君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

退院して自宅に戻ると、恭介は毎日のように通ってきてくれた。

予感の通り、恭介が再び記憶を失うことはなかった。
「まさかこんなことがあるなんて」と、医者も驚いていたらしい。

私はもう言葉をほとんど失い、文字盤を指さすことでしか想いを伝えられなかった。
それでも恭介は根気よく、私の言葉を読み取ってくれた。

「おはよう」
「今日も来てくれて、ありがとう」
「……大好き」

文字盤に浮かぶ文字を追いながら、恭介は何度も頷き、泣き笑いを繰り返した。


ある時は、恭介が持ってきたアルバムを見ながら、二人で思い出を振り返った。

「見て、この奈子ちゃん、半目」

恭介がそう、一つの写真を指さして揶揄うように言う。

「やだ」
「すてて」

そんな写真、現像して残しておかないでよ。
抗議のつもりで指を動かせば、恭介は真顔で「ダメ」と言う。

「可愛いから絶対捨てない」

こうなったら、恭介が決して折れないことは知っている。
せめて恭介にも変顔ショットがないか探してみたけれど、どれも見事な顔面美でぐうの音も出なかった。

「もし、また一緒に出かけられるならどこがいい?」
「ウ、ミ」
「海か……行こう。絶対に」

そう約束のように、笑い合った。



彩音と千尋くんが訪ねてきたのは、そんなある日のことだった。

「奈子!」

真っ先に声をあげたのは彩音だった。
私の顔を見て、そしてすぐに恭介を見つけると、目を大きく見開いていた。
彼女の頬に涙が伝うのを、私は黙って見つめるしかなかった。

「……奈子のこと、思い出したんだって? 本当に……?」

頷く恭介に、彩音はぎゅっと拳を握った。

「遅いっつーの、馬鹿!」

その拳は、そのまま恭介の胸にぐいっと突き出される。
グーパンと言っても本気じゃない。
だけど、溜め込んでいた気持ちがにじんでいて、私も胸がきゅっとなる。

恭介は「うん、ごめん」と苦笑しながら受け止めていた。

その横で千尋くんが一歩、私に近づいてきた。
彼はいつも通り穏やかな表情で、けれどその目は優しさで満ちている。

「奈子、よかったね」

そう言って、私の頭にそっと手を置く。
その仕草は、安心させるように、包み込むように優しかった。
「ありがとう」
文字盤の上で、指を動かす。
千尋くんの指先の温かさが、心にまで沁みてくるようだった。

けれど。

「アンタが奈子ちゃんを支えてくれた一人だってことは聞いたけど……あんま触んないで」

不意に恭介の声が挟まった。
低く、でもはっきりと。私はギョッとして恭介を見上げた。

千尋が「はは」と困ったように笑う。
少し気まずさの流れた空気を、救い上げたのは彩音だった。

「そうそう、そうだったわ。立花って、こういうちょーう嫉妬深い、独占欲の塊だったって、今思い出した!」

彩音がわざと大げさに笑うと、場がふっと和んだ。
私は笑っていいのか迷いながらも、少し肩の力が抜けていくのを感じた。

こんなふうに、私の周りにいてくれる人たちがいる。
恭介が記憶を取り戻して、こうして隣にいる。
夢みたいで、でも確かに、いま私はこの温かさの中にいる。