君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

私は母の手を握り、震える指で文字盤をゆっくりなぞった。

「オ」「カ」「ア」「サ」「ン」
「ノ」「コ」
「ニ」「ウ」「マ」「レ」「テ」
「ヨ」「カ」「ッ」「タ」

母の瞳から、大粒の涙が溢れた。

「奈子……奈子……」

掠れた声で何度も私の名を呼びながら、私を抱きしめてくれる。
その温もりは、子どもの頃に感じたものと少しも変わらなかった。

その隣では、彩音が声を殺して泣いていた。
彼女は涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、私の手を強く握る。

「……やだよ、奈子、行かないでよ……。
まだ、これからもずっとずっと一緒にいたい……。
笑ってバカやって、海とか花火とか……やりたいこと、いっぱい残ってるんだよ……!
やだ、やだよ……!」

彼女の手は熱くて、震えていて、それでも確かに私をこの世につなぎ止めようとしていた。
その強さが、ただただ愛おしかった。

千尋くんは泣き笑いを浮かべながら、私の髪を撫でてくれた。

「……奈子、最後まで頑張ったね。もう、十分だよ。ずっと、偉かったよ」

その声を聞いただけで、不思議と心がふっと軽くなる。
私は「ありがとう」と伝えたくて、文字盤に震える指を置いた。

「ア」「ヤ」「ネ」
「チ」「ヒ」「ロ」
「ア」「リ」「ガ」「ト」「ウ」

二人は顔を見合わせて、ますます涙を流しながら、私の手を両側から包み込んでくれた。
―――ああ、幸せだな。こんなにも大切に想われて。


そして、最後に恭介を見た。
涙でにじむ彼の顔が、なぜかはっきり見える。

「……わたし、ほんとは……」
声がもう出ない。だから文字盤に震える指を走らせる。

「ワ」「ス」「レ」「テ」
「ク」「レ」「テ」
「ヨ」「カ」「ッ」「タ」
「ッ」「テ」
「ワ」「ラ」「ッ」「テ」
「イ」「キ」「タ」

泣き笑いの顔になってしまう。
“忘れてくれてよかった”って、綺麗に笑って逝きたかったの。……本当だよ?

最後の力を振り絞り、もう一度指を動かす。

「オ」「モ」「イ」「ダ」「シ」「テ」
「ク」「レ」「テ」
「ア」「リ」「ガ」「ト」「ウ」

恭介の瞳が、泣き叫ぶように大きく揺れる。

「奈子、ちゃ……奈子ちゃん……!
いかないで、ねえ、いかないでよ……!
…………ぁ、ぁぁぁあああ…………っ!」

胸を抉るような恭介の叫び声。

その声に縋るように、彩音が「いやだよ、奈子!」と泣き叫び、
千尋が「ありがとう、奈子ちゃん……」と震える声で重ねる。

全部が重なって、私の胸に深く届く。
涙がこぼれそうで……でももう、こぼす力すら残っていなかった。

―――思い出してくれて、ありがとう。

その言葉だけを胸に抱き、私はかすかに唇を上げた。
涙をこらえながら、それでも最後の力で―――微笑む。

その瞬間、視界が滲み、音が遠のいていく。

「奈子ちゃん……! 奈子!」
必死に呼ぶ恭介の声だけが、闇に沈む私を追いかけてきた。

最期に見たのは、大切な友人たち(彩音と千尋くん)の涙と、母の笑顔。


そして―――私の名を呼ぶ、恭介の瞳だった。