教室を出て、階段をのぼり、五階の突き当たりにある教室の扉を開ける。

 白いカーテンに、黒く光るグランドピアノ。壁は防音仕様に穴が空いていて、黒板に机、それから譜面台や合唱のときに使うアルミ製の踏み台なんかが置いてある。

 壁には歴代の音楽家たちの肖像画が並んでいて、なんだかじっと見つめられている気分になる。

 とくにベートーヴェンの目力といったはハンパない。その睨みつけるような鋭い眼光に見られながらお弁当を食べるのは落ち着かなかったけれど、数日もすればすっかり慣れてしまった。


 私、海野灯里(うみのあかり)が通う霧咲(きりさき)高校は、生徒数千人を超える、いわゆるマンモス校だ。

 教室の数がかなり多く、私が昼休みに使っているのは、三つある音楽室のうちの、五階の端っこにある第三音楽室だった。

 学食もあるし、空き教室もほかにたくさんあるから、こんなところまでわざわざ来る生徒はめったにいない。

 音楽室で昼休みを過ごすようになったのは、入学して少し経ってからだった。

 クラスに友達がいないとか、教室が居づらいというわけではない。

 けれど、校舎の片隅にある音楽室は外の喧騒から離れ、しんと静かで、本を読むのにぴったりで、お気に入りの場所だった。

 机にお弁当を広げ、食べながら本の続きが気になって急ぐようにページをめくる。集中しすぎて、しょっちゅう手が止まってしまう。

 仕方ない。食べるのを忘れるくらい、おもしろいのだから。

 唐突に扉が開いて、ビクッと肩を震わせた。

 顔を上げると、そこには意外な人がいた。

 「あっ」

 向こうも気づいて、驚いている様子だった。

 「ごめんなさい。邪魔しちゃったかな。えっと、海野さん、だよね……?」

 同じクラスになったばかりで名前がうろ覚えなのか、自信なさそうに尋ねたのは、同じクラスの森下美久。

 すごい美少女がいると、入学したばかりの頃から何かと注目を集めていたので、ほとんど話したことはなくても、私は当然のように名前を覚えていた。

 「うん。森下さんもここで食べる?」

 「いいのっ?」

 びっくりしたように言うので、私は思わず笑った。

 「べつにここ、私の場所じゃないから」

 「あ、そっか。じゃあ、お邪魔します」

 「お邪魔しますって」

 美久は席に座って、かばんからお弁当を取り出した。

 私は読書に戻ろうとして、思わず二度見した。


 ーー弁当箱でかっ。しかも三段!?


 体育会系の部活男子が持ってくるような、三段重ねの巨大な弁当箱が、机の上にどんと置かれている。

 ピンク色の入れ物にかわいらしい猫の顔が描いてあるけれど、サイズが全然かわいらしくない。弁当箱を包んでいる布だって、普通のハンカチではなく、荷物を包むような大きめの手ぬぐいだった。

 兄弟のを間違えて持ってきちゃったとかかな……?

 そう思ったけれど、美久はふたをあけて、幸せそうに頬をゆるませながら食べ始めた。

 間違えたわけではないみたいだ。
 

 い、イメージと違いすぎる……。

 モデル並みの小さな顔に、制服から伸びるほっそりとした手足。

 何を食べたらあんなに細くなるんだろう……と、ひそかに思っていたのだけれど。


 その可憐な雰囲気をまとった女の子が、こんな巨大なお弁当箱を持参してくるとは誰も思わないだろう。

 そういえば、いつも昼休みになるとふらりと教室を出ていくような……。

 私の視線に気づいて、美久は照れたように笑った。

 「あっ、わたし、めっちゃ食べるの。だから学食とか教室で食べるの、なんか恥ずかしくて」

 「そうなんだ。ちょっとびっくりした。どこにそんなに入るの」

 「えーと……このへん?」

 大真面目にお腹を指して答える美久に、私はついに吹き出してしまった。

 「森下さんて、おもしろいね」

 「そ、そうかな?」

 かわいくて、スタイルもよくて、みんなから憧れのまなざしを向けられるような女の子。

 なんとなく近寄りがたかったけれど、しゃべってみたら、全然そんなことはなかった。

 そして、ちょっと変わってる。

 私と美久はすぐに仲良くなって、昼休みを音楽室で過ごすようになった。

 「わたし、音楽室って好きだな。ピアノがあるし、防音設備があるから、叫んでも響かないし」

 並んでお弁当を食べながら、美久が言う。

 「叫ぶの?」

 私は驚いて言った。このかわいらしい子が、大声で叫んでいるところがまったく想像できなかった。

 「うん、たまに……人がいないときにこっそり来て、私の貴重な昼休みを返せー! って」

 昼休みにたびたび教室を出ていくのは、告白で呼び出されていたかららしい。

 モテるのも大変なんだな、と私には縁のない話だけれど、少し同情してしまう。

 私はお弁当を食べながら本を読まなくなって、美久はよく食べるのを気にしなくなった。

 そのうちにときどき、もう一人が入ってくるようになった。


 「ちわっす」

 と出前に来たアルバイトみたいによそよそしく手を挙げるのは、私の幼なじみの鈴村大地。

 「あの、森下さん、一緒に食べてもいいかな……?」

 大地が顔を真っ赤にして言う。

 「うん、もちろん」

 美久は笑顔でうなずく。

 「ねえ。私もいるの忘れてない?」

 「いや、灯里はいいだろ」

 「いいってどういうこと?」


 季節が巡って、私たちは二年生になった。


 美久、大地、そして私。


 私たちの関係は変わらない。

 ずっとこのまま、変わらなければいい。

 そう思っていた。


 でもーー

 ある日突然、それは起こった。


 雨の日の交差点で。


 横たわる美久がうつろな目で、私を見てつぶやいた。




       「 う そ つ き 」




 その言葉がずっと、頭から離れないんだ。