「ねえ、見て見て!」
朝、教室に入ると、何やらみんなが騒いでいた。
その手にあるのは、いかにもゴシップが載っていそうな雑誌だった。
見たことのないマイナーな雑誌だけれど、その名前に見覚えがあった。
あ、と思い出した。あの記者が言っていた雑誌だ。
もらった名刺にも名前がしっかり書いてあった。
「これ、美久のことだよね?」
「やば、雑誌に載ってんじゃん!」
記事には、合唱コンクールの写真だった。
映っている生徒の顔はぼかしてあるけれど、ピアノを弾いている美久のシルエットははっきりとわかった。
「すっかり有名人だよねー。やっぱり、注目されて嬉しかったりする?」
一人が美久に話を振った。
「えっと……」
美久が困ったように笑った。
「やめなよ。そうやっておもしろがるの」
私は思わず、間に入って言った。
「べつにいいじゃん。これくらい」
盛り上がっていた子たちが、不満そうに雑誌を閉じた。
「わたしは気にしてないよ。でも、覚えてないことが書いてあるのって、ちょっと不思議な気分」
美久が笑って言った。
ちょっとした一言に、胸の奥が嫌な感じにざわめく。
美久の言葉をどこまで信じればいいかわからなくなる。
『森下さんがその曲を前から知っていたなんてことは、あるはずがないんだよ。これがどういうことかわかるかな』
あの記者はそう言った。
『彼女の記憶は、とっくに正常に戻っているはずだ』
と檜山先生は言った。
二人の言葉を信じるならーー
美久は、嘘をついているのかもしれない。
だけど、やっぱりそんなの信じられないし、私は、美久の言葉を信じたかった。
✣
「えー、今月末は学園祭がある。昼の部は模擬店やら劇やらいろいろやって、夜は後夜祭でダンスがあるらしい。まあ、勝手に決めて勝手にやってくれ」
織田先生が心底めんどくさそうに言う。
いつもながら適当だなあ……。
そんなわけで、投票の結果、定番のカフェをやることになった。
「あ、じゃあさ」
大地が手を挙げて言う。
「ただのカフェじゃつまんないからさ、漫画喫茶とかどう? それぞれ自分が好きな漫画持ち寄って」
それいいじゃん、とみんなが賛同した。
「でも漫画読んでたら回転率悪くならない?」
「いや、むしろそっちのが楽でいいじゃん」
「それが目的かよ!」
たしかに、それはちょっとおもしろそうかも。
そういえば、大地はどんなのが好きなんだろう。
好きな本とか、漫画とか、音楽とか。
最近、そういう他愛もない話を全然していないような気がした。
✣
学園祭当日。
ロッカーを全部空にしてそれぞれ持ち寄った漫画を並べ、さらに手作りの本棚にもずらりと漫画や雑誌が並んでいる。
バトル漫画や恋愛もの、サスペンスに週刊誌まで。本好きの私には壮観だ。
グルメ漫画は大地が持ってきたものだ。
私は最近ハマっているホラー漫画。ギャグ漫画が全巻そろっているのは、美久だ。
「いい! 漫喫っぽい!」
「暇だったら席で漫画読んでよー」
「いや仕事しろよ」
なんて、始まる前はのんきに言っていたのだけれど。
「漫画喫茶で一時間待ちとかうそでしょ……?」
楽そうでいいじゃん、なんて言っている場合じゃなかった。
教室の前には、開始直後から長蛇の列ができている。
目当てはほぼ、美久だ。
噂の記憶喪失の美少女がいる、と注目を集めに集めて、学校の外からも予想以上の見物人が押し寄せてくる事態に。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
美久が笑顔で言う。
「アイスコーヒーで!」
「オレンジジュースで!」
「これもう絶対優勝でしょ……」
梨奈が早くもぐったりして言った。
「優勝賞品、校長のサイン入りTシャツだっけ」
「全然いらないんですけどお〜」
愚痴を吐きながらも機械のようにひたすらドリンクを注ぎ続けているうちに、あっという間にお昼になった。
「灯里、休憩いかね?」
ふいに大地が声をかけてきて、ドキッとした。
「え、でも……」
休憩時間は美久と一緒に回る約束をしていた。
「行ってきたよ」
いつの間にか後ろに立っていた美久が、顔を出して言った。
「でも……」
「わたしは全然大丈夫。楽しんできて。ねっ!」
そう言われて、私はじゃあ、とうなずいた。
大地と二人で、賑やかな廊下を歩く。
カラフルな風船や看板で彩られた教室。いつもと違う風景。
まさか大地と一緒に回れるなんて、思ってもみなかった。
隣を歩いているだけで、心臓がはち切れそうなくらい緊張していた。
そんな私におかまいなく、大地はあちこちの教室に吸い寄せられるように入って、お好み焼きやクレープやポテトをおいしそうに食べている。
「このポテト、サクサクでうまいな。ほら」
ポテトの入ったカップを差し出されて、
「ありがとう……」
とつまんだ。
「うん、おいしい」
「だろ?」
にっと笑った顔にときめいてしまう。
なんで私を誘ったんだろう。
ただの気まぐれだよね。そうに決まってる。
だって、大地が好きなのは、美久だから。
でも……いまは、どうなんだろう。
もう、吹っ切れたのかな。
私はきっと、できない。
たとえ振られたとしても、こんなに近くにいるから。
いつからかわからないくらい、ずっと好きだったから。
この気持ちをすぐに消してしまうことなんて、きっとーー。
渡り廊下を通って体育館の前まで来たとき、
「灯里、なんかあっただろ」
大地がいきなり振り返って言った。
「え?」
じっと見つめられて、ドキリとする。
体育館の中では、演劇部が劇をやっている最中だった。
よく通る声が外まで響いている。
「な、なんで」
「なんでって、様子変だったから。落ち着きないっていうか、何か隠してるっていうか、何か言いたそうだけど言えなくて悶々としてるっていうか……」
「え、なに。大地、読心術とか使えるの?」
そう言うと、大地はぶはっと吹き出した。
「読心術ってなんだよ。灯里のことならわかるよ」
大地が言う。優しい声に、トクンと胸が鳴った。
「……なにそれ。どういう意味」
私の気持ちにはこれっぽっちも気づかないくせに、なんでそういうところだけ鋭いの。
「森下さんのこと?」
それも、わかっているみたいだ。
私はうなずく代わりに聞いた。
「もし……もしもの話なんだけど」
「うん」
「美久が、嘘ついてるかもしれなかったら、どうする?」
「嘘?」
大地が目を丸くする。
「もし、記憶が戻ってるのに戻ってないふりをしてたら……どうする?」
私、いま、最低なこと言ってる。
親友を疑うようなこと。
だけど、一度疑ってしまったら、止まらなかった。
こんな最低な自分をさらけ出せるのは、大地だけだった。
「うーん。本人に聞く、かな」
大地は少し考えて、言った。
「だって聞かなきゃ、何もわかんないだろ。なんで嘘ついたのか。何か、理由があるかもしれないし」
はっとした。
理由ーーそうだ。嘘をついているとしたら、そこには何か理由があるはずだから。
「そっか……ありがと」
「うん、ってたいしたこと言ってないけど」
「十分だよ」
そうだ。そうだよ。
あの記者の言葉でも、檜山先生の言葉でもない。
誰の言葉より、まずは美久の言葉を聞くべきだったんだ。
✣
夕方になる頃には、三日間くらいずっと動き続けていたんじゃないか思うくらい一気に疲れが押し寄せてきた。
後夜祭がはじまるのでグラウンドに出てくださいという放送に、疲れきった顔で片付けをしていたクラスメイトたちが顔を上げた。
「片付けだいたい終わったし行こー」
「誰と踊る?」
みんな一気に疲れが吹き飛んだように、楽しげに話しながら教室を出ていった。
「灯里、わたしたちもいこっ」
私の手を引こうとする美久の手を、とっさに振り払ってしまった。
「あ……ごめん。行こっか」
私はぎこちなく笑って立ち上がった。
『聞かなきゃ、何もわかんないだろ』
そうだよね。聞かなきゃ。
いまなら、聞ける。
「美久、あのさ」
「どうしたの? なんか変だよ?」
「……ううん。なんでもないよ」
校庭にはほとんどの生徒が集まっていて、楽しげな音楽が始まっていた。
あえて真ん中のほうに行った。生徒たちがたくさん集まっているところへ。
もうすぐ六時半。
美久の記憶が、切り替わる時間。
六月のあの日に、戻る時間。
もし美久が、嘘をついていないのならーー。
その瞬間、突然わけもわからず人混みの中に放り込まれて、混乱するだろう。
「ごめんね。美久」
私は小さくつぶやいて、そっと美久のそばを離れた。
この人混みの中じゃ、ちょっと離れればどこにいるのか一瞬でわからなくなる。
そして、美久の姿が見えなくなったのを確認してから、ついさっき出てきたばかりの校舎に向かって駆け出した。
ごめんね。
私はずるいから。
ずるくて、臆病だから。
大地みたい
私らしい、ずるいやり方を選ぶよ。
教室の電気をつけて、中に入っていく。
片付けはほとんど終わっていて、漫画が並ぶ棚も何もない、いつもの教室に戻っていた。
夜の教室は静かで、ひんやりと冷たくて、外の賑やかさがずっと遠くに感じた。
窓を開けてみても、音も景色もやはりどこか遠かった。
美久の席は、前から二番目。歩み寄って、机にかけてある紺色のかばんに触れる。
チャックを開けて、中からピンク色の日記帳を取り出した。
美久がいつも何かを書き込んでいる日記帳。
二時間ごとに記憶を失うたび、見返している大事なもの。
美久はこの日記帳を誰にも見せようとしなかった。
だから、ここには美久の本音が書いてあるんじゃないかな。そう思ったのだ。
誰も知らない、美久しか知らないことが。
そう思ったとき、罪悪感よりも、知りたいという気持ちのほうが、上回った。
最低でもいい。
美久がいま、何を考えてるのか、知りたい。
最初のページをめくって、思わず、えっと声が出た。
「なに、これ……」
次のページもめくってみる。
次のページも。その次のページもーー
全部、何も書いていなかった。
「どういうこと……?」
「ダメだよ、灯里。人のものを勝手に見たら」
ふいに声がして、ビクッとした。
美久が扉に背をもたれて立っていた。
「灯里って、すぐに顔に出るよね。あんな何か隠してますって顔に書いてあるようなわかりやすい態度、大地くんじゃなくたってバレバレだよ」
「何、言ってるの……?」
「灯里のことならわかるって言われて、顔真っ赤になってた。かわいかったな」
にっこりと笑いながら言う美久。
はっと気づいた。
今日の昼真。体育館の前で大地と話してたこと。
あのときーー美久はそばで聞いてたんだ。私たちの会話を。
そして、六時間前のことを、美久ははっきりと記憶していた。
「美久、なんで……?」
「ん? なにが?」
美久がこてんと首を傾ける。
「檜山先生が、美久の記憶はとっくに元に戻ってるはずだって。そんなの、嘘だよね?」
嘘だって、言ってほしかった。
違うよって。
何言ってるのって。
だって、もし檜山先生の話が本当なら。
いままでのことは、いったい何だったのか。
美久の言葉も、行動も。
信じてきた何もかもが崩れ去っていくような気がした。
だけど、美久の言葉は、私が望んでいた言葉とは正反対のものだった。
「あーあ。言っちゃったんだ。あの先生にはバレてる気がしたんだよね。だからもう病院には行きたくないって、お母さんにお願いしたの」
「なんで……美久のお父さんもお母さんも、美久のこと心配して、いちばんに考えてたのに。檜山先生も、私も、大地も、みんな心配してたのに」
声が震える。
怒りなのか、なんなのか、もうよくわからなかった。
檜山先生の話は、にわかには信じられないものだった。
『彼女の記憶は、とっくに正常に戻っているはずだ』
検査の結果でも、医者の目から見ても、その答えは変わらない。
檜山先生はそう断言した。
私は愕然とした。
ーーどうして。いつから?
檜山先生は私の疑問を汲み取るように説明を続けた。
『たしかに、事故の直後は記憶障害が残っていた。新しい記憶を蓄積できず、二時間ごとに記憶が失われる。しかし、はじめに言ったように、それは一時的なものに過ぎなかった。退院する頃には、すべて記憶能力は事故の前と同じに戻っていたはずだ』
だから檜山先生は、これ以上うちの病院でできることは何もない、と言ったのだ。
『じゃあ、美久は、四ヶ月もずっと私たちに嘘をついてたってことですか?』
どうしてそんなことを?
二時間ごとに記憶を失う。
意識が切り替わる瞬間、本当にふっと意識を失っているように見えた。
そこに立っているのに、美久の体ごとどこかに行ってしまいそうなくらい。
あれも、全部嘘だったっていうの……?
『そうなるだろうな』
檜山先生は淡々とした口調で言った。
驚きも、軽蔑もなく。
まるでよくあることだと言うように。
『彼女は自分の嘘でまわりを騙せることを覚えた。やめられなくなってしまったんだ』
『やめられなくなった……?』
わけがわからなかった。
それが本当なら、美久は自分のついた嘘を本当に見せるために、四六時中演技をしていたことになる。
『退院する前に、一度話を持ちかけたことがある。脳外科ではなく、別の科を受診してはどうかと。しかし彼女は断った。その必要はありませんと。はっきりそう言ったよ』
『別の科』というのが何なのかは、聞かなくてもわかった。
『念のため行っておくが、僕は心のほうは専門外だ。その上で言うが、彼女の病気はおそらく、ミュンヒハウゼン症候群』
ミュンヒハウゼン症候群ーー。
前に、テレビのドキュメンタリーで、そういう病気の人を見たことがあった。
何も起こっていないのに、まるで自分が大変な問題を抱えているように振る舞う人の話だった。
でもそれは特殊な病気で、自分のまわりで起こるようなことだとは、思っていなかった。
それは、周囲の関心や同情を引くために病気を装ったり、自らの体を傷付けたりする精神疾患の一種だ、と檜山先生は説明した。
ミュンヒハウゼン症候群の患者は病気を創作したり、持病をいかにも重症のように強調したりして、通院や入院を繰り返す。
美久は事故の直後、たしかに記憶喪失になった。
二時間ごとに記憶を失うことも、新しいことを覚えられないことも、本当だった。
でも、それは一時的なものだった。
一つの病気の問題が解決すると、また新たな問題を起こす。
重症と見せかけるために、自傷行為や検査検体のすり替え、偽装工作までする。
自分の発言に説得力を持たせるために、まるで物語のように創作したエピソードを語ることも。
全部、美久の行動に、当てはまっていた。
そう考えれば、事故のあと学校に通い続けたことも、無理にピアノの伴走を引き受けたことも、納得できた。
できてしまった。
『ときどき、どこにいるのか、わからなくなるの』
『毎日、日記つけてるんだ』
日記をつけるのも、リハビリも、二時間おきに記憶が途切れるように見せていたのも。
『わたしこんなだし、きっと迷惑かけちゃうから』
自信のなさそうな言葉も。
『ピアニストになる夢、諦めてないんだ』
健気に見せた前向きな言葉も。
全部ーーその嘘をまわりに信じ込ませるための、演出だった。
実際、美久の思い通りに事は運んだ。
合唱コンクールでピアノを演奏したことで注目を浴びて、『記憶喪失の美少女』と謳われ、雑誌やテレビのインタビューが押し寄せた。
学園祭は美久目当ての人が大量に押し寄せて、行列ができるほど人気になった。
注目を浴びるだけの素質が、美久にはあった。
自分の魅力をわかったうえで行動していたんだ。
「ねえ美久」
私は言った。
「注目を浴びるのって、そんなに大事? そんなことしなくたって、美久に惹かれてる人はたくさんいたよ。嘘をついてまで、注目を集めたかったの?」
「それは違うよ」
美久は少し寂しそうに笑って言った。
「世間の注目を集めるのは、ついでだよ。わたしがいちばん注目してほしかったのは、灯里だから。ほかの人なんてどうでもいい。わたしはね、灯里に見てほしかったの」
「私……?」
「灯里は全然、自分の魅力に気づいてない。一年の春、音楽室で会ったときから、わたしは灯里の気を引きたくて夢中になった。本を読んでるときの横顔が、すごく素敵だと思った。仲良くなって、一緒にいることが増えていって、もっと見ていたくなった」
美久がゆっくりと私のほうへ歩み寄る。
「だけど、灯里は大地くんのことばっかり見てた。大地くんがそばにいるときは、わたしのことなんてどうでもいいみたいだった。それが許せなかったの」
「美久……」
「事故のあと、目覚めて灯里がわたしのそばで泣いてくれたでしょ。あれ、嬉しかった。ああ、わたしのことを心から心配してくれてるんだって思えた」
美久は両手を頬に当てて、恍惚の表情を浮かべながら言う。
私は耳を疑いたくなった。
みんな、美久の記憶が戻らないことを悲しんでいたのに。
事故にあって、嬉しかった……?
「もっともっといろんな顔が見たくなった。だから、記憶障害のことを知ったときも、悲しくなんてなかったよ。これで灯里を独り占めできる、って思った。そうなったら、灯里がわたしを見捨てるなんてできないこと、わかってたから」
「……っ!」
美久は、私のことをよく知っている。
いつも一緒だったから。
いいところも、悪いところも、よく知っている。
親友が困っていたら、不安な顔をしていたら、放っておけるはずがないことも、知っている。
全部、美久の思い通りだった。
『わたしの記憶は二時間しか持ちません』
退院して、学校に来た初日の朝。
美久はクラスメイトの前でそう言った。
大変な状況なのに、それでも前を向いているように、涙を浮かべながら。
みんな、その言葉を信じていた。
私は美久のそばにいようと決めた。
自分のことなんて、二の次でよかった。
だって、美久の時間は、六月のあの日のままで止まってる。
そこから先に進むことができなかった。
美久だけをその時間に残していくなんて、できなかった。
だけど。
それは全部、美久が作り上げた物語だったのだ。
「それなら、言ってくれたらよかったのに。そんな嘘つくより、よっぽど……」
「言ってどうなるの?」
美久の大きな瞳が私を捉える。目を逸らそうとしても離れないくらい強い力で。
「それを言ったら、わたしたちの関係はきっと大きく変わっちゃう。いままで通りではいられなくなる。灯里ならわかるよね? だって、大地くんとの関係が壊れるのが怖くて、ずっと言えなかったんでしょう?」
「……っ」
その通りだった。
いまの関係が心地よくて。
壊すのが怖くて、言えなかったんだ。
「わたしはずっと、いまのままでいたかったの。だから、わたしの中で時間を止めたの」
時間を止める。
あの日、誕生日プレゼントをもらって以来、一度も動いていない時計の針みたいに。
何も言わず、どこにも行かず、ずっと変わらない日々を過ごす。
それは平凡で、心配事なんて何もなくて、安心できる日々かもしれない。
だけど、当選、本当に時間を止められるわけじゃない。
だって、私たちはどこにでもいるごく普通の高校生だ。
「そんなの、見せかけだよ。ずっといまのままでなんて、いられないんだよ……」
どれだけこのままでいたいって願っても、時間は勝手に進んでいく。
変わりたくないって願っても、自分も周囲も変わっていく。
「だから、変わろうよ。私たちも。前に進まなくてもいいから、たまには戻ったっていいから」
美久の目から、涙がこぼれた。
そして、ふるふると首を振る。
「だから、一緒に変わろう」
「灯里は、変わったね」
美久が涙を溜めた目で言った。
「大地くんに言いたいこと、あるでしょ。他人なんてどうでもよくやるくらい、伝えたいことがあるでしょ。言ってきなよ」
「え……っ」
「バイバイ。いってらっしゃい」
外の灯りで、美久の顔が照らされる。
笑っているような、泣いているような、不思議な笑顔。
「早く行ってよ……」
そんな美久の顔を見るのは、初めてだった。
「うん。行ってくる」
教室を出たとたん、涙がこぼれ落ちた。
どんどんあふれて、頬を伝う。
ああ、ダメだ。こんな顔じゃ告白どころか、人前にも出れない。
そう思って、気がついた。
ああ、そっか。
いままでこうやって、小さな言い訳を積み重ねながら先延ばしにしてきたんだ。
変えるのが怖くて。
変わっていくのが不安で。
でもーー。
私は涙を拭って、駆け出した。
人気のない廊下を突っ切って、校庭に出る。
バンドの演奏がすでに最高潮にまで盛り上がっていて、ところどころに設置された照明がステージを照らし、野外フェスさながらの雰囲気だった。
どんな人混みの中でも、私はその中からたった一人を見つけられる自信があった。
小さい頃からずっと一緒だった。
泣き虫で、意気地なしで、人見知りで、いつも私の後ろに隠れていた大地。
だけどいつの間にか私よりもずっと大きくなっていて、泣き顔なんてめったに見せなくなって、意気地なしだけど優しくて、いつだっていてほしいときに、そっとそばにいてくれた。
そんな大地のことがーー
「大地」
私は息を切らしながら、大地の前に立った。
「お、灯里。どうした?」
大地が振り向いて目を見開く。
この気持ちを伝えたら、私たちの関係はきっと、いままでとは違うものになるんだろう。
だけど、もう怖がらないって決めたから。
変わるって決めたから。
私は顔を上げて、言った。
「好き」
いままでずっと、言えなかった気持ちを。
私たちの時間は、ようやく動き出したんだ。

