【1話】
夜空に星が瞬く。
遅い時間に篠宮律は、自分の家のマンションへ帰ってきた。
「ただいま」
玄関で呟きながら、少し気だるげに靴を脱ぐ。
家の中は誰もいないようで真っ暗だ。明かりはついていない。
律は廊下の照明をつけることなく歩いて行く。
左手に持ったコンビニの袋がガサガサと音を立てた。
リビングのドアを開け、そのままキッチンへ直行。
コンビニの袋から弁当を取り出すと、電子レンジに入れ、『あたため』ボタンを押した。
レンジでお弁当を温めている間に、テレビをつける。
シン……としていた部屋の中が一気に明るくなった。
芸能人が食レポをやっている。おいしい、と感動している様子だった。
律は温め終わった弁当をテーブルに広げ、もそもそと食べながら、その番組を見ている。
弁当を半分ほど食べたところで、ペットボトルのお茶を一口飲み、「はぁ」と大きなため息を吐いた。
「……もう飽きたな」
弁当に置いた箸を再び手に取る気分にはなれないらしい。
律はテレビをじっと見つめながら、「ワハハ」と笑う声だけをただボーっと聞いていた。
ダイニングテーブルの中央にはメモが置いてある。
『ご飯はこれで食べてね』と書かれた内容とその下には五千円札が置いてあった。
******
べんとう契約はじめました!~同級生が雇い主!?~
******
草木の朝露が陽の光を反射する。
清々しい空気の中──表札に「佐伯」と書いてある家から、元気な男の子の声が聞こえてきた。
「兄ちゃん、オレの靴下どこー!?」
「兄ちゃん、オレのもない!」
双子の男の子たちの声のあと、フライパンを叩く音がカンカンと響く。
「お前ら~! そんなことは後でいいから、先に朝飯を食え~!」
お玉でフライパンを叩いていたのは佐伯家長男、佐伯陽向。十七歳の高校二年生。
茶髪で少し長い髪はハーフアップにしており、学校の制服の上に白いフリフリのエプロンを身に着けている。その姿はまるで主婦のようだった。
「にーちゃ! みてください!」
陽向の足元で、お絵描き帳を持っているのは、佐伯家の末っ子──名前は凛、五歳。
自分が描いた恐竜の絵を見ろ! と両手を突き出し、アピールしている。
陽向はフライパンを叩くのを止めた。
小さな頭をよしよしと撫でる。
「兄さんおはよう」
「おはよう朔弥。朝飯食っていくか?」
学ラン姿に眼鏡をかけた中学生──佐伯家次男の朔弥がキッチンに現れた。
他の弟たちに比べて、大人しく、賢そうな雰囲気のある男の子だ。
「ううん。時間ないから、このまま行くよ。ごめん」
「ふっふっふっ、そう言うだろうと思って用意しておいたぞ!」
じゃーん! と陽向が差し出したのは、ラップに包まれたおにぎりが二つ。
手を腰に当て、背中を反らせる。
ドヤ顔をする兄に朔弥はクスッと笑った。
「ありがと。学校に着いたら食べるね。それじゃ、行ってきます」
「おう! 気をつけてな~!」
朔弥が去った後、入れ替わるようにキッチンに現れた人物がいる。
佐伯ゆり──陽向たちの母親だ。
「おはよう。陽向」
「おはよう母さん、起きて大丈夫なの?」
「今日はね、ちょっと調子がいいの」
母はそう言った直後に「ケホケホ」と咳をする。
陽向は心配そうに母の背中をさすった。
母の姿に気づいた弟たちは、「母さん」「かーちゃ!」と騒がしくなる。
陽向はそんな弟たちに向かって「いいから早く食べろ!」と急かした。
「陽向、いつもごめんね」
「なにが?」
「家のこと、ほとんど任せちゃって……」
「そんなこと気にしなくていいってーの! 母さんは自分の体のことだけ考えてればいいから」
「でも……」
「俺は高校生、朔も中学生。大抵のことは自分たちでできるし、大丈夫」
母は少し眉を下げながら「……そうね」と返す。
陽向は弟たちに向かって、大声を放った。
「食ったらとっとと、学校行け~!」
「「兄ちゃん、靴下は!?」」
「色違いを履いても死なないから大丈夫だ!」
「「ええー!?」」
小学生ズの二人を家から追い出し、陽向は末っ子の弟を着替えさせる。
それから、自分の弁当をカバンに入れ、末っ子を小脇に抱えると玄関に向かう。
「にーちゃ! とーちゃに『いってきます』してません!」
末っ子に言われた言葉に陽向はピタリと足を止める。
「おっと、いけね。そうだった。凛はちゃんと覚えててえらいな~」
兄に褒められた末っ子──凛は「えへへ」と笑った。
くるりと振り返って、来た道を戻る。
リビングの一角に木製チェストがある。
その上に置いてある写真立に向かって、陽向と凛は両手を合わせた。
写真に写っている男性は陽向たちの父。
父は五年前に亡くなっていた。
(父さん、俺たちは今日も元気だよ)
父へ挨拶を済ませると、陽向は凛を再度小脇に抱えて、玄関へ急ぎ向かう。
「いってきまーす!」
「ます!」
元気な声と共に陽向と凛は家を出た。
**
「はよーっす」
クラスメイトが教室に入ってくるたびに、挨拶が飛び交う。
陽向は、窓際の後ろから二番目──自分の席に座って、スマホと睨めっこしていた。
「はよー……って陽向、何見てんの?」
「うーっす。スーパーのチラシだよん」
隣の席にやってきた男子が声をかけてきた。
陽向は彼の問いかけに返事をする。
佐伯家の主婦である陽向は、HRが始まるまでの時間も『主婦』をしていた。
学校帰りに寄るスーパーで特売品をチェック。
今日は玉子が安い日のようだ。
「おひとり様一パックかぁ……」
弟たちを連れてスーパーに突撃したいところだが、お菓子を買わされ逆に高くついてしまう。
そのため、陽向はいつも一人で買い物を済ませていた。
「……おはよう」
陽向の前から声が降ってくる。
スーパーのチラシに集中しすぎて、気づかなかった。
顔を上げると、陽向の前の席──篠宮律が挨拶をしてくれた。
「おはよう……珍しい。篠宮、今日は遅いんだな」
「ちょっと寝坊したんだ」
律が椅子を引き、席に座る。
彼は高身長、サラサラでストレートな髪、整った顔を持つイケメンだ。
目にかかるほどの前髪が惜しい。もう少し切れば女子にモテモテだろうに、本人はそのことにあまり興味はないようだ。
(……ん?)
陽向が律の机の横についているフックに目をやる。
そこには通学用のカバンしか引っかかっていなかった。
律はいつも学校へ来るとき、コンビニの袋を手に提げている。
今日は提げていない、ということは、本当に寝坊して、コンビニに寄る暇すらなかったのだろう。
「なぁ、篠宮。お前──」
「お前ら席につけー!」
陽向が律に声をかけようとして、遮られる。
遮ってきた相手は先生だった。先生の声と同時にホームルームを告げるチャイムが鳴った。
ホームルームを終えると、一限目の授業が始まる。
(まぁ……篠宮なら言わなくても知ってるか)
律に問いかけようとした陽向の言葉は、昼休みまで持ち越されてしまった。
**
「──え。マジで?」
学食のドアの前で、財布を持った律が立ち尽くす。
お昼休みのチャイムが鳴り、財布を持って急いでやってきたというのに、学食のドアは固く閉じられていた。
「…………」
律はどうしたものかとアゴに手を当てる。
すると、後ろから声をかけてくる人物がいた。
「あーやっぱりここにいた」
「佐伯……?」
聞き慣れた声が聞こえ、振り向くとそこにいたのは陽向だった。
律に近づくと、学食のドアを指さす。
「あのさ、学食改装中だから閉まってるんだよね!」
「……それは今見たからわかる」
律が指さした先には貼り紙があった。
『改装中につき、一週間利用できません』と書いてある。
(仕方がない……水でも飲んで誤魔化すか)
律は諦めのため息を吐いた。
そのとき、陽向が律に提案する。
「俺の弁当、半分やろうか?」
「いや、それは佐伯に悪いからいい──」
陽向の申し出を断ろうとしたタイミングで、律のお腹が「ぐぅ~」となった。
彼の頬が赤くなる。陽向は「ぶふっ」と噴き出した。
「腹は大丈夫だとは言ってないみたいだな?」
「……気のせいだろ」
「ん~……じゃあさ、等価交換といこうぜ! 弁当半分やる代わりに、俺にジュース奢ってくんない?」
「……それくらいなら別にいいけど」
律がそう言った途端「やったー!」と両手を上げて喜ぶ陽向。
二人は学食のすぐそばにある自販機へ向かった。
色んな飲み物がある中、陽向は「炭酸ジュースがいい」と言う。
「佐伯って味覚がお子様……?」
「あ゛?? 何だ篠宮、お前弁当いらねーの?」
陽向が律を睨む。
「そういう佐伯はジュースいらないのか?」
律は特に表情を変えることもなく、余裕な様子で陽向に言い返した。
見つめ合う二人。
根負けしたのは陽向だった。
「……いります」
「よろしい」
自販機のボタンをピッと押す。ゴロゴロガランとお目当てのジュースが出てきた。
律が取り出し口からペットボトルを取ると、陽向に渡す。
陽向は満面の笑みで「さんきゅー」とお礼を告げた。
*
教室に戻った二人は自分の席に着く。
律は自分の机を動かし、陽向の机とくっつけた。
陽向が律に向かって、おかずが半分になった弁当とお箸。そして、おにぎりを一つ差し出した。
自分の分のおかずは弁当の蓋の上に載っている。
「じゃ、これ篠宮の分な」
「…………」
律は弁当をじっと見つめる。
彼の表情に変わりはないが、しかし、どこか憧れている物が目の前にあるような雰囲気を醸し出していた。
律の変化に気づかない陽向はパンッと両手を合わせる。
「いただきまーす!」
「……いただきます」
陽向はラップおにぎりを手に取った。
パクッと一口食べて、もぐもぐと咀嚼している。
律はお箸を持つと玉子焼きを摘まんだ。
黄色く、程よい焼き目のついた玉子焼きを一口食べ──目を見開いた。
「……うまい」
息を吐くと同時に口からぽつりと出てしまった。
その呟きは陽向の耳に届いていた。
「マジ? そう言ってもらえると嬉しい。篠宮、さんきゅー」
陽向の口から出た言葉に驚いた律は顔を上げる。
「え? これ、もしかして佐伯が作ってるの?」
「そうだよん♪ 今日の玉子焼きはそんなに出来がよかったのか~俺も食べよ」
陽向は蓋の上にある玉子焼きを、ひょいっと摘まむと口に放り投げた。
もぐもぐと口を動かす。味を確かめながら「いつも通りだな?」と首をかしげた。
律はおにぎりに手を伸ばし、ラップを半分まで剥がしてから一口食べる。
「ほんと……うまいよ」
律の口から、また呟きが漏れる。
その声は小さすぎて、陽向の耳には届いていなかった。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
律が両手を合わせ、軽く頭を下げる。
陽向もそれに合わせ、ぺこりと頭を下げた。
空になった弁当箱を律から受け取った陽向は、大きめのハンカチ──ランチクロスで包む。
片づけをしたあと、律から奢ってもらったジュースの蓋をカシュッと開けた。
陽向は嬉しそうにペットボトルに口をつける。
その様子を見ながら律が、口を開いた。
「佐伯って料理上手いんだな」
「んなことねーよ。切って焼くくらいしか、できないし」
「そうなのか? 玉子焼き、ほんのり甘くてめちゃくちゃおいしかった」
ふわりと幸せそうに微笑む律。
律のその表情を間近で見てしまった陽向の心臓がドキッと跳ねる。
飲んでいた炭酸ジュースが気管に入り、陽向はゲホゲホとむせた。
「大丈夫か?」
「だ、だいじょう、ぶ」
律が心配そうに声をかける。先ほどの微笑みはもう消えていた。
普段、どちらかといえばあまり表情を変える印象のないクラスメイトが笑った。
ドキッとして動揺したのはそのせいだ、と、陽向はこの時、自分の小さな変化をスルーしていた。
**
キーンコーンと学校全体が今日一日の終わりのチャイムに包まれる。
教室の中がザワつき、帰り支度をするクラスメイトたち。
陽向もカバンを手に取り、帰り支度をしていた。
今日は夕方から玉子の特売がある。タイムセールが始まる前にスーパーへ行きたかった。
「佐伯! この後、職員室に来なさい」
担任の先生が陽向を呼ぶ。
陽向は「ええー?」という反応を示した。
*
言われた通り職員室へ来た陽向。
先生は椅子に座っている。
「先生、なに~? 夕方のタイムセールが俺を待ってるんだけど」
陽向は腰に手を当てながら、先生と対面する。
眼鏡をかけた三十代の先生は、陽向の方へ身体を向け、彼を見上げた。
「佐伯、お前修学旅行はどうするつもりなんだ?」
「どうするって?」
キョトンとする陽向。
突然「修学旅行」と言われてもピンときていないようだった。
先生は、そんな陽向に事情を説明する。
「お前だけ修学旅行費の積み立てをやってないから、このままだと行けないぞ?」
「あー……」
先生に言われて、ようやく気づいた。
そういえば一年のときに修学旅行の積み立てがどうとか言われていたが、高校という新生活とバイトに慣れることに精いっぱいで、後回しにして忘れていた。
「お前の家の事情もわかってはいるが、親御さんとしっかり話し合ってな。もし、行くのであれば三か月後までに十万円準備しておくんだぞ」
「じゅっ、じゅうまん!? 高くない!?」
「だから積み立てるんだろうが」
「確かに!」
先生は陽向に「話はそれだけだ。もう行っていいぞ」と告げる。
陽向も「へぇーい」と返事をし、手を振りながら職員室を去って行った。
陽向と担任の先生とのやり取りの一部始終を、少し離れた場所から見ている人物がいた。
「篠宮君、手伝ってくれてありがとう」
「……いえ」
五十代くらいの優し気な女の先生が律に向かって微笑む。
「この辺りに置いてくれる~?」という彼女の声を聞きながら、律は陽向が出て行った職員室のドアをじっと見つめていた。
**
『もし行くのであれば三か月後までに、十万円準備しておくんだぞ』
夜のビル。清掃のバイトをしている陽向は、先生に言われたことを思い出していた。
つなぎのような服に帽子を被り、モップ掛けをしている。
(……って言われても)
ゴシゴシと仕事をする陽向。
(十万なんて大金……)
「──ムリだろ」
モップの柄の部分に両手を置き、さらにその上にアゴを置いて、陽向は「はぁあああ~」と大きなため息を吐いた。
「あら、陽向くんどうしたの?」
同じバイト仲間の五十代くらいのおばさんが、沈んだ様子の陽向に声をかける。
つなぎ服についているネームプレートには「田中」と書かれている。
陽向は田中さんと「飴ちゃん食べる?」「いただきます」なんてやり取りを交わした。
そして、自分がため息を吐いている悩みをサラッと告げる。
「いや~どうやったらお金って増えるかなぁ~なんて考えてました」
「それはあれよぉ~! 働いたら、働いた分だけ増えるわよ!」
「……デスヨネー」
「もうひと踏ん張りするわよ!」「おー!」と陽向は田中さんと気合を入れ直した。
次にガラス窓を雑巾で拭きあげる。
──父さんが亡くなってから、母さんは女手一つで頑張っていた。
──けど、三年前に体調を崩してしまった。
──高校へ行かずに働こうとしていた俺を止めたのは母さん。
──学校へ行きなさいと送り出してくれた。
窓を拭き上げバイトが終わる。
ビルの外へ出ると田中さんが「おつかれさま~!」と、陽向に手を振り、その場で別れた。
──だから……
(修学旅行の話なんてしたら、絶対に無理して工面するに決まってる……!!)
そういう母なのだ。これまでも自分の体のことより、子どものことを優先してきた。
陽向は足を止め、「うぉおおおおお」と頭を抱えた。
夜空には月がぽっかりと浮かんでいる。
陽向は、その月を見上げた。
「はぁ……」と小さなため息が出る。
見上げたまま陽向は、
「行きてーなぁ……修学旅行」
ぽつりと呟いた。
***
翌朝、学校の教室。
陽向は自分の机に座って、頬杖をつき、ボーっとしていた。
「……おはよう」
と、律に声を掛けられるまで、近くに人がいることに気づかないほどだった。
ハッとした陽向は「おはよう」と挨拶を返す。
椅子を引いて座った律は、陽向の方を向いて、また声をかけてきた。
「佐伯がスーパーのチラシ情報見てないなんて、珍しいね」
「ん? あー……うん」
陽向は指摘され、ルーティンと化していたチラシチェックをやっていなかったことに気づく。
スマホを取り出し、今からチェックしようとしていたところに、律がさらに声を重ねてきた。
「あのさ、昨日、佐伯が先生と話してた内容……実は俺もあの場にいて聞いちゃったんだけど」
「え? マジ? あ、あはは……いやぁ~お恥ずかしい」
修学旅行費が払えていない。
クラスメイトのそのことが知られ、陽向は恥ずかしいと困り顔をしつつ、頬を染める。
ポリポリと頬を掻き、「あはは」と笑って誤魔化そうとした。
そんな彼に向かって、律は一つ提案を持ちかける。
「佐伯さ、期間限定のバイトする気ない?」
「期間限定のバイト?」
バイトと言われて、陽向の耳がピクリと反応する。
長いこと金に困っている者の性と言っていいほど、金のことには敏感になっていた。
「バイトって言われても……俺、結構バイトやってるから、隙間時間とかあんまないけど」
「時間はそう取らないと思う。っていうか、ついでにできることだし」
「ついで?」
陽向は首を傾げる。
律は陽向に向かって「うん」とうなずいた。
「俺の弁当を作るバイトなんだけど。どうかな?」
「──は?」
考えもしなかったバイトの内容に、陽向はポカンと口を開ける。
律はそのまま話を続けた。
「この前食べた佐伯の弁当。おいしかったから、また作ってくれない?」
「それはありがと。でも、何で弁当のバイト?」
律は自分の机の横に引っかけたコンビニの袋を手に取る。
それを陽向の机の上に置いた。
「もうコンビニの弁当も学食も飽きてるんだ。同じお金を出すんなら、俺、お前の作った弁当が食べたい」
「はぁ……」
「一回千円でどう? あ。材料費は別で出す」
「えっ!? ちょっ、ちょっと待て。いやいやいや、あんな弁当に千円って」
陽向は両手を顔の前で振る。
「冗談でしょ?」と言うような仕草をする陽向に対し、律は真剣な顔つきだった。
「安すぎた? いくらならいい? 三千円くらいまでなら出せる」
「さっ、さんぜん!?」
驚きのあまり陽向は大声が出る。慌てて、両手で自分の口を塞いだ。
陽向の声にクラスの視線が一瞬集まる。しかし、クラスの皆はすぐに自分たちの話に戻っていった。
「俺の作る弁当に千円は高いって……!」
陽向は右手を口元に添え、ヒソヒソ声で話をする。
律は気にせず、普段通りの声量で返した。
「人件費含めたら千円でも安いと思う」
「そうかぁ!? でも、千円もあったらもっと美味しいものが食べれるんじゃないのか?」
「そうかな?」
「そうだよ」
互いに見つめ合う。
一瞬の間があり、律が口を開いた。
「俺は佐伯が作った弁当が食べたい。佐伯は修学旅行費を貯めたい。佐伯が自分の弁当を作るついでに、俺のも作ってくれれば、一日千円が手に入る。これってお互いにWin-Winの関係になると思うんだけど?」
律は左右の手のひらを上に向け、天秤のような仕草をした。
「Win-Win」の言葉に「確かに」と、陽向は思わずうなずきたくなる。
腕を組み、うーん……うーん……と左右に頭を傾ける。
果たして、クラスメイトからお金をもらっていいものかと陽向は悩んだ。
「……俺の作る弁当は茶色一色になるときもあるぞ?」
「かまわない。……あ、いや、一つリクエストいいかな? 玉子焼きは入れて欲しい」
「もっと彩のある弁当にしろ」と言われると思った陽向だったが、律の返事は「それでも構わない」とのことだった。
正直、陽向にとっては、かなりありがたい申し出だった。
自分ができることで、お金を得られる。
修学旅行を諦めきれない陽向は、律の提案に乗ることにした。
「わかった。じゃあ作る」
陽向の返事を聞いた律は、嬉しそうに微笑んだ。
その微笑みは、陽向が作った弁当を「おいしい」と言って笑った顔と同じだった。
「それじゃ、契約成立だな」
律は椅子から立ち上がると、陽向に向かって右手を差し出した。
陽向も立ち上がり、右手を差し出す。
二人の視線が交差する。
「「よろしく」」
二人同時にそう言うと、握手を交わしたのだった。
夜空に星が瞬く。
遅い時間に篠宮律は、自分の家のマンションへ帰ってきた。
「ただいま」
玄関で呟きながら、少し気だるげに靴を脱ぐ。
家の中は誰もいないようで真っ暗だ。明かりはついていない。
律は廊下の照明をつけることなく歩いて行く。
左手に持ったコンビニの袋がガサガサと音を立てた。
リビングのドアを開け、そのままキッチンへ直行。
コンビニの袋から弁当を取り出すと、電子レンジに入れ、『あたため』ボタンを押した。
レンジでお弁当を温めている間に、テレビをつける。
シン……としていた部屋の中が一気に明るくなった。
芸能人が食レポをやっている。おいしい、と感動している様子だった。
律は温め終わった弁当をテーブルに広げ、もそもそと食べながら、その番組を見ている。
弁当を半分ほど食べたところで、ペットボトルのお茶を一口飲み、「はぁ」と大きなため息を吐いた。
「……もう飽きたな」
弁当に置いた箸を再び手に取る気分にはなれないらしい。
律はテレビをじっと見つめながら、「ワハハ」と笑う声だけをただボーっと聞いていた。
ダイニングテーブルの中央にはメモが置いてある。
『ご飯はこれで食べてね』と書かれた内容とその下には五千円札が置いてあった。
******
べんとう契約はじめました!~同級生が雇い主!?~
******
草木の朝露が陽の光を反射する。
清々しい空気の中──表札に「佐伯」と書いてある家から、元気な男の子の声が聞こえてきた。
「兄ちゃん、オレの靴下どこー!?」
「兄ちゃん、オレのもない!」
双子の男の子たちの声のあと、フライパンを叩く音がカンカンと響く。
「お前ら~! そんなことは後でいいから、先に朝飯を食え~!」
お玉でフライパンを叩いていたのは佐伯家長男、佐伯陽向。十七歳の高校二年生。
茶髪で少し長い髪はハーフアップにしており、学校の制服の上に白いフリフリのエプロンを身に着けている。その姿はまるで主婦のようだった。
「にーちゃ! みてください!」
陽向の足元で、お絵描き帳を持っているのは、佐伯家の末っ子──名前は凛、五歳。
自分が描いた恐竜の絵を見ろ! と両手を突き出し、アピールしている。
陽向はフライパンを叩くのを止めた。
小さな頭をよしよしと撫でる。
「兄さんおはよう」
「おはよう朔弥。朝飯食っていくか?」
学ラン姿に眼鏡をかけた中学生──佐伯家次男の朔弥がキッチンに現れた。
他の弟たちに比べて、大人しく、賢そうな雰囲気のある男の子だ。
「ううん。時間ないから、このまま行くよ。ごめん」
「ふっふっふっ、そう言うだろうと思って用意しておいたぞ!」
じゃーん! と陽向が差し出したのは、ラップに包まれたおにぎりが二つ。
手を腰に当て、背中を反らせる。
ドヤ顔をする兄に朔弥はクスッと笑った。
「ありがと。学校に着いたら食べるね。それじゃ、行ってきます」
「おう! 気をつけてな~!」
朔弥が去った後、入れ替わるようにキッチンに現れた人物がいる。
佐伯ゆり──陽向たちの母親だ。
「おはよう。陽向」
「おはよう母さん、起きて大丈夫なの?」
「今日はね、ちょっと調子がいいの」
母はそう言った直後に「ケホケホ」と咳をする。
陽向は心配そうに母の背中をさすった。
母の姿に気づいた弟たちは、「母さん」「かーちゃ!」と騒がしくなる。
陽向はそんな弟たちに向かって「いいから早く食べろ!」と急かした。
「陽向、いつもごめんね」
「なにが?」
「家のこと、ほとんど任せちゃって……」
「そんなこと気にしなくていいってーの! 母さんは自分の体のことだけ考えてればいいから」
「でも……」
「俺は高校生、朔も中学生。大抵のことは自分たちでできるし、大丈夫」
母は少し眉を下げながら「……そうね」と返す。
陽向は弟たちに向かって、大声を放った。
「食ったらとっとと、学校行け~!」
「「兄ちゃん、靴下は!?」」
「色違いを履いても死なないから大丈夫だ!」
「「ええー!?」」
小学生ズの二人を家から追い出し、陽向は末っ子の弟を着替えさせる。
それから、自分の弁当をカバンに入れ、末っ子を小脇に抱えると玄関に向かう。
「にーちゃ! とーちゃに『いってきます』してません!」
末っ子に言われた言葉に陽向はピタリと足を止める。
「おっと、いけね。そうだった。凛はちゃんと覚えててえらいな~」
兄に褒められた末っ子──凛は「えへへ」と笑った。
くるりと振り返って、来た道を戻る。
リビングの一角に木製チェストがある。
その上に置いてある写真立に向かって、陽向と凛は両手を合わせた。
写真に写っている男性は陽向たちの父。
父は五年前に亡くなっていた。
(父さん、俺たちは今日も元気だよ)
父へ挨拶を済ませると、陽向は凛を再度小脇に抱えて、玄関へ急ぎ向かう。
「いってきまーす!」
「ます!」
元気な声と共に陽向と凛は家を出た。
**
「はよーっす」
クラスメイトが教室に入ってくるたびに、挨拶が飛び交う。
陽向は、窓際の後ろから二番目──自分の席に座って、スマホと睨めっこしていた。
「はよー……って陽向、何見てんの?」
「うーっす。スーパーのチラシだよん」
隣の席にやってきた男子が声をかけてきた。
陽向は彼の問いかけに返事をする。
佐伯家の主婦である陽向は、HRが始まるまでの時間も『主婦』をしていた。
学校帰りに寄るスーパーで特売品をチェック。
今日は玉子が安い日のようだ。
「おひとり様一パックかぁ……」
弟たちを連れてスーパーに突撃したいところだが、お菓子を買わされ逆に高くついてしまう。
そのため、陽向はいつも一人で買い物を済ませていた。
「……おはよう」
陽向の前から声が降ってくる。
スーパーのチラシに集中しすぎて、気づかなかった。
顔を上げると、陽向の前の席──篠宮律が挨拶をしてくれた。
「おはよう……珍しい。篠宮、今日は遅いんだな」
「ちょっと寝坊したんだ」
律が椅子を引き、席に座る。
彼は高身長、サラサラでストレートな髪、整った顔を持つイケメンだ。
目にかかるほどの前髪が惜しい。もう少し切れば女子にモテモテだろうに、本人はそのことにあまり興味はないようだ。
(……ん?)
陽向が律の机の横についているフックに目をやる。
そこには通学用のカバンしか引っかかっていなかった。
律はいつも学校へ来るとき、コンビニの袋を手に提げている。
今日は提げていない、ということは、本当に寝坊して、コンビニに寄る暇すらなかったのだろう。
「なぁ、篠宮。お前──」
「お前ら席につけー!」
陽向が律に声をかけようとして、遮られる。
遮ってきた相手は先生だった。先生の声と同時にホームルームを告げるチャイムが鳴った。
ホームルームを終えると、一限目の授業が始まる。
(まぁ……篠宮なら言わなくても知ってるか)
律に問いかけようとした陽向の言葉は、昼休みまで持ち越されてしまった。
**
「──え。マジで?」
学食のドアの前で、財布を持った律が立ち尽くす。
お昼休みのチャイムが鳴り、財布を持って急いでやってきたというのに、学食のドアは固く閉じられていた。
「…………」
律はどうしたものかとアゴに手を当てる。
すると、後ろから声をかけてくる人物がいた。
「あーやっぱりここにいた」
「佐伯……?」
聞き慣れた声が聞こえ、振り向くとそこにいたのは陽向だった。
律に近づくと、学食のドアを指さす。
「あのさ、学食改装中だから閉まってるんだよね!」
「……それは今見たからわかる」
律が指さした先には貼り紙があった。
『改装中につき、一週間利用できません』と書いてある。
(仕方がない……水でも飲んで誤魔化すか)
律は諦めのため息を吐いた。
そのとき、陽向が律に提案する。
「俺の弁当、半分やろうか?」
「いや、それは佐伯に悪いからいい──」
陽向の申し出を断ろうとしたタイミングで、律のお腹が「ぐぅ~」となった。
彼の頬が赤くなる。陽向は「ぶふっ」と噴き出した。
「腹は大丈夫だとは言ってないみたいだな?」
「……気のせいだろ」
「ん~……じゃあさ、等価交換といこうぜ! 弁当半分やる代わりに、俺にジュース奢ってくんない?」
「……それくらいなら別にいいけど」
律がそう言った途端「やったー!」と両手を上げて喜ぶ陽向。
二人は学食のすぐそばにある自販機へ向かった。
色んな飲み物がある中、陽向は「炭酸ジュースがいい」と言う。
「佐伯って味覚がお子様……?」
「あ゛?? 何だ篠宮、お前弁当いらねーの?」
陽向が律を睨む。
「そういう佐伯はジュースいらないのか?」
律は特に表情を変えることもなく、余裕な様子で陽向に言い返した。
見つめ合う二人。
根負けしたのは陽向だった。
「……いります」
「よろしい」
自販機のボタンをピッと押す。ゴロゴロガランとお目当てのジュースが出てきた。
律が取り出し口からペットボトルを取ると、陽向に渡す。
陽向は満面の笑みで「さんきゅー」とお礼を告げた。
*
教室に戻った二人は自分の席に着く。
律は自分の机を動かし、陽向の机とくっつけた。
陽向が律に向かって、おかずが半分になった弁当とお箸。そして、おにぎりを一つ差し出した。
自分の分のおかずは弁当の蓋の上に載っている。
「じゃ、これ篠宮の分な」
「…………」
律は弁当をじっと見つめる。
彼の表情に変わりはないが、しかし、どこか憧れている物が目の前にあるような雰囲気を醸し出していた。
律の変化に気づかない陽向はパンッと両手を合わせる。
「いただきまーす!」
「……いただきます」
陽向はラップおにぎりを手に取った。
パクッと一口食べて、もぐもぐと咀嚼している。
律はお箸を持つと玉子焼きを摘まんだ。
黄色く、程よい焼き目のついた玉子焼きを一口食べ──目を見開いた。
「……うまい」
息を吐くと同時に口からぽつりと出てしまった。
その呟きは陽向の耳に届いていた。
「マジ? そう言ってもらえると嬉しい。篠宮、さんきゅー」
陽向の口から出た言葉に驚いた律は顔を上げる。
「え? これ、もしかして佐伯が作ってるの?」
「そうだよん♪ 今日の玉子焼きはそんなに出来がよかったのか~俺も食べよ」
陽向は蓋の上にある玉子焼きを、ひょいっと摘まむと口に放り投げた。
もぐもぐと口を動かす。味を確かめながら「いつも通りだな?」と首をかしげた。
律はおにぎりに手を伸ばし、ラップを半分まで剥がしてから一口食べる。
「ほんと……うまいよ」
律の口から、また呟きが漏れる。
その声は小さすぎて、陽向の耳には届いていなかった。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
律が両手を合わせ、軽く頭を下げる。
陽向もそれに合わせ、ぺこりと頭を下げた。
空になった弁当箱を律から受け取った陽向は、大きめのハンカチ──ランチクロスで包む。
片づけをしたあと、律から奢ってもらったジュースの蓋をカシュッと開けた。
陽向は嬉しそうにペットボトルに口をつける。
その様子を見ながら律が、口を開いた。
「佐伯って料理上手いんだな」
「んなことねーよ。切って焼くくらいしか、できないし」
「そうなのか? 玉子焼き、ほんのり甘くてめちゃくちゃおいしかった」
ふわりと幸せそうに微笑む律。
律のその表情を間近で見てしまった陽向の心臓がドキッと跳ねる。
飲んでいた炭酸ジュースが気管に入り、陽向はゲホゲホとむせた。
「大丈夫か?」
「だ、だいじょう、ぶ」
律が心配そうに声をかける。先ほどの微笑みはもう消えていた。
普段、どちらかといえばあまり表情を変える印象のないクラスメイトが笑った。
ドキッとして動揺したのはそのせいだ、と、陽向はこの時、自分の小さな変化をスルーしていた。
**
キーンコーンと学校全体が今日一日の終わりのチャイムに包まれる。
教室の中がザワつき、帰り支度をするクラスメイトたち。
陽向もカバンを手に取り、帰り支度をしていた。
今日は夕方から玉子の特売がある。タイムセールが始まる前にスーパーへ行きたかった。
「佐伯! この後、職員室に来なさい」
担任の先生が陽向を呼ぶ。
陽向は「ええー?」という反応を示した。
*
言われた通り職員室へ来た陽向。
先生は椅子に座っている。
「先生、なに~? 夕方のタイムセールが俺を待ってるんだけど」
陽向は腰に手を当てながら、先生と対面する。
眼鏡をかけた三十代の先生は、陽向の方へ身体を向け、彼を見上げた。
「佐伯、お前修学旅行はどうするつもりなんだ?」
「どうするって?」
キョトンとする陽向。
突然「修学旅行」と言われてもピンときていないようだった。
先生は、そんな陽向に事情を説明する。
「お前だけ修学旅行費の積み立てをやってないから、このままだと行けないぞ?」
「あー……」
先生に言われて、ようやく気づいた。
そういえば一年のときに修学旅行の積み立てがどうとか言われていたが、高校という新生活とバイトに慣れることに精いっぱいで、後回しにして忘れていた。
「お前の家の事情もわかってはいるが、親御さんとしっかり話し合ってな。もし、行くのであれば三か月後までに十万円準備しておくんだぞ」
「じゅっ、じゅうまん!? 高くない!?」
「だから積み立てるんだろうが」
「確かに!」
先生は陽向に「話はそれだけだ。もう行っていいぞ」と告げる。
陽向も「へぇーい」と返事をし、手を振りながら職員室を去って行った。
陽向と担任の先生とのやり取りの一部始終を、少し離れた場所から見ている人物がいた。
「篠宮君、手伝ってくれてありがとう」
「……いえ」
五十代くらいの優し気な女の先生が律に向かって微笑む。
「この辺りに置いてくれる~?」という彼女の声を聞きながら、律は陽向が出て行った職員室のドアをじっと見つめていた。
**
『もし行くのであれば三か月後までに、十万円準備しておくんだぞ』
夜のビル。清掃のバイトをしている陽向は、先生に言われたことを思い出していた。
つなぎのような服に帽子を被り、モップ掛けをしている。
(……って言われても)
ゴシゴシと仕事をする陽向。
(十万なんて大金……)
「──ムリだろ」
モップの柄の部分に両手を置き、さらにその上にアゴを置いて、陽向は「はぁあああ~」と大きなため息を吐いた。
「あら、陽向くんどうしたの?」
同じバイト仲間の五十代くらいのおばさんが、沈んだ様子の陽向に声をかける。
つなぎ服についているネームプレートには「田中」と書かれている。
陽向は田中さんと「飴ちゃん食べる?」「いただきます」なんてやり取りを交わした。
そして、自分がため息を吐いている悩みをサラッと告げる。
「いや~どうやったらお金って増えるかなぁ~なんて考えてました」
「それはあれよぉ~! 働いたら、働いた分だけ増えるわよ!」
「……デスヨネー」
「もうひと踏ん張りするわよ!」「おー!」と陽向は田中さんと気合を入れ直した。
次にガラス窓を雑巾で拭きあげる。
──父さんが亡くなってから、母さんは女手一つで頑張っていた。
──けど、三年前に体調を崩してしまった。
──高校へ行かずに働こうとしていた俺を止めたのは母さん。
──学校へ行きなさいと送り出してくれた。
窓を拭き上げバイトが終わる。
ビルの外へ出ると田中さんが「おつかれさま~!」と、陽向に手を振り、その場で別れた。
──だから……
(修学旅行の話なんてしたら、絶対に無理して工面するに決まってる……!!)
そういう母なのだ。これまでも自分の体のことより、子どものことを優先してきた。
陽向は足を止め、「うぉおおおおお」と頭を抱えた。
夜空には月がぽっかりと浮かんでいる。
陽向は、その月を見上げた。
「はぁ……」と小さなため息が出る。
見上げたまま陽向は、
「行きてーなぁ……修学旅行」
ぽつりと呟いた。
***
翌朝、学校の教室。
陽向は自分の机に座って、頬杖をつき、ボーっとしていた。
「……おはよう」
と、律に声を掛けられるまで、近くに人がいることに気づかないほどだった。
ハッとした陽向は「おはよう」と挨拶を返す。
椅子を引いて座った律は、陽向の方を向いて、また声をかけてきた。
「佐伯がスーパーのチラシ情報見てないなんて、珍しいね」
「ん? あー……うん」
陽向は指摘され、ルーティンと化していたチラシチェックをやっていなかったことに気づく。
スマホを取り出し、今からチェックしようとしていたところに、律がさらに声を重ねてきた。
「あのさ、昨日、佐伯が先生と話してた内容……実は俺もあの場にいて聞いちゃったんだけど」
「え? マジ? あ、あはは……いやぁ~お恥ずかしい」
修学旅行費が払えていない。
クラスメイトのそのことが知られ、陽向は恥ずかしいと困り顔をしつつ、頬を染める。
ポリポリと頬を掻き、「あはは」と笑って誤魔化そうとした。
そんな彼に向かって、律は一つ提案を持ちかける。
「佐伯さ、期間限定のバイトする気ない?」
「期間限定のバイト?」
バイトと言われて、陽向の耳がピクリと反応する。
長いこと金に困っている者の性と言っていいほど、金のことには敏感になっていた。
「バイトって言われても……俺、結構バイトやってるから、隙間時間とかあんまないけど」
「時間はそう取らないと思う。っていうか、ついでにできることだし」
「ついで?」
陽向は首を傾げる。
律は陽向に向かって「うん」とうなずいた。
「俺の弁当を作るバイトなんだけど。どうかな?」
「──は?」
考えもしなかったバイトの内容に、陽向はポカンと口を開ける。
律はそのまま話を続けた。
「この前食べた佐伯の弁当。おいしかったから、また作ってくれない?」
「それはありがと。でも、何で弁当のバイト?」
律は自分の机の横に引っかけたコンビニの袋を手に取る。
それを陽向の机の上に置いた。
「もうコンビニの弁当も学食も飽きてるんだ。同じお金を出すんなら、俺、お前の作った弁当が食べたい」
「はぁ……」
「一回千円でどう? あ。材料費は別で出す」
「えっ!? ちょっ、ちょっと待て。いやいやいや、あんな弁当に千円って」
陽向は両手を顔の前で振る。
「冗談でしょ?」と言うような仕草をする陽向に対し、律は真剣な顔つきだった。
「安すぎた? いくらならいい? 三千円くらいまでなら出せる」
「さっ、さんぜん!?」
驚きのあまり陽向は大声が出る。慌てて、両手で自分の口を塞いだ。
陽向の声にクラスの視線が一瞬集まる。しかし、クラスの皆はすぐに自分たちの話に戻っていった。
「俺の作る弁当に千円は高いって……!」
陽向は右手を口元に添え、ヒソヒソ声で話をする。
律は気にせず、普段通りの声量で返した。
「人件費含めたら千円でも安いと思う」
「そうかぁ!? でも、千円もあったらもっと美味しいものが食べれるんじゃないのか?」
「そうかな?」
「そうだよ」
互いに見つめ合う。
一瞬の間があり、律が口を開いた。
「俺は佐伯が作った弁当が食べたい。佐伯は修学旅行費を貯めたい。佐伯が自分の弁当を作るついでに、俺のも作ってくれれば、一日千円が手に入る。これってお互いにWin-Winの関係になると思うんだけど?」
律は左右の手のひらを上に向け、天秤のような仕草をした。
「Win-Win」の言葉に「確かに」と、陽向は思わずうなずきたくなる。
腕を組み、うーん……うーん……と左右に頭を傾ける。
果たして、クラスメイトからお金をもらっていいものかと陽向は悩んだ。
「……俺の作る弁当は茶色一色になるときもあるぞ?」
「かまわない。……あ、いや、一つリクエストいいかな? 玉子焼きは入れて欲しい」
「もっと彩のある弁当にしろ」と言われると思った陽向だったが、律の返事は「それでも構わない」とのことだった。
正直、陽向にとっては、かなりありがたい申し出だった。
自分ができることで、お金を得られる。
修学旅行を諦めきれない陽向は、律の提案に乗ることにした。
「わかった。じゃあ作る」
陽向の返事を聞いた律は、嬉しそうに微笑んだ。
その微笑みは、陽向が作った弁当を「おいしい」と言って笑った顔と同じだった。
「それじゃ、契約成立だな」
律は椅子から立ち上がると、陽向に向かって右手を差し出した。
陽向も立ち上がり、右手を差し出す。
二人の視線が交差する。
「「よろしく」」
二人同時にそう言うと、握手を交わしたのだった。


