そう言って笑った顔を、私はよく知っていた。
「うん。久しぶり」
私もそう言って笑った。
「美久から招待状がきて……」
「俺も。じつはさ、もうすぐこっちで店を出すことになったんだ」
「えっ、ほんと?」
「ああ。だいぶ長くかかったけど。そしたら、来てくれる?」
「ーーもちろん」
十年が経って、見た目も中身も、あの頃とは違う。
もうとっくに、大人になったと思っていたのに。
高校生に戻ったみたいに、トクン、と胸が鳴った。
ここからまた、何かが始まる予感がした。
幕が上がって、会場がしんと静まり返った。
美しいドレスに身を包んだ美久がゆっくりと歩いてくる。
礼をして、ピアノの前に座る。
鍵盤に指を置いて、ホールに美しい音が響き渡った。

