【5話】

「佐伯。そろそろ期限が近いが、どうする?」
「どうするって何を?」

 職員室で陽向は、担任の先生に向かって首をかしげる。
 はて? 思い当たることがない──といった表情を浮かべた。
 先生が日誌で、陽向のおでこにチョップを入れる。それから口を開いた。

「修学旅行のことだ」

 先生の言葉に陽向はハッとする。

「修学旅行、行く! 行きます!」

 右手を勢いよく挙げ、ハイハイ! と先生に詰め寄った。
 先生は日誌を盾にして、陽向をガードする。

「用意できそうなのか?」
「うん。何とか!」
「そうか。よかったな。これでクラス全員で修学旅行に行けるぞ」

 先生が陽向の頭に手を伸ばし、頭を乱暴に撫でた。
 ぐしゃぐしゃになった髪を直しながら、陽向は「もー!」と口を尖らせる。

 前回と同じように「話はそれだけだ」と言われたので、陽向は職員室を後にした。
 ピシャリとドアを閉めると、握り拳を振り上げた。

(修学旅行に行ける……!)

 うおおお! と叫びたい気持ちを押さえて、陽向は学校を出たのだった。


 ***


「なんか……今日の弁当、やたら豪華じゃないか?」

 翌日の昼休みの屋上。
 陽向は律と一緒に弁当を広げていた。

 今日の弁当は唐揚げに、タコウインナー、玉子焼き。ミニハンバーグにスパゲティも入れ、隙間にブロッコリーやミニトマトが敷き詰められている。

「へっへっへ~! 今日はちょっとスペシャルにしてみた!」
「何かいいことでもあったのか?」

 ウキウキとテンションの高い陽向の様子に、律が問いかける。

「弁当作り始めてそろそろ三か月だろ?」
「もうそんな経つんだ。早いな」
「篠宮のおかげで、俺、修学旅行に行けそうだからさ! そのお礼!」

 陽向が満面の笑みを浮かべる。
 彼の周囲では花が咲いていた。

 陽向は「いただきまーす!」と両手を合わせると、箸を持って唐揚げを食べる。
 パクパクと食べ出す陽向に対し、律は箸を持ったまま、動かないでいた。

「どした? 篠宮、食べないの?」
「あ、食べる……」

 ぼうっとした様子の律は、陽向の指摘でようやく動き始めた。
 ラップに包まれたおにぎりを食べ、玉子焼きを食べ……手が止まる。

 律の様子がおかしい──そのことに気づいた陽向も箸を止めた。
 怪訝な顔をしながら、律をじっと見つめる。

「どっか調子でも悪いのか?」
「いや、佐伯に弁当作ってもらうのも、もうすぐ終わりなんだなって思って」
「──あ」

 律に言われて陽向は気づいた。

 この弁当作りは『契約』だったことを。
 修学旅行費を貯めるためのものだったことを。

 律はタコウインナーに手を伸ばし、口に入れる。
 いつものように「うまい」と言って食べた。

 今度は陽向の手が止まった。
 二人で食べる弁当の時間に終わりが近づいている──そのことが頭から離れない。

「うまいよ」

 律は少しはにかんで、そう言った。
 陽向は、左胸の辺りをぎゅっと握りしめた。


 **


「うう~……」

 夜、午後十一時を過ぎた頃。
 陽向は布団に入ったものの、ずっと寝れないでいた。

 寝室では末っ子の凛、双子の陸斗と海斗は、ぐぅぐぅと寝ている。
 陽向は起き上がって、キッチンへ向かった。リビングではまだ照明がついており、朔弥がコタツテーブルで勉強をしていた。

「朔弥、まだ寝ないのか?」
「兄さん。あと一問、これを解いたら寝るよ」

 受験生の朔弥は朝早く学校へ行き、勉強し、夜も遅くまで勉強している。
 家に負担はかけたくないからと、塾に行かず図書館や学校を利用して頑張っていた。

「兄さんこそ、こんな時間にどうしたの?」
「何か寝付けなくて……水飲みにきた。朔弥は何か飲む?」
「僕もお水貰っていい?」
「わかった」

 コップに水を注ぎ、リビングへ移動する。
 朔弥の目の前にコップを置いてから、自分のものに口をつけた。

「……ねぇ、兄さん。兄さんは最近変わったこと……ない?」
「変わったこと?」
「パパ活みたいなことやってみたいなぁ~……とか」
「なんでそこでパパ活なんだ? ないない。パパ活なんてやりたいと思ったことないよ」

 右手を振って、「ありえない」と主張する。
 しかし、朔弥の目は何かを疑っているようだった。

「そう……ならいいんだけど」
「お前こそ、そんなこといきなり言うなんて、どうしたんだ? 何かあったのか?」
「ううん。僕は何もないよ。……なんかさ、学校でそんな話題がちょっと出たんだ。だからちょっと聞いてみただけ」
「おいおい。受験生がそんなこと話してんじゃねぇよ」
「ほんとだね」

 朔弥はハハッと笑うと、コップに手を伸ばした。「いただきます」と言って水を飲む。
 陽向も一緒になって水を飲んだ。空になったコップを持って立ち上がり、ふわぁ~っとあくびをする。

「そろそろ寝れるかな……じゃ、おやすみ。朔弥」
「うん、おやすみ。兄さん」

 シンクにコップを置くと陽向は寝室へ行き、寝転んだ。
 すぐに睡魔が襲ってきて、まぶたが降りる。


 リビングで勉強を続けていた朔弥は問題を解き終わったらしく、座ったまま天井に向かって背伸びをした。
 ノート類を片付け、立ち上がり、陽向と朔弥──二人が一緒に使っている部屋へ移動する。

 机にノートや筆箱を置いた朔弥は、陽向の机に近づいた。そして、机の隣にある本棚のある一角をじっと見つめるのだった。


 ***


 三日後──金曜日。

 バイトから帰宅した陽向は自室へ向かう。
 着替えを取り、そのまま風呂へ向かおうと考えていた。

 財布をズボンの尻ポケットから取り出し、机の上に置く。
 スマホも置いたところで、陽向はチラッ本棚を見た。

(そうだ。そろそろバイト代出るし……一旦、計算しておくか)

 律から貰っていた弁当代。
 それは本棚の奥にある箱の中に隠してある。

 弁当代と足りない分はバイト代から出せば、修学旅行費は足りるだろう。
 陽向は手前の本をどかし、奥に隠してあった箱を手に取った。

 箱の蓋を開ける。すると、そこにあるはずのお金が消えていた。

「──えっ?」

 箱を逆さにしてみるが、ひらりと舞うお札は一枚もない。
 ドクドクと心臓が嫌な音を立て始めた。指先が震え出す。

 血の気が引くとはこのことだろうか?
 額の辺りからスッと熱が消えた感覚があった。

 本棚の本を全部出してみた。そこにはお札の「お」の字もなかった。
 この三か月間。頑張って貯めた金が消えている。
 陽向はしゃがみ込み、頭を抱えた。

「うそ……だろ?」

 本を一冊ずつ手に取り、パラパラとめくってみる。
 もしや、中身をどこかに移し、忘れてしまったのかもしれない。

 机の引き出しも開け、考えられる場所を全部ひっくり返してみた。

「ない……ない……っ! ないっ!」

 目尻に涙が滲んでくる。目の前が真っ暗になりそうだった。
 見落としているだけかもしれないと、もう一度同じ場所を探してみる。
 探して、探して、もう一度探して……それでも見つからなかった。

 本を手に持った腕が、力なく下がる。

(盗まれた……?)

 ──誰に?

 泥棒が家に入ったのなら、もっとわかりやすいところに置いてある金がなくなっているだろう。
 部屋だってもっと荒らされているはずだ。

(考えたくはないけど、家族の誰かが……)

 ──金を盗んだ?

 陽向は頭を左右に振る。ありえない。
 いくらうちが金に困っているからって、人の金に手を付けるようなヤツは誰もいないはずだ。

 母さんは修学旅行費のことを知れば、無理をしてでも工面するような人だろうから、絶対に違う。
 朔弥だって、陸斗や海斗だってそうだ。

「そうだよな。絶対そうだ。だから……あるとしたら、俺がどこに置いたのか忘れてるはずなんだ」

 思い出せ。
 どこに置いた? どこに移動させた?

 前髪をぐしゃっと乱暴に掴んだ。
 唇を強く噛む。

 ──どこにも移した覚えはない。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 何をどうすればいいのかもわからない。


 ガチャッと自室のドアが開く。この部屋のもう一人の主──朔弥が現れた。

「兄さん帰ってたの? ──って、どうしたの!?」

 床に散らばった本。その中心にいる陽向。
 驚いた朔弥が陽向に声をかける。
 
「朔弥……」

『お前、俺の金知らないか!?』

 肩を掴んで、そう問いかけたくなった自分に心の中で舌打ちする。
 苛立ちを隠せない。余裕がない。
 今はここから一度離れたほうがいい。

 陽向は机の上に置いたスマホと財布を手に取ると、部屋のドアへ向かった。
 朔弥の横を通り過ぎようとしたとき、彼の肩をポンと叩く。

「悪い。ちょっと外に出てくる」
「えっ、今から!?」

 陽向は朔弥の問いには答えなかった。
 乱暴に靴を履くと、闇夜に包まれている外へ飛び出した。


 **


『ピーンポーン』

 午後十一時過ぎ。
 律の家にインターホンの音が鳴り響いた。

 それまでソファーに座って、テレビを流しながらスマホを触っていた律が、立ち上がる。

(こんな時間に誰だよ……)

 と思いながらも、キッチン付近にあるインターホンのモニターまで移動した。

「佐伯……?」
『ごめん、こんな時間に……でも、お前の所しか行くとこ思いつかなくて』
「一体どうし……いや、今開ける」

 律はオートロックを解除するボタンを押すと、玄関へ向かった。
 サンダルを履き、マンションの廊下に出る。

 少しばかり待っていると、エレベーターが到着したような音が聞こえた。
 廊下にのそっと現れた人物──それは、先ほどモニター越しに会話した陽向だった。

 俯き、トボトボと歩いてくる。
 律は小さな声で「佐伯」と陽向の名を呼んだ。

 陽向は律の声を聞き、顔を上げる。
 律が廊下で待ってくれていると考えていなかったようで、陽向は慌ててニコッと笑ってみせた。
 しかし、口の端がヒクつき、うまく笑えていなかった。

 *

「何か飲むか?」
「いや、いい……」

 律の家のリビング。
 陽向はテレビ前にあるソファーに座り、律が声を掛けた。

 俯いたままの陽向は、両ひざの間で両手を握り、右、左と互いの親指で互いの爪を撫でている。
 律は彼をチラッと横目で見た。

 陽向に何かがあったのは明白だ。
 しかし、それを指摘して無理やり話を聞き出そうとは思わなかった。

 つけっぱなしのテレビの音だけが部屋の中に響く。
 しばらくすると、陽向が口を開いた。

「篠宮……あのさ」
「ん?」
「俺、修学旅行に行けないかもしんない」
「は?」

 律は背もたれに預けていた体を起こし、陽向の方を向いた。
 陽向はまだ弄っている指を見つめながら、さらに言葉を続ける。

「お前から貰った弁当代がさ、消えたんだよね」
「消えた?」
「……うん。今度、学校に持っていこうと思って、数えようとしたらさ……消えてた」
「それって──」

『誰かに盗られたってことか?』

 そう続けようとして、律は口を噤む。
 誰かが陽向の金を盗んだ──と口にするということは、陽向の家族を疑うことを意味していた。

「…………」

 かける言葉が見つからない。
「それは残念だったな」とでも言えばいいのだろうか……?

「悪いな。お前がせっかく修学旅行に行けるようにって……べんとう契約を提案してくれたのに」
「いや、それは別に」
「お前の好意が無駄にしてしまった。本当にごめん」

 陽向の語尾が震えている。よく見れば組んでいた両手の指先も小刻みに揺れていた。
 修学旅行に行けないこともショックだが、陽向はそれ以上に修学旅行に行けるようにと協力してくれた律への申し訳なさに泣きたくなっていた。

 陽向の頭にポンッと大きな手が乗る。その手が数回ほど、ポンポンと軽く叩いてきた。
 
『気にするな』

 律の手のひらが、そう語っている。
 陽向の目尻に涙が浮かんだ。

「……ごめん」

 声を震わせながらそう言うと、陽向はさらに俯いた。
 その拍子に、一筋の雫が頬を伝う。

 律は頭に載せていた手にぐっと力を込める。
 柔らかなくせ毛の髪を自分の肩口に寄せた。

「……っ」

 陽向の体が小刻みに揺れる。
 彼の嗚咽は、テレビの音に搔き消されたのだった。


 **


「あれ……?」

 陽向は、まばたきを繰り返す。

 どうやら自分は寝ていたらしい。

 仰向けになっていた体をゴロンと横に向ける。
 すると、目の前に律の顔があった。

「──っ!?」

 目玉がこぼれ落ちそうなほどに目を見開き、叫び声を上げそうになる。
 驚きすぎて、心臓がドッドッと音を立てた。

 パニックになった頭が少し落ち着いたところで、ここは律の部屋で、自分が律と一緒にベッドに入っていることに気づく。

 おぼろげな記憶を辿る。
 家に来て、ソファーに座って律の肩を借りて……それ以降の記憶が……ない。

 もぞっと動くと、ふわりと律のにおいが陽向の鼻に届く。
 温かな布団が、律の大きな手を思い出させた。

 父が亡くなって、それからずっと頼りになるお兄ちゃんをやってきた。
 弟たちには寂しい思いをさせないようにと、少しでも父の代わりになれたらと弱みを見せずにやってきた。

 家のことを優先し、自分のことは極力後回しにしてきた。
 そんな自分がたった一つ、優先させたいことができた。
 それが「修学旅行」だった。

 一度はダメかと諦めた。
 
(諦めなくてもいいって思わせてくれたのは、篠宮なんだよな……)

 同級生から金を貰うことに抵抗はあったけれど、これは仕事なのだ、契約なのだと自分の感情を割り切らせてくれた。それもまた修学旅行へ行きたいと願う自分の心を後押ししてくれた。

 ──金が消えて、修学旅行にも行けなくなった。

 そう告げたとき、もっと「何でだよ」と問い詰められるかと思っていた。
 けれど、律はそんなことをすることなく、ただ隣で「気にするな」と頭を軽く叩いただけだった。

 思わず涙が零れた。
 申し訳なさも大きかったけれど、どちらかと言えば、弱っていた心に寄り添い、優しくされたことが嬉しかったのだ。

 誰かに頼る。
 父が亡くなってから、もうできないと思っていたことの一つだった。

「……ん……」

 もぞっと動いた律の腕が、陽向の背中にまわる。
 ぐっと引き寄せられ、陽向の顔は律の鎖骨の辺りに埋まった。

 身を捩って、律の腕から逃れようとしたが、その動きは律の拘束を強めた。

 律の体からトクトクと規則正しい心臓の音が聞こえる。
 陽向はその音を聞きながら、気づけばまぶたを閉じていたのだった。