君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

「なこ、ちゃん……奈子ちゃん……ぁ、ぁぁ……っ」

恭介が、泣き崩れるように私の名を呼んだ。
その声は、泣き叫ぶというよりも、喉の奥から絞り出される悲鳴のようだった。

根拠なんて、どこにもない。
でも確信できた。

―――恭介が、帰ってきたのだと。

「奈子ちゃん……ごめん、ごめん……っ」

彼はひどく取り乱していた。
私の身体を支えるその手は力強いのに、同時に酷く震えていた。
肩が上下し、呼吸が乱れ、胸の奥から漏れる息は過呼吸のように掠れている。

「どうして、ああ……奈子ちゃんが、どうしてこんな……」

赤く潤んだ瞳。
唇は真っ青で、血の気が引いていた。
まるで子どものように怯え、信じたくないと首を横に振り続ける。

目の前にいるのは紛れもなく、私が愛した人。
私を、心から愛してくれた人。

恭介は、忘れていた記憶を取り戻していた。
きっともう、一時的にじゃない。

こんなことが、本当にあるのかは分からない。
でも今、目の前で奇跡は起きた。
“片思い”は、終わったのだ。

「……恭介」

そっと名前を呼ぶ。

「奈子ちゃん……俺……俺は……っ!」

言葉にならない慟哭。
堰を切ったように涙をこぼし、両手で顔を覆い、嗚咽を止められない恭介。
こんなふうに取り乱す彼を見るのは、きっと初めてだ。

私は痩せ細った指を伸ばし、そっとその頬に触れた。
幾筋もの涙で濡れた頬は、想像よりも冷たかった。

「―――おかえり」

それだけを伝えて、私は上手く動かない頬をどうにか持ち上げて、笑った。



私はもう一度、鍵盤に右手を置いた。

「……ねえ恭介、歌って?」

恭介が、ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れたままの瞳が、私の動きを追う。

「久しぶりに、恭介の歌がききたいの。
……いつまでもしんみりしてたら、もったいないよ」

返事を待たず、私はぎこちなく伴奏を始める。
震える指、途切れがちな旋律。

「……そうだね……」

恭介は涙を拭おうともせず、眉を下げて笑った。
深く息を吸い込み―――声を放つ。

その声は、低く伸びて、震えていた。
涙が混じった不安定さ。けれど、それでも真っ直ぐで温かい。

私はやっぱり、恭介の歌が大好きだ。

「こんな……みっともない弾き方しかできないの」
鍵盤を叩く音は、ぎこちなく不揃い。昔の私なら絶対に許せないような演奏だった。

でも、恭介は泣きながら首を振った。

「奈子ちゃんのピアノは、いつだって世界一だよ」

その声に嗚咽が混ざり、鍵盤の上に涙がぽつぽつと落ちた。

右手の旋律に合わせて、恭介が歌う。
昔みたいに、二人で作り上げる音楽。

途切れがちで、不完全で。
けれど、こんなにも愛しい音。

いつまでも、いつまでも、この時間が続けばいい。

私は、心の底からそう願った。