【6話】

「……き、……えき」

 ゆさゆさと揺さぶられ、陽向は目を覚ます。
 明るくなった部屋。薄く目を開けると、視界いっぱいに広がっているのは──律の顔。

 ハッとして、起き上がる。
 急に体を起こしたせいで、ゴンッと律に頭突きをかましてしまった。

「うぐ……っ」
「ご、ごめ……っ」

 おでこを押さえながら、律に謝る。
 すると、律が陽向の手を取った。

「佐伯、行くぞ」
「え?」

 ぐいっと引っ張られ、ベッドから下りる。
 腕を引っ張られたまま、玄関から外へ出た。

 ──え?

 ──え?

 ──ええっ!?

 律に引っ張られるままに到着した場所は、佐伯家。
 家に到着し、玄関を開けると、そこには母と朔弥がいた。

「おかえりなさい。陽向」
「た、ただいま……?」

 にっこりと笑っている母だが、謎の圧力を感じる。
 状況が飲み込めない。一体何がどうなっているのか。

 母、朔弥、陽向、律の四人はリビングへ移動する。
 双子の小学生ズや末っ子の凛は見当たらなかった。

「母さん、凛たちは?」
「今ちょっとね、お隣さんのお家に行ってもらってるの」

 こんな朝早くから……?
 首をかしげる陽向。

「座って待ってて」と言われ、コタツテーブル前に腰を下ろす。隣には律が座った。
 母がお茶を淹れて戻ってきた。それぞれの前に麦茶の入ったコップを置くと、母が口を開いた。

「陽向。無断外泊はあまり良くないわね?」
「え、あ……ごめんなさい」

 母に指摘され、そういえば昨晩、朔弥に「外に出る」と言ったっきり、家には何の連絡も入れてなかったことに気づく。律の家で、いつの間にか眠ってしまい、そのまますっかり忘れていた。

「篠宮君、ありがとう。連絡をくれて」
「いえ。もう少し早く連絡できればよかったんですけど……俺も気づくのが遅くて」

 母が律に向かってペコリと頭を下げる。
 律もペコリと頭を下げて、返した。

「それで、陽向は昨晩、どうして家を飛び出したのか聞いてもいいかしら?」

 母が陽向の顔を見る。
 真正面からじっと見つめられ、陽向はドキッとしてしまった。

 母の顔には「すべて知っている」と書かれている気がする。
 ふぅ、と息を吐いた。観念してすべてのことを喋った。

 修学旅行の積み立てを自分の判断でやっていなかったこと。
 修学旅行に行くには、三か月で十万円ほど調達する必要があったこと。
 隣にいる篠宮律が、べんとう契約を持ちかけてきて、それを受けたこと。
 その律から貰った弁当代金が昨日消えていたことを。

「そう……そういうことだったの……」

 母の顔に驚きと納得の顔色が浮かんでいる。
 その母の後ろで顔を真っ青にした朔弥が口を開いた。

「兄さん、ごめんなさい……!」

 割って入ってきた朔弥が陽向に向かって土下座する。
 突然、頭を下げ謝る弟の姿に、陽向は焦った。

「朔弥? どうしたんだ!?」
「僕なんだ……! 兄さんのお金を盗ったのは……!」
「え?」

 顔を上げた朔弥は涙を浮かべている。
 朔弥はもう一度頭を下げながら、自分が金を盗んだ理由を話し始めた。

「兄さんが本棚に何かを隠してるのは知ってた。嬉しそうにしてるから、何だろうって気になって、魔が差したんだ。こっそりと本棚を探ったら、お金がいっぱい出てきた」

 朔弥は溢れた涙を手の甲で拭いながら、さらに言葉を続けた。

「日に日にお金は増えていくし、僕……もしかして、兄さんが何か悪い事でもしてるんじゃないかって思って……っ」

『……ねぇ、兄さん。兄さんは最近変わったこと……ない?』
『パパ活みたいなことやってみたいなぁ~……とか』

 そういえば、つい先日、朔弥から朔弥らしからぬ話題を振られていたことを思い出した。
 突然パパ活などと言い出したのは、そういうことだったのかと腑に落ちた。

「悪い事してるんだったら、止めないといけないって……っ……だから、いきなりお金が消えたら、踏みとどまってくれるんじゃないかって、思っ……」

 朔弥は「ごめんなさい」と小さく言うと、体を丸くして、その場にうずくまる。
 陽向は朔弥が金を盗んだ理由を知り、慌てて頭を下げた。

「ごめん! 朔弥! 俺がちゃんと言っていれば……!」
「違う。兄さんは悪くない……僕が悪いんだ。気になったのなら、聞けばよかったんだ……!」

 泣いて謝る弟の姿を見て、陽向は己の不甲斐なさに舌打ちしたくなった。

 金に困っているはずの我が家で、兄が隠し持っている金が日に日に増えていく。
 そんなことを知ってしまったら、何かに巻き込まれているんじゃないかと疑ってもおかしくはない。
 聞きたくても聞けない。ずっとモヤモヤとしたものを抱えていたのだろう。

(朔弥が話しかけてきたあの夜、もっと向き合っていれば……!)

 お互いに、ごめんなさい合戦をしそうになったとき、母が口を開いた。

「陽向も朔弥も、ふたりとも悪いわ。でも、それを言うなら母さんだって悪い」
「母さん……?」
「だって、そうでしょう? 子どもにお金の心配をかけて、こんなことになっているのだから」

 母が眉を下げながら微笑む。
 陽向は慌てて首を振った。

「ちがっ……! 母さんは悪くない! もとはと言えば、俺が勝手に……!」

 そう。最初から修学旅行のことを話していればよかったのだ。
 そうすれば、こんな風にボタンの掛け違えたようなすれ違いなんて起きなかった。
 すべての原因は自分にある──陽向はそう思った。

 母の手が伸びてきた。陽向の右手を両手で包み込む。

「陽向、ごめんね」

 陽向は、首を何度も横に振った。
 違う、母にこんな顔をさせたかった訳でも、弟を心配させるつもりもなかったのだ。

「篠宮君もありがとう。そして、ごめんなさい」

 母は律に頭を下げる。
 律も慌てて手を振り、大丈夫だとアピールした。

 *

「……すまん。篠宮」
「いや、もういいから」

 陽向の金が盗まれた問題が解決。
 それと同時に修学旅行の費用の問題も解決した。

 朔弥が盗んだお金を取り出すと、母が律に返そうとし、律はそれを拒むというひと悶着もあったが、それも解決した。

 四人は何度も頭を下げるという行為を繰り返し、ようやくお開きになる。
 陽向は律を送ると言って家を出た。
 トボトボと歩きながら、改めて律に謝った。

「佐伯にとってみたら、災難だったかもしれないけど、俺にとっては悪い事ばかりじゃないから……だから謝らなくていい」
「? それってどういう……?」
「お前が自己判断で突っ走ってくれたおかげで、俺はお前の弁当を食べることができたわけだし」

 律の顔がふわりと柔らかくなった。
 その微笑みにドキッと心臓が跳ねる。

 一度跳ねた心臓がドキドキを繰り返し、落ち着く様子がない。
 なんだか昨日からちょっと自分はおかしくなった気がする。

「?」と首を捻る陽向。今までと何かが違う、けれど、それが何なのかわからない。
 ただ一つ、わかっていることは、律がいつもよりカッコよく見え、魅力的に映っているということだった。

「じゃあ、また月曜日。学校でな」
「あ、う、うん」

 律は片手を上げて去って行く。
 陽向も片手を上げて挨拶し、律と別れた。

 自分の中の変化に気づかないまま、遠く、小さくなっていく背中を見送る。
 今日は土曜日。早く月曜日になってほしい、と心の中で呟いてしまった。


 ***


 月曜日。昼休み。

 教室の中がザワめく。
 律は机の横にかけたバッグの中から財布を取り出した。

 学食へ行こうと立ち上がったところで、後ろからコツンと硬いものが頭に当たった。
 振り返ると、陽向が弁当を包んだランチクロスを突き出していた。

「……弁当。屋上で食べようぜ」
「……ああ」

 律は陽向が手に持っていた弁当を受け取る。
 陽向は自分の弁当を持って、教室の外へ向かった。

 *

「今日もいい天気だな~!」

 屋上のドアを開けると、青空が広がっていた。
 いつものように陽向はフェンスを背もたれにして座る。

 律も同じようにして隣に座った。

「弁当作り、もう終わったんじゃないのか?」

 律が陽向に尋ねる。すると、陽向は「ああ」と答えた。

「なんか気づいたら作ってた」

 土曜日の話し合いで、律のべんとう契約はお終いということになった。
 しかし、習慣というものは恐ろしいもので、無意識のうちに律の分も準備していたらしい。

 今朝、弟たちに指摘されたときには、弁当はほぼできあがっていた。
 だったらもう、これは学校へ持っていき、律に食べてもらおうと陽向は開き直った。

「もし、俺がコンビニ弁当とか買ってたらどうするつもりだったんだよ……」
「そのときは、持ち帰って、自分の夕飯にでもするさ」

 陽向が肩をすくめる。
 律は「返さないぞ」という仕草を見せた。

 改めて、弁当の包みを広げる。
 今日のおかずは、焼き鮭と肉じゃがが入っていた。

「いただきます」

 律は両手を合わせてから、箸を手に取る。
 肉じゃがのじゃがいもを摘まむと、口の中に放り込んだ。

「うまい」
「お、それならよかった」

 三か月間、繰り返したやり取り。
 弁当を噛みしめながら、陽向との今までのやり取りを噛みしめた。

 こんな風に弁当を作ってもらって、一緒に食べるのも今日で終わり。

 それは、陽向自身も感じていたことだった。

 *

「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」

 互いに両手を合わせ、空になった弁当箱をランチクロスに包む。
 なんだか名残惜しい、と陽向がそう考えていたら、律が口を開いた。

「佐伯……あの、さ」
「ん?」

 律の言葉が続かない。なにか言いたそうにしているのに、それが言葉となって出てこない。そんな風だった。
「よし」と小さく意気込み、右手をぐっと握りしめた律は、顔を上げ、陽向を見る。

「これからもずっと、俺の弁当……作ってくれない?」
「え?」
「俺、お前の弁当が好きだ」
「あ、ありが──」
「俺、お前のことが好きだ」

 ────え?

 律はスクッと立ち上がった。
 陽向に向かって、微笑む。

「返事は今じゃなくていいから。じゃあ……俺、先に教室行くわ」

 律はそう言うと屋上から立ち去って行った。
 陽向は固まったまま、身動きが取れなかった。

 ──好き? 誰が?

 ──篠宮が?

 ──誰を……?

「……おれ……?」

 そう認識した瞬間、ぐわっと顔が熱くなる。
 両手で頬を包んでみれば、その熱が伝わってきた。

 きっと今、自分の顔は茹蛸のように真っ赤になっていることだろう。

 この後の陽向は使い物にならなかった。
 授業中はボーっとして、先生に授業中に当てられても教科書を逆さまにする始末だった。


 **


「兄さん、大丈夫……?」

 キッチンに立つ兄に、朔弥が心配そうに声をかける。
 ハッとした陽向の目の前にはモクモクと煙が立ち上っていた。

「うわっ! 焦げたっ!」

 今日の夕飯はハンバーグ。片面が少しばかり焦げたものができてしまった。
 リビングのコタツテーブルに夕飯を並べ、皆で「いただきまーす!」と手を合わせる。

 陽向はハンバーグを口に運んだ。
 
『……うまい。このハンバーグ、マジでうまい』

 初めて律に弁当を作った日のことを思い出す。
 あの日の弁当のおかずはミニハンバーグだった。

 夕飯を食べながら、顔が熱くなる。
 陽向は慌てて、コップに入った麦茶を飲み干した。

 夕飯を終え、ビル清掃のバイトへ行き、帰宅して布団の中に入る。

 その間もずっと律に告白されたことが頭にあり、寝付けなかった。
 律のことを意識した日々が続き、そうして気づけば修学旅行当日を迎えたのだった。