君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

―――日々は容赦なく、私の体を削っていった。
動ける時間は短くなり、話せる声もか細くなっていく。

恭介は、持ちうる時間全てを使うかのように、そばにいてくれた。

「ほら、花」

私はもう、あやとりをすることができない。
そんな私の代わりに、恭介はよく技を見せてくれた。

自分のものではないような体では、笑うための筋肉を動かすことさえ億劫だ。
でも、恭介が私のために何かをしてくれるたびに、心は笑うことができた。

そんな日々の中で、恭介が私に尋ねた。

「……何か、したいことってないの」

その言葉を、ぼんやりとする頭の中で反芻する。

「……音楽室に、行きたい」

私たちの、始まりであり終わりの場所。
たくさんの思い出が溢れた、唯一。

―――もう一度あの場所で、あなたの歌がききたい。



やがて私は病院を出て、自宅療養に移ることになった。
その前に、短い時間だけ音楽室へ立ち寄る許可をもらった。

この頃にはもう、一人で歩くことはできなくなっていた。
私が乗る車椅子を、恭介が押す。
長い廊下を進む間、彼の手の温もりが背に伝わってくるような気がして、胸が熱くなった。

音楽室に着くと、懐かしいピアノがそこにあった。

恭介が私を抱え上げ、椅子に座らせてくれる。
そしてグラつきそうになる体を、背後から支えてくれた。

左半身がもう思うように動かない私は、右手だけで鍵盤に触れる。
おぼつかない音。途切れ途切れの旋律は、それでも。

中学二年生の春。恭介と音楽室ではじめて出会ったあの時に、弾いた曲だった。

鍵盤の響きに呼応するように、恭介の瞳が何かを思い出したように揺れた。
私を見つめるその目に、光が灯っていくかのように―――蘇る。

「…………なこ、ちゃん…………」

涙が滲んだ。
ああ、神様。どうして今になって。
でも、これでいい。これで、ようやく。

私は彼と、一番大切だった場所に戻って来られたのだから。