君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

「あんた誰?」

恭介の口から出たその言葉が、信じられなかった。

「な……何言ってるの?
冗談だよね……?」

嫌な音を立てた心臓が、早鐘を打ち始める。
何かの間違いであって欲しい。
その一心で尋ね返したけれど、恭介は怪訝そうに眉を寄せた。

「いや、本当に知らないんだけど」

まるで、本当に“赤の他人”を見るかのような目を私に向ける恭介。
―――どうして?
だって私は、恭介の“恋人”なはずでしょう?

そこで、再び病室のドアが開く。
入って来たのは陽子さんだ。

私の存在に気づいた陽子さんが、何かを言おうとする。
しかしそれより早く、恭介が口を開いた。

「あ、陽子さん。
なんか知らない人が勝手に入ってきたから、追い返してくれない?」

”知らない人“
本人の口から出た、その言葉が胸に突き刺さる。

「……恭介くん……」
陽子さんが何かを言いかけて、口を噤む。

それから、その場に立ち尽くす私に向かって言った。

「……ごめんなさいね。
ちょっと一緒に外に出ましょうか」

優しく体に手を添えてくれる陽子さんに導かれ、私は鉛のように重い足を動かす。
振り返り際に見た恭介は、酷く冷たい目を私に向けていた。


「立花さんは、解離性健忘愛症候群を発症しています」

陽子さんに連れられた先で、医者はそうはっきりと言った。

「……え?」

解離性健忘愛症候群。
聞き覚えのあるその病名。

“発症すれば、突如として愛している人に関する全ての記憶を失ってしまう”

ひゅっと喉が鳴って、身体中に冷や汗が滲む。

「立花さんの恋人である―――白石奈子さん。
あなたが“愛する人”……つまり今回の対象者となった訳です」

私にそう告げる医者も、隣にいる陽子さんも、皆どこか気まずげな顔をしていた。

「この病には対象者に関する全ての記憶を失う他、対象者への生理的嫌悪感や拒絶反応が出るとされています」

その言葉に、先ほど見た恭介の冷たい目を思い出す。

「……どうして……?
だって恭介、ついこの間までずっと普通で……おかしいところなんてなかったのに……」

私の名前を呼んで、私に向けて笑顔を見せて。
それが、当たり前だった。

「この病には特に前兆らしいものはありませんので……発症を止めることも難しいとされています」

静かな口調で答える医者。
私は身を乗り出して尋ねる。

「で、でも……治療とかしたら、治ることもありますよね……!?」

何だっていい。1%でもいいから、可能性に縋りたかった。

「……薬物治療と心理療法を組み合わせて、改善を図っていきます。
しかし、根本的な治療法は見つかっていないのが現状です」

“発症してしまえば、愛し合っていた相手と再び想いが通じ合うことはない”
対象者は”永遠の片思い状態“
知り得ていたはずの情報が、頭の中でぐるぐると回る。

「……それでも、何かの拍子に忘れてた記憶を取り戻すとか、そういうことだって……」

けれど医者は無慈悲に告げる。

「対象者との何かしらの接触が続いている場合……例えば対象者との特別な日や思い入れの強い日などに、稀ではありますが一時的に記憶が戻るという症例の報告があります」

「じゃあ……!」
しかし、と医者は続ける。

「その症状はあくまで一時的なものであり、完治に繋がるものではないというのが現在の見方です」

この病は、僅かな希望も持たせてはくれないらしい。