君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

やって来たのは人気のない空き教室。
私たちは二人きりで向かい合った。

流れる沈黙がどこか気まずい。
そんなこと、恭介と一緒にいて初めて感じた。

「解離性健忘愛症候群」

恭介の口から出たその言葉に、はっと顔を上げる。

「俺が今この病気を患っていて、その対象者が白石奈子―――あんただっていうのは陽子さんから聞いてた」

「そう……なんだ」

「発症するまでの俺とあんたは、恋人同士だった」

恭介の言葉に、私は頷く。
本音を言うと、少し期待していた。
恭介がその事実を知ったことで、今のヒビ割れた私たちの関係も、何か変わってくれないだろうかと。

「でも、今の俺はそんな気持ちを持っていない」

しかし次の瞬間、叩き落とされる。

「病気のせいだろうと何だろうと、俺はあんたに好感を持てない。
むしろこうやって対面すると、胃がムカムカするような不快感がある。
できることなら視界に入れていたくないとすら思う」

恭介は、私にはっきりと“現実”を突きつける。

「悪いけど、これが本音。
それはこれからも変わらない」

声にならない。
心臓の音と乱れた呼吸音だけが、耳障りに鳴り響く。

「こんな男に執着するだけ時間の無駄だと思うよ」

だからさ、と恭介がその口で終わりを告げる。

「―――もう俺に関わらないで」

その時私は頭の片隅で、以前に調べたこの病の症状例の一つを思い出した。

“対象者を愛する気持ちが大きい程、その気持ちが反転して嫌悪感も大きくなる”

ああ。
こんなことで、かつてのあなたからの愛を確認したくなかった。


恭介からの拒絶は、私をいとも容易く臆病にしてしまった。

私が会いに行かなければ、恭介との繋がりは完全になくなる。
でも、関わるなと言われたのに押しかけて、余計に嫌われたら?

もう一度恭介に拒絶されたら、もう立ち直れない気がしてしまう。
足が縫い止められたように動かなくて、結局あれから恭介に会うことはできていない。

私の隣から恭介がいなくなった日常は、まるで色を失ったかのようだった。

今日は、第三週目の金曜日。
私の足は自然と音楽室に向かっていた。

扉を開けて中に入れば、そこには誰もいない。

「……来るわけ、ないよね」

いつかの恭介のように、壁際の床に膝を抱えて座り込む。

私たちが出会ったことも、一緒に過ごしたことも。
全てがなかったこととして、このまま消えていってしまうのかな。

「……嫌だなぁ……」

鼻の奥がツンと痛くなって、膝に顔を埋めた。
―――こんな思いをするくらいなら、恋なんてしたくなかった。

そんな時聞こえてくる足音。
ガラリとドアが開いた。

「……奈子ちゃん……!」

その声で、もう一度呼んでほしいと思っていた。

「……恭介……?」

顔を上げれば、私の愛した人がそこにいた。