【4話】

 陽向と律が、べんとう契約を交わして一ヵ月。
 
 時刻は午前六時四十分。
 スマホがブーブーと震える。

 律は布団から手を出し、スマホの動きを止める。
 そのまま微動だにしないでいると、五分後、またスマホが震え始めた。

 まぶたを開け、怠い身体を起こす。
 右手を喉に当て「ん゛っ」と声を出した。

 頭が重い。肩が熱い。

(この感じは……)

 *

(──やっぱり)

 リビングのソファーに座った律はぐったりしている。
 右手に持っている体温計は『38.6』という数字を示していた。

「はぁ……」とため息を吐く。
 ポケットからスマホを取り出し、学校のアプリを起動。
 学校には「熱があるため欠席」と連絡を入れた。

(っと、この時間ならまだ間に合うかな)

 律はSNSアプリを立ち上げる。
 陽向に「今日は弁当いらない。もし作ってたら、ごめん」と急ぎでメッセージを送った。

『わかった。まだ作ってないから大丈夫。弁当いらないってどうした?』
『風邪ひいた。熱があるから学校休む』
『なるほど。わかった。お大事に』

 陽向はメッセージのあと、小さな子猫がもう一匹の猫をよしよしと撫でているスタンプを送ってきた。
 それを見た律は、ふっと笑う。心の中がほんのりと温かくなった。
 
 ソファーにゴロンと寝転びながら、陽向から送られてきたメッセージとスタンプを何度も読み返す。
 あっさりとしたやり取りだったが、でも心配してくれている、自分に心を向けてくれていることが感じ取れて、嬉しかった。

 熱の影響か、律はそのままソファーでスマホを握りしめたまま寝てしまったのだった。


 **


 ──ピンポーン。


 家のチャイムの音が耳に届き、律は目を覚ます。
 ハッと起き上がったときには、汗をびっしょりかいていた。


 ──ピンポーン。


 チャイムがもう一度鳴る。
 律はソファーから立ち上がると、キッチンの横にあるインターホンのモニターを確認した。

「……佐伯?」

 モニターに映し出されたのは、陽向の顔。
 通話のボタンを押し「はい」と返事をする。すると、陽向の顔がパッと明るくなった。

「おーっす、篠宮。大丈夫か~?」

 カメラがある方に向かって、陽向が軽く手を振る。
「プリント持ってきてやったぞ~」と彼は言っていた。

「今、開ける。ちょっと待ってて」

 マンションはオートロックになっている。
 律はモニターの下部分にあるボタンを押し、オートロックの自動ドアを開け、陽向をマンション内に招いた。
 
 *

「お邪魔します」

 陽向がそう言って、靴を脱ぐ。
 律は前を歩き、リビングに案内した。

 リビングに入り、陽向は食卓テーブルの椅子に通学バッグを置くと、中を漁って、テーブルの上にプリントを置く。

「これ、プリントな」
「ん。ありがとう」

「はぁ」と律は息を吐く。目の前が一瞬くらっとした。
 椅子の背もたれを掴んで、身体が傾くのをこらえる。

 そんな彼の様子を見た陽向は、律に近づいた。

「どれどれ」

 右手を律のおでこに、左手を自分のおでこに当てる。
 律は目を見開いた。陽向は「あっつ!」と言って、すぐに手を離す。

「めちゃくちゃ熱あんじゃん! 俺すぐに帰るから、お前は早く布団に入れ!」
「え……でも、お茶くらい飲んで行けば」
「病人はそんなこと気にせず、飯食って薬飲んで、さっさと寝ろ!」

 陽向の「飯」の言葉に、律のお腹が「ぐぅ」と反応する。
 通学バッグを手に取り、リビングから立ち去ろうとした陽向がピタリと動きを止めた。
 ゆっくりと振り返り、律に問いかける。

「……そういや、篠宮。お前、飯は……?」

 問われてから、陽向がこの家に来るまでのことを思い出す。
 陽向がここへ来るまで、自分はソファーで寝ていた。

「……何も食ってない」
「一度も?」
「一度も」

 律の返事を聞いた陽向は通学バッグを元の位置──テーブルの椅子の上に置くと、冷蔵庫へ行き、扉を開けた。

「……佐伯?」
「悪い。勝手に開けた。玉子もないのか……この冷蔵庫、何も入ってないな。なぁ、篠宮。ご飯は? 米はどっかにある?」
「パックご飯なら、食器棚の下のところにあるけど」
「んじゃ、おかゆ作ってやるから、お前は布団で寝てろよ」
「……え?」

 陽向が律の元へやってきて、彼の背中を押す。
 ぐいぐいと廊下に追いやられ、律は自室を案内することになった。

 ベッドに潜り込むと、しっかりと掛け布団を掛けられ、お腹の辺りをポンポンと叩く。

「んじゃ、待ってろよ」

 陽向はそう言って律の部屋を出て、キッチンへと向かった。

 *

「お待たせ」

 陽向がトレイの上に器を乗せ、律の自室に入ってきた。
 律が起き上がると膝の上にトレイを乗せる。

 陽向は、部屋の中にあったクッションを二つ手に取った。律の背中の後ろにクッションを置き、もたれてもいいように工夫した。

「熱いから気をつけろよ」
「……ありがとう。いただきます」

 真っ白なただのおかゆ。
 律はレンゲで掬って、フーフーと息をかけた。それから口に運ぶ。

 ほんのりと塩気があって美味しい。
 
「……うまい」
「ただのおかゆだぞ?」
「すげーうまい。何か入れた?」

 律はまたフーフーと息を吹きかけ、レンゲを運ぶ。
 陽向は、「うーん」と左斜め上を見上げたあと、何かを思いついたらしく、律の顔を見た。

「俺の愛情! なんつってな!」

 ニカッと満面の笑みを見せる。
 律は「ぐふっ」とむせた。
 ゴホゴホと激しく咳をし、陽向は慌てて律の背中をさする。

「さ、えきっ……人を殺す気か……っ」
「ごっ、ごめん! 大丈夫?」

 咳が落ち着くと、陽向は律にティッシュ箱を差し出す。
 律は数枚引き抜くと、鼻をかんだ。それから食事を再開する。

 陽向はベッドの端に座って、律の様子をじっと見つめる。
 何やら食べにくさを感じた律は「……なに?」と口を開いた。

「あー……いや、篠宮んとこの親っていつ帰ってくるのかなぁって」
「さあ? 仕事が忙しくて、泊り込みだったり出張でいないことの方が多いから」
「え? じゃあ、今、お前が風邪ひいてるってことは……?」
「知らないんじゃないかな。言ってないし」

 いつもの事だし、といった様子で、レンゲを口に運ぶ。
 陽向はポカンとした顔を見せた。それから、部屋の中を見回したと思ったら、律の方へ身を乗り出す。

「なぁ! 俺、バイト始まるまでの間、ここにいていいか?」
「それは別にいいけど……家の夕飯は? 作んなくていいのか?」
「朔弥と陸と海に任せる! あいつらもカレーくらいなら、自分で作れるから」
「へぇ~……すごい。あの子たち料理できるんだ」

 律が感心していると、陽向が「そういえば」と言葉を続ける。

「篠宮は自分で料理とかやらないのか?」
「自分で料理……?」

 陽向の言葉に、律は目をぱちくりとさせる。
 考えもしなかった──と、そんな反応だった。

「そうか……自分で作る……」
「おいおい。何で『今気づきました!』って顔すんだよ……」
「いや、ずっと母さんに、『そんなことよりも勉強しなさい!』って、言われ続けてたから、自炊するって選択肢がまったくなかった」

 おかゆを食べ終えた律が両手を合わせ「ごちそうさま」と言う。
 陽向は、空になった器を見て、トレイを回収した。

「飲み物持ってくる。何がいい?」
「……水で」
「おっけー。あ、薬は? 飲む?」
「飲む。リビングのテレビ近くにあるチェストの一番上が、薬箱みたいになってるから」
「わかった。取りに行くついでに、ちょっと朔弥に連絡入れてくる」
「ああ」

 陽向が部屋を出ていくと、律は背中のクッションにもたれた。
 体が楽だ。こういう気づかいが嬉しいし、心地いい。

 自分以外の人間がこの家にいる。
 陽向がいるだけで、部屋の中がパッと華やかになった。
 冷え切った家の空気が温かくなったのを感じた律は、「ふぅ」と息を吐いた。

『俺の愛情! なんつってな!』

 先ほどの陽向の発言を思い出す。
 何の変哲もないただのおかゆが、どうしてこんなに美味しいのか知りたくて、問いかけた。
 
 予想外の答えだったが、どこかそれに納得した自分がいた。
 トクトクと心臓の音が聞こえる。……頬が熱い。

(熱、上がってるのかな)

 右手でおでこを押さえる。少し汗ばんでいた。
 熱が上がったのかどうか、わからない。

 陽向が薬と水を持って戻ってきた。
 彼が近くに来て、律は戸惑う。

「──あっぶねっ!」

 薬を口に入れ、水の入ったコップを受け取った。
 そのとき、手が触れた律は動揺し、コップを落としそうになった。

 陽向との距離感が気になる。
 今まで自分はどうしていただろうか……?

「篠宮、大丈夫か?」

 心配する陽向の顔を見上げる。
 なぜか、彼の顔を見て「可愛い」と思う自分に激しく動揺した。

「だ、だいじょうぶ。ちょっと寝る」
「わかった。俺はバイト時間までこの部屋で宿題してるわ」
「ああ……」

 律はそう言うと布団を頭から被った。
 先ほどより、心臓がドッドッと胸の内側を強く叩いている。

 陽向が部屋を一度出て、戻り、律の部屋にあるローテーブルの上に勉強道具を広げる。
 サラサラと鉛筆が走る音。教科書をめくる音。そして、時折聞こえる陽向の鼻歌。

 律はそっと布団から顔を出し、陽向の横顔を見つめた。
 ぽかぽかと温かくなった心を感じながら、気づけばいつの間にか、まぶたを閉じていたのだった。